いつもなら、今の時間もう2009年の雑誌などが手元にあって、それを見るようなこともないようなあるようなで、今年はない。なぜこのようなことになるかというと、本屋さに一ヶ月に一回の割で行っているが、行けないときもあるが、ただ、一ヶ月が、28日であるので、いつも同じ日ということにならず、この方がいいような気がするが、先回の本屋さん行きでは、2009年の手帳こそ購入したものの、それ以外は、買ったものは星関係の雑誌だけで、これは2008年のもの。だから、もう2009年なのかと目をむくこともなく、なんだかもう残り少ない今年も、このままだらだら終わりそうで、そうだといいが、うまくゆくかどうか、これはわからない。
それで、もう2009年も近いので、2008年の手帳を見つつ、今回は大きさ同じだが、細かい月単位のところが一まとめになっているものを購入して、これが一番使いやすい。わかっていながら、去年はあまりの手帳の多さにこれでいいか、と思ったら、そのタイプと違った。だから、今回は、一応は月単位の一覧を、これまた一覧できる手帳を見て、もう「さ来年」のこともわかってしまうようで、これもちょっとおっかないような気がする。
手帳に線を引く。これはシャーペンを用いる。シャーペンなんて言葉使うことは何十年もなかったが、これで、なかの芯は2Bであるが、これが4Bでもいいと思う、最初の一月、二月のページに線を引いた。なんだか、もう来年の準備も少しだけ出来たような気もする。この手帳がないと、「あいうえお」がわからない。
まずは、ここに、朝の気温を書いて、それから、薬の確認欄やら、その他あまりに恥ずかしいから具体的には書けないが、4、5本を線を引くのは間違いない。これを見つつ、あるいはそこにチマチマ文字を書きつつ、たまにそれを見返すときが来る。
それは、5年日記というものも、購入したからで、これはもう少しで、丸2年になる。たしか、2006年の11月かに購入したが、その目的はどうであれ、これを続けるのはかなり面倒である。それだけならまだいいが、多少の厚さと大きさがあると、同じような機能を持ちながら、大きさが引っかかる。一々、これを持ち歩けない。悲しいかな、こうゆうものにも、明確な違いがあって、よってこれを途中で止めるわけにもゆかない。5年日記である以上、5年書かないと申し訳ないような気もしてくる。で、
いつもそれを埋められるか、不可能ではないが、やれない。それなら後から記入するしかなく、嘘も書けないのでこのとき、手帳が役立つ。まだ2年に達してなく、5年日記のいいところというのも少ししかわからない。
もう少しというか、かなり昔から、「何年日記」というのはあった。10年というのが、遠い昔にあった。でも、それを購入する気はなかった。
パラパラっとページをめくる。これは、来年の手帳である。それで、10月か11月の辺りに、手帳を購入すること、という言葉を書いた。これくらい書かないと、いくら手帳のことをここに書いていても、イザとなるとすっかり買うことを忘れる。そうすると、書いていることも、かなり適当ということが推測されるが、その通りで、自分でもあとから見直して、おかしいと思うことはある。
これ以外にコピ用紙にも、日々の出来事を適当に書いている。これは、もう昔のものはどこにあるのか、探すのも面倒で、ただ字を忘れないように書いているようなものだが、これを見直すことで、手帳の信憑性を高めることも出来ると思うが、記憶というのはぴたっと一致するときは少ない。
きょうの日曜に、先に5年日記の空きを記憶で埋めて、それから、手帳の日々の出来事で抜けているものを加えた。まーなんでもいいようだが、記憶の怪しさは、あるものはこうゆう作業でその精度を上げることも出来るような気がする。手帳はなかなかすぐれもので、少し昔を懐かしむのにもいいようである。
手帳の手入れをして、それで、まだまだ今年が残っていることが実感された。時間がたつのは早いが、これはどうしようもない出来事のようである。
きのう近くのお寺の中を歩いて、そこのイチョウの様子などを見てきた。どこか、有名な寺院に行っていると、そうゆ風に少し無理やりにもってゆく。
まずは入り口で、黄色くなったケヤキと、そらから赤いカエデの様子。この葉っぱの、落ち葉である、多いこと。
鐘撞き台の横に、大きなイチョウの木がある。多分、ことしも大晦日の日に、ここの鐘の音が鳴り響くと思う。
きれいに掃除された後に、またイチョウの葉は散る。
この木がイチョウかというと、これが違うのである。でも、この木の根元の様子は、苔も生えていてなかなかいい感じがする。有名寺院のそれに負けず劣らずという気にもなる。ありがたい存在。
それで、もう2009年も近いので、2008年の手帳を見つつ、今回は大きさ同じだが、細かい月単位のところが一まとめになっているものを購入して、これが一番使いやすい。わかっていながら、去年はあまりの手帳の多さにこれでいいか、と思ったら、そのタイプと違った。だから、今回は、一応は月単位の一覧を、これまた一覧できる手帳を見て、もう「さ来年」のこともわかってしまうようで、これもちょっとおっかないような気がする。
手帳に線を引く。これはシャーペンを用いる。シャーペンなんて言葉使うことは何十年もなかったが、これで、なかの芯は2Bであるが、これが4Bでもいいと思う、最初の一月、二月のページに線を引いた。なんだか、もう来年の準備も少しだけ出来たような気もする。この手帳がないと、「あいうえお」がわからない。
まずは、ここに、朝の気温を書いて、それから、薬の確認欄やら、その他あまりに恥ずかしいから具体的には書けないが、4、5本を線を引くのは間違いない。これを見つつ、あるいはそこにチマチマ文字を書きつつ、たまにそれを見返すときが来る。
それは、5年日記というものも、購入したからで、これはもう少しで、丸2年になる。たしか、2006年の11月かに購入したが、その目的はどうであれ、これを続けるのはかなり面倒である。それだけならまだいいが、多少の厚さと大きさがあると、同じような機能を持ちながら、大きさが引っかかる。一々、これを持ち歩けない。悲しいかな、こうゆうものにも、明確な違いがあって、よってこれを途中で止めるわけにもゆかない。5年日記である以上、5年書かないと申し訳ないような気もしてくる。で、
いつもそれを埋められるか、不可能ではないが、やれない。それなら後から記入するしかなく、嘘も書けないのでこのとき、手帳が役立つ。まだ2年に達してなく、5年日記のいいところというのも少ししかわからない。
もう少しというか、かなり昔から、「何年日記」というのはあった。10年というのが、遠い昔にあった。でも、それを購入する気はなかった。
パラパラっとページをめくる。これは、来年の手帳である。それで、10月か11月の辺りに、手帳を購入すること、という言葉を書いた。これくらい書かないと、いくら手帳のことをここに書いていても、イザとなるとすっかり買うことを忘れる。そうすると、書いていることも、かなり適当ということが推測されるが、その通りで、自分でもあとから見直して、おかしいと思うことはある。
これ以外にコピ用紙にも、日々の出来事を適当に書いている。これは、もう昔のものはどこにあるのか、探すのも面倒で、ただ字を忘れないように書いているようなものだが、これを見直すことで、手帳の信憑性を高めることも出来ると思うが、記憶というのはぴたっと一致するときは少ない。
きょうの日曜に、先に5年日記の空きを記憶で埋めて、それから、手帳の日々の出来事で抜けているものを加えた。まーなんでもいいようだが、記憶の怪しさは、あるものはこうゆう作業でその精度を上げることも出来るような気がする。手帳はなかなかすぐれもので、少し昔を懐かしむのにもいいようである。
手帳の手入れをして、それで、まだまだ今年が残っていることが実感された。時間がたつのは早いが、これはどうしようもない出来事のようである。
きのう近くのお寺の中を歩いて、そこのイチョウの様子などを見てきた。どこか、有名な寺院に行っていると、そうゆ風に少し無理やりにもってゆく。
まずは入り口で、黄色くなったケヤキと、そらから赤いカエデの様子。この葉っぱの、落ち葉である、多いこと。
鐘撞き台の横に、大きなイチョウの木がある。多分、ことしも大晦日の日に、ここの鐘の音が鳴り響くと思う。
きれいに掃除された後に、またイチョウの葉は散る。
この木がイチョウかというと、これが違うのである。でも、この木の根元の様子は、苔も生えていてなかなかいい感じがする。有名寺院のそれに負けず劣らずという気にもなる。ありがたい存在。