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ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

日航機123便墜落事故 - 41 ( エリート官僚だった宮沢氏 )

2024-07-24 13:36:56 | 徒然の記

 昨日のNHKニュースで、今年の夏は猛暑でなく酷暑だと説明していましたが、朝も夜も猛烈な暑さです。

 冷房のある部屋から外へ出ると、ムッとする暑さのため息苦しくなります。そんな中で「日航機墜落事故」のシリーズを書いています。森永氏が死を覚悟して提起した「事故原因の悲惨さ」が、千葉の片隅の「ねこ庭」まで酷暑と共に伝わり、懸命に振り払わずにおれなくなった・・・

 シリーズを続けている理由は、こんなところかもしれません。

  ・これほど一方的な「不平等協定」を、日本は何故アメリカから押しつけられなければならなかったのか。

  ・証拠隠滅のためとは言え、何故自衛隊は犠牲者の遺体と共に現場焼却という無謀な行動をしたのか。

  ・一連の過酷な「不平等協定」が「日航機墜落事故」の直後から始まっているのは、単なる偶然なのか。

 目を背けたくなる事故のことを思うと、猛暑と酷暑を両手で払いながらでもシリーズが止められなくなります。

 息子や孫たちに誇れる日本を伝えたいと言う気持と、政府と自衛隊が証拠隠滅のため事故現場を焼却したとする、森永・三橋両氏の意見を肯定したくない気持がそうさせます。

 愛国心なのか、国民の役目というのか自分には分かりませんが、いつか「ねこ庭」を読んでくれる息子や孫たちが、判断してくれることでしょう。

 本日は小沢一郎氏に続き、宮沢喜一氏に関する情報を紹介します。平成29年に氏は87才で亡くなっていますので、生きて活躍している小沢氏のように遠慮のない批判ができません。亡くなった人を批判すると、弱い者いじめをしているような疚しさを感じるからです。

 しかし氏は存命の時日本国民を、韓国と一緒になり、胃が痛むほど苦しめた首相ですから、多少の批判は我慢すべきという気もします。

 「ねこ庭」の過去記事とウィキペディアの情報を元に、出来るのか出来ないのか分かりませんが、感情的にならず、客観的事実に基づき氏の紹介をしてみます。

 そのためにはまず、シリーズの29回目で取り上げたヴォーゲル氏の意見を再度紹介しなければなりません。

 ・高級官僚は、皆輝かしい学歴を持つ者ばかりである。
 
 ・全国に200万人いる大学生の中でも、最も優秀な学生が集まる東京大学は、厳しい試験を突破しなくてならない。中でも法学部は独特の位置を占めており、卒業時に上級公務員試験を受け、これに合格すれば官庁に入れる。
 
 ・各省庁には、毎年20数名のエリートが入省するが、このうち15名くらいは、東大法学部出身者である。このようにして生まれたエリート官僚は、有能であるばかりでなく、世間から尊敬の目で見られるのである。
 
 ・日本以外でこうしたエリート機構を持つ国は、おそらく、フランスくらいのものであろう。日本では人材を定年まで引き留め、組織内で育てていく点が、アメリカとの大きな違いである。
 
 つまり宮沢首相は、ヴォーゲル氏の言う最も優秀なエリートが集まる「東京大学の法学部」を卒業しています。卒業と同時に大蔵省の官僚ですから、
 
  ・有能であるばかりでなく、世間から尊敬の目で見られる・・・存在です。
 
 これから以降は、「ねこ庭」の過去記事からの引用になりますので、記憶されている方はスルーしてください。

  ・1953( 昭和28  ) 年、池田勇人の強い勧めで第3回参議院選挙に出馬し当選

  ・ここから、氏の政治家としての人生が始まり、党内では池田派 ( 宏池会 ) に所属し、早くから総裁候補として見られ、本人もその気でいたと言います。

 宏池会は、池田氏が佐藤栄作氏と袂を分かって旗揚げしたのが始まりで、党内最古の派閥となり岸田派と名前を変えていましたが、今回の「裏金問題」のため岸田首相が解消しました。

  ・歴史と伝統のある派閥にいて早くから総裁候補として目されながら、どうして宮沢氏は平成3年72才になるまで総理になれなかったのか。理由はただ一つ、「人望の無さ」でした。一つには氏の人を評価する基準が「学歴」だったという事実からくるもので、誰もが否定しない有名な話です。

  ・日本で一番優秀な人間が集まる大学は東大というのが価値基準で、その東大の中でも一番出来の良い人間が法学部にいるというのが、終生変わらない強い思いでした。

 次回も「ねこ庭」の過去記事を中心に、事実に基づいた情報の紹介に努めます。サブタイトルを、「人望のなかった宮沢氏」にしました。

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日航機123便墜落事故 - 40 ( 小沢一郎氏の間違い )

2024-07-23 21:19:00 | 徒然の記

 小沢一郎氏は82才で、立憲民主党所属の現役衆議院議員です。

 都知事選挙の敗北を受けて、同党代表の泉健太氏が連合と共産党の板挟みとなり、苦境に立っている中で、小沢氏が語っています。 ( 7月11日のネットのニュースです。)

 「泉氏が代表を続投したら、立憲民主党は沈没だ。」

 泉氏を代表にした中心人物だった氏が、今は「泉降ろし」の真ん中にいます。いつまでも、意気軒昂な活躍ぶりでないかと感心する人もいるようですが、「ねこ庭」から見る氏の姿は違います。

 田中角栄氏の秘蔵っ子として大事にされ、金丸信氏の愛弟子と言われ、自由民主党の幹事長までした氏が、仲間を引き連れて離党して以来、その足跡は新しい党を作ったり壊したりの繰り返しでした。

 「雀百まで踊り忘れず」という言葉がありますが、「政界の壊し屋」の癖は一生治らないようです。政党を新しく作るたびに側近を切り捨て、仲間を裏切り、新しい敵と味方を作ります。

 氏が壊したり作ったりした政党を調べたら、次のようになっていました。
 
    自由民主党 (  田中派  →   竹下派   →   羽田派・離党  )
 
                新生党  →  
 
                新進党  →  
 
                自由党  →  
 
               民主党  →  
 
               国民の生活が第一  →  
 
               日本未来の党  →  
 
               生活の党  →  
 
               生活の党と山本太郎となかまたち  →  
 
               自由党  →  
 
               旧国民民主党  →  
 
               立憲民主党  →  
 
 自由民主党を仲間と共に割って出た当時は、政治家としての信条があったのかもしれませんが、どの時点からか氏の政治活動の目的は、「自由民主党を倒して政権を奪い取る」ことに集中し、目的と手段が逆転してしまいました。
 
  ・政権奪取のためには、共産党を含めた野党の大同団結が不可欠
 
  平成6年の村山内閣と平成21年の鳩山内閣で、氏は二度自由民主党を下野させ政権党を作りました。しかしなぜ、氏が作った政権が短命に終わったのか。二度も政権を手にしながら、その都度国民の信任を失った原因が氏に見えないのは何故か。
 
 「ねこ庭」から眺めれば一目で見えるものが、氏には見えないのです。
 
  ・「厳しい国際情勢の中で国の独立を守り、社会の安定と国民の暮らしを守る。」
 
 誰にでも分かる「政治の常識」が、小沢氏にはありません。単純な言葉なので氏は軽視しているのでしょうが、「政治の常識」は日本だけでなく世界共通の目的で、政治家の使命です。
 
 政権奪取を目的とし、そのためなら共産党と連立を組むという考え方から出てくるのは、「終わりのない政争」です。
 
 82才になっても「政治の常識」を身につけられない氏は、「政界の壊し屋」でしか生きられない人間として、終わるのだと思います。
 
 このような氏が関与して作った内閣の首相、宇野、海部、宮沢、細川、羽田、村山各氏が、「日米構造会議」と「日米年次改革要望書」に対してどのような対応をしたのか。
 
 情報は沢山ありますが、紹介する気持になりません。
 
 次回は、歴代内閣の中で特に酷かった例として宮沢首相を紹介しますが、不愉快になるため、酷暑の中を「ねこ庭」へ訪問される必要はありません。一言申し添えて、今回を終わります。
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日航機123便墜落事故 - 39 ( 「日米年次改革要望書」とは )

2024-07-23 13:05:46 | 徒然の記

 〈 「プラザ合意」後の、アメリカからの要求例 3つ 〉

  「日米半導体協定」 「日米構造会議」 「日米年次改革要望書」

 最後の例の紹介ですが、これもウィキペディアの情報がメインです。シリーズの37回で述べました通り「日米年次改革要望書」は「日米構造会議」の流れの中で始まっています。

 〈 「日米年次改革要望書」とは  〉 

  ・「年次改革要望書」は、日本政府とアメリカ政府が両国の経済発展のため、改善が必要と考える相手国の規制や制度の問題点についてまとめた文書

  ・2001(平成13 ) 年森内閣の時から毎年日米両政府間で、「成長のための日米経済パートナーシップ」の一環として「年次改革要望書」が交換された

  ・これは先行する、「日米間の規制緩和に関する対話に基づく双方の要望書」の枠組みが、イニシアティブの形式文書に整えられたことによる

  ・由来をたどれば、1993(平成5 ) 年7月の宮沢喜一首相とビル・クリントン大統領との会談で決まったもの

  ・その時の文書名は、「日米の新たなパートナーシップのための枠組みに関する共同声明」だった

 「日米年次改革要望書」の紹介だけなら簡単に済むのですが、関係した首相や小沢氏についての情報を加えると一回で終わらなくなります。息子たちのことを考えますと、この情報を省略すると大事な歴史が伝えられなくなりますので、煩雑になっても紹介したくなりました。

 自己顕示欲だけで日本の政界を引っ掻き回した小沢氏と、東大法学部卒業のエリート意識を鼻にかけた無能な宮沢氏が、どれほど日本の国際的地位の凋落に手を貸していたかを説明しないと、事実の全容が見えない心配があるからです。

 日本の戦後史に詳しい方には煩わしいだけなので、ここからスルーして頂くことも考えましたが、話の流れを優先して、ここで横道へ逸れるより先に「日米年次改革要望書」の紹介を終わらせることにしました。

 ウイキペディアの説明を、そのまま紹介します。

  ・書籍『拒否できない日本』によれば、最初の要望書は1994 ( 平成6 ) 年であった

  ・当初は「提案書」であったアメリカからの要望書は、2001 ( 平成13 )年からより推しの強い「勧告書」になる一方、アメリカへの日本側の要望書の英語版では2003( 平成15 ) 年から recommendations に改められている。

  ・双方の要望書は両国政府によって公開されており、日本から米国への要望書については、外務省のウェブサイトにおいて公開されている。

   ・同様に米国から日本への要望書については、駐日アメリカ大使館のウェブサイトに日本語訳されたものが公開されている

  ・米国側からの要望が施策として実現した例としては、

    建築基準法の改正、 法科大学院の設置の実現、 著作権の保護期間の延長、

    著作権の強化、 裁判員制度をはじめとする司法制度改革、

    独占禁止法の強化と運用の厳密化、 労働者派遣法改正(労働者派遣事業の規制緩和)、

    郵政民営化、といったものが挙げられる。

  ・米国政府からの要望で実現していない項目としては、

    再販制度・特殊指定の廃止、ホワイトカラー・エクゼンプションが挙げられるが、年次要望改革書では引き続き取り上げられている。

  ・一方、日本側からアメリカ側への要望の一切は実現されていない。

  ・2009(平成21 ) 年に自由民主党から民主党へと政権交代した後、「日米年次改革要望書」は鳩山政権下で廃止された

 ざっと読んでも腹が立ちますが、以上でウィキペディアの説明の紹介が終わりました。

 スペース制約のためか、ウィキペディアの説明もマスコミ報道に似たところがあり、読者への丁寧な説明を省いています。周辺知識のない読者には何のことか分かりませんので、不明部分は「ねこ庭」が後でまとめて説明することにします。

 次回は横道へ外れ、宮沢喜一氏と小沢一郎氏に関する情報を紹介します。

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日航機123便墜落事故 - 38 ( 続「日米構造会議」とは)

2024-07-23 07:26:03 | 徒然の記

 〈 「プラザ合意」後の、アメリカからの要求例 3つ 〉

  「日米半導体協定」 「日米構造会議」 「日米年次改革要望書」

 海部氏も宇野首相同様に影の薄い首相でしたから、ブッシュ大統領と日本のため議論できる人物ではなかった気がします。

 反日マスコミの報道に踊らされ、政争に明け暮れていると国運は傾くと、「ねこ庭」では今の日本が中曽根内閣当時の忌まわしい日本と重なります。

 ウィキペディアの説明の続きを紹介します。

 〈 「日米構造会議」とは  〉 

  ・海部内閣はブッシュ大統領の要求に応え、10年間で総額430兆円という「公共投資基本計画」を策定した。

  ・その後米国側から、「日本の対外黒字の増加を考えれば、公共事業の目標の上積みが必要」との要望があったため、

  ・1994 ( 平成6 )年に村山内閣で計画が見直され、社会資本整備費としてさらに200兆円を積み増しし、総投資額は630兆円を計上している。

 村山内閣も政争屋の小沢氏が画策した内閣で、村山氏は日本のために何かしたと言うより、社会党委員長だったのに社会党を消滅させた張本人でした。

 海部、細川、羽田、村山各氏を担いだ小沢氏は、「名より実をとる」ことに徹し、首相の陰にいました。交渉の責任を首相だけが負いましたが、「ねこ庭」では日米交渉の本当の責任者は小沢氏と考えています。

 そう思いながら、ウィキペディアの説明を紹介します。

  ・この投資行動が「箱物行政」を生み出し、現在の日本の財政難の遠因であるとの指摘がある。

  ・具体例としては、運輸省がこれ以上の地方空港は不要とする航空会社の意見を無視し、対米約束の事業費消化のために「総滑走路延長指標」を用いて、日本の空港を乱立させたことが挙げられる

  ・純債務で見れば財政難ではないという意見もあるが、米国のこの要請の背後には、世界に流出する多額のジャパン・マネーがドルの影響力を希薄化させることを懸念し、ジャパン・マネーを日本国内に閉じ込める狙いがあった。

  ・一方、日本の慢性的な対米貿易黒字に対して、国富と雇用を奪われた米国が、外需主導ではなく内需主導成長を日本に求めたとも言われている。

 米国の要求は、まだあります。

  ・地価の高騰が、企業の担保価値を莫大なものとし、円の高騰が、逆に米国の不動産投資に大量の資金を流れ込ませていた。

  ・またその担保価値を利用し、日本企業が比較的容易に海外投資を行っていたことが、皮肉にも日本企業の競争力を高めていた。

  ・地価高騰の背景として米国が着目した点が、日本の土地税制だった。

  ・日本の農地の保有税が宅地の80分の1であることが、結果として宅地開発推進や効率的な土地利用の妨げになっているとし、日本に是正を要求した。

  ・また大型店の進出を規制していた「大規模小売店法」を 、2000 ( 平成12 ) 年に廃止させ、「大規模小売店舗立地法」を制定させた。

  ・一連の動きは「トイザラス協議」とも呼ばれているが、結果的に郊外に駐車場を備えた大型ショッピングセンターが次々に出来た。

  ・地方都市中心部の商店街に顧客が来なくなり、駅前にシャッター通りを相次いで発生させたとの指摘がある。

 私たちの暮らしが便利になり、快適になった面がありますので、全てがアメリカの悪だくみと批判するのは妥当ではありませんが、日本の実情を無視し、強引に要求を押しつけるアメリカのやり方は、敗戦直後のGHQと似ています。

 実例として第1回「日米構造協議」で米国が指摘し、「最終報告」で日本へ要求してきた事項を紹介します。ジャパン・マネーを日本国内に閉じ込める狙いが、露骨に見えます。

 日本側だけでなく米国側の指摘事項もありますが、米国側の指摘は米国にほとんど負担がなく大した意味がありません。「報告書」の不公平さがよく分かりますので、参考のため紹介します。

 〈 日本側への指摘事項 〉

   ・貯蓄・投資パターン

   →公共投資拡大のため、今後10年間の投資総額として430兆円を計上

   ・土地利用

   →土地の有効活用のため、土地税制の見直し

   ・流通

   →「大規模小売店舗法」の規制緩和

   ・排他的取引慣行

   →独占禁止法の厳正化と公正取引委員会の役割強化

   ・企業系列

   →企業の情報開示を改善

   ・価格メカニズム

   →消費者および産業界に対する、「内外価格差」の実態の周知

 〈 米国側への指摘事項 〉

   ・貯蓄・投資パターン

   →財政均衡法の目標達成年次をくりのべても赤字解消に努力
   →税制上の措置による貯蓄や投資の奨励

   ・企業の投資活動と生産力

   →海外からの投資に対する開放を維持

   ・企業ビヘイビア

   →過大な役員報酬の抑制

   ・政府規制

   →輸出規制の撤廃

   ・R&D( 研究開発  )・科学技術

   →研究開発力の強化および、メートル法の採用促進

   ・輸出振興

   →輸出振興策に予算を計上

   ・労働力の訓練・教育

   →高校の数学、理科の学力向上をはかる
 「日米と言いつつ、実際は日本が一方的に言われるだけだったんですけどね。」

 シリーズの18回目で三橋氏が説明していましたが、内容を見ると残念ながらその通りです。

 次回は、最後に残った「日米年次改革要望書」の紹介をします。熱中症予防のためクーラーを効かせていますので、「学びの庭」の「ねこ庭」へのお越しをお待ちしています。

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日航機123便墜落事故 - 37 ( 「日米構造会議」とは )

2024-07-22 17:52:52 | 徒然の記

 〈 「プラザ合意」後の、アメリカからの要求例 3つ 〉

  「日米半導体協定」 「日米構造会議」 「日米年次改革要望書」

 ウィキペディアの情報から、紹介します。

 〈 「日米構造会議」とは  〉 

  ・「日米構造会議」は「日米構造協議」とも呼ばれ、日米貿易摩擦を背景に日米間の貿易不均衡の是正を目的として、1989 ( 昭和64 )年から1990 ( 平成2 )年までの間、計5回開催された2国間協議である。

  ・1993 ( 平成5 ) 年に「日米包括経済協議」と名を変え、1994 ( 平成6 )年からはじまる「年次改革要望書」と「日米経済調和対話」への流れを形成した。

 この説明だけを読むと分かりませんが、「日米構造会議」は「日米半導体協議」と並行して行われています。

 敗戦直後、日本製品に印字された「MADE IN JAPAI」の表示は、「安かろう、悪かろう」の代名詞でした。それがいつの間にか「MADE IN JAPAI」の表示は、「安くても、品質は世界最高」のマークとして知られるようになりました。

 「産業界の教育ママ」だった通産省と、傘下にある企業の涙ぐましい努力の成果でした。私たちの年代の人間なら誰でも知っている「企業戦士」の時代で、日本中が「月月火水木金金」で働いていた時です。

 アメリカに文句を言われても、簡単に引き下がれない日本の事情も分かりますので、ウィキペディアの説明を読むと当時の状況が浮かびます。

  ・米国経済の、国際収支における対日貿易赤字を食い止めるため、「円安ドル高」の是正を図ったのが1985 ( 昭和60 )年の「プラザ合意」であった。

  ・「プラザ合意」以降円高になっても、日本企業は経営合理化や生産拠点の外国への移転などで、高い競争力を維持していたため、米国の対日赤字は膨らむ一方だった。

  ・そんな中、日米貿易摩擦解消のため、合衆国財務省が「日米構造協議」を立案し、合衆国通商代表部が実際の折衝にあたった。

  ・1989 ( 昭和64 )年7月の日米首脳会談の席上、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領が、宇野宗介首相に次のように提案し「日米構造会議」を実現させた。

    ・プラザ合意以降の「円高ドル安」にあっても、米国の対日赤字が膨らむ要因は日本市場の閉鎖性にある

    ・アメリカは、日本の経済構造の改造と市場の開放を要求する

 元C I A長官でもあったブッシュ大統領と交渉した宇野首相は、日本の最低の首相の一人に数えられる政治家でした。

 現在のマスコミが自由民主党を「裏金問題」で長期間にわたり批判・攻撃していますが、竹下内閣は「リクルート問題」への批判攻撃で倒されてしまいました。

 宇野氏は、「リクルート問題」に無縁な人物として首相に選出されますが、女性関係の不名誉なスキャンダルのため、たった69日で政権を投げ出しました。そんな氏が中身のある議論をブッシュ大統領としできたかにつき、期待できるものはありません。

 それなのに攻撃の手を休めないアメリカを、ウィキペディアが解説します。

  ・日米構造協議以前にも「MOSS協議(市場分野別個別協議)」や「日米円ドル委員会」など、日米2国間での貿易交渉は度々行われてきたが、個別品目や為替などに範囲を限定したものであった。

  ・しかしながら、商習慣や流通構造などの国のあり方や文化にまで範囲を広げる交渉は、「日米構造会議」がはじめてであった。

 ウィキペディアの説明を読みますと、1985 ( 昭和61 ) 年に「日航機墜落事故」が発生した4年後に、アメリカ政府が、やっと本気で「日本弱体化計画」の実行に踏み切ったことになります。

 「ねこ庭」の解釈に従うと、ブォーゲル氏の『ジャパン・アズ・ナンバーワン』つまり、『日本弱体化計画の手引書』による政策の実行です。

  ・1990 ( 平成2)年4月に「日米構造会議」は中間報告をまとめ、同年6月28日に「最終報告」をとりまとめた。

  ・「最終報告」の中で米国は、「日本は輸出につながる産業分野への投資より、公共分野に投資するほうが賢明である」とし、日本に対しGNPの10%を公共事業に配分することを要求した。

 ここまで超大国アメリカに内政干渉をされますと、「産業界の教育ママ」だった通産省も出番がなくなります。出番が無くなっだけでなく、持っていた権限が削ぎ落とされています。

 覚えている方もおられると思いますが、当時の日本の政界を牛耳っていたのは小沢一郎氏でした。保守政治家としての信条も信念もない氏は、自己顕示欲だけの政争屋で、「政界の壊し屋」と陰口を叩かれ得意になっていました。

 「担ぐには、祭りの神輿と総理大臣は軽い方が良い」と放言する氏が、宇野氏の次に担いだのが海部首相でした。

 息子たちと「ねこ庭」を訪れる方々のため、概略だけの紹介予定でしたが今回も一回で終われなくなりました。不本意ながら次回も続けますので、日本の独立を取り戻したい方だけ、足をお運びください。

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日航機123便墜落事故 - 36 ( 続・日米半導体協定 )

2024-07-22 07:19:38 | 徒然の記

 〈 「プラザ合意」後の、アメリカからの要求例 3つ 〉

  「日米半導体協定」 「日米構造会議」 「日米年次改革要望書」

 前回の続きを紹介します。「日米半導体協定」の核心部分の説明ですが、こう言う微妙にところはマスコミで報道しませんから、やはり今回初めて読む情報です。

 〈 「日米半導体協定」とは  〉 

 ・元々半導体を軍事の一つとして捉えていた米国は、自国の半導体産業の苦境を防衛問題として認識し、これが米国の態度を硬化させる一因となった

 ・ミサイル、コンピューター、人工衛星などの製造には、半導体部品が必須であり、その半導体が全て日本製品となることは、米国にとって軍事上の脅威であった。

 ・歴史的に、1980 ( 昭和55 )年代前半までは、米国勢はNMOSに、日本勢はCMOSの開発に集中していた。

 ・本来、CMOSは効率は優秀だが、家電など低電力のユースケースに適するため、米国が想定している半導体の本命である軍事としての重要度は低かった。

 ・しかし、1970 ( 昭和45 )年代に日立製作所を筆頭とする日本企業が、「ツイン・ウェル(TWIN WELL)」という新たな構造を発案し、米国企業のNMOSメモリーのパフォーマンスを上回った

 ・つまり、いきなりCMOSが性能でNMOSと並ぶ状態となった。

 ・1986 ( 昭和61 )年の時点では、マイクロプロセッサーなど高性能半導体の分野でも、日本勢が先行したCMOSの時代が始まる現実味が増していた。

 技術者でないから詳しいことは分かりませんが、日本の技術がアメリカを追い越し、軍事分野への転用を可能にしたのですから、彼らが大慌てした様子が推察できます。

 1986年に、日米間で締結された「第一次半導体協定の骨子は次の2点でした。

    1.   日本の半導体市場の海外メーカーへの解放

        2.  日本企業によるダンピングの防止

 協定には盛り込まれませんでしたが、外国製のシェアを5年以内に20%以上にすることを約束させる「秘密書簡」も交換されていますが、この文書の存在は伏せられていたと言います。

 日本側も、アメリカの一方的な要求を簡単に受け入れたのでなく、激しく抵抗していましたが、1986 ( 昭和61 )年の「日航機墜落事故」で大きな借りを作った中曽根内閣は、抵抗できなかったのではないでしょうか。

 アメリカはダンピング防止手段として、日本の企業ごとに米国政府が独自に算出した「公正市場価格」を新たに設定し、この価格以下で半導体を販売するとダンピングにすると言う強行手段に出たと言います。

 ウィキペディアの情報を紹介します。

  ・一方、日本市場での米国企業の半導体のシェアは伸び悩み、米国議会などでは日本に対しさらに批判が高まった。その後、米国政府は先の「秘密書簡」を根拠に通商301条による制裁を日本に予告した。

  ・日本は「秘密書簡」は数値目標ではないと反論したものの、米国は日本の言うことを一切聞かず、日米間の交渉は決裂した。

 「秘密書簡」当時の日本は国内市場では外国製品を締め出していたのですから、洪水のように輸出してくる日本に、アメリカが怒ったのも当然と言えば当然と言う気がします。

 ウィキペディアは中曽根首相が退任後に、新潮社から出版した著書『中曽根康弘が語る戦後日本外交』の中で、次のように語ったと紹介しています。

   ・1985 ( 昭和60 )年は日米経済関係が一番緊張した時代に入った頃だった。

  ・米国が一番うるさかったのは、繊維、通信機器、自動車で、米国の財界が悲鳴をあげていた。

  ・日本から米国への輸出過多の品目に一つ一つ手当てをしていった記憶がある。

 「日航機墜落事故」には言及せず、他人事のように説明していますが、手に入るものなら、どんなことが書かれているのかいつか「ねこ庭」で読んでみたい気がします。

 たとえ「日航機墜落事故」が関係していたとしても、中曽根氏が語れることでありませんから、他人事のような説明しかなかったと言う事情も理解します。

 しかしアメリカは、更に強行手段を使いました。

  ・1987 ( 昭和62 )年アメリカ政府は、ダンピングが継続されていることと、対日市場に対するアクセス性の未改善という点で協定が不履行であるとして、日本に対して制裁を行った。

  ・その制裁の内容はパソコン、カラーテレビ、電子工具に対して100%の関税率を一方的に日本に課すもので、合計3億ドルの関税引き上げを行った

 現在、「米中経済戦争」についてテレビや新聞が大きく報道していますが、37年前の日本が既に同じことをやられていた事実を知りました。

 中国も日本も、自国の市場で外国製品を締め出しながら、他国へ自国製品を売ろうと言うのですから、虫のいい国です。貿易戦争については、アメリカばかりを責められないと言う気がしてきます。

 しかしアメリカも力づくでねじ伏せるのですから、どっちもどっちとしか言いようがありません。

 ウイキペディアの解説は「日本企業」が敗者となるまで、これでもかと続きますが、「日米構造会議」と「日米年次改革要望書」の紹介がまだ残っています。

 三橋氏がアメリカの対応を怒りと共に説明していた理由も、分かりました。まだ知りたい方は、自分でウィキペディアの情報を検索してください。

 息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に、概要だけでも紹介と言うのが目的ですから、「日米半導体協定」については今回で終わりにします。

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日航機123便墜落事故 - 35 ( 「日米半導体協定」とは )

2024-07-21 20:10:29 | 徒然の記

 〈 「プラザ合意」後の、アメリカからの要求例 3つ 〉

  「日米半導体協定」 「日米構造会議」 「日米年次改革要望書」

 今回からページのタイトルを新しくして、ウィキペディアの情報をもとに、上記 3つのアメリカからの要求を紹介します。
 
 当時のマスコミも大きく報道していましたけれど、ここまで踏み込んだ説明はしていなかったと思います。
 
 「日本国憲法」を受け入れた時点でアメリカの属国になっていた日本とは言え、マスコミが米国側の要求を詳しく説明していたら、国民の反米感情が生じたはずですから、彼らそれをしなかったのだろうと考えます。
 
 今ここで改めて紹介するのは、息子たちや「ねこ庭」を訪問される方々のためと言うより、自分自身の啓蒙になる気がしてきました。
 
 〈 「日米半導体協定」とは  〉 
 
  ・昭和61 ( 1986 ) 年9月に、半導体に関する日米貿易摩擦を解決する目的で締結された条約である
 
  ・第一次協定 ( 1986年~1991年 )と第二次協定 ( 1991年~1996年 ) の合計で、10年間にわたり有効であった
 
   ・この協定の締結によって、1981 ( 昭和56 ) 年に世界の半導体市場の70%のシェアを誇っていた日本の半導体産業が、1990 ( 平成2 ) 年代以降急速に国際競争力を失った

  ・日米半導体協定の締結の背景としては、1970 ( 昭和45 ) 年代後半から日本の半導体の対米輸出が増加し、米国国内で「日本脅威論」が強まっていたことがあげられる

  ・1971 ( 昭和46 ) 年の半導体売上ランキングでは、 

    世界 1位が T I( テキサス・イントゥルメンツ )

    世界 2位が Motorola( モトローラ )

    世界 3位が Fairchild( フェアチャイルド )、と米国企業が上位を独占していた

  ・1981 ( 昭和56 )年主流の「64キロビットDRAM」のシェアで、日本企業は合計70%を占め、米国企業の30%を大きく上回った

  ・この時米国内で「日本脅威論」が広がっていった。

  ・1982 ( 昭和57 )年米国政府の要請から、「日米先端技術作業部会」が設置され、日本市場開放や日本企業の特許開放など米国業界の要望を、日本政府が国内企業への行政指導により実現させることが求められた

  ・1983 ( 昭和58 )年日本製半導体が急速にシェアを拡大し、米国企業の間に危機感が増大

  ・1985 ( 昭和60 )年の半導体不況で、多くの米国企業が業績の悪化によって半導体事業から撤退

        ・1985年6月、米国半導体工業会(SIA)が「日本企業が不当に半導体を廉価販売している」と主張し、日本製半導体をダンピングとして米通商代表部(USTR)に提訴

  ・1986 ( 昭和61 )年の半導体売上ランキングでは、 

    世界 1位が NEC

    世界 2位が 日立製作所

    世界 3位が 東芝

    世界 4位が Motorola(モトローラ)、5位が T I(テキサスインスツルメンツ)

     6位がPhilips、7位が富士通、8位が松下電気、9位が三菱電機、10位がIntel( インテル )となり、日本企業の多くが上位にランクインした

   ・この時の国別シェアは日本が46%となり、米国を抜いて世界一となった

 世界の半導体業界で日本がここまでのシェアーを占めていたとは、知りませんでした。

 昨年6月の千葉日報の記事で、半導体材料大手のJRSを日本の官民ファンドが1兆円で買収計画をしているとか、台湾の世界的半導体メーカーTCMCの製造工場の熊本誘致に成功した、などと知り知りました。

 日本が世界市場へ打って出るのだと言う意欲的な内容でしたが、昭和61年代の日本を知っていれば、何も驚く話でありませんでした。「日航機墜落事件」以後の日米貿易戦争のことを考えると、驚きの内容が別になります。

  アメリカは、ここまで徹底的に日本の半導体産業を壊滅させていたのか。

 同じ失敗を繰り返さないためと、アメリカの属国から抜け出し独立国になるためにも、過去を知る必要があります。

 次回も同じテーマで紹介を続けますので、日本の独立を取り戻したい方だけ、足をお運びください。

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日航機123便墜落事故 - 34 ( 「プラザ合意」後の米国の要求 )

2024-07-21 14:43:19 | 徒然の記
 「プラザ合意」後、優秀な官僚たちは、急激な円高に危機を感じ、それを食い止めようと大幅な金融緩和を実施しました。
 
 通貨発行量が増大し、投資先のない資金が不動産へ向かい、バブル景気を招くことにつながりました。そして間も無くバブルが崩壊し、日本経済の「失われた10年」「失われた20年」、さらに「失われた30年」が続いています。
 
  ・昭和62年4月1日、中曽根首相氏は国鉄を分割民営化し、JR6社を発足させた。
 
  ・同年6月、総合保養地域振興法(リゾート法)を制定し、民間活力の導入によるリゾート産業の振興と余暇活動の促進を図った。
 
  ・同年7月、竹下氏が自民党田中派内の大多数の議員と、新たな最大派閥「経世会(竹下派)」を結成。
 
  ・同年10月、自民党総裁任期の満了となる中曽根氏は、次期総裁に竹下登氏を指名(中曽根裁定)
 
  ・翌11月、中曽根内閣は総辞職し竹下内閣が成立するが、「日航機墜落事故」後の米国からの「日本潰し要求」は続いた。
 
   ・昭和63年の竹下内閣の時、アメリカ議会は更に強力な手法で、日本を一方的に不公正貿易国と認定し、スーパー 301条を成立させた。
 
  ・その翌年、アメリカが日米の貿易不均衡を是正するため、貯蓄・投資バランス,流通,企業形態など、日本の構造問題を解消することが重要と主張し、「日米構造協議」が開始された。
 
 この中で、平成8年の橋本政権が打ち出した「行財政改革」は、まさにアメリカが求めていた「構造改革」でした。日本の省庁を1府22省庁から1府12省庁に再編し、独立行政法人の設置を進め「聖域」だった郵政事業にも手をつけました。
 
 橋本氏を評価する意見もありますが、ヴォーゲル氏が賞賛していた官僚組織を崩壊させ、弱体化したのですから日本にとっては大失政でした。一連の動きはすべてアメリカから要求されたもので、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の警告通りに日本潰しが実行されたと、「ねこ庭」は考えています。
 
 「郵貯改革」を断行した小泉首相が、その総仕上げでした。
 
 ポピュリスト政治家の典型だった氏は、靖国参拝に反対する中国政府の批判を意に介さず、国民の喝采を得る一方で、竹中平蔵氏を重用し、国民を守ってきた企業の「終身雇用制度」を破壊しました。
 
 竹中氏は「正社員」を蛇蝎のごとく嫌悪し、企業の持つ社員用の保養所など、福利厚生施設の全てを、株主のためにならない無用の支出と切り捨てさせた人物です。
 
 会社は利益を最大限に上げ、得た利益を最大限に株主に還元するのが使命と言う考えの持ち主でした。氏の考えの基本にあるのは、人間社会は契約によって成り立つというルソー以来の伝統的な「社会契約説」、つまりヴォーゲル氏と同じだったということです。
 
 シリーズの32回目にヴォーゲル氏の思考を紹介し、後に述べますと言いましたが、その説明を今しています。
 
 氏の思考をそのままを機械的に、力ずくで実行したのが竹中氏でした。
 
 日本の会社の「終身雇用制度」や「手厚い福利厚生施設」は、「民の竈 ( かまど ) 」の仁徳天皇の神話以来続いてきた、日本の伝統とも言える仕組みでした。共同体を構成する者たちがそれぞれの分を尽くし、得た利益を共有する日本特有の和の文化とも表現できます。
 
 それを竹中氏は西欧風の「社会契約説」を持ち込み、社員の福利厚生諸制度を、株主の利益にならない無駄な支出として廃止させました。
 
 言い出したのはヴォーゲル氏ですが、現在の若者の貧困化をもたらした実行役は、米国の利益代理人竹中氏と、彼を重用した小泉氏であると「ねこ庭」は主張します。
 
 竹中氏に至っては、正社員の後を埋める「人材派遣会社」の役員に収まっているのですから、「悪徳政商」と呼ばれて当然ではないでしょうか。
 
 日本に沢山仲間がいたヴォーゲル氏は、日本がこうした状況になると思っていたのか、いなかったのか。いずれにしても氏の著作は、アメリカの政府指導層を動かし、日本を弱体化させることに成功しました。
 
 次回は、次々と出されたアメリカの諸要求の中から次の3つだけを選び、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々へ紹介します。
 
  「日米半導体協定」 「日米構造会議」 「日米年次改革要望書」
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日航機123便墜落事故 - 33 ( 日米首脳の会話 ? )

2024-07-20 17:50:29 | 徒然の記

 〈 日航機123便墜落事故に関する「ねこ庭」の意見 〉

  昭和60年中曽根内閣の時、先進5カ国蔵相会議で、日本は「プラザ合意」を、受け入れました。
 
 米英仏独が安すぎる円に文句をつけ、共同で円高を迫った会議です。円が安すぎるため、日本製品が世界に出回り、結果として欧米諸国の製品が売れない。円安のせいで自国産業が弱体化し、経済に悪影響を及ぼしていると彼らは主張しました。
 
  昭和60年・・1985年 8月12日  日航機123便墜落事故
 
         1985年 9月22日 先進5ヶ国蔵相・中央銀行総裁会議
 
 プラザ合意により米英仏独が協調して為替介入し、円高が一気に進行し、1ドル235円だった為替レートが、わずか一年で1ドル150円前後になりました。
 
 急激な円高を招いたプラザ合意は、「第2の敗戦」と言われるほど、日本経済に大きな打撃を与える大失政でした。しかしこの時中曽根首相はレーガン大統領と笑顔で対談し、「ロン・ヤスの仲」と、日米関係の良好さをアピールしました。
 
 「日航機123便墜落事故」がプラザ合意に関係があると知らず、「第2の敗戦」に匹敵する重大事とも知らず、私たち国民はマスコミの報道を眺めていたことになります。
 
  レーガン大統領 ・・日航機墜落事故の原因については、全面的にボーイング社のミスと考えている。
 
  中曽根首相   ・・それは今の段階では、何とも言えません。
 
  レーガン大統領 ・・自衛隊の演習は無関係と考えている。
 
  中曽根首相   ・・それも今の段階では、何とも言えません。
 
  レーガン大統領 ・・アメリカの提案に、なにか不服でもおありか ? 
 
  中曽根首相   ・・突然のお話に驚いています。
 
  レーガン大統領 ・・アメリカ側の要望は、事故の検証ができないように、日本側で現場を焼却処分して貰いたいことだけ。
 
 この会話は歴代首相への口頭の引き継ぎ事項となったのか、それとも中曽根氏の胸中だけに収められたのか、そこは推察できませんが、事故現場を焼き払った自衛隊の異常な行動は、両首脳の会話に原因があったとしか考えられません。
 
 国際政治の残酷さは、現在のイスラエル・ハマス戦争、ロシアとウクライナの戦争に見られる通り、常識では考えられない原因で始まり、犠牲となるのは罪のない庶民です。
 
 「ねこ庭」の意見の根拠は、エズラ・ヴォーゲル氏の著書  『ジャパン・アズ・ナンバーワン』と、「日航機墜落事故」以後の「日米貿易戦争の流れ」という状況証拠だけです。
 
  1.  レーガン大統領は「日航機墜落事故」を利用し、日本へ大きな貸しを与えた
 
  2. アメリカは、ヴォーゲル氏 の『日本弱体化計画の手引書』を活用し、日本の社会基盤を破壊した
 
  3.  有頂天になっていた日本は、「ネメシスの報い」を受けてしまった
 
 賛成する人があってもなくても、以上が「ねこ庭」の意見です。その代わり有頂天になりすぎたアメリカが、今は「ネメシスの報い」を受ける番になっています。
 
 完膚なきまでに日本を打ちのめしたアメリカは、ヴォーゲル氏が期待した「豊かな良い社会」を築けたのでしょうか。
 
 合衆国大統領選挙に見られるように、トランプ氏とバイデン大統領が激しく醜い争いを続け、国民が二つに分かれ、国論が二分して対立しています。陽気で大らかだった「古き良きアメリカ」の姿は、どこにもありません。
 
 「ねこ庭」は日本の庭ですから、ヴォーゲル氏のように「ネメシスの報い」というギリシア神話の言葉を使いません。
 
   祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
 
   沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理 ( ことわり  ) をあらわす
 
   奢れる者も久からず ただ春の夜の夢のごとし
 
 「ねこ庭」から眺める現在のアメリカの景色は、『平家物語』の一節が語り尽くしていると思います。
 
 「ねこ庭」の意見を述べましたので、本来なら今回で最終にして良いですが、結論が平家物語では息子たちが安心しないような気がします。それでもう一回、中曽根内閣以後の「日米貿易戦争」の流れを紹介することに決めました。
 
 三橋氏がすでに説明していますし、森永氏も述べていますが、「ねこ庭」としての整理をしたいと考えます。ご存知の方にはスルーされることをお勧めし、今回でお別れと致します。
 
 暑さにかかわらずおつき合い頂き、有難うございました。
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日航機123便墜落事故 - 32 ( 日米貿易戦争最中の「日航機事故」 )

2024-07-20 12:59:36 | 徒然の記

 〈 日航機123便墜落事故に関する「ねこ庭」の意見 〉

 ヴォーゲル氏の分析の中で「ねこ庭」が注目したのは、会社に対する捉え方でした。

 日本における会社は社員と経営者の利益共同体で、いわば運命をともにする組織でした。しかし氏は、会社は経営者と社員だけのものでなく、会社に出資している株主のものでもあると考えています。

 会社は利益を最大限に上げ、得た利益を最大限に株主に還元するのが役目だと言う考えです。氏の思考の基本にあるのは、人間社会は契約によって成り立つというルソー以来の伝統的な「社会契約説」だろうと思います。

 だから氏には株主との約束を軽視する日本の会社の在り方が理解できず、次のように説明しています。

  ・日本の大企業は定年退職の年齢を、55才から60才の間に定めているが、大抵の人は退職後再就職が必要であり、会社としても、退職後の世話をするのが普通である。
 
  ・会社が従業員に与えるこうした特典の他に、会社の持っている寮、社宅、山の家、海の家やクラブ、といった施設を利用できるようにすることは、金銭には換算しにくいものである。 
 
  ・こうした社員のための恩典は、東京の米国大使館に勤務している労働問題の専門家、ロバート・イトーマンが指摘するように、日本企業が費やす企業内福利厚生費の総額は、アメリカのそれよりはるかに多いことが明白である。
 
 この指摘の重要性については後から述べるとして、最終章にある氏の言葉を紹介します。
 
  ・アメリカ人が現在、日本からの挑戦、更に今後は韓国、その他のアジアの国々からの挑戦にうまく対応できるかは、明らかではない。
 
  ・日本が成功したように、アメリカが良い社会を築くため、あと知恵でなく先見の明を持ち、場当たり的対応でなく事前に計画を立て、事態に対処できるようにという願いを込めてこの本は書かれたのである。
 
 アメリカの政治家、企業人、特にウォール街に君臨する金融資本家たちは、真剣にこの本を読んだのではないでしょうか。
 
 本が出版されたのは昭和54年の大平内閣の時ですが、それからのアメリカが、いかに計画的に日本潰しを行ったかは後の歴史が証明しています。
 
 このままにしておくと日本経済はやがて米国を抜き、世界一になる気配でした。第二次世界大戦後のアメリカは、軍事力でも経済力でも世界の覇権国でしたから、それは我慢のならないことでした。
 
 まして日本は戦争に敗れ、マッカーサーに統治され、二度とアメリカに太刀打ちできないよう「憲法」で軍備の全廃を誓わせた国です。
 
 従ってこの時期のアメリカが、何が何でも日本を叩き潰そうと考えてもおかしくない・・というのが「ねこ庭」の推測です。
 
 日米の貿易戦争そのものは、昭和44年の田中内閣の時から始まり、その幕開けが有名な日米繊維摩擦だったことを、覚えておられる方も多いと思います。
 
 その後、鉄鋼、カラーテレビ、自動車、半導体の分野で摩擦が高まり、1980 ( 昭和55  ) 年代になると、農産物,コンピュータの貿易品目のみならず、建設,通信,金融,弁護士などのサービス分野にまで、日本の市場開放への米国の要求が強まってきました。
 
 1985 ( 昭和60 )年の 8月中曽根内閣の時、偶然なのか、計画されたことだったのか、「日航機123便墜落事故」が発生しました。
 
 当時の日本では、ロッキード事件で政界から追放されたとは言え、田中元首相の影響力が絶大で「闇将軍」と呼ばれるほどの力を持っていました。事故発生時の中曽根内閣がどういう状況にあったのかを、ウィキペディアで調べてみました。
 
 ・1985 ( 昭和60 )年の 2月、「田中曽根内閣」「直角内閣」と揶揄されるほど政権への影響力があった田中角栄が脳梗塞で長期入院。
 
 ・これにより、ポスト中曽根を狙う「ニューリーダー」らのパワーバランスの上に中曽根が立つ形となり、中曽根のリーダーシップが強化されることになる。
 
 「ニューリーダー」というのは、中曽根氏の後を狙い頭角を表していた安倍晋太郎、竹下登、宮沢喜一の3氏でした。当時の政界用語で、安竹宮(あんちくぐう、あんちくみや)とも呼ばれていました。
 
 田中氏が倒れたと言っても、中曽根氏の立場は盤石でなく、第二次中曽根内閣については、[  かろうじて再選された「田中曽根内閣」]という言葉があったほどです。
 
 内閣の主要メンバーの顔ぶれを見ますとよく分かりますので、紹介します
 
         金丸信   ・・幹事長
 
         宮沢喜一  ・・総務会長
 
         安倍晋太郎 ・・外務大臣
 
         竹下登   ・・大蔵大臣
 
 首相として何としても政治の実権を確立したい中曽根氏と、何が何でも日本を叩き潰そうと考えておかしくないアメリカが、「日航機123便墜落事故」を利用して何をしたのか。
 
 読者数88人で、千葉の片隅て細々と発信している「ねこ庭」にしかできない、意見の発表ではないかと思います。
 
 暴論、妄想、空想と酷評され、無視されることを願いながら、次回は〈日航機123便墜落事故に関する「ねこ庭」の意見〉を述べたいと思います。
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