田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

超短編20 五月のばら園にばらの花降る  麻屋与志夫

2023-04-30 14:55:55 | 超短編小説
超短編 20
五月のばら園にばらの花降る

大温室が無数の窓群で構成されているように光っていた。
矩形に格子で仕切られているので遠目には窓のようにみえたのだろう。
五月の薫風にのってばら園からはかぐわしい芳香がただよってきた。
ここは神代植物園だ。
彼女はまだこない。

「五月の第一金曜日に会おう」
そう決めていたのに彼女は現れない。
どうしてきてくれないのだろう。
もう少し待てば彼女は長い黒髪を風になびかせて颯爽と現れるはずだ。
温室の方角から来るだろうか。
藤棚の方からかな? 
ああ早く会いたい。
彼女とは二月ほど前に一度あったきりだった。
 
彼女はバラ園を眺めていた。
白いワンピースに真紅の細いベルトをしていた。
その後ろ姿をみただけで彼は動悸がたかなるのを覚えた。
ヴイルヘルム・ハンマースホイの描いた女性。
後ろ姿のイーダの哀愁ある立ち姿だった。
襟足にほつれた髪が風にかすかにそよいでいた。
細い襟首から肩にかけてのカーブがしんなりとしていかにも女性的だった。
贅肉がまったくついていない若やいだ肩の稜線だった。
どきどきする胸の鼓動をおさえておもいきって声をかけた。
静寂をみだすことを恐れながら……。

「ばらの季節にきたらもっときれいでしょうね」
ふいに話しかけられて彼女はおどろいたようにふりかえった。
黒い瞳。
肌がきめ細かく白い。
頬をそめている。

「どんなバラがお好きですか」
澄んだよくとおる爽やかな声。
「アイスバーグ。白い花がぼくはすきです」
「わたしもよ。小さなアパートのベランダで白いバラの鉢植えをそだてるのが夢なの」

会話がはずみ、いつしか二人は花にはまだ間のあるばら園の小道を歩いていた。
「ぼくは大きなばら園を経営して毎日ばらと話しながら過ごしたい。……そしてそこにあなたがいてくれたら」

もちろん会ったばかりの彼女に後のことばはいえなかった。
かれは見栄をはることはなかった。
彼女は裕福な家庭に育ち、逆シンデレラ願望にとらわれていた。
ビンボーな生活に憧れていたのだから。
彼は恵まれた生活をしているふりなどしないほうがよかったのだ。
細々としたパートタイムワークで食いつないでいる。
アパートの家賃をかろうじて払っているとイエバヨカッタのだ。
彼女は好意こそもち、彼を軽蔑するようなことはなかったろう。
彼の貧困生活こそ彼女の理想だったのに。
昼間でも部屋の中には薄っすらと闇がとどこうっている。
アパートで明るく夫を支えて健気な妻として生きること。
それが彼女のねがいだった。
裕福ではあるが父と母のように。
夫婦の間に距離のある家庭で生きることはいやだった。
彼のはなしをきいているうちに彼女は少し落胆した。
でもなにかほのぼのとした心になっている。
だからもういちど会いましょうという。
彼のもうしでを拒むわけにはいかなかった。
いや、むしろ五月になるのを楽しみにているじぶんにおどろいていた。
でも家に帰った彼女をいやなサプライズがまっていた。
父が取引先の銀行の頭取の息子との結婚を独断できめてしまっていた。
「どこにいっていたのだ。あちらさんは……ニョーヨークに転勤だ。おまえを連れて行きたいといっている」
「新婚生活をアメリカですごせるなんてうらやましいこと」

ばらが見事に開花していた。
アイスバーグも咲いている。
シテイオブヨークの白い花弁も美しい。
彼女の面影を追い求めながら彼は待っていた。
彼女ははまだこない。
 ああ会いたい。
彼女に会いたい。
名前すら聞きはぐった彼女。
たった一度しか会っていない彼女。
会いたい。
話したい。
ばらのはなしをしたい。
愛している。
一目でもいいから会いたい。
あなたのことは昔から知っていたような気がする。
あなたのことをおもっているとこう胸のあたりがほのぼのとしてくる。
前世から知っていたのかもしれない。
愛している。
交際してください。
そしてぼくがきらいでなかったら結婚して下さい。
いまは、ビンボーだけれどもあなたのために。
あなたをしあわせにするためなら粉骨砕身。
毎日一生懸命に働きます。そう正直に告白する。
あなたのいない人生なんてかんがえられません。

彼女はまだこない。
 
あなたにひとことだけ好きですと伝えたい。
それだけでもいい。会いたい。

それからというもの、毎年五月の第一金曜日になると彼はばら園にやってきた。
さいきんでは、記憶もあいまいになった。
五月でなくても一週目の金曜日。
いや体さえ許せば毎月金曜日にはいつも彼女の姿を求めてばら園にきていた。
永遠の片思い――。
いちどだけ会った。
いちどだけこのばら園の小道をあるきながら会話をかわした。
彼女のことが忘れられずにいる。
彼は彼女をおもうことで。
いつかかならずまた彼女に会えるというおもいがあったので。
人生の苦難をのりきることができた。
この歳まで生きてこられたのは、彼女との再会を夢みていたからだ……。
胸の想いを彼女につたえたいという希望をもつことで、生きてこられたのだ。
彼女の姿はもう見られないかもしれたい。
……でも、彼女を想うこころはかわらない。
姿は見ることができなくても、彼女のイメージは消えることはない。
毎年、ばら園にばらが咲いている限り……。
彼女のことはわすれない。
彼女のことを想いつづける。

「春になったら、あのヘンスに咲き乱れる蔓バラを見にきませんか」
だれかとそんな約束をしたような記憶がこころの隅にひっかかっている。
それほどの時間が過ぎてしまった。
それは誤って刺してしまった薔薇の棘のように。
ちくちくと記憶を刺激するのだった。
「そうね。『思いでベンチ』であいましょう」
彼女はそう応えてくれたような気がする。
彼には遠い記憶の美化がはじまっていた。
 
来る年も、来る月も。
ほとんど毎日のように。
彼は彼女との再会を夢見てばら園にかよいつめた。
彼女と過したあの一瞬のきらめきを。
もう一度だけでもいいから、感じたかった。
彼女はマインド・バンパイァだったのかもしれない。
彼女をひとめみたものは。
そのイメージが網膜にやきつき。
もう忘れられなくなる。

彼女にかしずき、彼女のよろこびが彼のよろこびとなる。
彼女のためならなんでもしてやりたい。
そのこころの高揚がさらに彼をよろこばせる。
ほかの女の子と知り合いたいとはおもわなかった。
それは熱烈なロゼリアンが。
自分だけの、世界でたったひとつのばらをつくりたい。
という情熱に似ていた。
じぶんだけが初めて出会う、このばらはわたしだけのものだという心情。

しかし、彼には彼女と再び会うチャンスは訪れなかった。
どんなに愛していても、会えない彼女を想っていた。
彼女を待ちわびて、年月だけがとぶように過ぎていった。

ふいに何に驚いたのか鳩の羽音も高くとびたった。

待ちわびていた彼女がこちらに向かって走ってくる。
彼はうっとりと眺めていた。
「おかあさん」
彼女が彼の体を通り貫けて走りさっていく。
彼は、自分が年老いて死んでしまったことにまだ気づいていない。
彼は、自分が霊体となっていることに気づいていない。

そのかなたに年老いた。
女性が。
薔薇のほほ笑みでこちらをみている。
彼女は彼にはきづかなかった。
だが、かれは走り去っていく若い女性の顔を老婆にかさねていた。
 
いい顔してるな。
まるで初恋の彼女に会ったような顔をしている。
冷たくなっている老人の枕もと。
といっても、ベンチなので枕などあるわけがないが。
一茎の白いバラが彼によりそうように。
朝の光のなかで芳香をはなっていた。



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