一枚の葉をじっくり眺めてみた。一部に穴があいている。これは晩春に葉がのびたころ、鱗翅目の幼虫かなにかが食べたあとに違いない。その葉の一部はイモムシの腹に入り、一部はエネルギーや体の一部になり、残りは糞として地面に落ちたはずだ。イモムシの体になったものは蛾になってその鱗粉になったかもしれない。あるいは小鳥に食べられて、こんどは鳥の体の一部になったかもしれない。残された葉は明日にも地面に落ちるだろう。落ちた葉はあるいはイモムシの糞として落ちた片割れと地中で出会うかもしれない。「やあやあ、お前は実につまらん生涯を送ったな。ただ枯れて枝にしがみついたままなんて。俺なんかイモムシの体に入って糞になってポトンと落ちるという実に劇的な一生を送ったのにさ」「そうかもしれない。でも最後の夜に雪が降って、それは実にきれいなものだった。ぱっとしなかったけど、最後に夢見たいな経験をしたよ」「そうだな。ま、何がいいかなんてわからんよ。これから何だ、地面に入ってお互い似たようなことになるけど、よろしく」
なんてね。
2010.2.2
なんてね。
2010.2.2
ヤマブキの葉は端正な形をしていて、葉の縁のギザギザも美しいと思っていたが、こうして枯葉になり、いまにも枝から離れようとしているときでさえ、凛とした美しさをもっている。私は思う。透明で清潔なビニールやポリ袋が林などに落ちていると、半透明の実に不愉快なモノになる。人の作るものにはあるべき状態があり、そうでなくなると無用のものになる。それでも木や石でできたものは、まだよい。壊れながらも一定の美しさを残している。だが石油製品は実に醜いモノに変わる。そうしたものに比べたとき、植物の葉は機能を終えたはずでありながら、その構造は微細なところまでごまかしがないから、葉脈のようすなども生きていたときそのままに、いやそのままではありえないのだが、ともかく美しさを保っている。そして地面に落ち、土に帰って行く。この対照的な存在の意味を私はよくわからないでいるが、大切なことであるような直感がある。
2010.2.2
2010.2.2