真っ暗な世界があって、光のない外は、思いの他暗い。外灯の蛍光燈がついているはずだが、その灯りを消し去るような、暗い夜がある。もっとも、うちの中、部屋の中はそこそこ明るく、また明るくないと雪の降る北国ではよろしくないことが起きるようでもあって、なるべく、明るいところがあったほうがよく、そのうちに段々と暗くするのが理想だが、そうゆうわけにはゆかず、ただぽつんと点いている、60Wの蛍光灯型電球の威力の見せ所は夜中から朝方になる。そのころは、明るく感じられる。
いつも、枕もとに、大型の電球型蛍光灯をつけるが、そのかぼそい光にうんざりもする。しかしこれは、明るさの中にいるからで、しかしもう真夜中だと、その灯りが、やけにまぶしく思えるから、いかにそれに適応するかが問題になる。
手帳がある。ときに、書くことも増えて、あとからまた確認するような感じで、記憶を頼りに書き加える。それから、5年日記というのも、面倒だが、まだ丸2年たってないから止めるわけにはゆかず、ときどきひどいと2週間ほど空いてしまうが、土、日のどちらかの日に、空きを埋める。これに一番役立つのが手帳で、これを頼りに記入してゆく。何かがよみがえることは少なく、特に、気象のデータなどは丸写しでさらに間違える。その他、薬の管理とか、2、3の気になるものを写す。他に、誰々が来られた、今日はお腹の調子が悪かったなども記入する。
手帳をつけるようになって、かなり時間がたつが、昔だとその辺りにあるものを使っていた、だから、2000年のときに、その辺にあった、1993年の手帳を使ったりもした。好き勝手なことも出来たが最近はまじめに購入する。
その来年の手帳というのは、もう10月の半ばくらいから売り始めていて、そのことに気が付いていながら、いざ買うときに忘れた。この手帳には、来年の販売の時期のことが書いてなかった。もしその、来年の手帳は10月20日販売開始です、と印刷してあればなー。それでも忘れたかも知れない。
ノートというものも、面白いもので昔は使い方がわからなかった。ある時期はこれを日記代わりに使用して、その後は、日記というか日々の出来事は、綴じてないノートの用紙に変わり、その後はコピ紙になった。
最近はノートを使うこともある。最初のページには何も書かず、その次の見開きから、右のページだけあることを記録した。これが一番ものごとを記録しやすいし、あとから見るのも楽である。そのことも途中で途切れることがある。
それは予想はしてなかった。しかし、こんど新しい何かを書く場合は、まずはノートの裏表紙を正面に向け、さらに180度回転させて、一ページ目を開く。そうしてやはり、右ページだけに文字を書いてゆく。普通なら、頭のほうが少し見通しがいいが、こうゆう形だと、罫線はギリギリまで上にあって、使いにくい感じもするが、これも慣れである。そのうち、最初に使っていたページが、文字は反対になって左ページに現われるはずだが、まだそこまではいっていない。ノートの使い方というのも、様々なようだ。
つい最近、ときにコンビニエンス・ストアにも寄る。すると、必要なものは売り切れていて、それ以外に文房具に目がゆく。ペン関係はまだ間に合っている。今は、20Wのミニのクリプトン球が欲しいが、口金の大きさは17mmだ、これが売っていない。だから、他に水溶性の印鑑用のインクも欲しいが、これはもともと売られていないか。それだから、ついつい、ノートブックというものに目がいって、要るか要らないかわからないが、買ってしまった。それも、定価の表示してある文字が小さく、よくわからなかった。それで予想外に高い買い物をしたが、それでも手帳よりは大きめで、ページこそ少なく、またその値段もほぼ半分だから、文句も言えないものかなど納得してしまった。こんどはちゃんと定価を見る。
5年日記というものを毎年買うかどうか、これに悩むことは今はない。
先ほど、先に画像を送っておいて、その後に画像を確認するため、これを呼び出したら、やはりこの書き込みのページが固まってしまって、最後にはウインドウズの画面が出てしまった。よって、先に文字だけ送信した。
本日もあまり変わらない、秋のスケッチ。
これは、明るいから雨に打たれる瓦ではなく、露の降りている、あるいは瓦の中から湧き出るような水分である。
こちらの方が、時間的には後であって、それにしては、露の量も増えているように思える。瓦にしみ込んでいる水分が出て来ている感じもする。
かなり赤く、もう散りゆくのみというカエデ。古木のカエデの時間は何時くらいだろうか。
イチョウの紅葉も、青空があってさらに映える。左に見える黒い葉っぱもイチョウのもので、こちらはまだ緑だった。
いつも、枕もとに、大型の電球型蛍光灯をつけるが、そのかぼそい光にうんざりもする。しかしこれは、明るさの中にいるからで、しかしもう真夜中だと、その灯りが、やけにまぶしく思えるから、いかにそれに適応するかが問題になる。
手帳がある。ときに、書くことも増えて、あとからまた確認するような感じで、記憶を頼りに書き加える。それから、5年日記というのも、面倒だが、まだ丸2年たってないから止めるわけにはゆかず、ときどきひどいと2週間ほど空いてしまうが、土、日のどちらかの日に、空きを埋める。これに一番役立つのが手帳で、これを頼りに記入してゆく。何かがよみがえることは少なく、特に、気象のデータなどは丸写しでさらに間違える。その他、薬の管理とか、2、3の気になるものを写す。他に、誰々が来られた、今日はお腹の調子が悪かったなども記入する。
手帳をつけるようになって、かなり時間がたつが、昔だとその辺りにあるものを使っていた、だから、2000年のときに、その辺にあった、1993年の手帳を使ったりもした。好き勝手なことも出来たが最近はまじめに購入する。
その来年の手帳というのは、もう10月の半ばくらいから売り始めていて、そのことに気が付いていながら、いざ買うときに忘れた。この手帳には、来年の販売の時期のことが書いてなかった。もしその、来年の手帳は10月20日販売開始です、と印刷してあればなー。それでも忘れたかも知れない。
ノートというものも、面白いもので昔は使い方がわからなかった。ある時期はこれを日記代わりに使用して、その後は、日記というか日々の出来事は、綴じてないノートの用紙に変わり、その後はコピ紙になった。
最近はノートを使うこともある。最初のページには何も書かず、その次の見開きから、右のページだけあることを記録した。これが一番ものごとを記録しやすいし、あとから見るのも楽である。そのことも途中で途切れることがある。
それは予想はしてなかった。しかし、こんど新しい何かを書く場合は、まずはノートの裏表紙を正面に向け、さらに180度回転させて、一ページ目を開く。そうしてやはり、右ページだけに文字を書いてゆく。普通なら、頭のほうが少し見通しがいいが、こうゆう形だと、罫線はギリギリまで上にあって、使いにくい感じもするが、これも慣れである。そのうち、最初に使っていたページが、文字は反対になって左ページに現われるはずだが、まだそこまではいっていない。ノートの使い方というのも、様々なようだ。
つい最近、ときにコンビニエンス・ストアにも寄る。すると、必要なものは売り切れていて、それ以外に文房具に目がゆく。ペン関係はまだ間に合っている。今は、20Wのミニのクリプトン球が欲しいが、口金の大きさは17mmだ、これが売っていない。だから、他に水溶性の印鑑用のインクも欲しいが、これはもともと売られていないか。それだから、ついつい、ノートブックというものに目がいって、要るか要らないかわからないが、買ってしまった。それも、定価の表示してある文字が小さく、よくわからなかった。それで予想外に高い買い物をしたが、それでも手帳よりは大きめで、ページこそ少なく、またその値段もほぼ半分だから、文句も言えないものかなど納得してしまった。こんどはちゃんと定価を見る。
5年日記というものを毎年買うかどうか、これに悩むことは今はない。
先ほど、先に画像を送っておいて、その後に画像を確認するため、これを呼び出したら、やはりこの書き込みのページが固まってしまって、最後にはウインドウズの画面が出てしまった。よって、先に文字だけ送信した。
本日もあまり変わらない、秋のスケッチ。
これは、明るいから雨に打たれる瓦ではなく、露の降りている、あるいは瓦の中から湧き出るような水分である。
こちらの方が、時間的には後であって、それにしては、露の量も増えているように思える。瓦にしみ込んでいる水分が出て来ている感じもする。
かなり赤く、もう散りゆくのみというカエデ。古木のカエデの時間は何時くらいだろうか。
イチョウの紅葉も、青空があってさらに映える。左に見える黒い葉っぱもイチョウのもので、こちらはまだ緑だった。