田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

シーラカンスのツブヤキ。 麻屋与志夫

2016-09-11 06:18:25 | ブログ
9月11日 Sun.
●板書をバカにするな。むかしは、教師になっても板書10年といった。ようするに黒板に正しい字を美しく白墨で書けるようになるには10年はかかる。ということだ。白墨とパソコンで打ちこもうとしたら、おかしな漢字が出た。正しく変換できなかった。もちろんチョークと書くべきなのだが、むかしは、とはじまった文章なので、白墨と打ちこんだ。

●むかしは、どの学校にも「書道会」の支部があって、熱心にその技を磨き、キレイな文字を書こうと、あるいは書芸術を極めようと競い合っていた。

●国語の先生は、俳句、短歌、詩、随筆、小説を書いていて、実作がともなった。現在、実技? のともなう国語の先生は何パーセントくらいいるのだろうか。体育、美術、音楽の先生は100パーセント実技をともなっている。

●文科省でも、これから記述式の入試問題に移行する見解をのべている。それはいいのだが、今現在、小中高で作文指導をしている時間をどのくらいとっているのだろうか。わたしのすむ町の学校ではどうなのだろうか。国語の勉強は識字教育――くらいにしか考えていないのではないだろうか。作文とか感想文を書かされたという話はツイゾ聞かなくなっなった。絵手紙を熱心に勉強している友だちがいる。退職してなにもすることがないので始ったらしい。先生から絵も字も上手く書く必要はない。と指導を受けているらしい。だから下手な字でいいのだと、クイサガラレタ。

●先生は稚拙であっても、素朴な味もいい。と、言った意味で「上手く書く必要はない」と、教えたのだろう。精進することによって、進歩の跡が見えてくるのが「習い事」の楽しさだ、とわたしは思っている。

●スマホのゲーム。SNS。動画サイト。考える必要はない。言葉を口にしたり、文章の勉強をする必要も感じない。

●そうした社会風潮にマッタをかけるには、学校教育の場で作文指導に力を入れる以外に方法はないと――思うのですが、如何なものでしょうか。

●いま原稿用紙など売れているのでしょうかね。原稿にキレイな文字で文章を書けるひとは、売文業のご同業にもあまりいない。だいいちペンで原稿を書くなんてことしませんものね。

●やはりわたしの考えは「化石人間」のような「シーラカンス」のようなGGの独りよがりなのでしょうか。


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コメント (2)
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