〈 十七闋 七日関白 ( なぬかくわんぱく ) 藤原氏内部の権力闘争 8行詩 〉
私は「十七闋」が渡部氏の著書のひとつの山場ではないかと、そんな気がしています。多くの人が、日本の過去を否定したくなるような事実を述べているのですから、勇気のいる部分です。早速「ねこ庭」のボウフラ君が、長いコメントを入れてきました。
「時代時代の権力者にいい様に祭り上げられ、利用されて来た天皇・皇室の歴史。史実は史実、それを尊ぶと言うのならただ有り難がり、縛られるのでは無く、其処に在る「失敗」「間違った選択」から学び、先々を考え、新しい選択をする事こそが肝要であろう。」
共産党親派のボウフラ君らしい読み方ですが、全くの間違いではありません。「過去の失敗」や「間違った選択」から、新しい日本の生き方を見つけ出すことは大切です。ボウフラ君と共産党の単純さは、日本の「過去の失敗」や「間違った選択」という思考を、「東京裁判史観」を根拠に作っているところです。ソ連を含む戦勝国同様に、日本を憎み蔑視する考えに立ち、日本の再建を未来永劫できないようにすることが正義だという、敵対思考を高く評価しています。
自分の国を愛さない人間は、過去でも現在でも未来でも、世界では少数者でしかないという事実を知らないこと。共産党と親派のボウフラ君に欠けている常識がこれです。だから彼らの意見は、次のように単純です。
「たかだか70数年、されど70数年。此処で断たれてしまえば、それこそ「たかだか70数年」だが、続けて行けば100年、200年と続く新しい日本の歴史と成る。先人の選択した新しい日本、それを貫いた70数年。その新しい日本を破壊し、破滅への道を逆走させようと暗躍する「怨日」「壞日」の思惑に乗る事が如何に愚かであるか。」
「新しい日本に生き、そこで育った人間がその新しい「日本」を憎み、否定する事こそが「反日」だと、何故気付かないか。日本を破滅へと導きたい連中が言葉巧みに仕立て上げた「似非保守」の魔力に、その誘惑に容易に乗ってしまう愚かさに何故気付けないか。」
したがって彼らは、亡国の「日本国憲法」制定以後の日本を高く評価し、理想化して語ります。この熱意と真摯さには、頼山陽が醍醐天皇の御親政を理想化して語る姿に似た強引さがありますから、笑ったりはしません。一つの思想を信じるということは、多少の欠陥があっても貫き通して信じるということですから、立派な態度でもあります。
「その誘惑に容易に乗ってしまう愚かさに何故気付けないか。」
ボウフラ君は「ねこ庭」で叫びますが、単純な事実が見えていません。これが現在の共産党勢力の退潮と朝日新聞の経営悪化につながっているという、事実が見えていません。
「ボウフラ君と共産党の意見の根っこに、国への愛国心があるのか ? 」
どんな最もらしい意見を述べても、自分の国を愛せない人間の言葉を本気にする国民はいないということ。日本だけでなく世界の常識ですから、彼らの主張は「根なしの浮き草」の空論として相手にされません。
渡部氏は、ボウフラ君のような人間がいることを知っていますから、盲目的に頼山陽を賞めていません。
「頼山陽は歴史を物語と見ていたから、今の歴史家なら史的な意味がないとして一顧も与えないようなエピソードを、しばしば『日本学府』に取り上げている。」
氏は読者に対し、頼山陽の詩が絶対でないことを説明し、ボウフラ君のように強要していません。
「〈七日関白〉の話は、藤原氏の閨閥と皇位の話であり、今から見れば泰平の些事にすぎない。しかしよく考えてみれば、いかにも藤原氏の時代らしい話である。」
ですから本の読者は、私を含め、氏の言葉にたぶらかされているのでなく、自分で判断しながら読んでいるわけです。
「たかだか70数年、生きただけの老害が語る〈日本の本質〉」
ボウフラ君が私に呼びかける言葉ですが、笑ってしまいます。こんな悪態をつかなければ耳を傾ける気になるのですが、相手を挑発し、不愉快にさせることだけが議論だと思っている政党の親派らしい態度です。国会の質疑を見てください。彼らは日本のために何かをしようとしているのでなく、自由民主党を攻撃し批判し、挑発して失言を誘うだけのゲームをしています。
歴史のつながりを教えてくれる近衛公の言葉、頼山陽の言葉、渡部氏の言葉、そしてこのボウフラ君の言葉と、今回は沢山の貴重な言葉が出てきますので、一つの山場の印ではないでしょうか。