橋本屋吉次郎電子日誌

YAMAHA SR400・マツダ デミオ・ツーリング・城廻りについて・その他

シリコンカバー

2011-10-30 | 携帯・スマホ・タブレット

昨日のことです。
車から降りる際にジャージの上着からスマホが滑り落ちてしまいました。
ジャージのポケットというのは浅くて、内部がすべすべしていていけません。

耐衝撃性がうたい文句のモデルですから、問題なく作動します(どんなモデルでもこのくらいで壊れてもらっては困りますね)が、少々傷がついてしまいました。


へこんでしまったのは、私の方でした。

そんなこんなでシリコンジャケットを着けることにしました。
アレ、結構愛用されている方も多いようですが、どうもデザイン的好きになれませんでした。


着けてみました。

なかなか良い感じじゃないですか!

ちなみにこちらの商品です↓
http://item.rakuten.co.jp/e-bear/4571316450088/

付属の保護フィルムも気泡を入れることなく、上手く貼れたので気分がよいです。

一緒にストラップも買いました。

こちらは、おもっきりシンプルな商品
280円でしたが、百均で買った方が良かったかな?

携帯にストラップを着けるのは久しぶりです。

実はジャケットもストラップも他に理由があって購入したのですが、
この理由については次回に!

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高島城(諏訪国)

2011-10-23 | お城巡り(続日本100名城)

1590(天正18)年、諏訪氏にかわって豊臣秀吉の家臣日根野高吉(ひねのたかよし)がこの地を治めることになると、山城である金子城を廃し、諏訪湖畔に高島城を築くことにしました。

諏訪湖の中に突出している洲に築城したため、まるで湖面に浮いているように見えたそうで、別名浮城とよばれていました。
また、松江城・膳所城とともに日本三大湖城の一つとして数えられております。

現在、本丸跡が高島公園として整備され、1970(昭和45)年には天守・櫓・門・塀が復元されています。

復興天守閣



残念ながら鉄筋コンクリート建てで、内部は資料館となっています。

石垣は野面積み

展示されている復元模型

最上階からの眺め、本丸跡です。

門の付近

諏訪湖を望みます。
江戸時代初めに諏訪湖の干拓が行われ、かつての水城の面影は失われてしまいました。

本丸庭園

素人目にもわかる見事な松

亀石
水をかけると、亀が生きているように見え、願いがかなうそうです。

いかがでしょうか。

一角には諏訪護国神社がありました。

冠木櫓門


内側から見た様子

冠木橋

角櫓と長塀


三の丸御殿裏門


この門は移築されたもので、本来は御川渡御門とよばれる湖に面した門があり、ここから船に乗ることができたそうです。

現在では住宅地になっていました。

本丸搦手である土戸門跡

脇に道祖神があるのが信州らしいです。


鴨がたたずんでいました。

この地は軟弱地盤であったため工事は過酷を極めたそうです。
地盤を固めるために石のたぐいを土中に埋めました。
諏訪地方に古い墓石がないのは、この時に石垣に用いられたからだとさえ言われています。
郡下の老若男女を駆り出し、怠る者を石垣の中に生き埋めにしたり、逃亡者を出したりもしたそうです。

こうして1598(慶長3)年に完成した高島城ですが日根野高吉はわずか2年後にこの世を去り、さらにその翌年には日根野氏は下野国壬生藩に転封となってしまいます。

かわりに、元来この地を治めていた諏訪氏が入場します。
一度は武田信玄に滅ぼされたが、やがて再興した諏訪氏は三度この地を治めることとなり、明治まで続きました。

高島城天守閣
住所: 諏訪市高島1町目20-1
電話番号: 0266-53-1173

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アクア・トトぎふ バックヤードツアー

2011-10-19 | 生物学

アクア・トトぎふ こと 岐阜県世界淡水魚園水族館へ行ってきました。

岐阜県各務原市の河川環境楽園内にあり淡水魚専門の水族館としては世界最大級だそうです。

東海北陸道川島パーキングエリアに隣接しており、高速を降りずに行くことができます。
もちろん、一般道を使っても行けます。

今回はバックヤードツアーに参加しました。

 
水槽の裏側です。

各部屋の入口には消毒液が置いてあり、履き物を浸してから入室します。

水槽ごとに温度管理がされています。

濾過器1
小さな水槽は重力を利用して、水を微生物のいる砂を通し、濾過・浄化します。

濾過器2
大きな水槽は重力だけでは間に合わないので、圧力をかけて濾過します。

巨大水槽を上から見た図です。

正面から見るとこんな感じ


お姉さんが餌を調合しています。


主な餌はこんなものですが、経費節減のため配合飼料なども混ぜます。


餌保管用冷凍室、冷凍させることによって雑菌を死滅させる効果もあるそうです。


水族館はバックヤードにもたくさんの水槽があります。
そこでは病気の治療や絶滅危惧種の飼育・繁殖などを行っています。


尾びれしか写っていませんが、アジアアロワナです。
この魚はワシントン条約で取引が禁止されています。
しかし、密輸されてしまったので、こうして飼育されています。
輸入業者は逮捕されましたが、魚には罪がありませんから。
貴重なので秘仏扱いで、滅多に展示されないそうです。

水質検査室

臨床検査室

この部屋に置かれた容器の中には生き餌につかう昆虫が飼育されています。

衣装ケースの中身は


コオロギ

このビンの中ではショウジョウバエが飼育されています。
ただし、飛ぶ力のなくなった突然変異体です。

展示室の様子も少し紹介

アシカのショーもやっていました。


アクアトトぎふ 岐阜県世界淡水魚園水族館
住所: 岐阜県各務原市川島笠田町1453
電話番号: 0586-89-8200
開館時間: 平日 9:30~17:00(最終入館は16:00)
        休日 9:30~18:00(最終入館は17:00)
休館日: 平成23年 4月11日(月)、6月13日(月)、12月12日(月)
       平成24年 1月10日(火)、2月13日(月)、3月12日(月)
            (河川環境楽園全体がお休みになる)
入館料: 1,400円(大人),1,100円(中高生),750円(小学生),370円(3歳以上の子供)

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高田城(越後国)

2011-10-16 | お城巡り(続日本100名城)

上杉氏の後に春日山城主となった堀氏は、しばらくして平城である福島城を築きました。
しかし、1610(慶長15)年堀忠俊の改易後にこの地を治めることとなった松平忠輝は、この福島城を廃城とし、新たに高田城を築いたのでした。

松平忠輝は徳川家康の六男であったため、築城は天下普請によって行われました。
つまり、幕府の名を受け、臣下たる大名が工事を請け負い工事費を負担することによってその財力を低下させ、片や徳川家の腹は痛まないという算法です。

こうして作られた高田城はかなり大きな城だったと考えられます。

高田城の特徴の一つとして天守閣がないことが挙げられます。
そのかわりに三重櫓がシンボル的存在となっています。

残念ながら1870(明治3)年焼失してしまったので、現在の櫓は1993(平成5)年に建設された鉄筋コンクリートの建築物です。
 
土塀も一部復元されていました。

三重櫓から見た本城堀(内堀)

本丸跡は中学校になっていました。

建物の向こうに見えるのは春日山城跡です。


天下普請は上杉氏にも命じられ、直江兼続は陣頭指揮を執ることになりました。
はたして、どんな思いでこの景色を見たことでしょうか。

本丸西にある極楽橋


本丸跡
明治以降陸軍の入城時に3000本を超す桜が植栽され、日本三大夜桜のひとつに数えられているそうです。


高田城の二つ目の特徴として石垣がなく、すべての曲輪は土塁によって防御されていることが挙げられます。
この理由については、
 1.近郊に石垣石として耐え得る石材が産出されなかった。
  2.低湿地の軟弱な地盤が石垣の重量を支えられないと判断された。
  3.大砲や銃器の発達など攻城法の変化により土塁の方が防御上有利であると判断された。
  4.5ヶ月の突貫工事のため石垣工事を省略した。
などと言われています。

本丸跡に松平光長時代の高田城絵図が描かれていました。

こちらは現在の高田城公園現地案内図


城内は公共施設に利用されていますが、堀の大部分はまだ残されているのがわかります。

西堀

本城堀(東側)

北堀は一面の蓮の葉でおおわれていました。


これは、明治時代、失職した旧士族のための殖産策として蓮根栽培が行われたためです。
蓮研究の第一人者である大賀一郎東大教授が昭和28年に調査に訪れた際には、繁殖域の大きさ、育成の状況を「東洋一の蓮」と評価したそうです。

越後高田藩は親藩である越前福井藩と共に、加賀前田藩を挟むような形で押さえ込む配置であったため、幕府にとって重要な位置づけとされていました。

しかし、泰平の世が続き、前田家と将軍家も縁戚を重ねるなどしたため、次第にその役割は小さなものとなっていきました。

さらに、元来気候の厳しい北国であること、松平忠輝の改易、その後の越後騒動など相次ぐ事件の舞台であったことなどによって、高田藩は負のイメージを背負うこととなりました。
それゆえ、江戸中期以降はしばしば親藩、譜代大名で不始末を犯した大名の懲罰的な転封先、いわば「座敷牢」のような位置づけとなってしまいました。

高田城三重櫓
住所: 新潟県上越市本城町6-1
電話番号: 025-526-5915
開館時間: 9:00~17:00
休館日: 月曜(休日の場合は翌日),休日の翌日,12/29~1/3


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春日山城(後編)

2011-10-13 | お城巡り(日本100名城)

春日山城見学の後、近くの関連ある施設を見学してまわりました。

【春日山城史跡広場】
春日山城はそれ自体が堅固な山城ですが、さらにいくつかの砦を周囲に衛星状に配置し
さらなる防御を固めていました。
このうち、南東方向に突出する尾根先端部に構築された通称「東城砦(別名、春日砦)」は春日山城史跡広場として保存されています。


周囲は土塁に囲まれています。


外側は監物堀(けんもつぼり)とよばれる堀に囲まれています。
もっとも、監物堀は上杉氏のあとにこの地を治めた堀氏の時代に作られたものです。


春日山城のミニチュア模型がありました。


「春日山城跡ものがたり館」では謙信の一生を紹介するDVDが上映され、学習することができます。
なお、日本百名城スタンプはここの受付で押すことができます。

住所:新潟県上越市大豆334
電話番号:025-544-3728
営業時間:9:00~16:30
休館日:月曜,祝日の翌日
入場料:無料


【上越市埋蔵文化センター】


大手道入口より徒歩で数分のところにあります。
遺跡や土器だけでなく、春日山城や謙信に関するわかりやすい展示がされています。
GACKT,阿部寛演じた謙信姿やロケの様子の説明もあり、公的機関とは思えないくらい親しみやすく工夫されています。

ここでも謙信がお出迎え

住所:新潟県上越市春日山町1丁目2-8
電話番号:025-521-6280
開館時間:9:00~17:00
休館日:火曜、年末年始
入場料:無料

 

【林泉寺】
嫡男でなかった謙信は、幼い頃この林泉寺に入れられ、修行の毎日をおくっていました。
しかしながら、時代は彼を仏門にとどめておくことを許しませんでした。


惣門
春日山城の搦手門を移築されたものと伝わっています。


山門


本堂


本堂横には宝物殿があります。
この寺は拝観料を払わなければ行けないのですが、宝物殿の入場料と思えば納得できます。

そして、


謙信の墓
合掌

住所:新潟県上越市中門前1-1-1
電話番号:025-524-5846
受付時間: 9:00~17:00(夏季)  ~16:00(冬季)
拝観料:大人500円,小学生以上の子ども250円

 

これら3つの施設は、いずれも春日山城から数kmの範囲にあり、徒歩で見て回ることも可能です。
また、それぞれ無料駐車場も設けられているので、春日山城訪問の際にはぜひとも寄られることをお勧めします。

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春日山城(前編)

2011-10-09 | お城巡り(日本100名城)

言わずと知れた上杉謙信公の居城です。
南北朝時代からあった小さな城を謙信が大規模に整備しました。


大小いくつかの曲輪を設け、山全体を巨大な要塞としています(現地案内板)。

遺構は2キロ四方になりますが、是非とも一周していただきたいです。
駐車場は何カ所かありますが、どこから出発してもおなじところへもどるのでどこにとめても良いかと思います。


各駐車場脇にはウォーキングマップが設置されています。
広い城なのでこれは大変ありがたいです。


番所跡
今でいう守衛さんが居たところです。小山は木戸の土塁の跡です。


狭い大手道


南三の丸
奥に土塁が見えます。


柿崎和泉守屋敷跡



御成街道
謙信と親交があった関白近衛前嗣が通ったためこの名がついています。
しかし、見ての通りの細道です。信長や秀吉ならこれ見よがしの立派な道を作ったでしょう。


二の丸


米蔵跡
奥に土塁が見えます。


三の丸


三の丸奥にある上杉景虎屋敷跡
景虎は北条氏康の息子で人質として春日山城へやってきましたが、やがて謙信の養子となります。




縦堀
草が茂ってわかりにくいですが、谷を利用した深い堀です。


空堀
こちらを尾根を分断するように人工的に掘られた堀です。


虎口
各曲輪への道はわざとくねらせています。
写真では左から土塁が突き出ています。



本丸


本丸からの眺めです。


油流し
本丸西側の急斜面は油を流したように侵入を防ぐため、この名で呼ばれていました。


天守台


大井戸
本丸西側にあり現在も水を蓄えています。
いかにに堅牢な城でも、水が出なければ戦えません。


上杉景勝屋敷跡

謙信は世継ぎを指名していなかったため、死後、景虎と上杉景勝との間で跡目争い(御館の乱)がおこりました。


護摩堂
占いや祈祷のために護摩を焚いたところです。
この建物は模擬復元された休憩所です。


毘沙門堂
謙信は毘沙門天を信仰し、その旗印の「毘」としました。
安置されている毘沙門天は米沢にも移されましたが、火災で傷ついてしました。
後に、高村光雲によって修復され、現在に至るそうです。


お花畑
各堂に献ずる花や薬草が栽培された場所。
このような遺構が残っていることも謙信の城らしいとおもいます。


直江屋敷跡


春日山神社


祭神はもちろん上杉謙信です。

訪問される際には、ハイキングに適して靴・服装にしましょう。
また、駐車場以外には自販機がありませんので、飲み物の用意をお忘れ無く。

(後編に続きます)

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高崎城

2011-10-02 | お城巡り(その他)

箕輪城の現地説明に、「廃城後の資材は高崎城に使われた」とあるのをみて、高崎城を見てみたくなり、急遽向かいました。

元来この地には和田城という城があったのですが、1598(慶長3)年、徳川家康の命を受けた井伊直政がこの地に入り地名を高崎と改め、城も大幅に改修したのでした。
明治維新まで城主はたびたび変わってきましたがいずれも譜代大名であり、いかに幕府がこの地を重要視していたかわかります。
なお、三代将軍徳川家光が、弟の忠長を幽閉し、自害に至らしめました場所でもあります。

高崎市の中心部にあり、たやすく目につきます。

乾櫓



かつては、天守閣の代わりの御三階櫓とこれを取り囲む4基の隅櫓(乾櫓・艮櫓・巽櫓・坤櫓)がありましたが、現存するのは乾櫓のみです。


東門
唯一残されている門です。

北・東と南の一部には堀が残されています。

他に遺構は残っておりません。
城跡には多くの公共施設が建てられていました。


高崎市役所


NTT


群馬音楽センター


群馬シンフォニーホール

この日は合唱コンクールが開催されており、発表前の練習の歌声が流れておりました。
音楽があふれる街はすてきです。


城跡には公園も設けられていました。


何かイベントをしていました。


完全に現代の街にとけ込んでいる城跡です。


高崎城
群馬県高崎市高松町

 

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