季節の変化

活動の状況

冬の乗鞍三滝

2017-07-30 00:03:30 | Weblog
今年の夏は、蒸し暑い!
山へ行きたいが、雨が多い。
気分だけ涼しい乗鞍三滝へ。
あわせて、ほかの季節と比べてみる。

乗鞍三滝。
乗鞍岳から流れる小大野川(こおおのがわ)にある3つの滝。
高いところから、三本滝、善五郎の滝、番所大滝。
この中で、冬に訪れたことがないのは、三本滝。

三本滝


三本滝への道路、エコーラインは、冬はクローズになる。
休暇村乗鞍高原までは、通年オープンだが、その先、
三本滝バス停まで、冬は車で行くことができない。
それで、雪が融ける大型連休まで待って、
三本滝へ出かけた。2017年5月15日。

三本滝駐車場から三本滝まで、雪道を20分ほど。
三本滝では、誰にも会わなかった。往復とも。
「熊に注意! 」には、「冬眠していろよ!
と声をかけながら、キョロキョロ。

アイゼンは、持っていかなかったが、
一か所だけ、滑落に注意するところがある。
小大野川にかかる、→吊り橋

左側の雪道を登って、→吊り橋に出るが、ここは慎重に。
→吊り橋を、左から右に渡ると、右奥に、三本滝が現れる。

正面の小大野川の滝

滝自身は凍っていない。滝の下は凍っていた。
この厚みがいいね!

右の黒い沢の滝

滝の下には、氷のかたまりがあった。

左の無名沢の滝

滝自身は凍っていない。厳寒期には、凍るのかな?

9月小大野川の滝

上から下の滝つぼまで、全容を見ることができる。2008年9月。

9月の小大野川の滝と比べると、
5月(冬)は、滝の下が凍っている。

善五郎の滝


アイゼンか、スノーシューをおすすめ。
乗鞍岳スキー場の駐車場から、10数分。

乗鞍岳善五郎の滝

乗鞍岳と善五郎の滝を、同時に見ることができる。
滝見台から。2014年12月。

氷瀑の善五郎の滝で、アイスクライミング

2017年1月。

5月善五郎の滝

水しぶきが上がる。2017年5月。

5月の善五郎の滝と比べると、
冬の善五郎の滝は、氷瀑。それに、
人がいるところは、氷結した滝つぼ。
滝の頂部は、平ではなく、丸く盛り上がっている。

番所大滝(ばんどころ おおたき)。

この案内板の奥に、数台の駐車場がある。そこから5分ほどだが、
狭くて急な雪道を降りるから、アイゼンがおすすめ。

番所大滝。2016年1月。

氷結のあいだから、ごうごうと流れ落ちていた。

番所大滝。2016年2月。

番所大滝では、台湾からのグループに行き会った。
番所大滝は、1月よりも、氷結が増えている。

11月番所大滝

衣のように、流れ落ちる。2016年11月。

11月の番所大滝と比べると、
冬の番所大滝は、上から下まで氷結している。

冬の乗鞍三滝。
三本滝は、滝の下は凍っていた。
 滝自身は、氷結していなかった。
 三本滝駐車場は、冬期はクロ-ズ。

善五郎の滝は、氷瀑が人気。
 アイスクライミングをしている。
 駐車場は、通年オープン。

番所大滝は、氷結していた。
 1月よりも、2月の方が、氷結が厚くなる。
 形状も変わってくる。
 駐車場は、通年オープン。
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浪江町にはもどれませんから6年

2017-07-23 00:00:55 | Weblog
浪江町にはもどれません
これは、2011年に福島市で会った、東京から来た人の話です。
「原発の災害にあった浪江町の身内を、東京に避難させています」
「避難生活も6か月が限度で、これから自立することを考えるときです」
「浪江町には、もどれません。レベル7ですし、チェルノブイリを考えても」
「津波で家をなくしましたから、浪江町にはもどることは考えていません」
「でも、職を探し、新たな生活をしなければならないですから、大変です」
「避難を受け入れる方も、大変でした。出費も多い。
 受け入れる方の出費も、政府に援助してもらいたい」

浪江町について、話を聞くのは初めて。それに、
避難を受け入れている状況についても、初めて聞くことだった。
2017年、「浪江町にはもどれません」から6年経った。どうなったんだろう。

浪江町のホームページを見ると、
「浪江町民避難状況」(2011年11月30日現在)があって、
和歌山県を除いて、全国に避難されている、21,177人。
南相馬市民から、
「避難先は、つてを頼って、北は北海道から、南は沖縄まで」
と聞かされたが、浪江町でも同じだ。

福島県の人は、長野県にも避難されている。
長野県立こども病院の公開講座、
「放射線の健康への影響を学ぶ研修会」が、
松本市で開催された。2011年7月31日。
1) 菅谷 昭 松本市長、
「放射能災害の課題とその対応」
- チェルノブイリ原発事故医療支援の経験を通して -、
2) 中村 友彦 こども病院副院長、
「胎児、赤ちゃんへの放射線の影響」、
3) 小池 健一 信州大学医学部教授、
「こども達への放射線の影響」、が講演された。

講演が終わって、最初の質問者は、
福島県から松本に移住された人だった。
「子どもが、熱が出たり、風邪をひきやすくなっている。
福島県に、原発事故医療の病院を設置してほしい。
また、あれば教えてほしい」
どうしたらいいのか? 気が気ではない。相談する人が欲しい。
原発災害や避難者に理解のある菅谷松本市長に、
お会いしたかったと思う。

原発災害が発生した2011年3月11日から6年後、
2017年3月31日に、浪江駅周辺の
「避難指示解除準備区域」は、
避難指示が解除された。
(浪江町の残りの8割は、「帰還困難区域」で、
こちらには、「通行証」がないと、立ち入ることができない)

そして、2017年4月1日から、常磐線が浪江駅まで再開した。
それで、浪江町に行くことができた。
お知らせ」。JR浪江駅で、2017年6月27日。


浪江駅

奥はJR浪江駅。手前はバス停で、浪打った屋根に帆は、浪江らしい。

南相馬駅発7時5分は、高校生で満員だった。
その高校生が、小高駅で降りてからは、スキスキ。
終点の浪江駅で、3人全部が降りた。

東京からの人が言う、原発災害の汚染や、家をなくした状況、
そして、6年経って復興ぶりを、見ることができるかもしれない。
さらに、浪江町のホームページを見ると、
避難指示解除前に実施した(2016年9月)、
住民の帰還意向調査がある。

戻らないと決めている」が52.6%と最も高く、
「まだ判断がつかない」が28.2%、
「すぐに・いずれ戻りたいと考えている」が17.5%、
「無回答」が1.7%。

18 歳未満のいる世帯では、
戻らないと決めている」が63.2%、と高くなる。

18 歳未満のいる世帯が、
浪江町へ帰還する場合に、
今後の生活において必要な支援は、
「健康や介護に関する支援」が55.2%、
「雇用確保・就業支援」が31.0%、
「子育てや学校教育への支援、生活交通の支援」が31.0%、となっている。
これらのホームページの状況の一部でも、
見ることができるかも知れない。

駅前通リ

横断歩道の白線が真新しい。町民の帰還を待っている。2017年6月27日。

左右の商店は、6年間、放置してあるから、荒れている。
歩いている人は、いなかった。自転車も、見なかった。
カメラの女性と会った。住人は、車で移動している。
時折、工事関係者の車両が通る。それと、
防犯のパトロール・カーが走る。

駅前通りの大きな病院

6年間、放置してあるようだった。再開の様子はない、難しいようだ。
白い花の先に、パトロール・カーが見える。

浪江小学校

閉鎖していた。だ~れもいない、児童も、先生も。
街でも、児童を見ることはなかった。

新しい商店

左奥の浪江町役場の横に、商店があり、ドライバーでにぎわっている。
東邦銀行、和風レストラン「まるまつ」、ローソン、ガソリンスタンド。
駐車場の右には、国道6号が走る。
代行バスから撮影した。

ほかに、ホテル「なみえ」が営業していた。
浪江町民の帰還支援一時宿泊所として、
一泊2,000円、食事なし、浴衣なし。
浪江郵便局、警察署は業務を再開していた。

警察官とは、フェンス越しに話ができて、
双葉警察署の浪江分庁舎として、業務をしている、
住人の戻りは、まだ少ない、商店が少ないからか、
危険だから、建造物には近づきすぎないように、
と忠告がありました。
「わかりました」

「こんにちは」と声をかけてくれたのは、
建設関係の人。家の解体をされていた。
家の建設をしているところは、なかった。

住宅
住人は、取るものも取りあえずに逃げた。

目に見えない「放射能」の恐怖におびえ、
原発の「ドスン」という爆発に追い立てられ、
大混乱の避難だったを、見るようだ。2017年6月27日。

6年も空き家だったから、
ネズミが棲みつき、虫が繫殖しているだろう。
戻って住む場合には、建て直さなければならない。

2011年当時の子どもたちの想いは、つぎだった。
「着の身、着のままで、逃げてきた」
「今は、支援物資の服を着ている」
「卒業式もできなかった」
「学用品もないし、教科書もない」
「入学式の服やランドセルを取りに行きたい」
「すぐに帰れると思ったから、何も持ってきていない」

「大好きな街にもどりたい」
「家には、いつ帰れるのだろう?」
「早く学校が元通りになってほしい」
「みんなと学んだり、遊びたいです」
「放射能は、いつおさまるのだろう?」
ところが、帰ることができずに、6年経った。

常磐線は、不通だった浪江駅から竜田駅に、代行バスが走る。
列車代行バスのご案内」。浪江駅で。

2017年4月1日から運行を始めている。
一部帰還困難区域を通行する。

がんばろう浪江」。

国道6号沿いの結婚式場だったところが、復興整備の拠点になっていた。
教会には、⇒「がんばろう浪江」が見える。
手前は、作業者用の専用駐車場。

代行バスは、この先、帰還困難区域の大熊町、富岡町に入る。
窓を閉め切ったバスの中で、放射線量は、
2.51マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]を示した。

最後に、浪江町の放射線量
浪江町のホームページには
「浪江町役場の付近の空間放射線量は、
およそ0.1マイクロ・シーベルト毎時です」
とある。

浪江駅の放射線量計は、
0.282マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]を示していた。


浪江町は、除染されていた。
ただ、除染は、やり切れるものではないから、
1.04マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]のところもあった。

2011年、東京からの人は、「浪江町にはもどれません」でした。
浪江町は、それから除染をした。そして、避難指示解除に先立って、
浪江町への帰還」について、調査をした。
18 歳未満のいる世帯では、
「戻らないと決めている」は、63.2%。

18 歳未満のいる世帯が、
浪江町へ帰還する場合に必要な支援、
「健康や介護に関する支援」、「雇用確保・就業支援」、
「子育てや学校教育への支援、生活交通の支援」、
を、浪江町は必死に努力をされてきた。
原状復帰と、新たな文化都市の構築は、望ましいが、
この先、巨額が必要であり、何年もかかるだろう。

これらの、「健康や介護」、「雇用確保・就業支援」、
「教育への支援、生活交通の支援」は、
すでに避難先で、得られている人もいると思う。
2011年から、6年経っているから、避難先で、
新たな生活設計を築き、始められている。

子どもたちは、
「大好きな街にもどりたい」
「家には、いつ帰れるのだろう?」
「早く学校が元通りになってほしい」
「みんなと学んだり、遊びたいです」
「放射能は、いつおさまるのだろう?」
とは、言わなくなっていると思う。
浪江町に、子どもはいなかった。

避難先から浪江町に再び戻って、
今以上に魅力ある、新生活を始める活力を、
町民が得られるのか? 浪江町が与えられるのか?
浪江町も、町民も、大きな選択を迫られている。
恐怖を味わされ、生活を破壊された浪江町民に、
国、東電の賠償と責任が注目される。

2011年に、東京からの人が言う、
「浪江町には、もどれません。レベル7ですし、チェルノブイリを考えても」
「津波で家をなくしましたから、浪江町にはもどることは考えていません」
「でも、職を探し、新たな生活をしなければならないですから、大変です」
は、メルトダウンした原発災害から的確な判断をされた。
もし、あなたなら、どうしますか?
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福島市の放射線量2017年

2017-07-16 00:02:35 | Weblog
福島市放射線量2017年


最初に訪れた2011年、福島市は汚染されていた。
福島市を歩くと、ズボンのポケットに入れた、
放射線量計がピッピッ鳴る。
この場所から、すぐに退避しろ!

国際放射線防護委員会(ICRP)は、毎時の被ばく限度を、
0.52マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]と定めている。
それで、放射線量計は、
0.50マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]を超えると、
ピッピッ鳴るように設定しておいた。

ピッピッ鳴る状況は、南相馬市も同様であった。しかし、
放射線量の値は、福島市の方が、はるかに高かった。
2倍~3倍、ところによっては、20倍以上も。
 
福島第一原発から、
南相馬市の「原ノ町駅」までは、北に24キロと近い。
「福島駅」までは、北西に63キロと離れているが、
よりひどく汚染されていたのは、福島市だった。

6年経った2017年、福島市は除染が進んで、
放射線量は減少している。
しかし、除染は、やり切れるものではない。
放射線量が高いところは残っている。⑩弁天山、
⑪福島駅西の植え込みのほかに、⑥紅葉山公園でも。

2017年には、うれしくなることがあった。
校庭で遊ぶ児童を、初めて見た。

福島第一小学校、2017年6月29日。
除染の成果だと思う。

⇒放射線量計が、校舎の前にある。
外部からは、放射線量の値を見ることはできないが、
先生は、これで安全を確かめて、児童を外に出しているのだろう。

うれしいことは、ほかにもあった。
女の子と男の子、数人が寄ってきた。
6年生くらいかな?  女の子の方が積極的で、
「写真を撮ってちょうだい! 」と、ポーズをとる。
元気だ!

学校は、安全な場所になった。
そして、学業が続けられる喜びを、見る思いだ。
この元気な女の子は、6年前の2011年に、天神橋から、
声をかけられた女の子と重なってくるのだが。

振り返ってみると、2011年9月6日、
福島第一小学校のとなりの県庁前公園には、
放射線量を警告する看板があった。

左の奥に福島第一小学校がある。

公園を利用する皆さんへ
公園の利用は、1日あたり、1時間程度としてください

実際に、⑦県庁前公園で測ってみると、
2.65マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]だった。

これは高い! 汚染されている。

2012年には、この警告板は、
お知らせ」に置き換わった。

2012年6月19日撮影。
「この公園は、除染作業が完了しました。」
後方は、ふくしま南幼稚園。この左は、福島第一小学校。

2013年には、除染作業が完了した「お知らせ」のほかに、
放射線量が表示されていた。
0.53マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]とある。

2013年7月3日撮影。

2014年には、「お知らせ」はなくなって、
放射線量だけが表示されるようになった。
0.36マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]。

2014年6月24日撮影。

2016年には、放射線量は、
0.28マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]になった。

2016年7月1日撮影。

そして、2017年には、
0.22マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]になっていた。
撮影するのを忘れていた。児童が校庭で遊んでいるのを見ていて。

福島市は、この放射線量の測定を、
安全であることの、よりどころにしていると思う。
もう一つ、安全のよりどころがある。

福島市のホームページにある、放射線量の測定データ。


福島市放射線量測定マップ(平成27年2月23日~3月実施)から、
福島駅周辺を含む中心街を作成。

地上1メートルで測定。マス目は、500メートル四方、山間地は1キロ四方。

放射線量-例。


福島市を訪れていたのは、①~③、
①福島駅周辺、0.23~0.5マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]、
②福島県庁周辺、0.23~0.5マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]、
③弁天山公園周辺、0.23~0.5マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]。

2011年に、初めて福島市を訪れた。そして、放射線量を測定した。
それから、2017年まで、福島市を訪問すること10回。
「福島市の放射線量201X」を9回、記載してきた。

2013年から、放射線量が減少し始めている。
「福島市の放射線量201X」を目にする機会があって、
除染されたのならば、福島市民のお役に立てたようで、うれしい。

「福島市の放射線量2013年」では、つぎのように記載している。
「もし、このブログを、目にする機会があって、
福島駅前を除染したのならば、
ブログが役に立ったようで、うれしい」

今回の2017年で、最後にしたい。
終えるにあたって、最初の2011年を振り返ってみる。
あわせて、福島市民の声を、記します。
もう少し、おつきあいください。

2011年3月11日に、東京電力の福島第一原発が、
メルトダウンしてから3か月後の、2011年6月30日。
訪れた福島市は、
南相馬市よりも、ひどく汚染されていたが、
福島市は、ゴーストタウンではなかった。
普段と変わらないと思われる人出だった。
南相馬市は、ゴーストタウンだった。
このちがいは、どこからくるのだろう?

南相馬市では、強制避難と自主避難で、大混乱だった。
「避難先は、つてを頼って、北は北海道から、南は沖縄まで」
避難しない人は、被曝から自衛して、窓を閉め切って、
ひっそりと生活していた。小学校は閉鎖された。
南相馬市では、
「津波でさらわれた肉親の捜索は、あきらめざるを得ない」
南相馬市では、
津波原発災害ダブルパンチを受けて、恐怖におびえた。
生活の基盤を崩され、新たな生活設計を築かなければならなかった。

福島市には、避難の混乱はない、肉親の捜索もない。
汚染されているが、学校も、幼稚園も閉鎖はなかった。
生活の基盤を崩されることもなく、除染に頼ることになる。

津波と原発災害の、ダブルパンチの恐怖におびえた、
南相馬市は、ゴーストタウンになり、
原発災害で、放射線量は高いが、実感がわかない、
福島市は、ゴーストタウンにならなかった。

つぎに、福島市民の生の声を、記します。
2011年。ふくしま南幼稚園の前。福島の男性が話しかけてきた。
「福島では、どの程度、健康や人体に被害が及ぶのか、
 また、いつ影響が出るのか、明確でないままに生活している」
「汚染物をいかに除去するか、除染が最大の関心事になっている」

「福島第一原発の1号機がメルトダウンしたのは、
 3月11日の地震発生から、5時間後だった」
「東京電力は、すぐに国際原子力機関IAEAに、
 メルトダウンしたことを報告していたが、
 国民に知らせたのは、65日後だった」

「メディアがメルトダウンを報道できなかったのは、
 東京電力の広告費、電機メーカーや商社の広告費で、
 メディアは成り立っているから、
 広告主の意に反することは書けなかった」
「メディアの経営のトップは、
 原子力を振興する財団などの役員をしているから、
 原子力発電に不利なことは書けなかった」
「海外のメディアは、東京電力とは、しがらみがないから、
 メルトダウンは早い段階で報じられた」
「それを見た日本への留学生、教授は、すぐに祖国にもどった」

2011年。天神橋の西。東京からの女性が話しかけてきた。
「放射線量を数値で見るのは初めてです」
「3.00マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]とは、高いですね」
そして、持参していたカメラで放射線量計の写真を撮った。

「原発の災害にあった浪江町の身内を、東京に避難させています」
「避難生活も6か月が限度で、これから自立することを考えるときです」
「浪江町には、もどれません。レベル7ですし、チェルノブイリを考えても」
「津波で家をなくしましたから、浪江町にはもどることは考えていません」
「でも、職を探し、新たな生活をしなければならないですから、大変です」
「避難を受け入れる方も、大変でした。出費も多い。
 受け入れる方の出費も、政府に援助してもらいたい」

2011年。天神橋の西。福島の男性が話しかけてきた。
「放射線量は、どのくらいありますか?」
「だいたい、3.00マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]です」
 と応えると、男性は近くのオフィスにもどった。それから、
「年間の被曝量は21ミリ・シーベルト[mSv/y]になります」
 と、伝えにきた。計算したのだ。

2012年。天神橋の西。福島の男性が話しかけてきた。
「こんどは、どのくらいですか?」
「3.33マイクロ・シーベルト毎時ですか?  増えていますね」
 と、ガッカリしていた。

「公表されている値は低いから、空中の放射線量を測っているからだろう?」
「小学生がここを通るが、マスクをしなくなった。まだマスクが必要だ」
「こうして、放射線量を測って、教えてくれるから助かります」

2012年。紅葉山公園。福島の男性が話しかけてきた。
「紅葉山(もみじやま)公園が高いって言われている。県庁のとなりです」
「側溝で測ってみてください」
「27.4マイクロ・シーベルト毎時ですか!
「高いですね! 公表されている値だと、低くて問題はなかったが」
 と、ビックリし、ガッカリしていた。

23.6マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]が、撮影できた、

私にとっても、初めて経験する値だ! 南相馬市でも、経験しなかった。
なんかのまちがい! だろうとも思った。桁が違う!

福島の人は言う。
「今年は、落ち葉の清掃をしていない」
「いつもは、落ち葉をかき集めるが…」
「汚染された落ち葉を集めても、処分したり、
 持って行く場所がないからかな?」

人が通る散歩道だけ、落ち葉が少ない。落ち葉はかき集めていない。

「あれが、モニタリング・ポストです」
 と言われて、2人で近寄った。
左のモニタリング・ポストは地表から2メートル、
右のモニタリング・ポストは地表から50センチで、
空中に浮遊している放射線量を測っている。

「紅葉山公園の放射線量は公表されていない」
「なぜか? 聞いたら、
 ちがう場所にある、基になるモニタリングの値を公表しているから、
 と係員から言われた」
 と、強い不満の口調でした。

2015年。福島市街。除染作業中の人。
道路除染作業中」。

「土を入れ替えている」
「縁石は噴射して、洗浄する」
「側溝の中も洗浄する」
「歩道のポールは、雑巾で拭く」
「飯豊山まで除染する」
飯豊山(いいでさん)とは、新潟県、山形県、福島県にまたがる山。
標高は2,105メートルもある。

「除染は、いつごろまで、かかりますか?」と聞くと、
「除染は、いつまでかかるか、わからない」
「福島市中に灰が降ったから」
「それに、担当は道路沿いだから、全体はわからない」
とのことです。

2015年。渡利(わたり)地区。
除染で出た廃棄物が置かれたままであった。

緑のビニール・シートを見た時には、除染の廃棄物とは思わなかった。
家の庭先、家の横、駐車場、燐家との境、畑…にある。
危険なものを、身近に置いておくわけがない。

通りがかりの人に聞いてみると、
「除染したときに出た廃棄物です」と言う。それで、
「どうして、家に置いてあるのですか?」には、
「持っていってくれない」
せっかく除染したのに、廃棄しなければ意味がない、
と、不満であった。

そして、翌年の2017年6月29日には、
廃棄物は、ほとんどが、片づけられていた。
支所前と弁天山に残っていたのは、理由があるのだろう。

最後に、2011年。親水公園。小学生。
天神橋から、母親と連れ立った小学生が見下ろすように、
「おじさん、こんにちは」と、声をかけてきた。
「よう、こんにちは」と、返す。
かがんで、放射線量計を見ている様子が、
植物の撮影や、昆虫の観察に見えたのだろう?
福島の子よ、すくすく育ってほしい。
このときの親水公園の放射線量は、
3.06マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]でした。

この女の子が、
6年後の2017年6月29日に、福島第一小学校で、
「写真を撮ってちょうだい!
とポーズをとった、元気な女の子と重なってくる。

6年経って、すくすく育ったようで、うれしくなる。
福島の子らよ! 明るく、元気でいてほしい。

「福島では、どの程度、健康や人体に被害が及ぶのか、
 また、いつ影響が出るのか、明確でないままに生活している」
「汚染物をいかに除去するか、除染が最大の関心事になっている」
 と言う福島の市民、
除染は進んでいる、長い道のりだが、
「福島で、生きていて良かった!
と実感できるようになることを、願っています。
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南相馬市の放射線量2017年

2017-07-09 00:00:17 | Weblog
南相馬市放射線量2017年


最初に訪問した2011年には、
南相馬市の市街地は、汚染されていた。
シャッターは降り、人がいないゴーストタウンだった。

それから6年経った、2017年には、
放射線量が大きく減少し、街には人が戻っている。
放射性物質の物理学的な減衰もあるが、除染に努力された。

2011年から始まった南相馬市の放射線量の記載は、
今回の2017年で、最後にしたい。

南相馬市は、つぎを安全のよりどころにしていると思う。
市役所へ行くと、「放射線量率マップ」、2016年5月版が貼ってあった。
市役所の外には、放射線量計が設置されていて、現在の放射線量を計測している。

放射線量率マップ」は、
南相馬市のホームページに、似たものがあったので、
放射線量率測定マップ(平成23年7月22日~平成23年10月18日測定)から、
つぎを作成した。

地上1センチで測定。マス目は、1キロ四方。

南相馬市を訪れたところは、①~④。
①原ノ町駅周辺、0.50~0.99マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]、
②南相馬市役所周辺、0.50~0.99マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]、
③大鹿の仮設住宅周辺、1.00~1.49マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]、
  大鹿の仮設住宅の周辺には、原町高校、除染物の仮置き場、
  イオンスーパーセンターがある。
④飯舘村に入る八木沢峠周辺、2.50~2.99マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]。

市役所の外に設置された放射線量計による、放射線量の推移。
放射線量計を、最初に見たのは、2012年6月18日。

0.355マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]。

つぎに、2016年6月30日。

0.125マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]。

そして、2017年6月28日。

0.103マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]。

放射線量の推移を表にする。

単位:マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]。

南相馬市には、これまでに4回訪れている。
2011年、2012年、2016年、そして、2017年。
南相馬市の放射線量測定の最後にあたって、
最初の2011年を振り返ってみる。
あわせて、2017年と比較してみる。
長くなるが、おつき合いください。

最初の訪問、2011年6月29日。
まず、準備から始めた。
< 災害ボランティア活動の準備 >
南相馬市の災害ボランティア・センターの案内には、
原発問題での知識・理解を得たうえで、現地入りしてください」
と、記されていた。
それで、マスク、牛皮の作業手袋を持った。長袖のシャツにした。
粉塵に対しゴーグル、腕カバー、スパッツを持った。

白髪頭だが、お役に立てるものは、体力と時間だ。
ガレキの撤去作業でも、なんでもやるつもりだ。
釘を踏み抜かないように、厚底の登山靴にした。
落下物に備えて、ヘルメットを持った。
余震で停電するかもしれない、LEDライトも持った。
ボランティア活動保険に入った。
これで、準備はできた。

< 原発災害から3か月後に、南相馬市を訪れた >
2011年3月11日の福島第一原発の原発災害から、3か月後だった。
不通だった常磐線が、代行バスの運行が始まって、1か月後だった。
仙台まで行って、南下すれば、原ノ町駅にたどり着けるようになった。
初めての南相馬市入りである。福島県に入ることが、初めてだった。

< 南相馬市へのルート >
お知らせ」、原ノ町駅長。2011年5月25日。

原ノ町駅で、2011年6月29日。

要約すると、南からは、原ノ町駅に入ることができない。
北からは、代行バスが2011年5月23日から、運行されて、
原ノ町駅まで、入ることができるようになった。

常磐線が不通の理由は、つぎである。
南は、久ノ浜駅 ⇒ 原ノ町駅が、
福島第一原発20キロ圏内の警戒区域で、
被害調査ができない、このために、運転の見通しが立たない。

北は、常磐線の亘理(わたり)駅 ⇒ 相馬駅が、
線路流失で復旧の目処がたっていない。代行バスを運行する。
相馬駅 ⇒ 原ノ町駅は、さらに別の代行バスを運行する。

それで、北から原ノ町駅に入ることにして、まず仙台へ行った。
仙台の案内所では、臨時ダイヤを、ていねいに教えてくれた。
翌日、仙台を早朝に出て、常磐線の亘理駅まで南下した。
亘理駅 ⇒ 相馬駅は、大型の代行バスで、1時間。
乗客40名ほどは、男女半々。カバンを持った勤め人。
ヘルメットを、ぶらさげているのは私だけ。
目立ちすぎる、袋に入れれば良かった。

相馬駅で、全員が降りた。
相馬駅 ⇒ 原ノ町駅は、中型の代行バスが待っていた。
すでに乗車している男性2人に、私が加わって、3人で出発。
終点の原ノ町駅まで、さらに1時間。

< 南相馬市は、津波原発災害ダブルパンチを受けた >
相馬駅 ⇒ 原ノ町駅では、国道6号沿いに、
が押し寄せられていた。

国道6号は、港から3.5キロほど、離れている。

家も田畑も、地震と津波で破壊された。
震災から3か月経つが、田んぼに船が、
打ち上げられた光景は、ショックだった。

ショックはまだある、代行バスの中の放射線量だった。
海側の窓際に座って、放射線量計を、
背もたれのコップ置きに入れた。そして、
外の被災状況と、放射線量計とを眺めていた。

原ノ町駅に近くなると、放射線量計に変化が出た。
0.36マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]。

あわてて撮った。これまでに、経験したことがない値だ。
0.19マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]が最高だった。
津波と原発災害の、ダブルパンチを目の当たりにした。

< 南相馬市は、ゴーストタウンだった >
仙台を朝6時半の電車に乗って、原ノ町駅に9時25分着いた。
原ノ町の駅前通りには、人がいなかった、だ~れも!
シャッターが降りて無人、ゴーストタウンだった。
気持ちのいいものではない。

< 南相馬市街は、汚染されていた >
災害ボランティア・センターへ電話をした。
人が出た! つながった。
「ボランティア活動で、これから行く」ことを伝え、
「福祉会館への行き方」を教えてもらった。
南相馬市は、ウエルカムだった。
南相馬市民が温かいことは、このあと、
最後の2017年まで感じる。

福祉会館に向けて、原ノ町の駅前通りを、歩き出した。
そのときだった。ズボンのポケットに入れた、
放射線量計がピッピッ鳴りだした。

国際放射線防護委員会(ICRP)は、毎時の被ばく限度を、
0.52マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]と定めている。
それで、放射線量計は、
0.50マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]を超えると、
ピッピッ鳴るように設定しておいた。

ピッピッ鳴ったのは、初めてだ!
松本でも、安曇野でも、美ヶ原高原でも、
ビーナスラインでも、鳴らなかった。
0.19マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]が最高だった。

この場所から、すぐに退避しろ! 」の警告である。
あわてて、ポケットから放射線量計を取り出して見た。
オタオタした。この警告は、図書館、本町通り…と、
災害ボランティア・センターの福祉会館まで続いた。

< 若い女像 >

水無川を渡って、左折すると、
福祉会館に着いた、どうやら裏口のようだ。
若い女像は、南相馬市で最初に出遇った市民である?

< ボランティア活動は、写真の泥落とし >
水無川の近くにある市役所北分庁舎のプレハブへ移動して、軽作業だった。
自衛隊が、行方不明者を捜索している時に、泥の中から、
掘り出した遺留品が集められていた。
アルバム、位牌、ランドセル…。

ボランティア活動のリーダーは、南相馬市の女性。
参加した10名は、熊本、大阪、仙台、富山から、車で来ていた。
作業は、泥まみれのアルバムの乾燥、泥の除去、写真の泥落としだった。

< 泥には、放射性物質が含まれています >
と、リーダーから説明を受けて、
用意されたマスクをし、長靴をはき、ゴム手袋を着けた。
記念のキャップをかぶる。ヘルメットは要らなかった。
放射線量計が、ピッピッ鳴ならないように、
警告の設定を高くした。そして、作業開始。

< 思い出がなくなったのが、悲しい >
写真は、結婚式、子どもの誕生、成長、入学、卒業、新築、旅行……。
これまで築いてきた、歴史、人生、文化だ。
それが、一瞬でなくなってしまった。

家族までも失った。住む家、職、田畑を失い、避難した。
これまでの生活基盤、生活設計を崩された。
思い出までが、なくなってしまったのが悲しい。
せめて、写真だけでも、よみがえらせたい。

< 汚染された作業場 >
休憩になって、写真の泥落としの作業を中断した。
近くにあったアルバムの上に、放射線量計を置いてみた。

0.41マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]。
高い! ドギマギした。汚染された中にいる。

つぎの休憩で、プレハブの外へ出て測ってみた。
1.21マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]。

これは、高い!
南相馬市で被曝した、最高値だった。

災害ボランティア・センターの案内にあった、
「原発問題での知識・理解を得たうえで、現地入りしてください」
は、その通りだった。汚染された環境での、災害ボランティア活動だ。

国際放射線防護委員会(ICRP)は、毎時の被ばく限度を、
0.52マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]と定めているが、
それを超えたレベルだった。
「この場所から、すぐに退避しろ!

写真の持ち主は、もういないかもしれない。
親戚や、友人が見つけ出してくれたら、と思う。
ボランティア活動の人たちの、被曝がむくわれる。

< 大混乱の避難だった >
避難状況は、
「取るものも取りあえずに逃げた。
目に見えない「放射能」の恐怖におびえ、
原発の「ドスン」という爆発に追い立てられ、
大混乱の避難だった」
と、リーダーは言う。

「津波でさらわれた、肉親の捜索はできない」
「避難区域では、あきらめざるを得ない」とも言う。
「避難先は、つてを頼って、北は北海道から、南は沖縄まで」
福島第一原発から20キロの南相馬市は、無人地帯になった。

< 人生観が変わった >
災害ボランティア活動で、私の人生観が変わった。
災害は、いつやって来るか、わからない。
「その日、その日を精一杯、生きよう!
1日が暮れて、今日もがんばったな!
そして、ビールを飲もう!

4回目の訪問、2017年6月27日。
< 南相馬市へのルート >
常磐線は不通だった ⇒ 常磐線は、
亘理駅から原ノ町駅まで開通していた。
線路の一部は、かさ上げして、津波対策をしてあった。
代行バスの乗り継ぎは、なくなった。

< 浪江駅まで開通した >
2017年4月1日から、原ノ町駅から先、浪江駅まで開通した。

浪江行きの電車が停車している。原ノ町駅で。
去年の2016年に来たときは、原ノ町駅から先は、
線路はサビサビだったが、今は、ピッカピカ!

原ノ町発、浪江行き、7時5分発は、高校生で一杯だった。

こんなに大勢の高校生を見るのは、初めてだ!
小高駅で全員が下りた、200名ほどか。2017年6月28日。
今までどこにいたの? そして、どうやって通っていたの?
家族は無事だった? 家は修復できた?
通学は、元に戻ったように見える。

< 田んぼの除染 >
田んぼの除染は、これからのところもある。
除染が終わって、稲が植わっているところもある。
除染物の集積場所になっているところもある。


< 南相馬市は、ゴーストタウンだった >
ゴーストタウンだった ⇒ ゴーストタウンではなかった。
シャッターは開き、普通の街に戻ったようだ。

< 南相馬市街は、汚染されていた >
汚染されていた ⇒ 汚染されていなかった。
ポケットの放射線量計が、ピッピッ鳴ることはなかった。
主な場所の除染はできている。が、除染は、やりきれるものではない。
2017年でも、0.61マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]のところもある。

そして、人生観。
< その日、その日を精一杯、生きよう! >
1日が暮れて、今日もがんばったな!
そして、ビールを飲もう!
これは、変わらない。

< がんばろう! みなみそうま >

悪夢のような状況の中から起ち上がった、
南相馬市のがんばりを、見せてもらいました。

2011年、南相馬市は、汚染されていた。
シャッターは降り、人がいないゴーストタウンだった。
それから、6年経った2017年には、放射線量が大きく減少した。
街には、人がよみがえってきている。
幸あれ! と祈っています。
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大町市の北アルプスと国際芸術祭 その3

2017-07-02 00:07:33 | Weblog
大町市北アルプス国際芸術祭 その3。
北アルプス国際芸術祭」は、大町市の5つのエリアに、
38の作品やパフォ-マンスが、展示され、繰り広げられる。
大町北アルプス。鷹狩山から、2017年6月9日撮影。

▽七倉岳、▽北葛岳、R蓮華岳、▽赤沢岳、▽鳴沢岳、▽岩小屋沢岳。

「北アルプス国際芸術祭」の5つのエリアは、
鷹狩山、八坂支所周辺の「東山エリア」、
「市街地エリア」、↓大町ダム周辺の「ダムエリア」、
⇒大町温泉郷周辺を含む、↓「源流エリア」、
さらに右(北)の「仁科三湖エリア」。

これまでに見た4つのエリアは、
つぎに掲載したので、参照してください。
「大町市の北アルプスと国際芸術祭」、2017年6月18日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/358d6f2ae31dc1735e65c55869fbd229

「大町市の北アルプスと国際芸術祭 その2」、2017年6月25日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/0a604eb79b9f6e0962edf431af6126a5

「大町市の北アルプスと国際芸術祭」では、鷹狩山山頂周辺を、
「大町市の北アルプスと国際芸術祭 その2」では、
 「ダムエリア」、⇒大町温泉郷周辺を含む、↓「源流エリア」、
 そして、「仁科三湖エリア」を掲載している。

鷹狩山山頂周辺から始まって、
4つのエリアまで拡大していった。
いづれも、初めての芸術、不思議な体験で、
何があるのか? 行ってみなければ、わからない、
「北アルプス国際芸術祭」。こうなれば、まだ残っている、
「市街地エリア」と、八坂支所周辺も、見たくなる。2017年6月24日。

< 市街地エリア >
原 倫太郎+原 游さんの「たゆたゆの家」。

大きなシャボン玉が、押し寄せてくる。
しかも、複雑に入り組んで。
子どもも、惹きつける。

栗山 斉さんの「∴ O = 1 change-and-conservation」。

土蔵の2階に置いた氷が解けて、ポツンポツンと下に流れ落ちる。

2階に上がると、暗い。床の黒は、穴かと思った。
落ちないように、恐る恐る近寄った。
すると、ペイントだった。

真下からずらしてあった。おもしろい。
影と重なり、周りは、金環食を作っていた。

ニキータ・アレクセーエフさんの「ちかく・とおく・ちかく」。

全部で36のパターンがあるうちの、2例。
上の3枚は山。北アルプスだろう。下の3枚は家。

ロシア人を惹きつける大町は、何だろう? じ~っと見ていた。
ひらがなは、ロシアの作者が書いた、という。日本人に習って。

高橋 治希さんの「北アルプス 高瀬川庭園」。

床下に川が流れる民家の2階は、いろりのある2間。
おもてなしの部屋だった?
磁器のつるが、いろりの上を舞う。

ジミー・リャオさんの「私は大町でー冊の本に出逢った」。

「街中図書館」の表紙を見ると、子どがいる。
どの子どもも、好奇心や、希望にあふれている。

淺井 裕介さんの「全ては美しく繋がり還る」。

最初は、館を探したが、なかった。
リーフレットを片手に探す人も、わからない。

大町名店街の通路に描かれていた紋様を、
おもしろいと思って撮ったところ、作品だった。
ネパール人が経営するレストラン、ヒマラヤシェルパで、
ダルバートを食べたが、近くに来たら、下を見てください。

淺井 裕介さんの作品は、大町エネルギー博物館に、
⑪「土の泉」を見ているから、再会したことになる。

栗林 隆さんの「第1黒部ダム

1階は、ダム。
建物の反対側に回って、
2階は、ダム湖の足湯がある。浸かっていると、
奥のアルプスからモヤが流れてきた、迫ってくるように。

湊 茉莉さんの「みすずかるしなの」。

小さな蔵の下を、川が流れる。
川は、下流の酒造会社に流れ込む。その壁には、
「大正11年までは、飲料水として使っていました」
「岩魚が住んでいます。大町水物語の会」
という表示があった。

コタケマンさんの「セルフ屋敷2」。

トンネルのような室内で、生物がうごめいている。

< 八坂支所周辺 >。
ニコライ・ポリスキーさんの”Bamboo Waves

「竹の生命力を見てくれ!
と、ギョロリと目をむいている。
上から眺めたり、下から眺めたり、間から眺めたり。

フェリーチェ・ヴァリーニさんの「集落のための楕円」。

里山の旧家や農家、生活ぶりをキャンバスにした。
一点からは、楕円がつながる。そこに、お客さんが集まる。
よっくまあ、こんなことを創造するもんだ!

「北アルプス国際芸術祭」は、
初めての体験、不思議な体験だった。
次の開催は未定、今回の反響で決めるようだ。
大町市ならではの、「北アルプスと国際芸術祭」を、
見ることができたことは、幸運だった。

何があるのか? 行ってみなければ、わからない。
創造力、勇気も与えてくれる。
学校行事で訪れる学童にとっては、
大町の自然のすばらしさを知るほかに、
想像を膨らませる…絶好の機会だ。

大町の「自然 北アルプス」に、
人の創造 芸術」を加わえて、
創り上げた「北アルプス国際芸術祭」。
大町の、自然の永遠に、人の創造にも、
限りがないことを伝えてくれる。
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