24 妖変 言問橋(第二稿)
――政界を引退した
この政変は泥沼化している。
若い元美人秘書とのスキャンダルで引退をよぎなくされた。妻とは離婚か成立した。政界の大物だった義父ともこれで縁がきれた。
年の差婚と騒がれた。若く華やかな新妻とつれだって言問橋までさしかかった。
空をみて「あっ。カモメ」とつぶやく妻。妖艶な美しさが眩しい。妻はキャノンの一眼レフをかまえる。シャッターを切る。小刻みにひびく連続音。
なにげなく欄干に両手をついた。遠いおののきのような震動がつたわってきた。いや――おののきではなく。いままさに心肺停止となりそうな恐怖。死に臨み。よわよわしくなっていく乱れきった鼓動が。幾重にも渦を巻いているようだ。戦慄が、欄干においた手から全身にひろがってきた。瘧でもおこしたようにふるえはとまらない。
「あっ。飛行船」
妻がむじゃきに声をはりあげる。
カメラをさらに鋭角に空に向けてかまえている。
青空をゆったりと浮遊する飛行船。
「あらあら、汗かいているわよ。あなた」
白いハンカチで額の汗をぬぐってくれた。
すんなりとした指をみていると「アッ。キャップがない」妻がひくく悲鳴をあげる。
橋のたもとでカメラをバックからとりだしたときに。レンズのキャップを落としてしまったのだという。
「キャップだけ買えばいいだろう」
妻は小走りに橋をひきかえしていく。
追いかけることは、とてもできない。
見る間に、妻の姿は小さくなる。
からだの震えはとまらない。
この言問橋では昭和20年3月10日の東京大空襲でおびただしいひとびとが焼死している。わたしも、幼かった従兄がここで焼け死んでいる。
猛烈な火炎旋風は周囲の空気を白熱化した。
推定10000人が大火炎につつまれ死んでいるという。
橋の親柱の黒く焦げた跡。この黒ずんだ汚れは――。ひとが――燃え尽き、灰が固まってこびりついたものだ。
どこかでよんだ、古い記憶。
だれかにきいた、古い記憶。
……この橋に……戦災いらいまとわりついている死者の怨念が凝固した橋げたにふれてしまったのだ。またまた冷汗がふきだす。
若い彼女と結婚するための……スキャンダルで失脚した。
それは表面的な理由だ。
政界からリベラリストを追放する機運が高まっているのだ。これでよかったのかもしれない。右に傾きつつあるこの国の政治の流れに掉さした。戦争の悲惨さをわすれてはならない。戦争犠牲者の魂の叫びがこの言問橋には現存する。彼らの鎮魂。彼ら犠牲者の冥福を祈りつづける。ふたたび戦争などはじめてはいけないのだ。その平和を愛する主張は在野にあっても、叫び続ける。
額にハンカチをあて、やさしく汗をぬぐってくれた妻が――。彼方で両手をあげた。
おおきな○のジェスチャでおどけている。
レンズのキャップが見つかったようだ。
拾ってきたキャップをはめようとして、妻の顔が不審そうにくもる。
眉をひそめている。
「合わないわ。あわない。あらぁ――おかしい。わたしのキャップは、ここにある」
バックの底のほうから同じように見える、すこし小さめのキャップをとりだしてはめる。
ぴったりと合う。
「じゃ、その拾ってきたフタはどういうことなのだろう」
「だれかが、おとしていったのね」
同じキャノンのレンズキャップが妻の落としたとおもっていた場所にある確率は。
どの程度のものなのだろうか。
妻の周辺ではときどきこうした奇妙な現象がおこる。
妻には、物品移動能力があるのではないか。
この橋からつたわってくる震えだってただごとではない。彼女の存在に呼応しているのかもしれない。
彼女とはじめてあったときにもからだに震えがきた。
感動のあまりふるえたものとおもっていたが。あれは……。場所すらおもいうかばない。
だいいち、あれは、よろこびのために、感動して震えたのだろうか。
「はい、チーズ」
「おまえなぁ。ものを引き寄せる能力があるなら、なにかもっと価値あるものをよびよせられないのか」
「あら、もうそうしたわ」
妻が笑っている。
なにを、〈そうした〉というのだろうか。
妻にはまちがいなくapport能力がある。
妻は戦争犠牲者の霊魂をここに召喚したのかもしれない。
震えははげしくなるばかりだ。
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――政界を引退した
この政変は泥沼化している。
若い元美人秘書とのスキャンダルで引退をよぎなくされた。妻とは離婚か成立した。政界の大物だった義父ともこれで縁がきれた。
年の差婚と騒がれた。若く華やかな新妻とつれだって言問橋までさしかかった。
空をみて「あっ。カモメ」とつぶやく妻。妖艶な美しさが眩しい。妻はキャノンの一眼レフをかまえる。シャッターを切る。小刻みにひびく連続音。
なにげなく欄干に両手をついた。遠いおののきのような震動がつたわってきた。いや――おののきではなく。いままさに心肺停止となりそうな恐怖。死に臨み。よわよわしくなっていく乱れきった鼓動が。幾重にも渦を巻いているようだ。戦慄が、欄干においた手から全身にひろがってきた。瘧でもおこしたようにふるえはとまらない。
「あっ。飛行船」
妻がむじゃきに声をはりあげる。
カメラをさらに鋭角に空に向けてかまえている。
青空をゆったりと浮遊する飛行船。
「あらあら、汗かいているわよ。あなた」
白いハンカチで額の汗をぬぐってくれた。
すんなりとした指をみていると「アッ。キャップがない」妻がひくく悲鳴をあげる。
橋のたもとでカメラをバックからとりだしたときに。レンズのキャップを落としてしまったのだという。
「キャップだけ買えばいいだろう」
妻は小走りに橋をひきかえしていく。
追いかけることは、とてもできない。
見る間に、妻の姿は小さくなる。
からだの震えはとまらない。
この言問橋では昭和20年3月10日の東京大空襲でおびただしいひとびとが焼死している。わたしも、幼かった従兄がここで焼け死んでいる。
猛烈な火炎旋風は周囲の空気を白熱化した。
推定10000人が大火炎につつまれ死んでいるという。
橋の親柱の黒く焦げた跡。この黒ずんだ汚れは――。ひとが――燃え尽き、灰が固まってこびりついたものだ。
どこかでよんだ、古い記憶。
だれかにきいた、古い記憶。
……この橋に……戦災いらいまとわりついている死者の怨念が凝固した橋げたにふれてしまったのだ。またまた冷汗がふきだす。
若い彼女と結婚するための……スキャンダルで失脚した。
それは表面的な理由だ。
政界からリベラリストを追放する機運が高まっているのだ。これでよかったのかもしれない。右に傾きつつあるこの国の政治の流れに掉さした。戦争の悲惨さをわすれてはならない。戦争犠牲者の魂の叫びがこの言問橋には現存する。彼らの鎮魂。彼ら犠牲者の冥福を祈りつづける。ふたたび戦争などはじめてはいけないのだ。その平和を愛する主張は在野にあっても、叫び続ける。
額にハンカチをあて、やさしく汗をぬぐってくれた妻が――。彼方で両手をあげた。
おおきな○のジェスチャでおどけている。
レンズのキャップが見つかったようだ。
拾ってきたキャップをはめようとして、妻の顔が不審そうにくもる。
眉をひそめている。
「合わないわ。あわない。あらぁ――おかしい。わたしのキャップは、ここにある」
バックの底のほうから同じように見える、すこし小さめのキャップをとりだしてはめる。
ぴったりと合う。
「じゃ、その拾ってきたフタはどういうことなのだろう」
「だれかが、おとしていったのね」
同じキャノンのレンズキャップが妻の落としたとおもっていた場所にある確率は。
どの程度のものなのだろうか。
妻の周辺ではときどきこうした奇妙な現象がおこる。
妻には、物品移動能力があるのではないか。
この橋からつたわってくる震えだってただごとではない。彼女の存在に呼応しているのかもしれない。
彼女とはじめてあったときにもからだに震えがきた。
感動のあまりふるえたものとおもっていたが。あれは……。場所すらおもいうかばない。
だいいち、あれは、よろこびのために、感動して震えたのだろうか。
「はい、チーズ」
「おまえなぁ。ものを引き寄せる能力があるなら、なにかもっと価値あるものをよびよせられないのか」
「あら、もうそうしたわ」
妻が笑っている。
なにを、〈そうした〉というのだろうか。
妻にはまちがいなくapport能力がある。
妻は戦争犠牲者の霊魂をここに召喚したのかもしれない。
震えははげしくなるばかりだ。
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