光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

来年の手帳の手入れ

2008-11-30 18:33:41 | 散策
  いつもなら、今の時間もう2009年の雑誌などが手元にあって、それを見るようなこともないようなあるようなで、今年はない。なぜこのようなことになるかというと、本屋さに一ヶ月に一回の割で行っているが、行けないときもあるが、ただ、一ヶ月が、28日であるので、いつも同じ日ということにならず、この方がいいような気がするが、先回の本屋さん行きでは、2009年の手帳こそ購入したものの、それ以外は、買ったものは星関係の雑誌だけで、これは2008年のもの。だから、もう2009年なのかと目をむくこともなく、なんだかもう残り少ない今年も、このままだらだら終わりそうで、そうだといいが、うまくゆくかどうか、これはわからない。

  それで、もう2009年も近いので、2008年の手帳を見つつ、今回は大きさ同じだが、細かい月単位のところが一まとめになっているものを購入して、これが一番使いやすい。わかっていながら、去年はあまりの手帳の多さにこれでいいか、と思ったら、そのタイプと違った。だから、今回は、一応は月単位の一覧を、これまた一覧できる手帳を見て、もう「さ来年」のこともわかってしまうようで、これもちょっとおっかないような気がする。

  手帳に線を引く。これはシャーペンを用いる。シャーペンなんて言葉使うことは何十年もなかったが、これで、なかの芯は2Bであるが、これが4Bでもいいと思う、最初の一月、二月のページに線を引いた。なんだか、もう来年の準備も少しだけ出来たような気もする。この手帳がないと、「あいうえお」がわからない。
  まずは、ここに、朝の気温を書いて、それから、薬の確認欄やら、その他あまりに恥ずかしいから具体的には書けないが、4、5本を線を引くのは間違いない。これを見つつ、あるいはそこにチマチマ文字を書きつつ、たまにそれを見返すときが来る。
  それは、5年日記というものも、購入したからで、これはもう少しで、丸2年になる。たしか、2006年の11月かに購入したが、その目的はどうであれ、これを続けるのはかなり面倒である。それだけならまだいいが、多少の厚さと大きさがあると、同じような機能を持ちながら、大きさが引っかかる。一々、これを持ち歩けない。悲しいかな、こうゆうものにも、明確な違いがあって、よってこれを途中で止めるわけにもゆかない。5年日記である以上、5年書かないと申し訳ないような気もしてくる。で、
  いつもそれを埋められるか、不可能ではないが、やれない。それなら後から記入するしかなく、嘘も書けないのでこのとき、手帳が役立つ。まだ2年に達してなく、5年日記のいいところというのも少ししかわからない。
  もう少しというか、かなり昔から、「何年日記」というのはあった。10年というのが、遠い昔にあった。でも、それを購入する気はなかった。

  パラパラっとページをめくる。これは、来年の手帳である。それで、10月か11月の辺りに、手帳を購入すること、という言葉を書いた。これくらい書かないと、いくら手帳のことをここに書いていても、イザとなるとすっかり買うことを忘れる。そうすると、書いていることも、かなり適当ということが推測されるが、その通りで、自分でもあとから見直して、おかしいと思うことはある。  
  これ以外にコピ用紙にも、日々の出来事を適当に書いている。これは、もう昔のものはどこにあるのか、探すのも面倒で、ただ字を忘れないように書いているようなものだが、これを見直すことで、手帳の信憑性を高めることも出来ると思うが、記憶というのはぴたっと一致するときは少ない。

  きょうの日曜に、先に5年日記の空きを記憶で埋めて、それから、手帳の日々の出来事で抜けているものを加えた。まーなんでもいいようだが、記憶の怪しさは、あるものはこうゆう作業でその精度を上げることも出来るような気がする。手帳はなかなかすぐれもので、少し昔を懐かしむのにもいいようである。

  手帳の手入れをして、それで、まだまだ今年が残っていることが実感された。時間がたつのは早いが、これはどうしようもない出来事のようである。


  きのう近くのお寺の中を歩いて、そこのイチョウの様子などを見てきた。どこか、有名な寺院に行っていると、そうゆ風に少し無理やりにもってゆく。




  まずは入り口で、黄色くなったケヤキと、そらから赤いカエデの様子。この葉っぱの、落ち葉である、多いこと。




  鐘撞き台の横に、大きなイチョウの木がある。多分、ことしも大晦日の日に、ここの鐘の音が鳴り響くと思う。




  きれいに掃除された後に、またイチョウの葉は散る。




  この木がイチョウかというと、これが違うのである。でも、この木の根元の様子は、苔も生えていてなかなかいい感じがする。有名寺院のそれに負けず劣らずという気にもなる。ありがたい存在。

再び、大しぐれ

2008-11-30 16:20:46 | 散策
  寒い一日、雨が小雨になって、今は止んでいる。
  3時のアメダスの気温は、5.8℃。6℃前後で推移していて、
  小雨の外を早歩きしたが、からだが暖まることも、汗をかくことも
  なかった。
 
  暗くて、雨で、低温。まったくもう少し何とか
  ならないものか。 
  気温が低いと、外とうちの中の気温の差も大きいから、
  しばらくすると結構頭も痛くなる。
  それでも、やはり散歩をする方は、おられて、
  ワンちゃんと一緒であった。イヌの方に傘はなかった。
  そういえば、雪が降って駆け回るのが、イヌだった。
  何度も同じことを書いているようだ。





  怪しい天気がやってくるのを告げているかのような、
  まだそんなに暗くもない、夕方。夕方でもないか。




  西の空も近くはまだ青空。でもその向こうには、分厚い暗い
  灰色の雲のカーテンがそこまで来ている。




  しぐれを決定付けるような、空になってきた。




  この時間はしかし、肩透かしをくらった。この後に、本物の
  しぐれ空になったようである。

豪快な降りっぷり

2008-11-30 06:51:01 | 散策
  朝のお天気、雨。それにしてもよく降る雨、雨は夜中にひどくこれで目が覚めた。雷もなった。その後は静かになったようだが、またもう朝に近い時間、雨が降りだした。これでは、ホントに梅雨。アメダスの6時の気温6.1℃、気圧は1018.8hPa、積雪は0cm。室温10℃。恒常的で、しかし暖かくはない。

  雨ばかりで、面白くない。簡単に書くとそうなるが、雨のあとの、それから太陽が出てくれば、すべてのもの、そう書きたくなるが、押しなべてキラキラ光るから、美しい。うまいこと出来ているが、上から大粒の雨、あるいは水の塊と言うべきかが落ちてきて、びしょ濡れにもなるから、前だけでなく、後も真上も見ていないといけない。これが雪でも同じで、もう東北より北の日本海側では、かなりの雪が、平地でも降ったのだろう。北陸も縦に長いところであって、福井から新潟までの距離の長いこと。
  こんなところを昔の人はテクテクと歩いたというから、道半ばで倒れて、という方も多かったのだろう。その辺に、お地蔵さんが多いのもそのためか、と思うが、このお地蔵さんは比較的新らしく、ちゃんと雨避け、雪避けの囲いの中に入っている。石も雨に打たれ、雪の重みに変形して、皆丸くなり流れてゆく。それにしては、特に幽霊が出る気配はない。皆どこかへ行ってしまったのか。

  雨の降る前の、きのうのお昼過ぎ、早足で雪の積もる山の様子を見にいった。ここからでも見えるが、少し歩けばもう少し迫力あるその姿を見ることが出来る。県境の山、白馬岳はこれは変わらず真っ白。手前の山である、毛勝三山になると、雪も少しまだら。剱岳は雲に薄くかくれてしかし雪の量は少し減っている。同じように、立山辺りも麓の雪の量は以前より少なく思える。薬師岳は完全に雲にかくれていたが、その手前に見えている、スキー場の白いおびも、縞模様のようで、麓の雪は溶けているようだ。
   まだ本物の冬型にはなっていない。しかし、天気はどう変わるかわからない。すでに白鳥も飛来しているし、冬がそこまで来ているのはたしかである。

  セイタカアワダチソウの背の低いものが、花を白くして、もうこの花もおしまいである。早咲きのサザンカは、もう何度も花を咲かせているようだが、ツバキかもとも思わせる、でもやはりサザンカの花が、これが常緑の緑の葉とともに、穏やかな色彩をはなっている。