Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

19世紀管弦楽の芸術

2018-09-04 | マスメディア批評
週末のプロムス中継放送については何度か呟いているので充分だ。予想以上でも以下でもなかった。但しどこででもその生を体験した人にだけは録音や映像を観れば、密かな新たな呟きが生じるようなイヴェントだったと思う。もしそうならば大成功極まると思う。ロイヤルアルバートホールは、土曜日のフランツ・シュミットや日曜日のベートーヴェンのような緻密なアンサムブルを響かす会場ではないが、デュカやシュトラウスはよかったのではなかろうか、それでも一番の出来はプロコフィエフではなかったかと思う。

ルツェルンでの老舗ノイエズルヒャー紙の批評の概略を紹介しておく。我々がみな同じように感じていても中々文章化出来ないと思うことが書かれていて、流石に本格的なジャーナリストの技能は違うと感じさせた。以前の続きで、キリル・ペトレンコとヤニック・ネゼセガンの演奏会の比較として書かれているところもその目の付け方が狂っていないと気づかせたが、その成績表発表である。比較に関しては、どんなに立派に指揮してもそもそもロッテルダムとベルリンの管弦楽団では比較にならないことが触れられていて、ただのランク付けなどではない実質として敢えて書くのも悪くはないと思う。余分だが、同じことをもし市場価値の差として疑問を呈するならば、先ずその前提として例えば前任者ラトルが移籍したロンドン饗との比較にも触れなければまともなジャーナリズムではないことは明らかだ。市場の人気などに言及するのを良しとしているのは到底ジャーナリズムとは思えない。それは広告コピーライターではないか?

先ず新任として、垣根を取り去って全てを入れて来ているペトレンコに対し、楽団の方もまるでラトル時代の重圧から解放されるかのように全身を投げ打っているという相思相愛状態を見る。これは、ラトルの練習姿勢とそれが本番でも要求される息苦しさと淀みからの解放を指すのだろう。ラトル自身は、セル時代のクリーヴランドとその死後にユダヤ人髭まで伸ばし始めたコンサートマスターについて言及していて、反面教師としていることを告白しているが、この言及はその自意識があった裏返しとなる。

そうして生じたのがルツェルン第一日の七番の革命的な響きとして、「フィデリオ」までをそこに聞いている。これはこれで大変なことだ。またそれがオリジナル楽器の演奏実践の影響とも出来るとしている。
Beethoven: Symphony No. 7 / Petrenko · Berliner Philharmoniker


熱狂で音が大きくなり過ぎても当然ペトレンコが手綱を緩めることは無く、早めのテムポを保持しながらも、一流のソリストたちに自由に対応して、歴史的ドイツ配置である第一、チェロ、ヴィオラ、第二で以って本当に素晴らしいステレオ効果であると報告する。そして丁度その熱狂の渦の収まる淵のところで、コムパクトで固い音を出していて、観察するとしっかり指示を出して振るところとそうでないところがあるというのだ。つまり、19世紀の管弦楽を振ることで得られる響きの芸術、空間を広く、深い響きで、より自由なリズムを、柔らかい打ちで、あまり直截にならないように指揮するのが分るというのだ。そしてそれは、今日ヴィーナーフィルハーモニカーにしかない純芸術をベルリナーも再び獲得するに違いないと断定する。その例として「ドンファン」の最初のプロシア風から愛の情景への変化としているようだ。

これは私が強奏としたところから柔らかい響きでそして、記者はゲネラルパウゼにも触れる。そして「死と変容」でダイナミックスを下げたことでよかったとしていて、要するに「ドンファン」は喧し過ぎたという事だ。私の席でなくてもそうであったことを確認出来てよかった。そしてそのような繊細さは、「ラぺリ」と第四交響曲の後期ロマン派の音楽で明らかで、再び到底そこではロッテルダムが太刀打ちできるところではないとしている。そして、プロコフィエフではショー的効果が抑えられているところにネゼセガンとの世界の違いが横たわっているとしている。

この批評で私が最も価値があると思ったのは、ヴィーナーフィルハーモニカーと比較したように、その音響に注目したことで、これはある意味ラトル時代に磨きに磨いてツルツルになった楽団のあり方を考えるときの重要な明文化された記録となる。キリル・ペトレンコがこれを読んでも、楽団員が読んでもそこを聴かれて認識されたと知ることに価値があるのだ。批評とは誉めたり批判することだけではないというジャーナリズム的にとてもよい勉強材料である。



参照:
Lucerne Festival: Zwischen diesen Dirigenten liegen Welten, Christian Wildhagen, NZZ vom 2.9.2018
ずぶ濡れの野良犬の様 2018-09-03 | 音
芸術を感じる管弦楽の響き 2018-09-02 | 音

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