橋本屋吉次郎電子日誌

YAMAHA SR400・マツダ デミオ・ツーリング・城廻りについて・その他

福井城

2019-08-31 | お城巡り(続日本100名城)

北関東遠征の疲れもまだ癒えないのに、またあらたなる城めぐりツーリングに出掛けてきました。

あちこち猛暑日ですが、そんなものには負けません。

訪れたのは福井県庁です。

実は、ここに福井城があったのです。

福井城跡(福井県庁)
所在地: 福井県福井市大手3-3−17−1

続日本100名城スタンプはここで押すことができます。
玄関から入ると左右に受付がありました。
左の受付に近づくと、およそ仕事で訪れたとは思えない当方の格好を見て、受付嬢はさっと手を伸ばし、その先にスタンプが置かれていました。

駐輪場はご覧の通りぎっしりだったので、手前の駐車場にとめさせていただきました。

堀の外に二の丸、三の丸がありましたが、市街地化しています。

本丸跡には福井県庁と県警本部が建てられています。

御本城橋

瓦御門跡


パンフレットが用意されています。


結城秀康像
徳川家康の次男で、福井藩の藩祖
福井城は北を庄城跡に造りました。
以降、明治時代まで福井は越前松平家によって治められました。

2008(平成20)年に復元された御廊下橋と2018(平成30)年に復元された山里口御門

御廊下橋から見た天守台

山里口御門の瓦は石製です。
これは耐寒性に優れているためで、丸岡城天主と同じですね。



天守台

天守入口

かなり立派な天守があったようです。


小天守台の一部は1948(昭和23)年に起きた福井地震で一部が崩壊しています。




福の井
この井戸は結城秀康が福井城を築く以前からこの地にあったそうで、「福井」という地名の由来となったという説があります。
天守のそばにあります。

北不明御門跡

暑いので、30分ほどで見学を終えましたが、余裕のある方は北の庄城跡でもある柴田公園にも寄られるとよいと思います。

2010年に柴田神社に訪れた記事

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北関東遠征を終えて

2019-08-28 | お城巡り(続日本100名城)

2018年4月6日より始まった続日本100名城スタンプラリー


1年間の成果がこれです。
オレンジ色の部分が続日本100名城で訪れたところです。
尾張国の住民である橋吉ですから、東海地方と
昨年の夏遠征を行った南関東を治めることができました。

さらに3ヶ月経った、今年7月15日現在の所領です。

信州、琵琶湖周辺、紀伊半島まで侵攻することができました。
戦国時代ならば、次は満を持して京に侵攻するところですが、
来年の夏、オリンピックの影響を受けることを考えると今年のうちに関東を制覇するのが得策と考え、今回、北関東遠征に出掛けたわけです。

その結果、8月3日現在で、ここまで広げることができました。

山梨県あたりがぽつんと空いちゃいました。
これは武田信玄の詰めの城である要害山城です。
今回の遠征帰路に寄ろうとも考えましたが、猛暑のためあきらめました。
また秋ぐらいに再チャレンジしたいと考えます。
そもそも夏草が生い茂るよりは秋の方が山城は遺構がわかりやすいですし、なにより、ほうとうが美味しい。

また、北関東遠征と銘打った割には群馬県が未踏となっています。
彼の地は上杉、武田、北条の争いに真田が加わり、おもしろい構図になっており、日をあらためてじっくり訪れていきたいと考えています。

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忍城

2019-08-26 | お城巡り(続日本100名城)

北関東遠征も3日目・最終日

最後に向かうは、のぼうの城こと忍城(おしじょう)です。

忍城は、室町時代中期の文明年間に成田氏によって築城されたと伝えられています。
1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した攻城戦の際、豊臣方の水攻めに耐え抜いた逸話から浮き城または亀城と称されました。
江戸時代に入ると忍藩の藩庁あるいは徳川氏の譜代大名や親藩の居城となり、阿部氏の時代には御三階櫓が新たに建設されるなどの城郭改修や城下町の整備が行われました。明治維新後、
1871(明治4)年の廃藩置県と同時に廃城となり、1873(明治6)年に土塁の一部を残して取り壊されてしまいました。

東松山のビジネスホテルを遅めに出発し、石田堤史跡公園に向かいました。


石田堤史跡公園
所在地: 埼玉県鴻巣市袋地内


秀吉に忍城攻めを命ぜられた石田三成は、水攻めのために忍城の周囲を総延長28 kmの堤を造りました。
この一部が現在も残されています。

急ごしらえで作ったものではありますが、かなり立派な堤防です。


除草作業が行われていました。
維持管理お疲れ様です。

次いで、行田市郷土博物館へ移動しました。


駐車場入口
植木に隠れて内部の様子がわかりにくいですが、そのため速度を落とすことになります。
これは良いアイデアですね。

で、こんなすてきな表示を見落とさずに済みました。


駐輪場


行田市郷土博物館
所在地: 埼玉県行田市本丸17-23
休館日: 月曜日(祝日休日は開館),祝日の翌日(土日は開館),毎月第4金曜日,年末年始
開館時間: 9:00~16:30(入館は16:00まで)
入館料: 大人 200円,大学・高校生 100円,中学・小学生 50円

続日本100名城スタンプは、入り口右側で押すことができます。


御三階櫓
江戸時代には御三階櫓が造られましたが、復興されたものとは大きさも位置も異なっているということです。



行田市郷土博物館から廊下を通って、御三階櫓に入ることができます。

最上階からの眺め
北側

東側

南側

西側

あずま橋


その奥にあるのが東門




土塀


鐘楼
1823(文政6)年、松平忠雅が桑名から忍へ移封されるのにともなって、鐘も移されました。
なお、鐘楼にあるのはレプリカで、本物の鐘は行田市郷土博物館に展示されております。


藩校進修館の門が移築、現存されています。


駐車場脇に、移築、現存されている高麗門。
どこにあったかは、わかってないようです。。

見学時間は、石田堤、郷土博物館含めて約1時間でした。

 

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菅谷館

2019-08-24 | お城巡り(続日本100名城)

菅谷館(菅谷城)は、もともとは鎌倉幕府の有力御家人として知られる畠山重忠の館跡でした。
1488(長享2)年、山内上杉家と扇谷上杉家が激戦(須賀谷原合戦)が始まると山内上杉顕定の命を受けた太田資康が扇谷上杉方の拠点である河越城に対するおさえとして、菅谷の旧城を再興しました。
以後、16世紀前半まで山内上杉家の拠点として使われました。

杉山城から4km、バイクで10分程度で到着しました。


埼玉県立嵐山史跡の博物館
所在地: 埼玉県比企郡嵐山町菅谷757
入館時間: 9:00~16:30(入館は16:00まで)
休館日: 月曜日,12/29~1/3.企画展の会期前後
入館料: 大人 100円,高校生 50円,中学生以下・障害者 無料

続日本100名城スタンプは展示室受付で押すことができます。


現地案内板
博物館やその駐車場は三ノ郭の跡に立てられており、




博物館のすぐ裏からは建物跡も見つかっています。


二ノ郭



畠山重忠像
1929(昭和4)年に造られた竹筋コンクリート製


堀切


二ノ郭から本郭へ

本郭




本郭と南郭の間の堀切


南郭
本郭より少し低くなっています。

二ノ郭に戻ってきました。

本丸を囲んでいる土塁


木橋


西ノ郭


蔀(しとみ)土塁

郭の中が見えないように造られた小さな土塁です。

見学時間およそ40分でした。


この日は猛暑日でしたが、午後4時ぐらいから黒い雲が増え始め、涼しい風が吹き始めました。
ゲリラ豪雨が来る前に急いで、東松山のビジネスホテルに駆け込み、ひと風呂浴びてから、焼き鳥屋へ向かいました。

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杉山城

2019-08-22 | お城巡り(続日本100名城)

戦国時代の初め頃、関東では鉢形城を拠点とする関東管領山内上杉氏と河越城を拠点とするの扇谷上杉氏による抗争がありました。
杉山城は、両者の中間点にあたるこの地に山内上杉氏によって築かれました。

唐沢山城からバイクで移動すること約2時間、嵐山町役場にやってきました。

こちらの1階ホールで、続日本100名城を押し、パッンフレットを入手しました。

役場に置かれた杉山城の模型。

杉山城跡は、玉ノ岡中学校の東にあります。
中学校の裏門(北側)近くに見学者用駐車場が用意されています。

ここから中学校脇を通って城跡に向かいます。

体育館の右側を抜けてしばらくすると


出郭にたどり着きます。

現地案内板


大手口

堀切


馬出郭


反対側から見てみると馬出が左右に張り出ているのがよくわかります。
有事の際は、横に兵を並べたわけです。


馬出郭と南三の郭の間の堀切


南三の郭


南三の郭に見られる食い違い虎口


南二の郭


南二の郭の東虎口


南二の丸西側空堀
右が本郭、左が井戸郭


井戸郭
城内唯一の井戸で、現在でも年間を通じて水の渇れることがないそうです。


外郭


本郭虎口

本郭


手前が東二の郭、奥が東三の郭

約40分の散策時間でした。

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唐沢山城

2019-08-20 | お城巡り(続日本100名城)

笠間城からバイクで2時間、唐沢山城へやってきました。
現在は、唐沢山神社となっています。

唐沢山神社
所在地: 栃木県佐野市富士町1409


虎口すぐ手前に、広い駐車場とレストハウスがあります。

虎口

沿革(現地案内板)


天狗岩
この山には巨石があちこちに見られます。
唐沢山城の石垣もこの山で算出したものが使われたのでしょう。


縄張り図(現地案内板)
尾根沿いに造られた典型的な山城です。


パンフレットも無料で配布されています。


大炊の井
山城なのにこんな立派な井戸がいまだに残っているとは驚きです。


大手道が今は参道となっています。

四つ目堀



神橋
かつては敵の侵入時に引き払うことのできる曳橋でした。

体温並みの暑さの日でしたが、風鈴の音が少しだけ気持ちを和ませてくれました。


桜の馬場跡


石段を上がると


南城跡
かつて、このあたりには蔵屋敷や武者詰があったそうです。


唐沢山神社社務所
続日本100名城のスタンプはここで押すことができます。


南城からの眺め
現在、城跡の南には北関東自動車道,東北自動車道,JR両毛線,東武佐野線・日光線などが通っており、昔から交通の要所であったことは容易に想像できます。


本丸には社殿が置かれており、さらに石段を登ります。


本丸跡

西側の一段低いところに二の丸がありました。

二の丸から本丸を見てみると


どう見ても城跡ですね。
不思議なことに南の参道を登っていると城跡のイメージはあまり感じられませんでした。


別角度から見た本丸の石垣
関東でこれだけの高石垣は珍しいです。


二の丸と三の丸の間の門跡


三の丸


なぜか、ここは猫が多い。
人なつっこいのはけっこうですが、通路であろうと平気で寝ています。
気をつけないと踏んじゃいそうです。

見学時間は30分でした。


おまけ
唐沢山に向かう前、佐野市内で昼食をとりました。
青竹踏みで有名な佐野ラーメンですが、下調べなしで通りがかった店に入りました。
これが、正解!
おいしかった・・・ですが、写真に撮るのを忘れちゃいました。


森田屋 東店
所在地: 栃木県佐野市高萩町744-9
営業時間: 平日11:00~15:00 18:00~25:00,土日祝11:00~23:00
定休日: 木曜日

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笠間城

2019-08-18 | お城巡り(続日本100名城)

北関東遠征2日目
土浦のビジネスホテルで朝食をとり、朝7時半出発。

40分ほどで笠間に着きました。


長耀山真浄寺
所在地: 笠間市笠間323-2

こちらのお寺の七面堂
実は、笠間城の八幡台櫓が移築されたものです。


次に15分ほど離れた城跡へ移動です。

本来、この先の千人溜に駐車できるのですが、倒木のため車両通行止めになっていました。


しょうがないので少し麓に戻って駐車。

少し歩くと堀切を発見

千人溜(的場丸)に到着

大手門跡


一部石垣が残っています。

ここからしばらく山登りです。
現在は使われていない車道があり、比較的緩やかなのでこれに沿って登りました。



本丸に到着



本丸南端は少し高くなっていて、

ここに、真成寺に移された八幡台櫓がありました。


天主郭に向かいます。

倒木が道をふさいでますが、くぐり抜けます。


関東の城では珍しく石垣に囲まれています。


このあたりは「司馬遼太郎と城を歩く」のオープニング映像で使われています。


東日本大震災で崩れたままになっています。


天主の跡には佐志能神社が置かれています。
この拝殿には天主の木材が流用されているそうです。

笠間城は笠間氏の居城でしたが、1590(天正18)年の豊臣秀吉による小田原征伐の際に笠間綱家が北条氏についたため、滅亡させられてしまいました。
その後、いったんは宇都宮氏が支配しましたが、のちに蒲生郷成が入城し、この郷成の手により近代城郭に改修されました。
蒲生氏以降も松平、小笠原、永井、浅野、井上、本庄などの諸氏が入れ替わり城主をつとめ、1747(延享4)年から廃藩までは、牧野氏代々の居城となりました。

山城歩きは1時間くらい



かさま歴史交流館井筒屋
所在地: 茨城県笠間市笠間987
開館時間: 9:00~22:00
休館日: 月曜日(祝日の場合はその翌日)

続日本100名城スタンプはここの1階で押すことができます。

全行程1時間40分ほどでした。

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土浦城

2019-08-16 | お城巡り(続日本100名城)

本佐倉城からバイクで1時間半、土浦城へやってきました。
予定では牛久大仏に寄ってからと考えていましたが、時間の遅れと猛暑による疲れから、今回は高速から姿を拝むだけに変更しちゃいました。


駐車場は土浦市立博物館の第二駐車場を利用しました。


よく見たら博物館玄関前に自転車・バイク置き場が用意されていました。

ただ、入口の標識がコレではわかりにくいです。


土浦市立博物館
所在地: 茨城県土浦市中央一丁目15-18
開館時間: 9:00~16:30
休館日: 月曜日
入館料(東櫓との共通): 一般 105円,小中高校生 50円


博物館内に展示されていた復元模型
本丸と二の丸南側が亀城公園となっています。

なお、博物館駐車場は無料ですが、博物館見学後に駐車券をもらう必要があります。

土浦城の歴史は古く、平安時代に平将門が砦を築いたという伝説もあります。
戦国時代は小田氏配下の菅谷氏の居城でしたが、1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原征伐の際に、佐竹氏や徳川家康の軍勢に攻められ、菅谷氏は主君小田氏とともに滅亡してしまいました。
徳川家康の関東移封後は、土浦を次男の結城秀康に与え、秀康が北ノ庄に移ると、藤井松平家の松平信一が入りました。
信一とその子の信吉が、現在の城のおよその形を作ったと考えられています。
その後、西尾氏、朽木氏、土屋氏と城主が入れ替わりましたが、1687(貞享4)年に土屋政直が入封して以降は土屋氏が11代、約200年間世襲して明治維新を迎えました。


本丸へ


西櫓が見えます。



立派な鯉がうじゃうじゃと・・・

西櫓
土浦城の本丸には東西に櫓がありました。
西櫓は昭和まで残っていましたが、1949(昭和24)年、キティ台風の被害を受け)、復元するという条件つきで解体されました。
そして1992(平成4)年に保管されていた部材を用いて復元されました。


本丸




東櫓
1998(平成10)年に復元されました。
入口の受付横に続日本100名城のスタンプが置かれていますが、12:15~13:00はまで昼休みで閉鎖されますのでご注意下さい。




東櫓からの眺め
木々の陰になり、眺めはあまりよくありません。




霞門(裏門)
1684(貞享元)年に造営。
土浦城の裏側(搦手)にあたる事から裏門、又は霞橋と隣接している事から霞門とよばれています


霞橋


旧前川口門
もともと、二の丸入口には二之門がありました。
前川口門は、本丸東方の多計郭と町屋との間に建てられたもので、明治以降に土浦戸長役場門、等覚寺山門として使われていたものを、1981(昭和56)年に現在地に移されました。

二の丸と外丸の間には土塁で仕切られています。

二の丸跡


本丸の表門にあたる櫓門
霞門(裏門)とともに現存建築物です。


二の丸のシイの木
樹齢500年といいますから、戦国時代から土浦城の歴史を見てきているのですね。

散策時間約30分


この日の城めぐりはコレで終了、土浦市内のビジネスホテルに泊まりました。

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本佐倉城

2019-08-14 | お城巡り(続日本100名城)

大多喜城から昼食を含めて50分
本佐倉城(もとさくらじょう)へやってきました。

本佐倉城は下総守護千葉氏が文明年間(1469~1486)に築城し、天正十八年(1590)に豊臣秀吉に滅ぼされるまでの居城でした。
江戸時代には佐倉藩の藩庁が置かれましたが、1615(元和元)年、佐倉城へ移転、廃城となりました。


酒々井中央公民館で続日本100名城のスタンプを押すことができます。


現地案内板
東山馬場跡に駐車場があります。

駐車場から見上げる城山



千葉氏の家紋は月と星を図案化した「月星紋」

Ⅳ郭

倉跡

奥ノ山

奥ノ山と城山の間の堀切

このようなたいへんわかりやすい案内板が設置されています。

城山へ向かいます。

城山虎口跡

城山門跡

主殿跡

主殿跡から東を眺めてみました。

足元に目をやると東山馬場跡駐車場

35℃を超える猛暑日だったので、見学者は他にいません。

東山

東山から北を眺めてみました。
京成本線が見えます。

見学時間は45分ほどでした。

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大喜多城

2019-08-12 | お城巡り(続日本100名城)

夏休みを取ることができたので、続日本100名城スタンプラリー関東遠征ツーリングに出掛けてきました。

昨年、神奈川・東京都と南関東を回ってきたので、
今回は、千葉・茨城・栃木・埼玉と北関東中心に巡ってきました。
(オリンピック前に関東を片付けておきかたかったのです。)

まずは、新東名,アクアラインと乗り継いで千葉県へやってきました。
ただ、神奈川県内の渋滞が酷く、予定よりも1時間も遅れてしまいました。


いすみ鉄道大多喜駅近くにある大手門
1982(昭和57)に建設された観光用の門ですが、気持ちは高揚します。

大多喜城は、1521(大永元)年に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされます。
天文期(1532~1555)には、安房の里見氏の重臣であった正木氏が入り、以後4代にわたり、上総正木宗家の居城として発展しました。
1590(天正18)年に北条氏が豊臣秀吉に攻め落とされると、徳川家康は江戸城に入り、小田喜城を家臣の本多忠勝に与えて安房の里見氏の勢力をおさえようとしました。
以降、本多氏3代のあと、阿部・青山・稲垣氏へと引継がれ、1703(元禄16)年、松平(大河内)正久が城主になりました。
松平氏は9代続き廃藩置県を迎えます。
現在は、千葉県立中央博物館大多喜城分館が置かれています。

以前訪れたときは博物館脇までバイクで登れましたが・・・


そのかわり、麓にりっぱな有料駐車場ができていました。
有料といっても普通車が入庫から24時間200円と格安です。

さらに、こんなすてきな案内が・・・


駐車場そばにあった大喜多水道の跡
全長5.8kmのうち4kmはトンネルだそうです。
良くもまぁ機械のない時代に作ったものです。

博物館の手前にあった公園。


「大喜多城二之丸公園」とありますが、本来の二の丸は博物館西の千葉県立大多喜高等学校が建っているところのはず?


千葉県立中央博物館大多喜城分館に到着


研修館


1975(昭和50)年に再建された天守
天保13年模写の三層天守絵図などを元にしていますが、資料不足のため江戸時代の一般的な天守を参考として、推定復元を行っています。

千葉県立中央博物館大多喜城分館
所在地: 千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481
開館時間: 9:00~16:30
休館日: 月曜日(月曜日が休日の場合は翌日),年末年始
入館料は次のとおり

時間が無かったので、二の丸まで足を運ぶのはやめ、天守展望台から見るだけにします。二の丸御殿薬医門が高校校内にあるにもかかわらず残されています。

大井戸も残っていますが、木が邪魔でよくわかりませんでした。


見学時間は約40分でした。

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