ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 89 ( 言霊 ( ことだま ) 信仰 )

2023-05-05 20:37:23 | 徒然の記

 〈  十六闋 主殿寮  ( とのもれう )「天暦の治」の本当の姿      9行詩  〉

 村上天皇の編纂された「勅撰集」が、後世高く評価された理由に関する渡部氏の解説を紹介します。

 「日本人は古代から、和歌には特別の考え方や信仰を持っていた。万葉集には、天皇の歌も旅の遊女の歌も、等しく採録されている。そこには身分の貴賎、男女の差別は認められない。」

 氏はここに、キリスト教の説く「神の前の平等」、近代人が言う「法の前の平等」に似た考え方があると説明します。

 「古代の日本人には〈 和歌の前の平等 〉という発想があった。和歌が上手であれば、神様にもなるし、出世もするし、勅撰集の中で皇族・公家とも肩を並べることができる。」

 「これは言霊 ( ことだま ) 信仰とも結びついてたから、堂々たる漢文で書かれた『日本書紀』の中でも、和歌は漢訳せずに、漢字を音標文字として用いて表記した。そこに用いられたいわゆる大和言葉に対する信仰が、和歌の日本人の心に占める比重を大きくしている。」

 「古代の日本人の〈 和歌の前の平等 〉という発想」「言霊 ( ことだま ) 信仰」と言う二つの説明に心を動かされました。八百万の神様のいる日本ならではの発想ではないかと、心に響きました。

 今私の手元に、昭和46年に小学館が発刊した『万葉集 (一) 』があります。学生時代に買った本ですが、分厚い本で、収録歌があまりに多いため、読みおおせないままになっています。渡部氏の解説と似た言葉が「序文」にあったのを思い出し、引っ張り出してきました。

 息子たちのためには、他の学者の解説も合わせて紹介する方が役に立つ気がします。この本の著者は次の3氏です。

  小島憲之・・国文学者、大阪市立大学名誉教授

  木下正俊・・万葉学者、関西大学名誉教授

  佐竹昭広・・国文学者・万葉学者、京都大学名誉教授

 三氏のどなたが書いたのか不明ですが、古代の日本人の和歌への強い思いが説明されています。詳しく紹介すると渡部氏の書評を外れますので、「序文」の共通部分を一部だけ紹介します。

 「『万葉集』の中には天皇の作歌から、乞食の詠んだ歌までが入っている。皇族あり、高官あり、下級官人あり、兵士あり、僧侶あり、童女あり、遊行女婦ありと言うふうに、作者の階層という面でも多様性が如実に示されている。」

 「時代の幅にしても、真偽の程は分からないが、十六代仁徳天皇の代から、四十七代淳仁天皇の代まで、数百年にわたり、地域的にも陸奥国 ( みちのくのくに ) から、筑紫国  ( つくしのくに ) までに広がっている。」

 「この種々雑多な作品がどのようにして集められたか、誰も答えることはできまい。いわゆる作者未詳の1900首ばかりの歌、全体の四割以上を占めるこれらの歌は、どのようにして集められたのであろうか。」

 古代中国にあった采詩官のような役目の者が、各地方にいたのかもしれないと言います。

 「作業の行われた場所は、国府の官舎だったかもしれず、奈良朝末期あるいは平安のごく初期に、宮廷の図書寮 ( ずしょりょう ) に集められ編集されたと想像できる。」

 特に私が注目したのは、次の説明でした。

 「この想像を助けるものは、平安官人が『万葉集』に対して抱いていた、かなり根強い万葉尊崇の感情の存在である。」

 「万葉尊崇の感情」と言う説明が、渡部氏の解説する「言霊 ( ことだま ) 信仰」につながる思考であり、八百万の神を信じる日本人の思いと重なるのでないか、と考えました。

 「平安時代の歌人たちは、自己の詠んだ歌に対して、絶えず『万葉集』の歌を意識していた。」

 「純然たる勅撰集ではないまでも、平安人は『万葉集』をほとんど勅撰なみに受け取っていたことが推察される。」

 勅撰集とは、天皇または上皇の命令により,撰者が指名され,組織的な詩集,歌集として編集,奏上された漢詩集、和歌集を言うそうです。古代の人々は大和言葉で書かれた和歌を、日本人の心として大切にし、それが今日の「歌会始め」につながっていると分かりました。

 皇室と国民の共通行事である「歌会始め」には、日本人特有の「言霊 ( ことだま ) 信仰」が生きていて、渡部氏の言う〈 和歌の前の平等 〉が実現していると思います。これが一般的でなく、「ねこ庭」でだけの解釈であるとしましても、私は満足しています。

 すっかり横道へ逸れてしまいましたが、次回は〈  十六闋 主殿寮  ( とのもれう ) 〉の漢詩について、氏の解説を紹介します。

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『日本史の真髄』 - 88 ( 皇室と国民の伝統行事 )

2023-05-05 12:06:21 | 徒然の記

  〈  十六闋 主殿寮  ( とのもれう )「天暦の治」の本当の姿      9行詩  〉

 「建武の中興 ( 1334年 ) の時の天皇は、醍醐天皇である。醍醐天皇が御親政された時の治世を理想化し、それに倣 ( なら ) おうとされたからに他ならない。」

 「後醍醐天皇の後を継いだ南朝の天皇は、村上天皇である。すると当然のことながら、村上天皇の治世も醍醐天皇の時のように、後世から理想化される治世であったに違いない、という推定が成り立つ。」

 「確かに村上天皇の天暦 ( てんりゃく ) 年間は、醍醐天皇の延喜年間と並んで良い時代とされていたのであった。( 北畠親房『神皇正統記』 ) 」

 「ところが『大日本史』よって村上天皇の治世を見ると、あまり良い時代でなかった印象を受ける。いわゆる泥棒でなく、〈 群盗 〉と言われる種類のものがあったと推察できる。」

 氏は『大日本史』から、四つの事件の記述を紹介します。

  1.  天暦 2 ( 948 ) 年 3月・・「この月、盗賊横行し、右近府の曹司 ( 部屋 ) に入る」

  2.  天暦 9 ( 955 ) 年   ・・「この歳、盗、駿河介橘忠幹を殺せり」

  3.  天徳 2 ( 958 ) 年   ・・「盗、獄を毀 ( こぼ ) ちて、囚一人を殺し、八人を奪う」

  4.  同4年   ・・「盗多ければ、検非違使・諸療の官人をして、夜を回らしむ」

 位のある人も殺され、役所も荒らされるほど群盗の横行が頻繁だったため、夜警までしていました。当時の京都には平将門の子が隠れていて、盗賊をしたり火付けをしたりしていたそうです。

 原勝郎氏が著書『日本中世史』の中で、平安朝のイメージは華やかであるが、その実像はお粗末だったと説明し、渡部氏が該当する文章を紹介しています。しかし読みこなせない古文なので、省略します。

 「群盗に対する警察吏の役目をした者たちも、特に規律があるわけでなく、ゆすりたかりを常習とし、群盗と変わりがなかった、と原勝郎博士が述べておられる。

 難解な古文より、渡部氏の説明の方が分かりやすくて簡潔です。

 「それにまた村上天皇の治世には、無闇に火事が多い。」

 神祇官の倉、内裏の宜陽殿 ( ぎようでん ) の宝物倉、大学寮焼失、雅楽寮焼失、武器庫・兵庫の焼失、と重大な火災が続き、諸国の神社に幣を奉ったと言います。それでも収まらないため、宇佐神宮や香椎の廟に二度も神宝 ( しんぽう ) と幣を奉ったと記録にあるそうです。

 「村上天皇の21年間の治世に、宮中だけでも重大な火事がこれだけあり、しかも無数の群盗騒ぎがあった。この時代をどうして〈 天暦の治 〉などと、後世の人が理想化したのであろうか。」

 後世の人・・今の私たちから見れば「ご先祖さま」ですが、氏の説明は貴重な教えだという気がします。群盗が横行し火事が頻発していた村上天皇の時代を、ご先祖様が理想化した二つの理由です。

  1.  村上天皇ご自身が、天皇の理想像に近い政治への努力をされていたこと。

   ・神仏に対して、よく勤められていること

   ・しばしば税金を安くされたり、免除されたりしたこと

   ・大赦 ( 恩赦 ) をおこなって、罪人を許しておられたこと

  2. 村上天皇ご自身が、日本独特の文化事業に力を入れられたこと

   ・天暦 5 ( 951 ) 年に、和歌所を開き、漢詩でない「勅撰集」をつくらせたこと

 今の私たちには想像できませんが、おそらくこの「勅撰集」が、村上天皇の事業として後世最も評価されたことでないか、と氏が説明しています。最初は疑問を感じていましたが、説明を最後まで読むと、納得させられました。

 現在皇室に伝わる行事として、毎年行われる「歌会始め」があります。全国の老若男女が参加し、歌会の選者が優れた作品を選び、陛下を始め列席の方々に披露する行事です。ネットでは、次のように書かれています。

 「天皇が催されるお歌会」

  ・宮中では毎月「月次 ( つきなみ ) の歌会」が催されていますが、これらの中で、天皇が年の始めに催される歌会を、「歌御会始 ( うたごかいはじめ )」といいます。

 優れた歌が披露される様子が、NHKのテレビで全国放映されますが、この伝統の行事がなぜ今も続いているのかが、氏の説明でよく分かりました。

 詳しくは次回で紹介しますので、お楽しみに・・・

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