季節の変化

活動の状況

戦争ポスターは焼却せよ

2012-08-19 00:02:12 | Weblog
昭和20年(1945年)8月15日に終戦、
昭和20年9月2日に無条件降伏をした。

戦争ポスター」は焼却せよ、
と国の決定があって、「戦争ポスター」は焼却された。
焼却されたはずだった「戦争ポスター」が、
長野県の阿智村から135枚が、まとまって見つかった。

長野県立歴史館(千曲市)の企画展、
戦争と宣伝 阿智村ポスターが語る」では、
阿智村で見つかった「戦争ポスター」135枚のうち、
72点が展示された。複製品ではなくオリジナルである。

2012年7月28日~9月2日開催。
「戦争と宣伝 阿智村ポスターが語る」のリーフレットから。

焼却命令がでたはずの「戦争ポスター」が、
どうして阿智村に残っていたのだろうか?

「戦争ポスター」が阿智村に残っていた謎は、
阿智村役場を訪れたとき(2012年6月)に、
課長が説明してくれた。ありがとうございます。

「阿智村の原 弘平 元村長が、
保存していた戦争のポスターで、
国や県から、村に張るように配られた。
戦争ポスターは、終戦直後に破棄を命じられたが、
尊い教材になると考え、命がけで蔵に保管した』、
痛んでいるものもあるが、保存状態はいい」

「戦争ポスター」を見つけたのは、元村長の孫である。
1994年の発見だから、1945年の終戦から半世紀たっていた。
蔵のはりの上に置いて、下から見えないように隠してあった。
「戦争ポスター」は、1937年~1945年までの135枚。
「戦争ポスター」は、阿智村に寄託され(2010年)、
村役場の保管庫に移されていた。

長野県立歴史館の企画展「戦争と宣伝 阿智村ポスターが語る」を見た。
1)「国民精神総動員」
2)「銃後の後援強化」
3)「貯蓄運動・金属供出」
4)「労務動員」
5)「志願兵募集」
6)長野県独自の制作、
などから構成されていた。
内容は予想がつくでしょうか?

1)「国民精神総動員
戦争の賛歌と、協力運動である、
「国民精神総動員運動」を閣議決定して、
政府は人の心をつかみ、
戦争に反対できないように、
雰囲気づくりに力を注いだ。

国民精神総動員強調週間」。

「特輯放送番組」、「日本放送協会(NHK)」。

規則正しい生活をして、心身を鍛え、
戦争に備えるようにした。
軍国主義国家への確かな歩みである。

2)「銃後の後援強化
傷病軍人の扶助、派遣軍人家族の慰問、
戦没者の遺家族は「誉の家」と呼ばれて尊ばれた。

「戦争と宣伝 阿智村ポスターが語る」のリーフレットから。

3)「貯蓄運動・金属供出
戦争費用を調達するために、貯蓄を奨励し、
国債の購入を呼びかけ、金属の供出を促した。

貯蓄達成運動」、1940年。

「120億円」、「大蔵省 道府県」。

まゆ生産 1100万貫 確保」、1939年。

「長野県」、「長野県蚕糸業同盟会」。
1100万貫 は4.2万トンになる。

生糸」は外貨獲得の稼ぎ頭だった。
つぎにお茶、そして、マッチだったから、
生糸、お茶、マッチで稼いだ金で戦争に挑んだわけだが、
生糸は、ほかに「パラシュート」の材料として貴重であった。

国債を買って、戦線へ弾丸を送りましょう」、1941年。

「支那事変国債 郵便局売り出し」、「10月24日⇒11月4日」、「大蔵省 逓信省」。

4)「労務動員
労務動員」。

「集れ 輸出繊維工業へ」、「厚生省 財団法人職業協会」。

5)「志願兵募集
満蒙開拓青少年義勇軍募集」。

「往け若人! 北満の沃野へ!!」、「詳細は市町村役場へ」、「長野県」。

青年は、北満に国旗を掲揚し、
後ろでは、ヤマトタケル? が右手に弓、左手に剣を持っている。

「満蒙開拓青少年義勇軍」とは、
15歳~18歳の青少年を募集し、
茨城県の内原訓練所で、3ヶ月訓練してから、
「北満」、つまり、ソ連国境の奥地へ送り込み、国境警備にあてた。

長野県は、「満蒙開拓青少年義勇軍」を、
日本一多く満州に送り出している。それに、
「満蒙開拓団」も日本一多く送り出している。

「満蒙開拓平和記念館事業準備会」のリーフレットから。

「満蒙開拓青少年義勇軍募集」のポスター(長野県制作)は、
「満蒙開拓青少年義勇軍」の募集に、大いに貢献したのだろう。

満州に渡った「満蒙開拓青少年義勇軍」の運命は?
ソ連の満州侵攻(昭和20年8月9日)で、地獄の逃避行をし、
シベリアに抑留され、飢え、寒さ、重労働、
発疹チフスで死亡したり、行方不明になって、
生きて日本へ帰国できた少年は半数以下だった。

阿智村ポスター」の印象はつぎである。
☆半世紀たったとは思えないくらい保存状態がいい。
 半世紀たつと退色するものだが、セピア色ではない。
☆多色刷りである。グラデーションもある。
 物不足にもかかわらず、金がかかっている。
 戦争中の印刷といえば、モノクロが普通だから、
 カラー印刷は破格の扱いと考えていい。パッと目につく。
☆デザインがいい。
 人目を引く。内容がすぐにわかる。
☆大きい。
 およそ、縦91センチ、横61センチある。
☆紙質は良い。
 物資がないときにもかかわらず良質。それに分厚い。
☆著名な画家の作品がある。
 著名な日本画家、彫刻家、写真家を使った。
☆長野県独自の制作がある。
 輸出の花形である生糸の増産、満蒙開拓青少年義勇軍の募集、
 疎開者の受け入れ方を漫画入りで説明したポスターなどがある。

戦争のプロパガンダ(国策の宣伝)として、国や自治体は、
「戦争ポスター」には、力を入れていたことがわかる。
そして、「戦争ポスター」を村役場、中学校ほかに配って、
戦意の昂揚をはかり、軍国主義国家への道を進める。

「戦争ポスター」は焼却せよ、というが、
本当に、公式の命令が、あったのだろうか?
そして、焼却の命令は、いつだった?

「機密重要書類」を焼却せよ、という通達があった。

長野県から各市町村長に宛てた通達、
機密重要書類焼却の件」である。松本市文書館で。

「機密重要書類」を焼却せよ、の通達は、
昭和20年8月18日の発行である。
昭和20年8月15日の終戦の3日後で、
昭和20年9月2日の無条件降伏の前になる。
軍・政府はあわただしく動いた。

「機密重要書類焼却の件」では、
「各種機密書類」、「物動関係書類」、
統計印刷物」などの、焼却を命じている。
そして、学校や各種団体に通達すること、
この通達そのものも焼却することを命じている。

政府は1945年8月14日に、
「国や自治体の機密文書の廃棄」を閣議決定した。
戦争はなかったものにしようと、
戦争に関する一切の資料を焼却して、
戦争を歴史から消し去ろうとした。
軍と官僚による戦争の証拠隠滅である。
占領軍GHQの調査が始まるまえに、焼却を急いだ。
そして、軍関係、町村役場、学校、地域では、
数日をかけて重要書類を焼却、廃棄した。

「機密重要書類焼却の件」とは別に、昭和20年8月21日に、
「戦争ポスター」は焼却せよ、という通達を、わざわざ出している。
「機密重要書類」は焼却せよ、の通達は昭和20年8月18日だから、
「戦争ポスター」は焼却せよ、の通達は3日後である。

長野県から各市町村長に宛てた通達、
大東亜戦争関係ポスター類焼却の件」である。松本市文書館で。

「大東亜戦争関係ポスター類焼却の件」では、
戦争ポスター」の焼却を命じている。
そして、学校や各種団体に通達すること、
この通達そのものも焼却することを命じている。
「戦争ポスター」があったことの公式文書である。

「機密重要書類焼却の件」と、
「大東亜戦争関係ポスター類焼却の件」は、
長野県東筑摩郡の今井村役場(現在の松本市今井)の、
昭和20年 庶務関係書類綴」の中に入っていた。松本市文書館で。

重要な文書類を収集、保管し研究している「松本市文書館」の、
小松館長が見つけられた(1998年ころ)。

この「昭和20年 庶務関係書類綴」は、
終戦60周年の2005年8月に、
「新宿歴史博物館」の「平和展」に展示された。

「昭和20年 庶務関係書類綴」が、
2005年8月に展示されたのを契機に、
ほかの県や市町村から、調べなおしたところ、
「わが県でも、『機密重要書類焼却の件』や、
『大東亜戦争関係ポスター類焼却の件』が見つかった」
とは、聞いていないから、他県では完全に焼却したのだろう。
「機密重要書類」を保管するという、危険を冒すようなことはできなかった。
当時、軍は絶大な権力を持ち、逆らうことは恐怖であり、
自治体の長であっても、身に危険がおよぶ。

戦争に関する一切の資料、一切の歴史を焼却したから、
各県の「県史」は、戦争時期の歴史、記述はなくなっている。
それか、聞き取り、個人の日記や記録、写真に頼った「県史」になっている。

もし、「県史」に統計的な記録が連続するならば、それは、
「機密重要書類」を焼却から回避することができた県である。
「長野県史」を見ると、昭和14年~昭和20年の統計資料には、抜けが多い。
みなさんの「県史」はいかがでしょうか?
歯抜けか、統計表自体がないと思う。

宮崎県に「県経済史」がある。
国力を推定できる統計資料は、すべて焼却せよ、内務省
という電報が宮崎県知事に届いていた。しかし、
膨大な統計資料は、宮崎県再建の指針となる、
と考えた職員は、自動車で家の納屋に運び込んで隠した。
その結果、「県経済史」を作ることができた。
統計資料以外の「機密重要書類」は、
県庁横の広場につくったごうで、
斧(おの)で壊し、火をつけ、一週間かけて灰にした。
「松本市文書館講座」の「昭和20年8月の文書廃棄」、2012年8月8日から。


「戦争ポスター」は廃却せよ、という通達は、
「松本市文書館」(松本市)へ行けばいい。
「昭和20年 庶務関係書類綴」が残っていて、
「大東亜戦争関係ポスター類焼却の件」を見ることができる。

戦意の昂揚、プロパガンダを見たければ、
「戦争ポスター」がある。
長野県立歴史館(千曲市)の企画展、
「戦争と宣伝 阿智村ポスターが語る」で、
72点のオリジナルに会うことができる。

長野県の「松本市文書館」(松本市)と、
長野県立歴史館(千曲市)へ行くと、
戦争の証拠隠滅を図った通達、
機密重要書類焼却の件」と、
大東亜戦争関係ポスター類焼却の件」、
証拠隠滅を免れた「戦争ポスター」が、
戦争、歴史の資料として残っている。

阿智村元村長の、
尊い教材になると考え、命がけで蔵に保管した戦争ポスター」は、
半世紀たって、「」の中から日の目を見て、歴史の尊い教材になっている。
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日本のランドマークは原爆ドームと原発の廃炉

2012-08-12 00:03:55 | Weblog
8月6日、広島の「原爆の日」を迎えた。
日本は、広島の「原爆」に引き続き、
福島の「原発」にさいなまされている。

日本のランドマークは「原爆ドーム」と「原発の廃炉」。
原爆ドーム」。世界遺産。

1945年10月、林 重男氏撮影から。

メルトダウンした福島第1原発。2011年3月。

NY Timesから。

福島第1原発がメルトダウンする前の、
日本のランドマークは「富士山新幹線」だった。

外国人観光客用の絵はがき。TUTTLE POSTCARDSから。

2009年9月に、名古屋のデパートメントで買った絵はがき。
日本を表す写真というと、「富士山と新幹線」になる。
「新幹線」は、日本の先端技術であり、
「富士山」は、日本の自然の美しさである。

絵はがきは、ほかに「金閣寺」、「松本城」、「すしとさしみ」があった。
いずれの絵はがきにも、鳥居(とりい)のマークが上部についていた。
鳥居は日本のマークのようだ。

1945年の「原爆」から半世紀以上たって、
世界第二位の経済大国に成長した日本に、世界は目を見張った。
ヨーロッパ人やアメリカ人は不思議に思いながら聞いてきた。
「日本は第二次世界大戦に負けて、壊滅的な打撃を受けた」
「廃墟の中から、急激に経済復興できたのは、なぜなのか?」
「ドイツの復興は、ヨーロッパ人だからわかるが、日本はアジア人なのに?」

そして、廃墟の中から復興した日本への関心は、
「日本へ行ったら、新幹線に乗って、富士山を見たい!」

「日本へ行ったら『東京タワー』を見たい」
と言って、日本に来る外国人はみたことがない。
「東京タワー」は、日本の独自文化とは思っていない。1958年建設。

「エッフェル塔」のマネだと思っている。

パリで本物を見ればいい。1889年建設。
日本まで、わざわざ来る必要がない。
「エッフェル塔」はパリのランドマークである。


2011年3月の福島第1原発の事故で、
日本といえば「福島の原発」に、
広島の原爆」がよみがえってきた。
日本を紹介するテレビ番組の絵として、
「広島の原爆」、「福島の原発」が使われる。

「原発」は人知でコントロールできるものではない、
ことを、福島は世界に示した。
汚染された故郷にもどりたいが、ムリだろうか?
福島に、嬉しいことがあるのは、いつだろうか?

「戦争」を起こすには、もうけた人がいるはずだ。
だから、戦争を起こした。軍需産業や財閥。
これらは、戦後解体された。

「原発」でもうけている人がいるはずだ。
電力会社や電機メーカー、土木・建設関係、
商社、自治体、研究開発機関(2,481億円)ほか。
「原発」はこれらの人のためにある。
これらは、原発事故後解体されていない。
税金をむしばむ巨大な利権構造になっている。

自治体には、多額の交付金や固定資産税が入り、
歳入に「原発マネー」は欠かせなくなっている。
「村おこし」のために、原発を導入したわけだが、
村の存続を賭けて、苦渋の選択で原発を選んで、
「交付金」にすがりついた。

1号機、2号機、3号機と原子炉ができるごとに、自治体に交付金が入り、
再処理の核燃料を使うと、また交付金が入る仕組みを作って、
自治体を潤してきた。
福島第一原発の3号機にMOX(Mixed Oxide、混合酸化物)燃料を、
使用するにあたっては、福島県知事の合意が得られていた。
なお、MOX(Mixed Oxide)燃料は輸入品を使用。

村には巨大な「箱物」ができるようになった。
立派な村役場、立派な小・中学校のほかに、
巨大な総合体育館、国体が開催できるじゃないか?
と思うような総合運動公園にはテニスコートやサッカー場、
野球場、多目的グラウンド、プール、観客席のついた陸上競技場。
ほかに、立派な図書館、福祉会館、博物館、歴史館、郷土館、
情報交流センター、生涯学習センター・・・。

一時期いいように見えた原発の交付金も、
原発災害で故郷を失うはめになると、
原発を導入した村の村長や議員は、
原発の導入を後悔している。
原発の「安全神話」は崩れた。
住民の生命や生活が脅かされ、
箱物どころではない。

「国策」だったからというのは、「満蒙開拓団」に似ている。
村の財政が立ち行かなくなり、満州に「分村移民」をして、
交付金をもらって、村の存続、建て直しをはかった。
そして、村人が犠牲となった。命と財産を失った。

研究開発機関の2,481億円とは、
大半は文部科学省所管の、
高速増殖原型炉「もんじゅ」や核燃料サイクル関連、
残りは経済産業省の新型原子炉開発への補助金である。
毎日新聞、2012年1月22日から。

「原発」でもうけている電力会社や電機メーカー、
土木・建設関係、商社、自治体、研究開発機関ほかは、
電力の中で、原発は0%か、20%か、35%にするか、
と仕組みを作って、原発の生き残りにやっきである。

核燃料サイクルの前提となる再処理の方が、
高コスト」であるということがわかっていても。
それに、「再処理技術」は確立されていない、
安全性」の確認がとれていない、
ということがわかっていても。

高速増殖原型炉「もんじゅ」は、
技術の確立と安全性から、
運転再開の見通しが立っていない。
「もんじゅ」は大きな事故をおこし、事故の隠蔽もした。
試験は何度も中断された、再開の見通しはない。
安全性の問題、技術的な問題が解決していないから、
「2050年代に高速増殖炉を実用化」するめどは立っていない。
核燃料サイクル」の見通しは立っていない。

原子力に偏重した予算配分が長年続いてきた原因について、
元経産官僚の衆議院での証言がある。
「原子力を何が何でも造るというのが自民党の政策だった。
その政策に公益法人や関連企業、役所と族議員による
利権構造がくっつき、一度できると壊せない」
毎日新聞、2012年01月22日から。

この原発の利権構造を、
現政権は壊すことができるのか? 注目している。
それに、被爆国であり、原発災害国である日本の決断は、
世界からも注目されている。

原発の「安全神話」は崩れた。
それに、「核燃料サイクル」の見通しはたっていない。
使用済み核燃料は処分する場所がなく、
「原発はトイレなきマンション」のまま。

日本人はあやまちを繰り返す。
東山魁夷画伯は、「ある美しかった国の物語」を書いた。

「東山魁夷画文集5」、新潮社発行、1969年。

「昔、美しい風景の島国が東方の海上にあった」
と、物語がはじまる。

「人々は、遠い昔から自然を愛し、
自然とともに暮らしてきた」

「こまやかな感覚を持つ女性の美意識が磨き上げられて、
今でも世界の宝といわれる優れた文芸作品が書かれた」

「ある日、西洋から黒い船がやって来た。
西洋の文明が押し寄せ、西洋におくれまいとして、
自国の優れたものを見失いがちなことが多かった」

「その小さな国と、ある大きな国との間に戦争が起こった。
空から降ってくるで、町という町は灰になってしまった」

「さて、それから後が問題である。
昔、中国の詩人が、国が敗れても山河はあると歌ったように、
はじめのうちは美しい自然はちゃんと残っていた」

「もう戦争はやめて、経済を発展させ、平和に暮らそうとした。
経済の発展に、前後のわきまえもなく、熱中した。
エコノミックアニマルと名前をつけられ、
その国の美しい自然をも食い尽してしまった」

「自然の開発とか観光ということも、
ただ目先きだけの利益で、
かんじんの自然美を護る心が見棄てられた」

泥海のそばの砂漠のような乾ききった土地に、
ただ四角な高い建築ばかりが建っていた」

「そこには、意味のない叫び声を挙げながら、
ただやたらに忙しく動き廻っている群集があるだけだった」

「昔、美しい風景の島国があったと、
今ではものの本に書いてあるだけである」
と、「ある美しかった国の物語」を閉じている。

それから、半世紀たった。
「ある美しかった国の物語」の続編はつぎにようになるだろう。
「経済のすさまじい膨張は、バブルがはじけると、しぼんでしまった。
世界のヒノキ舞台で、主役を演じてきたが、その座からすべり落ちた。
『日いずる国』と、もてはやされた主役の座は、30年だった」

「つぎの主役は、中国が演じるようだ。
アメリカやEUを訪れた中国の要人は、世界の発展のためには、
互いの協調が必要であると、大いに歓迎され、もてはやされている」

「島国の決定的打撃は、2011年3月11日に起きた。
東日本大震災原発事故である。
トヨタ、ホンダ、キャノンでもうけた金は、
箱物、道路、ダム、そして原発に注いできた。
それでも物足らずに、赤字国債を発行して、
ムダな箱物を造り続けてきた。国力は低下した」

「赤字国債のツケは、つぎの世代にバトンタッチされる。
膨大な赤字国債は、つぎの世代では返済しきれない。
さらに、つぎの世代までかかりそうだ。
原発の廃炉には、半世紀かかる。
廃炉には、国民の税金を使う」

「昔、美しい風景の島国があったと、
ものの本に書いてあったが、
原爆ドーム」と「原発の廃炉」が、
記念碑のように残されていた。
人々は、汚染された土地で、
汚染された空気にさらされて、
健康障害におびえながら暮らしていた」

これは、笑えない。
日本人がやってきたことだ。
日本は、どこぞの大国の植民地で、
宗主国の命令に従って、やってきたのではない。

東山魁夷の叫び、警告を無視してきた。
「日本には美しい自然があった」
「女性の美意識は世界の宝物だった」
「経済の発展に、前後のわきまえもなく、熱中した」
「そして、美しい自然をも食い尽してしまった」
「日本人は、なにをしているのだ!」
「早く眼を覚ませ!」

ポスト2011年3月11日は、変革するのか?
日本人は、試されている。
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開拓を知るなら北海道大学の第2農場

2012-08-05 00:08:05 | Weblog
開拓」とはなにか?
満蒙開拓」は、中国人や朝鮮人がすでに開墾した土地を、
取りあげて入植したから「開拓」ではない。

「満蒙開拓」が「開拓」でないことは、大日向の開拓民の言葉でわかる。
「満州では開拓をしていない。ここに来て初めて開拓をした」
こことは「第三の大日向」で、軽井沢町の浅間山の麓である。
満州では、ノコギリも斧も要らなかったが、
「第三の大日向」浅間山の麓では、
ノコギリや斧を使ってカラマツを切り倒し、畑を作った。

「開拓」をもっと知りたい。「開拓」なら北海道開拓がある。
「開拓」を知るなら「北海道大学」の「第2農場」がある。
ウィリアム・スミス・クラーク博士が構想する、
酪農家のモデル農場である(1876年)。

第2農場には、奥(北)から手前に「脱ぷ室」と「収穫室」、
「コーンバーン」(穀物庫)、「モデルバーン」(模範家畜房)、
「牧牛舎」、「種牛舎」、「農場事務所」、ほか9棟がある。
クラーク博士の構想による酪農家のモデル農場の建物で、
大農経営の建築群として「重要文化財」になっている。

「脱ぷ室」と「収穫室」、右端は「コーンバーン」(穀物庫)、1877年竣工。

左の奥は「動力室」。2012年7月撮影。

「脱ぷ室」は、 穀類の脱穀、選別作業を行う機械作業場。
2階建ての「収穫室」は、秤量、袋詰め、種子選別をする作業場。
右端の「コーンバーン」(穀物庫)は、とうもろこし、ほかの貯蔵庫。

モデルバーン」(模範家畜房)。1877年竣工。

北海道農業のモデル(模範)として名づけられた「モデルバーン」。2012年7月撮影。
1階は畜舎、2階は乾草置場、3階は乾草棚だった。

この「モデルバーン」の2階が「農機具」の展示室になっていて、あとで、
「農具」から「農業機械」への変化と発展を見学する。

「モデルバーン」」の南にある「牧牛舎」。1909年竣工。
「牧牛舎」にはサイロがある。

左には「モデルバーン」が見える。2012年7月撮影。

乳牛ホルスタイン種」を日本で初めて導入した(1889年)。
「牧牛舎」の中には、
乳牛ホルスタイン種のダミー、
「トラクター」の歴史が展示されていた。

それに、「サイロ」の説明がある。
現存する「石造り」としては最古のサイロで(1908年)で、
石造りのサイロは木造に比べて、断熱性(発酵させるため)、
機密性(凍結を防ぐため)、耐久性、防火に優れているとある。

「牧牛舎」の南には「種牛舎」がある。1879年竣工。

繁殖用の種牛を飼育した。2008年9月撮影。

「第2農場」の入り口にある「農場事務所」。

「第2農場」の派出所として1879年に建築されたといわれている。

左の案内板には「重要文化財」の説明がある。
「当会場内の諸建造物(9棟)は
ウイリアム S クラーク先生の大農経営構想のもとに
明治10年から翌11年(1877年~1878年)に建てられた
模範家畜房(モデルバーン)を中心とした農場施設を
明治42年から明治44年(1909年~1911年)にかけて
旧農学校第2農場(現図書館北側)から現在地へ
移転あるいは新築したものである
当該諸建造物は明治の洋風建築として建築技術史上価値あるもので
また当時の酪農経営を知る貴重な資料であることから
昭和44年8月(1969年) 国の重要文化財の指定を受けている」

ウィリアム・スミス・クラーク博士は、
マサチューセッツ農科大学(アメリカ)から、
北海道大学の前身札幌農学校に招聘された(1876年)。
開拓使によってPresidentと表記されることが許可され、
名目上の校長はいたが、実質はクラーク博士が統括していた。

「満蒙開拓」は、1931年から移民が本格化している。
1936年に「20年で100万戸、500万人の移民計画」、
を、国策として定めている。
クラーク博士を招聘したのは1876年だから、
「満蒙開拓」の半世紀前である。

札幌農学校は開拓の「技術」と「人材」の供給基地となった。
クラーク博士の強い指導力、キリスト教精神の導入で、
宮部 金吾(みやべきんご、植物学者)、
内村 鑑三(うちむらかんぞう、宗教家)、
新渡戸 稲造(にとべいなぞう、「武士道」の著者であり、
国際連盟の事務次長)などを生む。

「第2農場」ほかは、どこにあるのか?
北海道大学の地図で、が「第2農場」。
キャンパスの北18条西7丁目にある。

北海道大学のキャンパス地図から作成した。
北海道大学のキャンパスは広いから、貸し自転車で回る。

キャンパスの西にあるは「第1農場」。Pは「ポプラ並木」。

「ポプラ並木」の右に、生物生産研究の「第1農場」が広がる。

Cは「クラーク像」。北9条西7丁目。
後方は中央ローンで、その先は正門Gに続く。SはJR札幌駅。

「クラーク像」にはBOYS BE AMBITIOUS と刻まれている。

Nは「新渡戸 稲造の像」。「ポプラ並木」Pの入り口にある。北11条西10丁目。

I wish to be a bridge across the Pacific 「太平洋の橋にならん」
と、直筆が刻まれている。

北海道の開拓は、寒冷地向きの農作物を見つけて、
栽培法を確立することである。そして、
畜力・機械化した畑作、酪農へと進んでいった。

第2農場の「モデルバーン」に入ってみた。
2階は「農機具」の展示場になっている。
一般公開されている、無料。冬季は閉鎖。

入植当時の開拓民に支給された「農具」がある。1872年(明治2年)。

ノコギリ、斧、鑢(やすり)、砥石(といし)、鎌(かま)が2丁、鍬(くわ)である。

まったく手作業による耕作、刈り取りの農業である。
開拓民には、これまでの人力作業による日本農業の農具が給与された。

開拓を開始した当時の耕作は、これまで通り、
鍬(くわ)で、ひと鍬、ひと鍬、掘り起こし、
収穫は、鎌(かま)で刈り取るものだった。
「鍬」と「鎌」による人力作業の日本農業である。

機械化された農作業ではなかったが、
畜力・機械化が進み、鍬(くわ)がプラウに替わった。
馬に挽かせて耕作する「プラウ」の各種。2012年7月撮影。

プラウによって耕作は格段にはかどった。
馬とプラウは入植者の数戸に1組が貸与された。

北海道大学によって改良、開発されたプラウは、
満蒙開拓」には不可欠の技術とされて、満州に移植された。

麦の収穫も手で刈り取る鎌(かま)から「リーパー」という機械が導入された。

人力作業から機械化によって、高能率の収穫が可能になった。

「リーパー」は穀類収穫機の元祖となって、
今日のコンバインにまで発展する。
農業技術発展のシンボル的機械である。
写真が撮れただけでも、ありがたい。2012年7月撮影。

「鍬」と「鎌」による人力作業の日本農業から、
畜力・機械化による農業への劇的変化である。
この畜力・機械化した畑作、酪農への発展には、
クラーク博士による貢献が大きい。
そして、北海道大学による独自技術の開発も進んだ。
北海道大学は、開拓の「技術」と「人材」の供給基地になった。

満蒙開拓」には、モデルとして、
輝かしく残っているものはない。
満蒙開拓は、失敗したもの、悼むものとして、
慰霊碑」がモニュメントとしてあちこちに残っている。
満蒙開拓団として27万人が満州に渡り、
その内、生きて帰国できた人は半数以下であった。
全財産を失い、地獄の逃避行で家族は半数以下になった。

北海道の開拓は成功したが、満蒙開拓の国策は失敗した。
北海道大学が北海道開拓の技術と人材の供給基地となったが、
満蒙開拓には、開拓技術と人材の供給基地となる満州大学はなかった。
満蒙開拓には、招聘したクラーク博士も、
育った新渡戸 稲造もいなかった。

北海道開拓のモデルとして、
北海道大学の「第2農場」が、
モニュメントとして残っている。
それに、「農業機械」の発展過程を示す標本は、
「農業技術史」の貴重な資料だ。
これほど残されているところはない。

「開拓」を知るなら北海道大学の「第2農場」へ行くといい。
重要文化財になっているモデル農場の建築群が迎えてくれる。
畜力・機械化した畑作、酪農への開拓の発展を見ることができる。

それに、「第2農場」は絵になるところ。
学生や札幌市民にとって、散策や憩いの場。
観光客には「クラーク像」、「ポプラ並木」とともに見逃せない。
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