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満蒙開拓団の痕跡

2012-07-22 00:07:22 | Weblog
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」と、
満州からの「引揚者」や「満蒙開拓団」に聞いてきた。
極限状態を体験した人が感じる「幸せ」は、
抽象や評論ではなく、具体的であり、
本物であると思うから。
そして、「広東軍」、「引揚者」、
「満蒙開拓団」の男性と女性、「中国残留者2世」に、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」と、
聞くことができた。

あわせて、「満蒙開拓団」とはなにか? の調査にもなった。
「満蒙開拓団」を送り出した「村」を見に行く、
痕跡」がないか? 探す、「村役場」へ行って聞く、
「ポスター」を見る、「慰霊碑」を探す、
「関係者」に聞く、「講演」を聴く、「村役場」を訪れる、
そして、長野県立歴史館の企画展「長野県の満洲移民」を見る、
などをした。

「満蒙開拓団」を送り出した「村」を見ると、
この村は、満州のどこに入植したのか?
と、興味が湧いてきた。それで、
入植地一覧図」を作って見ようと思った。

「満蒙開拓団」を送り出した村の「痕跡」と、
「入植地一覧図」をお届けしたい。

「満蒙開拓団」を送り出した「村」の位置を、
満洲移民の市町村別比率」で示す。

「長野県の満洲移民」。長野県立歴史館発行から作成。

主な村について、「市町村の渡満者比率」を示す。


主な村について、「市町村の帰国者比率」を示す。


上記の表、「市町村の渡満者比率」と、
「市町村の帰国者比率」で示した村のうち、5つの村を訪れた。
「泰阜(やすおか)村」、「上久堅(かみひさかた)村」、
「清内路(せいないじ)村」のある「阿智(あち)村」、
「富士見町」、「豊丘(とよおか)村」である。
「大日向(おおひなた)村」は、
長野県立歴史館の企画展「長野県の満洲移民」で、
見ることができた。
これらの「村」の「満蒙開拓団」を送り出した「痕跡」はつぎである。

1)「大日向村」。
「大日向村」の渡満者比率は31.1%と高い。
分村移民」のモデルケースとなった村である。

「満蒙開拓団」の出発風景。

「長野県の満洲移民」。長野県立歴史館発行から。
日の丸、鼓笛隊が先導し、移民団が続く。
それに、見送る村人も。

長野県立歴史館の企画展「長野県の満洲移民」で、
展示されていたこの写真を見に来た人が、
「ここに写っているのは、親父だ。親父が17歳のときだった」
と言っているのが印象的だった。
生きて帰国できたから、見に来た人が生まれたのだろう。

「大日方村」の昭和11年の負債総額は36万2千円にのぼった。
これは、村の予算の12年分になる。村の財政再建のために、
「分村移民」を決断した。
満州に第二の「大日方村」を造ろう、とするものである。

「分村移民」には、国から「特別助成金」が出る。
昭和12年、13年の2年間で得た特別助成金(4万7千円)は、
昭和12年の村の年間予算(3万3千円)を大きく超えた。
(「長野県の満洲移民」、長野県立歴史館発行から)


2)「泰阜村」。
渡満者総数が826人と多い。
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
と聞いたところ、
「『幸せ』だ、と感じたことは、一度もない」
「これまで生きていて、『幸せ』だ、と思ったことはない」
と答えられた女性は、泰阜村の満蒙開拓団であった。
大きな痕跡が心に残った。

その泰阜村の「慰霊碑」。
満洲大八浪(ターバラン)開拓団。泰阜村長 松下利雄 書。

今を去る20有余年前 国策に従い 数多くの人々勇躍満州に渡り
三江省大八浪に泰阜分村を建設したり
しかるに 第二次大戦は日本の無条件降伏といふ悲運に終結し
理想郷建設も中道にして挫折し 開拓民は異郷の昿野をさすらい
内地帰還の望みも空しく 大陸に恨みをのんで不帰の客となる
誠に痛恨の極みなる されど諸氏の雄魂は燦として
青史に消ゆるなし 今ここに碑を建て 永き世の平和を祈り
誅詞を勒して拓魂を万世に伝う
大八浪に雄図は空し拓友の 御霊よ還れ ふるさとの丘
忠平(木下)利太郎撰 並 書
昭和52年3月  泰阜村民 並 生存者一同


3)「上久堅村」。
現在は飯田市に合併。
「上久堅村」の死亡者ほかは412人である。
「泰阜村」の499人についで多い。
「上久堅村」の渡満者比率は19.4%である。

「満州開拓碑」。長野県知事 西沢権一郎 書。

上久堅開拓団略史
上久堅村は昭和13年7月 村内と郷土から300戸を目標に
三江省通河県新立屯へ分村移民の送出を決定した
団員は第二の祖国建設中に大戦勃発
青壮年男子は大方召集され 現地には老幼婦女子のみ残された
昭和20年 団は原住民の暴徒に襲われ
更に敗戦により数百の尊い命は 病と飢に苦しみつつ異郷に散った
  拓友の霊に捧ぐ
北満の大地に眠る皆さん 敗戦によって開拓の夢は破れ
幾多の苦難の中に斃れた皆さんに 私共は謹んで哀悼の意を表し
遺された開拓精神を永遠に記念すべく此処に碑を建てました
今や日中友好 漸く緒につき希望の光が輝いてきました
私共は皆さんの遺志を継承して
此の大業の実現に向かって邁進する覚悟であります
どうぞ皆さん 安らかにお眠りください
昭和48年9月23日
上久堅村開拓団拓友一同


4)「清内路村」。
現在「阿智村」になっている。
「清内路村」の渡満者比率は19.0%である。

「阿智村」には「日中友好不再戦の碑」がある。長岳寺。

「日本と中国は 平和と友好で永劫に 手を握りましょう 1966年初夏」

裏にはつぎのように書かれている。
「旧西部8ヶ村から終戦前に、
王道楽土建設の名のもとに、
誤った軍国主義政治のため、
かりたてられて、
中国に渡ったこの地方の開拓民は、
およそ900名に及び、
内600名の犠牲者を出した。
この不幸な体験から
『戦争はまっぴらだ、
2度とあんな目にあいたくない
中国と仲よくしよう』
と私達は心から誓って、
関係者1万余名の浄財カンパにより、
この碑を建立した」

阿智村が所蔵する「阿智村ポスター」。
「往け若人! 北満の沃野へ!!」。

「満蒙開拓青少年義勇軍募集」。

満蒙開拓青少年義勇軍」の郡別の「番付表」。

東の横綱、下伊那郡は「清内路村」、「阿智村」があるところ。
「阿智村」には、「満蒙開拓平和記念館」が建設される(2013年5月)。


5)「富士見村」。
「富士見村」の渡満者総数984人は、村単位で最大である。
「富士見村」の渡満者比率は20.9%である。

「拓魂」。大僧正 半田学海 敬書。富士見町。

昭和10年代 満州開拓は国策として推進され
その分村分郷計画は農村経済更生事業の最大の支柱であった
これによって我等が渡満入植し建設した開拓団は次の通りであった
東安省密山県黒台信濃村へ         3戸    19人
東安省密山県南五道崗信濃村へ      17戸    88人
濱江省延壽県中和鎮信濃村へ       9戸     37人
三江省通河県張家屯信濃村へ       1戸     8人
濱江省木蘭県王家屯富士見分村へ   196戸    933人
仝所 富士見在満報国農場へ              35人
北安省北安県孫船八ヶ岳郷へ       10戸    38人
北安省徳都県旭日落合分村へ      81戸    183人
仝所 勤労奉仕隊                     62人
青少年義勇隊                       66人
その他                     2戸     8人
合せて 319戸 1477人であった
昿野に鍬を振るった苦闘の幾歳 開拓の成果は逐次挙り
理想郷建設の夢成らんとする時 昭和20年8月15日
太平洋戦争の終結は この一切を放棄した我等は老若男女を率い
一朝にして難民と化し 大陸を放浪すること1年有余
戦死殉難せる者505人を出し 故国に還り得た者972人であった
爾来20余年 我等同志相計り ここに碑を建て
往時の事蹟を録し 戦死殉難者を弔い その霊を慰めると共に
我等と中国の人々との友好を願うものである
昭和43年12月
 富士見町元満州開拓団関係者一同建立


6)「豊丘村」。
「豊丘村」は「河野(かわの)村」と「神稲(くましろ)村」が合併。
「河野村」の「分村移民」は、集団自決した。
男性は緊急補充兵として「根こそぎ動員」されたから、
犠牲者は残された女性と子どもで、つぎつぎに首を絞めた。
河野村の村長は、満蒙開拓団を送り出した責任をとって自殺した。

「海外犠牲者 慰霊碑」。長野県知事 西沢権一郎 書。豊丘村。

昭和の中世 時の国策の悠久大義なるを信じ
それに順応し祖国を離れて海外の新天地に活躍中
太平洋戦争の悲惨なる終結に伴ない
雄図空しく挫折し凡そ文明社会の想像し得ざる悲惨な現実に直面し
幾多の同志は想を故郷に馳せつつ異郷に散華し
生あるものは辛うじて身をもって故山に帰るの止むなきに至れり
今茲に平和なる母村の清丘に碑を建設して
異郷に眠る同志の声なく帰郷を希い 以て慰めんと欲す
想を馳すれば 吾等の雄図は事志と違い
悲惨なる結末を告げたりとはいえ 決して無為にあらず
必ずや後世の歴史は平和に本建設の礎たりしことを証明するであろう
この丘に立ちて 眼科に天龍の清流と栄ゆく母村の姿を見
仰いで青天に一片の白雲 悠々たる故山の姿を眺むる時
遠き思新にして感無量なるを覚ゆ
御霊よ 安らかに 永眠されんことを
1974年8月15日


「満蒙開拓団」の痕跡である「慰霊碑」は、
つぎのブログに記載されているので参考にした。
「満蒙開拓団 殉難者拓魂」
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/0815-manmou-a056.htm

実際に「慰霊碑」を見るには、村役場へ行って、場所を教えてもらった。
泰阜村役場、上久堅支所、阿智村役場、富士見町役場、
豊丘村役場、高森町役場など。
特に阿智村役場では、「阿智村ポスター」と、
建設中の「満蒙開拓平和記念館」について、
時間を割いて説明してくれた。

村役場へ行くと、受付のお嬢さんは、
「慰霊碑」について知っていそうな職員に聞いた。
PCで調べたり、その場所に電話をして、
確認してくれた役場もあった。

住民票の窓口で、すぐにわかる村役場もあった。
どこでも、村の地図を取り出して、
「慰霊碑」への行き方を教えてくれた。
どこも、親切でした。ありがとうございました。

「慰霊碑」を訪ねて来る人はいますか? と聞くと、
「満蒙開拓に関係する方が、お見えになります」
とのことでした。

そして、もっとも足を運んだのは、「長野県立歴史館」である。

企画展「長野県の満洲移民」、
2回の映画「嗚呼満蒙開拓団」と「蒼い記憶」、
3回の「講演会」・・・と、6回訪れた。

「満蒙開拓団」を送り込んだ「村」を訪ねて、
「満蒙開拓団」の痕跡を探しながら、村を見た。
山深い場所だなァとか、
耕地面積は小さくて、田んぼは階段状の棚田とか、

「よこね田んぼ」。飯田市千代。

畑は段々畑でアスパラガスを栽培しているとか、
村人に道を聞くと、親切で、口調が柔らかいとか、
村の様子がわかってきた。そうして、
この村は、満州のどこに「分村移民」をしたのか?
興味が湧いてきた。それで作成したのが、
入植地一覧図」である。

「長野県の満洲移民」のリーフレットから、
日本での「村」の名前と、
満州にある「村」や「郡」の名前が、
一致したところを入植地とした。

は「大日向村」の入植地「大日向村」。
は「泰阜村」の入植地「泰阜村」。
は「上久堅村」の入植地「上久堅村」。
は「阿智村」の入植地「阿智郡」。
は「富士見村」の入植地「富士見村」。
の「豊丘村」は、東と西の2か所にあって、
東は「神稲(くましろ)村」」の入植地「南五道崗」(みなみごどうこう)、
西は「河野(かわの)村」の入植地「河野村」。
は集団自決をした主な12か所。

日本の「村」が、満州に「分村」を作る「分村移民」が、
いかに多かったかがわかる。
日本に帰ってくることができた人は半数以下で、
特に、「満蒙開拓団」の女性と子どもが犠牲になった。
襲撃、飢え、極寒、発疹チフス、集団自決で亡くなり、
それに残留婦人、残留孤児を生んだ。
男性は緊急補充兵として「根こそぎ動員」されて、
戦死したり、シベリアに抑留されて、飢え、極寒、
発疹チフス、重労働で多くの人が命を落した。

「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」と、
「関東軍」、「引揚者」、「満蒙開拓団」の男性と女性、
「中国残留者2世」に聞くことができた。
「関東軍」は、「生きていることに、感謝している」。
「仕事関係」の「引揚者」は、
「家族がそろって生活できることが『幸せ』」。
「満蒙開拓団」の男性は、
「日常の生活が、当たり前にできること」。
「満蒙開拓団」の女性は、
「『幸せ』だ、と感じたことは、一度もない」。
「中国残留者2世」の女性は、
「日本と中国で活躍できることです」。

そして、「満蒙開拓団」を送り出した「村」を訪れて、
「痕跡」を探していると、この村は満州のどこに入植したのか? と、
「入植地一覧図」を作成しようと駆り立てられた。
「満蒙開拓団」とはなにか? の結果となった。
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