古い論文の古いコピーを順に紹介している。大昔に勉強したものだが、読み返してみると、当時はあまりよく理解していなかったことがわかってきた。
今回は次の論文コピーを紹介する。Adams, A. Leith 1868. Has the Asiatic Elephant been found in a Fossil State? with some Additional Remarks by G, Busk, Esq., F. R. S., F. G. S. (アジアゾウは化石として発見されたのか?Busk氏の追記を添えて)というもの。掲載誌は「Proceedings of the Geological Society, London」である。日本の哺乳類の「化石」が西欧に初めて報告された論文である。短い論文で、付記のBuskによる「Additional Remarks」を入れて4ページのもの。
この論文を紹介するのには1868年というところから話が始める必要がある。この年は明治元年にあたる。明治元年は9月8日に始まる、のだが、これは太陰暦(旧暦)なので、西欧のグレゴリオ暦に換算すると、1868年10月23日から、ということになる。この論文が発行されたのは1868年6月17日なので、明治元年ではなくて慶応4年。Andrew Leith Adams(1827-1882)は、スコットランドの地質学者・自然科学者であるが、この論文ではあまり議論をせずに事実のみを記している。論文の最初に、標本に添えてあるメモが記してある。「Dr. DugganとMr. Hogson(在日英国領事の一人)によって1859年に発見された化石の歯。(発見場所は)神奈川と江戸の間の海岸から40マイル以上の所の、地表に露出した炭層(80フィートぐらいの高さ)の基底部。どんな動物のものだろう?(Dugganのサイン)。」というもの。そしてAdamsが主に気にしているのは「化石かどうか」という点である。3ページで、40行以下の短い文章である。
まず、発見された1859年に注目したい。1858年の日英修好通商条約の締結の翌年であり、1859年7月1日に横浜港他が開港された。だからオランダ以外の西欧人が入国したのはわずかな例外を除いてそれ以後ということになる。英国の初代駐日総領事Sir Rutherford Alcock (1809-1897)は、1959年6月26日に江戸付近に到着した。まず領事館の設置と、他に開港された長崎・箱館の領事を任命するのが仕事だったようだ。
次に発見場所に関することを考える。「神奈川と江戸の間の海岸から40マイル以上の所」とは? 当時のここの海岸線は、ほとんど現在の東海道本線のラインと考えてよい。40マイルというのは64kmなのだが、困ったことに、多摩川河口あたりから青梅まで行っても直線距離なら60kmにもならない。次の「80 feet, or thereabouts, from the general level」というのを、当初標高と思っていたが、「general level」とは言わないようだ。そうするとその辺りの地平から、という意味だろうか。第一、地図が伊能忠敬図以外原始的なものしかなかったこのころに、自分がいるところの標高を知ることなど出来そうにない。開港半年以内のことである。24メートルの崖なら不自然ではないが、そんな崖に石炭層がでているところが、関東にあるだろうか。群馬県に炭層があるようだが、そんなところを「神奈川と江戸の間の海岸から」という表現をするだろうか? そんなわけで、産出地はよく分からない。
では「Dr. DugganとMr. Hogson(在日英国領事の一人)」について調べてみよう。この「英国領事の一人」という記述は、おそらくMr. Hogsonだけを言っているのだろう。イギリス領事館のホジソンは調べればすぐわかる人物で、初代長崎領事・初代箱館領事のChristopher Pemberton Hodgson (1821-1865) にちがいない。歴史上出てくるホジソンは、もう一人いて、初代ネパール公使Brian Houghton Hodgson (1800-1894)(生年を1801とする文献(川田・2020:「アラン・オーストンの標本ラベル」ブックマン社:この本、面白いよ。)があるが、たぶん1800が正しい)は、博物学者で、ヒマラヤに関する著書がある。この二人のホジソンの関係は分からなかった。C. P. Hodgson は、確かに発見された1859年に日本にいた。それについてはオールコックの「大君の都」にわずかに記されている。(大君の都 幕末日本滞在記 オールコック著・山口光朔訳 岩波文庫)
181 大君の都 オールコック 1962初版 岩波文庫
この本は、3巻にわかれ、総ページ数1260ページ以上のもので、記録に日付が部分的にしかないのと、日本人をよく見てはいるものの上から目線でやや不愉快であるから私としてはあまり丁寧に読んでない。オールコックは6月末に江戸近くまで来ていた。ホジソンが同行していたかどうかは書いてない。
オールコックが同年9月末に箱館に向かった時には同行していたようだ。「9月が終わりに近づいた頃に出発して、10日あまりで、箱館に着いた」とあるから、箱館到着は10月はじめだろう。箱館でホジソンを領事に任命しておいてきたという記録が書いてある。以上のようにこの標本を得たのは出発前の7月から9月の可能性が高い。その頃、外国人が日本人に切りつけられることがあって(生麦事件はもう少し後の1862年)、8月初めにはそれに対してイギリス公使の抗議があったのだから、ホジソンたちの外出も安全ではなかっただろう。
メモを作ってサインしたDr. Duggan (Richard N. Duggan: R. W. Duggan とする文献もある) は、横浜で1859年に開業した医師で、西洋病院として最初のものだったという。1859年に西洋式気象観測を行ったという。同じ1859年に上海の新聞にこの病院の広告が載っているから、日本にいたことは確認できる。開港に伴って、「日本最初」のできごとが、1859年に続発したのだ。
標本に関する記述はG. Buskによって追記として記され、咬合面の図も示されている。わずか1ページ半の短い論説である。George Busk (1807-1886) は、イギリスの船医で古生物学者。表面の干割れや、歯の萌出線が黒く染まっていることなどを指摘しているから、これが化石であるかどうかについて気にしていることがわかる。結論として、「現生の状態で見たら、誰しもこれがインド象のものとするだろう、しかし、化石ならば差異もあって、1 かなり曲がっている(どこが曲がっているのか不明)。2 咬板の幅が広い。3 咬板の厚さが厚い。」としている。
182 Adams, 1868 標本の咬合面スケッチ 標本の長さ7.4 inch (18.8 cm)
文中で、咬板の中央のふくらみがないことに触れているのは、すでに報告されていたPalaeoloxodon antiquus (Falconer et Cautley, 1847) などとの違いも認識していたことを暗示する。ただし、日本のナウマンゾウなどの報告はまだされていない。E. Naumann が日本にゾウの化石があることを西欧に報告するのは1881年のことである。
この論文が、今から150年以上前の江戸時代の最後の頃発行されたことを考えると、英語の安定性を感じる。実際この文中で古さを感じさせるところはあまりなく、また現在と違う綴りなどもほとんどない。
日本国内にかなりの数のインド象に似たゾウの歯の遺物が発見されている。それらは、主に人里に近い平地で発見され、他の遺物を伴わない。H. Matsumotoは、1927年にそういう標本の一つ(岩手県二戸産)をホロタイプとして新亜種Elephas indicus buski を記載した。E. indicus Cuvier, 1798 は E. maximus Linnaeus, 1758のシノニム。
183 Matsumoto, 1927 Holotype 上:inner view. 下:palatal view
サイズは上の写真の幅16.2 cm, 下は16.5 cm.
この記載論文の写真は、上が側面(舌側=内側)、下が咬合面であり、倍率が異なる。上の写真の左上方向の面が咬合面なので、誤解のないように。上顎臼歯をどちらを上にして図示するかについては気をつけなげれば。
現生のインド象は主に3つの亜種にまとめられるが、歴史的には数多くの亜種が記録されてきた。日本のこういった象「化石」については、疑問視されてきた。ホロタイプと幾つかの標本についての絶対年代の結果として300年程度というような若い年代が得られた(Takahashi and Yasui, 2017)。これによって E. m. buskiが無効名であるという。タイプ標本がどの亜種であるかを判定していないことや、日本に野生の象がいなかった時代のものだから亜種が成立しないのかどうかという点にはやや不満が残る。
184 福岡市老司産の インドゾウ臼歯(レプリカ)
上の写真はこれに類する標本の一つ。ナウマンゾウの化石として報告されたもの(松尾・吉村, 1953)で、原標本は現在九州大学総合研究博物館にある。
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