季節の変化

活動の状況

乗鞍岳の紅葉と大雪渓

2013-10-27 00:01:27 | Weblog
季節の変化は、高いからやってくる。
乗鞍岳紅葉を見る。ご来光も拝みたい。
乗鞍高原の観光センター前から、「ご来光バス」に乗る。
朝、4時10分の出発。寒い! だが、「満天の星」。
「空には、こんなにがあったのか!」

終点の「乗鞍岳山頂」(畳平)へは、
乗鞍エコーライン」で50分。
「ご来光バス」は人気だ。4台出た。

終点の手前の「肩の小屋口」で降りる。
ここは、「大雪渓」の登り口。
そして、ご来光を待つ。

北を見ると空がい。
朝焼け」だ!

左から槍ヶ岳、穂高連峰の奥穂高岳と前穂高岳がつらなる。
雲は、焼けて、渦巻いて、槍ヶ岳と穂高連峰が、
えているようだった。2013年9月22日。

それから、八ヶ岳の上の雲が輝き始めた。
ご来光」だ!

蓼科山の左から陽が昇る。右には八ヶ岳が連なる。

陽がだんだん上がると、雲海に山並みが浮かんできた。
大海原」だ!

奥は南アルプス。

陽がさらに上がってきた。
大海原」が、ピンクからモノトーンに変わった。

奥は南アルプス。
まるで、墨絵を見ているようだ!
壮大な「ショー」だ。

朝焼け」、「ご来光」、「大海原」を見ることができた。
天気予報で晴れの日、朝2時に暗闇の松本を出た。
そして、「ご来光バス」に乗ったが、
乗鞍岳に来た甲斐があった。

陽が昇ってきた。
ナナカマド」。

後方は槍ヶ岳と穂高連峰で、「朝焼け」の面影はまったくない。

乗鞍岳」。

左端が乗鞍岳のピークの「剣ヶ峰」(3,026メートル)。「肩の小屋口」から撮影。
右は、「大雪渓」。夏でも雪が残る。
早朝で、だれもいないが、やがて、
スキーヤー、ボーダーが上がってくる。

乗鞍岳紅葉大雪渓

乗鞍岳から、白い雲が青い空に湧き上がる。

チングルマ」。

「肩の小屋口」から「大雪渓」に登って、チングルマを撮った。
「大雪渓」では、スキーヤー、ボーダーが滑り始めた。

もう一回、乗鞍岳へ来よう。
こんどは、「肩の小屋口」から、
下のバス停の「位ヶ原」(くらいがはら)まで、
歩きながら紅葉狩りをしよう。(10月14日)。

「ご来光バス」の運行は、9月いっぱいで終わり。
午前のバスで、「肩の小屋口」へ。
槍ヶ岳と穂高連峰は雲で、
姿を見せなかった。



「大雪渓」の白、ダケカンバ、ハイマツの緑、そして紅葉。

「ダケカンバの踊り」。

緑と赤の舞台の上で、白いダケカンバがライトを浴びて踊る。バックは空色。

「ダケカンバの縞模様」。

緑の松に、ダケカンバの縞が浮かび上がった。

「ダケカンバの」。

ダケカンバの山に陽が差して、ダケカンバが輝く。

乗鞍エコーライン」。

登山や紅葉狩りのお客さんを乗せて、
低公害バスが上がって行く。
午後2時に、6台も上がる。

この乗鞍エコーラインは、「乗鞍ヒルクライム」という、
全日本マウンテンサイクリングin乗鞍」が行われる。
夏に開催、全長20.5キロメートル、最高地点2,716メートル、
標高差1,258メートルは、日本のヒルクライムの総本山で、
3千名以上の参加がある。

「サイクリング」をする人に行き会う。乗鞍エコーライン。

「がんばれよ!」

赤い谷」。

黄色、ダケカンバの白が、赤に混じる。

季節の変化に繰り広げられる乗鞍岳の「ショー」。
壮大だったな。いいものだ! 感激するし、癒される。

「三筋」。

「肩の小屋口」から。2013年9月22日。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロシアの電線

2013-10-20 00:01:23 | Weblog
ロシア旅行で、モスクワとサンクト・ペテルブルクを訪れた。
旅の思い出に写真を撮る。そうすると、電線が写ってしまう。
それが、「世界遺産」であっても。
日本と似ていた。

まず、モスクワから。
聖ワシリー寺院」。「世界遺産」。

ついに、「赤の広場」へ来た!
「聖ワシリー寺院」を見ることができた!
そうして、写真を撮ると、電線が邪魔である。
なんとかならないか? 電線のないところへ移動する。
世界遺産なのにな!

モスクワ大学」。

電線の束が走る。この電線を避けるには、
かなり前に出なければならない。だが、
団体旅行では、その時間はない。
あこがれの「モスクワ大学」は、
電線入りで、がまんする。

芸術家アパート」。

いっぱいの電線。
この電線群は避けようがない。
もっときれいに撮りたかったが、
バスの中だから、しょうがないか。

泊まったホテルを撮った。

ホテルは、電線でぶった切られた。何回も。

ホテルの部屋から「朝焼け」を撮った。

「モスクワの朝焼け」が撮れた! と思った。
なんだ、これは! 電線を撮っていた。
芸術作品にならないじゃないか?

ホテルの部屋から「朝日」を撮った。

向かいのアパートメントが明るくなった。
朝日は、電線をよじ登っていた。
ビルディングの左側にも電線がある。
ビルディングが電柱代わりになっている。

新しいアパートメントを撮った。

道路沿いに電柱が並び、電線が走る。
それと、ちょっと見にくいが、
アパートメントの左上の角から、
木の方向に電線が伸びていた。
新たに開発された住宅地といえども、
電線を埋設することは、考えていなかった。
ビルディングも電柱代わりに使われていた。

黄金の門」。「世界遺産」。ウラジーミル。

「世界遺産」といえども、電線は容赦しない。
電線が、斜めに走り、水平にも走っている。

これまでの写真は、電線を狙ったものではない。
モスクワの「思い出」を残す写真である。
電線に気がつけば、できるだけ避けた。
それか、知らずに写っていた。

電線が埋設されていない状況は、
サンクト・ペテルブルクでも同じだった。

聖イサク大聖堂」。「世界遺産」。

手前のポールは電柱で、電線が「聖イサク大聖堂」の前を走っている。
右上からも、電線やワイヤーが、「世界遺産」に入り込んでいる。
左にもワイヤーが見える。

血の上の教会」。「世界遺産」。

電線が左上に入る。
電線を避けるには、場所を移動するか、縦にして撮る。

泊まったホテルを撮った。

手前に高い照明灯があり、そばに茶色と黒のポールがある。
黒いポールは、道路に沿っているから電柱で、電線が走る。
茶色のポールは単独だ。道路の反対側にケーブルを渡して、
信号機へ電力を供給しているのだろう?
路面電車の架線が左右に走り、それを支えるケーブルが、
道路をまたいでいる。ほかにも、多くの電線が見える。

ロシアの電柱は細い、ポールだ。これはトランスがないため。
日本の電柱は、トランスが乗っている。このために、電柱は太い。

我が家から撮った「初日の出」。松本。2013年1月1日。


「初日の出」は山から上がる。
それから、電線をよじ登る。
空は、電線の間から見る。

電柱は高い
それに、電柱は太い
重いトランスを支えるため。
この電柱が、地震で倒れれば、我が家はペシャンコ。

ロシアの電柱は低い
それに、細い。トランスが、
乗っていないのは、どうしてだろう?
それに、高圧送電線にも興味を持った。

これまでの写真は、「旅の思い出」だったが、
これからの写真は、「電線」を狙ったもの。
移動中のバスの中から撮った。2013年8月。

トランス」を見つけた。モスクワ郊外。

トランスは地上にあった。
トランスは柵で囲まれている。
このトランスで、家庭用の220Vにするのだろう?
トランスは地上に置くから、電柱にトランスはない。

ここは、モスクワの郊外。しかし、都市では、
地上にトランスは、見かけなかったが。
都市では、埋めてあるのだろうか?

高圧送電線」。モスクワ。

「高圧送電線」の鉄塔が、アパートメントの近くにある。

手前は電柱、まるでポールだ。
「高圧送電線」が住宅地にあるのは、日本に似ている。

違いは、ロシアの電柱は細い。
トランスは乗っていない。
景観は、緑が多い。

ロシアの名誉のために、つけ加えておく。
「世界遺産」クレムリンの中は電線がなかった。
ウスペンスキー大聖堂」。

「クレムリン」は、モスクワの「ランドマーク」である。

サンクト・ペテルブルクでは、
エルミタージュ美術館」には電線がなかった。

ネヴァ川から。
「エルミタージュ美術館」は、
サンクト・ペテルブルクの「ランドマーク」である。

電線の埋設率」の国際比較がある。



電気事業連合会、国土交通省の資料から作成した。
海外は、電気事業連合会の調べで、「ケーブル延長ベース」。
日本は、国土交通省の調べで、「道路延長ベース」。これの方が甘い。
世田谷区の0.2%が実感する埋設率。地方都市の埋設率は、限りなくゼロ。

モスクワもサンクト・ペテルブルクも、
「電線の埋設率」のデータがなかった。
ロシアも日本も、「電線の埋設率」の後進国である。

電気料金」が大きく違う。
日本は、ロシアの5倍。
アメリカやイギリスの2倍。
アメリカやイギリスの電線は埋設してある。
日本の電線は、埋設していなくても、電気料金は特別高い。

街の景観を醜くしている4は、
1)電柱、電線、
2)広告、看板、
3)屋上にむき出しの水タンク、空調機器、
4)全体のプラニングがない都市開発。

ロシアの街の景観が悪いのは、
1)電柱、電線である。
日本の街の景観が悪いのは、
上記1)~4)である。
日本の街の景観のひどさに、外国人はビックリする。

電線、街の景観について、興味のある方は、
つぎのブログを参考にしてください。
「醜い国に気付かない日本人」、2010年9月29日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/84ef875b17c21a107ab0554785b8825a

「東山魁夷の「年暮る」から半世紀」、2012年3月4日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/e13edff4ce9a241c24e4407f04c976a1

「アメリカ、イギリス、日本の住環境」、2010年10月3日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/6330a51cfa89813aa818b22e0f401138

「電線の埋設率の国際比較」、2011年2月13日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/7ed94ec8f3bdafa473ac134d7ee7c355

「二年坂の電線」、2011年10月30日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/ec3c920c2d3b97c768793cdc09f5cede

「チュニスの景観」、2010年11月3日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/82a5e1daf7999a8b70adbac4204178bd
ほか、世界の街の「景観シリーズ」。
これらが、参考になればと思う。

日本の街が醜いことは、
外国人も、日本人も気がついている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モスクワで大統領に会う

2013-10-13 00:00:08 | Weblog
モスクワで、大統領に会う。
まず、スターリンに会った。

パイプを持って、パイプいすに座っていた。

スターリンが、2人もいた。

パイプを持って、立って市民と話をしていたが、
目が合うと、手を挙げて応えてくれた。

プーチン大統領に会った。

足元にロシアの国旗がある。

目が合うと、手を挙げて、「よぅ!」。
プーチン大統領は、親しげだった。
別に、会う約束はしていなかったが?
次回は、「北方領土の返還」を話そう。

レーニン?


大統領の「そっくりさん」に会うここは、
「赤の広場」の入口、「国立歴史博物館」の脇である。

なぜ、歴代の大統領に会うことができたのか?
ロシア旅行で、「赤の広場」はメインの一つ。
この「赤の広場」から、北の「国立歴史博物館」を見ると、
人が群がっている。馬の曲乗りを見ていた。それで、近寄った。

4頭の馬に4+3+2⇒9人が乗っていた。みごとだ。まるで、サーカスだ。

「赤の広場」に砂利を敷いて、夏のパレードの練習中。
奥はクレムリンの城壁。2013年8月。以下の写真も同じ日の撮影。

国立歴史博物館」。

左下に曲乗りの旗が見える。

「国立歴史博物館」の右の尖塔は「ヴァスクレセンスキー門」。
ここが、「赤の広場」への北からの入口になっている。
続々と人が入って来る。
「赤の広場」の外を見たくなった。

この「ヴァスクレセンスキー門」は、
スターリンによって破壊された(1931年)。
理由は、「赤の広場」で軍事パレードをするが、
狭くて兵器が入らない、邪魔だ。
ソ連が崩壊し、ロシアになって再建された(1993年)。
右奥は「ホテル・モスクワ」。

「ヴァスクレセンスキー門」の右手前で、
「国立歴史博物館」の右には、
カザンの聖母聖堂」がある。

この「カザンの聖母聖堂」も、
スターリンによって破壊され(1936年)、
ソ連が崩壊すると、再建された(1993年)。

「ヴァスクレセンスキー門」から、「赤の広場」の外へ出た。
そこが、歴代の大統領に会ったところ。

「赤の広場」を出ると、「マネージ広場」に連なる。
「マネージ広場」の周辺を巡ってみた。
クレムリンの西側散歩。

クレムリンの西側散歩の主なものは、
巨大な「ショッピング・センター」、
その隣の「グリム童話の像」、
クレムリンの城壁沿いの「アレクサンドロフスキー公園」、
そして、第二次大戦の「無名戦士の墓」・・・。

「赤の広場」と反対側の「国立歴史博物館」。

左奥は「ヴァスクレセンスキー門」、右奥は「ニコリスカヤ塔」。
手前の銅像は「ジューコフ元帥」。ドイツ戦勝50周年記念に建設(1995年)。

警官だと思う。防弾チョッキを着けていた、2人とも。

右は「国立歴史博物館」、左は「1812年祖国戦争博物館」、
中央は、スターリンが破壊した「ヴァスクレセンスキー門」。
この「ヴァスクレセンスキー門」を通って、
「マネージ広場」側に出てきた。
露店もある。にぎわっている。

ロシア人のツアー・コンダクターが言ったことを思い出す。
「モスクワの犯罪率は高い。
周辺のタジキスタン、ウズベキスタンから来た人は、
労働者、サービス産業に就く。
犯罪の60%は移民である」
一応、警戒しながらの一人散歩。

マネージ広場は、集会が開かれた「革命広場」だったが、
巨大な「ショッピング・センター」になっていた。
1997年のモスクワ創立850周年に建設された。

ドームの下が、3階の「ショッピング・センター」で、
高級品を扱い、「グム百貨店」と競っている。
左奥は「ドゥーマ」貴族議会、右奥は「ホテル・モスクワ」。

ドームのてっぺんには、ドラゴンを退治する「聖ゲオルギウスの像」、
その下に、モスクワを示すクレムリンと聖ワシリー寺院のモデルがあった。

このドームの右側はネグリンナヤ川。
グリム童話の像」がある。

ネグリンナヤ川の左はショッピング・センター、
右は「アレクサンドロフスキー公園」に連なる。

おなじみの「きつねとつるのごちそう」。


ネグリンナヤ川の先は馬の像と噴水

馬は噴水の影。憩いの場になっている。

「クレムリン」は左側になる。
左の木の奥は、「トロイツカヤ塔」。
「クレムリン」を見学するときの入口になる。
その前に、右奥の「クタフィヤ塔」で入場券を買い、
金属探知器をくぐってから、橋を渡り、「トロイツカヤ塔」へ行く。

馬が見える位置からの噴水。

親子が楽しんでいた。

クレムリンの城壁に沿った「アレクサンドロフスキー公園」。

正面は「ホテル・モスクワ」。右側はクレムリンの城壁になる。

木陰でくつろぎ。「アレクサンドロフスキー公園」。

奥はクレムリンの城壁。

クレムリンの城壁に沿って、
「ホテル・モスクワ」の方向に歩くと、
第二次世界大戦の「無名戦士の墓」があった。
国家元首がモスクワを訪問するときには、表敬訪問するところ。

「永遠の火」。衛兵がいる。

その隣には、第二次世界大戦を示す、
1941~1945」の碑がある。

右奥は「無名戦士の墓」の衛兵。

それから、「国立歴史博物館」の横の「ヴァスクレセンスキー門」を通って、
再び「赤の広場」に入り、「グム百貨店」にもどった。

「グム百貨店」で「ウォッカ」を飲む時間は、
「クレムリンの西側散歩」に代わった。

スターリンが破壊した教会は、ロシアになって再建されていた、
「革命広場」が、「ショッピング・センター」へ変わっていた、
「グリム童話の像」や「噴水」、「アレクサンドロフスキー公園」、
第二次世界大戦の「無名戦士の墓」を見ることができた。
それに、歴代の「大統領」が、ちゃんと待っていてくれた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マティスの傑作はエルミタージュ美術館にある

2013-10-06 00:00:38 | Weblog
スペインへ行ったときに、世界の「美術館事情」の話になった。
美術館が「略奪品」の展示か、「コレクション」の展示か、
それとも、「自国の作品」の展示か。

「ロシアの「エルミタージュ美術館」は、
財力にものを言わせて、かき集めた、
コレクション』を展示する美術館だ」
と、スペイン人は言う。

「よその国の美術館は、『略奪品』の展示が多い。
研究・調査、保存と称して、持ち帰ったものだ。
イギリスの『大英博物館』にしても、
フランスの『ルーブル美術館』にしても、
ドイツの『ペルガモン博物館』にしても」

「それか、財力にものをいわせて、かき集めた
コレクション』を展示する美術館だ。
ロシアの『エルミタージュ美術館』やアメリカの美術館だ」
ここに、「エルミタージュ美術館」の名前が出てきた。

「スペイン以外で、『自国の作品』を展示しているのは、
フランスの印象派を集めた『オルセー美術館』、
モネの睡蓮の壁画がある『オランジュリー美術館』、
イタリアの『ウフィツィ美術館』、『ヴァチカン美術館』、
オランダの『アムステルダム美術館』、『ゴッホ美術館』だ」

「スペインは『天才』、『鬼才』をゴロゴロ生むところだ。
バルセロナからは、
建築家のガウディ、芸術家のダリ、ミロが出ている。
ピカソはバルセロナの美術学校で学んだ。
天才の作品や美術館が、バルセロナと近郊にある。
『ピカソ美術館』や『ミロ美術館』。
それに、ガウディの「サクラダ・ファミリア」は世界遺産になっている」

ミロ美術館」の屋上。バルセロナ。


ガウディの「サクラダ・ファミリア」。バルセロナ。


このスペイン人はカタルニア地方出身で、カタルーニャン(カタルーニャ人)。
バルセロナへの思いがことのほか強い。しかし、スペインを代表して、
話をするときには、ライバルであるマドリッドについても、
誇りをもって話をする。

マドリッドからは、
2人の宮廷画家ベラスケスとゴヤがいる。
ほかに、エル・グレコ(ギリシャ出身)が出ている。
彼らの作品は、マドリッドの『プラド美術館』にある。
ピカソの『ゲルニカ』もマドリッドにある」。

プラド美術館」。マドリッド。

手前はゴヤの像。

ピカソの「ゲルニカ」。


スペイン人が話したこれらの世界の美術館の多くは、訪れることができている。
しかし、ロシアの「エルミタージュ美術館」は、残っていた。
2013年8月のロシア旅行では、財力にものを言わせて、
かき集めた「コレクション」を展示するという、
エルミタージュ美術館」を、ぜひ見たい。サンクト・ペテルブルク。


「エルミタージュ美術館」では、
アンリ・マティスに注目した。
フランスの画家、アンリ・マティスの傑作、
「ダンス」、「音楽」、「赤い部屋」が、どうして、
「エルミタージュ美術館」にあるのだろうか?
マティスの祖国、フランスの「ルーブル美術館」とか、
「オルセー美術館」ではなくて。

そして、実物は、どんなだろうか?
それに、「エルミタージュ美術館」に、
マティスの傑作がある、わけを知りたい。

ダンス」。

壁を占める大作で、5人の踊り手は躍動していた。


「ダンス」の右の壁には「静物スペイン」、「ダンスのある静物」、
そして、「赤い部屋」があった。


「赤い部屋」の右には、「赤いチェストの上のピンクの小像と水差し」、
「静物セヴィリア」が続き、そして、右の壁は「音楽」になる。

「ダンス」と「音楽」は、向かい合っていた。

マティスの傑作、「ダンス」、「音楽」、「赤い部屋」を、
一同に見ることができた。ありがたい。
貸し出し中で、欠けていることはなかった。

マティスの作品の展示は、「エルミタージュ美術館」の3階で、
奥まったところに、3部屋を占めていた。
「ニンフとサテュロス」、「会話」、「画家の家族」もあった。

ニンフとサテュロス」。


会話」。

左は「ベランダの花」。

画家の家族」。


マティスの傑作が「エルミタージュ美術館」にある。
マティスだけでも「マティス美術館」になる。

これだけマティスの絵を見ることができるには、わけがあるだろう?
マティスの傑作が「エルミタージュ美術館」にある、わけは、
ロシア人の繊維業者セルゲイ・シチューキンにあった。

「マティス 知られざる生涯」、
ヒラリー・スパーリング著、白水社発行で、
マティスと大富豪シチューキンの関係を知ることできる。


ロシア人のコレクター、シチューキンのコレクションは、
マティスの前に、印象派のマネとルノワールだった。
それから、ゴーギャンに惚れ込んでいた。

マティスは、サロンに「帽子の女」を出品した(1905年)。
帽子の女」。

「マティス 知られざる生涯」、
ヒラリー・スパーリング著、白水社発行から。

「帽子の女」がサロンに出品されると、酷評された。
ひどい手抜きだ、乱暴な落書きだ、絵の具を塗りたくったものだ。
野獣」(フォーヴ)だ、と呼ばれて人びとから、あざけりを受け、
以後、「野獣派」(フォービズム)と呼ばれるゆえんとなった。

しかし、ピカソはちがっていた。
「帽子の女」に驚き、
生きる歓び」に衝撃を受けた。

「マティス 知られざる生涯」から。
この「生きる歓び」に、「ダンス」の予兆があることを、あとで説明する。

ピカソは、
「自分のこれまでの最も野心的な作品さえ、
弱々しいものに思え、それどころか、二番煎じのように感じられた」

ロシアの大富豪、シチューキンは、マティスに興味を持った。
そして、アトリエを訪問した。1906年、マティスが36歳、
シチューキン56歳だった。

この訪問がきっかけで、2人の人生が大きく変わった。
それからの10年、マティスは、
シチューキンから、
大きな経済援助を得るとともに、
創作の勇気と強い野心を与えられた。

マティスは、シチューキンをつぎのように言っている。
「画期的だと自負している作品を、
シチューキンは直感的に選びとる才能がある」

「赤い部屋」は、シチューキンが買った。
非常識で、幼稚で、奇怪だと評されたものだったが。

「ニンフとサテュロス」も、シチューキンが買った。
レイプをしようと、襲いかかろうとする様は、
不道徳と評されたものだったが。

「画家の家族」も「会話」も、シチューキンが買った。
あとで「プーシキン美術館」に行くが、
「金魚」も、シチューキンが買った。
結局シチューキンは、37点のマティスの絵を買うことになる。

モロッコのカフェ」。

「マティス 知られざる生涯」から。
「エルミタージュ美術館」で探したが、見つからなかった。

この「モロッコのカフェ」を見て、
シチューキンはその場で買い上げた。そして、
「化粧室に掛けて、毎日少なくとも1時間は1人で、
眺めるようにした。その結果、自分のコレクションのなかで、
いちばん好きになった」、という。

マティスは、
この「モロッコのカフェ」で、
現実を見る目のレベルが一段上がった。
それは、同時代の人びとにはついていけない領域だった。
未来に飛躍するには、画家とコレクターが手に手をとって、
おたがいに勇気と想像力が必要だった。

マティスの傑作、「ダンス」と「音楽」を、
さすがのシチューキンも、買うのをためらった。

シチューキンは、
邸宅の1階から2階への階段を飾る、2点の大作がほしかった。
「ダンス」と「音楽」の構想は、2人で昼食をとった1908年に生まれた。

マティスは、
「ダンス」のインスピレーションを、カタルーニャから得た。
スペインとの国境で、地中海に面した、カタルーニャの色濃い港町、
コリウールに滞在した。浜辺で、カタルーニャンが興じたダンスから、
思いついた。

マティスの「ダンス」が生まれたいきさつが、
カタルーニャのダンスにあったことを、
「美術館事情」の話をしたカタルーニャンに話せば、
「そうなんだよ! カタルーニャは天才を生むところなんだ」
と、喜びそうだ。

「生きる歓び」1906年、を見ると、
浜辺の中央奥で、6人の女性がダンスをしている。
コリウールでの体験が、「ダンス」に昇華したようだ。

ダンスに興じるカタルーニャンを見たことがある。

お祭り「サンタ・エウラリア」。2月、バルセロナで。
「ヒガンテ」 巨人の人形が、バルセロナの街を練り歩く。
カテドラルの広場では、バンド演奏が始まると、上着をとり、
荷物を真ん中にして、を取ってダンスをする老若男女のが、
あちこちにできた。そして、楽しそうに踊る「サルダーナ」は、
マティスがインスピレーションを得たダンスを見ているようではないか。

「ダンス」と「音楽」は2年かかって、1910年にできた。
「ダンス」と「音楽」をサロンに出品すると、酷評された。
強引だ、攻撃的だ、グロテスクだ。

シチューキンはサロン出品の1週間前にパリに来た。
そして、「ダンス」と「音楽」の受け取りを拒否して、
モスクワに帰った。

しかし、2日後、シチューキンは、
「やはり買うことにした」
と、電報を打ってきた。
しかも、高額を提示した。つづいて、
一瞬、心が揺らいだことを恥じる手紙を送った。

モスクワで、「ダンス」と「音楽」を受け取ると、
シチューキンは、マティスに手紙を送った。
「世間はきみを受け入れないだろう」
「だが、未来はきみのものだ」

モスクワの「プーシキン美術館」にも、マティスの絵があった。

「プーシキン美術館」の入口の右上の壁には「金魚」が掲げられていた。
金魚」は、「プーシキン美術館」の目玉商品であることがわかる。


この「金魚」は、北アフリカのサハラ砂漠の北端にあるオアシス都市、
ビスクラ (アルジェリア)に旅したときに見た金魚の印象が、作品になった。

プーシキン美術館では、「金魚」のほかに、
「ダンスのある『ナスタチウム』」、
「タンバリンを持つスペインの踊子」、
そして、「薔薇色のアトリエ」を見た。

マティスだろう? と、写真を撮って、あとで調べた。「薔薇色のアトリエ」だった。

ロシアの繊維業者のイワン・モロゾフは、
ルノワール、セザンヌ、ゴーギャン、ボナール、ピカソをコレクションした。
同じく、ロシアの繊維業者のセルゲイ・シチューキンは、
ルノワール、セザンヌ、ゴーギャン、ピカソ、そして、マティスを中心に、
コレクションした。ロシア革命で、これらのコレクションは接収されて、
国家のものになり、シチューキンはフランスに亡命した。
コレクションは、「エルミタージュ美術館」と、
「プーシキン美術館」に分けて移管された。
ソ連時代は、「ブルジョア的だ」と、
公開されなかった。

画家マティスとコレクター、シチューキンとが、
手に手をとって、勇気と想像力で傑作を生んできた。
マティスは、人びとへの受けを狙うのではなく、
いばらの道である、その先を狙って創造をしていた。
マティスは旅をして、インスピレーションを得ていた。
カタルーニャの色濃いコリウール、モロッコ、アルジェリア。
マティスの葛藤創造に、シチューキンが味方した。

サンクト・ペテルブルクの「エルミタージュ美術館」と、
モスクワの「プーシキン美術館」へ行くと、
マティスの傑作に逢える。

コレクターが、財力にものを言わせて、かき集めた、
「コレクション」を展示する「美術館」ではなく、
マティスとシチューキンによる勇気と野心の、
傑作を展示する「美術館」だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする