お天気の話しに謎は少ない。これは、記憶がいい加減なのとさらに、特にお金が直接絡むものではないからで、その点は安心出来る。でも、副次的に雨が降って、必要のないはずの傘を仕方なく買った、というと、損得勘定だと損だが、つまり不要だから、でもそれはちゃんと物として残るから、まだ納得は出来る。
大体ものを捨てない人は、物がなくなる恐怖というものを理由にしていると思う。私も、そのうちの一人で何かのときの証拠物件として、例えば領収書などは取っておく。当たり前のことをしているわけだが、こんなものは要らないとして、捨てる人もおられる。人それぞれであって、その後に人生を左右されることなく、一生を終えたいものだが、話しが先走った感じがある。
先週に叔母に当たる人が来られて、それなりに面白い時間を過ごすことが出来たが、やっぱりたまにしか来られないし、話しも何でも合うかというとそうでもない。大体歳が違いすぎる。それにしては、ケータイ電話など持って、他に大きな薬袋も持ち歩いていて、なるほど旅慣れている。さらに、ケータイの電話というのは、どのように使っているか聞いてみたりもするが、結局のところ家族の方とかの通話が主で、あとは例えばお孫さんの顔をそのケータイに入れてもらって、これが、孫のナニナニちゃんの子供などと教えてくれるが、そんなことはあまり興味はない。
それでも、ちゃんと充電装置を持ってきているから、いくら電話をかけても大丈夫みたいなことを言われる。立派なものだ。それに比べると、私は、ケータイのケの字のことも知らない。
謎というと物持ちのいい私でも、辺りはゴミ置き場と化しているが、ある文庫本がどこかにいってしまって、それをいまだに探し切れないでいる。たしか、その本は、ちゃんと目の前の本棚にあった。著名な方で、しかし愛読している訳でもない。たまたま興味のある内容だったから購入したが、それもかなり昔で、結局のところ途中で読むのを止めてしまって、しかしそれは、目の前の棚、本箱に長くあった。それが消えたから、探す。
昔だと、大体なくなるというか、どこにいったかわからないものを探すのは、得意であった。見つかったからそういうことになる。しかし、結局のところ、ある作家のその文庫本は出て来ない。あんなものが無くなる訳がないのだがない。これは、不思議だが、その後にあの本がどこかにいったということは何度かあるが、それらはちゃんと見つかっている。その文庫本だけがない。いまだに、見つからない。もう探さないが。
それで、先ほど、最近の買い物のレシートを見ていて、果物の198円というのがあって、それが金曜日のもので、ちょうど叔母がいたときだ。そのときのレシートを先ほど眺めていて、そのイチキュッパのものを考えてみるがまったく思い浮かばない。バナナはよく買うが、そのときは品物がなかったか、やけに値段が高いから買わなかったと思う。198ではないのである。何だろうか、今もわからない。そんなものを買った記憶はもちろんないが、大体レシートを見ると思い出す。一度は、打って無いものがあって、わざわざそのお金を後から払いに行ったくらいだ。
まだまだ、頭の中でそのイチキュッパのものがなんだったか、考えているがパンか何かの打ち間違いかとも思うが、これらはみなバーコード付きで考えられない。それ以外のものだ。わからんとなると、やけに気色の悪いものである。
その他、なぜかちょっと気のきいた小さな袋にまたもや和菓子のようなものが入っていて、ようなものではなく、和菓子であって、こってり感もある爽やかな甘味があって、それは少し水気が足らなかったが、喉を通っていった。このものの残りは、その後にどっかにいったようだが、冷蔵庫の違うところにちゃんとまだあった。これはわかりやすい。恐らく、このお菓子は叔母のお土産と思われたが、小さな袋に印字された文字を見ると、どうも住んでいるところのものではなく、ここの街、市の住所である。これもよくわからないことだが。昔は探せば、あるいはある程度調べれば何とか謎も解ける思っていたが、こう訳のわからないことが続くと、謎は謎のままだ、というか、それでいいような気がしてきて、イチキュッパの話しも終わりにしたい。まずは、送信と。
朝の、わずかな時間の様子、雨のあとの日の出直後。
ツツジの葉っぱにかなりの水滴が付いている。ツツジも今はまだ元気で、また朝日が当たると輝きがある。
太陽のある方向から見る。すると、光が弱いのでその反射光もかぼそいものだが、水滴とか、葉っぱの産毛のようなものが光る。
日が雲から顔を出すと一気に明るくなって、水は透明で葉の赤味が余計に目立つ。
すぐにまた太陽は雲に隠れた。カエデの赤い葉っぱはあまり目立たず、水滴は輝くが、赤い水にすべてが包まれているようにも思えるから、不可思議である。
大体ものを捨てない人は、物がなくなる恐怖というものを理由にしていると思う。私も、そのうちの一人で何かのときの証拠物件として、例えば領収書などは取っておく。当たり前のことをしているわけだが、こんなものは要らないとして、捨てる人もおられる。人それぞれであって、その後に人生を左右されることなく、一生を終えたいものだが、話しが先走った感じがある。
先週に叔母に当たる人が来られて、それなりに面白い時間を過ごすことが出来たが、やっぱりたまにしか来られないし、話しも何でも合うかというとそうでもない。大体歳が違いすぎる。それにしては、ケータイ電話など持って、他に大きな薬袋も持ち歩いていて、なるほど旅慣れている。さらに、ケータイの電話というのは、どのように使っているか聞いてみたりもするが、結局のところ家族の方とかの通話が主で、あとは例えばお孫さんの顔をそのケータイに入れてもらって、これが、孫のナニナニちゃんの子供などと教えてくれるが、そんなことはあまり興味はない。
それでも、ちゃんと充電装置を持ってきているから、いくら電話をかけても大丈夫みたいなことを言われる。立派なものだ。それに比べると、私は、ケータイのケの字のことも知らない。
謎というと物持ちのいい私でも、辺りはゴミ置き場と化しているが、ある文庫本がどこかにいってしまって、それをいまだに探し切れないでいる。たしか、その本は、ちゃんと目の前の本棚にあった。著名な方で、しかし愛読している訳でもない。たまたま興味のある内容だったから購入したが、それもかなり昔で、結局のところ途中で読むのを止めてしまって、しかしそれは、目の前の棚、本箱に長くあった。それが消えたから、探す。
昔だと、大体なくなるというか、どこにいったかわからないものを探すのは、得意であった。見つかったからそういうことになる。しかし、結局のところ、ある作家のその文庫本は出て来ない。あんなものが無くなる訳がないのだがない。これは、不思議だが、その後にあの本がどこかにいったということは何度かあるが、それらはちゃんと見つかっている。その文庫本だけがない。いまだに、見つからない。もう探さないが。
それで、先ほど、最近の買い物のレシートを見ていて、果物の198円というのがあって、それが金曜日のもので、ちょうど叔母がいたときだ。そのときのレシートを先ほど眺めていて、そのイチキュッパのものを考えてみるがまったく思い浮かばない。バナナはよく買うが、そのときは品物がなかったか、やけに値段が高いから買わなかったと思う。198ではないのである。何だろうか、今もわからない。そんなものを買った記憶はもちろんないが、大体レシートを見ると思い出す。一度は、打って無いものがあって、わざわざそのお金を後から払いに行ったくらいだ。
まだまだ、頭の中でそのイチキュッパのものがなんだったか、考えているがパンか何かの打ち間違いかとも思うが、これらはみなバーコード付きで考えられない。それ以外のものだ。わからんとなると、やけに気色の悪いものである。
その他、なぜかちょっと気のきいた小さな袋にまたもや和菓子のようなものが入っていて、ようなものではなく、和菓子であって、こってり感もある爽やかな甘味があって、それは少し水気が足らなかったが、喉を通っていった。このものの残りは、その後にどっかにいったようだが、冷蔵庫の違うところにちゃんとまだあった。これはわかりやすい。恐らく、このお菓子は叔母のお土産と思われたが、小さな袋に印字された文字を見ると、どうも住んでいるところのものではなく、ここの街、市の住所である。これもよくわからないことだが。昔は探せば、あるいはある程度調べれば何とか謎も解ける思っていたが、こう訳のわからないことが続くと、謎は謎のままだ、というか、それでいいような気がしてきて、イチキュッパの話しも終わりにしたい。まずは、送信と。
朝の、わずかな時間の様子、雨のあとの日の出直後。
ツツジの葉っぱにかなりの水滴が付いている。ツツジも今はまだ元気で、また朝日が当たると輝きがある。
太陽のある方向から見る。すると、光が弱いのでその反射光もかぼそいものだが、水滴とか、葉っぱの産毛のようなものが光る。
日が雲から顔を出すと一気に明るくなって、水は透明で葉の赤味が余計に目立つ。
すぐにまた太陽は雲に隠れた。カエデの赤い葉っぱはあまり目立たず、水滴は輝くが、赤い水にすべてが包まれているようにも思えるから、不可思議である。