ウグイスカグラは早く咲くもののひとつで、独特の薄紅色で、かわいらしい下向きの花をつけます。
3月23日に近所の雑木林に行きました。まだ木の枝は硬く、外見は冬のままのようですが、林の中に入ると春を確認できるものがいくつかありました。林に入ってパッと目についたのはコブシの白い花です。
花はほんとうに純白で、とても大きく、考えてみればなんでこんなに大きいの?というほどです。
中をのぞいてみました。立派なめしべを取り巻くようにおしべがびっしり並んでいます。花の脇に托葉というのだと思いますが、緑の葉が一枚ついていて、私がパッと連想したのは、スチュワーデスが首もとに小さめのスカーフをしている姿でした。
花はほんとうに純白で、とても大きく、考えてみればなんでこんなに大きいの?というほどです。
中をのぞいてみました。立派なめしべを取り巻くようにおしべがびっしり並んでいます。花の脇に托葉というのだと思いますが、緑の葉が一枚ついていて、私がパッと連想したのは、スチュワーデスが首もとに小さめのスカーフをしている姿でした。
新しいコーナー開始っ!
もともと節操なく書きたいことを書いているこのブログではありますが、ときどき「自然」というくくりを外れていました。その「外れ」のうち、はなはだ私的な我が家族を紹介することにして、カテゴリーに「家族」を追加ました。
5人の孫のうち、一番大きい子が9歳になり、誕生日のお祝いをしました。我がファミリーにとって誕生日は重大なイベントなのであります。夕食がすんで、ケーキも食べて、さあプレゼントです。我が家には娘が3人いて、みなスープがさめない・・・とはいえないが、ちょっとさめるくらいで会える距離にすんでくれているので、こうしてすぐ集まります。
この日は小さい子からプレゼントを渡すことになりました。チビくんたちは自分の番をまっています。
妹は自作の絵をプレゼント、なにか説明しています。手前にあるのは弟の作品の「蝶」です。
それからおじさんやおばさんや、じいばあからもプレゼント。このごろ、少年らしくなって、あまりニコニコしなくなってきたのですが、この日はこぼれるような笑顔でした。中身をみるより、開けるときが楽しいのね。
「オレ、これほしかったんだ」漢字の好きなこの子は漢字の図鑑をもらってうれしそうでした。
そんなことはおかまいなしに、一番小さい1歳なりたては真っ赤なホッペで独自の世界にいます。
もともと節操なく書きたいことを書いているこのブログではありますが、ときどき「自然」というくくりを外れていました。その「外れ」のうち、はなはだ私的な我が家族を紹介することにして、カテゴリーに「家族」を追加ました。
5人の孫のうち、一番大きい子が9歳になり、誕生日のお祝いをしました。我がファミリーにとって誕生日は重大なイベントなのであります。夕食がすんで、ケーキも食べて、さあプレゼントです。我が家には娘が3人いて、みなスープがさめない・・・とはいえないが、ちょっとさめるくらいで会える距離にすんでくれているので、こうしてすぐ集まります。
この日は小さい子からプレゼントを渡すことになりました。チビくんたちは自分の番をまっています。
妹は自作の絵をプレゼント、なにか説明しています。手前にあるのは弟の作品の「蝶」です。
それからおじさんやおばさんや、じいばあからもプレゼント。このごろ、少年らしくなって、あまりニコニコしなくなってきたのですが、この日はこぼれるような笑顔でした。中身をみるより、開けるときが楽しいのね。
「オレ、これほしかったんだ」漢字の好きなこの子は漢字の図鑑をもらってうれしそうでした。
そんなことはおかまいなしに、一番小さい1歳なりたては真っ赤なホッペで独自の世界にいます。
その日、少し別の場所に移動したのですが、私の背中側の雲が切れて日が射しました。目の前のコナラの木には光があたっていて、それだけならいつも見ているものですが、このときは背後が曇っていたので、不思議な感じになりました。
私たちが「写真を撮ろう」と思うときのほとんどは晴れの日だと思います。人の心は「あざやかさ」に動かされ、それは色や明るさのコントラストが大きいことによるものだからです。
数日前、自分のいるところは薄曇りなのに、遠くのほうが鉛色の厚い雲に覆われていて、ふしぎな感じがしました。ふつうの感覚でいえば条件はよくないのですが、写してみたら果たして意外感のある写真になりました。
数日前、自分のいるところは薄曇りなのに、遠くのほうが鉛色の厚い雲に覆われていて、ふしぎな感じがしました。ふつうの感覚でいえば条件はよくないのですが、写してみたら果たして意外感のある写真になりました。
歩いた範囲がそれほどでもなかったので気づいたのはそのくらいでしたが、テイカカズラがよくあったのでちょっと観察してみたらおもしろいことに気づきました。つるといってもフジのようにほかのものにぐるぐると巻き付いて伸びるものもあれば、テイカカズラやキヅタのように木の幹にペタリと張り付くものもあります。テイカカズラをひっぱってみたら、抵抗感がある部分があり、そこをさらに引っ張ると木の幹から離れました。そこには扁平なものがついています。もう一度基についているものをみると、ムカデの脚のようなものがあり、これでくっついていました。
ここには立派なモミ林がありますが、林の下にはジャノヒゲがよくあります。上から見るだけではほとんど気づきませんが、葉の付け根を丁寧にみると青い実が見つかります。磁器のようなつやがみごとです。
4月1日夜の報道ステーションですごい映像を見せてくれました。
日本海をなんと500頭ものカマイルカが群泳していました。海が白くなって次々とイルカが飛び上がり、胸躍るものでした。群れることがもつ躍動感、なんだかドキドキしました。ヒトにはたくさんのもんが動くことに感動するなにかがあるように思います。
日本海をなんと500頭ものカマイルカが群泳していました。海が白くなって次々とイルカが飛び上がり、胸躍るものでした。群れることがもつ躍動感、なんだかドキドキしました。ヒトにはたくさんのもんが動くことに感動するなにかがあるように思います。
森林科学園を中断します。
3月31日、国際司法裁判所が日本の捕鯨を違法だとしたという。理由は調査捕鯨といっているが実態が違うということと、調査捕鯨が研究目的ではないということだという。そして日本側はこれを受け入れるとも。
私は、捕鯨について日本が「欲張り」のようなマイナスイメージで世界から批判されながら捕鯨をやめるのをとても気持ち悪く感じる。
そもそも日本は沿岸で持続的利用を実現しながら捕鯨してきた。そのためにさまざまな規制を設けていた。それをペリーがわざわざアメリカから来てクジラを捕らせろとすごんできたのであり、その後、器用で勤勉な日本が捕鯨技術をみがいて世界一の捕鯨国になったのである。持続的捕鯨を略奪的捕鯨に変えさせたのは欧米であることを忘れてはいけない。そうであるのに、自分たちの中で捕鯨の雰囲気が強くなったら、その教え子である日本を非難し始めたのである。このあたりはオリンピックのルールが欧米に有利、アジア等に不利に帰られるのと符合する。
それよりもなによりも、欧米ではウシに刀を少しずつ突き刺して、出血させ、いたびりながら死に至らしめるのを「闘牛」と読んで楽しんでいる。がんこおやじはあれを闘牛と訳したのは誤訳だと思っている。牛と牛が戦うのが闘牛であり、あれは牛のサディスティックな殺戮といわなければならない。あるいはカモを肝炎になるまで運動不足食わせ続けたり、羊の胎児を料理するとか、白いご飯と焼きアジでもあれば満足というがんこおやじにはまったく理解できないグルメぶりである。でもこちらからそれをやめろとは言わない。ブタを食べないのも理解できないが食べろとはいわないし、カエルやいも虫を食べるのは私は丁寧に断る。それは、食文化というのは理屈ではなく、主観的なものであり、国様々だと思うからだ。その理屈でいえば、何を食べようが外国からどうこう言われるスジはなく、おおきなお世話である。でも、それも譲歩しよう。
だから、よい。イルカを殺すのは残酷で、それを食べるのはよろしくないというアドバイスを呑むとしよう。私は食べることにほとんど欲望がないので、マグロのことも、日本の高級な牛肉も、およそグルメには興味がない。そういうことに血道を上げるのは恥ずべきことだと思っている。地球上にこれだけ人口が増えてなお、良質なタンパク質を食べようとしたら地球がパンクするのは目に見えている。その意味でクジラを捕り続けるのは、たとえ欧米から教えられたことだとしても、文句を言わないで早晩やめないといけないことだと思っていた。だから今回の決定も時間の問題だと思っていた。
そうであっても2つのことが了承できない。
ひとつは、この決定は、テロリストそのものであるシーシェパードを正当化するのかという問題である。ああいう暴力に屈するなんて、それはいくらなんでもひどすぎる。
もうひとつは、調査捕鯨が科学的でないといわれたことである。たしかに調査捕鯨で捕獲したクジラ肉が販売されているのは、商業捕鯨にほかならないという言い分には弱い。もしその主張を正当化したいのであれば、捕鯨はしても肉を捨てることである。
かつてアフリカゾウの象牙目的の密猟がなくならないとき、在庫の象牙を燃やしたことがあった。もうないのだから、もし見つかったらそれは密猟と特定するためである。
同じ意味で、本当に調査のために捕獲が必要であり、かつ殺さなければならないのであれば、調査目的を果たしたら処分すべきである。これはこれまで調査捕鯨の正当化を主張してきた日本の科学者は黙っていてはいけないはずだ。ここで「はい」といえば、これまで無理無理「それでもやっぱり科学的調査は必要だ」といい続けていたことが崩壊する。
もっとも日本の科学者は嘘つきだという風評はすでに定着しつつあるようだが。
がんこおやじはおもしろくない。
3月31日、国際司法裁判所が日本の捕鯨を違法だとしたという。理由は調査捕鯨といっているが実態が違うということと、調査捕鯨が研究目的ではないということだという。そして日本側はこれを受け入れるとも。
私は、捕鯨について日本が「欲張り」のようなマイナスイメージで世界から批判されながら捕鯨をやめるのをとても気持ち悪く感じる。
そもそも日本は沿岸で持続的利用を実現しながら捕鯨してきた。そのためにさまざまな規制を設けていた。それをペリーがわざわざアメリカから来てクジラを捕らせろとすごんできたのであり、その後、器用で勤勉な日本が捕鯨技術をみがいて世界一の捕鯨国になったのである。持続的捕鯨を略奪的捕鯨に変えさせたのは欧米であることを忘れてはいけない。そうであるのに、自分たちの中で捕鯨の雰囲気が強くなったら、その教え子である日本を非難し始めたのである。このあたりはオリンピックのルールが欧米に有利、アジア等に不利に帰られるのと符合する。
それよりもなによりも、欧米ではウシに刀を少しずつ突き刺して、出血させ、いたびりながら死に至らしめるのを「闘牛」と読んで楽しんでいる。がんこおやじはあれを闘牛と訳したのは誤訳だと思っている。牛と牛が戦うのが闘牛であり、あれは牛のサディスティックな殺戮といわなければならない。あるいはカモを肝炎になるまで運動不足食わせ続けたり、羊の胎児を料理するとか、白いご飯と焼きアジでもあれば満足というがんこおやじにはまったく理解できないグルメぶりである。でもこちらからそれをやめろとは言わない。ブタを食べないのも理解できないが食べろとはいわないし、カエルやいも虫を食べるのは私は丁寧に断る。それは、食文化というのは理屈ではなく、主観的なものであり、国様々だと思うからだ。その理屈でいえば、何を食べようが外国からどうこう言われるスジはなく、おおきなお世話である。でも、それも譲歩しよう。
だから、よい。イルカを殺すのは残酷で、それを食べるのはよろしくないというアドバイスを呑むとしよう。私は食べることにほとんど欲望がないので、マグロのことも、日本の高級な牛肉も、およそグルメには興味がない。そういうことに血道を上げるのは恥ずべきことだと思っている。地球上にこれだけ人口が増えてなお、良質なタンパク質を食べようとしたら地球がパンクするのは目に見えている。その意味でクジラを捕り続けるのは、たとえ欧米から教えられたことだとしても、文句を言わないで早晩やめないといけないことだと思っていた。だから今回の決定も時間の問題だと思っていた。
そうであっても2つのことが了承できない。
ひとつは、この決定は、テロリストそのものであるシーシェパードを正当化するのかという問題である。ああいう暴力に屈するなんて、それはいくらなんでもひどすぎる。
もうひとつは、調査捕鯨が科学的でないといわれたことである。たしかに調査捕鯨で捕獲したクジラ肉が販売されているのは、商業捕鯨にほかならないという言い分には弱い。もしその主張を正当化したいのであれば、捕鯨はしても肉を捨てることである。
かつてアフリカゾウの象牙目的の密猟がなくならないとき、在庫の象牙を燃やしたことがあった。もうないのだから、もし見つかったらそれは密猟と特定するためである。
同じ意味で、本当に調査のために捕獲が必要であり、かつ殺さなければならないのであれば、調査目的を果たしたら処分すべきである。これはこれまで調査捕鯨の正当化を主張してきた日本の科学者は黙っていてはいけないはずだ。ここで「はい」といえば、これまで無理無理「それでもやっぱり科学的調査は必要だ」といい続けていたことが崩壊する。
もっとも日本の科学者は嘘つきだという風評はすでに定着しつつあるようだが。
がんこおやじはおもしろくない。