季節の変化

活動の状況

被ばく量のトップ10

2014-07-27 00:00:10 | Weblog
2011年6月27日に、南相馬市で災害ボランティア活動をしてから、
2014年6月26日まで3年間に、南相馬市へ2回、福島市へ6回行った。
放射線量を南相馬市、福島市ほかで測定したが、どこが高かったのか?
毎時の放射線量(マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h])を見る。
被ばく量のトップ10」はつぎである。


被ばく量のトップは、
福島市の紅葉山公園、2012年1月14日である。
23.6マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]だった。
2位とは一桁違って、断然の1位。



「被ばく量トップ10」の内、福島市が9か所を占める。
残りの1か所は郡山市である。
南相馬市が出てこない。

被ばく量11位~20位を掲載する。
そうすると、南相馬市が出てくる。


被ばく量11位~15位は、福島市が占めている。



南相馬市は18位、19位、20位に出てくる。

被ばく量1位~20位を見ると、
福島市は16か所、
南相馬市は3か所、
郡山市は2か所で、
福島市が圧倒的に多い。

なぜだろう?
南相馬市の方が、福島市よりも福島第一原発に近い。
避難区域

朝日新聞、2011年4月19日から作成。
は原ノ町駅。南相馬市の市役所、福祉会館の最寄りの駅。

南相馬市の3分の1は、
半径20キロ圏内の強制避難区域で、無人化している。
半径30キロの緊急時避難準備区域を含めると、
南相馬市の3分の2が覆われる。

南相馬市の「原ノ町駅」は、
福島第一原発から北へ24キロで、
強制避難区域の半径20キロ圏内を外れている。
「福島駅」は、福島第一原発から北西へ63キロである。

南相馬市は、津波と福島第一原発の原発災害のダブルパンチを受けた。
南相馬市へ行くには、いったん、仙台まで東北新幹線で行って、
常磐線で亘理(わたり)まで南下した。ここから先は不通。
それで、代行バスを2回乗り継いで原ノ町駅に着いた。

避難区域の図を見ると、南相馬市の放射線量は、
福島市よりも断然高い、と思うではないか?

福島市は、福島第一原発から遠いから、
放射線量は、南相馬市に比べて、はるかにが低いと思った。
まして、福島市で放射線量を測ろうとは、思ってもいなかった

その、ましてだった。
福島市の放射線量を測ることになった。
それには、きっかけがあった。
南相馬市へ災害ボランティア活動に行ったときに、
東北新幹線の中で、福島駅付近の放射線量が高かった。

このことは、つぎを参照してください。
「東北新幹線の放射線量」、2011年9月18日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/c3d0691423740012734ab8dd94e63286

南相馬市のボランティア活動の帰りに、
福島市に寄った。福島駅からホテルまで歩くと、
ズボンのポケットの放射線量計が、ピッピッ鳴る。

国際放射線防護委員会(ICRP)は、毎時の被ばく限度を、
0.52マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]と定めている。
年間の被曝量の限度は、1ミリ・シーベルト/年[mSv/y]である。

0.50マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]を超えると、
ピッピッ鳴って、警告するように設定しておいた。
この場所から、すぐに退避しろ!

福島市の放射線量を測った経過が、
福島市の放射線量 2011年~2014年」からわかる。


この表から、最初は福島駅とホテル周辺の測定だった(2011年6月30日)。
2か月後に、中心街への測定へと広がっていった(2011年9月6日)。
中心街を歩くと、ズボンのポケットの放射線量計がピッピッ鳴る。
そこで、放射線量を測った。
福島市の中心街が、これほど汚染されているとは予想していなかった。

この表からは、「除染」の効果もわかる。
福島県庁③、県庁前公園⑦、福島駅前⑨は、除染された。
そして、問題のないレベルになった。
福島駅前の除染。芭蕉と曽良の「奥の細道」。

芝生は除去された。そして、新しい土が入っていることがわかる。2014年6月26日。

被ばく量1位~20位の表を見ると、
南相馬市の放射線量よりも、福島市が高いのは、つぎの理由である。
福島市へ多く行ったから、高いところが見つかったこと、
それに、福島市の放射線量が高いためである。

累積の被ばく量が、319日で1mSvを超えたことを書いた。
「累積の被ばく量が1mSvを超えた」、2012年5月20日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/17eac3dac01b2c12fae54c8ab6381dfd
を参照してください。
ほかに、富士山、御嶽山、諏訪湖、中央線、長野新幹線などの、
放射線量は問題のないレベルであることが書いてある。

南相馬市は、福島市よりも放射線量が低いが、
南相馬市の市民は、強制避難や自主避難をしたり、
肌を露出しない、外出をしない、などの自衛をしている。
福島第一原発に近いために、被ばくに関しては敏感である。
一方で、放射線量の高い福島市が、
避難せずに、除染に期待していることは、
福島市と南相馬市の放射線量」、2013年7月21日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/5ff01d81cefe5d0e4128f67208027b9d
を参照してください。

福島市の中心街は、南相馬市の中心街よりも放射線量が高い。
それなのに、避難した人が多い南相馬市と、
避難をしていない福島市との違いは、
どこからくるのだろうか?

最初は、つぎのように考えた。
福島市は福島県の県庁所在地である。
県庁所在地をつぶすわけにはいかない。
福島県の崩壊になるし、日本の崩壊につながる。
それは、できない。それに、福島市民28万人を、
受け入れるところがない。

まだある。
福島市は日本の交通網の大動脈が走っている。
東北新幹線があり、東北自動車道が走っている。
福島市がなくなれば、東日本の交通網がマヒする。
交通網の大動脈をなくすわけにはいかない。

これらは、福島市をつぶせない大きな理由で、当たっているだろう。
だが、南相馬市と福島市の大きな違いは、
実際に街を歩いて気がついた。
写真を見てください。
津波でが国道6号まで押し流されてきた。港から3.5kキロほどある。

代行バスから撮影。2011年6月29日。

南相馬市では、津波で漁船が流れ着き、家屋や田畑が破壊された。
福島市では、強い地震はあったが、家屋の倒壊や田畑の破壊はなかった。

南相馬市では、地震、津波で死者が650人以上出た。
福島市では、強い地震はあったが、犠牲者は出なかった。
もちろん、津波はない。

南相馬市は、地震と津波のほかに原発災害で、
強制避難、自主避難で、多くの人が避難した。
福島市では、強い地震はあったが、避難した人は少ない。
それに、原発災害では強制避難はなかった。

南相馬市では、福島原発の爆発により、
「とるものも取り合えずに逃げた」
「避難先は、つてを頼って、北は北海道から、南は沖縄まで…」
と、南相馬市の人は言う。
福島市では、福島原発の爆発で、強制避難はなかった。

南相馬市では、行方不明者の捜索は、身内であっても、
福島第一原発から半径20キロの避難区域では、
あきらめざるを得なかった。
福島市では、地震と津波による犠牲者はいなかった。

南相馬市では、自衛隊が出動して、災害救助をした。
福島市では、災害救助に出動する自衛隊は見かけなかった。
自衛隊の災害派遣。2011年6月。

南相馬市役所前で。

南相馬市では、自衛隊に感謝する「横断幕」を見た。
福島市では、感謝の「横断幕」を見なかった。
感謝の「横断幕」。

原町第一小学校で、2012年6月。
「自衛隊・警察・消防団・ボランティアの皆さん ありがとう!!

南相馬市では、住む家、職、田畑を失い、避難した。
これまでの「生活基盤」、生活設計が崩された。
福島市では、住む家、職、田畑は奪われず、
これまでの生活を継続する、除染に期待して。

家が崩壊し、田畑を失い、身内に死者が出て、
被曝を避けるために避難しなければならなかった南相馬市。
避難先で、新たな職を探して、
「生活の基盤」を変えなければならない、
これは、大変なことだ。

一方、これまでの生活基盤をなんとか変えずに、
汚染は、除染で対処したい福島市。
南相馬市と福島市で、
避難する、避難しないの違いは、
生活基盤を変えざるを得ないか、
変えずに除染に頼ろう、
の違いに出ている。

福島市の除染について、
福島市の放射線量2014年」、2014年7月20日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/ddcfc40d161e7d10a4a85f1890767322
を参照してください。

「紅葉山公園」が、2012年1月14日に、
23.6マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]だったが、
除染が行われて、2014年6月26日には、
1.04マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]
と、減少したことが書いてある。

そして、福島第一原発のメルトダウンから3年経った「除染」を見ると、
福島市の「除染」が終わるのは、はるか先になると思う。
福島の人の「生の声」も書いてある。

福島市と南相馬市の中心街の放射線量を比べると、
福島市の方が、南相馬市よりも高いと実感している。
福島市でも、南相馬市でも、年間の被曝量の限度、
1ミリ・シーベルト/年[mSv/y]に納まったか?
公式の調査と発表があると思う。

福島の人の生の声を、繰り返しになるが載せる。
放射線量を測っていると、
しゃがんでのぞきこむ格好が不自然だ。
それに、ピッピッ音がするから、通りがかりの人、
散歩の人、なじみの人が寄ってくる。

「こんなに高いのですか?」
福島市の紅葉山公園で。23.6マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]。

2012年1月14日。

「公式の発表と違う
「こうして、測ってくれるから助かる
「放射線量を数値で見るのは初めてです」
3.00マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]とは、高いですね」
男性は近くのビルディングにもどった。それから、
年間の被ばく量21ミリ・シーベルト[mSv/y]になります」
と、伝えにきた。計算されたのだ。
毎時の被ばく量から年間の被ばく量を計算された。
年間の被ばく量は、福島の人の最大の関心事である。

「福島では、どの程度、健康や人体に被害が及ぶのか、
また、いつ影響が出るのか、明確でないままに生活している」
「汚染物をいかに除去するか、除染が最大の関心事になっている」
と、福島の人は言う。
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福島市の放射線量2014年

2014-07-20 00:07:20 | Weblog
福島市放射線量2014年

2014年の福島市の放射線量は、2013年に比べて減っていた。
除染によって、9か所のうち、3か所が問題のないレベルになった。
③福島県庁、⑦県庁前公園、⑨福島駅前である。

注目していたのは、「紅葉山公園」である。
これまで測定してきた中で、最高の放射線量、
23.6マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]を示した。

放射線量の「測定場所」。

案内板「福島駅周辺施設案内」から作成した。

「紅葉山公園」⑥で、一番多く被ばくしたことが関係して、
累積の被ばく量は、放射線量を測定し始めて1年未満(319日目)で、
限度の1ミリ・シーベルト/年[mSv/y]を超えた。

このことは、
累積の被ばく量が1mSvを超えた」、2012年5月20日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/17eac3dac01b2c12fae54c8ab6381dfd
に書いてあるので、参照してください。

どこで、一番被ばくしたのか?

被ばく量の1位は、「紅葉山公園」だった。
福島市のほかに、6位以下には郡山市、南相馬市が出てくる。

2012年1月14日の「紅葉山公園」は、
23.6マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]だったが、


2014年6月26日には、
1.04マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]に減っていた。

安心できるレベルではないが、
23.6マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]
⇒ 1.04マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]
は、格段の減少である。23分の1になった。

国際放射線防護委員会(ICRP)は、毎時の被曝量の限度を、
0.52マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]と定めている。
年間の被曝量では、1ミリ・シーベルト/年[mSv/y]である。

毎時の被曝量については、
アメリカ軍は、さらに厳しい限度を定めている。
基地や施設で健康に問題がない被曝量を、
0.32マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]としている。

2012年1月14日の紅葉山公園には、人影がなかった。

落ち葉はそのまま。除染は手つかずだった。

それが、2014年6月26日の紅葉山公園には、
人がもどっていた。昼休みに休憩していた。

汚染された落ち葉や土は除去されて、新しい土になっていた。

花壇は、土を入れ替え、芝生を張り替えてあった。

大変な作業だったと思う。

同じような除染作業は、「天神橋の西」でも行われていた。
2013年7月3日の天神橋西は、雑草が生い茂っていた。

右は天神橋、中央は阿武隈川、その先が親水公園。
右手前は「古関裕而生誕百年記念歌碑」。

2014年6月26日の天神橋西には、雑草はなかった。

土の代わりに、コンクリートになっていた。

天神橋西の放射線量は、2013年7月3日が、
3.71マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]だったが、


2014年6月26日には、
0.36マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]に減っている。

安心できるレベルではないが、
3.71マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]
⇒ 0.36マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]
は、格段の減少である。10分の1になった。

同じような除染作業は、「福島県庁」でも行われていた。
植え込みは除去されて、新しい土だけになっていた。
2.03マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]
⇒ 0.19マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]
と、10分の1になった。問題がないレベルに下がった。

「紅葉山公園」から「親水公園」を眺めると、工事中だった。
手前は「阿武隈川」。

「親水公園」も放射線量の高いところだった。
除染作業中だろうか? 大型重機が入って、地面を掘り返している。

手持ちの放射線量計は、
0.50マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]を超えると、
ピッピッと鳴るように設定しておいた。
この場所から、すぐに退避しろ!」の警告だ。

放射線量計をズボンのポケットに入れて、
福島市の中心街を歩いた。
そして、ピッピッ鳴るところで、
放射線量を測定した。

福島市の放射線量は、もっと系統的に測定した公的な調査資料があると思う。
除染作業は、その調査資料に基づいて進めていると思う。

それで、福島市の除染はどのくらい進んだのか?
公式な発表があると思うが、個人的に測定した、
9か所の内 ⇒ 3か所が安全になった。
除染は、30%ほど進んだことになる。

しかし、個人的に測定した9か所は、
歩き回って、見つかった場所である。
除染をしたが、安全でないところもある。

これまでの9か所のほかにも、
放射線量が高いところ、
除染が手つかずのところは、
福島市には、多くある。2014年6月26日。

阿武隈川のそばの公園付近では、
7.66マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h] だった。

あまりに高いのでビックリして、夢中でシャッターを切った。

公園には人がいない。

2本のテープが張ってあった。使用禁止。
測定は、テープの手前の左端。左は阿武隈川。

これまで、放射線量は福島駅の東側に注目してきたが、
西側の植え込みで測ってみた。2014年6月26日。

1.60マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h] だった。

福島市では、どこにでもある植え込みだ。
特別の場所ではない。

福島駅西口駅前広場整備工事」をしていた。

右側の樹木の土は、入れ替えていた。

ほかに、放射線量の高いところは、つぎのようになる。2014年6月26日。
街なか広場の木の下、1.65マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]
阿武隈川沿いの遊歩道、1.55マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]
福島駅の東口付近、1.41マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]
県議会百年の碑、1.36マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]
隈畔の草むら、1.31マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]
福島城土塁、1.26マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]
梨の木、0.70マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]
駅前通りの植え込み、0.41マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]

新たな10か所は、
歩いて回ることができる福島市の中心街で、
どこにでも見る「植え込み」であり、「木」、
「草むら」、「花壇」、「公園」である。

学童の通り道、通勤者が通るところ、
主婦が買い物に使う道、児童が遊ぶ場所である。

これらの除染は大変な作業だ。
土が露出したところは、街中を掘り起こさなければならない。
「福島駅西口駅前広場整備工事」や「親水公園」のような工事が、
街中で行われることになる。

福島第一原発のメルトダウンから3年経った。
福島市の除染はどのくらい進んだのだろうか?
これまで測定してきた9か所は、除染が30%ほど進んだ。
新たな10か所を考えると、福島市の除染は10%以下だと思う。
除染が3年で10%とすると、30年かかることになる。

除染は、平地から ⇒ 側溝、川底、山になって、
作業はだんだん困難になるから、さらに延びるだろう。
福島県では、もっと汚染されたところがあるから、
福島市だけを優先するわけにはいかない。

福島市の除染だけでも、
数十年単位で考えることになる。
時間がかかる。巨費がかかる。
気が遠くなりそうだ!

放射線量を測っていると、
しゃがんでのぞきこむ格好が不自然だ。
それに、ピッピッ音がするから、通りがかりの人、
散歩の人、なじみの人が寄ってくる。

福島の人の生の声はつぎである。
「こんなに高いのですか?」
「公式の発表と違う
「こうして、測ってくれるから助かる
「放射線量を数値で見るのは初めてです」
3.00マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]とは、高いですね」
男性は近くのビルディングにもどった。それから、
年間の被ばく量21ミリ・シーベルト[mSv/y]になります」
と、伝えにきた。計算されたのだ。
毎時の被ばく量から年間の被ばく量を計算された。
年間の被ばく量は、福島の人の最大の関心事である。

「福島では、どの程度、健康や人体に被害が及ぶのか、
また、いつ影響が出るのか、明確でないままに生活している」
「汚染物をいかに除去するか、除染が最大の関心事になっている」
と、福島の人は言う。

福島の人の言う通りだと思う。
数十年先の「生きていて良かった!」
を願って、福島の人は今を生きる。
長い道のりだ!

福島市の放射線量の経過、
福島の人の声などは、
つぎを参照してください。

「福島市の放射線量」、2011年9月11日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/f6427ef824f387fce8ed19399f00f7cf

「福島市の放射線量2012年」、2012年1月22日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/2942155d17396e57ce694557cf16e261

「福島市の放射線量2013年」、2013年7月14日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/67a49ac606d0592d50fbdd9c9ddbd7f4

「南相馬市の放射線量」、2011年7月10日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/a01c1d1ec1ed310effe03992a7f9b83d

「福島市と南相馬市の放射線量」、2013年7月21日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/5ff01d81cefe5d0e4128f67208027b9d

「累積の被ばく量が1mSvを超えた」、2012年5月20日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/17eac3dac01b2c12fae54c8ab6381dfd

「東日本の放射線量」、2011年7月17日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/ed8589bc402cdd20f68eb5f5e8f64835

「菅谷市長の内部被曝の怖さ」、2011年4月24日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/dc05560372b4cafd2b2e53085d99a1cc

「福島原発の閲覧は10秒に1回」、2011年5月29日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/ad112285f8e4973086521206e8300a5e

「東北新幹線の放射線量」、2011年9月18日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/c3d0691423740012734ab8dd94e63286
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ウルグアイ人がみるマラカナンの悲劇

2014-07-13 00:07:13 | Weblog
ウルグアイ人がみるマラカナンの悲劇
マラカナンの悲劇は、サッカーの1950年第4回ワールド・カップ、
ブラジル大会の優勝戦、ブラジル対ウルグアイで起きた。
スタジアムは、リオ・デ・ジャネイロのマラカナン

マラカナンの悲劇を、知らないウルグアイ人はいない。
ウルグアイが、ブラジルに逆転勝ちしたことを、
ウルグアイ人は、きのうの事のように話す。
2003年に首都モンテビデオで。

ウルグアイ人がみる「マラカナンの悲劇」について、
私の本、「世界がみる日本の魅力と通知表」
に、書いてあるので参照する。

第4回ブラジル大会までのワールド・カップはつぎのようになる。
1930年第1回ワールド・カップは、ウルグアイで開催された。
ウルグアイの開催は、ブラジルから独立百周年を、
祝福する意味もあった。そして、ウルグアイが優勝した。

1934年第2回ワールド・カップは、イタリアで開催された。
イタリアが強化のために、アルゼンチン人選手を、
大勢帰化させてチーム編成したことに抗議して、
ウルグアイは参加しなかった。
イタリアが優勝した。

1938年第3回ワールド・カップは、フランスで開催された。
ヨーロッパと南アメリカとの交互の開催を要求して、
ウルグアイは、アルゼンチンとともに参加を取りやめた。
イタリアが連続優勝した。

それから、第二次世界大戦となって、ワールド・カップは中断した。
1950年になって第4回ブラジル大会が開催された。
ブラジルは自国大会で、初優勝を目指していた。

第4回は南アメリカの開催になったから、ウルグアイは参加した。
2度目の参加である。そして、2回目の優勝をした。
このときのウルグアイ対ブラジル戦が、
マラカナンの悲劇」となった。

なお、イングランドはFIFAに復帰して、
第4回から参加した。が、予選リーグで敗退した。

決勝戦は、勝ち進んだ4国のリーグ戦だった。
4国は、開催国のブラジル、ウルグアイ、
スウェーデン、スペインである。

ブラジルは、これまでに2勝、
スウェーデンに7対1で勝ち、
スペインに6対1と圧勝している。

ウルグアイは、これまでに1勝1分け、
スウェーデンに3対2で勝ったが、
スペインには2対2で引き分けた。

優勝戦は、2勝のブラジルと、
1勝1分けのウルグアイ戦となって、
ブラジルは、勝つか、引き分けでも優勝だから、
断然優位で、ブラジルの初優勝を見ようと、
マラカナンは20万人のブラジル人でふくれ上がった。

マラカナンはワールド・カップに合わせて、1950年に、
リオ・デ・ジャネイロに造られた世界最大のスタジアム。
20万人とは長野県松本市の人口と同じで、
松本の全市民がスタジアムに駆けつけたようなもの。

「当時のマラカナンは立ち席だった」
と、ウルグアイ人は言うが、
スタジアムに小都市が入っている。

「これまでブラジルは2勝で、
ウルグアイは1勝1分けだから、
ブラジルに勝つしかなかった」

「前半が終わって、0対0だった。
ブラジルは引き分けても優勝だから、
断然優位であった」

「ウルグアイのキャプテン、ファン・スキアフィーノは、
イレブンに言い聞かせた。相手は20万人ではない、
われわれと同じ11人だ。われわれの作戦が、
どこまで通用するか、試してみようじゃないか、
と檄(げき)を飛ばした」

「ところが後半そうそう、ブラジルが得点した。
1対0で、マラカナンもラジオを聞くブラジル人も、
これでブラジルの優勝だと熱狂した」
「マラカナンでは、ブラジル大統領から、
優勝トロフィーを授与する準備をしていた」

「しかし、ウルグアイはその後、
キャプテン、ファン・スキアフィーノが得点した。
さらに1点を加えて、2対1で逆転勝ちした」

「ブラジル人は天国から奈落の底に突き落とされた。
マラカナンには自殺者2人とショック死2人による4つの遺体があった。
ラジオの実況放送を聞いていたブラジルとウルグアイからも、
悲嘆と歓喜による心臓発作で犠牲者が多数出た。
マラカナンの悲劇』である」

ウルグアイ人は、このマラカナンの逆転勝ちを、
永遠に語り継ぎたいだろうし、
ブラジル人は早く忘れたいだろう。

ブラジルが初優勝するのは、
1958年スウェーデン大会まで、
8年待たなければならなかった。
まだ17歳の、サッカーの王様ペレの出現である。

2014年ブラジル大会は、ブラジル中の12のスタジアムで行われる。
そして、決勝戦はリオ・デ・ジャネイロのマラカナンである。

FIFAのホームページから。
2014年ブラジル大会に向けて新しくした。収容は7万6千804人。

ブラジルにとっては、
2度目の自国大会で、マラカナンで優勝したい。
「マラカナンの悲劇」を払拭する、絶好のチャンスが、
64年ぶりにやってきた。エースのネイマールがいる。

これは、私の推測だが、
できれば、決勝戦でウルグアイと対戦し、
大勝して、ウサを晴らしたい。これは因縁の、
ウルグアイの独立戦争に敗れた仕返しにもなる。
スペイン語のウルグアイとポルトガル語のブラジル戦。

自国大会の優勝を願って、ブラジル人は燃えていた。
4試合で4点を上げていたネイマールは、準々決勝の、
コロンビア戦で骨折して出場できないが、ブラジルの実力は高い。

しかし、2014年7月8日の準決勝で、惨劇が起きた。
ドイツに7対1で敗れた。

ブラジルは、終了間際の90分に上げた1点だけの惨敗。BS1から。
自国大会での優勝の悲願は潰(つい)え去った。

だれも予想しなかったブラジルの大敗は、
ワールド・カップ史上、最大の大差になった。
それに、国民の目の前で、屈辱的な惨敗である。
テレビを観ていると、ブラジルの少年は泣いていた。

夢が打ち砕かれた。BS1から。

「マラカナンの悲劇」は払拭できなかった。
それどころか、新たな悲劇が生まれた。
王者のプライドがズタズタにされた、
自国大会の屈辱」。

ワールド・カップで5回も優勝している王者ブラジルは、
つぎの自国大会の優勝まで、晴れない悲劇を抱えた。
涙の少年が笑みを浮かべるのは、半世紀先だろうか?

ブラジルのルイス・フェリペ・スコラーリ監督のコメントがある。
「ブラジルを決勝戦に連れていかれなかったことを国民におわびする」
戦術も、布陣も私の責任である」、そして、
「私の人生で最悪の日だろう」
"This is probably the worst day of my life,"

「どうして、ウルグアイはサッカーが強いのだろう?」
マラカナンの悲劇を演じたウルグアイは、
アウェーで0対1の崖っぷちから、2対1と逆転勝ちした。
ワールド・カップで2回目の優勝である。

初回の優勝は、1930年第1回ウルグアイ大会だった。
アルゼンチンと激しい決勝戦になった。
前半アルゼンチンが2対1でリードした。
ウルグアイは後半に3点を入れて、
4対2で逆転勝ちした。

ウルグアイの優勝は、
1930年第1回ウルグアイ大会も、
1950年第4回ブラジル大会も、
絶体絶命からの逆転勝ちだった。

「どうして、ウルグアイはサッカーが強いのだろう?」
という問いに、モンテビデオでウルグアイ人は答えた。
「サッカーが強いのは、我慢"patient"することだ。
それに、メンタリティ"mentality"が強いことだ」

なるほど。我慢して守りきる、そして、
機を待って攻撃につなげる、ということか。
それに、精神面で負けない気力、喰らいつく迫力、
あきらめない、勝つんだ、という強い信念か。
敵を打ち砕く技術力と強い精神力を持った、
11人のサムライである。

「それに、指導力、伝統、施設、組織力がある」
「日本をはじめとするアジア諸国が、
伝統的に野球や柔道が強いようなものだ」
と、ウルグアイ人はつけ加えた。
ワールド・カップで優勝する組織的な戦略があり、
試合に勝つ監督の戦術で、サムライを動かすことか。

マラカナンの中。

FIFAのホームページから。

監督の戦術を見たい。それに、
絶体絶命から逆転勝ちする技術力と精神力を見たい。
世界最大のスポーツの祭典、「ワールド・カップ」は、
世界を熱くする。新たなドラマを生む。
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サッカーの第1回はなぜウルグアイで開催

2014-07-10 00:07:10 | Weblog
サッカーの第20回ワールド・カップ
ブラジル大会が佳境である。早起きして観ている。
ブラジルでの開催は、1950年の第4回以来64年ぶり、2度目である。

サッカーの第1回ワールド・カップは、
ウルグアイで開催された。
そして、ウルグアイが優勝した。
サッカーはもともとヨーロッパのもの、
イングランドが発祥の地である。

それが、第1回がなぜウルグアイ開催されたのだろうか?
イングランドではなくて。

南アメリカで開催するとしても、
ブラジルやアルゼンチンがある。
それが、どうしてウルグアイなのか?
サッカーに興味が薄い人でも抱く疑問だ。

「いいものを見せてあげよう!」
ウルグアイ人は、首都モンテビデオにある、
「百周年スタジアム」に車で連れていってくれた。

第1回のワールド・カップが開催された、
「百周年スタジアム」の「見学チケット」である。No132。

ESTADIO CENTENARIO”「百周年スタジアム」
MONUMENTO AL FUTBOL MUNDIAL
「世界のフットボールの記念碑」
とある。2003年7月。
宝物になる!

なぜ、第1回のワールド・カップが、
ウルグアイで開催されたのだろうか?
この疑問に答えることが、私の本、
「世界がみる日本の魅力と通知表」
に、書いてあるので参照する。

ウルグアイという国の事情はつぎである。
国土面積は日本の半分。
人口は3百40万人、東京都の4分の1。
ブラジルの人口が1億8千万人、
アルゼンチンの人口が3千8百万人だから、
両大国と比べたら、国土は小さくて、人口は少ない。
東京都民の4分の1の人口で、両大国に立ち向かうようなもの。
サッカーに有利な条件はないと思うが。強いのだろうか?

ウルグアイは、スペインからの移民が50パーセント、
イタリア移民が30パーセントである。
ウルグアイの北はブラジル、
南はラ・プラタ河を挟んでアルゼンチン。

隣り合うブラジル、アルゼンチンとは、歴史的因縁があった。
ウルグアイは母国スペイン、ブラジル、アルゼンチンと独立戦争をした。
最初にスペインとポルトガルによる、ウルグアイの植民地争いが起こり、
これがスペイン系のアルゼンチンとポルトガル系のブラジルによる、
ウルグアイの争奪戦へと発展した。

アルゼンチンに後押しされたウルグアイは、
ブラジルと独立戦争を起こし、1830年に、ブラジルに勝利する。
そして、ブラジルだけではなく、アルゼンチンからも独立を認められた。
1830年7月18日に共和国憲法を制定する。

そして今、3国はお互いがサッカーで国の威信をかけて闘っている。
スポーツに名を借りた、独立戦争の再現であるかのように。

この1830年の独立から百周年経って、
建設されたサッカー・スタジアムが、
百周年スタジアム」である。

「百周年スタジアム」
「世界のフットボールの記念碑」
と壁にある。

金属製の高いフェンスで囲われ、扉が閉まっている。
もう、これ以上、近づけない。
しかし、現物を見るだけでも感激した。
「これが、百周年スタジアムか!」
「外観を見ることができただけでも、ありがたい」

案内してくれたウルグアイ人は、車を下りてフェンスに近づき、
中に見えたスタッフに声をかけた。フェンス越しに話をしている。
そして、笑みを浮かべながら車にもどってきた。

日本から、はるばる百周年スタジアムを視察に来たお客さんだ、と伝えた」
「きょうはクローズだが、入場料を払えば、見せてもらえることになった」
「スタッフがスタジアムを特別に案内してくれるそうだ」
ウルグアイ人の機転によって、入場できることになったのだ。幸運にも。

広い駐車場に、たった1台だけ駐車して、スタジアムに向かった。
フェンスの扉の錠が外されて、招き入れられるように扉が開けられた。

スタッフの若い女性の後について階段を上がると、
正面にピッチが開けた!

ウキウキする! ここで、第1回ワールド・カップが行われたのか!

芝生の緑が青い空に映えている。
芝生もスタンドも準備を整えて、
戦う選手と熱狂する観客を待っている。

1930年は、ウルグアイがスペインとブラジルから独立して、
百周年にあたる年です。このスタジアムは、
その年に建てられたもので、独立百周年を記念して、
百周年スタジアム“Estadio Centenario”と名づけられました」

それから、ウルグアイでワールド・カップ第1回大会が
開催された核心を聞くことになる。
「ウルグアイはオリンピックのサッカーで、
1924年と1928年に連続優勝しました。
ヨーロッパの強豪を破り、アルゼンチンも降(くだ)して、
世界にウルグアイの実力を見せつけたのです」

「1924年パリ大会でウルグアイは、
アメリカ、開催国であるフランス、オランダを、
つぎつぎと破って、決勝戦はスイスに勝ちました」

「1928年アムステルダム大会では、
開催国オランダ、ドイツ、イタリアに勝ち、
決勝戦の相手はアルゼンチンで、1対1で引き分けたが、
3日後の再試合で、2対1で勝ちました」

「国際フットボール連盟FIFAのジュール・リメ会長は、
プロが参加できる国際試合を開催したいと企画して、
サッカーのワールド・カップの開催が実現することになりました」

1930年の第1回大会は、
オリンピックで連続優勝した、
ウルグアイで開催されましたが、
これにはウルグアイの実力のほかに、
ウルグアイの独立百周年を祝福する意味もあったのです」

そうだったのか!
これで、第1回のワールド・カップが、
ウルグアイで開催されたわけがわかった。
ありがとうございます。

国際フットボール連盟FIFAと悶着があったイングランドは、
ワールド・カップに、当初は参加しなかった。
FIFAとの悶着が解決して、第4回ブラジル大会から参加した。
が、世界の実力は予想以上に上がっていて、予選リーグで敗退した。
以後、連続してワールド・カップに参加している。

「この百周年スタジアムは、今でも使用されていて、
7万3千人を収容できます」
「1950年建設の、ブラジルのマラカナンは、
20万人収容の世界最大のスタジアムでしたが、
立ち席だったために、きわめて危険でした」
独立戦争の敵国だったブラジルには、
ことのほかライバル意識が強いようだ。

「百周年スタジアムはいす席で、
世界で一番安全なスタジアムです。
何かあっても観客はたった15分で、
スタジアム周囲の広場に避難できます」
と、百周年スタジアムが安全に配慮された設計であることを強調した。

「ピッチに最も近いところに並ぶ、コンクリート製のいすは、
オープン当時のものです」
「そのうしろのスタンドは、長いすから、
プラスチックのシートに換えられています」
「そのまた後ろにあるガラスで囲われたロイヤル・ボックスは、
さらに後で追加されたものです」

コンクリート製のいすに座ってみた。
ゆったりしている。それにひじ掛けがあって、
独立したいすが並んでいるようだ。
前の席とは半分ずれているから、
頭が邪魔することなく観やすくなっていた。

「スタンドのブロック分けは、東西南北ではなくて、
フランス、オランダ、スペイン、アメリカ・ブロックになっています。
これは、ウルグアイがオリンピックのサッカーで優勝したときの、
開催国などを記念してつけたものです」

「中央のタワーは、優勝したウルグアイが船で帰国して、
タラップにならんだ選手が声援に応える様子をシンボル化したものです」

第1回ワールド・カップは、
1930年にウルグアイで開催されて、ウルグアイが優勝しました。
ウルグアイ人ならば、だれもが知っています」
と、百周年スタジアムの女性スタッフは誇らしげに話す。

「開催国のウルグアイは勝ち進み、
決勝戦の相手はアルゼンチンでした。
2年前の1928年のオリンピック、アムステルダム大会の、
決勝戦の再現になりました」
「オリンピックでは、ウルグアイは引き分け、
再試合でアルゼンチンに勝っています」
「アルゼンチンは、オリンピックの雪辱に燃えていました。
激しい決勝戦になり、前半アルゼンチンが2対1でリードしていましたが、
ウルグアイは後半に3点を入れて、4対2で逆転勝ちしました」
「審判の判定をめぐって紛糾し、その後アルゼンチンは国交を断絶しました」

「ウルグアイから始まったワールド・カップは、
いまや世界最大のスポーツの祭典に発展しています」

ウルグアイは、サッカーの歴史に輝かしい実績を残している。
それに、百周年スタジアムという、サッカーの記念碑を遺している。

1930年の第1回ウルグアイ大会から、
84年後の2014年の第20回ブラジル大会では、
日本が負けてから、ウルグアイを応援していた。
コスタリカには負けたが、イングランドと
イタリアを破って、決勝トーナメントに進出した。
イタリア選手にかみつくなよ! ルイス・スアレス。
決勝トーナメントは、コロンビアに敗れてベスト16だった。
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秋田駒ヶ岳のお花畑と眺望

2014-07-06 00:07:06 | Weblog
秋田駒ヶ岳は、お花畑眺望が素晴らしい。
阿弥陀池」の周辺には、お花畑が広がっていた。

秋田駒ヶ岳の最高峰「男女岳」(おなめだけ)のお花畑。
白いチングルマの群落に、赤いイワカガミが混じり、
黄色のミヤマキンバイやミヤマダイコンソウが広がる。
右には残雪。

それに、秋田駒ヶ岳からの眺望がいい。
鳥海山」を見ることができた。

手前は「男岳」(おだけ)1,623メートル。
「鳥海山」2,236メートルは、雪を抱く富士山のようだった。
秋田駒ヶ岳の最高峰、「男女岳」1,637メートルから撮影。2014年6月25日。

初めての秋田駒ヶ岳は、駒ヶ岳八合目までバスで上がった。
「アルパこまくさ」発、朝7時42分のバスに乗ると、
20人ほどのお客さんで、にぎわっている。
30分弱で駒ヶ岳八合目に着く。

秋田駒ヶ岳の山歩きのコースは、
八合目小屋 ⇒ 阿弥陀池(あみだいけ) ⇒ 男女岳(おなめだけ)
⇒ 阿弥陀池 ⇒ 男岳(おだけ) ⇒ 馬の背 ⇒ 横岳
⇒ 焼森(やけもり) ⇒ 八合目小屋にもどる、とした。

秋田駒ヶ岳 自然観察マップ」。八合目小屋で購入。


左上の「八合目小屋」から出発して、赤の「新道コース」を通る。
「硫黄鉱山跡」を左に見ながら、雪渓を横切り、

⇒ 「片倉岳展望台」へ ⇒ 「男女岳」の南をぐるりと回って、
⇒ 「田沢湖」を見る、

(田沢湖が見えると、うれしくなって足を止める。手前はミヤマダイコンソウ)
⇒ お花畑が広がる「阿弥陀池」へ、

⇒ 秋田駒ヶ岳の最高峰、「男女岳」(おなめだけ)に登り、

⇒ 「男女岳」を下りて ⇒ 「阿弥陀池」の南側(向こう側)を回って、右端から、

⇒ 「男岳」(おだけ)に登り、

⇒ 「男岳」からもどって、
⇒ 「馬の背」を越えて、

⇒ 「横岳」へ、
紫の「シャクナゲコース」を通って、
⇒ 「焼森」(やけもり)へ(奥は「岩手山」)、

⇒ 「焼森」で、今が盛りの「キバナノコマノツメ」を見て、

⇒ 川を渡り、雪渓を上がって、再び「シャクナゲコース」に出て、

(雪渓を川沿いに直進すると、行き止まり)
⇒ 「八合目小屋」にもどった。

帰りは、「駒ヶ岳八合目」発、12時55分のバス、
「アルパこまくさ」行きに乗ったから、
5時間ほどの山歩きになる。

秋田駒ヶ岳には素晴らしいところがいくつかある。
お花畑があちこちに広がっていた。
それに、眺めがよかった。

お花畑
男女岳」のすそ野のお花畑。

白はチングルマ、赤はイワカガミ、黄色はミヤマキンバイやミヤマダイコンソウ。

男岳」のすそ野の「チングルマ」の群落。

白のチングルマに、赤のイワカガミ、黄色のミヤマキンバイやミヤマダイコンソウが広がる。

「阿弥陀池」の北、阿弥陀池小屋の近くは、一面の「ヒナザクラ」。

初めて見るヒナザクラの群落。左の奥は「男岳」。

「焼森」の斜面は、「キバナノコマノツメ」一色。

一面に咲くキバナノコマノツメに見とれる。奥は「男女岳」。

「焼森」を下ってくると、「イワカガミ」の群落。

奥には雪が残る。

お花畑も素晴らしいが、秋田駒ヶ岳からの眺望も素晴らしい。
南には、初めに掲載した「鳥海山」が見え、
北には、「岩手山」2,038メートルが見える。

「焼森」から。手前はミヤマダイコンソウ。

男岳」。「馬の背」から。

「男岳」の東側はえぐられている。爆発によるのだろうか?
右の登山グループは、「男岳」から「馬の背」に向かう。

男女岳」。「横岳」から。

下は「阿弥陀池」、右端は「阿弥陀池小屋」。
手前はミヤマダイコンソウ。

小岳」(こだけ)。「男岳」から。

どうしたら渦巻きができるのか?  珍しくて、眺めていた。
右の斜面は「女岳」。手前はミヤマキンバイ。

女岳」。「馬の背」から。

手前はハクサンチドリ。

馬の背」方面。「男岳」から。

「阿弥陀池」の先は「焼森」。左奥は「岩手山」。
「焼森」の左斜面を下りて、八合目小屋へもどった。
手前はミヤマダイコンソウ。

秋田駒ヶ岳で行き会った人たち。
関東からの写真家。花や山の写真が多いという。
高齢というのに、重い機材をかついでいた。
地元の男性。30年ぶりの秋田駒ヶ岳という。
「鳥海山が見える!」と教えてくれた。
2人の女性。「ミヤマウスユキソウが咲いています」と、
場所を教えてくれた。
地元のご夫妻。「シャクナゲコース」が、
通れることを、教えてくれた。
女性のグループ。「落し物ですよ」と、
追いかけて、渡してくれた。
千葉からの男性。一面の「キバナノコマノツメ」に、
感激されていた。

花の山、秋田駒ヶ岳で、目についた花を掲載します。
ムラサキヤシオツツジ


シラネアオイ


マイヅルソウ


ツマトリソウ


ウメハタザオ?


ハクサンチドリ


ミヤマウスユキソウ


秋田駒ヶ岳は変化に富んでいる。
男女岳、男岳、女岳、馬の背、焼森と、
いくつもの山があり、阿弥陀池がある。
お花畑が広がり、雪渓や残雪がある。

それに、眺望がいい。
鳥海山、岩手山、田沢湖を見ることができる。
季節の変化を楽しみたい山である。

黄色のミヤマダイコンソウのベルト。

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