Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

普遍性に欠けるR・シュトラウス

2014-05-28 | 
ヴィーナーフィルハーモニカーを聞いた。メーター指揮のブルックナー交響曲第八番以来である。どうしても期間が開きがちになるのは指揮者の選択とそのプログラムである。本来ならば小澤指揮でバーデン・バーデンで華やかな演奏会が開かれる筈だったが、叶わなかった。

さて今回はリヒャルト・シュトラウス年に伴う夕べをクリストフ・エッシャンバッハ指揮で比較的安い価格で購入できたので出かけた。この指揮者を聞くのは初めてであるが、ピアニストとしては結構放送などで聞いている。評判は、昨年のザルツブルクでも散々であったが、何が悪いのかラディオ等ではもう一つ確認できなかったので、生で聞いてみたかったのである。結論からすれば、ピアニスト時代のモーツァルトのソナタなどの印象をその指揮に思い出した。

ソナタ形式を尊重しないようなその構成感が、その通り組曲やロンド形式などで長所として表れることで、その短所や音楽性を思い知ることになる。一般的にまとまりを感じにくい「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」は、そのはっちゃけ感やメルヘン性で見事であった。何がよいかといえば、やはり部分部分のテムポ感やそのブルレスク性で、嘗てのそのソナタにおける演奏を思い起こせた。その見事さは、プログラムの終わりを飾る「バラの騎士組曲」にもよく表れていた。なるほどカルロス・クライバーなどの崩壊の音楽にはならないが、オペラの情景を思い起こさせる以上に音楽的な出来を申し分なく示していて、この作曲家が書いた数少ない意味のある小節を再認識させるのだった。

それに比較すると、この座付き楽団のいつものスロースタートも影響があるのか、休憩前の「メタモルフォーゼン」などは、シェーンベルクの「浄夜」と比較するまでも無く、同じ作曲家の「紀元2600年」の曲と比べても何処まで真面目に書いたのか疑問に思わせる。同じように冒頭の「ドンファン」もソリストなどは上手に演奏していたが、いつもの按配のフィルハーモニカーであった。

興味深いのはこうした曲では大編成でも、第二ヴァイオリンが右側に並ぶことが多くなっていて、ここ何年ぐらいの回帰傾向なのかと改めて感じるのだった。

それにしてもバラの騎士のヴァルツァー演奏はやはりヴィーナーフィルハーモニカーの十八番であって、既に書いたようにラヴェルのボレロ並みの崩壊が無くとも可也独特の空気のある音楽となる。アンコールに応えてポルカを演奏していたが、こうした小曲のプログラムがこの指揮者にあっていると改めて感じるのだった。

幸か不幸かR・シュトラウスの記念年でその作曲が演奏されることが多い。そのオペラにおける意味ある小節が、どれほど他の曲で聞かれるかは分らないが、あの独特の飄々とした後年の人格と、その音楽が、オペラにおけるほど普遍的な価値をもって広く理解されることはないだろう - しかし続く世代のコルンゴールトなどの作曲家に比べるとポピュラー音楽への影響だけでなく、なんと言っても出来の良いオペラレパートリー群で圧倒している。

書き加えておかなければいけないのは、当日の会場に珍しくいつものロシア人や日本人らしきに加えて、七割に満たない集客の中で若い聴衆を見かけたことで、それも学生風よりも中年も少なくなく、比較的バランスが取れていた。やはり嬉しがりも含めて、有名管弦楽団となるといつもとは異なる聴衆層もあるようだ。その反面、立錐の余地の無いと言うことにはどのような管弦楽団でもならないのは致し方ないのだろう。



参照:
「大指揮者」の十八番演奏 2014-03-18 | 音
交響する満載の知的芸術性 2013-04-03 | 音
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