橋本屋吉次郎電子日誌

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古渡城

2020-06-04 | お城巡り(その他)
ようやく、非常事態宣言も解除され、ツーリングもお城めぐりもできるようになりました。
ただ、5月中は都道府県をまたぐ移動は避けるとようにとのことですので、目的地は愛知県内としました。



真宗大谷派名古屋別院(東別院)
所在地: 愛知県名古屋市中区橘2丁目8-55
開門~閉門時間: 6:00~16:30(10月~4月),6:00~17:30(5月~9月)


名古屋の中心部にありながら、広大な参拝者用駐車場をいくつも持っています。
しかも無料!


山門入ってすぐ左手にある石碑
1533(天文2)年、織田信秀(織田信長の父)は、那古野城を奪って今川氏豊を追放します。
その翌年の1534(天文3)年、今川家や岡崎城主・松平清康からの反撃に備えて、築城したのが古渡城です。


吉法師(信長)に那古野城を譲ると、信秀は勝幡城から移って古渡城を本拠としています。
1548(天文17)年に、信秀が美濃へ出陣しますが、その隙きを突いて尾張下四郡の守護代・織田信友の家臣である坂井大膳らが不在を突いて古渡城を攻撃しました。
城下町は消失するも、古渡城は落ちなかったようです。
しかし、再起は行わず、織田信秀は末森城を築くと、新たな居城としたため、古渡城はわずか14年で廃城となったようです。

1690(元禄3)年、尾張藩2代藩主・徳川光友は真宗大谷派名古屋別院建設のために、古渡城跡を寄進し、現在に至ります。

5年前にここを訪問していますが、そのときは古渡城の石碑を見落とし、ここが城跡であることにも気づきませんでした。
まだまだですねぇ。


もっとも、古渡城の遺構はほとんど残っていませんでした。
あえていうなら、境内にころがっている四角い石は城に使われていたものでしょうか。


これは井戸の跡でしょうか。

1945(昭和20)年、名古屋大空襲の被害を受け、本堂をはじめ、ほとんどの施設が焼失したしまったので、戦後再建されたものが多いです。


鐘楼


納骨堂


お東幼稚園


本堂


参拝接待所
お経、法事、永代経、納骨などの受付を行っております。


太鼓楼
それっぽく見えますが、古渡城の遺構ではありません。
参詣者と時刻案内の太鼓が置かれていましたが、現在では使用されていません。


対面所


名古屋教務所
真宗大谷派宗務所の地方宗務事務所で寺院・門徒関係の教化事業・宗務を行っています。


中門


東別院ホール


東にある名古屋テレビは、東別院の土地を分けてもらって建っていますが、古渡城の遺構はわかりませんでした。


名古屋テレビの北にある下茶屋公園
所在地:愛知県名古屋市中区橘2-9




もともとは、東別院御殿の後庭だったそうです。


この池は古渡城の堀の跡だという説がありますが、はたして・・・


この角度で見ると、堀っぽくも見えます。

公園内に転がっている石もどう見ても天然石ではなく、古渡城で使われたものかも





櫓台でしょうか。

所要時間:約40分

コメント (2)
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