橋本屋吉次郎電子日誌

YAMAHA SR400・マツダ デミオ・ツーリング・城廻りについて・その他

美濃路を歩く その27(長松町~垂井)

2015-03-31 | 街道を歩く


大垣市の西端あたりの美濃路です。
道路拡張のためか旧街道の面影はみられません。 

しかし、垂井町に入ると道は細くくねり、なんとなく雰囲気が出てきます。

 


りっぱな常夜燈
菊の御紋章と付いた鉄柵に囲まれ、伊勢両宮献燈と書かれていました。 

沿道の建物
 
 
 

この村社もいままで見てきた神社のように美濃路まで参道を伸ばしています。
 

東海道本線を越えます。
 


【松並木】
かつて美濃路の両脇には松並木があり、夏は日差しを冬は北風を遮る役に立っていました。
現在ではこのあたりが唯一残っているだけです。
 
 
 
 

管理するのに苦労されていることだと思います。


梅の花が満開です。
 
 


【美濃路・中山道追分】

垂井郵便局まで来ました。
ゴールは間近です。

ところが
 


なかなか追分が見つかりません。
どうも通り過ぎてしまったようです。

もどってみます。


ここです!
写真手前が美濃路、奥から右へ中山道がカーブしています。
先ほどは右から近づいた車に気を取られていたので、見落としてしまいました。

 
 


休憩所もありましたが、閉まっていました。


伊吹山が大きく見えます。
 

垂井は中山道の宿場であり、見所も多そうですが、疲れたのでまた今度訪れたいと思います。


さらば、竹中半兵衛殿

垂井駅からJRに乗ってバイクを駐めた大垣に戻りました。
 


(この日の経路)

(全ルート)

総計78.5km踏破できました!

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美濃路を歩く その26(杭瀬川~長松城址)

2015-03-29 | 街道を歩く

美濃路沿いのうどん店で昼食をとります。


 鶴岡屋本店
所在地: 岐阜県大垣市久瀬川町2-42
営業時間: 11:00~14:00  16:30~19:45(LO)
定休日: 木曜日

わりと新しそうな外観と、裏腹の


風格のある看板


うどん定食 870円
うどんは関ヶ原で関東風と関西風と聞いたことがあります。
ここは、関ヶ原よりやや東ですから、鰹だしでしたが淡口醤油を使っているのかけっこう澄んだつゆでした。
麺は柔らかめです。

驚いたのはおかずの小鉢の美味しいこと
ほうれん草とキノコのソテー、肉じゃが、あじフライ
どれも素材の味を充分に引き出した味付けです。

偶然通りがかっただけですが、アタリをひいたようです。

養老鉄道養老線を横切ります。
 

まっすぐ西に進むと杭瀬川に塩田橋が架かっていますがこれは現在の道
美濃路は、少し南の土橋(いまはコンクリート橋)で渡っていました。

歩いてきた県道からはずれるのですが、
こんな石柱や
 

こんな建物を追っていくと、道筋が見えてきます。
 


【塩田港と常夜灯】

1880(明治13)年の建立です。


この付近にはかつて塩田湊があり、生活物資や石灰などの運搬が頻繁に行われ賑わっていました。
この湊に出入りする船の安全を見守ってきたのがこの常夜燈ですが、伊勢神宮の遙拝所にもなっています。

先に養老線を横切りましたが、この路線以前から疑問に感じていました。
岐阜県と三重県を結ぶ唯一の私鉄なのに、大垣と桑名の間には都市はありません。
岐阜も四日市もまして名古屋も通らないのです。
ここに立ってみてわかりました。
船便に変わる路線だったんですね。

塩田の常夜灯の北には公園があるのですが大がかりな河川工事をしていました。
 

正月から始めた美濃路歩きですが、いつの間にか春になりました。
 


ここから、いったん北へ向かい県道を横切ったところで、再び西に向かいます。

【谷汲山常夜灯】

杭瀬川堤防にありました。
尾張では津島神社への道標を多く見かけましたが、美濃に入ってからは谷汲山華厳寺を示すものが多くなりました。


【久徳の一里塚】
いくつかの一里塚を通りましたが、ここは保存状態が良い部類だと思います。
 


【瓊々杵神社】
久徳の一里塚にある神社
祭神は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)すなわち天孫降臨の主人公です。
 


拝殿


本殿


しばらく進み、太平洋工業の前で美濃路は消滅してしまいます。
 

しかたないので、県道岐阜垂井線を西へ進みます。
 

東海環状自動車道の高架をくぐります。
 


【谷汲山道標】
再び美濃路に戻りました。


 

かろうじて「谷汲」と読むことができます。
 


【白鬚神社(しらひげじんじゃ)】
祭神は猿田彦命 (さるたひこのみこと、猿田彦大神)で本社は滋賀県高島市鵜川にあります。
 


太谷川を渡ります。


【長松城址】
長松城は、竹中半兵衛重治の従弟竹中源助重利が築いた城です。
関ヶ原の合戦の後廃城となりました。
 

現在の荒崎小学校となっています。
 

校門脇に城址碑がありました。
 


(次回いよいよゴール到達です)


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美濃路を歩く その25(大垣宿2)

2015-03-27 | 街道を歩く

西総門を越えると、舟町となります。
それまでは城下町・宿場町としての町の様子の覗かせていましたが、ここからは「水の都」大垣の姿を見せます。

【舟町道標】

西総門にあったもので、「左 江戸」「右 京みち」と刻まれています。

【住吉燈台】

住吉燈台は1688(元禄元)年~1704(宝永元)年前後の建造といわれ、当時の面影を今も残しています。

大垣の中心を流れる水門川は、桑名と結ぶ輸送経路として、明治時代に入っても物資や人の流れが多くたいへん賑やかな港であったといわれ、昭和初期には年間約1万もの船が行き来していたといわれています。
 

 


住吉燈台脇の建物
いままで見てきた街道脇の建物と違い、自然な感じにかけるような気がします。

水門川を渡ると「一ツ目橋」の石柱がオブジェとして歩道に置かれていました。
 

 

【船町中組常夜燈】

元禄年間(1688~1704)に船町中組総代の谷久大夫(木因)が、舟運の安全を祈願して建立したと伝えられています。
現在の燈は、1887(明治20)年に再建されたものです。

【奥の細道むすびの地】


松尾芭蕉の奥の細道は北関東・東北・北陸を経て、大垣で終わります。

それだけではなく、同門の友人である谷木因(たにぼくいん)を訪ねて芭蕉は4回にわたり大垣をおとずれています。


(左)松尾芭蕉、(右)芭蕉の旅立ちを見送る木因です。


(右)木因俳句道標 「南いせくわなへ十りざいがうみち」
(中)蛤塚 「伊勢にまかりけるを、人の送りければ」「蛤のふたみに別行秋そ」芭蕉が奥の細道の旅をおわり伊勢に向った別れの句です
(左)木因白桜塚 「惜ひひげ剃たり窓に夏木立」
  

【大垣市奥の細道むすびの地記念館】

所在地: 岐阜県大垣市船町2丁目26番地1
開館時間: 9:00~17:00
休館日: 無休 (ただし、12/29~1/3及び展示替えの場合は休館)
入館料: 一般300円、団体:150円 (18歳以下は無料)


大垣藩の藩老小原鉄心の別荘 無何有荘もあった大醒榭亭
中国風意匠を随所に取り入れたユニークなデザインです、

奥の細道の解説をはじめ、芭蕉の人となりや旅に生きた人生を紹介しています。

大垣市奥の細道むすびの地記念館を後にして、趣のある建物をみながら西へ向かいます。
 



 

街並みに合わせた郵便局
 

【芭蕉・木因遺跡】
 
 

1694(元禄7)年芭蕉が大坂で病没すると木因はこれを深く悼み、「芭蕉翁」追悼碑を建てました。
 

その後、木因碑を初め多くの追悼碑、句碑が建てられました。
 

正覚寺の境内にあります。
 


大垣は「水の町」でもあり「芭蕉の町」でもあるのです。

(続きます)


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美濃路を歩く その24(大垣宿1)

2015-03-25 | 街道を歩く

美濃路を歩く旅、8日目(最終日)の記録です。

大垣にはいくつかの市営駐車場・駐輪場が設けられています。
このうち、大垣駅西自転車駐車場は自動二輪も駐めることができ(200円/日)、本日はここからスタートします。
 


【大垣城東総門(名古屋口御門)跡】


大垣駅の南にあります。

 


スナックがいっぱい入ったビル
 

繁華街ですが、道路は石畳で、ベンチなどが置かれてわざとジグザグにっているので、クルマは速度を落とさざるをえず、歩行者にとってありがたい造りになっています。
 


【高札場案内板】


このあたりに高札場があり、札の辻と呼ばれていました。
現地案内板よると、昭和になっても掲示板として利用されていたそうですが、現在は何も見当たりませんでした。。

案内板も整備され、観光に力を入れているのがわかります。
 

【大垣宿脇本陣案内板】
少し先南に進むと大垣宿脇本陣跡があります。
 
 
 

今は、田中屋せんべい総本家がたっています。

 
 
【本町道標】


「右 京道」・「左江戸道」と刻まれています。
江戸に向かうのは竹鼻街道という美濃路の脇往還で、駒塚道に接続し、尾張・富田村への短絡路となっていました。
美濃路を歩く その17(萩原橋~高木の一里塚)の【駒塚道分岐】につながるわけです。


【美濃路大垣宿問屋場跡】
本町道標で西に曲がり、最初の交差点で南へ、そこから2つめの交差点角に問屋場跡の石柱があります。
 

この店、開店前につき何屋さんか分かりませんが、大垣の宿場や美濃路についての手作りの説明や地図、見取り図などが外壁一面に掲げられていました。
 
 


【大垣宿本陣跡】


大垣宿本陣は、竹島町にありました。
1692(元禄5)年、火事により焼失しましたが、その後再建され 、1850(嘉永3)年には本陣の改築が行われました。
現在は資料館となっています。

所在地:岐阜県大垣市竹島町39
開館時間:土日祝10:00~15:00,平日12:00~15:00

1878(明治11)年には明治天皇の宿泊所にも利用されました。


そのときの宿泊の間


係員の話では、本陣の建物は濃尾震災で被害を受けた後、大垣空襲で焼失してしまったのですが、宿泊の間だけは奇跡的に残ったそうです。


本陣跡向かいにある趣のある建物
 

こういう表示はありがたいです。
 

現在のメインストリートは新しく幅広い道に変わったので、古い建物が残されています。
 


【柿羊羹本舗 つちや】


創業宝暦五年(1755年)の和菓子の老舗です。


風格さえ漂う大きな手彫りの木製看板
よく見るとローマ字でも表記されているところがおしゃれです。

名物の柿羊羹は竹筒に入って売られています。


美濃西部は柿の産地で、大垣も「大柿」が名の由来だとか。


【飯沼慾斎(よくさい)邸跡】


飯沼慾斎は、文化・天保のころ蘭方医です。
晩年は植物学の研究に没頭し、リンネ(学名の創始者)の分類法による植物学書『草木図説』を著しました。

現在はカフェが建っています。
 



山車倉庫
大垣祭りでは十台披露されます。


【大垣城 西総門跡(京口門跡)】
名古屋方面に通じる東総門とともに明け六つに開かれ、暮れ六つに閉じられました。
 
 


(続きます)


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new My Maps

2015-03-23 | おすすめソフト・アプリ

「Googleマップ」には、複数のスポットをリスト化する「マイマップ」という機能があります。
美濃路歩きにはこれが重宝しています。

あらかじめ、見所をネットで調べておくのですが、道標などの中には小さなもの目立たないものも多く、注意していないと見失いがちです。
ですから、「マイマップ」に回りたいポイントをあらかじめマークしておくのです。
 

登録した「マイマップ」はネットを通じて見ることができます。
iPhone用の「Googleマップ」公式アプリには、なぜか「マイマップ」を呼び出す機能がありません(Androidではできたのに・・・)。
そこで、無料アプリを使って「マイマップ」を見ていましたが、2014年2月に「マイマップ」が新しい形式のものに変わると対応できなくなりました。

再び対応するアプリを探してみたのですが、無料のものは見当たりませんでした。
しかたなく、有料ですが「new My Maps」を入れてみると、これがなかなか使い勝手が良く、重宝しています。

new My Maps ( MapsEngine )
開発: Nelson Kwan
¥500
更新: 2015年2月21日
バージョン: 1.2.3
サイズ : 7.7 MB
言語: 英語
販売元: Nelson Kwan
互換性: iOS 6.0 以降。iPhone、iPad および iPod touch 対応。

登録済みの「マイマップ」から選択することができます。
古い形式で作られた「マイマップ」にも使えます。
 


こんな感じで表示されます。
この画像にはありませんが、自分の位置が青丸で表示され確認できます。

「Googleマップ」あるいは「iOS付属のマップ」を使って登録ポイントまでナビしてもらうことができます。
 

¥500の価値は充分にあります。

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美濃路を歩く その23(揖斐川~大垣宿へ)

2015-03-21 | 街道を歩く

木曽川・長良川に次いで、みたび大河を越えます。


揖斐川です。

新揖斐川橋を渡って大垣市に入ります。
 


【沢渡渡船】
かつては、沢渡渡船で結ばれていました。
その常夜灯
 


【小野(この)城跡】
小野城は大垣城主氏家卜全の家臣・横幕信兼の居城でした。
大垣藩二代目藩主戸田氏信の時に専勝寺に寄進されました。


美濃路沿いにこのような碑が建てられていました。
ここから北に向かうと、


専勝寺があります。


残念ながら遺構は何もみつかりませんでした。

と思いきや、少し西へ行ったところの民家にこんなものが・・・
 

あやしい・・・
櫓台じゃないでしょうか。


【小野の長橋】
こんな何気ない橋のたもとに


石柱が立っていました。


なんでも、小野の長橋は、平安時代から京都の歌人によく知られた名所だったようで、多くの歌が詠まれているそうです。
長橋っていってもこんな用水?に架かっているだけですけど
 


【今宿城跡】


現在は福勝寺となっています。
遺構はおろか、碑も案内板もありませんでした。

【三塚城】
大垣城主氏家卜全の家臣種田信濃守兼久の居城。
なお、先に紹介した今宿城城主は弟の種田助之丞です。


まこと幼稚園の脇に石碑があります。

隣接する真徳寺


門前の用水は堀の跡でしょうか?


幼稚園裏にある「おはなしのひろば」


その周囲にある石垣・・・これも遺構ではないでしょうね?
 


大垣駅に近づくにつれて、美濃路の幅は広くなります。
 


【三塚の一里塚跡】
石碑があるだけでした。
 
 


国道258線を横断して、大垣宿に向かいます。
 

沿道の建物にも昔の名残が感じられるようになってきました。

 

 


この日は降ったりやんだりしながら、徐々に天気が崩れてきていましたので、休憩も食事も取らず、急いできました。

ここで、遅めの昼食をとりました。


 盛田屋
所在地:大垣市東外側町1-24
営業時間:11:00~15:00  17:00~20:30
定休日:日曜


なになに第1回大垣めし準グランプリですと?
わたしゃ味噌煮込みにはうるさいですよ。


牡蠣のエキスが良く出ていて美味しかったです。
ただ、うどんはやわらかいですね。
最近の名古屋は硬めがはやりですが、これもありだと思います。
通常、名古屋人は味噌煮込みをおかずとして食すことが多く、麺の量は少ないものですが、ここはけっこう多めでした。

この日は大垣駅南のコイン駐車場に車を止めました。
 

オープンキャンペーンとはいえ、最大料金500円は魅力的です。
 


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美濃路を歩く その22(墨俣)

2015-03-19 | 街道を歩く

長良大橋を渡り、墨俣に入りました。

美濃路は右折して、北へ向かいます。
右手には多くのお寺が見えます。
寺町です。
 


石垣がかなり高く積まれています。
洪水に備えてのことでしょう。
 

【墨俣歴史資料館】


木下藤吉郎が一夜にして築いたと伝えられる墨俣一夜城の跡地に立てられています。
墨俣築城と秀吉の歩んだ道を中心とした展示がみられます。

この日ははっきりしない天気でしたので資料館には寄らず、雨が降り出さないうちに先へ急ぐこととします。
(なお、以前訪問したときの記録はこちら)


【墨俣本陣跡】
建物は残っていません。
 

ここから長良川の渡船(墨俣の渡り)が出ていたようで常夜灯がありました。
 

ただし、最近復元されたもののようです。
 


本陣跡から西に墨俣宿がありました。
 
 

その名も「岐阜屋百貨店」という洋品店
 


【墨俣脇本陣】
濃尾震災(1891年)の際に倒壊し、その後に再建された建物ですが、脇本陣時代の構造を色濃く残しており、当時の面影を偲ぶことが出来ます。

 

この日は墨俣宿全体で、つるしびな祭りを行っていました。
 


【津島神社・秋葉神社】





1791(寛政3)年、琉球使節の通行の折、通行記念にと残した琉球国儀衛正毛延柱の刻銘入りの石灯籠が置かれています。
なお、琉球使節や朝鮮通信使は、美濃路を使うのがが通例でした。


その後、八幡社を通り過ぎるとぱったり建物はなくなり、
 


犀川に沿って、再び堤の上を歩きます。
前回紹介した境川沿いとよく似た風景です。
いまでも墨俣は四方川に囲まれています。

瑞穂市に入りました。
 


【東束の一里塚跡】
 



「鎌倉街道って?」
ググってみました。
鎌倉時代、各地と鎌倉を結ぶ街道が整備されたそうで、京から鎌倉へ向かい道の一部が美濃路と重なっているそうです。


【米の宮之跡(よねのみや)】
 

「当村往還の傍に昔よりあり、ヨネの宮といい後に転じて米之宮と言う、云々」と説明がありました。


【町屋観音】
聖徳太子の頃の栴檀の木で彫刻された十一面観音が祀られているそうです。
 

この観音堂は嘉応年間(1169年頃)結神社と共に参道東側に建立されていましたが明冶24年の濃尾地震で本堂が倒壊、また、揖斐川の河川改修(1904年)にて其の地は河川敷となり、そのため約29年間民家にご本尊は安置されていたそうです。
大正8年にこの地に本堂が再建されましたが老朽化と道路整備事業の関係で平成6年現在場所におさまりました。

 
【 結神社】


縁結びの神です。
常陸国の小栗判官殿と再会を願った相模国の照手姫が七日間祈願しいたところ、見事願いがかなったそうです。
 

境内は南北に細長いです。
 

城跡でもあったらしいのですが、遺構は見当たりませんでした。
 


カップルが参拝に来ていました。
見た目そんなに若くないような・・・結ばれるといいですね。
妻子をもつワタシとしては、これ以上良縁があると話がややこしくなるのでパスかな。


(続きます)


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美濃路を歩く その21(足近~長良川)

2015-03-17 | 街道を歩く

美濃路を歩く旅、7日目の記録です。

前回のゴール地点である名鉄竹鼻線須賀駅から北西に歩き始めました。
 

【間の宿(あいのしゅく)】


このあたりは起宿と墨俣宿の中間にあたり、休息をする諸侯や貴人、旅人のための施設である間の宿が設けられていました。
なお、間の宿に休憩できるのは高貴なものに限られそれ以外は立場(たてば)とよばれる休憩所が割り当てられていました。


近くに立つ西方寺への道標
「親鸞聖人御旧跡」「寺田山渋谷院西方寺」「従是北六丁」と刻まれています。

【消えた美濃路】
このあたりは昭和30年代初めに行われた区画整理によって800mにわたって美濃路が消えてしまっています。
 

このあたりを美濃路が斜めに通っていたはずです。
 

しかし、沿道の自動車整備工場の名に残っていました。
 


【西方寺】


羽島市で最古のお寺で、なんと602(推古天皇10)年、善光寺如来が祀られたのが始まりです。
その後、612(推古天皇20)年、聖徳太子が七堂伽藍を建立して太子寺とし856(斉衡3)年に西方寺に改めました。
1235(文暦2年)年、関東からの帰途一時滞在した親鸞に教えを受け、天台宗から浄土真宗に改めたそうです。

 


本堂

春が近づいてきました。
 


【阿遅加(あじか)神社】


東征を終え、伊吹山の神を倒す途中、日本武尊(ヤマトタケル)は尾張国と美濃国の境の川にあるこのあたりで住民の歓待を受け休息をしました。
このとき出された食事と水がたいそうおいしく「味佳(あじか)」と言ったことがこの地の名となっているそうです。
なお、日本武尊は、再び伊吹へ向かい、伊勢国能褒野で死去。
日本武尊の御子稚武彦王は、深く悲しまれ鎮魂のため阿遅加神社を創建したと伝えられています。

ずいぶん高いところに本殿が置かれています。
 


境内から見た一の鳥居
参道が長く延びています。
おそらく、鳥居の前に美濃路が通っていたのでしょう。


阿遅加神社を過ぎると美濃路は再び現れます。
 

道沿いの桜のつぼみも少しずつ膨らんできているようです。
 

ここにも「親鸞聖人御旧跡」と刻まれた西方寺への道標がありました。
 

ここから美濃路は境川の堤防の上を通って西へ向かいます。
境川はかつて尾張国と美濃国との境界でした。
なんと戦国時代頃まではこのあたりまでが尾張だったのです。
 

したがって、羽島の毛織物も「尾州産地」のブランドで売られてます。
 

街道の名残を感じさせる建物があるようなないような。
 

 


【東小熊の一里塚】






のどかな道ですが街道だっただけあってバス停もあります。

北に曲がって、境川を越えます。

 

ほどなく、また西に向かって今度は長良川を越えます。

 

長良川の向こうは墨俣です。


(続きます)


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岩崎城(尾張国)

2015-03-15 | お城巡り(その他)

トヨタ博物館を後にして岩崎城に向かいました。

 

岩崎城は、尾張国愛知郡(現在の愛知県日進市岩崎)にあり、築いたのは織田信秀(信長の父)といわれています。

尾張国東端にあるこの城は、1529(享禄2)年、松平清康(家康の祖父)に奪われてしまいました。
その後、本郷城から移った丹羽氏清が城主となり、四代にわたって丹羽氏が治めましたが、1600(慶長5)年、関ヶ原の武功が認められ丹羽氏次は三河国伊保(現在の愛知県豊田市)1万石の大名として栄転し、岩崎城はここで廃城となりました。

現在は、岩崎城址公園として整備されています。
 

石垣は新しく作られたものでしょうね。
 

城門

 


五重構造の模擬天守
史実にはまったく基づいていない鉄筋コンクリート製です。

ただ、展望台としては機能しています。

東側(長久手方面)風景
 


 

西
 


 

岩崎城歴史記念館

 


「丹羽勘助・古城の址」の碑
1987(昭和62)年に城址公園として整備されるまではこの碑があるだけでした。

岩崎城跡発掘調査の際、土塁の下から偶然発見された古墳
出土品である須恵器の特徴などから6世紀初めのものと推定されます。

 


櫓台
5,5m盛土をして高くしてあります。


「表忠義」
1910(明治43)年に建てられました。

1584(天正12)年、織田信長亡き後の覇権を巡って、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合の間で戦が始まります。小牧・長久手の戦いです。
この初戦において、秀吉軍は犬山城に、家康軍は小牧山城に入って膠着状態に陥いります。

この状況を打破するために動き出したのが秀吉方の池田恒興で、彼は後方撹乱を狙って秘密裏に兵を進めました。
このとき岩崎城主は家康の元に出陣していたので、16歳の弟、丹羽氏重が留守を守っていました。
氏重は池田恒興の進軍に気づくと、岩崎城で食い止めようとします。
果敢に戦いましたが、恒興隊7000名に対して、岩崎城の兵は300名足らずであり、全員討ち死に、落城してしまいます。
しかし、ここで足止めをしてくれたため、追いついた家康軍後続部隊に、恒興は討ち取り、長久手の戦いは徳川側の勝利となりました。

余談ながら、関ヶ原の戦いでは徳川本隊は遅参し、活躍できなかったので、小牧・長久手の戦いの徳川軍の勝利はことさら美化して尾張藩に伝えられているようです。
 

本丸と二の丸の間の空堀

 

かつては土橋で結ばれていました。
 

二の丸には庭園が造られていました。
 

水琴窟
 

もう二十年近く前になるでしょうか。
出張の帰りにこの近くを通り、岩崎城の模擬天守を見かけよってみたことがあります。
当時の私は城に関しても歴史に関してもさして知識を持っておらず「史実に基づかないつまんないものを作りおって」なんて感想しか持てませんでした。
久しぶりに訪れてみると櫓台や空堀など当時を忍ばせる以降はありますし、何よりロマンを感じる歴史があります。
訪問済みの城へ、あらためて行ってみるのも良いものですね。 

 

P.S.


トヨタ博物館も岩崎城もだいたいの位置はわかっていたので、ナビは使用しませんでした。
ところが、岩崎城に向かうはずのところ、道に迷って名古屋市名東区へ行ってしまいました。
帰宅してから、地図を見て再度位置関係を調べなおしました。
思えば、以前はこういった経験が良くありました。
道に迷ったり、あとから再確認して地理を思えていったものでした。
ナビを使うようになって、地図を見る機会がめっきり減ってしまいました。
ときには、こうして迷ってみるのも無駄ではないように思います。

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トヨタ博物館

2015-03-10 | ツーリング

何気なく始めた街道歩きですが、けっこうおもしろくハマっています。

しかし、バイクにも乗りたい。
ということで、この日は近場ツーリングにでかけました。

まず訪れたのは、
 


 トヨタ博物館
所在地:愛知県長久手市横道41-100
営業時間:9:30~17:00(入館受付は16:30まで)
定休日:月曜日(祝日の場合は翌日),年末年始
料金:大人1000円,シルバー(65歳以上)500円,中高生600円,小学生400円
JAFの会員証を見せて20%OFFにしてもらいました。

トヨタ博物館はトヨタ自動車株式会社創立50周年 記念事業の一環として1989年4月16日にオープンし、世界の歴史的な車(トヨタ社だけではないですよ)を約140台を常設展示しています。

このうち何台かを独断と偏見により紹介します。


ベンツ パテント モトールヴァーゲン
"レプリカ"(1886年・ドイツ)
ガソリン自動車の第1号は、さまざまな説がありますが、そのうちのひとつがベンツが作ったこの3輪車です。


こんな大きな弾み車がありました。 


フォード モデルT
(1909年・アメリカ)
大衆車の先駆となった名車です。


モーガンエアロ
(1922年・イギリス)
前2輪,後1輪の3輪スポーツカーです。
ボンネット前にむき出しのエンジンが置かれているところがおもしろいですね。


フォルクスワーゲン 38 プロトタイプ
"レプリカ" (1938年・ドイツ)
これもまた名車中の名車
フェルディナント・ポルシェの設計ですが、彼の孫がデザインしたポルシェ911にしても時代を超えて愛される造形ですね。


ウィリス ジープ
(1941年・アメリカ)
車としての性能も卓越していますが、機能美というべきこのデザイン、古さを感じさせません。


タッカー’48
(1948年・アメリカ)
優れた性能と画期的なデザインを備えた意欲作
残念ながら、BIG3によってつぶされてしまいました。


シトロエン 2CV タイプA
(1953年・フランス)
1948年から1990年までの42年間、大きなモデルチェンジなしに生産された世界屈指のベストセラー車・ロングセラー車です。
バイクのように車体を傾けてカーブを曲がっていく姿が印象的でした。


メルセデスベンツ 300SL クーペ
(1955年・ドイツ)
所有したいとは言いません。運転させてとも言いません。助手席で良いから乗せてほしいものです。


フォード サンダーバード
(1955年・アメリカ)
こんなに長いのに2人しか乗れないのです。


モーリス ミニ マイナー
(1959年・イギリス)
今でもちょくちょく見かけますよね。


フェラーリ512BB
(1979年・イタリア)
懐かしいです。中学生時代にスパーカーブームを体験した世代ですから。
相変わらずカッコイイです。

次に懐かしい国産車を紹介します。


トヨダAA型
"レプリカ"(1936年)
トヨタ自動車初の生産型乗用車です。


水野式 自動三輪車
(1937年)
名古屋市内にあった株式会社水野鉄工所が、1931(昭和6)年から1940(昭和15)年にかけて約3,000台生産したユニークな三輪トラック。

前輪の左にエンジンとトランスミッションを、右にラジエーターと燃料タンクを配置しています。
 


三菱 シルバーピジョン
(1949年)
戦後、戦闘機の車輪や廃材を利用してつくられたスクーター
富士重工のラビット号と人気を二分しました。


トヨペット SA型乗用車
(1951年)
戦後初のトヨタの乗用自動車


トヨペット クラウン RS型
(1955年)
全長4285mm,全幅1680mmと現在のカローラより小さいのですね。
それでいてこの存在感。


フライングフェザー
(1955年)
この時代にして経済性を追求したクルマ、バイクのようなタイヤを履いていますね。
むしろ、これからの時代に合っているような気がします。


トヨペット コロナ ST10型
(1957年)


スバル 360 K111型
(1958年)
現在の軽自動車規格で復刻版を作ってみませんか富士重工さん


ダイハツ ミゼット DKA型
(1959年)
私の子供の頃、トラックと言えば三輪と四輪が半々でした。


パブリカ UP10型
(1961年)


ホンダ S500 AS280型
(1964年)
二輪メーカーだったホンダが4輪分野へ進出して、いきなりこんなクルマを発表するとは驚きです。


トヨタ スポーツ800 UP15型
(1965年)
1000ccぐらいのスポーツカーなんて今出してもおもしろいと思うのですが・・・
税制的には中途半端なのでしょうか。


トヨタ カローラ KE10型
(1966年)
なんだかんだいってもこのクルマの功績は大きいと思いますよ。


スズキ フロンテ360 LC10型
(1967年)
こんな綺麗なフロンテが残っているのですね。


トヨタ 2000GT MF10型
(1968年)
トヨタ 2000GTって、1960年代のクルマだったんですね。驚きです。


ホンダ N360 N360型
(1969年)
40数年経た現在、Nシリーズとして展開、売れていますね。
ですから、富士重工さんスバル360の復刻は?


マツダ コスモスポーツ L10B型
(1969年)
わが国初のロータリーエンジン搭載車
残念ながらロータリーエンジンはなくなってしまいましたね。


いすゞ 117クーペ PA90型
(1970年)
歴代日本車の中で最も美しいモデルだったと思います。


ニッサン フェアレディ Z432
(1970年)
いやぁ、文句なしにカッコいいです。


トヨタ セリカ TA22型
(1970年)
セリカってトヨタ車の中にあって賛否の分かれるとんがったデザインが特徴だと思うんです。
こういうクルマも必要ですよね。


1973年に発表されたリフトバック
子供の頃はハッチバッククーペが好きでした。
実際運転するようになってからは、外見だけで、見切りは悪く、大して荷物は積めないことに気づきました。


トヨタ・カローラレビン
(1972年)
当時は「普通の」カローラにもクーペモデルが存在しましたが、これにセリカの1600ccDOHCエンジンを積み込んだホットモデルです。
まさに羊の皮を被った狼です。


ホンダ シビック CVCC 1200GL 3Door
(1975年)
世界的ヒットとなった名車です。
けっこう好きだったんですが、近年肥大化しずぎて魅力がなくなってしまいました。
フィットには同じ道を歩んでほしくありません。


トヨタ ソアラ 2.8GT
(1981年)
スペシャルティカーという言葉が生まれたのは、このクルマからじゃないでしょうか。


トヨタ カローラ レビン AE86型
(1983年)
頭文字Dで後の世に伝説となったハチロク
FRであったことによりチューニングの余地があったとは思うが、ノーマルの状態でライバルに著しく勝っていたとは思わないです。


トヨタ MR2 AW11型
(1984年)
トヨタ初のミッドシップスポーツ
大排気量エンジンではなくカローラの1600ccを積んでいたところに好感が持てます。


ユーノス ロードスター
(1989年)
私はでかいスポーツカーよりも、このぐらいのサイズが好きです。


トヨタ セルシオ UCF11型
(1991年)
北米では、レクサスLS400としてデビュー。
日本ではまだ「トヨタ」ブランドだったんですね。


ホンダ・ビート
(1991年)
ミッドシップエンジン・後輪駆動の軽スポーツ
後継機と言うべきS660がまもなく発売されますね。楽しみです。


スズキ・カプチーノ
(1991年)
こちらはFR軽スポーツ
ロングノーズがカッコイイですね。
軽自動車が好調な現在において、ダイハツがコペン、ホンダがS660を発売となると、どうしますスズキさん?


トヨタ プリウス
(1997年)
ご存じ世界初のハイブリットシステム量産車
燃費にだけ注目されがちですが、全長4275mmできっちり大人4人乗れるスペース効率の高さも目を見張るものがありました。

コメント (10)
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