ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 103 ( 道長の栄華の頂点 )

2023-05-27 18:51:19 | 徒然の記

 〈  第十八闋 月無缺 ( つきにかくるなし )    藤原道長の栄華     7行詩  〉

 ブログの100回目で、道長の四人の美しい娘について紹介しましたが、今回は再び娘たちの話になります。参考のため、四人の娘の説明を転記しておきます。

 〈 長女彰子 ( あきらこ )  〉

  ・美皙 ( びせき) 豊艶にして光沢は酸奨 ( さんしょう・ほほずき ) のごとく、髪は身の丈より長きこと二尺ばかり

 〈 次女キヨ子 ( きよこ )  〉

  ・姿容 ( しよう ) 美 ( うる ) わしく、髪は長きこと身を過ぐ

 〈 三女威子 ( たけこ )  〉

  ・性は妒忌 ( とき ) にして、齢 ( よわい ) は帝より長ずること九才、常に寵の移らんことを恐れて妨猜甚だ至る

 〈 四女嬉子 ( よしこ )  〉

  ・凛性聡慧 ( りんせいそうけい  ) にして、髪は身の丈を過ぐ

 氏の説明は、長女彰子から始まります。

 「彰子は女性本来の能力、つまり子を産む力にも恵まれていた。寛弘5 ( 1008 ) 年に、敦成 ( あつひら ) 親王 ( 後の後一條帝 ) を産み、翌年の暮れには、敦良 (  あつなが ) 親王 (  後の後朱雀帝 ) を産み、母子健全であった。

 「寛弘7 ( 1010 ) 年、一條天皇の皇太子居貞 ( おりさだ ) 親王、後の三条天皇の妃に、次女のキヨ子が上がった。三条天皇には大納言済時 ( なりとき ) の娘ヨシ子がいたが、彼女はすでに40才近く、17才のキヨ子の若い美しさと、従う40人の才色兼備の女房たち、贅沢な調度品などに競走できるはずもなかった。」

 次女キヨ子が上がった時、すでに皇妃としてヨシ子がいて、しかも彼女が40才近かったなど、一度読んで意味が不明で、何回読み直しても事情が理解できません。当時の後宮の複雑さが垣間見られ、ややこしくなりそうなので深入りを避けます。

 「寛弘8 ( 1011 ) 年に一條天皇が病気で退位され、三条天皇が践祚 ( せんそ ) された。しかし数年して三條天皇は眼病を患われて失明し、退位なさったので後一條天皇が践祚された。この時道長の三女威子が中宮となった。」

 「寛仁元 ( 1017 ) 年道長が太政大臣となり、翌年に威子が後一條帝の皇后になった。この時道長は、後世に知られる有名な和歌を詠んだ。」( 注 : 欠けるという字がありませんので、現在の字を当てました。  )

  此の世をば 我が世とぞ思ふ 望月 ( もちづき ) の

  欠けたることも なしと思へば

 四女のことは後で述べますが、この歌ができた時点での道長は、「一家三后、位 ( くらい ) 人臣を極む」という有り様でした。

  太皇太后・・長女彰子 ( 一條后、後一條・後朱雀母 )

  皇太后 ・・次女キヨ子 ( 三條后 )

  中宮  ・・三女威子 ( 後一條后 )

 「さらにその後、四女嬉子は後朱雀・後冷泉母となり、孫娘の時子 ( ときこ ) 、延子 ( のぶこ ) 、寛子 ( ひろこ ) 、禎子 ( よしこ ) 、歓子 ( よしこ ) 、馨子 ( かおるこ ) 、章子 ( あきこ ) の7人が、これまた孫か曾孫である天皇の後宮である。」

 こうして道長の後宮政策は進むのですが、中には死亡する者も出てくるため、やはり道長が歌を読んだ時が最も繁栄に陰りのなかった頃だろうと氏が説明します。

 ここまで来ても頼山陽の詩に至りませんが、次回に出て来ます。スルーしている気の短い人は、一番大事な氏の解説を見逃すことになります。残念なことなのか、そうでもないのか、今の私には分かりません。

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『日本史の真髄』 - 102 ( 日本女性の素晴らしさ )

2023-05-27 12:53:39 | 徒然の記

 〈  第十八闋 月無缺 ( つきにかくるなし )    藤原道長の栄華     7行詩  〉

 「道長の後宮政策は、長女の彰子から始まる。おあつらえ向きの美女だったので、特に可愛がり、末 ( すえ ) は中宮にしようと考えた。」

 文脈からしますと、中宮という言葉は皇后の意味になりますが、前回の「正妻」「本妻」同様に、これも分かったような分からないような、曖昧な言葉の仲間です。正妻・本妻は公家の言葉で、中宮、皇后、皇妃は天皇の配偶者を表す言葉です。天皇の方が格上の方なので、表現も多いのでしょうか。息子たちのためでなく自分のため、この際ネットで調べてみました。いろいろな解説がありますが、ウィキペディアのものを紹介します。

 ・本来「中宮」という言葉の意味は「皇后の住居」である

 ・転じて、そこに住む皇后その人を指して「中宮」と呼ぶ

 ・もとは漢語で、中国でも同様の意味に用いられていた

 ・中宮の意味は時代によって異なる。

   1.  皇后・皇太后・太皇太后の総称

   2.  皇太夫人 ( こうたいふじん ) の別称

   3.  皇后の別称

 ・皇太夫人は、天皇の生母で、前天皇の夫人であった人をさす

 ・醍醐天皇より前には、皇太后を「帝の母で后」、皇太妃を「帝の母で妃」と称した

 ・ただし、天皇の即位前に薨去した生母については、生前に皇后になっていなくても皇太后を追贈された。

 ・また、皇太夫人となった後に皇太后とされることも多かった

 ついでなので皇后と皇妃についても、Yahooの知恵袋で調べました。

 ・皇后という称号は、立后という儀式が行われた場合に使われた

 ・皇后の場合は「皇后職」、中宮の場合には「中宮職」という役所がおかれた

 ・皇后と中宮の両者に明確な違いはなく、その時々で便宜的に使い分けられていたのではないか

 ・朝廷にお金がなく立后の儀式が行えなかった時、「女御」と呼ばれたこともある

 ・天皇の正妃は必ずしも一人ではなく、複数の皇后、中宮が存在していた時もある

 ・このような時は、第一夫人を皇后、それ以外を中宮として区別する考えもある

 言葉の説明を途中でやめますが、渡部氏が解説をしない訳が分かりました。調べるほど複雑になり、読者を混乱させますので、こんなことをしていたら、著作が本題を外れてしまいます。このブログが良い例で、「第十八闋」の漢詩を離れ「ねこ庭辞典」みたいになっています。書いている本人は真剣でも、テーマを外れた説明は読者の役に立ちません。

 言葉の定義にこだわらず、適当なところで妥協し道長の話に戻ります。

 「彰子が女御となって入内 ( じゅだい ) した時、道長は侍女数十人をつけたが、彼女らは当代の才色のほまれの高い者たちの中から選ばれたのだった。」

 「当時の後宮は色香だけでなく、歌や物語の学才も必要だった。立派なサロンを作れば、帝の恩寵も篤くなる。道長は彰子の装飾品や道具類に金を惜しまず、珍奇精妙なものを与えたから、世の人たちは彼女のことを〈 輝く藤壺 〉と呼んだ。一條帝も、〈 心が蕩 ( とろ ) かされる ようだ 〉と言ったという。」 

 「皇室に女性の人権はない。皇室の女性の人権を解放せよ。」

 こんなことを言って騒いでいる、左翼の活動家たちがいます。みっともない姿で叫んでいる彼女たちに、渡部氏の著書を手渡してやりたくなります。

 「彰子は美人であるだけでなく、頭も良かった。一條帝が笛を吹いた時、みんなその前に集まって来たが、彰子だけは見ようとしなかった。それで一條帝が〈 どうして見ないのか 〉と聞くと、〈 笛はただその音を聞くべきもので、どうして見る必要がありましょう 〉と答えたという。」

 『大日本史』には、「その敏慧 ( びんけい ) なること、おおむねかくの如し。貴寵 ( きちょう ) 、後宮に冠たり。」と記されているそうです。

 「彰子の側には、赤染衛門 ( あかぞめえもん ) 、紫式部、伊勢大輔 ( いせのたいふ  )、和泉式部のような平安朝を代表する妻女たちが集まっていたが、彰子はその中心にいるにふさわしい才媛でもあった。このサロンは、その時代までは世界に類のないものである。 」

 「18世紀のフランスやオーストリアのサロンが出現するまでは、地上のどこにもなかった女性文化の発生地だった。物語、和歌、日記、随筆など、日本の女性は西欧の女性より数世紀前に、読むだけでなく、生産していたのである。」

 「皇室の方々の男女平等と、人権解放を。」

 国連までを誘い込んで、反日左翼の人々が日本の後進性を訴えていますが、こうした人たちは、自分の無恥と教養の無さを世界に晒しているのだと分かります。頼山陽の詩の説明をしていないとしても、氏の著書は「愛国の書」です。次回も続けますので、関心のある方だけ「ねこ庭」へお越しください。

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