ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 101 ( 女性たちが輝いた時代 )

2023-05-26 21:18:29 | 徒然の記

 〈  第十八闋 月無缺 ( つきにかくるなし )    藤原道長の栄華     7行詩  〉

 渡部氏が、三女威子 ( たけこ ) について説明しています。

 「三女威子だけにはその容貌についての言及がなく、〈 年上の女房 〉だったので甚だ嫉妬深かったと言っている。」

 息子たちのためには、ここでも言葉の注釈が要ります。「女房」の読み方は今も同じで、「にょうぼう」ですが、当時の意味は違います。これを知らないと氏の説明が、正しく理解できません。ウィキペディアによりますと、次のように書いてあります。

 「女房とは、平安時代から江戸時代頃までの貴族社会において、朝廷や貴顕の人々に仕えた奥向きの女官もしくは女性使用人」

 誰でもがなれるものでなく、それなりの家柄が必要なので、現在のお手伝いさんと同じに考えてはいけません。

 「しかし彼女は、おそらく美人だったのであろう。威子が初めて女御となったとき、後一條帝はまだ幼児であったので、美しい叔母さんとして威子になつき、彼女の道具で遊びながら仲良く成長したのである。」

 二人はやがて婚姻関係を結びますが、気の強い彼女は他の娘を近づけませんでしたので、嫉妬深いと言われています。

 「敦康 ( あつやす ) 親王の娘のモト子や、兄頼宗の娘の延子 ( のぶこ ) を勧める案があったのだが、いずれも威子に止められてしまい、二人とも後朱雀 ( ごすざく ) 帝に嫁ぐことになった。」

 「後一條帝と威子の仲は良かったようで、その間にできた二人の娘章子 ( あきこ  ) と馨子 ( かおるこ ) も、それぞれ後冷泉 ( ごれいぜい  ) 帝と後三條帝の中宮になっているから、美人だったに違いない。」

 美人の娘たちに重点が移り、突然後一條帝の説明になった感がありますが、氏は「第十八闋」導入部で一條帝の話をしています。息子たちのためと思い、順序を入れ替えていましたので元に戻し、一條帝に関する情報を紹介します。

 ・986年、花山天皇が内裏を抜け出し出家したため、一條帝は数え年7才で即位した

 ・これが兼家の陰謀と言われる、「寛和の変」である

 ・兼家の死後、長男の道隆が関白を務め、一條天皇の皇后に娘の定子を入れ中宮にするが、995年に病没

 ・代わりに弟の道兼が関白に就任するが、わずか7日後に没したため、道隆の子伊周( これちか ) と、道長の争いになる。

 ・一條天皇は最初、道隆の子の伊周を重用するつもりであったが、生母詮子 ( あきこ ) が、道長を登用してくれるように頼んだ

 ・詮子は第六十四代円融 ( えんゆう ) 帝の皇后で、資性婉順にして、円融帝の寵愛を最も受けた女性である。

 ・一條帝がうんと言われなかったため、詮子は涙を流して頼んだ。

 ・孝心が強く、思いやりのある一條帝は、生母に頼まれてやむなく、右大臣であった道長を左大臣にし、後に彼は関白太政大臣の地位についた。

 ・しかし道長がこの地位にいたのは2年足らずであり、後は長男の頼通に譲った。

 ・その頼道の時代が長かったのであるが、実権は父の道長が握っていたのである。

 書き出しの部分で、氏が権力争いの経過を説明していたのに、頼山陽の詩の説明を大きく外れるので順番を入れ替えましたが、こんなことならそのまま紹介すればよかったのかもしれません。

 ここまで来ても、まだ頼山陽の詩の解説にならないのですから、私も横道へ入り、ウィキペディアの情報を挟んでみます。

 「一條天皇の時代は、道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后定子に仕える清少納言、中宮彰子に仕える紫式部・和泉式部らによって平安女流文学が花開いた。」

 「天皇自身、文芸に深い関心を示し、『本朝文粋』などに詩文を残している。音楽にも堪能で、笛を能くしたという。また、人柄は温和で好学だったといい、多くの人に慕われた。」

  清少納言 966年生まれ 中宮定子に仕え、定子の死後宮仕 ( みやづかえ ) をやめる

  紫式部  973年生まれ 中宮彰子 ( 道長の娘 ) につかえる

 かの有名な「枕草子」と「源氏物語」の作者は、この時代の人だったのです。雑学かもしれませんが、清少納言の方が7才年長でした。「少納言」も「式部」も共に本名でなく、親の官職から来たペンネームだということも知りました。

 紫式部の「式部」は、父為時の官位(式部省の官僚・式部大丞 ( たいじょう ) ) だったところから来ているようで、清少納言の「小納言」も同じです。二人とも才女として日本で知らない人がいませんが、作品以外には本名も、没年の状況も不明のままだそうです。

 「昔から日本では、女性の人権が無視されてきた。」「日本の女性は虐げられてきた。」

 反日左翼の学者と政治家たちが、盛んに日本を悪様に言っていますが、この時代の女性たちの活躍ぶりを知らないのでしょう。文学世界を席巻しただけでなく、天皇のお気持ちを動かし、権力者たちの地位を左右する女性たちを見ていると、「日本学術会議」にいる左翼学者たちが、実は日本の歴史について何も知らないのだと分かります。

 そのようなことを渡部氏は述べていませんが、本を読んでいると自然に分かってきます。となりますと、やはりこの本は「愛国」の書なのでしょうか。無関係な「美しい娘たちの話」と思わず、次回も本気で紹介したくなりました。気の向いた方は、「ねこ庭」へ足をお運びください。

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『日本史の真髄』 - 100 ( 美しい娘たちの話 )

2023-05-26 13:56:34 | 徒然の記

 〈  第十八闋 月無缺 ( つきにかくるなし )    藤原道長の栄華     7行詩  〉

 道長の後宮政策について、渡部氏が説明しています。

 「道長は正妻倫子 (ともこ) と本妻明子 ( あきこ ) に、それぞれ娘たちを産ませているが、嫁ぎ先の種類がハッキリ異なる。」

 今の私たちの常識では、正妻と本妻は同一人物を指す言葉なので、書き出しの部分から戸惑わされます。自分の周りを見渡しても、正妻と本妻が別の人である家庭など捜してもありません。しかし氏には重要なことでないらしく、正妻倫子は左大臣源雅信 ( まさのぶ ) の娘で、本妻明子は左大臣源高明 ( たかあきら ) の娘と説明し、彼女たちが産んだ娘たちの嫁ぎ先の説明をしています。

 「倫子の産んだ娘たちはことごとく天皇に嫁いでいるのに、明子の産んだ娘たちはそうではない。」

 正妻・本妻の言葉の区別より、生まれた娘たちの嫁ぎ先の方が重要で、後宮政策そのものなので、私の疑問になど構っておれないのでしょう。

 「おそらくその関係もあってか、倫子の産んだ男子二人は、二人とも関白・太政大臣になっているのに、明子の産んだ四人の男子は、最高が右大臣で二人が大納言、一人が右馬頭 ( うまのかみ ) であるにすぎない。おそらく同復の姉妹が后妃であるのと、そうでないとの違いであろう。」

 むしろ興味深いのは、氏の次の説明です。オーストリアのハプスブルグ家の美女の家系に繋がる話です。

 「おそらく明子より倫子の方が、美人だったのではないだろうか。『大日本史』では、倫子の娘が四人とも后妃になり、その内の三人については髪の毛の長いことを伝えており、二人までは美人であったと明記している。」

 参考のためと言って、氏が『大日本史』の該当部分を書いていますので紹介します。( 該当の漢字がないものは、カナ表示にしています。 )

 〈 長女彰子 ( あきらこ )  〉

  ・美皙 ( びせき) 豊艶にして光沢は酸奨 ( さんしょう・ほほずき ) のごとく、髪は身の丈より長きこと二尺ばかり

 〈 次女キヨ子 ( きよこ )  〉

  ・姿容 ( しよう ) 美 ( うる ) わしく、髪は長きこと身を過ぐ

 〈 三女威子 ( たけこ )  〉

  ・性は妒忌 ( とき ) にして、齢 ( よわい ) は帝より長ずること九才、常に寵の移らんことを恐れて妨猜甚だ至る

 〈 四女嬉子 ( よしこ )  〉

  ・凛性聡慧 ( りんせいそうけい  ) にして、髪は身の丈を過ぐ

 古代の美女の条件の一つが容貌の美しさだけでなく、長い髪であったことを知りました。「髪は女の命」という言葉は、こんなところから生まれていたのでしょうか。氏の解説はまだ続き、なかなか頼山陽の詩に近づきませんが、珍しい話なので次回も紹介していきます。

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