季節の変化

活動の状況

年上をうやまう韓国の酒

2008-08-30 06:46:33 | Weblog
香港も台湾も酒の飲み方の流儀は、中国と似ている。
おたがいに注ぎあって、お祝いの言葉を言って、
目を見ながらグラスを掲げ、乾杯では一気に飲み干してから、
グラスを傾けて相手に底を見せ合う。
しかし、韓国は違っている……一人で注いで、一人で飲む。

「8歳のときに、両親に連れられて、香港からアメリカヘ来た。
しかし、香港のことはよく覚えていない」
と、香港系アメリカ人のエリック32歳は言う。

ここはアメリカ……西海岸のサン・ノゼである。
香港をはるかに離れると、酒の飲み方の流儀は薄れている。
エリックとのビールは、片手でビールびんを持って、
たがいに注ぎ合う……そして、好きなだけ飲む。
グラスを傾けて相手に底を見せ合うことはしない。

――オッキイもいっしょに食事を誘わないか?
と、まえまえから言っていたのが実現した。
オッキイとは、エリックの奥さんで、韓国系アメリカ人である。
韓国系アメリカ人のオッキイは、アメリカへ来て10年になる。
香港系アメリカ人のエリックと、東洋人同士がアメリカで結婚した。
そして、男の子ジョナサンをもうけた。

ジョナサンが10か月になって、外出できるようになって、
オッキイ、ジョナサンと4人で食事をすることができた。
ジョナサンは、かわいいね! それに、賢こそうだ。
しゃべるのは、「マンマ」

――オッキイの好きな料理にしましょう。
「辛(から)いのは、大丈夫ですか?」
と、オッキイは確かめてから、
「いいところがあります、韓国宮殿Korean Palaceです」
この韓国宮殿は、エリックに連れられて来たことがある。
うまいコリアン・バーベキューを提供する。

いつものように、エリックが私にビールを注ごうとして、
右手でビールびんを持って差し出したときである。
「エリック! 左手を添えなさいッ!
オッキイから、甲高いしっせきの声が飛んだ。
「ハイッ!」
エリックは、(しまった! 忘れていた)と、身をかたくして、
右手に持ったビールびんの底に、左手を添えて、
両手でうやうやしくビールを注いでくれた。

オッキイの声の大きさと、両手でうやうやしく注ぐエリックに、
――日本のホステスならば、両手で注ぐだろうが?
と、不思議に思っていると、オッキイが説明する。
年上の人には、両手で注ぐのが礼儀です。
あなたはエリックより年上ですから、左手を添えて注ぎます。
あなたが年下か、友達同士なら、右手だけでもいいですけれど」

なるほど、年上には両手で注ぐのが韓国のやり方なのか?
年上をうやまう礼儀になっているのだ……気をつけよう。
エリックと2人だけのときは、右手1本でビールを注ぎあって、
特別に気に留めたこともなかったが……。

韓国系アメリカ人オッキイの年輩者をうやまう儒教の教えは、
アメリカでも生きている。

サンフランシスコの中華街。
本文にピッタリでなくて、すみません。
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ブラジルのシュラスコとサンブカ

2008-08-27 06:18:06 | Weblog
旅の楽しみは、“郷土料理”。
ブラジルでは“シュラスコChurrasco”。

サン・パウロでブラジル人、ジュアルが案内してくれたのは、
肉料理のレストラン、バルバコアBarbakoaである。
バルバコアでは、シュラスコというバーベキューを提供する。
岩塩”で味付けした肉を、サーベルのような串に刺して、炭火で焼く。


「5歳のときに、ポルトガルから船に乗って、家族でブラジルに移民した。
移民船は、サン・パウロの南75キロにあるサントス港に着いた。
ポルトガルを去る時と、サントス港に上陸したときの記憶がある」
と、ジュアルは言う。

「ポルトガルには、何年か前に一度帰っただけ。
裕福になっているブラジル移民をみて、親戚はうらやましそうだった。
ブラジルのポルトガル語は、本場のポルトガルとは少し違っていた。
ブラジルのポルトガル語は、4百~5百年前のもので、
意味が違ったり、ポルトガルでは使用していないものがあった。
その後、親戚との交流はない」

ブラジルのシュラスコは、ケニアのレストラン、カーニボア
バーベキューに似ている。
ケニアでも、塩で味つけをしたバーベキュー。
それに、オーダーを聞いてから調理にかかるのではない。
焼き上がった串を持って、テーブルを回ってくる。

違いは、の種類。
ケニアでは、きょう獲れたサバンナの野生動物(Game Meat)。
ブラジルのシュラスコでは、ビーフ、バッファロー、仔羊、チキン、
ソーセージ。さらに、セブ牛のコブ、心臓やレバーまである。

もうひとつの違いは、“”。
ブラジルでは、テーブルに、表裏がの札が置いてあった。
プラスチック製の6角形で、大きさはビスケットほどである。

ケニアでは、ボーイが焼きあがった串をもって、
「シマウマ、シマウマ!」
と、言いながら、テーブルを回って来るので、
声をかけると、ナイフで肉をそいで皿に落としてくれた。

ブラジルでは、札で意思表示をする。
“緑”はYes Please、もっと肉を!
“赤”はNo Thank You、もういらない、満腹だ!

緑の札をボーイが見て、焼きあがったシュラスコをもってくるから、
好みの肉ならば頼むと、肉のかたまりをナイフでそいでくれる。
肉をそぐ回数は食べたいだけ、食べられるだけ。

ケニアとブラジルでは、酒も違っていた。
ケニアはガワ、ブラジルはサンブカSambuca

ケニアのガワは、ウォッカをベースにして蜂蜜とライムを加えたもの。
サトウキビの棒をマドラー代わりに突っ込んであった。
ブラジルのサンブカは、アニス(セリに似ている)から造る焼酎に、
ライムを入れたもの。43度と強い。しかし、いくらでも飲める。
焼酎は、Licor Anisというイタリア製だった。

ケニアのガワとブラジルのサンブカに共通するのは、
乾燥した空気とうまい肉に合って、クイクイと進む。
そして、酔っ払う。

ケニアのゲーム・ミートとガワは、
陸上競技のアスリート”を育て
(北京オリンピックの男子マラソンでは、
ケニアのワンジル選手が優勝した、オリンピック新記録で) 、
ブラジルのシュラスコとサンブカは、
激しく踊る“サンバのダンサー”を育てる?
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奥穂高岳の高さは南アフリカの金鉱の深さ

2008-08-22 23:07:29 | Weblog
信州の上高地で、田代池の近くに案内板があって(2008年7月)、

奥穂高岳は、標高が日本第3位で、3192mとある。

その奥穂高岳は、去年の秋の写真を掲載する(2007年10月)。

秋のほうが、夏よりもクッキリしているから。

奥穂高岳は、山の上にポツンとある小さな雲の左、
山頂が平らな部分である。

穂高連峰の氷河地形に、観光客は感激する。
手前は梓川(あずさがわ)と河童橋(かっぱばし)。

奥穂高岳の高さがおよそ3.2キロとは、
南アフリカのマーチンが、金鉱の深さについて、
「垂直の深さが3.2キロある金鉱もある。
人間が掘った穴としては、世界一深い」
言ったが、その値と同じである。

南アフリカの金鉱の深さ3.2キロは、
奥穂高岳の山頂から海まで掘り起こしたことになる。

奥穂高岳を含む北アルプスは、海底が隆起したもので、
海の生物の化石が見つかる。海洋性の動物性プランクトン、
放散虫(ほうさんちゅう)の化石が出るというから、
大昔はサンゴ礁だったところ。

奥穂高岳の隆起は、何千年もかかったのであろう?
その自然の隆起の結果が、3.2キロである。
人間が必死で金を掘れば、自然よりも短時間で3.2キロに達する。
人間は大したもんだ!……自然のエネルギーを超える?
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Win-Winの共生

2008-08-20 07:02:00 | Weblog
共産政権の崩壊は、“経済戦争”が遠因であって、
西ドイツのBMWと東ドイツのトラバントを比較して、
「計画経済は、市場経済に負けた」という反応を、
東ドイツの市民にみたことを伝えた。
民主主義のない共産党の一党独裁は、
結局、市民を幸せにしなかった。

「計画経済は、市場経済に負けた」という反応は、中国では、
故小平(とうしょうへい)最高指導者の言葉に表れている。
「数十年も革命をやり、30年あまり社会主義をやっているが、
1978年現在、労働者の月給は600円しかなく、
農村の大多数が相変わらず貧困状態にある」
国として、“売れるものがない、売れない

1978年に来日した故小平は、
日産、松下電器、新日鉄を視察し、新幹線に乗って、
「“近代化”とはこういうことなのか。“モデルは日本”」
として、“改革・開放政策”による近代化建設を進める。

計画経済から市場経済に移行するが、
「市場経済に移行して、きょうから西側と同じ生活ができる」
と、急にはうまくいかない。
「お上に逆らわずに、決められたとおりに働いていれば、給与はもらえる」
という、半世紀も続いた無気力状態から、
「“デファクト・スタンダード(実質的な標準)”になるために、
あるいは、世界一の製品を創るために、
改善、開発をして、利益をあげて、給与をかせぎだす」
というようには、意識は急に変えられない。

そうすると、必要なものは、海外からの援助である。
資金援助”と“技術援助”、それに、“教育”である。
1978年、日本は中国と日中平和友好条約を結んでから、
中国への政府開発援助(ODA)は3兆円以上になる(外務省)。
中国に対する、この3兆円以上の日本の援助額は世界一である。
資金協力を合わせると、6兆円を超える経済援助をしている。

北京の新国際空港。

日本の政府開発援助ODAによって建設された。
上海の浦東国際空港や敦煌空港、北京の地下鉄……なども、
日本の政府開発援助ODAによって建設された。
(さらに詳細は、外務省のホームページで)

つぎに、日本は国費留学生の拡大政策で、
多くの中国人留学生を受け入れている。
留学生が、信州大学から公表されていて(2008年)、
1)中国184名(55%)、2)韓国42名(12%)、3) ベトナム17名(5%)、
4)バングラディシュ14名(4%)、4) モンゴル14名(4%)、
その他64名、合計335名である。
自分のこれからのため、そして中国のこれからのために、
能力を身につけようと、慣れない環境の中で学んでいるが、
目つきが違うんだろうな?

中国人留学生は、高度な技術経済知識文化を授けられ、
若手技術者や経営者として育っている。
そして、そのまま日本に在留する人を含めて、
毎年数千人の中国人が日本に“帰化”している。
「来るもの拒まず。日本人になるならば」
は、どこの国でも、外国人を受け入れる条件である
日本で、力を発揮してほしい。

さらに、民間企業は技術移転をし、産業を育成し、
市場経済の経営を指導して、
雇用の機会を生み、市民の生活を向上させている。
売れるものがある、売れる”ようになった。

日本の“資金援助”と“技術援助”、そして“教育”が、
中国の近代化と市民の生活向上に貢献したことに対して、
中国の要人が、“日本に感謝”する言葉がある。
1)故小平(とうしょうへい) 最高指導者
「少ない金額ではない。中国人民を代表して、心から感謝したい」

2)温家宝首相(2007年4月来日、国会演説で)
「中国の改革・開放政策と近代化建設は、日本政府と国民から
支持と支援を受けた。中国人民はいつまでも忘れない」

3)胡錦濤国家主席(2008年5月来日、早稲田大学で)
「中国の近代化建設において円借款を提供し、インフラ建設、
環境保護、エネルギー開発、科学技術の発展を支え、
積極的な役割を果たした。日本の方々が中日友好のために
心血を注いでくれたことを、中国の人民は永遠に忘れない」

日本は、どちらもが勝者である“Win-Winの共生”を進めてきている。
先に進んだ日本は→援助し→双方が成長し→日本はさらに先に進み→
つぎの目標となるという、Win-Winの共生である。
日本の政府開発援助ODAや技術援助、教育は、
中国のほかにアジア、アフリカ、東欧……と世界に広がっている。

北京オリンピックの開会式を、NHKのテレビ放送でみたが、
壮大だった。中国の隆盛を世界に知らしめた。
開会式の費用が500億円、といわれている。
演技者一人ひとりの表情が生き生きとしている。
――中国人の、あの生き生きとした表情は、
どこからくるのだろうか?
「中国を発展させるんだ! 国威を世界に見せつけるんだ!」
という、気迫がほとばしっている。

世界から批難されている中国の“問題点”を、一時忘れさせる。
チベット自治区や新疆ウイグル自治区など、五独の“人権問題”、
共産党の一党独裁による“民主主義の抑圧”、党官僚による“腐敗”、
環境破壊”、“貧富の差”、“検閲による情報操作”……。

NHKの北京オリンピックのテレビ放送で、ゲストの谷村新司さんは、
「中国の国と人たちは、世界には違う考えもあることを知る機会になる」
という趣旨のコメントをされている。
これは、世界の人の考えていることを代表したものだ。
世界は、中国がいつ民主主義に移行し、問題点を解決するのか?
胡錦濤国家主席の政策である、急激な近代化建設から、
調和的な発展に、注目している。
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西ドイツのBMWと東ドイツのトラバント

2008-08-16 06:45:16 | Weblog
共産政権の崩壊は、“経済戦争”が遠因である。
「計画経済は市場経済に負けた」という市民の反応を、
西ドイツのBMWと東ドイツのトラバントにみた。
それは、東ドイツのハレという町で開催された
国際見本市でのことである。

まだ、ドイツが東西に分割されていた1989年3月に、
訪れたハレの国際見本市の会場。

中央の尖塔に掲げられた、赤い星に目がいく。
それに、会場の前に、大きなレーニンの頭像がある。

――このレーニンの頭像は、今は残っていないだろう?
というのは、2006年にハンガリーを訪れたときに、
「1990年に共産政権が崩壊してから、共産主義色が一掃されました。
共産主義のときの像は取り払われて、一ヶ所に集められています」
と、ツアー・ガイドは説明したから、
ハンガリーの街からは、レーニン像は消えている。

ベルリンも東西に分割され、西ベルリンは、
ベルリンの壁”で囲われていた。
そのベルリンの壁が崩壊するのは、1989年11月、
そして、東ドイツが崩壊するのは、翌年の1990年である。
東ドイツが崩壊する1年前に、東ドイツのハレに入ったわけだが、
まさか、8か月後にベルリンの壁が崩壊し、
1年後に東ドイツが崩壊するとは、思いもよらなかった!
東西ドイツが統一するのは夢であり、それに、流血の惨事がある、
と思っていた。

そのハレの見本市会場の脇には、赤いBMWが駐車していた。
ナンバープレートから、西ドイツからの出展者の車だ。

見本市をみにきた東ドイツの若者たちが、
ひきも切らずに集まって来ては、BMWの中をのぞきこみ、外を観る。
スタイルや性能、塗装、内装、材料、装備、環境対策……が、
東ドイツの国民車トラバントとは段違いだ。
「西側の連中は、こんなにいい車に乗っているのか?」
と、設計の思想と、それを実現できた技術力にショックを受け、
「追いつくのは難しい、トラバントは完全に負けている!」
と、いけないものを見たかのように、すごすごと去っていく。

これは、生きた見本市だ!
技術の差は歴然で、安全や公害対策も遅れている。
計画経済は負けていることを、東ドイツの市民は、肌で感じた。
くやしいだろうな? 自分の国が劣っているわけだから。

ハレの街でみたトラバント

中心街から外れた街は、手入れが行き届かない。
トラバントが駐車している。右側はアパートメント。
歩道には、乳母車を押す親子がみえる。

チェコの車にシュコダがある。
チェコを訪れた2006年に、新モデルをみた。
フォルクスワーゲンの技術で、デザインも性能も一新した。

シュコダは、トラバントと同じように技術レベルが低かった。
まったく魅力がない、売れない。これでは市場経済では、勝てない。
企業として生き残れないから、共産政権が崩壊すると1990年に、
ドイツのフォルクスワーゲンに買収された。

しかし、旧型のシュコダが、まだ使われていた(チェコ、2006年)。

デコボコだし、つぎはぎだし、さびているし、部品はないし……。
――よく走るもんだ! よく使うもんだ!
これに感心する。
――となりの乳母車のほうが、りっぱだ!
デコボコではないし、さびていないし、部品はついている。

西の市場経済では、スタイル、性能、デザイン、価格、
品質、安全、環境対策……において、厳しい競争をして、
優秀な製品や、市場に適合したものだけが生き延びて、
デファクト・スタンダード(実質的な標準)”になった。

日本のハイテク製品でも同じである。
車でも、DVD、ディジタル・カメラ、インクジェット・プリンタ、
薄型テレビでも、世界一を目指して開発し、市場で厳しい競争を勝ち、
生き延びてきた製品が、デファクト・スタンダードとなってきた。
あとから出す製品は、これらの機能を満たし、
さらに優れた付加価値をつけ加えないと、安くたたかれる。

「お上に逆らわずに、決められたとおりに働いていれば、給与はもらえる」
という、半世紀も続いた共産政権の無気力状態では、
市場経済では勝てない。
共産政権が崩壊したのは、内部の“腐敗や無気力”のほかに、
市場経済と計画経済による、“経済戦争”の結果が遠因である。
武力戦争”の結果ではない……自由主義国家と共産主義国家が、
直接ドンパチして、共産主義国家が滅びたわけではない。

経済戦争やデファクト・スタンダードについて、
自費出版した『世界がみる日本の魅力と通知表』に、
記載してあるので、参考にしてください。

西のBMWと東のトラバント、西のフォルクスワーゲンと東のシュコダに、
市場経済と計画経済による“経済戦争”の決定的な優劣を
目の当たりにした。
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中国のファースト・フード

2008-08-13 06:45:16 | Weblog
中国には、うまいファースト・フードがある。
まんじゅう、ヌードル、串……街角や屋台でみかける。
まんじゅうは、日本のようにアンコは入っていない。
いずれのファースト・フードも、温かい

世界のファースト・フードは、
アメリカは、ご存知、ハンバーガーやフライド・チキン、ホット・ドッグ、
イギリスはサンドウィッチ、フィッシュ・アンド・チップス、
メキシコはタコス、ブリトー、トルコはドネル・ケバブ、
デンマークはオイル・サーディーン、
そして日本は、おにぎり。
ドネル・ケバブ以外は、温かさへのこだわりはない。

「中国には、ケンタッキー・フライドチキン
マグドナルドもたくさんあります」
と、中国人のリーは言う。
「マグドナルドは、こどもが好きで、週に1回食べている。
テレビのコマーシャルを見て、おまけが欲しくて買いに行きます」
と言うから、これから中国人の嗜好(しこう)やごちそうも変わってくる?

蘭州でみたケンタッキー・フライドチキン。

大人のお客さんでにぎわっている。
重工業で繁栄している蘭州は、豊かだ。

その近くには、回転ずし。

女性が呼び込みをしている。

リーは、日本に3年いたが、
――行ってみたい国、あこがれの国はどこだろう?
「アメリカ、日本、カナダ、オーストラリアです」
――日本にも行ってみたいとは、うれしいではないか。

「日本へ行って、倹約した生活をして、
お金を貯めて帰ってくる人がいます。
夫婦で行って、貯金をして、数年いて、
中国にもどって、一戸建てを買った人もいます。
出たまま、帰って来なくなる人も多いです」

「カナダは、中国人を受け入れてくれます。
けれでも、中国から出国するのが大変です。
その国からの招待状や、理由がないと、ビザが下りません」

「香港人は、中国に簡単に来ることができますが、
中国人は香港に行くことができません」
香港は、1997年に中国に返還されたが、
返還された香港といえども、中国人には移動の自由はない。

日本で世界会議を開催して、中国人も当然、召集したことがあった。
しかし、中国人だけは、面倒だった!……面倒な手続きをして、
ビザを取得しなければ、出国することができない。

まず、「招聘理由書」を作成する。
1)招聘理由書
(ア)招聘目的、
(イ)招聘経緯
(ウ)申請人との関係
2)受け入れ機関概容書
(ア)受け入れ機関の概況
(イ)労働条件
(ウ)研修事業の実績
3)身元保証書
(ア)査証申請人
(イ)保証 滞在費、帰国旅費、法令の遵守
(ウ)身元保証人
4)滞在予定表
(ア)月日、行動予定、連絡先、宿泊先
5)査証申請者名簿
(ア)入国期間
(イ)査証申請者勤務先

これに、はんこをぺたぺたと押して、
中国人が居住する日本大使館や領事館に提出する。
許可が下りれば、中国人はビザを申請する。
出国するまでに、1か月はかかる。

ほかの国の人には、手続きは要らない……香港人にも、台湾人にも。
航空券さえ手にすれば、自由に日本に行き来する。
中国人に移動の自由がくる日は、いつだろう?
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中国のお母さんの味、庶民の味

2008-08-09 00:34:23 | Weblog
いよいよ北京オリンピックが始まった……加油日本! ガンバレ日本!
北京オリンピックの開会式をみると、天女の舞があった。
その天女のパーフォマンスを思いだしたので掲載。

唐楽宮、西安市で。

「世界の三大料理は、フランス料理、つぎにトルコ料理
そして中華料理です」
と、世界でも誇り高きトルコ人は言う。

その中華料理は、うまい!……毎日でもいい、3食でもいい。
食材も豊富、料理方法も蒸す、炒める、焼く、煮る、揚げる……とある。
飽きがこない。それに、どこの国の中華料理もうまい。
北京の乾燥アワビをもどしたステーキ、
香港の桂花魚(けいかぎょ)の蒸し煮、
台湾の小龍包(しょうろんぽう)、
シンガポールの冬瓜(とうがん)をくりぬいたフカヒレのスープ……。

しかし、今回は中国のお母さんの味庶民の味
北京生まれの女性リーは日本に3年いて、中国にもどった。
「納豆は食べられるようになりました、
体にいいと言われて食べて、好きになりました、
でも、生卵をまぜるのは食べられない、キモチが悪いです。
鳥は蒸したものが好きです、焼き鳥も好きです。
から揚げは好きではない。
日本の餃子(ギョウザ)は焼き餃子ですが、
中国は蒸し餃子で、蒸し餃子の方が好きです」
リーが言うのは、典型的な中国人の舌だろう。
それに、日本の味との比較ができる。

そのリーが中国に帰ったときに、
最初に食べたくなるものは、なんだろう?
「餃子、焼き餃子ではなくて、蒸し餃子。それとお母さんの味
――お母さんの味とは、なんだろう?
「豚とか鳥です。蒸した豚や鳥は、お母さんの味です。
日本の人が、なべの中の豚足をみれば、ビックリしますが、
ゼラチンがあって、がなめらかになります」
――リーの肌がツヤツヤしているのは、そのせいか?
「豚も鳥も、日本に比べれば、ほんとうに安いです」

リーと北京の大衆食堂で昼飯を食べることにした。
これまで北京市内を案内してくれたドライバーは?
「ジアングは、どこかで一人で食べる」
と、リーは言う。それはかわいそうだ。
「ジアングもいっしょに、食べようや」
と、誘った。それに、大勢の食事のほうが楽しくなる。
リーは携帯電話で連絡した。
ジアングは、恐る恐る? 食堂に入ってきて、座った。

「何が食べたいですか?」
と、リーに聞かれて、
「おまかせします。何でも食べられますから」
――ここは、リーがふだん食べているものを食べたい。
ジアングとメニューをみながら悩んでいて、
「食べたいものはありますか? こちらで、決めていいですか?」
と、再び確認してきた。
ふだん食べているものを加えてください」
ネギのきざみ青唐からしの酢付け揚げたしらす干し
が小皿で出てきた。
――これが、ふだん食べているものか。ご飯に合いそうだ。

前菜は、豚肉のスライスとくらげ、スープはホットアンドサワー、
メインは豚肉を薄切りにしたグリル、薄い皮で包まれたしゅうまい、
青い中国野菜、タケノコの煮付け、海老フライ、
それにご飯をオーダーした。
――これが、リーのいう四川料理だろう?
どれもうまい。それに、かなりのボリュームだ。

リーには疑問があった。
「日本では、焼き魚にご飯というように、ご飯が多くて、
おかずが少ないのは、どうしてですか?
ご飯にバターをのせて、しょうゆをかけて、
ご飯をたくさん食べる人もいます」
サンマにご飯、これは小さいときのごちそうだった……今でも、
こんなにうまいものはない。昔は貧しかったから、その名残だろう。

「小さいときには、たくさん食べることができなかった。
それで、体格が決まってしまって、大きくなれなかった。
そして、早く白髪になったのも、そのせいだ。
小さいときの恨(うら)みを、はらすために、
今、こうしてたくさん食べている」
と言うと、リーは体をゆすって、笑いだした。
南アフリカのマーチンのように、
ビールしぶきが飛んでくることはなかったが。
リーは笑いをこらえながら、催促するジアングに通訳している。
「信じられない……どこまでがほんとうですか?」
と、白髪をみながら、ジアングも笑いのうずに加わった。

楽しい食事だった。でも、食べきれない……恨みをはらそうとしたが?
リーは、食べるところを見ている……食べ残しの皿をみて、
「お客さまには、食べきれないほど提供して、満足していただいた」
というように、ホッとしていた。
とともに、ボリュームでも満足させる中国。

天水のレストランで。

料理が積み重ねられた。
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中国の酒と酒宴

2008-08-06 01:09:19 | Weblog
北京オリンピックの開幕、8月8日がせまってきた。
今回は中国……中国酒宴ついて。

中国のビジネスは、「まず、友好関係ありき!」である。
打ち合わせが終わると、酒宴となる。
取引先のチェンは、料理から酒まで、
ホストとしてお客さまをもてなす。

料理は当然のように中華料理、酒はビールからスタートする。
すぐに、紹興酒(しょうこうしゅ)や、白酒(ぱいじう)になる。
紹興酒はアルコール度が17%、白酒は40%で、これはきつい。

酒の飲み方には、プロセスがある。
日本のように、自分1人で注(つ)いで、1人で飲むことはない。
まず、おたがいに注ぎ合う。そして、ホストのチェンが、
乾杯にしますか? 随意(ずいい)にしますか?」
と聞いてくるから、
「乾杯にします」と応えると、
「おたがいのビジネスの繁栄を祈念して!」
と、祝福の言葉を言って、
お互いに目を見ながら、グラスを掲げてから、一気に飲み干す。
飲み干すと、立ち上がって、腹の前でグラスを両手で傾けて、
を見せ合う。
「全部飲みましたよ」
と、空であることをおたがいに見せ合うのである。

注ぎ合う乾杯か随意か祝福
乾杯か随意グラスの底を見せ合う
これが、酒を飲むプロセスである。
酒宴が進むほどに、この変形となる。となり同士であったり、
飲みたそうな人をみつけたり、特別なお祝いごとがある人をみつけたり、
ホストになって感謝したり……と。

随意(ずいい)は、飲める量だけ飲むもので、
アルコールに弱い人や女性に対してする。

乾杯と随意は、おたがいの健康、幸運、旅の無事……と、
理由をつぎつぎとみつけては、繰り返す。
ビールから、すぐに紹興酒、白酒へと移行する酒宴は、
延々と深夜まで続く……たいがいは、酔っぱらう。

酔っぱらって、友好関係が深まったと思うほどに、
ビジネスへの効果は大きい。
前日の会議では、決まらなかったことでも、
翌日は、すんなりとまとまってくる。
中国でビジネスを進めるには、酒に強いほうがいい?
へろへろになったり、醜態をさらけ出したりしないためにも。

西安市の唐楽宮で。

雅とダイナミズムの舞踊ショウ。

米が不作の年は、ワインが売れるから助かる」
と、オーストラリアのワイン業者が言う。
「中国にワインを輸出しているが、
米のできと、ワインの輸入には関係がある」という。
「米が不作の年は、中国政府は米で造る紹興酒の生産を抑えて、
ワインの輸入を増やす。反対に、米が豊作の年は、
紹興酒を造るから、ワインの輸入を減らされる」
と、中国の酒事情を話す。
中国人は、米が豊作だと紹興酒を飲み、不作だとワインを飲む。
米が豊作か、不作かで、酒を器用に飲み分けている?

その中国のビールの消費量世界一である。
キリンビールが世界のビールの消費量を毎年調査していて、
2003年にアメリカを抜いてから、2006年まで4年連続1位である。
ちなみに、3位ロシア、4位ドイツ、5位ブラジル、日本は6位。
2007年の結果は、まだ発表されていないが、5年連続1位だろう?

中国は、経済が急成長するとともに“乾杯”が進み、
さらに、2008年北京オリンピック、2010年上海万博
大型イベントが続いて、ビールの消費量は急上昇していく。
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国際テロは、なぜケニアから?

2008-08-02 06:24:36 | Weblog
南アフリカの警備が厳しいことは、スタンダード銀行で体験している。
すべてのお客は、パイプのゲートに入って、
危険物の持ち込みがないか、チェックされた。

ケニアの警備も厳しかった。
まず、入国するにはビザが必要だった。
ナイロビの航空会社の訪問では、警備所で名前を記帳すると、
パスポートを保管されてしまう。退出するときに返してくれるが、
入場票を大事にした。これが預り証の代わりになるのだから。
ナイロビのホテルでは、多くの警備員が24時間態勢で見張っている。
玄関はもちろん、バーの入り口、各フロアでは見渡せるところに……。

そのナイロビで、アメリカ大使館が自爆テロによって爆破された。
1998年8月7日のことで、爆薬を満載したトラックが
アメリカ大使館に突っ込んで、死者291人の大惨事となった。

2003年にナイロビを訪れてみると、アメリカ大使館はなかった。

大きな空が広がっていた。その前はバスを待つ人で混雑している。

“AUGUST 7TH MEMORIAL PARK”(8月7日記念公園)
というアーチがあるから、ここがアメリカ大使館の跡地(あとち)だとわかる。

新しいアメリカ大使館は、市街を避けた郊外に引っ越していた。

アメリカで2001年9月11日同時多発テロが起きた。
ニューヨークの世界貿易センターは崩壊し、2,749人が犠牲となった。
アメリカ史上最大の惨劇となって、全土にすぐさま航空規制を敷いて、
臨戦態勢に入り、すべての空港で離着陸が禁止された。
臨戦態勢が解除されてから、ニューヨークを訪問した(2002年2月)。

爆心地グラウンド・ゼロ。ガレキの撤去作業。
向いのビルディングの窓ガラスは、爆風で割れた。

そっと、アメリカ国旗にさわる女性。

犠牲者を悼(いた)みに、やってきたのだろうか?
多くの人が安否を求めて行き交うが、たまたま一人になった。

ケニアが国際テロの始まりとなった。
アメリカの同時多発テロ9・11よりも3年も前である。

一方で、南アフリカのアメリカ大使館は無事である。
――アフリカならば、南アフリカを狙った方が、
ニュース性が高いではないか?

ケニアは、1998年のあとでも同時テロに遭っている。
2002年にケニア第2の都市モンバサで、
イスラエル系のホテルが爆破されて15人の犠牲者がでた。
同じ日に、モンバサから飛び立ったイスラエルの民間機が、
ミサイル攻撃を受けた。こちらは、機長の気転で“フレア”という
閃光弾を発射したために、イスラエル人の乗客261人は無事であった。

――なぜ、ケニアばかりを狙うのだろう?  南アフリカではなくて。
これに対して、南アフリカのハンスは応えた。
「ケニアは出入りが簡単だった。
隣り合う国との国境警備が無警戒で、穴だらけだったから、
内戦状態にある隣国のゲリラ・グループの入出国は容易だった。
この状況はテロリストにとっても同じであった。
アメリカ大使館が爆破されてから、ケニアではビザが必要になった」

「南アフリカではビザは要らないが、
国境の警備を含めて出入国の管理は厳しい。
それと、不審者への警戒は厳重で、常に動向を追っている」

ケニアとアメリカについては、自費出版した
『世界がみる日本の魅力と通知表』
に記載してあるので、参考にしてください。

2010年のサッカーのワールド・カップは南アフリカで開催される。
安全な試合や治安の確保とともに、エイズ高い失業率が、
南アフリカ共和国の大きな課題である。
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