橋本屋吉次郎電子日誌

YAMAHA SR400・マツダ デミオ・ツーリング・城廻りについて・その他

美濃路を歩く (反省)

2015-04-02 | 街道を歩く

美濃路に点在する古い街並みに気づいたのはずいぶん前のことでした。
これらを巡るツーリングをいつかしたいとかねがね思っていました。

そして今年の初めいよいよ実行しようと見所を調べてみました。
すると、ポイント間の距離が短いこと、駐輪スパースが見つからない場所があること、さらには年末年始の怠惰な生活により太ってしまったことにより、歩いてみることにしたのです。

最初は辛くなったらバイクに切り替えようと軽い気持ちで始めました。
せいぜい名古屋市内で音を上げるだろうと自分でも思っていました。

ところがいざ歩いてみるとこれがまた楽しい!
結局、全過程踏破してしまいました。
近年、街道歩きを趣味とされている方が多く見えるようですが、実践してみてそのおもしろさがわかりました。

  • 自分のペースで見学したり立ち寄ったりすることができる。
  • 季節や自然を肌で感じることができる。
  • 過去へ思いをはせることができる。

そして何より、 

  • 達成感がある。

美濃路以外の街道にも、そのうち挑戦したいと思っています。

ただ、だんだん暖かくなりバイクに乗りたくなってきましたし、暑くなると徒歩旅も辛くなるでしょうから、また寒くなってからにします。

さて、その時のための防備録として今回の服装・持ち物および注意事項を記しておきます。

[服装]
動きやすい服装であることはもちろんですが、歩くとけっこうからだが暖まるので、厳冬期でもダウンジャケットではなくウインドブレーカー程度がよいと思います。
ただ、頭や手など露出している部分は冷たいので、帽子・手袋は用意すべきです。
暖かい季節の場合は、汗をかくので着替えを用意すべきです。

靴はトレッキングシューズを使いました。
ただ、普段から履いているもので、そのため脱着しやすいように紐を緩めていました。
コレが仇となり、初日はかなり足が疲れてしまいました。
2日目からは、バビロニアさんのアドバイスにしたがって、指先はゆるく足首はしっかり紐を締めたところ、ずいぶん歩きやすくなりました(指にマメはできましたが・・・)。

[持ち物]
カメラ,スマホ,サングラス,予備バッテリー(カメラ用とスマホ用、GPSを使うとスマホの電力消費は大きくなります),イヤホン,小銭(街道沿いには社寺が多い),タオル
暖かい季節だと、着替えと飲み物も要るでしょう。

[注意事項]

  • あらかじめ、見所をしっかり調べておくべきです。徒歩とはいえ、道標など見つかりにくいので見落としてしまう恐れがあります。
  • 旧街道は道が狭いところが多いです。その割には昔からの流れで自動車の交通量が多いところも多く、事故には充分気をつけなければいけません。
  • 宿場跡はまだしも、その間の旧街道沿いは飲食店が少ないの。選り好みしていると昼食難民になってしまいます。
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美濃路を歩く その27(長松町~垂井)

2015-03-31 | 街道を歩く


大垣市の西端あたりの美濃路です。
道路拡張のためか旧街道の面影はみられません。 

しかし、垂井町に入ると道は細くくねり、なんとなく雰囲気が出てきます。

 


りっぱな常夜燈
菊の御紋章と付いた鉄柵に囲まれ、伊勢両宮献燈と書かれていました。 

沿道の建物
 
 
 

この村社もいままで見てきた神社のように美濃路まで参道を伸ばしています。
 

東海道本線を越えます。
 


【松並木】
かつて美濃路の両脇には松並木があり、夏は日差しを冬は北風を遮る役に立っていました。
現在ではこのあたりが唯一残っているだけです。
 
 
 
 

管理するのに苦労されていることだと思います。


梅の花が満開です。
 
 


【美濃路・中山道追分】

垂井郵便局まで来ました。
ゴールは間近です。

ところが
 


なかなか追分が見つかりません。
どうも通り過ぎてしまったようです。

もどってみます。


ここです!
写真手前が美濃路、奥から右へ中山道がカーブしています。
先ほどは右から近づいた車に気を取られていたので、見落としてしまいました。

 
 


休憩所もありましたが、閉まっていました。


伊吹山が大きく見えます。
 

垂井は中山道の宿場であり、見所も多そうですが、疲れたのでまた今度訪れたいと思います。


さらば、竹中半兵衛殿

垂井駅からJRに乗ってバイクを駐めた大垣に戻りました。
 


(この日の経路)

(全ルート)

総計78.5km踏破できました!

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美濃路を歩く その26(杭瀬川~長松城址)

2015-03-29 | 街道を歩く

美濃路沿いのうどん店で昼食をとります。


 鶴岡屋本店
所在地: 岐阜県大垣市久瀬川町2-42
営業時間: 11:00~14:00  16:30~19:45(LO)
定休日: 木曜日

わりと新しそうな外観と、裏腹の


風格のある看板


うどん定食 870円
うどんは関ヶ原で関東風と関西風と聞いたことがあります。
ここは、関ヶ原よりやや東ですから、鰹だしでしたが淡口醤油を使っているのかけっこう澄んだつゆでした。
麺は柔らかめです。

驚いたのはおかずの小鉢の美味しいこと
ほうれん草とキノコのソテー、肉じゃが、あじフライ
どれも素材の味を充分に引き出した味付けです。

偶然通りがかっただけですが、アタリをひいたようです。

養老鉄道養老線を横切ります。
 

まっすぐ西に進むと杭瀬川に塩田橋が架かっていますがこれは現在の道
美濃路は、少し南の土橋(いまはコンクリート橋)で渡っていました。

歩いてきた県道からはずれるのですが、
こんな石柱や
 

こんな建物を追っていくと、道筋が見えてきます。
 


【塩田港と常夜灯】

1880(明治13)年の建立です。


この付近にはかつて塩田湊があり、生活物資や石灰などの運搬が頻繁に行われ賑わっていました。
この湊に出入りする船の安全を見守ってきたのがこの常夜燈ですが、伊勢神宮の遙拝所にもなっています。

先に養老線を横切りましたが、この路線以前から疑問に感じていました。
岐阜県と三重県を結ぶ唯一の私鉄なのに、大垣と桑名の間には都市はありません。
岐阜も四日市もまして名古屋も通らないのです。
ここに立ってみてわかりました。
船便に変わる路線だったんですね。

塩田の常夜灯の北には公園があるのですが大がかりな河川工事をしていました。
 

正月から始めた美濃路歩きですが、いつの間にか春になりました。
 


ここから、いったん北へ向かい県道を横切ったところで、再び西に向かいます。

【谷汲山常夜灯】

杭瀬川堤防にありました。
尾張では津島神社への道標を多く見かけましたが、美濃に入ってからは谷汲山華厳寺を示すものが多くなりました。


【久徳の一里塚】
いくつかの一里塚を通りましたが、ここは保存状態が良い部類だと思います。
 


【瓊々杵神社】
久徳の一里塚にある神社
祭神は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)すなわち天孫降臨の主人公です。
 


拝殿


本殿


しばらく進み、太平洋工業の前で美濃路は消滅してしまいます。
 

しかたないので、県道岐阜垂井線を西へ進みます。
 

東海環状自動車道の高架をくぐります。
 


【谷汲山道標】
再び美濃路に戻りました。


 

かろうじて「谷汲」と読むことができます。
 


【白鬚神社(しらひげじんじゃ)】
祭神は猿田彦命 (さるたひこのみこと、猿田彦大神)で本社は滋賀県高島市鵜川にあります。
 


太谷川を渡ります。


【長松城址】
長松城は、竹中半兵衛重治の従弟竹中源助重利が築いた城です。
関ヶ原の合戦の後廃城となりました。
 

現在の荒崎小学校となっています。
 

校門脇に城址碑がありました。
 


(次回いよいよゴール到達です)


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美濃路を歩く その25(大垣宿2)

2015-03-27 | 街道を歩く

西総門を越えると、舟町となります。
それまでは城下町・宿場町としての町の様子の覗かせていましたが、ここからは「水の都」大垣の姿を見せます。

【舟町道標】

西総門にあったもので、「左 江戸」「右 京みち」と刻まれています。

【住吉燈台】

住吉燈台は1688(元禄元)年~1704(宝永元)年前後の建造といわれ、当時の面影を今も残しています。

大垣の中心を流れる水門川は、桑名と結ぶ輸送経路として、明治時代に入っても物資や人の流れが多くたいへん賑やかな港であったといわれ、昭和初期には年間約1万もの船が行き来していたといわれています。
 

 


住吉燈台脇の建物
いままで見てきた街道脇の建物と違い、自然な感じにかけるような気がします。

水門川を渡ると「一ツ目橋」の石柱がオブジェとして歩道に置かれていました。
 

 

【船町中組常夜燈】

元禄年間(1688~1704)に船町中組総代の谷久大夫(木因)が、舟運の安全を祈願して建立したと伝えられています。
現在の燈は、1887(明治20)年に再建されたものです。

【奥の細道むすびの地】


松尾芭蕉の奥の細道は北関東・東北・北陸を経て、大垣で終わります。

それだけではなく、同門の友人である谷木因(たにぼくいん)を訪ねて芭蕉は4回にわたり大垣をおとずれています。


(左)松尾芭蕉、(右)芭蕉の旅立ちを見送る木因です。


(右)木因俳句道標 「南いせくわなへ十りざいがうみち」
(中)蛤塚 「伊勢にまかりけるを、人の送りければ」「蛤のふたみに別行秋そ」芭蕉が奥の細道の旅をおわり伊勢に向った別れの句です
(左)木因白桜塚 「惜ひひげ剃たり窓に夏木立」
  

【大垣市奥の細道むすびの地記念館】

所在地: 岐阜県大垣市船町2丁目26番地1
開館時間: 9:00~17:00
休館日: 無休 (ただし、12/29~1/3及び展示替えの場合は休館)
入館料: 一般300円、団体:150円 (18歳以下は無料)


大垣藩の藩老小原鉄心の別荘 無何有荘もあった大醒榭亭
中国風意匠を随所に取り入れたユニークなデザインです、

奥の細道の解説をはじめ、芭蕉の人となりや旅に生きた人生を紹介しています。

大垣市奥の細道むすびの地記念館を後にして、趣のある建物をみながら西へ向かいます。
 



 

街並みに合わせた郵便局
 

【芭蕉・木因遺跡】
 
 

1694(元禄7)年芭蕉が大坂で病没すると木因はこれを深く悼み、「芭蕉翁」追悼碑を建てました。
 

その後、木因碑を初め多くの追悼碑、句碑が建てられました。
 

正覚寺の境内にあります。
 


大垣は「水の町」でもあり「芭蕉の町」でもあるのです。

(続きます)


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美濃路を歩く その24(大垣宿1)

2015-03-25 | 街道を歩く

美濃路を歩く旅、8日目(最終日)の記録です。

大垣にはいくつかの市営駐車場・駐輪場が設けられています。
このうち、大垣駅西自転車駐車場は自動二輪も駐めることができ(200円/日)、本日はここからスタートします。
 


【大垣城東総門(名古屋口御門)跡】


大垣駅の南にあります。

 


スナックがいっぱい入ったビル
 

繁華街ですが、道路は石畳で、ベンチなどが置かれてわざとジグザグにっているので、クルマは速度を落とさざるをえず、歩行者にとってありがたい造りになっています。
 


【高札場案内板】


このあたりに高札場があり、札の辻と呼ばれていました。
現地案内板よると、昭和になっても掲示板として利用されていたそうですが、現在は何も見当たりませんでした。。

案内板も整備され、観光に力を入れているのがわかります。
 

【大垣宿脇本陣案内板】
少し先南に進むと大垣宿脇本陣跡があります。
 
 
 

今は、田中屋せんべい総本家がたっています。

 
 
【本町道標】


「右 京道」・「左江戸道」と刻まれています。
江戸に向かうのは竹鼻街道という美濃路の脇往還で、駒塚道に接続し、尾張・富田村への短絡路となっていました。
美濃路を歩く その17(萩原橋~高木の一里塚)の【駒塚道分岐】につながるわけです。


【美濃路大垣宿問屋場跡】
本町道標で西に曲がり、最初の交差点で南へ、そこから2つめの交差点角に問屋場跡の石柱があります。
 

この店、開店前につき何屋さんか分かりませんが、大垣の宿場や美濃路についての手作りの説明や地図、見取り図などが外壁一面に掲げられていました。
 
 


【大垣宿本陣跡】


大垣宿本陣は、竹島町にありました。
1692(元禄5)年、火事により焼失しましたが、その後再建され 、1850(嘉永3)年には本陣の改築が行われました。
現在は資料館となっています。

所在地:岐阜県大垣市竹島町39
開館時間:土日祝10:00~15:00,平日12:00~15:00

1878(明治11)年には明治天皇の宿泊所にも利用されました。


そのときの宿泊の間


係員の話では、本陣の建物は濃尾震災で被害を受けた後、大垣空襲で焼失してしまったのですが、宿泊の間だけは奇跡的に残ったそうです。


本陣跡向かいにある趣のある建物
 

こういう表示はありがたいです。
 

現在のメインストリートは新しく幅広い道に変わったので、古い建物が残されています。
 


【柿羊羹本舗 つちや】


創業宝暦五年(1755年)の和菓子の老舗です。


風格さえ漂う大きな手彫りの木製看板
よく見るとローマ字でも表記されているところがおしゃれです。

名物の柿羊羹は竹筒に入って売られています。


美濃西部は柿の産地で、大垣も「大柿」が名の由来だとか。


【飯沼慾斎(よくさい)邸跡】


飯沼慾斎は、文化・天保のころ蘭方医です。
晩年は植物学の研究に没頭し、リンネ(学名の創始者)の分類法による植物学書『草木図説』を著しました。

現在はカフェが建っています。
 



山車倉庫
大垣祭りでは十台披露されます。


【大垣城 西総門跡(京口門跡)】
名古屋方面に通じる東総門とともに明け六つに開かれ、暮れ六つに閉じられました。
 
 


(続きます)


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美濃路を歩く その23(揖斐川~大垣宿へ)

2015-03-21 | 街道を歩く

木曽川・長良川に次いで、みたび大河を越えます。


揖斐川です。

新揖斐川橋を渡って大垣市に入ります。
 


【沢渡渡船】
かつては、沢渡渡船で結ばれていました。
その常夜灯
 


【小野(この)城跡】
小野城は大垣城主氏家卜全の家臣・横幕信兼の居城でした。
大垣藩二代目藩主戸田氏信の時に専勝寺に寄進されました。


美濃路沿いにこのような碑が建てられていました。
ここから北に向かうと、


専勝寺があります。


残念ながら遺構は何もみつかりませんでした。

と思いきや、少し西へ行ったところの民家にこんなものが・・・
 

あやしい・・・
櫓台じゃないでしょうか。


【小野の長橋】
こんな何気ない橋のたもとに


石柱が立っていました。


なんでも、小野の長橋は、平安時代から京都の歌人によく知られた名所だったようで、多くの歌が詠まれているそうです。
長橋っていってもこんな用水?に架かっているだけですけど
 


【今宿城跡】


現在は福勝寺となっています。
遺構はおろか、碑も案内板もありませんでした。

【三塚城】
大垣城主氏家卜全の家臣種田信濃守兼久の居城。
なお、先に紹介した今宿城城主は弟の種田助之丞です。


まこと幼稚園の脇に石碑があります。

隣接する真徳寺


門前の用水は堀の跡でしょうか?


幼稚園裏にある「おはなしのひろば」


その周囲にある石垣・・・これも遺構ではないでしょうね?
 


大垣駅に近づくにつれて、美濃路の幅は広くなります。
 


【三塚の一里塚跡】
石碑があるだけでした。
 
 


国道258線を横断して、大垣宿に向かいます。
 

沿道の建物にも昔の名残が感じられるようになってきました。

 

 


この日は降ったりやんだりしながら、徐々に天気が崩れてきていましたので、休憩も食事も取らず、急いできました。

ここで、遅めの昼食をとりました。


 盛田屋
所在地:大垣市東外側町1-24
営業時間:11:00~15:00  17:00~20:30
定休日:日曜


なになに第1回大垣めし準グランプリですと?
わたしゃ味噌煮込みにはうるさいですよ。


牡蠣のエキスが良く出ていて美味しかったです。
ただ、うどんはやわらかいですね。
最近の名古屋は硬めがはやりですが、これもありだと思います。
通常、名古屋人は味噌煮込みをおかずとして食すことが多く、麺の量は少ないものですが、ここはけっこう多めでした。

この日は大垣駅南のコイン駐車場に車を止めました。
 

オープンキャンペーンとはいえ、最大料金500円は魅力的です。
 


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美濃路を歩く その22(墨俣)

2015-03-19 | 街道を歩く

長良大橋を渡り、墨俣に入りました。

美濃路は右折して、北へ向かいます。
右手には多くのお寺が見えます。
寺町です。
 


石垣がかなり高く積まれています。
洪水に備えてのことでしょう。
 

【墨俣歴史資料館】


木下藤吉郎が一夜にして築いたと伝えられる墨俣一夜城の跡地に立てられています。
墨俣築城と秀吉の歩んだ道を中心とした展示がみられます。

この日ははっきりしない天気でしたので資料館には寄らず、雨が降り出さないうちに先へ急ぐこととします。
(なお、以前訪問したときの記録はこちら)


【墨俣本陣跡】
建物は残っていません。
 

ここから長良川の渡船(墨俣の渡り)が出ていたようで常夜灯がありました。
 

ただし、最近復元されたもののようです。
 


本陣跡から西に墨俣宿がありました。
 
 

その名も「岐阜屋百貨店」という洋品店
 


【墨俣脇本陣】
濃尾震災(1891年)の際に倒壊し、その後に再建された建物ですが、脇本陣時代の構造を色濃く残しており、当時の面影を偲ぶことが出来ます。

 

この日は墨俣宿全体で、つるしびな祭りを行っていました。
 


【津島神社・秋葉神社】





1791(寛政3)年、琉球使節の通行の折、通行記念にと残した琉球国儀衛正毛延柱の刻銘入りの石灯籠が置かれています。
なお、琉球使節や朝鮮通信使は、美濃路を使うのがが通例でした。


その後、八幡社を通り過ぎるとぱったり建物はなくなり、
 


犀川に沿って、再び堤の上を歩きます。
前回紹介した境川沿いとよく似た風景です。
いまでも墨俣は四方川に囲まれています。

瑞穂市に入りました。
 


【東束の一里塚跡】
 



「鎌倉街道って?」
ググってみました。
鎌倉時代、各地と鎌倉を結ぶ街道が整備されたそうで、京から鎌倉へ向かい道の一部が美濃路と重なっているそうです。


【米の宮之跡(よねのみや)】
 

「当村往還の傍に昔よりあり、ヨネの宮といい後に転じて米之宮と言う、云々」と説明がありました。


【町屋観音】
聖徳太子の頃の栴檀の木で彫刻された十一面観音が祀られているそうです。
 

この観音堂は嘉応年間(1169年頃)結神社と共に参道東側に建立されていましたが明冶24年の濃尾地震で本堂が倒壊、また、揖斐川の河川改修(1904年)にて其の地は河川敷となり、そのため約29年間民家にご本尊は安置されていたそうです。
大正8年にこの地に本堂が再建されましたが老朽化と道路整備事業の関係で平成6年現在場所におさまりました。

 
【 結神社】


縁結びの神です。
常陸国の小栗判官殿と再会を願った相模国の照手姫が七日間祈願しいたところ、見事願いがかなったそうです。
 

境内は南北に細長いです。
 

城跡でもあったらしいのですが、遺構は見当たりませんでした。
 


カップルが参拝に来ていました。
見た目そんなに若くないような・・・結ばれるといいですね。
妻子をもつワタシとしては、これ以上良縁があると話がややこしくなるのでパスかな。


(続きます)


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美濃路を歩く その21(足近~長良川)

2015-03-17 | 街道を歩く

美濃路を歩く旅、7日目の記録です。

前回のゴール地点である名鉄竹鼻線須賀駅から北西に歩き始めました。
 

【間の宿(あいのしゅく)】


このあたりは起宿と墨俣宿の中間にあたり、休息をする諸侯や貴人、旅人のための施設である間の宿が設けられていました。
なお、間の宿に休憩できるのは高貴なものに限られそれ以外は立場(たてば)とよばれる休憩所が割り当てられていました。


近くに立つ西方寺への道標
「親鸞聖人御旧跡」「寺田山渋谷院西方寺」「従是北六丁」と刻まれています。

【消えた美濃路】
このあたりは昭和30年代初めに行われた区画整理によって800mにわたって美濃路が消えてしまっています。
 

このあたりを美濃路が斜めに通っていたはずです。
 

しかし、沿道の自動車整備工場の名に残っていました。
 


【西方寺】


羽島市で最古のお寺で、なんと602(推古天皇10)年、善光寺如来が祀られたのが始まりです。
その後、612(推古天皇20)年、聖徳太子が七堂伽藍を建立して太子寺とし856(斉衡3)年に西方寺に改めました。
1235(文暦2年)年、関東からの帰途一時滞在した親鸞に教えを受け、天台宗から浄土真宗に改めたそうです。

 


本堂

春が近づいてきました。
 


【阿遅加(あじか)神社】


東征を終え、伊吹山の神を倒す途中、日本武尊(ヤマトタケル)は尾張国と美濃国の境の川にあるこのあたりで住民の歓待を受け休息をしました。
このとき出された食事と水がたいそうおいしく「味佳(あじか)」と言ったことがこの地の名となっているそうです。
なお、日本武尊は、再び伊吹へ向かい、伊勢国能褒野で死去。
日本武尊の御子稚武彦王は、深く悲しまれ鎮魂のため阿遅加神社を創建したと伝えられています。

ずいぶん高いところに本殿が置かれています。
 


境内から見た一の鳥居
参道が長く延びています。
おそらく、鳥居の前に美濃路が通っていたのでしょう。


阿遅加神社を過ぎると美濃路は再び現れます。
 

道沿いの桜のつぼみも少しずつ膨らんできているようです。
 

ここにも「親鸞聖人御旧跡」と刻まれた西方寺への道標がありました。
 

ここから美濃路は境川の堤防の上を通って西へ向かいます。
境川はかつて尾張国と美濃国との境界でした。
なんと戦国時代頃まではこのあたりまでが尾張だったのです。
 

したがって、羽島の毛織物も「尾州産地」のブランドで売られてます。
 

街道の名残を感じさせる建物があるようなないような。
 

 


【東小熊の一里塚】






のどかな道ですが街道だっただけあってバス停もあります。

北に曲がって、境川を越えます。

 

ほどなく、また西に向かって今度は長良川を越えます。

 

長良川の向こうは墨俣です。


(続きます)


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美濃路を歩く その20(正木~須賀駅)

2015-03-08 | 街道を歩く

【金比羅神社】
愛知県側の定渡船場跡には金比羅神社がありましたが、岐阜県側にもあります。
樹木でこんもりしているので遠くからも位置は確認できたのですが、

なかなか近づけません。
 

なんとか堤防下の道を発見。
 

 
 


岐阜県でも、のこぎり屋根を見ることができました。

 
 
 

このあたりは、昔の面影が残っていません。
以前は田畑あるいは湿地・沼地だったのでしょうか。
それとも区画整理されたから、はたまた道を間違えているのでしょうか。
 

こういう光景を見つけると道を間違えているわけではないようです。

 


【不破一色一里塚跡】
 
 


羽島市立正木小学校の正門

その脇に標柱があります。
 


一里塚跡を過ぎても、相変わらず昔の面影は感じられません。

 

ここまで来ると伊吹山がずいぶん大きく見えます。

 

【及が橋石灯籠】
一里塚から1kmほど、スーパーの駐車場入口脇に立っています。



 


名鉄竹鼻線が見えてきました。
 

須賀駅までで、この日の旅は終了です。
 


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美濃路を歩く その19(木曽川)

2015-03-06 | 街道を歩く

起宿をさらに北へ進み、濃尾大橋へ向かう坂の下をくぐり抜けます。
 

まだまだ、風情ある建物がたくさん残っています。
 
 
 
 


太平洋戦争の時、白壁が目立つので黒塗りされた蔵
これも歴史の証人です。


【定渡船場跡】


金比羅神社

境内に定渡船場跡の碑があります。
 



大きな常夜灯は灯台として活躍していたのでしょうね。


 


【木曽川】
定渡船場近辺の木曽川
 

起には3つの渡しがありましたが、いずれも現在では運営されていません。
3kmほど下流には「中野の渡し」がまだ、運行されています。
そちらは、いずれまたツーリングと訪れたいといと思っています。

木曽川にかかる濃尾大橋
 

ここを歩いて渡ります。
 

さらば、愛知県
 

歩いて木曽川を渡るのも、歩いて岐阜県に入るのも初めての経験です。
 

橋は車道と歩道が分かれていますが、車が行き交うと揺れので、少々怖いです。


こんにちは、岐阜県
 


【正木の本堤】


岐阜県側木曽川堤防脇に置かれた顕彰碑


大野伴睦氏をご存じですか。
岐阜県出身の代議士で新幹線岐阜羽島駅前に夫妻の銅像が建っています。
鈴鹿峠を通るはずの東海道新幹線をむりやり岐阜県に引っ張り、田んぼの真ん中に岐阜羽島駅を作らせた・・・とよく言われているのですが
事実はかなり違うようです。
鈴鹿山脈を越えるためにはかなりの難工事が予想され当時の技術的障害や建設コスト面の問題などもあり、在来線である東海道本線同様に関ヶ原経由に変更されたのです。
そこで、国鉄名古屋から関ヶ原までを直線で結ぶ現在のルートを考えていたのですが、岐阜市経由を望んでいた岐阜県や地元自治体に伝わると猛反発に遭ってしまいました。
国鉄側としては関ヶ原が積雪した場合のために近くに車両基地が必要でした。
そこで、大野伴睦は岐阜県内に新駅を作ることを提案させ、岐阜県民を納得させたのが真相だそうです。

 
 


【起渡船場石灯台】
交通量の多い道路の真ん中になってしまっていました。
 

1770(明和7)年に、夜渡船で難儀をした竹鼻出身の力士が、油代として田二反を併せて寄進したそうです。
 
 
 

 


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