季節の変化

活動の状況

富士山の放射線量

2011-07-31 00:01:20 | Weblog
吉田ルートから富士登山をした(2011年7月27日)。
そして、富士山の放射線量を測った。

富士山と、手前に相似形の山。富士スバルラインから。

五合目にある案内板。

富士山の頂上は、上の円形。

富士スバルラインの五合目に駐車をして、「く」の字に登り(黄色)、
下りは、登りの左にある須走のルートを降りて(黄色)、六合目で合流する。

そして、富士山の放射線量は、
登りは、五合目、七合目、八合目、本八合目、そして頂上で測り、
下りは、須走のルートで、八合目で測った。

富士山の放射線量は、どこでも、
0.19マイクロシーベルト(μSv)以下だった。

頂上。

線量計の右上の時刻は、13時16分になっている。

放射線量を測ったところ。放射性物質が風や雪で落ちそうなところを選んだ。

雨が降り、風が強かった。そして、体が冷えきって、ガタガタとふるえがくる。

登山開始の五合目。

時刻は7時38分だから、5時間38分の富士登山になる。

六合目。団体客が登る。


七合目。行き会った消防士。

「山小屋の防火設備の点検をしている」という。

八合目。「ゴミを拾っているんですか?」

「ハイ、そうです」

九合目。台湾からのご夫妻に会った。
「あした、仕事です」という。
「エッ! あしたですか? 台湾にもどるんですか?」
「きょう羽田から台北にもどって、あした仕事です」
「がんばりますね、気をつけて!」

頂上。

山小屋がいくつかあるから、火口が目に飛び込んでくるわけではない。
富士山の荘厳さ、自然への畏敬は、山小屋を通りすぎて味わうことになる。

頂上に近づくにつれ、生あくびが出てきた。
そして頂上では、手がかじかみ、ガタガタとふるえた。
それに、思考力が鈍くなってくる。
高山病の前兆だが、軽微で済んだ。
なによりも、富士山に登った達成感がある。

須走のルートを下山。

登りも、下りも会った外国人。
五合目と山頂では、レポートを収録していた。

須走の下山ルートの八合目。

0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)。

そして、五合目にもどった。
9時間の日帰り登山が終わった。

五合目にもどると、これから登る登山客が、ガイドの説明を受けていた。

夕方に登って、山小屋に泊まり、明朝にご来光を拝むツアーだ。

10歳の少年がお父さんと登っていた。
「私のほうがバテ気味です」とお父さんはいう。
自然や登頂の達成感を楽しみにしている登山客でにぎわい、
仕事をする人も多い。それに、外国人も多い富士山。

国際放射線防護委員会(ICRP)は、毎時の被曝限度を、
0.52マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)と定めている。
富士山の放射線量は、0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)以下だった。

そして、富士登山をした1日の被曝量は、
3.17マイクロ・シーベルト(μSv/d)だった。
松本の1日の被曝量(10日間の平均)は、
3.15マイクロ・シーベルト(μSv/d)だから、
富士登山の放射線量は、ふだんの生活と変わりがないレベルである。

なお、吉田ルートは、放射線医学総合研究所が「富士登山は安全」とし、
富士宮市は、富士宮五合目からの登山ルートの安全を宣言している。
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がんばろう女川

2011-07-24 00:01:56 | Weblog
がんばろう! 女川

女川の街中にある「ゆきあい丸」。

「ゆきあい丸」近くの2本の桜。

傷みつけられたのだろう? 手足がもぎ取られ、包帯のように麻布が巻かれている。重体だ!

しかし、だいじょうぶそうだ。
津波にあっても 3輪 咲いたヨ
We ONAGAWA.
We SaKuRa farm.

家の基礎に板を渡して、花をささげ、お茶が添えられていた。

どなただろうか? 亡くなられたことが、わかったのだろうか?
ビール、ドリンク剤があるからお父さんか? おじいちゃんか? 合掌。

奥は「ゆきあい丸」、左の青い屋根は「生涯センター」、右は「町役場」。
その間で、奥の高台は「町立病院」。津波は町立病院の1階まで押し寄せたという。
「女川駅」は生涯センターの手前にあったが、跡かたもない。

女川第二小学校の校庭近くの高台から見た女川の街。

津波から3か月半たっていて、倒壊した家屋や流された車、
ガレキなどは撤去されているから凄惨さはない。が、物悲しい。
これまで築いてきた生活も、文化も、想いでも、なくなってしまった。

「ゆきあい丸」は、中央を走る自衛隊の車の右奥で、生涯センターの前。
手前にある車は、高いところまで打ち上げられた。

女川第二小学校は高台にあり、すぐ上は女川総合運動公園。
女川総合運動公園は、バスの終点になっている。

2011年3月16日に、
「福島原発は放射線漏れ、女川原発では放射線漏れなし」
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/19a904018d555728962c5dd8aa5a7509
と書いた。

震源地と原子力発電所の地図。

USA TODAYから。

震源地のすぐ左のが女川(おながわ)原子力発電所。
その下の2つのが、福島第一原子力発電所と福島第二原子力発電所。
東京は

「このままでは、福島原子力発電所は、
メルトダウンしてしまうのではないか?
と、テレビに釘づけになる」
と、2011年3月16日に書いた。

書いた3月16日には、
福島第一原発は、すでにメルトダウンしていた。

経済産業省の原子力安全・保安院の発表によると、福島第一原発の、
1号機は、3月11日の地震発生から、5時間後(16時間後)の3月11日にメルトダウンし、
2号機は、地震発生から80時間後(101時間後)の、3月14日にメルトダウン、
3号機は、地震発生から79時間後(60時間後) の、3月14日にメルトダウンしていた。

( )内は、東京電力が発表した時間で、東京電力が、
メルトダウンしていたことを把握できたのは、
メルトダウンしてから、65日後だった。

実際は、東京電力は、すぐに国際原子力機関IAEAに、
メルトダウンしたことを報告していたが、
国民に知らせたのは、65日後だった。

「福島原発の閲覧は10秒に1回」、2011年5月29日では、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/ad112285f8e4973086521206e8300a5e
「原発は、人知でコントロールできるものではない」
ということを、福島は世界に示した。
と、書いた。

それに、メルトダウンの発表が、こんなに遅いのでは、
子ども、妊娠、授乳中の子どもがいる女性、
近くに原発があるところに住まわれている人、
を、被曝から守る対策が十分できなくなる。

「福島原子力発電所は放射線漏れ、
しかし、女川原子力発電所では放射線漏れなし」
と書いた女川町を6月末に訪れた。

女川原発は女川の街から、7キロ東にある。
そして、女川町の放射線量を測ってみた。
1) 「ゆきあい丸」の近く、
2) 高台にある避難場所の総合運動公園、
3) そして、伊勢地区の宮城県原子力センター。
放射線量は、どこでも、0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)以下だった。

測った場所について。
2) 女川総合運動公園は、石巻からのバスの終点になっていた。
JRとミヤコーの2つのバス停の標識がある。

「明日のエネルギーを担う
原子の灯りのふるさと女川町」
の看板がある。

奥の陸上競技場には、11台のバスが停まっていて、
窓には「女川第一小学校」とあった。
女川第一小学校は津波で使えないから、学童を、
高台にある女川第二小学校まで、バスで送迎しているのだろうか?

仮の町役場は、陸上競技場の左にある女川第二小学校の駐車場に造られている。
陸上競技場の右には総合体育館があって、避難所になっている。

女川の中心は、高台にある女川総合運動公園に移っている。

石巻駅で、バス会社のミヤコーに、女川駅について聞いてみた。
「女川駅に行きたいが、女川総合運動公園から近いですか?」
「女川は、低いところは街が流されて、なにもありません。
終点は、高台にある女川総合運動公園になります」

そして、その通りだった。バスの中から撮った。

女川の中心部は工事中で、道路を固めるのを待ってからバスは進んだ。

シュベル・カーの左にある保健センターの先を左折して、
高台にある女川総合運動公園へと上がって行く。

女川総合運動公園に向かう途中に「がんばろう! 女川」の「ゆきあい丸」があり、
「津波にあっても 3輪 咲いたヨ」の「桜」がある。

放射線量は、陸上競技場のトラックと、中央の芝生の2か所で測った。
ともに、0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)以下だった。

3) 宮城県原子力センター。

放射線量は、入り口で測った。


0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。

宮城県原子力センターのとなりにある宮城県原子力防災対策センター。

屋上から鉄骨が垂れていた。津波で押し上げられた? ユラユラと落ちそうで、危ない。
左のレンガ造りは宮城県原子力センター。

宮城県原子力センターのある伊勢地区は、ガレキ置き場になっていた。

ドラえもん、くまのプーさんは主を待っている。
右のレンガ造りは宮城県原子力センター。

ここは木クズ置き場だが、ほかに鉄骨、ガレキ、金属、混載ゴミと、

分別されたゴミの山が、道の両側に連なっていた。
これまで築いてきた生活も、文化も、想いでも、なくなってしまった。

でも、「がんばろう! 女川

女川原発から女川を知った。そして、実際に訪れて、
女川を紹介したが、外からの目もあっていい。
女川の理解や復興に役立てればと思う。
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東日本の放射線量

2011-07-17 00:04:17 | Weblog
南相馬市を歩くと、ポケットの放射線量計がピッピッ鳴る。
毎時の被曝量が、0.50マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)以上だった。

国際放射線防護委員会(ICRP)は、毎時の被曝限度を、
0.52マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)と定めている。
それで、放射線量計は、
0.50マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h) 以上では、
警告するように設定した。音が鳴り、LEDが点滅する。

南相馬市で、朝、原ノ町駅にバスが着いて、
災害ボランティア・センターのある福祉会館へ、
向かい始めたとき、駅前の相馬市図書館で、
0.70マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。

南相馬市、原ノ町駅。

朝9寺半。ひっそりしていた。

1日の災害ボランティアを終えた夕方、原ノ町駅に向かうと、
南相馬市役所交差点から北200メートルで、
1.21マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。

移動は、車ではない。電車やバス、それに歩き。
車で走って、ホット・スポットを探すことはできない。
しかし、ポケットの放射線量計がピッピッ鳴ったり、
電車やバスが停まる駅周辺で、放射線量を測ることができる。

東日本の放射線量を測ってみた。
同じ放射線量計で、しかも地表で。

どうして地表で測るのか?
空中にただよう放射性物質は、雨や雪で地表に落ちるから。
それに、公園の砂遊びも運動場のサッカーも地表でする。
作物ができるのも、牛が食べる草も地表だから。

また、高さ80センチのポケットに入れた放射線量計が、
ピッピッ鳴って、放射線量計を取り出して見た値よりも、
地表に放射線量計を置いた値は、必ず高くなっているから。

宮城県、福島県、栃木県、埼玉県、長野県で、
ピッピッ鳴るところや、駅周辺の毎時の放射線量はつぎであった。
1) 宮城県の放射線量 2011年6月27日、28日。
単位はマイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)。


2) 福島県の放射線量 2011年6月29日、30日。
単位はマイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)。

は、毎時の被曝量が、0.50マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)以上を示す。

3) 栃木県、埼玉県、長野県の放射線量 2011年6月30日。
単位はマイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)。


状況を写真でみる。
宮城県、女川町の街中にある「ゆきあい丸」。

「がんばろう! 女川」

「ゆきあい丸」近くの放射線量は、0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)。


女川町は、津波で街がさらわれた。高台から女川港方面。

「ゆきあい丸」は、中央の赤い消防車の右。
花が置かれ、水が添えられた家の土台がある。手を合わせる。
東北電力の女川原発が近くにあるが、放射性物質による汚染はない。

宮城県、名取駅の東口。右の木の下で測った。

名取駅は、仙台空港鉄道の代行バスの発着駅。
なお、仙台空港鉄道は、津波の災害で運航を中止している。

名取駅東口の放射線量は、0.41マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)。

やや高い値を示した。福島第一原発からは、北に84キロ離れている。

左は仙台空港鉄道。その先は仙台空港へ。名取市。

田んぼに、津波に押し流された車やコンテナーがある。手を合わせる。

歩いている人はいなかった。
工事車両とパトロール・カー以外は、だれにも会わなかった。

福島駅東。

放射線量計は、ガードレールの下。

福島駅東の放射線量は、2.46マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)。

この2.46マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)は、
今回、東日本の放射線量を測ったうちで最高値だった。
福島駅は、福島第一原発からは、北西に63キロ離れている。

放射線量計を地表から拾い上げて、キャップに入れて撮った写真がある。

1.31マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)である。高さはおよそ1メートル。

地表では2.46マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だったが、
高さは1メートルで、放射線量は地表の半分近くになった。これは、
空中をただよった放射性物質は、雨や雪で地表に落ちていると考えていい。

それに、写真を撮るときに、左手にキャップを持ち、
右手でカメラを操作するのは、不安定であることもあって、
放射線量計は地表に置いて測ることにしている。

郡山駅東口。

放射線量計は、生垣のそば。タクシー乗り場の近く。

郡山駅東口の放射線量は、1.74マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)。

郡山駅は、福島第一原発から西に57キロ離れている。

宇都宮駅東口。

放射線量計は、フェンスのそば。バス乗り場の近く。

大宮駅東口。

放射線量計は、木のそば。
宇都宮駅、大宮駅の放射線量は、0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)。
宇都宮駅は、福島第一原発から南西に140キロ離れている。
大宮駅は、福島第一原発から南西に210キロ離れている。

東日本の放射線量を、同じ放射線量計で、しかも、
地表で測ったものをまとめると、つぎになる。
A) 東北新幹線、長野新幹線の駅で、
  0.50マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)以上は、
  福島駅、郡山駅であった。
B) 東北新幹線、長野新幹線の駅で、
  0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)以下は、
  仙台駅、宇都宮駅、大宮駅、長野駅だった。
C) 宮城県の東北本線、名取駅東口は、
  0.41マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。
D) 仙台空港は、0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)以下だった。
E) 東北電力の女川原発が近くにある女川町の放射線量は、
  0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)以下だった。
F) 街を歩いていて、ポケットの放射線量計がピッピッ鳴る、
  0.50マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)以上のところは、
  南相馬市、福島市、郡山市であった。
G) 福島駅東の、2.46マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)は、
  東日本の放射線量を測ったうちで最高値だった。

ポケットの放射線量計がピッピッ鳴る、
0.50マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)以上のところや、
新幹線や在来線の駅周辺を主に測ったが、
各自治体には、系統的で正確な測定結果があると思うので参照してください。

毎時の放射線量の高いところはつぎである。
南相馬市の市役所北200メートルでは、1.14マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)、
福島駅の東は、2.46マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)、
郡山駅の東口は、1.74マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。

南相馬市の市役所は、福島第一原発から北25キロにあり、
南相馬市の原ノ町駅は、福島第一原発から北24キロ、
福島駅は、福島第一原発から北西63キロ、
郡山駅は、福島第一原発から西57キロ、にある。

南相馬市、福島市、郡山市では、街を歩くと、
ポケットの放射線量計が、頻繁にピッピッ鳴る。
しかし、街の様子がちがっていた。

それは、屋内退避をして、ひっそりしていた南相馬市と、
ふだんと変わらない生活にみえた福島市、郡山市である。

南相馬市では、街を歩く人がいない。街は、ひっそりとしている。
移動は車でする。しかも窓を閉めるというように、
市民は、被曝からの自衛をしていた。

南相馬市役所の近くを走る災害派遣の自衛隊。

「自衛隊のみなさん、ありがとう!」
の貼り紙を街中で見かける。
街を歩く人がいない。

ところが、福島市でも、郡山市でも、市民が普通に街を歩いている。
しかも、マスクなし、半そで、ふだんと変りない生活にみえる。
街はひっそりしていなかった。市民が行きかう。
放射線量、被曝量は南相馬市より高くても。
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南相馬市の放射線量

2011-07-10 00:15:16 | Weblog
福島県の南相馬市で災害ボランティア活動に参加した。
南相馬市を歩くと、ポケットの放射線量計がピッピッ鳴る。
毎時の被曝量が、0.50マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)を超えたからだ。

国際放射線防護委員会(ICRP)は、毎時の被曝限度を、
0.52マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)と定めている。
それで、放射線量計は、
0.50マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)を超えると、
警告するように設定しておいた。音が鳴り、LEDが点滅する。

南相馬市図書館。


音がピッピッと鳴ったのは、初めてだ!
松本でも、安曇野でも、美ヶ原高原でも、
ビーナスラインでも鳴らなかった。
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)が最高だった。

南相馬市へ行くには、
仙台から常磐線に乗って南下すると、亘理(わたり)が終点。
亘理から先は、津波の被害を受けた常磐線の代わりに、
代行バスに乗って、まず相馬駅へ行く。1時間。
相馬駅で、ちがう代行バス乗り換えて、
南相馬市の原ノ町駅の終点まで1時間。

終点、原ノ町駅でバスを降りて、南相馬市の、
災害ボランティア・センターのある福祉会館へ、
歩きだしたときだった、ピッピッ鳴りだしたのは。
0.50マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)を超えたのだ。
しかも、ポケットだから、地上80センチである。

あわてて、取り出して見た。
オタオタした。

そして、地面に置いた。
原ノ町駅前の図書館で。2011年6月29日。

ドギマギしながら数値を見ていた。
0.70マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)まで上がる。
こうゆうことがあるんだ! 初めて体験する数値。

原ノ町駅に着く前に予兆はあった。それは、代行バスの中。
亘理から相馬駅まで1時間のバスは、放射線量は問題がなかった。
乗客40名ほどで、男女半々。カバンを持った勤め人である。
亘理から相馬駅までの間は、ときおり、放射線量計を、
ポケットからソーッと出して、のぞき込むだけだったが、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)が最高だった。
乗客は相馬駅で、全員降りた。

相馬駅に、待ち構えている中型バスに乗り換える。
すでに男性2人が乗っていた。私が加わって3人になった。
乗り換えたのは私だけ。災害ボランティアらしきも私だけ。

これから先の住民は、避難してしまったのだろうか?
国道6号を北に上がる対向車は、トラックほか多いが、
南下する車は少ない。時間帯によるのか? わからない。
相馬駅から、乗客40名ほどは3名になり、
大型バスは中型バスになって、
終点の原ノ町駅まで、さらに1時間。

バスはスキスキだから、海側の窓際に座って、
背もたれのコップ入れに、放射線量測定器を置いた。
窓の外の景色と、目の前の放射線量測定器の値を見比べていた。

30分ほど走って鹿島駅を過ぎると、船がひっくり返っている。
津波で国道6号まで3.5kキロほど押し流されてきた。


南下するとともに、福島第一原発に近づくことになるが、最高は、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)。問題なし。

それが、高い値になったのは、終点の原ノ町駅に近づいてからだった。

0.36マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)が、バスの中で出た。あわてて撮った。
そして、ここはどこか? と、あたりを見回した。原町市立病院が見えた。

終点の原ノ町駅でバスを降りた。そして、
災害ボランティア・センターのある福祉会館へ歩きだした。
そのときである。放射線量測定器の警告がピッピッ鳴りだした。
0.50マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)を超えたのだ。

そして、原ノ町駅の前にある図書館で測ったのが、先の、
0.70マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)である。

図書館の前の駅前通りには、歩いている人がいない。

シャッターが下りている。
多くの人が南相馬市から、避難した。
店は営業していない。それか、できない。お客がいないから。

道路標識には、直進が飯館、右折が鹿島、とあって、
右折して、災害ボランティア・センターのある福祉会館へ行く。

福祉会館まで30分ほど歩くが、人とすれ違わない。
歩いている人は、私だけ。人影がない。

歩いていると、ポケットの中で、またピッピッ鳴る。
取り出して見ると、ここでも、
0.70マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。
本町通りだった。

歩いている人はいない。シャッターは下りている。
道路標識には、右は「南相馬市役所」とある。

車だけは通る。
人は車の中にいて、放射線を浴びないように自衛している。
パトロール・カーが走る。警察官は、2人ともマスクをしていた。
南相馬市の放射線量が高いことは、住人も警察官も、十分知っている。

南相馬市の災害ボランティア・センターの案内を読むと、
「各自で宿泊・食事・移動手段等を確保する」ほかに、
原発問題での知識・理解を得たうえで、現地入りしてください」
とあった。

これは、国際放射線防護委員会(ICRP)による、毎時の被曝限度
0.52マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)を、超えることを示している。

それに、1日の被曝量をみると、
災害ボランティア活動は、窓を閉め切った室内作業で、
1日の被曝量は、4.40マイクロ・シーベルト(μSv/d)だった。
松本の1日の被曝量は、3.15マイクロ・シーベルト(μSv/d)だから、
1日の被曝量は、40パーセント増えている。

なお、松本の被曝量は10日間の平均としたが、
10日間には、安曇野や美ヶ原高原、ビーナスラインの、
放射線量を測定するために調査した日を含んでいる。

国際放射線防護委員会(ICRP)は、1年間の被曝限度を、
1ミリ・シーベルト/年(mSv/y)としている。
南相馬市では、
4.40X365日⇒1.6ミリ・シーベルト/年(mSv/y)になって、
1年間の被曝限度、1ミリ・シーベルト/年(mSv/y)を超える。
災害ボランティア活動は、私のような白髪頭向きである。
若い人向きではない。女性も参加していたが、避けたほうがいい。

さて、1日の災害ボランティア活動は終わった。
歩いて30分ほどの原ノ町駅に向かうが、ピッピッ鳴る。
ポケットから放射線量計を取り出して測ってみた。
南相馬市役所前交差点から北へ200メートル。

1.21マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)を示した。これは、高い!

単純に年間の被曝量にすると、
1.21マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)X24時間X365日⇒
8.76ミリ・シーベルト/年(mSv/y)になる。

国際放射線防護委員会(ICRP)は、1年間の被曝限度を、
1ミリ・シーベルト/年(mSv/y)としているから、
8.76ミリ・シーベルト/年(mSv/y)は、被曝限度を超える。
まったく新たな世界、被曝を体験した。

仙台から来た災害ボランティアの人が、
「福島は、街に人がいない」
と言っていたが、私も感じていた。

福島第一原発から半径20キロ以内の、
「避難指示」の住人は避難をしている。
半径20キロ~30キロの「屋内退避指示」の住人は、
窓を閉め切って閉じこもるしか、ほかにない。

福島の人は経路汚染による内部被曝の自衛をしている。
避難・疎開する、外に出ない、汚染した土壌を除去する、
校庭の土を入れ替える、校庭に出るのは1日に1時間、
窓は閉め切る、クーラーでしのぐ、マスクをする、
長袖を着る、安全な水を飲み、西日本の食材を使用する……。

部分的に汚染されたホット・スポットに住んでいたことを、
知らないで、ふだん通りの生活をしていた人もいた。
その人たちは、経路汚染に対して自衛をしてこなかった。
内部被曝がわかって、これから自衛するとになるが、
手遅れではないだろうか?

福島の人は、これから健康管理をしていくことになる。
とくに、幼児、妊娠、授乳中の子どもがいる女性、若い人たち。
何世代にもわたって、内部被曝との格闘である。

こころはひとつ!
ふるさと再生!
子どもたちに未来を!

松本市の菅谷(すげのや)市長は、
福島の子を、「夏休みキャンプ」に招待する。
駒ヶ根市は、福島県二本松市の子を招いて、夏祭りや、
木曽駒ケ岳登山、川遊び、赤穂小学校との交流を楽しんでもらう。

夏の高校野球、長野大会が始まった。2011年7月9日。
開幕試合の始球式で、大谷祐貴君の雄姿。松本市野球場。


南相馬市から長野県の木祖村に避難した球児、大谷祐貴君は、
木曽青峰(きそせいほうこう)高校に転校した。しかし、
「家計に負担をかけられない」と、野球を中断している。

また、選手入場の先導は、
南相馬市から飯田市に避難している高校生姉妹、
滝本麗華さん、優さんが大会のプラカードを掲げて行進した。


滝本麗華さんと優さんのプラカードの右は大谷祐貴君で、
先頭で入場し、プラカードが続き、94校の選手が行進した。
涙がでてくる開会式だ。
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南相馬市の災害ボランティア

2011-07-03 00:00:03 | Weblog
南相馬市の災害ボランティア活動に参加する。
松本には、福島県から避難されている人がいる。
そして、つぎのように書いてきた。

「おひさまの安曇野と松本」、2011年6月5日では、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/8a284b511c46bd3e6139846957f7ec83
「松本には、被災者110人が避難されている。
インターネットや報道で、松本の受け入れ施設や、
菅谷(すげのや)市長の内部被曝の発言を知って、
避難された福島県の人がいる」
「福島では、子どもを外で遊ばせることができなかったが、
安曇野では、「おひさま」とたっぷり遊ばせることができる」

「おひさまの安曇野と松本の放射線量」、2011年6月16日では、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/e2b21b62ac0b5fb1fadb05517cfbfcbf
「菅谷(すげのや)松本市長が、福島の子に、
夏休みを松本のペンションで過ごし、リフレッシュしてほしい。
安全な空気を吸い、水や牛乳を飲み、野菜や肉を食べてもらい、
夏休みが終わっても、松本に長期に滞在してもらいたい」

その福島県の南相馬市の、災害ボランティア活動に参加する。
南相馬市災害ボランティア・センターの情報を見て、
ボランティア活動保険に入っておいた。そして、
ヘルメット、ゴーグル、マスク、腕カバー、
牛皮の作業手袋、スパッツを持った。

ガレキの撤去作業でも、なんでもやるつもりだ。
白髪頭だが、お役にたてるものは、体力と時間だ。
念のため、LEDライトも持った。余震で停電するかもしれない。

南相馬市は、福島第一原発の北で、半径20キロの避難指示の範囲を含んでいる。

NHKから。

仙台から常磐線で亘理(わたり)まで南下できた。
亘理からは、代行バスになって、南相馬市の原ノ町駅へ。

代行バスは、土地の人だけだった。
ボランティア活動をする人は乗っていない。
ボランティア活動をする人は、車かバイクで来ていた。
仙台を朝6時半の電車に乗って、終点の原ノ町駅には9寺25分に着いた。
それから、福祉会館の災害ボランティア・センターへは、歩いて30分ほど。

松本から南相馬市には、長野新幹線、東北新幹線、常磐線、代行バスを乗り継いだ。

すると、むき出しのヘルメットに振り返る人がいた。

しかし、この格好に、いいこともあった。
仙台の案内所では、臨時ダイヤをていねいに教えてくれた。
南相馬市の災害ボランティア・センターでは、ウエルカムだった。

ボランティア活動は、軽作業だった。
自衛隊が探し出した遺留品の整理。
泥まみれのアルバム、位牌、ランドセル……。

「泥には放射性物質が含まれている」
と、いう注意を受けて、マスクをし、
用意された長靴をはき、ゴム手袋をして、
露出しているところをおおって作業をする。
乾燥、泥の除去、写真の泥落としは、熊本、
大阪、仙台、富山、松本からの10名のボランティア。
ヘルメットはいらなかった。

これらの遺留品は、自衛隊が行方不明者を捜索している時に、
いっしょに見つけたものと聞かされた。

写真は結婚式、こども、入学、卒業、旅行……。
これまで築いてきた、歴史、人生、文化が、
一瞬でなくなってしまった。
そして写真を見て、思い出を語り合う人は、もういない。

ボランティア活動のリーダーは、南相馬市の人。
「福島の子」、2011年4月10日では、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/0380dadfa3121bc110298d3a39448351
「住人は、取るものも取りあえずに逃げた。
目に見えない「放射能」の恐怖におびえ、
原発の「ドスン」という爆発に追い立てられ、
大混乱の避難だった」
と、書いたが、その通りのようだった。
避難先は、つてを頼って、北は北海道から、南は沖縄まで、という。

写真の持ち主はもういないが、せめて、
親類縁者、友人が見つけ出してくれたら、と思う。
ボランティアの人たちの、汗や被曝がむくわれてほしい。

せっかく来た南相馬市だ。あしたは、
ヘルメットをかぶって、ガレキの撤去をしよう。
ところが、急きょ、松本に帰ることになった。

「松本に、震度5強の地震が起きた」というニュースが入った。
ゴーという地鳴りに、ドカンという直下型だ。
棚の物は落ちて散乱していた。余震は続く。
「音がすごかった」
「地面が揺れて、転んだ」
「停めておいた車が、前後にユッサユッサと動いた」
と、近所の人たちは言う。

まだまだ続く南相馬市の災害ボランティア活動。

がんばろう! みなみそうま
コメント
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