〈 第十八闋 月無缺 ( つきにかくるなし ) 藤原道長の栄華 7行詩 〉
渡部氏が、三女威子 ( たけこ ) について説明しています。
「三女威子だけにはその容貌についての言及がなく、〈 年上の女房 〉だったので甚だ嫉妬深かったと言っている。」
息子たちのためには、ここでも言葉の注釈が要ります。「女房」の読み方は今も同じで、「にょうぼう」ですが、当時の意味は違います。これを知らないと氏の説明が、正しく理解できません。ウィキペディアによりますと、次のように書いてあります。
「女房とは、平安時代から江戸時代頃までの貴族社会において、朝廷や貴顕の人々に仕えた奥向きの女官もしくは女性使用人」
誰でもがなれるものでなく、それなりの家柄が必要なので、現在のお手伝いさんと同じに考えてはいけません。
「しかし彼女は、おそらく美人だったのであろう。威子が初めて女御となったとき、後一條帝はまだ幼児であったので、美しい叔母さんとして威子になつき、彼女の道具で遊びながら仲良く成長したのである。」
二人はやがて婚姻関係を結びますが、気の強い彼女は他の娘を近づけませんでしたので、嫉妬深いと言われています。
「敦康 ( あつやす ) 親王の娘のモト子や、兄頼宗の娘の延子 ( のぶこ ) を勧める案があったのだが、いずれも威子に止められてしまい、二人とも後朱雀 ( ごすざく ) 帝に嫁ぐことになった。」
「後一條帝と威子の仲は良かったようで、その間にできた二人の娘章子 ( あきこ ) と馨子 ( かおるこ ) も、それぞれ後冷泉 ( ごれいぜい ) 帝と後三條帝の中宮になっているから、美人だったに違いない。」
美人の娘たちに重点が移り、突然後一條帝の説明になった感がありますが、氏は「第十八闋」導入部で一條帝の話をしています。息子たちのためと思い、順序を入れ替えていましたので元に戻し、一條帝に関する情報を紹介します。
・986年、花山天皇が内裏を抜け出し出家したため、一條帝は数え年7才で即位した
・これが兼家の陰謀と言われる、「寛和の変」である
・兼家の死後、長男の道隆が関白を務め、一條天皇の皇后に娘の定子を入れ中宮にするが、995年に病没
・代わりに弟の道兼が関白に就任するが、わずか7日後に没したため、道隆の子伊周( これちか ) と、道長の争いになる。
・一條天皇は最初、道隆の子の伊周を重用するつもりであったが、生母詮子 ( あきこ ) が、道長を登用してくれるように頼んだ
・詮子は第六十四代円融 ( えんゆう ) 帝の皇后で、資性婉順にして、円融帝の寵愛を最も受けた女性である。
・一條帝がうんと言われなかったため、詮子は涙を流して頼んだ。
・孝心が強く、思いやりのある一條帝は、生母に頼まれてやむなく、右大臣であった道長を左大臣にし、後に彼は関白太政大臣の地位についた。
・しかし道長がこの地位にいたのは2年足らずであり、後は長男の頼通に譲った。
・その頼道の時代が長かったのであるが、実権は父の道長が握っていたのである。
書き出しの部分で、氏が権力争いの経過を説明していたのに、頼山陽の詩の説明を大きく外れるので順番を入れ替えましたが、こんなことならそのまま紹介すればよかったのかもしれません。
ここまで来ても、まだ頼山陽の詩の解説にならないのですから、私も横道へ入り、ウィキペディアの情報を挟んでみます。
「一條天皇の時代は、道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后定子に仕える清少納言、中宮彰子に仕える紫式部・和泉式部らによって平安女流文学が花開いた。」
「天皇自身、文芸に深い関心を示し、『本朝文粋』などに詩文を残している。音楽にも堪能で、笛を能くしたという。また、人柄は温和で好学だったといい、多くの人に慕われた。」
清少納言 966年生まれ 中宮定子に仕え、定子の死後宮仕 ( みやづかえ ) をやめる
紫式部 973年生まれ 中宮彰子 ( 道長の娘 ) につかえる
かの有名な「枕草子」と「源氏物語」の作者は、この時代の人だったのです。雑学かもしれませんが、清少納言の方が7才年長でした。「少納言」も「式部」も共に本名でなく、親の官職から来たペンネームだということも知りました。
紫式部の「式部」は、父為時の官位(式部省の官僚・式部大丞 ( たいじょう ) ) だったところから来ているようで、清少納言の「小納言」も同じです。二人とも才女として日本で知らない人がいませんが、作品以外には本名も、没年の状況も不明のままだそうです。
「昔から日本では、女性の人権が無視されてきた。」「日本の女性は虐げられてきた。」
反日左翼の学者と政治家たちが、盛んに日本を悪様に言っていますが、この時代の女性たちの活躍ぶりを知らないのでしょう。文学世界を席巻しただけでなく、天皇のお気持ちを動かし、権力者たちの地位を左右する女性たちを見ていると、「日本学術会議」にいる左翼学者たちが、実は日本の歴史について何も知らないのだと分かります。
そのようなことを渡部氏は述べていませんが、本を読んでいると自然に分かってきます。となりますと、やはりこの本は「愛国」の書なのでしょうか。無関係な「美しい娘たちの話」と思わず、次回も本気で紹介したくなりました。気の向いた方は、「ねこ庭」へ足をお運びください。