季節の変化

活動の状況

連休は稲刈り日和の収穫の秋

2015-09-27 00:01:28 | Weblog
9月の連休、信州は稲刈り日和の収穫の秋になった。
家族そろって稲刈りや、野菜、果物が実り、味覚の秋が広がる。
はぜかけ

天日干しの「はぜかけ米」は、うまいという。農家への恵み。
一般的に流通している米は、コンバインで刈り取り、同時に脱穀し、
農協へ運んで、乾燥機で短時間で乾燥させる。この流通米を食べている。

はぜかけは、手間ひまかかる。
遠方の人が帰卿する連休に、一家総出でやる。
天候を見ながら、2週間ほど天日干ししてから、脱穀、貯蔵し、
食べる分だけ精米する。天日干しはうまいが、大量生産には向かない。

うまい「はぜかけ米」は、農家へのごほうびであり、
遠方からお手伝いに来てくれた人への贈り物。
高くなるが、インターネットで販売している。
手前はそば畑。松本の南、朝日村で。2015年9月21日。

稲刈り

父ちゃんが稲刈り、母ちゃんがはぜかけ。慣れたものだ。
声をかけて、写真を撮らせてもらった。

黄金の実り

わん曲した棚田がいいね。
奥では、はざかけに忙しい。

収穫を迎えたレタス

のベルト。朝日村で、2015年9月21日。

たわわに実ったりんご

朝日村で、2015年9月21日。

「はぜかけ米」に鹿料理、イノシシ料理でもいい、レタスのサラダ、長芋がついていてもいい、
リンゴのジュースか炭酸、デザートでもいい、キノコの味噌汁、キノコの漬物、
そんな「信州定食」がほしい。「はぜかけ米」は、御代わり自由か大盛り。

そば

朝日村で、2015年9月21日。

そして、大好きな「ざるそば」、大盛り。

先に、そば畑が見える。朝日村の「もえぎ野」。2015年9月21日。
自前のそば畑で栽培して、石挽きしたとのこと。
8月に収穫した新そばで、うまかった。
水がうまいのも効いている。

左奥に見える白いは、電気柵の電源装置。
そば畑の周囲に、2本の電気柵が張り巡らしてあった。
イノシシよけとお店の人は言う。高さは地面から、
20センチメートル間隔と低かった。
イノシシの鼻が当たる高さ。

そばのほかに、力餅、ビールにありつけた。
ここは、軽井沢の碓氷峠(うすいとうげ)。
力餅が名物という。

力餅は見た目、ダンゴ。
ダンゴだけを食べる好みはないので、ざるそばとのセットにした。
力餅はあんこを選んだが、うまかった。モチモチとねばりが強かった。
「碓氷山荘」、2015年9月19日。

碓氷山荘でもらった碓氷峠の地図がある。

左上の旧軽井沢から、中央で左右に延びる中山道へ上がってきた。
旧軽井沢は観光客で、す~ごい賑わい。一部歩行者天国になっていた。
碓氷峠へは、軽井沢から1時間に1本のバスの便があって、多くの人が訪れていた。

■が碓氷山荘、力餅を食べたところ。
中央が熊野神社

熊野神社の中央が県境で、左が長野県側、右が群馬県側。

熊野神社のさらに右には、鼻曲山(はなまがりやま)への登山道がある。

鼻曲山(1,654メートル)には、2015年9月23日に登る。
留夫山(とめぶやま)を経由する往復は、5時間半。
イノシシがブォー、ブォーと鳴きながら走り去った。
登りは3匹、下りも一ノ字山で、警告のブオーが響いた。
連休最終日、道中では2組のご夫妻と住人のイノシシに会った。

途中で見える奇怪な山。

左から、雨坊主山、角落山、剣の峰。

碓氷峠のねらいは、地図の左下にある見晴台

が長野県と群馬県の県境。

南の群馬県側には、妙義山が見える。


妙義山には、2006年4月に登っている。

奇怪な山だった。急な岩登りには鎖があった。
穴くぐりがあったり、変化に富んでいた。

見晴台の北に見える浅間山

頂上には、雲がかかっている。2015年9月19日。

西には八ヶ岳が見えた。北アルプスの上は、雲に覆われていた。
松本へ帰る途中、浅科(あさしな)で浅間山が全容を見せてくれた。

浅間山は噴煙を上げている。軽井沢は右になる。
左は黒斑山(くろふやま)。手前は北陸新幹線。
千曲川を渡る琵琶島橋から。2015年9月19日。

生ビールにありつけた。
BeerFes SHINSHU”。

ここは、松本城。2015年9月20日。
奥は天守閣。右は天守閣に入場する列で、2時間待ち。
白のヴァイツェン、つぎに、黒のスタウトを飲んだ。
生ビールはうまいね! 空気が乾燥しているし。
松本城を見ながら、のどをごくごくと通る。

連休の信州は、稲刈り日和の収穫の秋。
朝日村では、はぜかけを見て、そば、
軽井沢の碓氷峠では、浅間山を見て力餅、
松本では、松本城を見ながら生ビール…。

噴煙を上げる浅間山。

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満蒙開拓団の集団自決で生き返った人

2015-09-20 00:00:55 | Weblog
満蒙開拓団では、集団自決が起きた。
その集団自決で、生き返った人の話を聞くことができた。
長野県の河野村から、満洲に渡った、久保田 諌(いさむ)さんである。
河野分村の男性は、1945年8月15日に「根こそぎ動員」で招集されたから、
女性と子ども、老人、68歳の団長、15歳の久保田少年ほかが、団に残された。
残された人は、1945年8月16日に集団自決をした。そして、73人が亡くなった。
久保田少年は生き返った。地獄を体験して、帰国した。

満洲開拓団地図」。

は開拓団。長野県立歴史館から。
河野村(かわのむら)、Sは新京(しんきょう)、Kは吉林(きつりん)、Rは胡蘆島(ころとう)。

集団自決をしたが、生き返ったとは、どういうことなのか? 知りたかった。
1)集団自決に追い込まれたわけは?
2)どのようにして、集団自決をしたのだろうか?
 首を絞めたというが。
3)どうして、1人だけ生き返ったのだろうか?
 首を絞められたが、息を吹き返した?
4)満蒙開拓団を送り出した河野村の村長は、
 集団自決を知って、自殺したというが、
 どうして、集団自決を知ったのだろうか?
 生き残った久保田少年が日本へ帰ったのは、
 村長が自殺をしたあとだったというから。
5)壮絶な体験をした人が、今に伝えたいことは?

長野県立歴史館で、証言「満洲移民を語る」が、2015年9月12日に開催された。
河野村から、満蒙開拓団で河野分村へ行った久保田 諌さんが話された。
15歳の久保田少年は、85歳になっていた(1930年1月生まれ)。
腰は曲がりかけているが、記憶力はしっかりしていて、
メモを持たず、よどみなく、話された。
2時間近くのお話しだった。

0)満蒙開拓団に参加したいきさつも、知ることができた。
実家は農家ではなく、木材、薪を扱っていた。
馬車を使った運送業に切り替えて、順調だった。

当時は、予科練へ行って、あこがれの少年航空兵になるか、
満蒙開拓団へ行くかだった。
戦争は嫌だ! という雰囲気ではなかった。
学校の先生は、予科練を勧めたが、満蒙開拓団を選んだ。
叔父が村の議員で、満蒙開拓団を勧めたこともあった。

1944年8月、満洲の河野分村に渡った。単身、14歳だった。
(1944年8月とは、終戦の前年ではないか? すでに戦局は悪く、
敗戦が色濃かったが、国民は知らされていなかった)

S新京(長春)の西へ12キロメートルのところで、
広大な土地、作物が獲れるいいところだった。
新京にはあった電気、ラジオはなかった。

1945年8月15日に、「根こそぎ動員」があった。
18歳~45歳の男が対象者で、43歳の副団長や、
団長の長男ほか、17人が新京へ出征した。
(1945年8月15日とは、終戦の日ではないか!)

残されたのは、女性と子ども、老人、68歳の団長、
耳が遠い25歳のマッサージ師、そして、15歳の久保田少年だった。

久保田少年は、満人の苦力(クーリー)を使って、農作業をした。
苦力頭(トウ)に必要数を言うと、苦力を集めてくれた。
8月15日、畑で大根の追肥と除草をしていた。

すると、団の婦人が知らせに来た。
日本が負けたから、団本部に来るように」
日本の敗戦は、隣のカ行村の少年が、馬に乗って伝えに来てくれた。
カ行村には、電気があり、ラジオがあった。河野分村は知らないでいるだろうからと思って。

久保田少年は、確認に行くように言われて、
4キロメートル西のカ行村に、自転車で行った。
日本が負けることは考えられなかった。無条件降伏だった。
新京では、暴動が起きて、日本人は外に出られなかった、と聞いた。

「団に集結せよ!」と命令された。それから、
丘のような低い山があって、そこへ避難した。
夜中に雨が降り出した。

1)集団自決に追い込まれたわけは?
1945年8月16日。朝、腹ごしらえに、山から団にもどった。
外の雰囲気が違ってくる。11時ころ、原住民が200人くらい集まる。
馬に乗っている。拳銃を放つ。宿舎の物資を運び出す。
窓枠も取り去る。燃料に使うのだろう。
畑からジャガイモを掘り出す。

着の身、着のままで、西のK吉林(きつりん)方面に逃避する。
マッサージ師と逃げる。25歳だが、耳が遠かったために、
「根こそぎ動員」を免れたと思う。

疲れて、コーリャン畑で寝てしまった。
数百人の現地人に襲撃されて、こん棒で殴られた。
若かったから、手で防いだりして、致命傷にはならなかった。
ところが、こん棒で殴られても、68歳の団長は年寄りだから弱い。
虫の息で、
早く楽にしてくれ!
若者は、日本へ帰って、報告してくれ!

副団長の奥さん、校長先生の奥さん方が集まって協議した。
召集された夫は、新京ですでに戦死したと思った。
集団自決をすることになった。

2)どのようにして、集団自決をしたのだろうか?
団長の首を絞めた。
母は腰ひもで、赤ちゃんから首を絞め始めた。
小学5、6年生には、
お父さんのところへ行くから
と、言い聞かせて首を絞めるが、息苦しくなると、
お母さんの手を、払いのけてしまう。
殺すのをやり返すのは、「かわいそうだ」
と、看護婦さんの助言をもらいながら、
一気にやってしまうことになる。

子どもの次は、身内のおばあさんの首を絞める。
肉親のつぎは、若い婦人が絞められる。
73人が殺された。

3)どうして、1人だけ生き返ったのだろうか?
25歳のマッサージ師と、15歳の久保田少年が残った。
2人は石を探した。大きな石を探したが、畑には大きな石はなかった。
中でも大きな石を右手に持ち、左手を相手の肩にかけて、
石を相手の眉間をめがけて、殴り合った。
目に血が流れてきた…倒れた。
血が出て失血死するように、頭を下にした。

久保田さんは、話をしながら、を触って、
今でもあるデコボコや傷は、殴り合ったときにできた。
あとで、近くで見る機会があったが、眉間はへこみ、
その眉間から左上に裂けた傷痕があった。
右手の石で殴り合ったから。

久保田少年は目が覚めた。しかし、立ちあがれない。
太陽が見えたから、5~6時間、気絶していた。
スコールの水が足跡にたまっていた。
さかずき位の水をすすった。
生き返った。

2人とも気がついた。
73人の死体が転がっている。
女性も子どもも、衣類がはがされていたから、丸裸だった。
久保田少年も、シャツもズボンもとられていて、パンツだけだった。
1週間、畑の中にいた。どうすればいいのか? どこへ行けばいいのか? わからない。

現地人の馬車が来て、女性と子どもの死体を荒地に捨てる。
2人は邪魔にされて、どこかへ行け。

夜になって、現地人に見られて、迷惑にならないように、苦力頭の玄関を叩いた。
苦力頭は、久保田少年の傷つき、衰弱したパンツ姿を見て、大泣きした。
中国では、米のご飯を食べない。食べても、おかゆだが、
ご飯を炊いてくれた。それに、卵焼き、塩で味つけした。
あんなにうまい飯はなかった! 今でも覚えている。

苦力頭は、2人分の衣服、履物を用意してくれた。
12キロメートル先の新京へ行く。苦力を、前に2人、
後ろに2人つけて、苦力頭が新京まで連れて行ってくれた。

新京では、満洲軍の乗用車で日本軍の憲兵隊へ連れて行かれた。
車に乗るのは初めてだった。憲兵から逃亡兵の嫌疑がかけられた。
疑いが晴れて、収容所へ行く。つぎに開拓研究所へ行く。
「根こそぎ動員」された団長の長男ほか10人がいた。
となりは、関東軍司令部だが、関東軍はいなかった。
関東軍に見捨てられた。

その後、列車でH奉天(ほうてん)へ行く。
奉天は略奪、強姦で、新京よりもひどかった。
奉天から、南へ行くらしい貨物車に潜り込んで、
着いた先がA安東(あんとう)だった。セメント工場で袋詰め、
木材会社で船造り、鉄道工事などをして、生き延びる。
マッサージ師は、熱を出して亡くなった。
八路軍でD大連へ行った。帰国まで1年3か月待った。
食べ物に不自由した。140人いた日本人は37人に減った。

4)満蒙開拓団を送り出した河野村の村は、
 集団自決を知って、自殺したというが、
 どうして、集団自決を知ったのだろうか?
久保田少年は、1948年7月、R胡蘆島 (ころとう)から船に乗った。
7月23日に舞鶴へ着いた。1948年7月31日に家へ帰った。
帰国を、胡桃沢 盛(もり)村長に伝えることはできなかった。
村長は、2年前の1946年7月27日に自殺していた。
死ぬために送り出したことを、苦にされた。

村長は、集団自決をどうして、知ったのだろうか?
村長の弟が奉天の学校にいた。分村移民のことは、
気になっていて、連絡を取っていたから。

5)壮絶な体験をした人が、今に伝えたいことは?
絶対に戦争を起こさないように!
(集団自決で地獄を見てきた人の言うことは、重みがある)

自分が85歳になって、70年前の15歳のことを、2時間近くも話せるだろうか?
年月日、出来事、順番、場所、人名、数字…を、
久保田さんは、鮮明に記憶されている。
「エーっと、あれは何だっけ?」
は、まったくなかった。

それで、話が終わった後で、お聞きした。
「素晴らしい記憶力ですね!」
すると、すぐに答えられた。
「満蒙開拓団のことは、よく覚えている。
きのう、何をしたか? は覚えていなくても」
久保田さんにとって、満蒙開拓団は、
刻み込まれていて、一生、忘れることができないもの。
集団自決、逃避行、地獄が、生々しくよみがえる。
人生のすべてのように、強烈に凝縮されている。

河野村と神稲(くましろ)村が合併して、豊丘村になった、1955年。
豊丘村には慰霊碑がある。
海外犠牲者 慰霊碑」。2012年7月撮影。

長野県知事 西沢権一郎 書。
昭和の中世 時の国策の悠久大義なるを信じ
それに順応し祖国を離れて海外の新天地に活躍中
太平洋戦争の悲惨なる終結に伴ない
雄図空しく挫折し凡そ文明社会の想像し得ざる悲惨な現実に直面し
幾多の同志は想を故郷に馳せつつ異郷に散華し
生あるものは辛うじて身をもって故山に帰るの止むなきに至れり
今茲に平和なる母村の清丘に碑を建設して
異郷に眠る同志の声なく帰郷を希い 以て慰めんと欲す
想を馳すれば 吾等の雄図は事志と違い
悲惨なる結末を告げたりとはいえ 決して無為にあらず
必ずや後世の歴史は平和に本建設の礎たりしことを証明するであろう
この丘に立ちて 眼科に天龍の清流と栄ゆく母村の姿を見
仰いで青天に一片の白雲 悠々たる故山の姿を眺むる時
遠き思新にして感無量なるを覚ゆ
御霊よ 安らかに 永眠されんことを
1974年8月15日

長野県は、全国で一番多く満蒙開拓団を送り出した。

長野県は、全体の14.2%を占めて、断トツ。
長野県の戦没者は15,000人近くだから、半数が亡くなった。

久保田 諌さんの豊丘村を見る。
満洲移民の市町村別比率」。

豊丘村は、長野県の南部。
満洲移民の比率は6.4%と高く、赤色で表示されている。

豊丘村の、渡満者比率、帰国者比率のデータを見る。
市町村の渡満者比率」。

渡満者の内訳で、
義勇軍は、満蒙開拓青少年義勇軍、
勤労奉仕隊は、移住ではなく、お手伝いに満蒙開拓団に行った人。

一番下の豊丘村は、
人口9,244人の内、614人が満州に渡った。
渡満者比率は、6.4%である。

市町村の帰国者比率」。

豊丘村は、614人が満州に渡り、
生きて帰ってきた人は234人である。、

帰国者比率は38.1%である。
帰国者比率が極めて低いのは、
河野分村の73人の集団自決による。

下から2行目の市川村も、帰国者比率が26.3%と低い。
瑞穂村で集団自決が起きたから。
満洲最大の悲劇である佐渡開拓団事件は、つぎを参照してください。
「満蒙開拓団の集団自決」、2015年8月30日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/edfa477d159f70a385860d55d571f8e1

豊丘村の死亡者ほかを見ると、
死亡者は355人、(河野村は94人)、
残留者は21人、(河野村は0人)、
不明者は4人、(河野村は0人)、
豊丘村は合せて380人、(河野村は合せて94人)になる。

久保田 諌さんの河野村の集団自決と、
高山すみ子さんの瑞穂村の集団自決をみると、
集団自決には、共通点がある。
① 満蒙開拓団の男性は、「根こそぎ動員」で、出征していた。
② 団に残されたのは、女性と子ども、少年、そして、老人である。
③ 集団自決をしたのは、団に残された女性と子ども、少年、そして、老人である。
④ 集団自決をした日は、終戦の1945年8月15日より後である。
  河野村では1945年8月16日、
  瑞穂村では1945年8月25日。
⑤ 日本の敗戦を、団に知らせなかった。
  団では、日本が負けることは考えられなかった。
  満洲最大の悲劇、佐渡開拓団事件は、団は敗戦を知らずに、
  ソ連を襲撃して20数名を殺害したために起きた。
  怒ったソ連は1,200名で報復した。助からないと観念した団員は、
  戦車隊に突撃して玉砕した。戦闘での死者は1,464人にのぼった。
⑥ 現地人は、日本の敗戦を知ると、団を襲撃、略奪した。
⑦ 守ってくれるはずだった関東軍は、いち早く逃げていた。
  瑞穂村の場合は、関東軍は、橋という橋を破壊して、逃げた。
⑧ 現地人や、ソ連兵によって、男は殺され、女性は暴行される絶望から、
  生きてはずかしめを受けるよりも、自決を選んだ。
⑨ 自決の方法は、考えられるあらゆる方法を選んだ。
  銃殺、首絞め、石で殴り合う、子どもを川に投げ捨てる。
  そして、自分の子ども、つぎに、お母さんと、肉親を殺した。
  子どもには、「ノノさんのところへつれていってあげるから」、
  「お父さんのところへ行くから」と、言い聞かせて、殺した。
⑩ 土地は、現地人のものを、関東軍によって、安く収奪したものだった。
⑪ 集団自決の前後では、死の逃避行があった。
  市川村、豊丘村では、半数の人が亡くなり、残留孤児や残留婦人が生じた。

豊丘村役場。2012年7月撮影。


豊丘村の人口。豊丘村役場で、2012年7月撮影。

2012年7月1日の人口は6,916人。
1944年の人口9,244人だったから、
2,300人以上減少している。
過疎化、満蒙開拓団の犠牲が影響していると思う。

満蒙開拓団の15歳の少年は、集団自決という、地獄を体験して生き返った。
「早く楽にしてくれ!」と言う、虫の息の団長の首が絞められた。
母は赤ちゃんの首を絞め、つぎに、小さい子どもから首を絞めた。
それから、自分のお母さん、お義母さんの首を絞めた。
身内が終わると、若い母から首を絞められた。
残った15歳の少年と、25歳のマッサージ師は、
石でお互いの眉間を殴って、殺し合った。
戦争は、人を絶望にさせ、狂気にさせた。
「絶対に戦争を起こさないように!」
と、眉間の傷は言っている。
満蒙開拓団を送り出した村長は、
凄惨な結末を知って、自殺した。

土地を奪えば、相手は取り返す。
銃を撃てば、相手も撃ち返す。
関東軍は、いち早く逃げていた。
アジアの盟主になろうとした日本は、
その度量はないとされて、集団自決に追い込まれた。
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東山魁夷の心の故郷で日展三山

2015-09-13 00:00:10 | Weblog
東山魁夷心の故郷で「日展三山」が開催された。
東山魁夷館」が開館して25周年を記念した企画展、「日展三山」。

「日展三山」のリーフレットから。

「日展三山」と呼ばれた、魁夷辰雄の、
主作品を集めるという、大がかりなもの。
出かけたのは2015年9月1日の最終日、朝9時から。

「東山魁夷館」では、7年前の2008年にも、大きな企画展があった。
1908年生まれの東山魁夷の生誕100年を記念した、
東山魁夷 生誕100年 」。

「東山魁夷 生誕100年 展」のリーフレットから。

東山魁夷の主な作品、
「道」、「花明り」、「冬華」、「残照」、「白夜光」、
「濤声」、「緑響く」、「夕星」などを見ることができた。
東山魁夷館蔵のほかに、東京国立近代美術館蔵や、
個人蔵、それに、唐招提寺の障壁画を集めた大がかりなもの。

さて、2015年の「東山魁夷館25周年記念」は、東山魁夷のほかに、
「日展三山」の杉山寧、高山辰雄の作品を集めて、
1964年の日展を再現するものになっている。

日展の会場である、東京都美術館の2階、7号室が、
「日展三山」が展示された室だった。これは、
1958年から1967年まで、10年間続いた。

温厚な東山魁夷が日展というと、「戦場」と家族に漏らしたという。
年に一度の檜舞台は、杉山寧(1909年生)、高山辰雄(1912年生)とは、
闘志を燃やすライバルであったことがわかる。

「東山魁夷館25周年記念」では、1964年の日展が再現された。
中央に東山魁夷の「冬華」(とうか)、
右に杉山寧の「穹」(きゅう)、
左に高山辰雄の「穹」。

冬華」、東山魁夷。

「東山魁夷」、現代日本の美術、集英社、1976年発行から。
この「東山魁夷」は、最初に買った美術書。
霧氷の幹と枝が、ボンヤリした霧の太陽に浮き立っていた。

」、杉山寧。

「杉山寧」、現代日本の美術、集英社、1977年発行から。
この「杉山寧」は、「東山魁夷」の次に買った美術書。
実物を見ると圧倒される。
近寄ると、砂で盛り上がって、
いっそう迫力と立体感があった。
月の光が、スフィンクスの左の後方から当たっていて、
窪んでいた黒から、鋭い目玉が見えた。

」、高山辰雄。

「日展三山」のリーフレットから。
穹は空を表し、杉山寧と、偶然に同じ題名になった。
立体的な表現の満月に、遺跡だろうか? 浮かぶ。

3つの作品に圧倒される。配置もいい。
中央に白の「冬華」、左右に青の「穹」。

卒業制作」を展示する、というイキな企画もある。
「日展三山」の東京美術学校の卒業制作は、
東山魁夷が「焼嶽初冬」、杉山寧が「野」、高山辰雄が「砂丘」。
焼嶽初冬」、東山魁夷。

「日展三山」のリーフレットから。
活火山の異様さが迫ってくる。

」、杉山寧。

「日展三山」のリーフレットから。
すすきの白い穂が、浮かび上がっていた。

砂丘」、高山辰雄。

「日展三山」のリーフレットから。
風紋がどこまでも描かれている。
モデルは奥さんになる人といわれて、しげしげと見た。

2008年の「東山魁夷 生誕100年 展」も、
2015年の「東山魁夷館25周年記念」の「日展三山」も、
「東山魁夷館」が信州にあるからできる企画展である。

東山魁夷信州との絆は深い。
東山魁夷は、横浜生まれの、神戸育ち、
東京美術学校(現在の東京藝術大学)で学び、
信州に住んだことはないが、関わりは深い。
☆1926年7月、東京美術学校1年生の時、
テント旅行で木曽路を旅し、御嶽山に登っている。
信州の自然の厳しさに感動し、人々の心の温かさに触れた。
そして、「風景画家」への道を志すことになる。
☆1970年5月、東山魁夷、川端康成、井上靖の3巨頭が、安曇野(あずみの)を訪れる。
☆東山魁夷は作品500点を信州に寄贈され、1990年に「東山魁夷館」ができる。
☆東山魁夷は、「東山魁夷館」を望む善光寺の霊園に、眠っている

これらについて、もう少し説明する。
テント旅行で木曽路を旅し、御嶽山に登る。1926年7月。
東山魁夷館には、つぎの説明がある。
「私が初めて信州を旅したのは、
東京美術学校、日本画科1年生のときだった」
「8日間のテント旅行で木曽路を旅し、御嶽山に登る」
「初めて接した山国の自然の厳しさに強い感動を受け、
そこに住む素朴な人々の心の温かさに触れることができた」

御嶽山の写真がある。

2014年9月27日に噴火。中央のピークは剣ヶ峰、3,067メートル。
御嶽山は灰をかぶっている。地蔵峠から、2014年10月2日撮影。

「テント旅行以来、山国へよく旅をするようになり、
信濃路の自然を描くことが多くなりました。
そして、風景画家として一筋の道を歩いてきました」

緑響く」。1982年。

東山魁夷館所蔵。絵はがきから。
奥蓼科の御射鹿池(みしゃかいけ)がモデル。
緑に白馬を配した。緑の風景が、御射鹿池に映る。

さらには、つぎを参照してください。
「東山魁夷と信州の絆」、2012年4月15日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/9e52195242e2cea284b414a400fd22d9

「東山魁夷の「花明り」」、2011年11月6日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/5d2fb467f0b2f445c4612087812e077d/?cid=bc38c0be312b164542bb09d52fcce805&st=0

☆東山魁夷、川端康成、井上靖の3巨頭が、安曇野を訪れる。

左から井上靖、川端康成、東山魁夷。1970年5月12日。
3巨頭は、安曇野の長峰(ながみね)山から、北アルプスを望む。
川端康成は、
「残したい 静けさ 美しさ」
と言われた。
東山魁夷は、
「安曇野は、なんと美しかったことか」
と、驚嘆された。
東山魁夷の碑、「安曇野を想う」が長峰山にある。


つぎを参照してください。
「東山魁夷の安曇野への旅」、2012年2月26日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/4299107241d287b1069fb4d678761e32

「東山魁夷の「安曇野を想う」」、2012年12月4日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/6b4d0e185dffac26dde0160f895e6f31

「川端康成、東山魁夷、井上靖の安曇野」、2011年11月27日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/e0ec23bbd5be088a697624dd222d06bc

「東山魁夷の心の故郷を失った人」、2012年5月6日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/49d960a63fc3dec03c02b81f75574623/?img=d5c65289987a3068fc57b2cbd317a2a3

☆「私の作品を育ててくれた故郷とも言える信州」に、
東山魁夷は作品500点を信州に寄贈する。
「東山魁夷館」の設計は、東山魁夷の意向で、
友人の息子である谷口吉生が行い、1990年にに建設された。
東山魁夷館

中庭、池が広がる。
東山魁夷の作品を960点所蔵する。

「東山魁夷館25周年記念」の「日展三山」を共同企画した、
香川県立東山魁夷せとうち美術館は、開館10周年記念。
東山魁夷館と同じ谷口吉生が、設計をしている。

☆東山魁夷は、善光寺の霊園に、眠っている

善光寺大本願、花岡平(はなおかだいら)霊園。2012年4月撮影。
赤い信州りんごと、白い干し柿で、お墓が明るくなった。
石碑、「自然は心の鏡」は、右にある。


東山魁夷のお墓がある花岡平霊園から東山魁夷館善光寺を望む。

①は「東山魁夷館」、②は「善光寺」、③は隣接する「信濃美術館」。
東山魁夷は、生前に墓地を決めていた。
作品を育ててくれた故郷信州である。
多くの作品が収蔵されている①「東山魁夷館」を、
望めるこの場所が、気に入っていた。
東山魁夷の「夢見る場所」。

つぎを参照してください。
「東山魁夷の「自然は心の鏡」」、2012年4月22日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/9ff6b846278e55a02e7ee7f05e429595

東山魁夷館」からは、東山魁夷の「夢見る場所」を望むことができる。

「東山魁夷館」の中庭、池越しに見える山に眠っている。

「東山魁夷 生誕100年 展」と、
「東山魁夷館25周年記念」の「日展三山」で、
東山魁夷を、より知ることができた。
このような素晴らしい企画展ができるのも、
東山魁夷を感激させた信州の自然と、
素朴な人々の心の温かさのおかげ。
それと「東山魁夷館」の企画力。
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四阿山のミネウスユキソウ

2015-09-06 00:00:40 | Weblog
四阿山で、ミネウスユキソウヤマハハコが、隣どうしで咲いていた。

左がミネウスユキソウ、右がヤマハハコ。
エーデルワイスに近い種類を、同時に見ることができて、
「隣どうしで咲くことが、あるんだ!」と、ワクワクする。

四阿山(あずまやさん)に登ったのは、2015年8月6日。

四阿山の頂上は中央奥。

冬に野麦峠スキー場から眺めた四阿山がある。2015年3月17日。

T鳥甲山(とりかぶとやま)2,038メートル、Y横手山2,038メートル、
I岩菅山(いわすげやま)2,295メートル、N根子岳2,207メートル、
A四阿山(あずまやさん)2,354メートル。

四阿山は、信州の北東部にある山で、浅間山が近い。
初めての四阿山は、浅間山や北アルプスの眺望が期待で挑んだ。
ラグビーの合宿の聖地、菅平で朝練を見ながら、S菅平牧場から登る。

菅平観光協会発行から。
K小四阿(こあずまや)、N中四阿(なかあずまや)を経てA四阿山へ。

曇りで、浅間山は最後まで見ることができなかった。
しかし、四阿山は高山植物が変化をつけてくれた。
花を見ながら、3時間半のゆっくりした登り。

ふもとでは夏でも、四阿山では秋の花が咲き始めていた。
下から、順番に掲載していく。
キキョウ


ヒメシャジン


カワラマツバ


アザミ


オオバギボウシ

あちこちに、たくさんあった。

クサイチゴ

つまんで食べてみた。うまいね。

マツムシソウ


ミネウスユキソウがあった。


ヤマハハコもあった。


イブキジャコウソウ


ワレモコウ


ハギ


ヤマハハコ

前のヤマハハコより高いところにあったが、白いケバケバがある。

マルバタケブキ


アサギマダラはマルバタケブキがお好き。

体力を蓄えて、これから、台湾に旅立つ。

もマルバタケブキがお好き。

俺にも吸わせろ!

エゾシオガマ


トモエシオガマ?


ミヤマホツツジ


ヤマホタルブクロ


ハクサンオミナエシ


オミナエシ


これも、ハクサンオミナエシ


ニガナ


オオカメノキ?


ミネウスユキソウハクサンフウロ


ヤナギラン


ツリガネニンジン


タカネツリガネニンジン


クロマメノキ

標高が低いところでは、実がなっていた。

標高が上がると、クロマメノキは、まだ咲いていた。


ミネウスユキソウのかたまりがあった。


ヤマハハコのかたまりもあった。


四阿山頂に着いた。

眺望はなかった。

四阿山で、ミネウスユキソウとヤマハハコが、
隣どうしで咲いていたの見てから、下山では、
もっぱら、隣どうしで咲いているのを探した。

隣どうしのミネウスユキソウヤマハハコ
「見いつけた!」


ここにも、あった。


探せば、あるもんだ。


「四阿山で、ミネウスユキソウとヤマハハコが、隣どうしで咲いていた」
エーデルワイスに近い種類を、同時に見ることができたと、
得した気分で、四阿山を降りてきた。
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