赤い色は結構目立つもので、それで雨はもう降らず、あとは曇りが続く気配があって、それにしてもあっさりと、溜まっていたはずの箪笥画像もなくなってあたふたする。
効率のいいときもあって、これだとうまく行けば1週間はもつが、どうも見えているものに似たものが多く、好みも似たようなもので、飽きられてしまう。弱ったものだが、自分でも残っている、投稿専用の画像を見ると、飽き飽きする。大体似たようなものが幾つかというかかなり並んでいて、よくこれだけ似たようなものがそろったと思う。だんだんこの作業も新鮮味がなくなる。保守的というか、無難なところでおしまいとなってしまう。
カエデの赤い色がなかなかいい。カエデがいいので、それ以外にもいいものはあるが、見やすいところにカエデはあって、それは桜が庭園とか公園に咲いているのと同じだろう。昔の人は、秋の入り口にこの植物の葉の色の変化を見て、それを持ってきたり、見に行ったりもしたのだろう。いつのまにか、どこのご家庭にもカエデがあって、それはここにもある。どのくらい前からあるか、それはわからないが、木の裏側に大きな穴も空いているからかなりの時間がたっていると思う。
午後になって、大きな晴天域に入ったようで、少し寒いし、体もガタガタな感じがあるが、時計も持ってそれを見つつ、一番短い距離を歩き、視界のきくところに出た。そこは自動車が走る道路でもあるが、その脇に小道がある。
それ以外は大体が田んぼで、もっと昔だと田んぼか、あるいは草が生えたところしかなかった。ここに自動車の通れる道はなかった。もっとも、その当時のことを覚えているが、知っているところはあるところまでで、それよりも先は地の果てのような感じがしたから、いかに小さいスケールで生きていたかがわかる。それでも、ちゃんと、電車に乗って列島を横断したり斜めに走ったりして、それなりに移動することはあった。それを今考えると、多少はこの辺りの地理に詳しくなったとはいえ、より小さな世界で生きている感じがして、しかしそれ以上の遠いところへ行ってみようという気にならないのも不思議といえば不思議。
カエデはここにもあれば、あそこにもあるという木でもあるが、この木があまりないところ、そうゆう住宅地もある。何故かはわからないが、そこがいつに住宅地になったかという時代的なものもあるようだ。カエデが嫌われているわけではなく、他にも庭に植えるものが出てきたのだろう。たしかに、昔のうちに、ピラカンサなどは無いようだし、それ以外にもこうゆうものは多いと思う。
昔ながらというと変な気もするが、そうゆうところは地味目であって、そこに生えている木が庭木であり、時代が今に近い時代に住宅地になったところは、大体が、大きな木はないし、それよりも今風の色やら形の様々な園芸植物が周りを、またそれはうちの中まで飾られているような気がする。季節が変わると、そっと見たこともないような見事なボタンが登場するのがその例だし、また菊などもその季節になって、いっときだけ視線を集めるようで、しかしあまりに清楚で気付かれないかも知れない。
雪山を見ていて、そのすごみのある容貌に圧倒されるが、そこには恐らく中腹くらいまで、そこまではいかないか、モミジのような広葉落葉樹の木々は生えているのだろう。紅葉の便りもわずかな時間だけ聞いてあるいは見ていたような気がするが、今はあっさりと雪に、冷たくて凍り付く世界にそれらは閉ざされたかのごとくに見えた。
いくらか、同じカエデを撮っていて、それを見ていると美しいの言葉しかないが、同じようなものしか出て来ないのも、今の自分を表わしていると思う。
晴れている。少し薄い水色の空。散らずにまだ木々にくっ付いているもの、枝に乗っている葉もありそう。
そのカエデの葉が、常緑樹の上で日を浴びる。この辺りに変化を求めないといけないようだ。
古木の胴体?、本体というものもちゃんと見える。
同じような、落ち葉の輝く様子。カエデの葉は、今思うに地面に落ちていても、その他の何かに乗っかっていても、またフワフワ風に舞っていても、美しいものである。やがて、これも、皆自然に返って行く。
お詫び:最初に画像のアドレスをコピーしていて、同じファイルが出ていました。もともと用意していたものと、入れ替えました。
効率のいいときもあって、これだとうまく行けば1週間はもつが、どうも見えているものに似たものが多く、好みも似たようなもので、飽きられてしまう。弱ったものだが、自分でも残っている、投稿専用の画像を見ると、飽き飽きする。大体似たようなものが幾つかというかかなり並んでいて、よくこれだけ似たようなものがそろったと思う。だんだんこの作業も新鮮味がなくなる。保守的というか、無難なところでおしまいとなってしまう。
カエデの赤い色がなかなかいい。カエデがいいので、それ以外にもいいものはあるが、見やすいところにカエデはあって、それは桜が庭園とか公園に咲いているのと同じだろう。昔の人は、秋の入り口にこの植物の葉の色の変化を見て、それを持ってきたり、見に行ったりもしたのだろう。いつのまにか、どこのご家庭にもカエデがあって、それはここにもある。どのくらい前からあるか、それはわからないが、木の裏側に大きな穴も空いているからかなりの時間がたっていると思う。
午後になって、大きな晴天域に入ったようで、少し寒いし、体もガタガタな感じがあるが、時計も持ってそれを見つつ、一番短い距離を歩き、視界のきくところに出た。そこは自動車が走る道路でもあるが、その脇に小道がある。
それ以外は大体が田んぼで、もっと昔だと田んぼか、あるいは草が生えたところしかなかった。ここに自動車の通れる道はなかった。もっとも、その当時のことを覚えているが、知っているところはあるところまでで、それよりも先は地の果てのような感じがしたから、いかに小さいスケールで生きていたかがわかる。それでも、ちゃんと、電車に乗って列島を横断したり斜めに走ったりして、それなりに移動することはあった。それを今考えると、多少はこの辺りの地理に詳しくなったとはいえ、より小さな世界で生きている感じがして、しかしそれ以上の遠いところへ行ってみようという気にならないのも不思議といえば不思議。
カエデはここにもあれば、あそこにもあるという木でもあるが、この木があまりないところ、そうゆう住宅地もある。何故かはわからないが、そこがいつに住宅地になったかという時代的なものもあるようだ。カエデが嫌われているわけではなく、他にも庭に植えるものが出てきたのだろう。たしかに、昔のうちに、ピラカンサなどは無いようだし、それ以外にもこうゆうものは多いと思う。
昔ながらというと変な気もするが、そうゆうところは地味目であって、そこに生えている木が庭木であり、時代が今に近い時代に住宅地になったところは、大体が、大きな木はないし、それよりも今風の色やら形の様々な園芸植物が周りを、またそれはうちの中まで飾られているような気がする。季節が変わると、そっと見たこともないような見事なボタンが登場するのがその例だし、また菊などもその季節になって、いっときだけ視線を集めるようで、しかしあまりに清楚で気付かれないかも知れない。
雪山を見ていて、そのすごみのある容貌に圧倒されるが、そこには恐らく中腹くらいまで、そこまではいかないか、モミジのような広葉落葉樹の木々は生えているのだろう。紅葉の便りもわずかな時間だけ聞いてあるいは見ていたような気がするが、今はあっさりと雪に、冷たくて凍り付く世界にそれらは閉ざされたかのごとくに見えた。
いくらか、同じカエデを撮っていて、それを見ていると美しいの言葉しかないが、同じようなものしか出て来ないのも、今の自分を表わしていると思う。
晴れている。少し薄い水色の空。散らずにまだ木々にくっ付いているもの、枝に乗っている葉もありそう。
そのカエデの葉が、常緑樹の上で日を浴びる。この辺りに変化を求めないといけないようだ。
古木の胴体?、本体というものもちゃんと見える。
同じような、落ち葉の輝く様子。カエデの葉は、今思うに地面に落ちていても、その他の何かに乗っかっていても、またフワフワ風に舞っていても、美しいものである。やがて、これも、皆自然に返って行く。
お詫び:最初に画像のアドレスをコピーしていて、同じファイルが出ていました。もともと用意していたものと、入れ替えました。