ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『解放朝鮮の歴史・上巻』- 4 ( 李承晩氏と、日本の為政者の違い )

2018-02-11 18:01:53 | 徒然の記

 昭和20年、ホッジ将軍が共産主義者たちとの戦いで四苦八苦している時、ワシントンと東京から、思いがけない話がもたらされました。朝鮮の自由の闘士、朝鮮の国父である李承晩博士の、ハワイからの帰国です。

 コンデ氏の説明を、紹介します。

  ・李承晩の第一声は、「私は一朝鮮人として来た。」 というものだった。

  ・同じ日に少し経ってから彼は、私はいかなるグループいかなる政府とも、なんの関係もないと語った。

  ・彼が朝鮮人の支持を受けていないのは、確かに本当だが、アメリカとのつながりは、まったく明白だった。

 コンデ氏は社会主義者なので、ソ連を支持しアメリカに敵意を持っています。当然李承晩氏に対しても、好感を抱いていませんから、反・李承晩の説明になります。

  ・戦争中ずっとアメリカ戦時情報局は、朝鮮向け短波放送を通じ、国父としての彼のイメージを流し続けていた。

  ・李承晩はこのときブラックという偽名を使って、アメリカの軍用機で東京まで来ている。

  ・彼はマッカーサーに歓迎され、再び米軍機でソウルへ飛んだ。彼はアメリカの招待を受けて朝鮮に赴いたのであり、たんなる 一市民 ではなかった。

  ・朝鮮到着4日後に、ソウルで開かれた解放記念集会で、5万人の聴衆に向かって李は演説をした。耳障りな声で聴衆に向かい、長広告をふるった。

 コンデ氏の悪意に満ちた叙述の次に、李承晩氏の演説を紹介します。

  ・私は、ヨーロッパとアジアに、共産主義が広まるのを見てきた。

  ・そして私は、今すぐここでこの問題に取り組むべきであり、いたずらに伸ばすべきでないという結論に達した。

  ・国を統一するために朝鮮人民は、アメリカ政府および占領軍とともに行動し、働かなければならない。

 コンデ氏のお陰で、李承晩氏がアメリカに用意された政治家だった事実を教えてもらいました。さらに重要なことは、李承晩が単なる米国の傀儡でなく、まさしく朝鮮人だったという事実です。

 コンデ氏の語る李承晩像から、朝鮮人政治家たちの苦悩と矛盾と、民族の性 (さが )ともいうべき利己主義を発見しました。

 何より彼は、強烈な反日主義者で反共主義者でしたが、同時に反米主義者でもありました。韓国によく見られる小中華思想の政治家で、内心では「韓国こそが世界一」という自負心を抱いています。

 この矜持のまま政治を実践すれば大した人物ですが、いざという時になると、氏は国より自分の利益を優先し、外国の誘惑に目がくらんでしまいます。

 目的のためなら手段を選ばずと、米国の支援を利用しますので、ホッジ将軍には信頼されません。コンデ氏の意見紹介します

  ・伝記作家アレンは、李の目的は自分の地位を守り、権力を増大させることであり、利用できるあらゆる方法を利用する考えだった、と述べている。

  ・ホッジ将軍との間では、大筋の戦略で意見が一致したため、ホッジは73歳の 「 英雄 」を認め、支持し始めた。

  ・李と彼の妻は、アメリカの自動車に運ばれ、日本の協力者だった朝鮮人億万長者が提供した、ソウル市内の贅沢な邸宅に落ち着いた。

 共産主義との戦いという点で一致し、ホッジ将軍と李氏は互いに利用し合いました。朝鮮人の指導者たちは、立派なことを言う割に行動が伴わず、すぐに公私混同をし、大義を見失ってしまいます。李承晩氏に限らず、大院君、閔妃など、過去の政治家は皆同じです。

 この時、2年前に読んだ林房雄氏の著作が頭に浮かびました。『大東亜戦争肯定論』です。

 日本の政治家と朝鮮の政治家の違いが、よく分かりますので、長くなっても紹介します。

  ・慶喜が大阪から江戸城へ戻ってくると、仏国公使ロッシュが謁見を乞うてきた。

  ・彼は慶喜に再挙を勧め、軍艦、武器、資金は、すべてフランスから供給すると言った。慶喜はこれを拒絶し、逆に彼を諭している。

  ・わが方の風として、朝廷の命にて兵を指揮する時は、百令ことごとく行わる。

  ・たとえ今日、公卿大名の輩より申し出たる事なりとも、勅命には違反しがたき国風なり。 されば今兵を交えて、この方勝利を得たりとも、万万一天朝をあやまたば、末代まで朝敵の悪名をまぬがれがたし。

  ・さすれば、昨日まで当家に志を尽くしたる大名も、皆勅命に従わんは明らかなり。

  ・よし従来の情誼によりて、当家に加担する者ありとも、国内各地に戦争起こりて、三百年前の如き兵乱の世となり、万民その害を受けん。これ最も余が忍びざるところなり。

 仏公使ロッシュに向かい、慶喜公が語った言葉を林氏が紹介していました。公の決断が無用の戦乱を避けさせ、フランスの植民地になることを防止したのです。フランスの金や武器に惑わされず、毅然と決断した将軍に、「ねこ庭」は敬意と感謝を捧げました。

 時を同じくして西郷隆盛は、英国の外交官アーネスト・サトーから熱心な提案を受けていました。

  ・幕府はフランスと結びついているから、このまま放置していると幕府が攻撃してくる。

  ・幕府とフランスに対抗できる強国は、英国しかないのだから、薩摩は英国と手を結んでおく必要がある。

  ・もしフランスの援兵が幕府を助けたら、英国は同数の援兵を出す。

 サトーにこう言われた西郷が、なんと答えたか。それは将軍慶喜公に匹敵する、日本武士の言葉でした。

   ・日本の国体を立て貫いて参ることにつき、外国人に相談するような面皮は、持ち合わせては居ない。

   ・このところは、われわれ日本人で十分、合い尽くすゆえ、よろしくご賢察あれ。

 西郷がうっかり提案を受け入れていたら、英国に大きな借りを作り、やがて言われるがままの従属国になったはずと、林氏が語っていました。

 将軍と西郷は敵味方に分かれ、激しい戦いをしていましたが、異国の金銭や武器の支援には目をくれませんでした。ここが、朝鮮人の指導者である李承晩氏や大院君、閔妃との違いです。

 だからと言って、「ねこ庭」では李承晩氏を軽蔑したり冷笑したりしません。自分を第一と考え強いものに巻かれ、他人や国のことはその次に考える。

 ・・・おそらくこれは、周囲の大国に常に攻められ、強者の顔色を伺って身を守った朝鮮の歴史からくる「生き方」と思います。この国には、慶喜公や西郷のような人物を生む土壌がなかったのです。

 今でも、大統領をやめた途端刑務所に送られるという悪循環が続いているのも、いわば韓国の持つ風土なのかも知れません。収賄は犯罪でなく韓国の文化だという政治家もいるので、それこそ千年経っても改まらない利己主義の国です。

 上巻の残りが250ページあります。李承晩氏へのアメリカの支援と日本への悪口と、せめぎ合う米ソの話など、多くの資料が紹介されていますが、煩雑なだけなのでここで終わろうと思います。

  ・長い年月にわたって、日本人による民族差別政策の犠牲者とされてきた朝鮮人は、没落した大日本帝國の絶望的なあがきの時にも、犠牲者として供された。

  ・敗戦後数日ならずして、朝鮮人は数々の汚名を着せられた。

  ・やれ闇市が出たといっては非難され、やれ犯罪が増えたといっては責められれ、税金滞納者、戦争中の臆病者、伝染病の伝播者などと毒づかれた。

 こういう調子で延々と続く氏の著作に、「ねこ庭」の忍耐も切れました。

 事実無根とは言いませんが、「針小棒大」「悪意の誇張」があり過ぎます。氏の著作は、日本と、韓国・朝鮮間の憎悪を、拡大する悪書です。現在の日本で氏の意見に賛成しているのは、反日左翼議員と活動家と、お人好しの「お花畑」の住民です。

 息子たちと、訪問された方々に伝えたいのは、氏の著書でなく、慶喜公と西郷隆盛の言葉です。このようなご先祖がおられたから、私たちの現在があることを知り、日本の歴史と伝統を大切にしなければなりません。

 一日も早く、マッカーサー元帥がプレゼントした「東京裁判史観」と、「日本国憲法」を超克し、日本を取り戻さなくてなりません。

 それでも次回は辛抱強く、下巻の紹介をします

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『解放朝鮮の歴史・上巻』- 3... | トップ | 『解放朝鮮の歴史・下巻 』 ... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

徒然の記」カテゴリの最新記事