それは平凡なありふれた文庫本だった。
人目に触れて恥ずかしいような本ではなかった。
萩原朔太郎詩集。
『青猫』。
わたしはいわれたとおり管理人がいないのをさいわい、その文庫本をポケットにしのばせた。
「あとは、おたのみしゃんす」
たのみます。そうたのまれても、なにをたのまれたのかわからなかった。
「本田さん、しっかりするんだ。なにをすればいい。なにをわたしにたのみたいのだ」
猫の鳴き声がしているのが気になった。
わたしは鍵を大家から借りて部屋にのこった。
「クセエクセエ。これじゃゴミ部屋じゃないか」
悪態をつきながら男は部屋にもどった。
「救急車は呼んだから」
それだけいうと、かかわり合いになるのを嫌うように、階段を下りていってしまった。
たしかにひとりになってみると最初に嗅いだ異臭が気になった。
でも沈香のにおいもまじっている。
そうか、本田は悪臭をけそうとお香をたいていたのだ。
その残り香が部屋の隅々に、カーテンや布団に付着していて匂うのだ。
そして異臭のほうはどうやら天井からただよってきているようだ。
また猫が鳴いた。
遠慮がちな、かすかな鳴き声。
押し入れをあけるとムッとするほど臭いはきつくなった。
押し入れの上の段にのった。
隅の天井の板をもちあげてずらした。
下から照らす電灯と節穴からもれるひかりで、ダンボールの箱がみえた。
手をのばした。
箱のかげから黒猫がのっそりとあらわれた。
目だけが青くもえるように光っている。
ひどくおびえていた。
あまり黒いので薄闇では見えなかった。
きゅうに目前に出現した。
ぎょっとしてのばしかけた手をひいた。
猫はわたしが害をあたえないのがわかるのか頭をすりよせてきた。
箱の中は猫のミイラがつみ重ねられていた。
臭いの元は猫がミイラ化していく過程で放ったものだった。
警察で事情を聞かれ、街にでたころには日が暮れかけていた。
本田老人は病院につくとまもなく息をひきとっていた。
臭に気をとられていた。
救急車に乗って病院まで付き添わなかった。
悔やまれた。
警察にいくのは、あとまわしにしてもよかつたのだ。
本田はひとり寂しく病院のベッドで死んでいった。
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萩原朔太郎詩集。
『青猫』。
わたしはいわれたとおり管理人がいないのをさいわい、その文庫本をポケットにしのばせた。
「あとは、おたのみしゃんす」
たのみます。そうたのまれても、なにをたのまれたのかわからなかった。
「本田さん、しっかりするんだ。なにをすればいい。なにをわたしにたのみたいのだ」
猫の鳴き声がしているのが気になった。
わたしは鍵を大家から借りて部屋にのこった。
「クセエクセエ。これじゃゴミ部屋じゃないか」
悪態をつきながら男は部屋にもどった。
「救急車は呼んだから」
それだけいうと、かかわり合いになるのを嫌うように、階段を下りていってしまった。
たしかにひとりになってみると最初に嗅いだ異臭が気になった。
でも沈香のにおいもまじっている。
そうか、本田は悪臭をけそうとお香をたいていたのだ。
その残り香が部屋の隅々に、カーテンや布団に付着していて匂うのだ。
そして異臭のほうはどうやら天井からただよってきているようだ。
また猫が鳴いた。
遠慮がちな、かすかな鳴き声。
押し入れをあけるとムッとするほど臭いはきつくなった。
押し入れの上の段にのった。
隅の天井の板をもちあげてずらした。
下から照らす電灯と節穴からもれるひかりで、ダンボールの箱がみえた。
手をのばした。
箱のかげから黒猫がのっそりとあらわれた。
目だけが青くもえるように光っている。
ひどくおびえていた。
あまり黒いので薄闇では見えなかった。
きゅうに目前に出現した。
ぎょっとしてのばしかけた手をひいた。
猫はわたしが害をあたえないのがわかるのか頭をすりよせてきた。
箱の中は猫のミイラがつみ重ねられていた。
臭いの元は猫がミイラ化していく過程で放ったものだった。
警察で事情を聞かれ、街にでたころには日が暮れかけていた。
本田老人は病院につくとまもなく息をひきとっていた。
臭に気をとられていた。
救急車に乗って病院まで付き添わなかった。
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警察にいくのは、あとまわしにしてもよかつたのだ。
本田はひとり寂しく病院のベッドで死んでいった。
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