橋本屋吉次郎電子日誌

YAMAHA SR400・マツダ デミオ・ツーリング・城廻りについて・その他

玄蕃尾城

2020-06-27 | お城巡り(続日本100名城)
県道140号線、柳ヶ瀬トンネル福井県側出口を出てすぐ(福井県側停止線よりも手前です)左折すると玄蕃尾城へ向かう林道があります。


林道を2km程進むと、突き当たりになり、ここに7台ほど駐車できるスペースがあります。


入山者は氏名と人数をノートに記入することになっています。
また、ここにも続日本100名城スタンプが置かれていました。


いざ、出陣


谷筋に沿って、どんどん登ります。


この案内板を左「玄蕃尾城跡 0.5km」へ


もうしばらく、登りが続きます。



尾根に出ました。
ここからしばらく尾根沿いに進みます。


現地案内板が見えてきました。


玄蕃尾城の起源は諸説ありますが、賤ヶ岳の合戦の際には、柴田勝家の本陣が置かれました。


南虎口(大手口)


南の虎口郭


東虎口
南虎口は防御用であったのに対し、東虎口は攻撃用だったようで、


周囲は土塁で囲まれていました。


虎口郭


虎口郭から見た馬出


主郭


櫓台


主郭の周りの土塁


張り出し郭
その名の通り主郭より張り出していて、見晴台が置かれていたようです。


主郭北にある馬出郭


虎口


各郭へは土橋によって接続されています。


北にある虎口郭


周囲は二重の土塁と空堀に囲まれています。


北虎口(搦手口)


腰郭
一段低いところにあります。
主郭や虎口郭と接続されており、連絡用に使われていたのではないでしょうか。
また、ここに敵をおびき出せば高い位置から集中的に攻撃を加えることができます。







おそらく戦国後期に改修されたのでしょう、実に巧妙な縄張りです。
また、土の城でありながら、よくぞここまできれいな形を残してくれました。
なかなか見応えのある山城です。




所要時間 約1時間

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柳ヶ瀬トンネル

2020-06-25 | お城巡り(続日本100名城)
コロナ禍も一段落し、県またぎの旅行が可能となりました。
この報を受けてまず出掛けたのが、福井県の玄蕃尾城です。

昨年末に向かったものの峠で通行止めにあい引き返すハメになりました。
しかしながら、実は道を間違えていたことがわかりましたが、再度アタックしようにもあまりの寒さにその気さえ消え、撤退したのでした。

春になったら、再チャレンジしようと、三月になるのを待っていたのですが、
折からの新型コロナウイルス騒ぎ・・・
ようやく、リベンジの日になったわけです。

梅雨でありながら、この日はからりと晴れ、バイクに乗っても快適に走ることができました。
ただ一点、小虫がヘルメットのシールドにたくさんぶつかってきたことを除けば・・・

滋賀県の木之本から、国道365号線を北上しました。
程なく問題の地点にやってきました。


正しくはここで敦賀方面に右折しなければいけなかったのですが、昨年末は直進してしまったのです。

左折するとすぐトンネルが見えてきました。


このトンネル、柳ヶ瀬トンネルといって1883(明治16)年に北陸本線用に貫通、1964(昭和39)年からは道路用に転用されているものです。
ネットでは「古くて、暗くて、狭く怖い」と書かれていました。
たしかに、単線鉄道に作られたトンネルですから幅はありませんが、入口に信号機が設置してあり、一方通行になっているので、すれ違いを心配する必要はありません。
ちなみに、この信号、「赤」が6分30秒という日本一長い信号だとか。

さて、信号が青になったので、トンネル内に進みました。
明るくはありませんが、オレンジ色の明かりがぽつぽつと並んでいます。

しばらくすると、だんだん暗くなり、真っ暗になってしまいました。
トンネル進入前からハイビームにしてありますし、ヘルメットのシールドも曇るのを恐れてあげていましたが、何も見えません。
むちゃくちゃ怖いです。
SRのライトはハロゲンでマルチリフレクターではなくレンズカットによって配光している古いタイプであり、決して明るくはありません。
が、いままで暗くて困ったこともありませんでした。
しかし、このときはブラックホールに光が吸い込まれていくように、何の役にも立ってないような感じがしました。
私にとって、アンラッキーだったのは、このとき先頭を走っていたことです。
でなければ、前の車のテールライトを追っていけばよかったのですが・・・

闇に目が慣れてくるにつれ、壁面の貧弱な明かりが見えてきました。
でも、出口は見えません。
このトンネルは、1352 mあり、できた当時は日本一だったのです。

途中から下りになっているようでしたが、スピードを上げないようにかつ下げないように、速度も姿勢も一定に保ちながらじっと我慢して走行しました。

やがて、出口の明かりが見えたときは、ほっとしました。


このトンネルの福井県側出口を出ると玄蕃尾城はすぐです。

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iPad mini4 にキーボード  その2

2020-06-13 | 携帯・スマホ・タブレット
iPad mini4用カバーとして選んだのが、
KVAGO iPad mini 5 ケース キーボード 2019モデル


外見は何の変哲もないポリウレタンレザー製のカバーですが、


Bluetoothキーボードを内蔵しています。


ケースは、iPadのスタンドとしても使え、


これにキーボードを置くと、ノートパソコンのような見た目になります。
なお、キーボードとケースはマグネットでくっつき合うのでガタガタすることはありません。


使ってみた感想ですが、カバーはまあまあといったところでしょうか、
特によいところもありませんが、悪いところもないといった感じです。

Bluetoothキーボードはというと・・・・
使っていません!
取り外したまま放置されています。

もともと、iPadで長い文章を打つことはなかったのです。
文を打つときや仕事はデスクトップパソコンで、お遊びはiPadと自分の中で使い分けているようです。

もうひとつは、OSの問題です。
iPad OSは、画面を指で操作することを前提でつくられています。
よって、キーボードで打っていても、たびたび画面に手が伸びて触れて操作してしまいます。
一方、surface goのOSは、Windows10であり、こちらも画面のタッチにも対応するようになりましたが、もともとキーボードとマウスで操作する前提でつくられています。
ですから、画面に触れることなく、ひたすらキーボードのみで操作できます。

タブレット端末が進化するにつれて、「ノートパソコンの代わりになるか」とよく論議されています。
surface goに関してはイエスです。
これをメインマシンにしてもよいかと思います。
しかし、iPadに関しては?です。
これは、マシンパワーの問題ではなくOSの違いです。
もっとも、iPadのOSは少し前までiPhoneと同じものでしたが、最近独立したばかりです。
今後、独自の進化を遂げれば数年後には、状況は変わるかもしれません。

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iPad mini4 にキーボード   その1

2020-06-11 | 携帯・スマホ・タブレット
iPad mini4を購入して3年経ちました。
昨年3月には、新型が発表されましたが、どうしてどうしてこの旧型でもいまだに十分満足して使っております。


ただ、iPadとほぼ同時に購入したカバーは、2年くらい使ったところで、傷んでしまいました。
ビニル製なので、折り目の部分が割れてきてしまったのです。

そこで、新しいカバーに変えることにしました。
大手量販店の売り場で悩んでいると、店員が来て相談に乗ってくれました。
そして勧められたのが、なんと最安値の商品でした。

残念ながら、写真をなくしてしまいましたが、この商品はなかなか良かったです。
素材はシリコンゴムのような質感があり、安っぽさは感じません。(高級感もありませんが・・・)
なにより、触った感じが気持ちよい。
幼児の肌のようにすべすべしていました。
すっかり気に入っていたのですが、やっぱり安ものですねぇ。
1年ほどでちょうつがい部分が割れて(プラスチック製)しまいました。

新たなカバーは、ネットで探すことにしました。
iPad mini4は、現行モデルのiPad mini5と共通のカバーが使えるようなので、対応商品は潤沢にあります。

その中で気になったのが、bluetoothキーボードが付属したタイプです。
近年、iPadにキーボードやペンシルを付け、ノートパソコンのように使用する人が増えています。
私のiPad mini4はアップルペンシルには対応していませんが、キーボードには対応しています。

また、以前のこのブログで紹介したように、職場でSurface Goが支給され、使っています。
Surface Goは、キーボードをつけてノートパソコンのようにも、モニター画面だけ取り外してタブレットのようにも使えますが、100%キーボードをつけて使っています。
キーボードが軽量であるので一緒に持ち出しても苦にならず、タブレットを持ち歩いて、ノートパソコンを使う感覚で、たいへん気に入っています。

ですから、iPad もキーボードがあると格段に使いやすくなるかな?なんておもって、キーボードが付属しているタイプを選びました。


レビューは次回の記事で

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末森城

2020-06-07 | お城巡り(その他)
古渡城から、バイクで約15分、末森城へやってきました。

1548(天文17)年に織田信秀が築城し、古渡城から移りました。
実弟織田信光が守る守山城と合わせて三河国松平氏や駿河国今川氏などの侵攻に備えた東方防御線を構成するためのものであるようです。
城主に織田勘十郎信勝(通称信行、織田信長の実弟)をあて、信秀は1551(天文20)年にこの末森城で死去したといわれています。

なお、織田信勝は1556(弘治2)年、信長に叛旗を翻すが、稲生の戦いで敗れていったんは和睦します。
1557(翌弘治3)年、再び謀反を企てたのを柴田勝家が信長に内報し、信勝は清須城で謀殺されてしまいます。
「麒麟が来る」でもそうでしたが、ドラマでは2回目の謀反(の企て)だけしか紹介してないものが多いような気がします。
それによって、信長の冷淡なイメージがつくられているように思います。
1回目の謀反の際、母親や弟の家臣の懇願によって、一度は許しているのです。

信勝没後、末森城は放置され、いつしか廃城になりました。

末森城は、東山丘陵地の末端に位置する標高43mの丘に、東西約200m、南北約160mの規模で築城された平山城です。


現在も主要通りである末盛通沿いにあり、都市公園にする計画もあるようです。


城山八幡宮
所在地: 名古屋市千種区城山町2丁目88番地

「こんもりとした丘の上に城跡があり、現在は神社となっている」よくあるシチュエーションですが、ここは地方の集落ではなく大都市の一等地なのです。


一の鳥居脇にある説明板


石段を上がると、空堀跡があります。


橋を渡って堀を越えると二の鳥居、さらに石段を登ると三の鳥居です。


三鳥居脇には土塁があります。
丘の上の土塁ですから展望を楽しむためのベンチが置かれていました・・・が、


草木が思いっきり茂っており何も見えません。


自家用車は「末盛通2」交差点をいったん北上し、西側から境内の駐車場に入ることができます。


名古屋市内には珍しく「警笛ならせ」の表示があります。
道幅細く、急坂、急カーブで見通しが悪いからですが、スピードさへ落としていれば初心者でも大丈夫でしょう。


駐車場
このあたりに本丸があったと思われます。




駐車場脇に末森城址碑がありました。


現地案内板


本丸跡に建てられた靖国神社遙拝鳥居


豊玉稲荷社




神門
駐車場と神門の間に三日月堀とよばれた堀跡があります。
肉眼で確認できるのですが、草木が生い茂り、カメラには上手く収めることができませんでした。


狛犬


拝殿
この城山八幡宮は、末森城に祀られた祠跡に付近にあった復数の神社を合祀しているそうです。


手水舎


神楽殿


末社


お市の方はここで生まれた?


連理木(れんりぼく)
アベマキの大木で、地上約3mの所から二幹に分かれ、6m程で再び合一して連理となり、そこから上にも枝を出しています。
連理木は一つの枝が他の枝とつらなり、木目が通じたもので、古来吉兆とされています。また、縁結び、良縁祈願、夫婦円満の御神木として信仰されています。


二の丸跡は古い建築物があるので、立ち入り禁止になっています。


フェンス越しに撮影
昭和塾堂といい、愛知県が1928(昭和3)年、青年向けの社会教育に資するために建設した建物です。
1943(昭和18)年には旧日本軍により接収され、戦時中には陸軍の東海軍司令部として使用されました。
戦後は、名古屋大学医学部基礎医学系諸教室や、愛知県教育文化研究所、千種区役所仮庁舎などを経て、愛知学院大学大学院歯学部研究棟として使用されました。
現在は使われてないようですが、貴重な戦前の建築物ですので、是非とも保存していただきたいと思っています。


建物中央のドームの屋根は、城山八幡宮の木々より少し高く、覚王山通より見えるのでかねてから知っていました。
しかし、日泰寺の付属施設かなとずっと思っていました。


養心堂
昭和塾堂付属の武道場




所要時間:35分

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古渡城

2020-06-04 | お城巡り(その他)
ようやく、非常事態宣言も解除され、ツーリングもお城めぐりもできるようになりました。
ただ、5月中は都道府県をまたぐ移動は避けるとようにとのことですので、目的地は愛知県内としました。



真宗大谷派名古屋別院(東別院)
所在地: 愛知県名古屋市中区橘2丁目8-55
開門~閉門時間: 6:00~16:30(10月~4月),6:00~17:30(5月~9月)


名古屋の中心部にありながら、広大な参拝者用駐車場をいくつも持っています。
しかも無料!


山門入ってすぐ左手にある石碑
1533(天文2)年、織田信秀(織田信長の父)は、那古野城を奪って今川氏豊を追放します。
その翌年の1534(天文3)年、今川家や岡崎城主・松平清康からの反撃に備えて、築城したのが古渡城です。


吉法師(信長)に那古野城を譲ると、信秀は勝幡城から移って古渡城を本拠としています。
1548(天文17)年に、信秀が美濃へ出陣しますが、その隙きを突いて尾張下四郡の守護代・織田信友の家臣である坂井大膳らが不在を突いて古渡城を攻撃しました。
城下町は消失するも、古渡城は落ちなかったようです。
しかし、再起は行わず、織田信秀は末森城を築くと、新たな居城としたため、古渡城はわずか14年で廃城となったようです。

1690(元禄3)年、尾張藩2代藩主・徳川光友は真宗大谷派名古屋別院建設のために、古渡城跡を寄進し、現在に至ります。

5年前にここを訪問していますが、そのときは古渡城の石碑を見落とし、ここが城跡であることにも気づきませんでした。
まだまだですねぇ。


もっとも、古渡城の遺構はほとんど残っていませんでした。
あえていうなら、境内にころがっている四角い石は城に使われていたものでしょうか。


これは井戸の跡でしょうか。

1945(昭和20)年、名古屋大空襲の被害を受け、本堂をはじめ、ほとんどの施設が焼失したしまったので、戦後再建されたものが多いです。


鐘楼


納骨堂


お東幼稚園


本堂


参拝接待所
お経、法事、永代経、納骨などの受付を行っております。


太鼓楼
それっぽく見えますが、古渡城の遺構ではありません。
参詣者と時刻案内の太鼓が置かれていましたが、現在では使用されていません。


対面所


名古屋教務所
真宗大谷派宗務所の地方宗務事務所で寺院・門徒関係の教化事業・宗務を行っています。


中門


東別院ホール


東にある名古屋テレビは、東別院の土地を分けてもらって建っていますが、古渡城の遺構はわかりませんでした。


名古屋テレビの北にある下茶屋公園
所在地:愛知県名古屋市中区橘2-9




もともとは、東別院御殿の後庭だったそうです。


この池は古渡城の堀の跡だという説がありますが、はたして・・・


この角度で見ると、堀っぽくも見えます。

公園内に転がっている石もどう見ても天然石ではなく、古渡城で使われたものかも





櫓台でしょうか。

所要時間:約40分

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