〈 第十八闋 月無缺 ( つきにかくるなし ) 藤原道長の栄華 7行詩 〉
ブログの100回目で、道長の四人の美しい娘について紹介しましたが、今回は再び娘たちの話になります。参考のため、四人の娘の説明を転記しておきます。
〈 長女彰子 ( あきらこ ) 〉
・美皙 ( びせき) 豊艶にして光沢は酸奨 ( さんしょう・ほほずき ) のごとく、髪は身の丈より長きこと二尺ばかり
〈 次女キヨ子 ( きよこ ) 〉
・姿容 ( しよう ) 美 ( うる ) わしく、髪は長きこと身を過ぐ
〈 三女威子 ( たけこ ) 〉
・性は妒忌 ( とき ) にして、齢 ( よわい ) は帝より長ずること九才、常に寵の移らんことを恐れて妨猜甚だ至る
〈 四女嬉子 ( よしこ ) 〉
・凛性聡慧 ( りんせいそうけい ) にして、髪は身の丈を過ぐ
氏の説明は、長女彰子から始まります。
「彰子は女性本来の能力、つまり子を産む力にも恵まれていた。寛弘5 ( 1008 ) 年に、敦成 ( あつひら ) 親王 ( 後の後一條帝 ) を産み、翌年の暮れには、敦良 ( あつなが ) 親王 ( 後の後朱雀帝 ) を産み、母子健全であった。」
「寛弘7 ( 1010 ) 年、一條天皇の皇太子居貞 ( おりさだ ) 親王、後の三条天皇の妃に、次女のキヨ子が上がった。三条天皇には大納言済時 ( なりとき ) の娘ヨシ子がいたが、彼女はすでに40才近く、17才のキヨ子の若い美しさと、従う40人の才色兼備の女房たち、贅沢な調度品などに競走できるはずもなかった。」
次女キヨ子が上がった時、すでに皇妃としてヨシ子がいて、しかも彼女が40才近かったなど、一度読んで意味が不明で、何回読み直しても事情が理解できません。当時の後宮の複雑さが垣間見られ、ややこしくなりそうなので深入りを避けます。
「寛弘8 ( 1011 ) 年に一條天皇が病気で退位され、三条天皇が践祚 ( せんそ ) された。しかし数年して三條天皇は眼病を患われて失明し、退位なさったので後一條天皇が践祚された。この時道長の三女威子が中宮となった。」
「寛仁元 ( 1017 ) 年道長が太政大臣となり、翌年に威子が後一條帝の皇后になった。この時道長は、後世に知られる有名な和歌を詠んだ。」( 注 : 欠けるという字がありませんので、現在の字を当てました。 )
此の世をば 我が世とぞ思ふ 望月 ( もちづき ) の
欠けたることも なしと思へば
四女のことは後で述べますが、この歌ができた時点での道長は、「一家三后、位 ( くらい ) 人臣を極む」という有り様でした。
太皇太后・・長女彰子 ( 一條后、後一條・後朱雀母 )
皇太后 ・・次女キヨ子 ( 三條后 )
中宮 ・・三女威子 ( 後一條后 )
「さらにその後、四女嬉子は後朱雀・後冷泉母となり、孫娘の時子 ( ときこ ) 、延子 ( のぶこ ) 、寛子 ( ひろこ ) 、禎子 ( よしこ ) 、歓子 ( よしこ ) 、馨子 ( かおるこ ) 、章子 ( あきこ ) の7人が、これまた孫か曾孫である天皇の後宮である。」
こうして道長の後宮政策は進むのですが、中には死亡する者も出てくるため、やはり道長が歌を読んだ時が最も繁栄に陰りのなかった頃だろうと氏が説明します。
ここまで来ても頼山陽の詩に至りませんが、次回に出て来ます。スルーしている気の短い人は、一番大事な氏の解説を見逃すことになります。残念なことなのか、そうでもないのか、今の私には分かりません。