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東山魁夷のザルツブルク

2012-03-25 00:00:33 | Weblog
東山魁夷の最も好きな町の一つ、ザルツブルク
東山魁夷は、「京洛四季」を描き終わると、
ドイツ・オーストリアの旅にでた(1969年)。
そして、大作が生まれている。
ドイツでは、「緑のハイデルベルク」(1970年)、
オーストリアのザルツブルクでは、「雪の城」(1970年)。
「雪の城」。

東山魁夷は、「ホーエンザルツブルク城」を雪景色として描いた。

「降り積もった雪の樹間に遠く眺めた幻想的な構成を、
心の中で創り出したものである。
私が訪れたのは夏である」
と、東山魁夷は言っている。
「東山魁夷画文集」、新潮社から。

ホーエンザルツブルク城」を眺めた写真がある(1989年)。

「ザルツブルクで最も美しい眺めの一つ」
と、東山魁夷が言う、
ミラベル宮殿の庭園から、
ザルツブルクのランドマーク、
「ホーエンザルツブルク城」を見た。
手前の青いドームは、ザルツブルク大聖堂。

東山魁夷のドイツ・オーストリアの旅は、
1969年の4月から9月。東山魁夷61歳。
「旅のすべてのスケジュールを、
ザルツブルクの音楽祭に合せた」
モーツァルトへの旅は、私の多年の念願であった」
と、チケットは日本で手配した。そして、
ザルツブルクを、旅の最後の地にした。

モーツァルトの生誕地、「ザルツブルク」を、
東山魁夷はつぎのように言っている。
「モーツァルトの音楽にとって、
ザルツブルクに生まれたことは、
決定的なものであると思われる」

「ザルツブルクの町、その歴史と性格、その地理的位置、
建物のたたずまい、周辺の清楚な風景、すべてが、
モーツァルトの音楽を育てる土壌であり、
養分になっているに違いない」

東山魁夷は、
世界遺産であるザルツブルクの街で、
ザルツブルク音楽祭」を楽しみ、
モーツァルトゆかりの地を訪ねている。
モーツァルトの生家(ザルツブルク)、
モーツァルトの母の生家(ザンクト・ギルゲン)である。
これらを、写真で見る。

「ザルツブルク」の街並み。ホーエンザルツブルク城から(1989年)。

ザルツァッハ川の手前が旧市街、対岸が新市街の方向。

青いドームがザルツブルク大聖堂。
その左がフランツィスカナー教会で、
さらに左は、ザルツブルク大学になる。
左手前は聖ペーター僧院教会。

ホーエンザルツブルク城を眺めたミラベル宮殿は対岸で、
ほぼ中央に見える青い屋根に白い壁の大きな建物。

モーツァルトの生家」、ザルツブルク。

使用したピアノや楽譜がある。
撮影は許可してくれた(1989年)。

モーツァルトの母の生家」が、ザンクト・ギルゲンにある。
ザルツブルク①から東へ24キロのザンクト・ギルゲン②は、
ヴォルフガング湖③のほとりにある小さな町。

場所を示す番号①、②、③・・・を、
「ザルツカンマーグート主要交通網」(インターネットから)に、
書き入れた。


ザンクト・ギルゲンの「町役場」(1989年)。

「町役場」の広場の円形の花壇には、
バイオリンを弾(ひ)く少年のモーツァルト像がある。

モーツァルトの像は、左の窓と重なっているので、
場所を変えて、モーツァルトの像を撮った。


この「町役場」の東100メートルほどに、
「モーツァルトの母の生家」があって、
「モーツァルト記念館」になっている。

「町役場」の左後方のピークは、
シャーフベルク山」④(1,783m)。
映画「サウンド・オブ・ミュージック」の、
オープニング・シーンのロケ地である。

ツヴェルファーホルン」⑤(1,522m)まで上がる、
ロープウェイが、「町役場」の近くからでている。

「ツヴェルファーホルン」⑤からは、
ザンクト・ギルゲンの街②とヴォルフガング湖③が見渡せる。

ザンクト・ギルゲンの「町役場」から見えたピーク、
「シャーフベルク山」④は右の松の木の奥になる。

ザルツブルク①の東に広がるアルプスの湖水地帯は、
ザルツカンマーグート」と呼ばれ、
ハルシュタット⑥とダッハシュタイン⑦は風光明媚で、
文化的景観として世界遺産になっている。

ダッハシュタインの山々。

ロープウェイで「ツヴィーゼルアルム」⑧(1,587m)へ上がると、
ダッハシュタイン(主峰は2,995メートル)とゴーザウ湖⑨が眺められる。
ダッハシュタインの氷河地形には夏でも雪がある。
東山魁夷は「ツヴィーゼルアルム」へ登っている。

「ツヴィーゼルアルム」⑧へのロープウェイに乗るには、
ゴーザウ⑩から、南にあるゴーザウ湖⑨に向かったが、

ゴーザウ⑩は美しい村だ(1989年)。
東山魁夷はゴーザウに滞在している。

「ザルツカンマーグートと呼ばれる、
数多くの湖を鏤(ちりば)めたこの地方の風景は、
忘れることができない鮮やかな印象を、
今も私の心に残している」
と、東山魁夷は言っている。
「東山魁夷画文集」から。

「ザルツブルクに生まれた楽聖モーツァルトの音楽に、
ザルツブルクの町は宿命的な影響を与えている」
と、東山魁夷は、
「ザルツブルク」をモーツァルトと重ね、
「夏のザルツブルクを心ゆくまで、味わい楽しんだ」

東山魁夷のザルツブルク、「雪の城」は、
東山魁夷館」で見ることができた。長野市。

「東山魁夷館」は「善光寺」のとなりにあり、
右手前方向にある「信濃美術館」とは、
レストランでつながっている。

「2008年は東山魁夷生誕100周年

「東山魁夷館」のリーフレットから。

企画展「生誕100年東山魁夷展」で、
東山魁夷の代表作を、一気に見ることができた。

「東山魁夷館」のリーフレットから。

東山魁夷が、
「最も好きな町の一つ、ザルツブルク」を、
つぎを参照して、書いてきた。

古本屋で見つけた「東山魁夷画文集」(新潮社)、
ザルツブルクを訪れたときに撮った写真、
「生誕100年東山魁夷展」のリーフレット。

東山魁夷は、「雪の城」を、
「ホーエンザルツブルク城を雪の樹間に、
心の中で創り出した幻想」で描き、そして、
「最も好きな町の一つ、ザルツブルク」を、
「心ゆくまで、味わい楽しんだ」
が、伝わればうれしい。
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東山魁夷のハイデルベルクはドイツの京都

2012-03-18 00:03:18 | Weblog
東山魁夷は、
「ネッカー河畔のハイデルベルクは、
ドイツの京都とも言うべき山紫水明の古都である」
と言っている。

東山魁夷の「緑のハイデルベルク」を北澤美術館で見た。2012年。

絵はがきから。

「ハイデルベルクは、第二次世界大戦では、
少しの損傷も受けなかった町である。
京都のように爆撃の目標から外す、
という考慮があったのだろうか」
と、東山魁夷は言っている。

「ハイデルベルク」の写真がある(1989年)。

ネッカー川にかかるカール・テオドール橋を渡って、
対岸からハイデルベルク城や旧市街を眺めた。

ハイデルベルクのランドマーク、
「ハイデルベルク城」が山すそにあり、
その下に、ハイデルベルクの旧市街が広がる。
奥の2つの白い塔は、橋門ブリュッケン・トーア。

「緑のハイデルベルク」の実物を見たい!
それに、東山魁夷は、
なぜ「緑のハイデルベルク」を描いたのだろうか?
また、どうしてドイツなのか?
東山魁夷とドイツとのかかわりはつぎである。

東山魁夷は、25歳のときにドイツに渡り(1933年)、
ベルリン大学に留学している。しかし、
父の病状が悪化し、残り1年の留学を断念して帰国した(1935年)。
ふたたび、ドイツを訪れるのは、34年後である(1969年)。
そして、「緑のハイデルベルク」を描いた(1971)。

東山魁夷とドイツとのかかわりを簡単に書くと、たった5行。
しかし、「東山魁夷画文集」1979年、新潮社を、
松本の古本屋「青翰堂」で、手に入れたから、
あちこちをめくって、ドイツとのかかわりを、
もう少し詳しく書くので、おつき合いください。

東山魁夷は、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の、
研究科を修了すると、貨物船でドイツに渡った(1933年)。
在学中から、挿絵を描いて渡航費用を貯めながら、
ドイツ語を学ぶ生活を2年間続けて、遊学の準備をした。

遊学の動機を、日記に書いている。
「若い間に欧州を見ておく」
「日本画家としても将来自分の進路を判断する上に、
日本でない生活、日本でない芸術を見ておく必要がある」

ドイツを選んだわけも書いている。
「フランスはエレガントで、イタリアは明るいが、
ドイツの持つあの暗さ、荘重なものに私は牽(ひ)かれる」
「ドイツへ向かったのは、感覚的な世界に傾きがちの私の性質に、
しっかりした支柱を入れたい意味もあった」

ベルリンでは、語学教室に通い、
翌年の1934年には、4ヶ月のヨーロッパ一周旅行をする。

イタリアのフィレンツェでは、衝撃を受けている。
ルネッサンスの作品を眼の前にして、
私は身体が熱くなる程、昂奮したり、
打ちのめされたり、鼓舞されたり、
まるで熱病の発作のような状態でした」

「画家になろうとしたのは間違いだったと、
このフィレンツェに来てつくづく感じる」
「努力も勤勉も築き上げ得ないものがある。
自分には画家になる素質がないことを、
こんど程痛切に感じたことはない」

「しかし、自分を見失ってしまって何になるだろう」
「東洋の片隅で、不自由な日本画の絵具を使ってでも、
表現し得る世界がある。こう考えて来た時、
思わず眼の中が熱くなってきました」
と、気を取り直している。
マネするつもりは、サラサラない。
東山魁夷を生むことになる。重要なことだ! と思う。

ヨーロッパ一周の旅行からベルリンにもどると、
日独交換学生の制度ができたことを知り、
第一回の交換学生に選ばれた。
ベルリン大学の哲学科、美術史部に入学し(1934年)、
2年間の留学費がドイツから与えられることになった。

ところが、1935年に父の病状が悪化して、
残り1年の留学を断念して、帰国している。
帰国して、結婚。

「これまでは、私の遍歴の日々は順調だったといえるでしょう。
しかし、これから先は、暗い谷間を辿ることになるのです」

借財でどうにもならなくなっていた家の商売(船具商) の整理。
父の死。第二次世界大戦へ突入。召集されて熊本の部隊に配属。

戦局は悪化する一方である。
そして、ソ連との開戦になり、
「東山二等兵。再び絵筆をとる時は来ないぞ
と、同僚から言われている。
「自分ももとより承知の上だ。
自分のことより、日本の文化風前の灯だと思う」

そして、敗戦を迎える。
母が亡くなり、弟も病死した。
兄は、以前に亡くなっているから。
これで、肉親を失ったことになる。

「すべてが無くなってしまった私は、
また、今生まれ出たのに等しい。
これからは、清澄な目で自然を見ることができるだろう。
腰を落ち着けて制作に全力を注ぐことできるだろう。
また、そうあらねばならない」

第一回の日展に出品するが、落選する。
「友達は次々と展覧会で華々しい成績を挙げ、
一躍画壇の寵児となって活躍して行くのですが、
私はたいして良い成績も挙がらず、
生活もアルバイトに子供の絵本を描くのが、
主なものですから、ようやく暮らせる程度です」

そして、「第三回日展に出品した『残照』は、
特選となり、政府買上げとなって、ようやく、
私の仕事が世に認められるきっかけとなったのである」
東山魁夷39歳である(1947年)。
苦難だった、長い道のりだった!

残照」、1947年。

「東山魁夷画文集」、1979年、新潮社から。

それから、東山魁夷は、
日本の古都を「京洛四季」として描いた。
「その後、私の中に、当然、起こってくるのは、
残り半分であるドイツの古都を描くことであり、
それによって戦後における『古き町にて』を、
完成させることに他ならない」

こうして、東山魁夷は、
「京洛四季」を描き終わると、
ドイツ、オーストリアの旅にでた(1969年)。
36年ぶりのドイツである。こんどは、ご夫妻で。

「ネッカー河畔のハイデルベルクは、
ドイツの京都とも言うべき山紫水明の古都である」
そして、「緑のハイデルベルク」が生まれた(1971年)。

やっと、「緑のハイデルベルク」にたどりつきました。
長いおつき合い、ありがとうございました。
あとは、「緑のハイデルベルク」の実物を見たい!

「緑のハイデルベルク」は、北澤美術館が所蔵している。
「春になると展示します」と、電話で聞いていた。
その3月になった。雪は降ったが、
諏訪湖のほとりにある北澤美術館へ行った。2012年。


北澤美術館のチケットは、エミール・ガレの「ひとよ茸」。

「ひとよ茸」は、北澤美術館の目玉である。
ボランティア・ガイドの説明もあり、
お目当てのお客さんが多い。
1階の常設展示室にある。

今回は、展示替えをした2階である。
さっそく上がった。そして、ついに、
「緑のハイデルベルク」に逢えた!

「緑のハイデルベルク」は、やはり緑だった。
「青春時代に見たままだった!」
という、東山魁夷の安堵感が伝わってくる緑だ。

「ドイツ・オーストリア」、新潮文庫で、
東山魁夷はつぎのように言っている。
「ハイデルベルクを私は緑の色調で描いた。
は青春の色である」

ふたたびドイツを訪れる動機
そして、再会した感想を、
東山魁夷はつぎのように書いている。

「遠くの方からドイツの古都が、私を呼んでいるのを感じた。
老い疲れようとする心身に、少しでも若い日の鼓動を、
甦(よみがえ)らせたい願いもあって、
私は36年振りに再遊の旅に出た」

「私には懐しい期待と、同時に不安もあった。
戦争を経て、古い町々の面影が今も残っているだろうか。
もし失われていたならば、私の心の青春の残影も、
消え去ってしまうことになるだろう」

「幸いなことにドイツの北から南へ、
そしてオーストリアへの旅を通じて、
小さな町は昔日の姿をよく残していた。
私の夢の情景そのままでさえあったと言える」

自然古都、そのどちらをも、
美しく保とうとする『人間』の心が籠(こも)っていた」

「東山魁夷画文集」では、
つぎのようにも言っている。
ハイデルベルクは、
「私のような遠くの国からの旅人にさえ、
あたかも故郷ででもあるかのような、
親しい感情を起こさせるのである」

ハイデルベルク城から眺めた「ハイデルベルク」の街並み(1989年)。

右の白い塔は、カール・テオドール橋の橋門ブリュッケン・トーア。

ネッカー川の手前は旧市街で、
ネッカー川の対岸は新市街である。
「哲学者の道」は、対岸の丘の中にある。

旧市街の左の教会は、ハイリッヒ・ガスト教会Heiliggeistkirche。
教会は市庁舎と向かい合って、その間はマルクト広場。
マルクト広場一帯は、旧市街の中心地である。
ハイデルベルクで一番高い建物は、教会の尖塔。

ネッカー川の対岸の新市街は、
1978年に訪れたときと比べて、

建物が増えている。
しかし、まわりとの調和を保っている。
ごちゃごちゃと醜いことはなかった。

旧市街新市街と分けて開発している」
と、東山魁夷は言っている。
つぎののような予想がつくと思います。
旧市街で、一番高い建物は、教会の尖塔だった。
開発する新市街は、まわりとの調和を保っていた。

そして、
一番大切なことは、
そこに住んでいる人々が誇りと、
愛着を持っていることであろう」

「ハイデルベルクの大学は、ドイツ最古の歴史を持っている。
1386年に創立されたもので、その図書館は、
古文書、写本の類の世界的な蒐集で知られている」

ハイデルベルク大学」(1978年)。

「大学は、ちょっとした広場があるだけで、何もなく、
校舎の建物が町の家々と溶け合って存在している感じである」

東山魁夷が青春の一時期を過ごしたドイツ。
そして、古都「ハイデルベルク」に、
愛着を持っていることが伝わってくる。

そのドイツからご褒美があった。
「思いがけなく西ドイツ大統領から、
功労大十字勲章を贈られた」1976年。

「私はドイツに功労があったわけではないが、
戦前、若いときに留学した国が、その後、
現在までの私の日本における仕事を見守っていてくれて、
その意義を認めてくれたことをありがたく思った」

ドイツもありがたく思う「緑のハイデルブルク」である。
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東山魁夷の「北山初雪」は残っていた

2012-03-11 00:00:08 | Weblog
東山魁夷の「北山初雪」は、
川端康成のコレクションになっている。
川端康成がノーベル賞を受賞したお祝いに、
東山魁夷が贈っているから(1968年)。

「現代日本の美術」、「東山魁夷」。集英社、1976年発行から。

川端康成の所蔵品となっている「北山初雪」は、
山梨県立美術館の企画展、
「川端康成コレクションと東山魁夷」で、
見ることができた(2011年)。


「本物に逢えた!」
満足! 満足!
「もう、逢えないだろう?」
そんな気がして、ジ~ッと見た。

東山魁夷と川端康成の親交は厚かった。
東山魁夷は川端康成に手紙を送っている(1955年)。
「甚(はなは)だ不躾(ぶしつけ)ながら前々より、
一度お訪ね申し上げたく存じておりました」
と、川端康成の美術コレクションを見たかった。

それで、東山魁夷は川端康成の家を訪ねて、
所蔵する美術品を見せてもらっている。
最初の対面となったのは、東山魁夷47歳、
川端康成56歳のときである。

東山魁夷は、川端康成に、お礼の手紙を送っている。
「日頃の念願が叶い、
先生にお目にかゝることが出来ました上に、
貴重な御所蔵の御品々を拝見させて戴きまして、
誠に有難く存じます」
「川端康成と東山魁夷」、求龍堂発行から。

川端康成が文化勲章を受章したお祝いに(1962年)、
東山魁夷は、「冬の花」を贈っている。
冬の花」(北山杉)。1962年。

「今、ふたたびの京都」、平山三男編、求龍堂発行から。

川端康成の小説「古都」の舞台となった京都の北山杉に、
東山魁夷は関心を持ち、描いたのだろう?
「冬の花」という画題は、川端康成の小説「古都」の、
終章の見出しからとった。
川端康成は、「冬の花」(北山杉)を小説「古都」の口絵にした。

それから、川端康成は、東山魁夷に進言している。
「京都は、今描いていただかないと、なくなります。
京都のあるうちに、描いておいてください」

それで、東山魁夷は「京洛四季」を描いた。
「京洛四季」の一つが「北山初雪」である。
「冬の花」(北山杉)と同じ構図である。

「北山初雪」の京都を見に行った。
北山とは、どんなところだろう?
北山杉は、どんなか? 見たくなるじゃないか。

京都駅から周山行きのJRバスで1時間。
「北山グリーンガーデン」で降りる。
降りようとすると、
「ここで降りても、なんにもありませんよ」
と、バスのドライバーは、
降りるのを制止するかのように言う。
「北山杉資料館へ行きたいんですが」
「北山杉資料館は、もう、やっていません」
降りてもしょうがない、と言っている。
「・・・?」

乗客数名は土地の人。成り行きを見ているようだ。
「北山杉を見たいんですが、まだ乗っていたほうがいいですか?」
「ここら辺が北山杉です。この先にはありません」
「じゃ、ここで降ります」

「変わった旅行客だな!」
という顔をしていたな。

橋の先、「北山杉資料館」のゲートは閉じていた。

あたりは、山の上まで杉。
つぎの「北山杉の里 中川 散策マップ」で①の場所である。

「北山杉の里 中川 散策マップ」。

「京都北山杉の里総合センター」でもらった。

右下にある全体のマップを拡大。


国道162号の「周山街道」を京都方向にもどると、
「北山丸太」を天日乾燥している。2012年。

山の上まで杉。
手前は、「北山丸太」を立てかける架台。

「周山街道」は、車の行き来は多いが、
道を歩いている人が、まったくいない。
観光客もいなければ、土地の人もいない。
それで、近くの家へ寄ってみた。

「北山杉資料館」は個人経営です。
体調をくずして、閉館しています。
とのことだった。

それで、「どこへ行ったらいいですか?」
聞いてみた。
といっても、具体的には、
東山魁夷の「北山初雪」のモデルはどこですか? ということと、
「台杉」は、どこに行けば見ることができますか? ということ。

「台杉」は、あちこちにある。
詳しいことは、この下にある、
「京都北山杉の里総合センター」で、
教えてくれるでしょう。

たしかに、台杉はあちこちにあった。

伐採すると、あとからまた杉が生えてくる。
1本だけがスクーッと伸びていた。

「周山街道」を、さらに京都方向にもどった。
左右の北山杉を見ながら、写真を撮りながら、10分ほど歩くと、
京都北山杉の里総合センター」があった。散策マップで②。

山の上まで杉、杉、杉。
東山魁夷の「北山初雪」のモデルは、北山のどこにでもある。

杉材で囲まれた展示ホールで、ちょっと一休み。
コーヒーがうまかった。
水が湧くという。その水がうまい。
お代わりをした。

「北山丸太」ができるまでのビデオを見てから、敷地にある、
「京都北山丸太生産協同組合」のでかい倉庫を見せてもらった。

スタッフが案内してくれるという。
名刺をいただいたら、理事とある、敬礼。

理事さんが、電気を点けると、
白い艶の丸太が浮かび上がる。
丸太、丸太、丸太・・・、壮観だった。
磨丸太の長さは3メートルと4メートルという。
2,500本ほどあった。

天日乾燥のあと、ここで乾燥させるが、別に暖房はない。
外の気温と同じ6~7℃、長くいると寒い。

北山杉は、30年たつと、秋に伐採し、皮をむき、冬に丸太磨きをして、
ここに集められ、月に一度、セリにかけられる。
と、説明してくれる。

丸太の下は、四角錐にとがらせてあった。鉛筆の先のように。
丸太をくるくる回して、真っ直ぐか?
磨きぐあいは? 絞(しぼり)は?
などをチェックするという。

絞(しぼり)には、天然にできるものと、人造の絞があって、
天然絞のほうが高いという。

人造絞の作り方を見せてもらった。

杉の外周に杉の小枝を、
針金でギュウ、ギュウと巻きつけて、凹凸を作る。

杉の皮むきは、竹の「へら」を使うという。

理事さんは、奥から竹の「へら」を持ってきてくれた。
その竹の「へら」を持って、撮影した。

昔は、竹の「へら」を使ったが、
秋になると皮は硬くなって、ムキにくい。
今では、高圧の水をかけて皮をムクという。

左奥は、小枝を払うときの「はしご」。
はしごは、不要となった杉で作る。
持たせてもらったら、軽かった。

「北山磨丸太」は、高いもので1本30万円。
「北山杉」の需要は落ちているという。
床柱、ポーチ柱、棟木に使うが、
和式の建築が減っていることが原因。

もの珍しさから、いろんなことを聞いた。
「林業関係ですか?」
と、理事さんから聞かれた。

それで、東山魁夷の「北山初雪」を見に来たが、
北山杉は、どこで撮ればいいですか?
大きい「台杉」は、どこで見ることができますか?

「北山杉」の写真は、
「京都北山杉の里総合センター」の入り口から、
奥を撮ればいいという。

手前は清滝川。

そして、「台杉」の大きいのは、
4キロ下流の中川の菩提道にある。
しかし、「歩いたら、かなりある」という。

理事さん、ありがとうございました。
おかげで、「北山杉」の理解が深まりました。

大きい「台杉」を見に、
中川の菩提道まで歩きだした。

バスで来た「周山街道」を下る。
途中、清滝川に木の橋がかかっていた。

「渡ってくれ!」と、木の橋は誘ったから?
バランスをとりながら、滑って落ちないように、
恐るおそる渡って、山に入ると、運搬機があった。散策マップで③。

運搬機で伐採した杉を下ろす。
奥には、大きな台杉が数本あった。
シーンとして、だーれもいなかった。

中川地域に入ると、中川小学校があった。散策マップで④。

山の上まで、北山杉。

立派な学校に、全校生徒10人。
再来年には「廃校」になるとのこと。
土地の人が教えてくれた。

中川の菩提道まで来た。
旧道に入った。お婆さんに道を聞いた。
「大きい『台杉』は、どこにありますか?」

「50メートル先だよ」
「近くにお寺があるから、その庭も見るといいよ」
と、お婆さんは元気に教えてくれた。

それで、大きい「台杉」にたどり着いた。散策マップで⑤。

生命力がある。「生きてるぞ!」といっている。
数本の若杉が空に伸びていた。

中川地域。散策マップで⑥。

左は磨丸太倉庫群。使われていないようだ。

清滝川の右の道路は「周山街道」、奥から下ってきた。
そして、中川の菩提道のバス停から京都にもどってきた。

「北山グリーンガーデン」(散策マップで①)から、
中川の菩提道(散策マップで⑦)まで、
「周山街道」沿いを4時間の散策。
それにバスで往復2時間、6時間の旅だった。

天日乾燥、「京都北山杉の里総合センター」と倉庫、
運搬機、中川小学校、台杉、磨丸太倉庫群・・を、
見ることができた。それに、人が良かったな!

川端康成は、評している。「川端康成と東山魁夷」、求龍堂から。
「『京洛四季』の『北山初雪』、
これを北山に住む林業家の幾人もが見て、
このような感じの雪景は、
一年に一度か二度あるかなし、
しかもその時間は極めて短い、
それをよく捉えたと、
声を合せて讃えた」

北山杉の散策は、一杯のコーヒーと、
水のお代わりだけだったが、
疲れはなかった。
東山魁夷の「北山初雪」のモデルは、
どこにでもあった。満足!  満足!

美しさを切り取る東山魁夷の才で、「北山初雪」は生まれた。

「京都は、今描いていただかないと、なくなります。
京都のあるうちに、描いておいてください」
という川端康成の進言で描いた「北山初雪」。
それから半世紀たつが、
東山魁夷の「北山初雪」は残っていた。
北山には、まだ京都がある。
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東山魁夷の「年暮る」から半世紀

2012-03-04 00:03:03 | Weblog
東山魁夷の「年暮る」から半世紀になろうとしている。

山種美術館のリーフレットから。
「年暮る」(としくる)は1968年の作品。

「年暮る」のような「街並み」を探してきた。
これが、探しあてた「年暮る」のイメージ。2004年。

瓦屋根に雪が降り、夜になって、静まり返れば、
「年暮る」の世界になる。

でも、なんだか物足らない。
もっと、「年暮る」に、ピッタリの「街並み」があるはずだ?

そもそも、東山魁夷が「年暮る」を描いたきっかけは、
川端康成の進言であった。
「京都は、今描いていただかないと、なくなります。
京都のあるうちに、描いておいてください」

それで、東山魁夷は「京洛四季」を描いた。
「京洛四季」の一つが「年暮る」である。

東山魁夷は、京都ホテルオークラから、
東山方面を眺めて、「年暮る」を描いた。
その京都ホテルオークラは、
京都市役所のとなりで、
京都の中心街にある。

高級ホテルだが、いつかは、行ってみたい。
そして、東山魁夷の「年暮る」を見たい!

探しあてたイメージの写真から8年後、
ついに、京都ホテルオークラから、
東山方面を眺めることができた。2012年。

ワクワクする!

手前、左から右に鴨川が流れている。
中央奥はウェスティン都ホテル。
左奥の屋根は、南禅寺。そして、
中央にお寺がある。

「年暮る」には、お寺が描かれている。
それで、このお寺へ行ってみた。

要法寺」(ようぼうじ)だ。

左が新堂、右が本堂。

「年暮る」では、大きな屋根と、
その前に小さな屋根が描かれている。

大きな屋根は、「要法寺」の本堂だ。
その前の小さな屋根は、新堂で、
形も位置関係も同じだ。
「年暮る」は、間違いなく、
「要法寺」あたりの「街並み」を描いた。

東山方面を眺めた写真を、
「年暮る」のサイズに切り取った。

中央奥は「要法寺」。

東山魁夷の「年暮る」(1968年)から、
半世紀たった「街並み」(2012年)である。

「年暮る」のイメージはなかった。
「京都のあるうちに」描いた「年暮る」は、
半世紀たって、雑然とした「街並み」になった。

「年暮る」から半世紀たって、
「年暮る」は、なくなってしまった。

「要法寺」は本堂も新堂も、
「年暮る」のまま残っているが、
周囲は、新しい建物がごちゃごちゃと建った。

新しい建築は、まわりとの調和をまったく考えていない、
自分だけが主張する建築で、
調和を考えていない、
景観も考えていない。

半世紀前は、こういう家並みだったんだろうな?

京都ホテルオークラの北の高瀬川一乃舟入で。2012年。
お客さんが、料亭のオープンを待っている。
京都の中心街だが、電柱・電線がある。

せっかく京都ホテルオークラへ行ったが、
東山魁夷が想う京都の街「年暮る」は、
半世紀たって、なくなっていた。
「残念!」
もう、「年暮る」探しは、やめる。

半世紀前よりも、建築の「技術」は進歩した。
それに、「美意識」も向上しているだろうから、
京都の街は、半世紀前よりも、きれいになっていい。

ところが、きれいになっていない。
雑然としていた。
半世紀前のほうがきれいだった。
なぜだろうな?

まわりとの調和をまったく考えない建築、
自分だけが主張する建築、
街の景観を考えていない建築、
だからだ。

京都や街の景観について、つぎに書いてきた。
「醜い国に気付かない日本人」、2010年9月29日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/84ef875b17c21a107ab0554785b8825a

「美しき日本の残像」、アレックス・カー著、朝日文庫。

「京都の醜さは意図的なものです」
「京都はわざと京都の文化を壊しています」

京都の破壊は凄まじいものであって、
『今の日本人は昔の美に対して何らかの恨みを、
持っているのではないか』と考えるようになりました」
と、アレックス・カーは言っている。

「京都のランドマークは金閣寺」、2010年10月6日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/4c8224da937ed43ef476808744200942

京都タワーができたことによって、
京都の屋根並みが劇的な致命傷を受けてしまいました」
と、アレックス・カーは言っている。

「京都人が京都駅前にローソクの化けもののような京都タワーを、
出現させたときは仰天した」
と、司馬遼太郎は言っている。

京都駅は、京都タワーによるダメージを払しょくして、
文化都市としてのイメージを回復する絶好のチャンスだったのだが」
と、アレックス・カーは言っている。


京都駅。

「1500億円をかけた新しい駅は、
建設ブームの日本でも、屈指のスケールであり、
京都タワー、京都ホテルなど足元にも及ばない。
線路に沿って500メートルの幅で、
巨大な灰色の軍艦ビルがのしかかる。
戦後の京都の慣わしにしたがって、
街の歴史を力強く否定し、
世界に向かって、否定を大声で叫んでいる」

「京都の街は、フィレンツェやローマに並ぶ文化都市として、
世界の人々に愛されていた」
「第二次世界大戦の末期に、連合国軍司令部が京都を、
空爆対象からはずしたのもそのためだ」
と、アレックス・カーは言っている。

そして、
「東山魁夷の『年暮る』」、2011年11月13日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/a5dac37b237ee890a9b85629131e1808

東山魁夷の「年暮る」に描かれたような「街並み」は、
半世紀たって、もう、京都にはなかった。

川端康成の「京都は今描いていただかないとなくなります。
京都のあるうちに描いておいて下さい」、
は、現実であった。

それに、
東山魁夷の「美しい自然や建築や町の風致を破棄することに、
全力を挙げているのが日本の現状である」
は、そのとおりだった。


「日本は、日本の伝統や文化を切り捨て、
自然を破壊しながら、
無秩序に開発を進めてきた。
このために、世界の中で、
醜い国』の一つになってきている。
問題は、このことに、
日本人は気付いていないことです」
これは、アレックス・カー(東洋文化研究家)の講演である。

どうして、『醜い国』になったのだろう?
みなさんは、どう思いますか?

それで、講演のあとで、質問した。
「建設関係者に欠けているものはなんですか?
日本の伝統の良さや、日本文化の良さを教える美術教育が、
足らないために、無秩序な開発がおこなわれるのですか?
学校では、どのような教育が必要と思われますか?」

「建設や開発には、自然や周囲との調和が大切です。
日本の文化にプライドを持つ教育が重要です」
アレックス・カーは答えた。

日本は、どこぞの大国の植民地だったわけではない。
宗主国から命令されるがままに、やむを得ず、
京都の町並みを壊してきたのではない。
日本人が進んで、壊してきたのだ。

京都は、どこを目指しているのだろうか?
日本は、どこへ向かおうとしているのだろうか?

日本人も外国人も同じことを言っている。
東山魁夷と川端康成の悲痛の叫びと警告、
それに、アレックス・カーの「醜い国に気付かない日本人」。
「伝統文化と発展を、調和させることができなかった」
「日本人が、京都の町並みを壊している」
「手遅れだが、再生を考えよう」
コメント
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