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季節の変化

活動の状況

大日向村は満蒙開拓団のモデルケース

2012-07-29 00:07:29 | Weblog
大日向村」は「分村移民」を初めて進めた村である。
「大日向村」は「満蒙開拓団」のモデルケースとなった。

「満蒙開拓団」の出発風景。大日向村。

長野県立歴史館の企画展、
「長野県の満洲移民」-三つの大日向をたどる-
のリーフレットから。

日の丸、鼓笛隊が先導し、移民団が続く。
それに、見送る村人も。

長野県立歴史館の企画展「長野県の満洲移民」で、
展示されていたこの写真を見に来た人が、
「ここに写っているのは、親父だ。親父が17歳のときだった」
と言っているのが聞こえてきた。
生きて帰国できたから、見に来た人が生まれたのだろう。

そして、声をかけた。
「この風景は残っていますか?」
「写真と変っているけれど、ありますよ。
橋は建て替えられているし、
火の見櫓の形も違っているけれども」

それを聞いて、大日向村へ行って見たくなった。
目指すは橋と火の見櫓だ。


「満蒙開拓団」の出発風景の写真を、住民に見てもらって聞いた。
「写真の場所はここですか?」
「この場所です。先頭の旗は、なんの旗かわからないが」
と、ご夫婦はこたえてくれた。

確かに橋があり、火の見櫓がある。川は抜井川。
火の見櫓の左の建物は「佐久穂町大日向四区公民館」。

「この場所」はどこか?
長野県南佐久郡佐久穂町大日向本郷。

印。
国道299号を西から入った。東は「十石峠」になる。
前田橋の直前を左折して旧道に入る。

大日向。国道299号から。

ここが故郷「第一の大日向村」である。
第二の大日向村」は満州である。

入植地一覧図」。

「長野県の満洲移民」のリーフレットから作成。
は「大日向村」の入植地「大日向村」。「第二の大日向村」である。
は「泰阜村」の入植地「泰阜村」。
は「上久堅村」の入植地「上久堅村」。
は「阿智村」の入植地「阿智郡」。
は「富士見村」の入植地「富士見村」。
の「豊丘村」は、東と西の2か所にあって、
東は「神稲(くましろ)村」」の入植地「南五道崗」(みなみごどうこう)、
西は「河野(かわの)村」の入植地「河野村」。
は集団自決をした主な12か所。

市町村の渡満者比率」。

「大日向村」は2,133人のうち、「分村移民」で、
664人が満州の「第二の大日向村」に渡った。

「大日向村」の渡満者比率は31.1%と高い。
「分村移民」のモデルケースとなった村である。

「大日方村」の昭和11年の負債総額は36万2千円にのぼった。
これは、村の予算の12年分になる。村の財政再建のために、
「分村移民」を決断した。
満州に「第二の大日方村」を造ろう、としたものである。

「分村移民」には、国から「特別助成金」が出る。
昭和12年、13年の2年間で得た特別助成金(4万7千円)は、
昭和12年の村の年間予算(3万3千円)を大きく超えた。
(「長野県の満洲移民」、長野県立歴史館発行から)

市町村の帰国者比率」。


「満蒙開拓団」は、敗戦で「地獄の逃避行」になる。
「第二の大日向村」は664人のうち、死亡者ほかは337人である。
死亡者332人、
残留者3人、
不明者2人、
総数337人。

特に、女性と子どもが犠牲になった。
襲撃、飢え、極寒、発疹チフスで亡くなり、
それに残留婦人、残留孤児を生んだ。
男性は緊急補充兵として「根こそぎ動員」されて、
戦死したり、シベリアに抑留されて、飢え、極寒、
発疹チフス、重労働で多くの人が命を落した。

半数の人が生きて帰ったが、
故郷の「第一の大日向村」には、
土地も家もない。処分して満州に渡ったから。

それで、軽井沢町の浅間山の麓、
払い下げの国有地で、165人が開拓をはじめた(1947年)。
「ここが最後の地。ここで生きるしかない」
第三の大日向」の開拓である。

軽井沢 観光マップ」。中軽井沢駅の観光案内所で。

中軽井沢駅の左(西)に、大日向がある。

「満州では開拓をしていない。ここに来て初めて開拓をした」
と開拓民が言うのは、満州では、ノコギリも斧も要らなかった。
中国人や朝鮮人がすでに開墾した土地を取りあげて入植したから。
「第三の大日向」が本格的な開拓になった。

カラマツを切り倒し、畑を作った。
火山灰と溶岩、それに寒さで稲作はできない。
ソバやジャガイモ、小麦を栽培し、やがて酪農、
キャベツ、レタスの高原野菜の栽培へと変わってきた。

砂利道を浅間山に向かって(北)に進むとキャベツ畑になった。

このキャベツ畑が「第三の大日向」であることは、
となりにある昭和天皇の「御巡幸記念碑」でわかった。

「浅間おろし つよき麓に かえりきて
いそしむ田人 とうとくもあるか」

そして、「御巡幸記念碑」から南へ1kmほど、
開拓之礎」が「大日向公民館」の横にある。
これも見たかった「満蒙開拓団」の「痕跡」である。

開拓遺歴
南佐久郡大日向村は経済更生計画を樹立し
昭和12年 村長浅川武麿 組合長堀川清躬をして
分村計画をたて満州国吉林省舒蘭県四家房の地へ
団長堀川清躬先達となり 日本最初の分村をなす
入植者 216戸 674名 水田1千町歩
畑1千500町歩 山林1千500町歩を保有す
同16年 開拓は発展なすも 大東亜戦争は愈々烈列となり
同20年8月15日終戦の宣勅は下る
世相は一変し敗戦の民となる
匪襲により活路なく 難民極寒悪病と闘い
新京にて団長堀川清躬 組合長小須田兵庫
校長中沢勇三以下 374名の犠牲者を出す
堀川源雄指揮者となり難民生活の指導なす
同21年9月ロコ島より母村に帰る
昭和22年2月11日 堀川源雄団長となり
現在地に65戸 168名の入植をなす
国有地の開発は進み 同22年10月7日
天皇陛下の御巡幸を賜り
 浅間おろし つよき麓に かえりきて
 いそしむ田人 とうとくもあるか
の御製を賜る
入植18年の歳月は流れ
同38年 横井今朝一組合長となり開拓は完成す
同39年9月1日 皇太子殿下御一家のご来啓を賜る
団員総意により 入植以来15名の霊を合せて
茲に謹んで慰霊碑の建立をなす
  昭和39年11月3日

佐久穂町の「第一の大日向村」から、
軽井沢町の「第三の大日向」までは、
北へ直線で24 kmである。
「満蒙開拓団」の出発風景の場所から、
「大日向公民館」の「開拓之礎」までを測って。


渡満者比率が31.1%と高い、そして、
「分村移民」のモデルケースとなった、
「大日向村」を実際に訪れることができた。

それにしても、国家は壮大な実験をするものだ。
「満蒙開拓団」によって、大もうけする人がいる。
国家は大もうけする人のためにあり、
大もうけする人は国家を援助する例をみる思いだ。

「満蒙開拓団の予算など日本海に捨てるに等しい」
と、「満蒙開拓団」に反対した高橋是清蔵相は、
軍部のクーデターによって暗殺された。
1936年の2.26事件である。

恐怖で、軍部の思い通りとなった。
1936年、廣田内閣は、国策として満州に、
「20年で100万戸、500万人の移民計画」を決める。

「第一の大日向村」~「第三の大日向」で、
「満蒙開拓団」を決断するいきさつ、募集、渡満、
地獄の逃避行、そして、引き揚げてからの再開拓と、
家族の半数を失い、全財産を失いながらも、
生き延びる開拓民のたくましさを見た。
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満蒙開拓団の痕跡

2012-07-22 00:07:22 | Weblog
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」と、
満州からの「引揚者」や「満蒙開拓団」に聞いてきた。
極限状態を体験した人が感じる「幸せ」は、
抽象や評論ではなく、具体的であり、
本物であると思うから。
そして、「広東軍」、「引揚者」、
「満蒙開拓団」の男性と女性、「中国残留者2世」に、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」と、
聞くことができた。

あわせて、「満蒙開拓団」とはなにか? の調査にもなった。
「満蒙開拓団」を送り出した「村」を見に行く、
痕跡」がないか? 探す、「村役場」へ行って聞く、
「ポスター」を見る、「慰霊碑」を探す、
「関係者」に聞く、「講演」を聴く、「村役場」を訪れる、
そして、長野県立歴史館の企画展「長野県の満洲移民」を見る、
などをした。

「満蒙開拓団」を送り出した「村」を見ると、
この村は、満州のどこに入植したのか?
と、興味が湧いてきた。それで、
入植地一覧図」を作って見ようと思った。

「満蒙開拓団」を送り出した村の「痕跡」と、
「入植地一覧図」をお届けしたい。

「満蒙開拓団」を送り出した「村」の位置を、
満洲移民の市町村別比率」で示す。

「長野県の満洲移民」。長野県立歴史館発行から作成。

主な村について、「市町村の渡満者比率」を示す。


主な村について、「市町村の帰国者比率」を示す。


上記の表、「市町村の渡満者比率」と、
「市町村の帰国者比率」で示した村のうち、5つの村を訪れた。
「泰阜(やすおか)村」、「上久堅(かみひさかた)村」、
「清内路(せいないじ)村」のある「阿智(あち)村」、
「富士見町」、「豊丘(とよおか)村」である。
「大日向(おおひなた)村」は、
長野県立歴史館の企画展「長野県の満洲移民」で、
見ることができた。
これらの「村」の「満蒙開拓団」を送り出した「痕跡」はつぎである。

1)「大日向村」。
「大日向村」の渡満者比率は31.1%と高い。
分村移民」のモデルケースとなった村である。

「満蒙開拓団」の出発風景。

「長野県の満洲移民」。長野県立歴史館発行から。
日の丸、鼓笛隊が先導し、移民団が続く。
それに、見送る村人も。

長野県立歴史館の企画展「長野県の満洲移民」で、
展示されていたこの写真を見に来た人が、
「ここに写っているのは、親父だ。親父が17歳のときだった」
と言っているのが印象的だった。
生きて帰国できたから、見に来た人が生まれたのだろう。

「大日方村」の昭和11年の負債総額は36万2千円にのぼった。
これは、村の予算の12年分になる。村の財政再建のために、
「分村移民」を決断した。
満州に第二の「大日方村」を造ろう、とするものである。

「分村移民」には、国から「特別助成金」が出る。
昭和12年、13年の2年間で得た特別助成金(4万7千円)は、
昭和12年の村の年間予算(3万3千円)を大きく超えた。
(「長野県の満洲移民」、長野県立歴史館発行から)


2)「泰阜村」。
渡満者総数が826人と多い。
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
と聞いたところ、
「『幸せ』だ、と感じたことは、一度もない」
「これまで生きていて、『幸せ』だ、と思ったことはない」
と答えられた女性は、泰阜村の満蒙開拓団であった。
大きな痕跡が心に残った。

その泰阜村の「慰霊碑」。
満洲大八浪(ターバラン)開拓団。泰阜村長 松下利雄 書。

今を去る20有余年前 国策に従い 数多くの人々勇躍満州に渡り
三江省大八浪に泰阜分村を建設したり
しかるに 第二次大戦は日本の無条件降伏といふ悲運に終結し
理想郷建設も中道にして挫折し 開拓民は異郷の昿野をさすらい
内地帰還の望みも空しく 大陸に恨みをのんで不帰の客となる
誠に痛恨の極みなる されど諸氏の雄魂は燦として
青史に消ゆるなし 今ここに碑を建て 永き世の平和を祈り
誅詞を勒して拓魂を万世に伝う
大八浪に雄図は空し拓友の 御霊よ還れ ふるさとの丘
忠平(木下)利太郎撰 並 書
昭和52年3月  泰阜村民 並 生存者一同


3)「上久堅村」。
現在は飯田市に合併。
「上久堅村」の死亡者ほかは412人である。
「泰阜村」の499人についで多い。
「上久堅村」の渡満者比率は19.4%である。

「満州開拓碑」。長野県知事 西沢権一郎 書。

上久堅開拓団略史
上久堅村は昭和13年7月 村内と郷土から300戸を目標に
三江省通河県新立屯へ分村移民の送出を決定した
団員は第二の祖国建設中に大戦勃発
青壮年男子は大方召集され 現地には老幼婦女子のみ残された
昭和20年 団は原住民の暴徒に襲われ
更に敗戦により数百の尊い命は 病と飢に苦しみつつ異郷に散った
  拓友の霊に捧ぐ
北満の大地に眠る皆さん 敗戦によって開拓の夢は破れ
幾多の苦難の中に斃れた皆さんに 私共は謹んで哀悼の意を表し
遺された開拓精神を永遠に記念すべく此処に碑を建てました
今や日中友好 漸く緒につき希望の光が輝いてきました
私共は皆さんの遺志を継承して
此の大業の実現に向かって邁進する覚悟であります
どうぞ皆さん 安らかにお眠りください
昭和48年9月23日
上久堅村開拓団拓友一同


4)「清内路村」。
現在「阿智村」になっている。
「清内路村」の渡満者比率は19.0%である。

「阿智村」には「日中友好不再戦の碑」がある。長岳寺。

「日本と中国は 平和と友好で永劫に 手を握りましょう 1966年初夏」

裏にはつぎのように書かれている。
「旧西部8ヶ村から終戦前に、
王道楽土建設の名のもとに、
誤った軍国主義政治のため、
かりたてられて、
中国に渡ったこの地方の開拓民は、
およそ900名に及び、
内600名の犠牲者を出した。
この不幸な体験から
『戦争はまっぴらだ、
2度とあんな目にあいたくない
中国と仲よくしよう』
と私達は心から誓って、
関係者1万余名の浄財カンパにより、
この碑を建立した」

阿智村が所蔵する「阿智村ポスター」。
「往け若人! 北満の沃野へ!!」。

「満蒙開拓青少年義勇軍募集」。

満蒙開拓青少年義勇軍」の郡別の「番付表」。

東の横綱、下伊那郡は「清内路村」、「阿智村」があるところ。
「阿智村」には、「満蒙開拓平和記念館」が建設される(2013年5月)。


5)「富士見村」。
「富士見村」の渡満者総数984人は、村単位で最大である。
「富士見村」の渡満者比率は20.9%である。

「拓魂」。大僧正 半田学海 敬書。富士見町。

昭和10年代 満州開拓は国策として推進され
その分村分郷計画は農村経済更生事業の最大の支柱であった
これによって我等が渡満入植し建設した開拓団は次の通りであった
東安省密山県黒台信濃村へ         3戸    19人
東安省密山県南五道崗信濃村へ      17戸    88人
濱江省延壽県中和鎮信濃村へ       9戸     37人
三江省通河県張家屯信濃村へ       1戸     8人
濱江省木蘭県王家屯富士見分村へ   196戸    933人
仝所 富士見在満報国農場へ              35人
北安省北安県孫船八ヶ岳郷へ       10戸    38人
北安省徳都県旭日落合分村へ      81戸    183人
仝所 勤労奉仕隊                     62人
青少年義勇隊                       66人
その他                     2戸     8人
合せて 319戸 1477人であった
昿野に鍬を振るった苦闘の幾歳 開拓の成果は逐次挙り
理想郷建設の夢成らんとする時 昭和20年8月15日
太平洋戦争の終結は この一切を放棄した我等は老若男女を率い
一朝にして難民と化し 大陸を放浪すること1年有余
戦死殉難せる者505人を出し 故国に還り得た者972人であった
爾来20余年 我等同志相計り ここに碑を建て
往時の事蹟を録し 戦死殉難者を弔い その霊を慰めると共に
我等と中国の人々との友好を願うものである
昭和43年12月
 富士見町元満州開拓団関係者一同建立


6)「豊丘村」。
「豊丘村」は「河野(かわの)村」と「神稲(くましろ)村」が合併。
「河野村」の「分村移民」は、集団自決した。
男性は緊急補充兵として「根こそぎ動員」されたから、
犠牲者は残された女性と子どもで、つぎつぎに首を絞めた。
河野村の村長は、満蒙開拓団を送り出した責任をとって自殺した。

「海外犠牲者 慰霊碑」。長野県知事 西沢権一郎 書。豊丘村。

昭和の中世 時の国策の悠久大義なるを信じ
それに順応し祖国を離れて海外の新天地に活躍中
太平洋戦争の悲惨なる終結に伴ない
雄図空しく挫折し凡そ文明社会の想像し得ざる悲惨な現実に直面し
幾多の同志は想を故郷に馳せつつ異郷に散華し
生あるものは辛うじて身をもって故山に帰るの止むなきに至れり
今茲に平和なる母村の清丘に碑を建設して
異郷に眠る同志の声なく帰郷を希い 以て慰めんと欲す
想を馳すれば 吾等の雄図は事志と違い
悲惨なる結末を告げたりとはいえ 決して無為にあらず
必ずや後世の歴史は平和に本建設の礎たりしことを証明するであろう
この丘に立ちて 眼科に天龍の清流と栄ゆく母村の姿を見
仰いで青天に一片の白雲 悠々たる故山の姿を眺むる時
遠き思新にして感無量なるを覚ゆ
御霊よ 安らかに 永眠されんことを
1974年8月15日


「満蒙開拓団」の痕跡である「慰霊碑」は、
つぎのブログに記載されているので参考にした。
「満蒙開拓団 殉難者拓魂」
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/0815-manmou-a056.htm

実際に「慰霊碑」を見るには、村役場へ行って、場所を教えてもらった。
泰阜村役場、上久堅支所、阿智村役場、富士見町役場、
豊丘村役場、高森町役場など。
特に阿智村役場では、「阿智村ポスター」と、
建設中の「満蒙開拓平和記念館」について、
時間を割いて説明してくれた。

村役場へ行くと、受付のお嬢さんは、
「慰霊碑」について知っていそうな職員に聞いた。
PCで調べたり、その場所に電話をして、
確認してくれた役場もあった。

住民票の窓口で、すぐにわかる村役場もあった。
どこでも、村の地図を取り出して、
「慰霊碑」への行き方を教えてくれた。
どこも、親切でした。ありがとうございました。

「慰霊碑」を訪ねて来る人はいますか? と聞くと、
「満蒙開拓に関係する方が、お見えになります」
とのことでした。

そして、もっとも足を運んだのは、「長野県立歴史館」である。

企画展「長野県の満洲移民」、
2回の映画「嗚呼満蒙開拓団」と「蒼い記憶」、
3回の「講演会」・・・と、6回訪れた。

「満蒙開拓団」を送り込んだ「村」を訪ねて、
「満蒙開拓団」の痕跡を探しながら、村を見た。
山深い場所だなァとか、
耕地面積は小さくて、田んぼは階段状の棚田とか、

「よこね田んぼ」。飯田市千代。

畑は段々畑でアスパラガスを栽培しているとか、
村人に道を聞くと、親切で、口調が柔らかいとか、
村の様子がわかってきた。そうして、
この村は、満州のどこに「分村移民」をしたのか?
興味が湧いてきた。それで作成したのが、
入植地一覧図」である。

「長野県の満洲移民」のリーフレットから、
日本での「村」の名前と、
満州にある「村」や「郡」の名前が、
一致したところを入植地とした。

は「大日向村」の入植地「大日向村」。
は「泰阜村」の入植地「泰阜村」。
は「上久堅村」の入植地「上久堅村」。
は「阿智村」の入植地「阿智郡」。
は「富士見村」の入植地「富士見村」。
の「豊丘村」は、東と西の2か所にあって、
東は「神稲(くましろ)村」」の入植地「南五道崗」(みなみごどうこう)、
西は「河野(かわの)村」の入植地「河野村」。
は集団自決をした主な12か所。

日本の「村」が、満州に「分村」を作る「分村移民」が、
いかに多かったかがわかる。
日本に帰ってくることができた人は半数以下で、
特に、「満蒙開拓団」の女性と子どもが犠牲になった。
襲撃、飢え、極寒、発疹チフス、集団自決で亡くなり、
それに残留婦人、残留孤児を生んだ。
男性は緊急補充兵として「根こそぎ動員」されて、
戦死したり、シベリアに抑留されて、飢え、極寒、
発疹チフス、重労働で多くの人が命を落した。

「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」と、
「関東軍」、「引揚者」、「満蒙開拓団」の男性と女性、
「中国残留者2世」に聞くことができた。
「関東軍」は、「生きていることに、感謝している」。
「仕事関係」の「引揚者」は、
「家族がそろって生活できることが『幸せ』」。
「満蒙開拓団」の男性は、
「日常の生活が、当たり前にできること」。
「満蒙開拓団」の女性は、
「『幸せ』だ、と感じたことは、一度もない」。
「中国残留者2世」の女性は、
「日本と中国で活躍できることです」。

そして、「満蒙開拓団」を送り出した「村」を訪れて、
「痕跡」を探していると、この村は満州のどこに入植したのか? と、
「入植地一覧図」を作成しようと駆り立てられた。
「満蒙開拓団」とはなにか? の結果となった。
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中国残留者2世の幸せは?

2012-07-15 00:00:15 | Weblog
満蒙開拓団」には、
日本に引き揚げることができなくて、
そのまま中国へ残った人、「残留者」がいる。
その中国残留者の「2世」の講演を聞く機会があった。

長野県立歴史館の企画展「長野県の満洲移民」の一環で演題はつぎ。
「二つの祖国を生きて
-中国帰国者二世の経験から-」

受講券。2012年7月7日。

講演が終わって、講師の女性に近づいた。そして、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
と、聞くことができた。
「中国残留者2世」の幸せは、
日本中国活躍できることです」。
うれしくなるではないか。

日本の文化を知り、中国の文化を知っている。
そして、外から日本を見ることができる。
それに、内からも日本を見ることができる。
これは貴重な特性を身につけている。
「中国残留者2世」のアイデンティティは、
両国の文化を知る日本人であり、中国人である。

ところで、「中国残留者2世」とは?
「中国残留者2世」の女性の2世代前に遡(さかのぼ)る。
長野県の「豊丘村」から、夫婦2人が満州に渡った(1938年)。
「満蒙開拓団」である。

豊丘村」はどこにあるか?
満洲移民の市町村別比率」。

長野県の満洲移民」。長野県立歴史館発行から作成。

「豊丘村」は長野県南部にある、赤い地域。
赤い地域は、渡満者比率が6.0%以上である。

「豊丘村」から、どのくらいの人が満州に渡ったか?
市町村の渡満者比率」。


「豊丘村」は、人口9,244の内、614人が満州に渡った。
渡満者比率は6.4%である。

農業開拓移民が539人、
義勇軍が63人、
勤労奉仕隊が12人。

豊丘村から「満蒙開拓団」として満州に渡った夫婦に、
男の子が生まれる。入植地は南五道崗(みなみごどうこう)。
入植地一覧図」。

「長野県の満洲移民」のリーフレットから作成。

は豊丘村が入植した南五道崗。
 東のソ連との国境に近い。あとで、ソ連に侵攻される。
は集団自決をした主な場所。12か所ある。
「地獄の逃避行」をした「満蒙開拓団」は、
南西にある胡盧(ころ)島から、日本に引き揚げることになる。

満州で生まれた男の子が9か月のとき、
父は病死する(24歳)、過酷な自然と労働で。
だから、男の子は父の記憶がない。
男の子は豊丘村も知らない。
長野県も日本も知らない。

この男の子が、あとで、
「中国残留者2世」の女性の「父」となる人である。
「母」は中国人である。

日本人男性と中国人女性の結婚のいきさつは、つぎである。
この男の子、つまり「父」となる人が、
3歳のときに敗戦となる(1945年)。

市町村の帰国者比率」。


豊丘村から614人が満州に渡り、
生きて帰ってきた人は234人である。
帰国者比率は38.1%。半数以下である。

「満蒙開拓団」は、中国人や朝鮮人の土地と家を取りあげて、
入稙したから、「侵略者」となって、恨みをかった。
敗戦とともに、「満蒙開拓団」は襲撃され、殺戮された。
青酸カリで集団自決する「満蒙開拓団」もあった。

集団自決の一つに河野村(かわの)村(現:豊丘村)もあった。
河野村の村長は、分村移民で送り出した「満蒙開拓団」が、
つぎつぎに首を絞める集団自決で、ほぼ全滅した責任から自殺した。

豊丘村(河野村と神稲(くましろ)村が合併)の死亡者ほかを見ると、
死亡者は355人、
残留者は21人、
不明者は4人で、
合せて380人になる。

残留者は21人、その内の1人が
女性の「父」となる男の子である。
男の子は中国人に救われる。当然、中国語で育つ。

しかし、中国人は、どうして「侵略者」の日本人を救い、養い、
育てたのだろうか? この疑問が残る。
「中国人は心が広い。日本人にはないものである」
「日本人には、なかなか理解できないことである」
と、一般的なことが言われているが、
具体的なものはない。
あとで、聞いてみることになる。

中国人に救われた男の子は成人し、中国人女性と結婚する。
そして、3人の男の子と1人の女の子(1970年)が生まれる。
この女の子が、「中国残留者2世」でる。

日本人の父、中国人の母、それに4人の子どもの6人は、
日本に帰ることにした(1978年)。
女の子が8歳のときである。
どこに帰ったか? 長野県の豊丘村である。

帰国の動機は「文化大革命」だった。
多くの人民を巻き込んだ粛清と虐殺があった。
「侵略国日本」に近い人たちがスパイ容疑で迫害され、
「日本人」の父も、人民公社の会計係の職を追われた。

日本への帰国には、中国人の「母」は猛反対した。
母の親戚も猛反対だった。

「母」は日本をまったく知らない。
このまま中国にいれば、職業も家もある。
「豊丘村」に行けば、職業も家もない。
家族は誰も日本語を話せない。
「ゼロ」からのスタートではない。
「マイナス」からのスタートである。

中国の家と土地は売り払って日本に来たが、
蓄えは、日本の半年の生活で底をついた。
物価水準の違いが大き過ぎた。

家族6人は日本語、日本文化、習慣の知識を、
まったく持たずに日本の社会に飛び込んだ。
家族は日本語を一生懸命に学んだ。必死に。
広告の裏に、日本語を書いて覚えた。
女性の日本語は上達してきた。

しかし、大きく傷つくことがあった。
「あっ、中国人だ」と友達から言われた。
うまくなったつもりの日本語でも、発音にちがいがある。

「あっ、中国人だ」は、当初は、
「中国人」と「日本人」の違いを言っていると思っていた。
しかし、日本での生活が長くなると、
中国からの帰国者の多くが、地位的にも経済的にも、
社会の底辺に位置づけられている現実を知るようになった。
開発途上国の人は、文化的に低く、劣っているとみられた。
「中国人」という言葉に違和感を覚え、避けるようになった。

そして、日本で生きていくには、日本人になりきらないと、
社会の底辺で生活することになる。
底辺の生活はしたくない。
高校、大学では、友人にも、
「中国残留者2世」であることを明かさなかった。
「日本人」になりきろうとした。
「中国人」を消し去った。

しかし、偽(いつわ)ることに苦しみ、
自分は何者?」と、葛藤した。
「自分は何者?」の「封印」を解くことが起きた。

英文学を学び、英語教師として長野県にもどった。
赴任した中学校に「中国残留者3世」が、
入学してくることになった。
「満蒙開拓団」を日本一多く送り出した長野県には、
「中国残留者」がもどることが多い。

学習交流会の場で、ある教師が発言した。
「中国人の帰国者は、中国から来たことを知られまい
苦しんでいます。どうしたら救えるのでしょうか?」

「中国残留者2世」の女性は、
自分のことを言われているようで、
心臓がバクバクし、冷や汗が流れた。
そして、手を挙げて、
「私も帰国者です!」
と発言していた。

「中国残留者2世」の女性は続けた。
「先生方が帰国者の気持ちを理解しようと、
してくださっていることに、とても感激しました」
身体が震え、全身の血が逆流したかのように鳥肌が立った、
「封印」が解かれた。長い間、かぶっていた「殻」が解き放たれた。

「中国残留者2世」の女性は、
「中国残留者3世」に、中国語で話しかけて、
日本復帰への力になっている。

「中国残留者2世」の女性は、
中国の北京師範大学の博士課程に留学した。
比較教育学を学ぶとともに、聞く、話すは、
問題がなかった中国語に、書きを修得した。
今は、小学校の教師のかたわら、中国に行って、
「中国残留者」の相談にも乗っている。

「中国残留者2世」の女性につぎの3つを聞いた。
1)「中国人は、どうして『侵略者』の日本人を救い、養い、
育てたのですか?」
2)「中国人のお母さんは、日本に来て、良かったと思っていますか?」
3)「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」

1)「中国人は、どうして『侵略者』の日本人を救い、
養い、育てたのですか?」
お金持ちの中国人が救ってくれたのではない。
貧乏な農家が救ってくれたのだ。
家にはプライベートな部屋はなく、雑魚寝である。
粗末な食事、こうりゃん、じゃがいも、とうもろこし。

しかし、中国人は「侵略者」の日本人を育てた。
「もし、中国人が助けてくれなかったら、私は生きていなかった」
と、「中国残留者」が言われている。
映像情報「満蒙開拓団の真実」。

「中国残留者2世」の女性は、つぎのように答えられた。
「中国人は子どもを大事にします」
「子どもには罪はないと思っています」
「為政者を当てにせず、自分の考えで行動しています」

2)「中国人のお母さんは、日本に来て、良かったと思っていますか?」
中国人のお母さんは、日本に来ることに猛反対だった。
親戚からも猛反対された。
親類縁者がいない日本では、苦労されているはずだ。
日本に来て良かったか?  幸せであるか? 気にかかる。

「中国残留者2世」の女性は、つぎのように答えられた。
「日本に帰国したときに、
父はすぐに日本の国籍を取りましたが、母は取りませんでした」
「生活できなければ、帰りたいと思っていたかも知れません」
「満州では平原でしたが、豊丘村は山の中です」
「山の圧迫感がたまらなかったようです」
「あの山を越えれば中国だ、と言っていました。また山なのに」
「日本の国籍を取ったのは、帰国してから10年後でした」
「子どもたちが、日本に順応していることを喜んでいます」

3)「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
「中国残留者2世」の女性の幸せは、
日本中国活躍できることです」。

よかったな!
うれしいではないか!
「自分は何者?」と、葛藤があった。苦しかったと思う。
今は水を得た魚のように生き生きしている。

「中国残留者2世」の女性のアイデンティティは、
両国の文化を知る日本人であり、中国人である。
日中の「架け橋」となって、活躍されている。

つぎの100年は中国の時代である。
世界は、中国の動向に注目している。
「中国残留者2世」の女性のアイデンティティである、
両国の文化を知る「日本人」であり、「中国人」が生きてくる。
文化的にも、経済的にも日中の「架け橋」になる。

日本の文化を知り、中国の文化を知っている。
そして、外から日本を見ることができるし、
内からも日本を見ることができる。
これは貴重な人材である。

「中国残留者2世」の女性は、
「中国残留者3世」を教育することができるから、
日中の「架け橋」として、貴重な人材がさらに生まれてくる。
「中国残留者3世」は、日本語ができればチャンスは広がる。
「中国残留者2世」の女性の日本語は、すばらしかった。

「満蒙開拓団」、「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出に、
長野県、そして信濃教育界は積極的に進めた。
そして、全国一の成果を出した。

しかし、生きて帰ってきた「満蒙開拓青少年義勇軍」は、
「先生は夢のある満州だと言って、だまして送り込んだ」
「先生自身は満州に行かなかった」
と、非難する。

当然である。
実際の満州は希望の大地ではなかった。そして、
ソ連に襲撃され、シベリアに抑留された。
遺族は、もっと納得できないだろう。

村長によっては、「満蒙開拓団」を1人も送り込まなかった村がある。
満州を下見して、「これは大変なところだ」、
それに「日本の土地ではない」。

「満蒙開拓青少年義勇隊」の写真がある。
「シベリア俘虜記」。穂苅甲子男 著、光人NF文庫から。

希望はない、無念さがただよっている。
それに、汚れた服だ! 何日も洗ってない。

「中国人の帰国者は、中国から来たことを知られまい
と苦しんでいます。どうしたら救えるのでしょうか?」
と、学校が「中国人の帰国者」の苦しみに気がついている。
そして、手を打っている。
「中国人の帰国者」への「いじめ」をはらんでいる。
学校は、「いじめ」の防止に取り組んでいる。


「満蒙開拓団」は、
「残留者」が中国で生きている。
その「中国残留者」に家族ができる。そして、
「中国残留者2世」、「中国残留者3世」・・・と、
日系中国人は広がっていく。
「『満蒙開拓団』には、こんなに広がりがあるのか?」
「引揚者と死者と残留者、行方不明者だけではなかった」
「満蒙開拓団」の傷跡広がりを、長野県立歴史館は教えてくれた。
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世界で一番悲惨な言葉

2012-07-08 00:07:08 | Weblog
世界で一番悲惨言葉は、
チェコ人と「満蒙開拓団」の女性である。

チェコ人の言葉は、
「世界のだれも、助けてくれなかった!」
「どうしようもない、つらい時期だった」
と、やりきれなさ、絶望感がある。

「満蒙開拓団」の女性の言葉は、
「『幸せ』だ、と感じたことは、一度もない
「これまで生きていて、『幸せ』だと思ったことはない」
と、衝撃である。

チェコ人は、世界から見捨てられ、
「満蒙開拓団」は、国家から見捨てられた。

チェコ人の「世界のだれも、助けてくれなかった!」、
を写真で示すと、プラハのヴァーツラフ広場にある「慰霊碑」である。


ぴかぴかの石には、ヤン・パラフとヤン・ザイクの顔が映り、
ヤン・パラフは、1948年8月11日から1969年1月19日、
ヤン・ザイクは、1950年7月3日から1969年2月25日とある。

ソ連が、「プラハの春」を踏みにじったことに抗議して、
20歳の学生、ヤン・パラフは1969年1月19日に、
国立博物館の前でガソリンをかぶり、焼身自殺をした。
同じ場所で、1969年2月25日に、
18歳の学生、ヤン・ザイクは、
後を追うように焼身自殺をした。
石に刻まれた年月日がそのときを示す。

手前の茶色の石には、3行の文があって、
1行目はチェコ語、2行目は英語、3行目はドイツ語。
“IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM
共産主義の犠牲者たちを記念して」

チェコに民主化運動「プラハの春」がおきると、
ソ連は戦車でプラハの繁華街ヴァーツラフ広場に侵攻して、
そのまま占拠した。そして、民主化運動を、もとに戻させた。
チェコ事件1968年である。

「プラハの春」は、
言論を自由にし、
出版物の検閲を廃止し、
国外旅行の規制を緩和し、
市場経済の導入を進めよう、
という民主化運動だった。

チェコの改革運動、「政治を、国民の皆さんにもどしたい」
と、「プラハの春」を進めた、時の共産党第一書記、
アレクサンデル・ドゥプチェクは失脚した。
「プラハの春」は終わった。

チェコは恐怖社会にもどった。
秘密警察は弾圧を再開した。
民主化運動をすれば、仕事を失い、
投獄され、人生を失う。
大学生は退学させられる。

恐怖社会に、チェコ人は口をつぐんだ。
ビロード革命まで、21年間も。
「どうしようもない、つらい時期だった」

ヴァーツラフ広場。2006年5月。

円形の花壇の中にある、小さい十字架と碑。見逃すぐらいだ。
奥は、馬にまたがるヴァーツラフ像、その奥は国立博物館。

「世界のだれも、助けてくれなかった!」
と、チェコ人が言うのは、つぎである。
アメリカは、
ソ連のチェコ侵攻は国連憲章に反する内政干渉で、
即時撤退をすべきだ、としたが、
国際連合安全保障理事会で、
ソ連は拒否権を行使して、
葬(ほうむ)り去った。

そのとき、アメリカはヴェトナム戦争が泥沼状態だったから、
共産主義陣営の内輪もめには、これ以上、
手出しができなかった。

チェコには、
身内の共産主義陣営からも、
民主主義陣営からも、
援助の手は差し伸べられなかった。

世界から見捨てられたと感じた。
「世界のだれも、助けてくれなかった!」
「つらい時期」は、1989年に無血革命(ビロード革命)で、
共産党政権を倒すまで、21年間も続いた。
「どうしようもない、つらい時期だった」
「この悲惨な状況は21年続いた」

世界50数か国を訪問して、現地人から、
こんな悲痛な叫びを、聞いたことがない。
だれに相談することもできない閉塞(へいそく)状態である。
日本人に言うからには、よほどの絶望状態だったんだろう。

“IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM”
「共産主義の犠牲者たちを記念して」
とは、人民を幸せにしなかった共産主義との決別だ。
悲惨さを体験したチェコ人でなければ、出てこない言葉だ。

1989年11月17日、無血革命(ビロード革命)のときは、
イギリスに滞在していたから、共産主義の崩壊は、
より身近に感じた。
1989年11月10日には、ドイツの「ベルリンの壁」が崩壊し、
1990年に東ドイツが崩壊して、東西ドイツが統一した。
1991年には、共産主義の盟主、ソ連までが崩壊した。
そしてロシアが誕生した。


生き地獄」を見た「満蒙開拓団」の女性の言葉、
「『幸せ』だ、と感じたことは、一度もない
「これまで生きていて、『幸せ』だと思ったことはない」
を、写真で示したい。

“IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM”
「共産主義の犠牲者たちを記念して」
の代わりに、
“IN MEMORY OF THE VICTIMS OF MILITARISM
軍国主義犠牲者たちを記念して」
があればいい。

阿智村の長岳寺に、「日中友好不再戦の碑」がある。

表には、つぎのように書かれている。
「日本と中国は 平和と友好で永劫に 手を握りましょう 1966年初夏」

碑の裏はつぎである。
「旧西部8ヶ村から終戦前に、
王道楽土建設の名のもとに、
誤った軍国主義政治のため、かりたてられて、
中国に渡ったこの地方の開拓民は、
およそ900名に及び、
600名犠牲者を出した。
この不幸な体験から
戦争はまっぴらだ、
2度とあんな目にあいたくない
中国と仲よくしよう』
と私達は心から誓って、
関係者1万余名の浄財カンパにより、
この碑を建立した」

まさしく、
軍国主義犠牲者たちを記念して」の碑だ。
軍国主義」は国民を「幸せ」にするものではない。
「軍国主義」との決別を表している。

「阿智(あち)村」は、どこにあるか?
悲惨満洲移民の市町村別比率」

長野県の満洲移民」、長野県立歴史館発行から作成。
「阿智村」は長野県の南部である。

生き地獄」を見た「満蒙開拓団」の女性の言葉、
「『幸せ』だ、と感じたことは、一度もない
「これまで生きていて、『幸せ』だと思ったことはない」
も写真で示したい。

長野県の南部の「泰阜(やすおか)村」には、
「後世に伝う血涙の記録 満州泰阜分村」がある。

信濃文化経済社発行、昭和54年2月11日。

この「後世に伝う血涙の記録 満州泰阜分村」に女性の手記がある。
「『おかあちゃん、いやだ』と泣く我が子を、
無我夢中で河に突き落とす。
濁流にのまれて行く子を、
親は放心状態で見ていた」

「11月初めごろから発疹チフスが流行した。
収容所の死体置き場が、山のように高くなっていた」

「満人たちはこのころから、お米お金を持って、
子ども主婦を買いに来た」
収容所にこのままいて死ぬか、
満人の家に行くか、2つに1つしか道はない。
生きていれば、日本に帰れるかもしれないと考えた人は、
満人の家へ子どもを犠牲にしてやる人もいた。
また自分が主婦になった人もあり、さまざまであった」

この「生き地獄」の逃避行の結果は、
市町村の帰国者比率」に表れた。


泰阜村から826人が満州に渡り、
生きて帰ってきた人は327人である。
帰国者比率は39.6%である。

泰阜村の死亡者ほかを見ると、
死亡者は432人、
残留者は31人、
不明者は36人で、
総数499人になる。

もし、あなたの家族が5人として、満州に渡ったとすると、
2人だけが、日本に生きて帰ることができたことになる。
3人は、亡くなったり(2.6人)、残留したり(0.2人)、
行方不明(0.2人)になった。

5人家族が2人になるとは、悲惨な結末だ!
「満蒙開拓団」は食糧の確保と、
ソ連国境の防衛のためという、
「国策」で満州に送り込まれたが、
「満蒙開拓団」は国家に見捨てられた。

「満蒙開拓団」の碑は、阿智村のほかにも、
信州には、犠牲者が出た町村ごとにある。
その中から、高森町、諏訪市、松本市の3つの碑を示す。
生きて日本に帰ることができた人、遺族は、
平和実現を願ったり、
先に逝った同志を悼んでいる。

「高森町満蒙関係殉難者 慰霊碑」。大丸山(おおまるやま)公園、高森町。

長野県知事 吉村午良 書。

碑の裏はつぎである。
 顧みれば昭和7年 時の政府によって始められた
満州国の開拓事業は 満蒙の天地に比類なき民族協和の
楽土建設という日本民族の理想と祖国防衛という使命達成のために
推し進められた 重大な国策であった
 高森町からもこの国策にしたがって
一家を挙げ あるいは青少年義勇軍等として雄図を抱いて
この大事業に挺身したもの 実に600有余名の多きに及んだ
 これら先駆者が 祖国の運命を遙かに想いながら
営々として開拓に励み その理想もようやく達っせられんとした
昭和20年夏 思わざる祖国の敗戦により
血と汗の結晶は一瞬にしてついえ去った
 満蒙の地には頼みとした関東軍はすでになく
孤立無援の日本人居留民は難民と化し
祖国の土を踏むことを唯一の望みとして
時には零下30度の極寒の中を同胞相携えて死闘の行進を続けた
その間 飢えと寒さ 迫害と病にたおれた人々は
町内で実に270有余名に達している
然るに いまだ帰ることなき遺骨のあるなかで
戦後35年が空しく過ぎ去った
 ここに 同志相図り 町内全戸及び町外関係者からの浄財により
これら殉難者の御霊を合祀し
故郷の山河に還りて安らかに瞑せられんことを念ずるとともに
再びこのような戦争の惨禍を繰り返さない誓いと
世界平和実現の願いをこめてこの碑を建立する
 昭和56年4月
 高森町満蒙関係殉難者慰霊碑建設委員長 林 小六
                遺族及び生還者   一   同

「第七次両角中隊 少年義勇隊之碑」。温泉寺、諏訪市。

衆議院議員 小川平二 書。

碑の裏はつぎである。
昭和19年3月 当時国策の一環であった半軍半農の
旧満州開拓青少年義勇隊 第7次郷土中隊として
諏訪 上伊那 下伊那3郡により273名の、
当時15才 16才の少年隊員で結成され
茨城県内原訓練所に入所 2ヶ月程訓練を受け 祖国の為
大陸の荒野に立たんと胸弾ませ渡満したのも束の間
翌20年8月11日関東軍の指令により出動
8月15日終戦と共にソ連軍捕虜となり
捕虜生活中病死または栄養失調に臥し
76名の隊員を喪う
31年9月帰還の途に着き約1ヶ月かかり10月
日夜忘れえぬ故郷の地に帰還出来ました
此の碑は 我等帰還者により亡き友の霊を弔う
慰霊碑建立の声が盛り上り
昭和50年5月頃より隊員から寄付を願い
町村より台石を寄贈頂き 尚温泉寺の御厚意に頼り
永代供養として建碑出来たものである
建立には諏訪隊員が主体となり 建設委員の奉仕により
約7ヶ月かかり建碑の完成を得ました
 昭和51年3月14日 建立

拓友の碑」。護国神社、松本市。

河原正男 書。

碑の裏はつぎである。
 思えば昭和14年満蒙開拓青少年義勇軍
大いなる夢と希望を抱いた300余名の
14、5才の少年が国策の第一線
興亜の大業をめざして遠く異国の地に骨を埋める決意も固く
懐かしい故国を後に敦賀港より壮途につきました
 満洲国勃利訓練所への道は遠く1日48キロの行程に
大陸の野の花を見るゆとりもなく空腹と疲労を克服し
1人の落伍者もなく到着
涙なくして開拓の途は歩めない辛苦の4年有余
やがて大東亜戦争勃発 数多くの者が応召され
或は病に倒れ終戦を迎えました
 其の間の労苦は筆舌に尽し難いものがあります
不幸にして病に倒れ 戦果に散り
永遠に満蒙の地に眠る同志に対し
哀惜の感に堪えません
 終戦後 同志を捜し求むる術もなく
20数年の歳月は水の如く流れ去りましたが
同志の熱意により
ここに「拓友の碑」の建立を見ましたことは
同志と共に歓喜に堪えません
  当時中隊長佐藤剛吉
 昭和48年4月17日 拓友会一同建之

高森町、諏訪市、松本市の3つの碑から、
満蒙開拓団」、「満蒙開拓青少年義勇軍」は、
「国策」として満州に送り込まれ、
国家に見捨てられたことがわかる。

「満蒙開拓団」の女性の悲惨な言葉、
「『幸せ』だ、と感じたことは、一度もない
「これまで生きていて、『幸せ』だと思ったことはない」
を、写真で示すと、阿智村の長岳寺にある、
日中友好不再戦の碑」になる。

「軍国主義の犠牲者たちを記念して」の碑である。
軍国主義」との決別と、
軍国主義」は国民を「幸せ」にしなかったことを表している。

それに、「後世に伝う血涙の記録 満州泰阜分村」や、
市町村の帰国者比率」は、
軍国主義」が国民を幸せ」にしなかったことを、
表した資料である。

世界で一番悲惨な言葉は、
「世界のだれも、助けてくれなかった!」チェコ人、
「『幸せ』だ、と感じたことは、一度もない」満蒙開拓団。

世界から見捨てられたチェコ人、
国家から見捨てられた「満蒙開拓団」から、
世界で一番悲惨な言葉が出てきている。
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満蒙開拓団の女性に幸せはない

2012-07-01 00:07:01 | Weblog
満蒙開拓団」で、
家族といっしょに満州に渡った、
15歳の女性は、地獄の逃避行をした。

農業専従の移民のはずだったが、
戦局が悪化すると、父と弟は、
緊急補充兵として「根こそぎ動員」された。
開拓団には女性、子ども、老人が残された。

ソ連の満州侵攻によって(1945年8月9日)、
女性、子ども、老人の地獄の逃避行が始まった。
20歳になっていた女性は、母を助け、
5人の妹をひきつれて逃げた。
4人の妹は、飢えと病気で死に、
家族がバラバラになった。

女性は、髪をザンギリにし、顔に炭を塗って逃げた。
死をくぐりぬけて、たった1人で日本に引き揚げた(1946年)。
やがて、父と弟が引き揚げてきた。
母と一人の妹は満州で生きていた。
母と妹が帰還できたのは1953年だった。

長野県の伊那谷で開催されたセミナーで、
その「満蒙開拓団」の女性が、
ゲストで出席されていた。

合間を見て、近寄って聞いてみた。
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」

その「満蒙開拓団」の女性は、
カッ! と目を剥(む)いて、答えられた。
「『幸せ』だ、と感じたことは、一度もない」

さらに、念を押された。
「これまで生きていて、『幸せ』だ、と思ったことはない」

女性の態度に唖然(あぜん)とした。
つぎの言葉が出なかった。

「今でも、中国には残留婦人、残留孤児がいる」
「満蒙開拓団の犠牲があって、
今の、あなたの『幸せ』がある」
「調子に乗るな!」
と、ガツンと殴られた思いだ。

「満蒙開拓団」の女性に幸せはない。
「幸せ」を感じたことがない人が、いるのだ。
衝撃だった!

チェコ人から、悲惨なことを言われたことがある。
「世界のだれも、助けてくれなかった!」
「どうしようもない、つらい時期だった」
「この悲惨な状況は21年続いた」

チェコの民主化運動「プラハの春」は、
ソ連が、戦車でプラハの繁華街ヴァーツラフ広場に、
侵攻し、占拠した。そして、民主化運動を、もとに戻させた。
チェコ事件1968年である。

ソ連に抗議して、2人の学生が、
ヴァーツラフ広場で焼身自殺をした。

世界50か国を訪問して、チェコ人の、
「世界のだれも、助けてくれなかった」が、
世界で一番、悲惨な言葉だと思っていた。
この悲惨な言葉を写真で表したい。

ヴァーツラフ広場には、慰霊碑がある。

犠牲となった2人の学生の下には、
“IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM
共産主義の犠牲者たちを記念して」とある。

1968年のチェコ事件から始まった「つらい時期」は、
1989年に無血革命(ビロード革命)で、
共産党政権を倒すまで、21年間も続いた。

希望が持てない生活、生命が脅かされる生活が、
21年も続くとは、絶望になる。
生活に「希望」が持てないとは、「不幸」であり、
生命」が脅(おびや)かされるとは、「平和」ではない。

チェコについては、次を参照してください。
「チェコもヨーロッパへの回帰」、2008年6月13日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/7331297ad5e2ad05171944b59b71e0b1

「チェコの二つのプラハの春」、2008年6月17日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/6d334ca4f44161d434c06296e57d20ab

「プラハの春からビロード革命まで、21年の悲惨」、2009年4月15日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/8b07996a29d81579bde2e8e789e4dd56


「これまで生きていて、『幸せ』だと思ったことはない」
と、言われた「満蒙開拓団」の女性を、もっと知りたい。
女性の手記があった。
「後世に伝う血涙の記録 満州泰阜分村」、信濃文化経済社発行。

昭和54年2月11日発行。

女性は、昭和15年に満州に渡った。
引き揚げたのは、昭和21年だから、
帰国して34年後に発行された本である。

「泰阜(やすおか)村」とは、どこにあるか?
満洲移民の市町村別比率」。

長野県の満洲移民」、長野県立歴史館発行から作成。

「泰阜村」は長野県南部にある、赤い地域。
赤い地域は、渡満者比率が6.0%以上である。

市町村の渡満者比率」。


「泰阜村」は、人口5,844の内、826人が満州に渡った。
渡満者比率は、14.1%である。
「大日向村」の渡満者比率は、31.1%と、断然1位である。
「富士見村」の渡満者比率が20.9%で続き、
「上久堅村」が19.4%、
「清内路村」が19.0%、
「市川村」が10.3%である。

なお、「上久堅(かみひさかた)村」は現在飯田市で、
「泰阜村」の北隣になる。
「清内路(せいないじ)村」は、現在「阿智村」である。
「市川村」は、長野県の北部である。

「満蒙開拓団」の女性の手記である、
「後世に伝う血涙の記録 満州泰阜分村」と、
女性が登場する映像情報「満蒙開拓団の真実」、
-国策移民の実像と悲劇-、
それに、女性のことがでてくる、
終わりなき旅」 「中国残留孤児」の歴史と現在

井出孫六 著、岩波書店発行、
を参照して、「生き地獄」の逃避行をみる。

「17歳から45歳までの男が根こそぎ動員された」
「残った者は老人と婦女子だけになってしまった」

「最後の引き揚げ列車に乗るときになって、
汽車に乗る人と、団へもどる人が激しく対立して、
結局、汽車に乗らなかった」
「ここで、汽車に乗らなかったことが、
運命をきめてしまった」

市町村の帰国者比率」を作った。


泰阜村から826人が満州に渡り、
生きて帰ってきた人は327人である。
帰国者比率は39.6%である。

市川村、上久堅村の帰国者比率も低い。
市川村は、195人が満州に渡り、
生きて帰ってきた人は51人で、
帰国者比率は26.3%である。

上久堅村は、708人が満州に渡り、
生きて帰ってきた人は296人で、
帰国者比率は41.8%である。
泰阜村の帰国者比率39.6%は低い。

泰阜村の死亡者ほかを見ると、
死亡者は432人、
残留者は31人、
不明者は36人で、
合せて499人になる。

この泰阜村の死亡者ほか499人は、
上久堅村の死亡者ほか412人、
大日向村の死亡者ほか337人、
と比べて、多いことがわかる。

女性が指摘する、
「ここで、汽車に乗らなかったことが、
運命をきめてしまった」
をみるようだ。

さて、「満蒙開拓団」の女性の逃避行を続けるが、
生き地獄」を見るようだ。

「隊列は戦いながら、前進していった」
「河にさしかかるが、深い河で馬が渡れない。
ここで馬車や、持っている荷物を捨て、
病人は置き去りにすることになった」

「の門外に出ると、急に左右の高粱(こうりゃん)畑から、
銃弾がピューと、流れるようにうなってくる」
「弾の中をくぐりぬけて、1日中逃げて日が暮れた。
翌日の朝、目が覚めてみると、
湿地の中に子どもが死んで浮いている。
周囲には知らない人が、道路に死んだように眠っている。
昨夜のことが悪夢のように思い出された」

「蜜林に入ることになったが、けわしい山で道がない。
仕方なく、足手まといになる子どもから、
捨てなければならなかった。
1人、2人と、河に捨てる人が多くなっていった。
私も7人まで捨てているのを見ていたけれど、
止めることも、助けることもできなかった」

「『おかあちゃん、いやだ』と泣く我が子を、
無我夢中で河に突き落とす。
濁流にのまれて行く子を、
親は放心状態で見ていた」

「毎日雨が降り、ぬかるみは膝までつかるほどで、
足が痛くなり、もう歩けなくなってきた。
1人、2人と山の中に残される人が増えてきた」

「11月初めごろから発疹チフスが流行した。
収容所の死体置き場が、山のように高くなっていた」

「満人たちはこのころから、お米お金を持って、
子ども主婦を買いに来た」
収容所にこのままいて死ぬか、
満人の家に行くか、2つに1つしか道はない。
生きていれば、日本に帰れるかもしれないと考えた人は、
満人の家へ子どもを犠牲にしてやる人もいた。
また自分が主婦になった人もあり、さまざまであった」

女性は、死をくぐりぬけて、日本に逃げ帰ってきた(1946年)。
父と弟は、あとから引き揚げてきた。
母と妹は中国で生きていた。
4人の妹を失った。

「満蒙開拓団」で満州に渡った人は27万人。
その内、日本に帰ってくることができた人は、約半数。
残りの半数は、つぎの人である。
引き揚げるときの飢えと寒さ、発疹チフス、襲撃、
それに、青酸カリを飲む集団自決で「死亡」した人、
シベリアへ「抑留」されて、死亡した人、
引き揚げるときに、親子バラバラになったり、
シベリアへ抑留されて、「行方不明」になった人、
満州に残され、「残留孤児」になった人、
それに、「残留婦人」である。

「満蒙開拓団」の女性は、
「生き地獄」を見た。
日本にもどった今でも、
怖い夢を見る」
「追われていくときの夢」と言う。

食糧の確保、ソ連国境の防衛のため、
という重要な国策で満州に渡った「満蒙開拓団」は、
「生き地獄」を味わい、癒すことができない、
戦争の傷跡を刻みこまれた。

「満蒙開拓団」は、
生活に「希望」が持てない「不幸」、
生命」が脅(おびや)かされる「平和」ではない、
を味わった。

「満蒙開拓団」は、
“IN MEMORY OF THE VICTIMS OF MILITARISM
軍国主義の犠牲者たちを記念して」
ということになる。

満州からの「引揚者」の「幸せ」はつぎになる。
「軍人」は、
生きていることに、感謝している」。
「仕事関係」の人は、
家族がそろって生活できることが『幸せ』」。
「満蒙開拓団」の男性は、
「『幸せ』とは、日常の生活が、当たり前にできること」。

そして、「生き地獄」を見た「満蒙開拓団」の女性は、
「『幸せ』だ、と感じたことは、一度もない」。

企画展「長野県の満洲移民」が開催された長野県立歴史館。千曲市。

長野県立歴史館では、
「後世に伝う血涙の記録 満州泰阜分村」と、
映像情報「満蒙開拓団の真実」、それに、
「終わりなき旅」を見ることができる。
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