橋本屋吉次郎電子日誌

YAMAHA SR400・マツダ デミオ・ツーリング・城廻りについて・その他

ヤマハ ドラッグスター400 クラッシック

2018-05-31 | バイク

我が家のバイクが一台増えました。

ヤマハ ドラッグスター400 クラッシックです。

ロー&ロングの迫力あるボディのドラッグスターですが、クラッシックはタイヤを小径化しデー付フェンダーに変わり、さらに重厚なデザインとなっています。

ハンドル幅も通常のドラッグスターに比べ広くなっています。

初期型のずいぶん古い年式ですが、走行距離はさほどでもなく、エンジンはすこぶる調子よいです。


メッキ部分はピカピカで、どのアングルでも、カメラをもったおじさんが写り込んでしまっています。
Vツインエンジンも迫力がありSRと同じ排気量とは思えません。

実はこの車体、オールペンされているそうで、もとの色が何色かわかりません。


さすがに隅々まで見ると錆が出ている部分があります。
なお、ドラッグスターはシャフトドライブです。


まっすぐ伸びた二本出しマフラーは純正ですが、カッコイイです。

クラシックではサドルシートとなっています。


サイドバッグが付いていました。
安物ですが、ずいぶん便利です。


ヘルメットホルダーが本来あるはずのリアフェンダーからエンジン前方のフレームに移動してあります。
おそらく、サイドバッグをを取り付けたためでしょうが、SRも移動しようかな。

前に足を投げ出す、典型的なアメリカンポジションです。


マイナーチェンジで二代目からは、ステップがフットボードに変わりました。
機能的にはどちらでもよいのですが、デザイン的にはフットボードの方が統一感があってよいですね。

もちろん、このバイク私のものではありません。
大学生の息子の初バイクでした。

コメント (2)
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亀山城(三河国)

2018-05-28 | お城巡り(その他)

古宮城から、国道301号線を南へ800m移動し、亀山城へ向かいました。
上野国から三河国作手地方に移住した奥平貞俊は、1424(応永31)年に亀山城を築き本拠地としました。
元亀年間(1570年~1573年)には、貞能の子貞昌(信昌)が甲斐国の武田氏に従属したため、武田氏の三河侵攻の拠点となりますが、1573(天正元)年には徳川氏へ転属します。
関ヶ原の戦いの後、1602(慶長7)年には信昌の四男松平忠明が城主となり作手地方支配の拠点となりましたが、1610(慶長15)年に伊勢国の亀山城へ移封されると、城は廃城となりました。


国道301号線沿いにある道の駅「つくで手作り村」
国道301号は山間部を通る快走路で、信号も交通量も少なくツーリングやドライブには最適です。

このため、バイクもご覧の通りごった返していました。

四輪にいたっては、第一駐車場がいっぱいとなり、奥にある第二駐車場まで使っていました。

「古城まつり」なるのぼりが立っていました。

第二駐車場脇に亀山城址入口があります。


現地案内板より
小さな丘の上に、土塁に囲まれた本丸と二の丸があり、そのまわりを小さな曲輪が取り囲んでいる単純な縄張りです。

ささゆりを守るために、


電子柵が張られています。


いざ、登城


空堀


西曲輪

腰曲輪


腰曲輪には所々穴が掘られています。
武具を隠しておいたのでしょうか。


本丸の東側木戸口跡

本丸

現地案内板




本丸は四方を土塁で囲まれています。


西側木戸口跡


二の丸

二の丸南の空堀

南曲輪

道の駅に隣接していることもあり、見学者がたくさんいました。
高低差はさほどなく、よく整備されていることもありピクニック気分で訪れることもできます。

道の駅に戻って、昼食をいただきました。
山菜そばを注文したところ、黒い麺の田舎そばでした。

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BAND-AIDキズパワーパッド

2018-05-21 | 健康

3月中旬頃だったと思います。
書類をシュレッダーにかけていたところ、指を切ってしまいました。

右手薬指の背側、第一関節の部分でした。
紙で手を切ることはよくありますが、今回はシュレッダー相手でしたから、瞬時に止めることもできず、けっこう深く切ってしまったようでした。
その割には、大して出血することもなく、痛みも数日で消え、これで治まったように思えました。

それからしばらくたち、怪我したことも忘れかけた頃のことです。
右手薬指第一関節あたりが、水虫のようにぼろぼろと皮がめくれてきました。
かゆみも痛みもなく最初は理由がわからなかったのですが、シュレッダーで切ったことをようやく思い出しました。

しばらく、様子を見ていましたが、この部分は何かと物や水に触れます。
それで、治るどころか、どんどん症状は悪くなり、とうとう傷口が開いてしまいました。

「外科」で縫ってもらうしかないのでしょうか。
思うに、かさぶたや再生してかさかさになった皮膚片が傷口をはりつき、ふさぐどころか広げていくようでした。
要は傷口が乾燥するのがよくないようでした。

そこで、脳裏に浮かんだのがBAND-AIDキズパワーパッドでした。
傷口を乾燥させず、あえて湿潤な状態を保つことで回復を早める効果があると聞いたことがあります。


とりあえず、スギ薬局で購入しました。

初めて使用したのですが、使い方は救急絆創膏同様傷口に巻きます。
ただ、巻く前後に手で1分ほど包み、体温近くに暖めることで皮膚となじませる必要があります。
そのかいもあって、使用してあいだも違和感はなく見た目も目立ちません。

2日ほどつけたままにしておきました。
交換する際に傷口の様子を見ると、順調に治っているようでした。

さらに、2日ほど後の2回目の交換の際、なんと間違えて人差し指に巻いてしまいました。間違えるくらいならば、もう大丈夫だろうということで、3回交換して使用をやめました。2ヶ月間治らなかった傷が、1週間ほどで完治しました。

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古宮城

2018-05-12 | お城巡り(続日本100名城)

愛知県は尾張国と三河国からなりますが、この2つの国は文化的にも言語的にもつながりは薄いような気がします。
現在にでも、尾張国はむしろ美濃国とのつながりが深く、三河国は遠江国や南信濃と親密であるように感じます。
よって、織田信長が岐阜に向けて侵攻したのも、徳川家康が遠州・駿府に向かったのも至極当然のことのように私は思うのです。

となれば、南信州を治めていた武田信玄が三河に攻め入ることは必定であり、事実たびたびその機をうかがっていました。

1571(元亀2)年、信玄が馬場信房も命じ三河進出の拠点とするために古宮城をつくらせたと伝えられています。

まずは、予習をすることにします。


新城市作手歴史民俗資料館
開館時間: 10:00~15:00
休館日: 火曜日(休祝日の場合は次の平日休館,12/29~1/3
入館料: 無料
なお、作手は「つくで」と読みます。

受付で続日本100名城スタンプを押すことができます。


古宮城の模型


縄張り図

古宮城は遺構がしっかり残っており、武田の城を調べる上で貴重な城跡だそうです。
中央に深い堀があり、東西に大きな2つの曲輪かあります。
さらにそれぞれの曲輪の中央が土塁によって仕切られ、2つに分けられているのが独特です。

この資料館では、現地の地図や解説された印刷物ももらえます。
現地には案内板がほとんどないので、これらを持参して見学するとよいかと思います。


資料館から500m程南へ行くと古宮城址があります。

南側は村社 白鳥神社が置かれています。


神社の東に車5台ほど置ける場所があります。


鳥居の向かいにも5台ぐらい駐車できるスペースがあります。

現地案内板


しかし、案内板はこれぐらいなので、歴史資料館でもらったプリントを頼りに見て回りました。

村社脇の階段をつかって、裏山に入ります。

「大ひのき」の表示がありました。

 

古宮城はおもに主郭と二ノ曲輪の2つの曲輪からなります。(現地案内板には東城と西城と表記してありました。)

まず、主郭から、


虎口

虎口脇の巨木が「大ひのき」のようです。


どちらの曲輪も、中央が土塁によって仕切られている独特の形状をもっています。

主郭東部

主郭搦手土塁

主郭西部

主郭西部南端にある櫓台

櫓台にたつと神社の屋根が足元に見えます。


大堀切


主郭と二ノ曲輪の間に大きな堀切がつくられています。
すみません写真の構図が悪いし、ピンぼけでよくわかりませんね。

大堀切にかかる土橋

二ノ曲輪も土塁によって2つに仕切られていました。

二ノ曲輪の西側部分

北側斜面には多重の横堀が設けられています。


一方東側は平坦な広場になっており、ここに兵を集結させていたのではないかと予想されます。

起伏はさほどなく、規模も小さいため、見学時間は歴史民俗資料館を含めて、1時間ほどでした。

このあと、800m程南にある亀山城へ向かいました。

コメント (4)
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