橋本屋吉次郎電子日誌

YAMAHA SR400・マツダ デミオ・ツーリング・城廻りについて・その他

足助城

2024-04-25 | お城巡り(その他)
足助城は、標高301mの真弓山の山頂を本丸として、四方に張り出した尾根を利用した、連郭式の山城です。
真弓山は、香嵐渓で有名な足助の町並みを眼下に見下ろす要害の地です。

山頂までの道は舗装してあり、駐車場もあるので助かります。

なんと二輪車置き場まで設置してあります。


足助城
所在地: 愛知県豊田市足助町須沢39-2
公開時間: 9:00~16:30 (入城は16:00まで)
休城日: 木曜日(ただし、4月29日~5月5日及び11月を除く),年末年始(12月25日から1月5日)
*木曜が祝日の場合、開館し、翌金曜休み
料金: 大人 300円,高校生 100円,中学生以下無料


さっそく、復元された中世山城が目に飛び込んできました。

足助城は、真弓山城とも呼び鎌倉時代に足助氏が築城しました。
戦国時代には西三河山間部に勢力をもっていた鈴木氏のものとなり、忠親→重政→重直→信重→康重と5代続きました。
16世紀に入ると、岡崎の松平氏との間で従属離反を繰り返しますが、1564(永禄7)年以降は、松平氏のもとで、高天神城の戦いなどに武勲をあげます。
そして、1590(天正18)年康重のとき、徳川家康の関東入国に従って、足助城を去りますが、間もなく家康から離れ、浪人したと伝えられます。


堀切
かなり深く、安全のために柵が設けられています。


井戸


シャクナゲがきれい


整備が行き届いてます。


西の丸腰曲輪


西の丸入口


西の丸曲輪


周囲を囲んでいる柵列は鉄砲を撃つ際の台にもなったそうです。


西物見台
武器庫としても使われていたようです。


木橋
排水路をまたぐためのものであって、防御的な役割はなかったでしょう。
なにしろ飛び越えられそうな幅なので・・・。

南の丸の入口には跳ねあげ戸がありました。
残念ながらこのときは壊れていたので、2006年に訪れたときの写真を上げておきます。


南の丸は台所の役割を持つ曲輪です。


かまど小屋



食事の準備を行う建物ですが、武具手入れや草鞋編みなども行われたようです。


土壁には芋のつるが練り込まれています。


建物内部に上がることができますが、


その際、用意されたスリッパと草鞋!


いよいよ、本丸へ




南物見台


南物見台からの眺望


奥が高櫓、手前が長屋
ここが足助城のベストアングルのような気がします。


これを床几に腰掛けて眺めるのも一興


高櫓からの眺め
飯田へ向かう美濃街道が見えます。


屋根は檜皮葺です。


足助は山の中だからこそいろいろな街道の交差点となっていました。


鉄塔はNHKラジオの中継アンテナ
無粋ではあるが、足助城復元前からあったのでしょうがないところです。


北腰曲輪


北腰曲輪から見た高櫓は天守みたいに立派に見えるから不思議です。



見学所要時間:45分
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守山城(尾張国)

2024-03-08 | お城巡り(その他)
名古屋市守山区の守山城は織田信光(織田信長の叔父)の居城で、徳川家康の祖父・松平清康が亡くなった城でもあります。


下調べの段階で、周囲に適当な駐車場が密蹴らなかったので、新守山駅近くのアピタパワー新守山店に駐輪させてもらいました。


閑静な住宅地を南下します。

守山城の北400mほどのところにコインパーキングがありました。
こちらを利用するのも良いかと思います。
ちなみに日曜の昼でしたが、結構あいていました。


名鉄協商パーキング 鳥羽見第2
愛知県名古屋市守山区鳥羽見2丁目3−19


城跡に近づくにつれて登坂となり、さらに勾配が急になりました。


城跡が見えてきました。


二階建てアパート(その名も城跡荘)の奥に城跡があります。



登り口


円形古墳のような感じ


守山城跡碑

守山城は、1521(大永元)年、今川氏親(今川義元の父)が、那古野城を築いた頃、それに対抗して織田方が築いたといわれます。

【守山崩れ(森山崩れ)】
1535(天文四)年 、三河の大半を手中にした松平清康(徳川家康の祖父)は、宿敵・織田信秀(織田信長の父)の尾張を攻略する為、守山城攻めを画策します。

守山布陣の翌12月5日早暁、清康の本陣で馬が暴れ騒ぎが起こった。
これを阿部正豊は、父が清康に誅殺されたためであると勘違いし、本陣にいた清康を惨殺してしまいます。
正豊はその場で殺され、主君を失った松平軍は岡崎に撤退しました。

この松平家内部騒動を守山崩れとよんでいます。

ちなみにこの守山崩れで松平清康は亡くなり、代わりに当主となった広忠はまだ10代で松平家を統率できず、尾張の織田氏の侵攻にも対応できなくなり、嫡男の竹千代を駿河に送って、今川氏の力を借りる事になります。


城跡から北側を臨む


足元
もともと切岸になっていて削られていたか、駐車場確保のためかはわかりません。


南側には竹林があります。


どうやら堀切であったようです。


城跡の西、数軒の住宅を含めた部分および南側の宝勝寺が城域だと考えます。


なお、西側からはいけませんので、ご注意を!


近所の方も困っておられるようです。


城跡南側にある矢田川
この川の河岸段丘に築城されていたようです。


宝勝寺の南側
このあたりが、城跡の南端でしょうか。


守山区の史蹟を巡るのも楽しそうですね。


宝勝寺入口


山門


本堂


この境内が本丸で、碑があった部分は出丸だと思います。


宝勝寺駐車場
宝勝寺も寄るのであればここに駐めるのもよいかと思います。


所要時間:50分
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小和田哲男氏講演会

2024-02-10 | お城巡り(その他)
津島ロータリークラブ補助金事業 小和田哲男氏講演会へ行ってきました。


小和田先生は歴史学者で、日本城郭協会の理事長でもあります。
以前「にっぽん城まつり2022 feat.出張!お城EXPO in 愛知」で座談会を拝聴したことがあります。
そのときは満員御礼で、立ち見をした記憶があります。

ということで、今回も大盛況が予想されたため、会場の津島市文化会館大ホールへはクルマを避け、40分かけて自転車で出向きました。
案の定、満車でした。
なんでも大ホールはいっぱいで、小ホールを急遽サテライト会場に仕立てたとか。


演題は、「戦国時代の津島とその周辺」~織田信長は勝幡城で生まれた~でした。

印象に残った点を紹介すると、

・戦国時代の初め、尾張国は守護斯波氏のもと、守護代として岩倉織田氏と清洲織田氏が治めていました。
・信長は勝幡(しょばた)織田氏の出であり、これは清洲織田氏の家臣であった。
・織田家でも格下だったが、父親である信秀の代に大きく力をつけた。
・その理由は津島湊を支配下に置いたためである。
・当時の物流は水上輸送が中心であるので、湊は交易の中心であり、人とともに富や情報も集まってきた。
・よって、信長が先進的な考えを持っていたり、商業を優遇したことは突然変異的なものではなく、育った環境から身についたものである。
・信長の誕生が1534(天文3)年であることは各種史料が一致していて問題はないが、忌まれた場所は諸説あり、那古野(なごや)というのが城定説だった。
・しかし、信秀が那古野城を奪取したのは天文3年よりも後と考えた方が無理がなく、勝幡城に在住中に生まれたと考えるべきだろう。


とのことでした。

最後に一番印象に残った言葉です。
「歴史は、光のあたり方によって、見え方が違ってくる。」

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高山城(飛騨国)

2023-11-30 | お城巡り(その他)
増島城からバイクで30分高山城にやってきました。


二の丸跡に駐車場があるということで、そちらに向かいましたが、ここでミスを犯しました。
二の丸の手前の路上に何台かもクルマが駐めてあったので、ここを二の丸駐車場と勘違いしてしまいました。
で、ご覧の通りの斜面ですから、バイクを置く気にはならず、街中の駐車場に向かいました。
高山は観光地ですから、駐車場はたくさんありますが、バイク禁止のところも多く、少々手間取ってしまいました。



高山別院駐車場とあるので、高山別院(真宗大谷派高山別院照蓮寺)の近くかと思ったら、境内そのものが駐車場になっていました。


5分ほど歩くと高山城の入り口にたどり着きました。



三の丸と堀
右は三ノ丸で、現在は護国神社および幼稚園となっています。
堀も一部の超されています。


二の丸・本丸周辺は城山公園になっています。

こんなところまで!



二の丸
勘違いした場所をさらに進むと二の丸があり、


一部は駐車場になっています。


金森長近像
1588(天正16)年、羽柴秀吉の命を受け飛騨国を平定した金森長近は高山城および城下町を整備しました。
その後、金森家6代の居城として続いきましたが、1692(元禄5)年に金森家が出羽国上山藩へ転封となると、飛騨は天領となりました。
高山城は破却され、飛騨の行政府の機能は高山陣屋に受け継がれました。


二の丸の周囲は土塁のようにも見えますが、公園としてかなり整備されているので遺構かどうかよくわかりません。


本丸に向かいます。
二の丸からは搦手となります。


中段屋形


東北曲輪
本丸に付属する腰曲輪です。


搦手之門跡


本丸
本丸は上下2段に分かれていて、こちらは下段


本丸からの眺め
北アルプスが見えます。


上段の石垣が一部復元されています。


本丸上段


大手を通って降りることにします。


表示はありませんでしたが、大手側本丸入り口の門があったと思われます。




もみの木平(南の出丸)


大手道は部分的に石が敷いてありました。


積み石によって保護されているところも見られます。


大手門が見えてきました。


表側から見るとこんな感じ
石垣を積み直して復元しています。


所要時間:1時間10分




高山といえば中華そばです。
寸胴の中に醤油だれを入れて煮込む独特のスープがちじれた細麺にからまってとても美味しいです。
高山別院近くの子天狗でいただきました。


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増島城

2023-11-28 | お城巡り(その他)
11月下旬というのに路肩に雪が残る道をバイクで走って、増島城へやってきました。


増島城はJR高山本線飛騨古川駅の南東、荒城川の右岸、古川盆地のほば中央に位置しています。
1573〜1592(天正年間)年、飛騨国を攻略して領国とした金森長近によって、高山城および支城として萩原諏訪城とともに築かれました。
退いて守る山城より、進んで攻める交通の要所を求めて、ここに平城を築いたそうです。

1615(元和元)年、幕府の一国一城令により、城名を廃して古川旅館と称しました。
金森氏の移封後3年、1695(元禄8)年に古川旅館は破壊されました。


天守台と堀が数少ない遺構です。


天守台には増島天満神社が祀られています。


天守台の二方に堀が残されています。





堀には立派な鯉が泳いでいました。


天守への登り口




神社の拝殿


合祀されている稲荷神社


神社への参道
コンクリートでできています。


手水舎


小学校のグランド
天守以外の本丸部分は飛騨市立古川小学校と岐阜県立飛騨吉城特別支援学校が建てられています。


小学校の校舎
地中には遺構が保存されているため、杭を打ち込まない低層建築とする必要がり、2階建てです。

本丸があったと思われる周辺を歩いてみました。
北側


南側には荒城川が流れています。



天守台の左は特別支援学校です。
グラウンドは小学校と共用みたいです。


天守台にある増島天満神社の参道のように並木があります。
ここも学校の敷地でしょうか?


小学校の校舎


まわりは盛り土がしてありますが、これは学校の整備を際にされたものでしょうね。





所要時間:25分
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佐和山城

2023-11-16 | お城巡り(その他)
大河ドラマで関ヶ原の合戦が行われた前日、佐和山城登城にリベンジ登城しました。


前日までと打って変わり寒い日でしたが、秋晴れの一日でした。


佐和山城跡はハイキングコースにもなっており、その出発点には立派な駐車場が整備されています。
なお、ここでパンフレットをもらい、ガイドに簡単な説明を受けました。


駐車場向かいにある龍潭寺総門


このすぐ脇にハイキングコースの入口があります。


もっとも、総門をくぐっても枡形を経て同じ道に合流します。


石田三成像
佐和山城は、鎌倉時代に築いた砦が始まりとされ、以降たびたびその支配者を変えてきました。
安土城廃城後、この地が豊臣政権下の支配になると石田三成が正式に佐和山城主に任じられます。
三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行って近世城郭を築きました。
当時の落首に「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」とありますが、城内の作りは極めて質素であったようです。


龍潭寺の山門をくぐり、


大洞観音堂の右脇を進むと、


登山道の始まりです。
猿出没注意です。


こんな道や


こんな道を登ると、


やがて、尾根に出ます。

西の丸は階段状に3つの曲輪があり、そのうちの一番下の下段曲輪(塩硝櫓)



中段曲輪
樹木が生い茂っていてわかりにくいです。


上段曲輪


上段曲輪から少し上ると


本丸
入口から30分ほどでした。


すぐ近くに彦根城が見えます。
関ヶ原以降、石田三成に代わって井伊直政がこの地を治めました。
最初、佐山城に入りましたが、すぐに新しい城の建設を始めます。
時代は山城から、平山城・平城に変わりつつあったのでしょう。
当時は、大坂に豊臣が残っており、これと対峙するために築城は急を要しました。
このため、佐和山城の建物も石垣も使えるものはすべて彦根城にもっていかれてしまいました。


本丸南側虎口


わずかに残された石垣
ここに天守があったらしいです。


千貫井戸
井戸があり、その脇には祠が建っていたようですが、倒木によって崩れてしまってました。


現地案内図の写真


ハイキングコースは以上です。
ただ、帰宅してから調べてみると、他にも二の丸,三の丸,太鼓丸,法華丸などの曲輪があったみたいでなかなか立派な城だったようです。


せっかくなので、龍潭寺へも参拝しました。
拝観料:大人 400円,小中学生 150円

井伊家の移封にともない遠州から呼び寄せたようで、浜松の龍潭寺と似た雰囲気があります。


立派なふすま絵




石庭


別名だるま寺ともよばれています。

浜松の龍潭寺の庭は大変素晴らしいですが、こちらもなかなか



大久保忠隣幽居之跡
忠隣(大久保忠世の子)は小田原藩主でしたが、改易となり、井伊家の御預けの身になりました。
ただし、忠世・忠隣の武功が大きかったことから、大久保家の家督は嫡孫の忠職が継ぐことが許され、その養子の忠朝は小田原藩主として復帰を果たしています。


所要時間:1時間30分(龍潭寺拝観時間を除く)



体力のある方は、彦根城とセットで訪れるのもいいかもしれません。

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宇都宮城

2023-05-29 | お城巡り(その他)
最終日、高速に乗る前に宇都宮城に寄ることにしました。

宇都宮城は平安時代に藤原秀郷もしくは藤原宗円(宇都宮氏の祖)が築城したと言われています。
その後、宇都宮氏,蒲生秀行,奥平家昌,本多正純と城主が変わりました。
本多正純は近世城郭とする一方、宇都宮を城下町、門前町、宿場町の各機能を持つ都市に再編しました。
その後、奥平氏、奥平松平氏、本多氏、奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平氏と譜代大名が城主としてこまめに入れ替わりましたが、1868(慶応4)戊辰戦争の戦地となり、宇都宮の町並み共々焼失してしまいました(宇都宮戦争)。


宇都宮市役所の本庁舎東駐車場を観光客も無料で使用できるとのことでしたが、
バイクで入ろうとすると入り口のバーが反応しません。
周囲を見てみましたが、バイクの駐輪方法が解りませんでした。
自転車用の駐輪場はありましたが、狭いのでバイクをとめると迷惑だろうと感じました。

よくみるとバー横にコーンが置かれていますが、この間が通れるようになっており、ここを通れという意味だと理解しました・・・が、これで良かったでしょうか?



城跡は公園として整備されています。

西側から入城すると、中央におほり橋


南北に櫓が見られます。






おほり橋の南側



おほり橋の北側には水がありませんでした。


大きな土塁の中にガイダンス施設があります。


宇都宮城ものしり館
所在地: 栃木県宇都宮市本丸町1
開館時間: 9:00~19:00(入館は18:30まで)
休館日: 12/29~1/3,臨時休館有
入館料: 無料


本丸の復元模型
現在の宇都宮城址公園は西側のおよそ1/3しか復元されていません。
また、西側の橋(おほり橋)はなかったようです。


さらに二重、三重の堀に囲まれた総構えになっていたようで、関東七名城のひとつに数えられています。


ものしり館からエレベーターで上がると、なんと土塁上に出ます。


北にある櫓である清明台


内部


清明台からの眺め


土塀も精緻に再現されています。


南にある富士見櫓




富士見櫓からの眺望
右に見える高いビルは宇都宮市役所です。


御本丸広場


清明館
歴史展示室や文化活動に密着した多目的スペースがあります。



開館時間: 9:00~19:00
休館日: 年末年始
こちらは宇都宮市に関する資料が展示されていました。


清水門
宇都宮城には将軍が日光参拝の際に宿泊する御成御殿がありました。
そちらへの出入りに使われた門がありました。

遺構はありませんが、建物の跡が印されていました。



大きな土塁
復元されたもので、実は内部は空洞で災害備蓄品などが収納されているそうです。


ベストアングルかな?


所要時間:50分


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刈谷城

2023-04-12 | お城巡り(その他)
刈谷城は1533(天文2)年に水野忠政によって築城されました。
忠政は、徳川家康の生母である於大の方の父親です。

その後、1600(慶長5)年に水野勝成が初代刈屋藩主となり、分家水野家、深溝松平家、久松松平家、稲垣家、 阿部家、本多家、三浦家、土井家の9家 22人の藩主が支配しました。

刈谷城は、11年前、スタンプラリーの折、訪れています。
その時の記事
「於大と江ゆかりの半島めぐり」ツーリング(後編)


4月といえども、寒くて風の強い日でした。



現地案内板
本丸跡は亀城公園、二の丸・三の丸跡には亀城小学校・郷土資料館などが整備されています。


刈谷市歴史博物館
所在地: 愛知県刈谷市逢妻町4丁目25-1
開館時間: 9:00〜17:00
休館日: 月曜日(月曜が祝日の場合は翌日),祝日の翌日,年末年始など
観覧料: 無料

常設展では刈谷の歴史が展示されており、刈谷城の復元模型や復元VRを見ることができます。
ここの駐車場にバイクをとめて、周囲を散策しました。


刈谷市体育館


亀城公園


子亀池
隣接する城池とともに本丸を取り囲んでいた内堀の名残です。

なお、西側には逢瀬川・境川(三河と尾張の境)が流れており天然の外堀になっています。


本丸跡


本丸を囲む土塁の跡


本丸跡碑
本丸跡の片隅の何気ないところにぽつんと立てられていました。


中島秋挙句碑


十朋亭
本丸隅櫓跡に建築され、市民の憩いの場として、各種会合、レクリエーション、休憩所等に幅広くご利用されているそうです。


本丸の周囲
一段高いところに本丸が築かれていました。


このような石垣はほとんど見られませんでした。


十朋亭の北側にわずかに残されていた程度です。


城池
こちらも内堀の跡です。
こうしてみるとけっこう立派な内堀だったのですねぇ。


刈谷城址碑の隣にちょこんと二の丸跡碑


豊田佐吉像
刈谷というよりも愛知県の偉人です。


二の丸の一部は刈谷球場になっています。


二の丸・三の丸は遺構もほとんどなく、その範囲も今となってはよくわかりませんが、地名には名残があります。


三の丸跡にある郷土資料館
亀城尋常高等小学校として使われていた建物だけでも充分見る価値があります。


刈谷市郷土資料館
所在地: 愛知県刈谷市城町1丁目25-1
開館時間: 9:00~17:00分
休館日: 月曜日(祝日の場合はその翌日),12/29~1/3
観覧料: 無料


亀城小学校校庭脇にある大手門跡碑



ここに大手門があったのですね。



文礼館跡碑
江戸時代後期に作られた藩校です。
現在は城町図書館が置かれています。


昔を偲ばせる建物もありました。


所要時間:1時間15分


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上ノ郷城

2023-03-23 | お城巡り(その他)
大河ドラマ「どうする家康!」第6回で舞台となった上ノ郷城跡へ行ってみました。
ドラマでは、今川方の鵜殿長照の城で、服部半蔵の活躍で攻め落とし、その際生け捕った長照の子を人質交換に使うというストーリーでした。

まずは、赤日子神社をめざしました。


赤日子神社
所在地:愛知県蒲郡市神ノ郷町58番地
蒲郡で最古の式内社ということです。


神社西側の駐車場を利用させていただきました。


とのことですから、遠慮無くバイクを駐めさせていただきました。

ただ、神社のまわりは細く曲がった道が多く、あげくの果てにミカン畑の陰で見通しが悪いです。
ちょっと間違えると大変なことになりそうなので、自動車は中央公園の駐車場に止め、そこから歩くことをお薦めします。


主郭に立てられた看板がよく見えます。

こんな幟が立てられ、パンフレットも置かれていました。


矢印にしたがって進みます。


3分ほどで入口に到着


土塁


史蹟碑


細い道を進みます。
道の両側のミカン畑も郭だったと思われます。


主郭虎口


主郭




赤日子神社駐車場から7分でした。


下から見えた看板


主郭からの眺め
三河湾が見えます。


北側はこのような眺めです。
家康軍はこちらから攻めたのでしょうか。


主郭北側虎口
おそらくこちらは整備用の軽トラが通ることが出来るように広げてあると思います。



北郭




城跡から200mほど歩いたところにある熊ヶ池



上之郷城の堀の跡と言われています。


蒲郡市西部公民館
所在地: 愛知県蒲郡市神ノ郷町壱町田12-1

ここには上之郷城の推定復元模型が置いてあります。
また、上之郷城や郷土史に関する資料も用意されています。




上之郷城から歩いて十数分ですが、ミカン畑の間の細い曲がった道なので、わかりにくかったです。
本郭にあった案内図を見ながら着くことができました。



所要時間:約1時間


昼食にいただいた「竹島うどん」


アサリがぎっしり



こんなに入っていました。
これから出汁がでているので、もうまずいわけがありません。
変わった形の容器は、つゆを残さず飲んでもらいたいとの心配りかなと思います。

手打ちうどん やをよし
所在地: 愛知県蒲郡市竹島町7-12
営業時間: 11:00〜14:30 17:00〜20:30
定休日: 月曜日


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ポスト続日本100名城

2023-03-19 | お城巡り(その他)
18年くらい前のある日のこと、休日にツーリングを計画していました。
目的地として思い浮かんだのが「愛知県の城を制覇しよう!」でした。

名古屋城,犬山城,岡崎城は行ったことがあるので、あと5つくらいまわれば制覇できるかななんて思っていました。

そこで、ネットで愛知県の城を検索して見ると、思いのほか多く、なんと400以上もあるではないですか!
いやはや驚きました。

それから数年たった2007年、偶然、本屋で「日本100名城 公式 ガイドブック」(日本城郭協会,学研)を見かけ、購入しました。
最初は「ツーリングの際に寄ってみよう」「100城制覇なんて無理だろだけど、出来るだけ頑張ってみよう」なんて思っていました。

結局、10年間かかって100城制覇できましたが、
その間に、城に対する関心は、ツーリングのついでから主目的に変わって行きました。

ですから100名城制覇時には、達成感もありましたが、「終わっちゃうのか、もう一度スタンプラリーで全国を回りたいなぁ」という気持ちが湧いてきました。

そんな折も折、続日本100名城スタンプラリーが2018年に始まりました。
私にとって思いも寄らない「おかわり」でした。

途中コロナ騒ぎもありましたが、ほぼ順調にスタンプラリーをすすめることができ、残すこと5城になりました。


福島県の2城はゴールデンウィークに、長崎・佐賀県の3城は夏に、訪れる計画を今進めております。

好きこそ物の上手なれなんて諺がありますが、多くの城跡を見ているうちに徐々にその縄張りや構造、さらに歴史に興味が出て、詳しくもなってきました。

そこで、ポスト続日本100名城も考えるようになり、
ポチッちゃいました。



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