季節の変化

活動の状況

縄文のビーナスは世界遺産に

2011-12-25 02:02:07 | Weblog
「縄文のビーナス」は、世界遺産にならないか。
優れた「縄文文化」を生んだ。
ほかの「縄文文化」と群で世界遺産にならないか。

縄文王国」諏訪は、
鏃(やじり)を作って交易し、集落をつくって祭祀をし、
「縄文のビーナス」という優れた芸術を生んだ。
「縄文王国」諏訪の「縄文の文化」、「生活様式」は、
世界遺産にならないか。

土偶の時代と地域」の表を作成した。


土偶の「地域」は東日本である。
西日本に、土偶はない。

土偶の「時代」は縄文時代で、弥生時代になると極端に減る。
東日本には縄文人はいたが、西日本に縄文人はいなかった。
西日本は火山活動が盛んで、人が住めなかったことによる。

最初の土偶は板状だった。
縄文時代中期から、立像になった。

「土偶の時代と地域」の表の土偶は、
大英博物館の「土偶のパワー」で展示された。
大英博物館から帰国して、
東京国立博物館の「土偶展」でも、展示された。

土偶が1万5千個ある中で、「国宝」はつぎの3つである。
「縄文のビーナス」、茅野市の棚畑(たなばたけ)遺跡。1995年、国宝に指定。
「中空土偶」、函館市の著保内野(ちょぼないの)。2007年、国宝に指定。
「合掌土偶」、青森県八戸市の風張(かざはり)1遺跡。2009年、国宝に指定。

国宝の土偶を写真で見る。
縄文のビーナス」。茅野市の棚畑(たなばたけ)遺跡。

「尖石(とがりいし)縄文考古館」で撮影。
1995年、国宝に指定。

「縄文のビーナス」は、日本最古の「国宝」になった。
美の極致「縄文のビーナス」は、縄文時代中期に生まれた。

「縄文のビーナス」は、妊娠した女性。
「どっしりしていたな!」
「うしろを見ると、尻が大きく、ハート型だった」

「縄文のビーナス」は、
環状集落の中央広場から出土したことや、
27センチと大きいことから、
個人が所有するものではなく、
安産と子孫繁栄の女神像だった。
村の祭祀(さいし)に使われたとされている。

中空土偶」、函館市の著保内野(ちょぼないの)。

函館市公式観光情報サイトから。
縄文時代後期。
2007年、国宝に指定。

合掌土偶」、青森県八戸市の風張1遺跡。

八戸市から。
縄文時代後期。出産を示している。
2009年、国宝に指定。

つぎに、諏訪地方の重要文化財の「土偶」を見る。
巳を戴く神子」(へびをいただくみこ)。藤内(とうない)遺跡。

井戸尻(いどじり)考古館の絵はがきから。
縄文時代中期。

ヘビが頭にいた。
「飛びかかってきそうだ」
ヘビは男性のシンボルであったり、
春になると出てくる生命力の強さでもある。
ヘビは神であるともいわれている。
後部に3か所、穴があって、鳥の羽をさしてあった。

エジプトの王(ファラオ)は、
コブラは守護神であり、王権のシンボルとして、
頭につけたり、王冠につけている。
ヘビを神とする共通を思わせる。

仮面の女神」。中ッ原(なかっぱら)遺跡。

「尖石縄文考古館」で撮影。
縄文時代後期。
「歩き出しそうだ」
「堂々としていたな!」

「縄文のビーナス」が出た棚畑(たなばたけ)遺跡、
「仮面の女神」頭に中ッ原(なかっぱら)遺跡、
「巳を戴く神子」頭に藤内(とうない)遺跡、
は、八ヶ岳のふもとにある。

富士山はこの写真の右、八ヶ岳のすそのから頭だけ出す。

「棚畑遺跡」⇔「中ッ原遺跡」は、
車のメーターで4.7キロ、
「中ッ原遺跡」⇔「尖石・与助尾根(よすけおね)遺跡」は、
車のメーターで4.6キロ、
「尖石・与助尾根遺跡」⇔「藤内(とうない)遺跡」は、
直線距離で15キロである。

「縄文のビーナス」の棚畑(たなばたけ)遺跡は後方、
「仮面の女神」の中ッ原(なかっぱら) 遺跡は左前方、
国の「特別史跡」、「尖石・与助尾根遺跡」は前方、
「巳を戴く神子」の「藤内遺跡」は、八ヶ岳の裾野の右になる。
八ヶ岳のふもとは、すばらしい「縄文文化」を生んだ。

縄文時代中期の諏訪地方の人口は日本一で、
日本の人口の約10パーセントを占めていた。
八ヶ岳のふもとには、縄文人が住むに必要な、
太陽が注ぎ、水が湧き、食料があった。

それに、縄文時代中期の「遺跡数」は、長野県が日本一だった。
長野県が2,700で、岩手県が500弱、山梨県が300強だから、
長野県は突出している。長野県でも、特に諏訪が多かった。

優れた「縄文文化」を生む諏訪は、
日本の文化の中心、「縄文文化のメッカ」だった。

なお、「御柱祭」はこの八ヶ岳山麓が舞台である。
八ヶ岳山麓から切り出した「御柱」は、
「尖石縄文考古館」の南(写真では右)を走る、
「御柱街道」を通って、里の「諏訪大社」の上社まで、
20キロを人力だけで曳いて、「諏訪大社」の4隅に建てる。

山梨県の釈迦堂遺跡博物館と、
山梨県立考古博物館を訪れた。

山梨県の重要文化財の「土偶」を見る。
土偶の破片」。釈迦堂遺跡。

釈迦堂遺跡博物館で撮影。縄文時代前期。
1,116個の土偶が見つかり、一括して、重要文化財になった。

円錐形中空土偶」。鋳物師屋(いもじや)遺跡。

残念、複製でした。山梨県立考古博物館で。
現物は南アルプス市が所蔵。

諏訪の和田峠から黒曜石が出る。

黒曜石。尖石縄文考古館の前庭で。

この黒曜石から、矢の先の(やじり)を作った。
さらに、作った鏃(やじり)を各地と交易している。

青森の三内丸山(さんないまるやま)遺跡(縄文時代中期)では、
諏訪の鏃(やじり)が、完成品として入っている。

「縄文遊々学」、第31回 キラリ!黒曜石の話。
http://aomori-jomon.jp/essay/?p=1101
鋭い先である。なかなかの腕前だ。
技術のほかに、形が美しい。芸術品だ。

また、山梨県の釈迦堂遺跡でも、
諏訪から鏃(やじり)が入ってきた説明がある。

縄文人にとって、鏃は生活必需品であった。
狩猟生活に欠かせない。今の猟銃である。

諏訪の縄文人は、黒曜石という土地の産物を、
加工、製造して鏃をつくるという産業を興した。
製品を交易するという、加工貿易のビジネス・モデルをつくった。

「縄文王国」諏訪は、
産業を興し、集落をつくって祭祀をし、
「縄文のビーナス」という優れた芸術を生んだ。

「縄文王国」諏訪は、世界遺産にならないか。
諏訪の歴史学者は、きちんと調査をして、保存してきた。
つぎは、世界遺産に取り組む出番がきた。

史実を調査したあとは、世界遺産として、
若者に、「すごい文化だ!」と思わせてほしい。
「日本の文化の黎明だった」
と、自信が持てるし、郷土に誇りが持てる。

ほかの地域と連携して、
「縄文文化」を群で世界遺産にすることもある。

岡本太郎は、「縄文王国」諏訪に血がたぎった。
「諏訪は、渇仰(かつごう)の地」だった。
渇仰とは、あこがれである。
渇いた者が水を切望するような。

そして、諏訪を40回近く訪れた。
「諏訪に来て、芸術が変った」
「諏訪は、心のふるさとだ」

「諏訪で大切なのは、歴史文化だ」
「諏訪の歴史を語らずして 日本の歴史を語れなくなるかも」
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御柱祭は世界遺産に

2011-12-18 00:05:05 | Weblog
岡本太郎は、諏訪の「御柱祭」(おんばしらさい)に爆発する。
「諏訪で御柱に血が騒ぐころは、ボクも爆発するんだ」

岡本太郎は「御柱祭」が大好きである。
「御柱祭は、縄文人が満ち満ちている」

「千年以上の歴史をもつ御柱がいいのは、
千年以上たった今も変わらないからだ」

岡本太郎が絶賛する「御柱祭」は、「世界遺産」にならないか。

「御柱祭」は、平安時代の初期(8世紀)に最初の記録があって、
起源は、さらにさかのぼるというから、長い歴史である。

「御柱祭」の絵巻。諏訪市博物館のパンフレットから。

「御柱」を曳く人、縄やてこを持つ人、そして、
おんべや扇子、笹を持って掛け声をかける人と、
住民が分担し、結束してお祭りをしている。

2010年の御柱祭。下諏訪。

「御柱」は、長さ17メートル、重さ10トン。

「御柱祭」は、世界遺産にならないか。
「諏訪大社」は建造物として「有形の文化遺産」であり、
そこで繰り広げられる「御柱祭」は「無形の文化遺産」である。

「諏訪大社」の下社、春宮と「一の御柱」。

「諏訪大社」は、日本で最も古い神社の一つ。重要文化財である。

「世界遺産」といえば、これまで、建造物の「有形文化遺産」が主だった。
京都の「世界遺産」といえば、神社仏閣であり、
「世界遺産」アテネのアクアポリスもといえば、
パルテノン神殿」である。紀元前438年。


アテネのアクアポリスも京都も、
「世界遺産」になっているのは、「建造物」である。
京都の神社仏閣も、アテネのパルテノン神殿も、
中では、神事や祭事、伝統行事が行われていた。

アフリカのチュニジアには、ローマ帝国時代の都市遺跡がある。
ドゥッガで、ローマの属州として4世紀に最盛期を迎える。
ドゥッガの劇場」。世界遺産。

こんなに大きな劇場は、ローマにも残っていない。
壮麗な演劇や祭事が行われていたのだろう。
今は、建造物が遺跡となっている。

ドゥッガについては、
「チュニジアの通知表」、2009年10月25日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/835bb04a26ede8c0236f3a6a151419fa
を参照してください。


建造物の「有形文化遺産」と、
伝統行事の「無形の文化遺産」とは、
入れ物と中身で、ともに重要である。
そして、不可分の総体である。

しかし、これまでの「世界遺産」は、
「形」がある「有形文化遺産」が重要視されて、
「形」がない「無形の文化遺産」は重要視されてこなかった。
「無形の文化遺産」には、廃(すた)れたり、
このままでは、なくなってしまうものもある。

そこで、浦晃一郎 前ユネスコ事務局長は、
「無形の文化遺産」も重要として、
ユネスコ事務局長のときに、
「無形文化遺産」条約を採択した(2003年)。

「ユネスコ事務局長奮闘記」、松浦晃一郎著。講談社。

「ユネスコ事務局長奮闘記」には、
「無形文化遺産」条約の採択にこぎつけたことが、書いてある。

「御柱祭」は、
諏訪大社」の「有形文化遺産」と、
御柱祭」の「無形文化遺産」の両方がある。

「諏訪大社」の上社、本宮。

「諏訪大社」は、日本で最も古い神社の一つ。重要文化財である。

「御柱祭」と「諏訪大社」が同時に「世界遺産」になればいいが、
先に「御柱祭」だけでも、「無形文化遺産」にならないか。

「世界遺産」ユネスコ事務局長は訴える、松浦晃一郎著。講談社。


「無形文化遺産」とは、どんなものか?
「世界遺産」ユネスコ事務局長は訴える、には、
5つの形態が記載されている。
①口承による伝統及び表現、
②芸能、
③社会的慣習、儀式及び祭礼行事、
④自然及び万物に関する知識及び慣習、
⑤伝統工芸技術。

「御柱祭」とは?

諏訪市博物館のパンフレットから。

「御柱祭」は、
②芸能、
③社会的慣習、儀式及び祭礼行事、
④自然及び万物に関する知識及び慣習、
が、当てはまる。

②芸能
「御柱祭」は「芸能」にあふれている。
例えば、はっぴ、はちまきの衣装や「木やり」。

「おんべ」をかざして、「木やり」の音頭で、「御柱」を曳く。

③社会的慣習、儀式及び祭礼行事
木落し」(きおとし)があり(諏訪大社、下社)、

御柱祭のパンフレットから。

川越し」(かわごし)があり(諏訪大社、上社)、


フィナーレ、「建御柱」(たておんばしら)がある。


「御柱祭」は。「山出し」、「里曳き」と変化があり、
難所があり、見せ所がある、勇壮な「大祭」である。

④自然及び万物に関する知識及び慣習
「奥山の大木は、里に下りて神となる」
八ヶ岳山麓からモミの大木「御柱」を16本切り出し、
「山出し」、「里曳き」と20キロほどを人力で曳行して、
里にある「諏訪大社」の4社の四方に建てて神木とする。


「御小屋の山のモミの木は、里へ下りて神となる」(諏訪大社、上社)。

「木落し坂」を恐る恐るのぞきこむ観光客。諏訪大社、下社。

「この急坂を、木にまたがって下りるなんて!」
と、肝を冷やしていたのが聞こえた。

「木落し」は、
「御柱祭」の最大の見せどころ、そして最大の難所で、
「木落し坂」は、斜度35度、長さ100メートルある。

「無形の文化遺産」は、廃れたり、
このままでは、なくなってしまうものがある。

しかし、「御柱祭」は、ますます盛んになっている。
諏訪の住民21万人は、「御柱祭」になると、嬉々とする。
そして、総勢で参加し、結束して「御柱祭」に取り組む。

それに、「御柱祭」の範囲は、
諏訪湖周辺から八ヶ岳にかけて、6市町村、
(諏訪市、茅野市、岡谷市、下諏訪町、富士見町、原村)
と広範囲に及ぶ。

地域の住民が、総勢で手がけるお祭りを、
「御柱祭」以外に見たことがない。
大祭で、しかも、長い歴史がある。

イギリスの「ストーンヘンジ」。2004年撮影。

紀元前2500年の巨石遺跡で「世界遺産」。

1980年代に行ったときは、観光客はストーンヘンジの中に入って、
巨石に触ったりしたが、2004年は遠巻きにするだけだった。
左端に、小さく観光客が写っている。

ストーンヘンジの中では、
数十名の白装束、黒装束、赤装束が、神事を始めた。
しかし、すぐに終わった。

「御柱祭」には、住人がこぞって参加するほかに、
観光客」も増えている。2010年の人出は180万人で、過去最高である。

観光バスで来て、観覧席から上社の木落しを観る。2010年4月。

「御柱祭」には、諏訪の人は嬉々とし、血は湧き、肉は踊る。
そして、民俗の大催事を総勢で取り組み、結束して継承している。

松浦晃一郎 前ユネスコ事務局長は、
文化」とは、
広い意味では、「人間の生活様式」を指す。
狭い意味では、「人間の芸術的活動及びその生産物」と定義したい。
と、言われている。

「御柱祭」は「無形文化遺産」にならないか。
「無形文化遺産」の5つの形態があって、
①口承による伝統及び表現、
②芸能、
③社会的慣習、儀式及び祭礼行事、
④自然及び万物に関する知識及び慣習、
⑤伝統工芸技術。
「御柱祭」は、②、③、④が当てはまる。
②芸能、
③社会的慣習、儀式及び祭礼行事、
④自然及び万物に関する知識及び慣習。

松浦晃一郎 前ユネスコ事務局長は、
③と④の2形態は、文化的景観の定義の軸でもある。
と、言われている。

「御柱祭」は、まさしく「文化」である。
独自の「文化」であり、世界に誇る「文化」である。

諏訪大社を訪れる観光客。

諏訪大社、上社と「一の御柱」。
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岡本太郎が爆発する御柱祭

2011-12-11 00:01:23 | Weblog
岡本太郎が爆発する「御柱祭」(おんばしらさい)。
諏訪で御柱にが騒ぐころは、ボクも爆発するんだ」

岡本太郎といえば、
大阪万博のシンボル「太陽の塔」があり、
渋谷駅に「明日の神話」がある。


それに、岡本太郎が爆発する「御柱祭」がある。
「芸術は、爆発だ!」
と表現する岡本太郎は、
「御柱祭にも爆発する!」

「御柱祭」とは、7年に1度、
八ヶ岳山麓から、もみの大木を切り出し、
山を下る「山出し」、
里を曳く「里曳き」、
諏訪大社の4隅に「御柱」を建てて、
御神木とする「建御柱」がある。
諏訪の住人、21万人が総勢で手がけるお祭りである。

御柱」は、長さ17メートル、重さ10トン。下諏訪。2010年4月。

最大の難所「木落し」(きおとし)をぶじに終えて、
氏子は安どしているように見える。そして、
里にある諏訪大社の下社に曳行(えいこう)して、
フィナーレ「建御柱」を迎える。

2011年は、岡本太郎の「生誕100年」だから、
岡本太郎が爆発する「御柱祭」は、
2011年のうちに書いておきたい。

岡本太郎の生誕100年を記念して、
いくつかの美術館で、企画展が開催された。
東京国立近代美術館では、「生誕100年 岡本太郎展」。2011年。
川崎の「岡本太郎美術館」では、「生誕100年-あっぱれ太郎」。2011年。
そして、下諏訪町の「ハーモ美術館」では、「岡本太郎と祭り展」。2010年。

東京国立近代美術館、「生誕100年 岡本太郎展」。


川崎の「岡本太郎美術館」、「生誕100年-あっぱれ太郎」。


ポスター「女と男と岡本太郎」。「岡本太郎美術館」。


「絵」や「彫刻」のほかに、岡本太郎の「年譜」が展示されている。
岡本太郎と「御柱祭」との関係をさがしてみた。
「年譜」には、岡本太郎が「御柱」(おんばしら)に乗っている写真があった。
「諏訪の御柱祭にて」
「体験を通して日本文化を探る」1980年、とある。

下諏訪町の「ハーモ美術館」の「岡本太郎と祭り展」。
岡本太郎が「御柱」に乗っている写真がある。

写真提供:小口惣三郎氏。1980年の「御柱祭」。
http://www.harmo-museum.jp/taro-okamoto.html

「おんべ」を振って「御柱」を曳行する氏子(うじこ)を見て、
「縄文人がいっぱいいる!」
と、岡本太郎は感激した。
そして、氏子のはっぴをはぎ取って、「御柱」に乗った。

「御柱」の一番太い先端に乗って、
岡本太郎は、「爆発しそうだ!」。

岡本太郎が「御柱」に乗ったのは平地である。
しかし、平地だけでは、不満である。
「木落し」に乗りたい!

木落し」。

信濃毎日新聞、2011年2月27日から。
岡本太郎が撮った「木落し」。1980年。

「木落し坂」は急斜面だ。斜度35度、長さ100メートル。
「木落し」は、「御柱祭」の最大の見せどころ、そして最大の難所。

「木落し」は、諏訪の男の、血は沸き、肉が踊るところ。
「御柱」から転げ落ちたり、下敷きになって、死傷者がでる。

「木落し」に乗せろ!
と、岡本太郎は言い張った。
それで、氏子はなだめたり、懇願した。
「先生やめてください!」
「それだけはやめてください、死にますから!」
と、岡本太郎を「御柱」から引きずりおろした。

岡本太郎は、怒った! 怒った!
「死んだっていい それが祭りだ!」
しかし、氏子としては、
岡本太郎が死んでもらってはこまる。

岡本太郎は1996年に亡くなる。
「木落し」ではない、病気で。
1998年の「御柱祭」では、
岡本太郎の遺志を継いだ氏子によって
「木落し」から「建御柱」まで乗ることができた。
「あんなに御柱が好きな人はいない」
と、「遺影」が氏子に抱かれて。

諏訪大社の下社、秋宮、「一の御柱」。

下諏訪(しもすわ)。2011年8月。

岡本太郎が「御柱祭」を大好きだったことは、
岡本太郎の「語録」でわかる。
岡本太郎の「語録」は、下諏訪駅の待合室にある。
それと、下諏訪観光案内所発行のパンフレット、
「諏訪での岡本太郎さん語録より」にも書いてある。

下諏訪駅の待合室には、
「ありがとう岡本太郎さん」諏訪での語録 書展。2011年3月。

下諏訪向陽高校の生徒たちによる書展。

岡本太郎は、「御柱祭」について、

「千年以上の歴史をもつ御柱がいいのは、
千年以上たった今も変わらないからだ」

「御柱祭」の絵巻。諏訪市博物館のカタログから。

「御柱」を曳く人、縄やてこを持つ人、そして、
おんべや扇子、笹を持って掛け声をかける人と、
住民が分担し、結束してお祭りをしている。

「御柱祭」は、平安時代の初期(8世紀)に最初の記録があって、
起源は、さらにさかのぼるというから、長い歴史である。

地域の住民が、総勢で手がけるお祭りを、
「御柱祭」以外に見たことがない。
諏訪湖周辺から八ヶ岳にかけて、6市町村と広範囲で、
(諏訪市、茅野市、岡谷市、下諏訪町、富士見町、原村)
住人、21万人が結束して、「御柱祭」に取り組んでいる。

「御柱祭」には観光客も参加できる。
危険な「木落し」、「川越し」、「建御柱」には近寄れないが、
「里曳き」では、氏子に混じって綱を曳くことができる。
氏子の援助によって、「御柱」に乗ることができる。

「御柱祭」については、
「諏訪のランドマークは諏訪大社」、2010年10月27日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/b2451d434d333951ab72a7401b852bb2
に記載したので、参照してください。

岡本太郎は、「御柱祭」に、
縄文人の燃えたぎるエネルギーを見て、

「諏訪は、縄文の文化が生きている」

「諏訪は、縄文の文化が生きている」を、さらに知るには、
「尖石縄文考古館」(とがりいし)、茅野市に行けばいい。
八ヶ岳山麓は「縄文の王国」であった。

それは、今から5000年前の縄文時代の中期に、
長野県の「遺跡数」は、ダントツの日本一だった。
長野県が2,700で、岩手県が500弱、
山梨県が300強だから、長野県は突出している。
(「縄文時代の終焉」、春成秀弥著から)
長野県でも、特に諏訪が多かった。つぎに伊那谷。

それに、縄文中期の「諏訪の人口」は日本一だった。
日本の人口の約10パーセントを占めていた。

そして、諏訪の縄文人には「芸術の傑作」がある。
縄文のビーナス」。高さ27センチ。国宝。

茅野市の「棚畑(たなばたけ)遺跡」から出土した。
約5000年前の縄文中期。
「尖石縄文考古館」、茅野市。
写真は撮らしてくれる。

「ミロのビーナス」よりも、2800年以上も前である。
「縄文のビーナス」は、大英博物館にも貸し出され、展示された。
大英博物館から帰国して、東京国立博物館の「土偶展」でも展示された。

「縄文のビーナス」は、妊娠した女性。
集落の中央広場から出土したことや、
27センチと大きいことから、
個人が所有するものではなく、
安産と子孫繁栄の女神像だった。
村の祭祀(さいし)に使われたとされている。
「縄文のビーナス」は、日本最古の「国宝」になった。

諏訪の縄文人には、さらに「芸術の傑作」がある。
仮面の女神」。高さ34センチ。重要文化財。

茅野市の「中ッ原(なかっぱら)遺跡」から出土した。
約4000年前の縄文後期。
「尖石縄文考古館」、茅野市。

「仮面の女神」は、墓地にあった。
遺体を埋葬した上の土の中から見つかった。
「仮面の女神」は、「重要文化財」になっている。

「仮面の女神」も、「縄文のビーナス」とともに、
大英博物館で展示された。「土偶のパワー」。
大英博物館のあとでは、東京国立博物館の「土偶展」でも、
「縄文のビーナス」、「仮面の女神」は展示された。
諏訪の縄文人は、すばらしい文化を創った。
日本の文化の起源だ。世界に誇る日本の文化だ。

「縄文のビーナス」が出た「棚畑遺跡」と、
「仮面の女神」が出た「中ッ原遺跡」は、
霧が峰を走るビーナスライン沿いにあって、
2つの遺跡の距離は、車のメーターで4.7キロだった。
たった4.7キロから、「国宝」と「重要文化財」が出た。

棚畑遺跡」から、八ヶ岳がよく見える。

「縄文のビーナス」は、左奥の日本電産ニッシンの建設現場から見つかった。
八ヶ岳は、中央奥。

中ッ原遺跡」からも、八ヶ岳がよく見える。

「仮面の女神」は中央の小屋にあって、レプリカが置いてある。
奥は八ヶ岳。右手前の芝生のふくらみは墓。
手前の石模様は住居跡を示し、中央に炉がある。

左の手前は「御柱」と思いたいが、案内板には、
大型土抗(どこう)から、柱を再現したもので、
「御柱」などのモニュメントや高床建物が考えられる、とある。

八ヶ岳山麓には、すごい「縄文人」がいたもんだ! 
八ヶ岳山麓の「風土」は、すばらしい芸術を生む。

この縄文人のすばらしい造形美、
「縄文のビーナス」、「仮面の女神」に会うには、
尖石縄文考古館」、茅野市へ行けばいい。

「尖石縄文考古館」(右奥)では、
「縄文のビーナス」(国宝)、
「仮面の女神」(重要文化財)のほかに、
「尖石遺跡」、「棚畑遺跡」、「中ッ原遺跡」、「与助尾根遺跡」など、
八ヶ岳山麓の縄文人の「文化」に会える。

岡本太郎は言う。

「諏訪で大切なのは、歴史文化だ」
そして、
「諏訪の歴史を語らずして 日本の歴史を語れなくなるかも」

「御柱祭」になると、
諏訪の人は、血は騒ぎ、肉は踊る。
諏訪の人が、結束して手がける「御柱祭」に、
岡本太郎は「爆発」する。
「諏訪は、縄文の文化が生きている」
「御柱祭は、縄文人が満ち満ちている」
「諏訪で御柱に血が騒ぐころは、ボクも爆発するんだ」
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東山魁夷の「安曇野を想う」

2011-12-04 00:08:26 | Weblog
信州の長峰山(ながみねやま)には、
東山魁夷の「安曇野を想う」の碑がある。


東山魁夷は、川端康成井上 靖と3人で長峰山を訪れた。

長峰山から安曇野、北アルプスを望む3人の巨頭。
左から川端康成、東山魁夷、井上 靖。1970年5月12日。

3人の巨頭が、安曇野で一堂に会したきっかけは、
川端康成が、東山魁夷と井上 靖に送った手紙である。
「多くの写真などをみますと余りに美しいので、
御誘ひいたしたく存じます」

そして、安曇野を目の当たりにして、
川端康成は、
「残したい 静けさ 美しさ」
と言われた。

東山魁夷は、
「安曇野は、なんと美しかったことか」
と、驚嘆された。

東山魁夷の「安曇野を想う」の碑には、つぎのようにある。


 安曇野を想う
        東山魁夷

五月の若緑に蔽われた安曇野はなんと美しかったことか
上高地から流れ出る梓川が高瀬川と合流し
犀川となって北に流れる平野の上に高く連なる北アルプスの山々
常念、東天井、燕と
長峰山の上で案内人の指し示す残雪の嶺々を仰ぎながら
飽かず眺めたひとときが忘れられない

「安曇野を想う」の碑にある、
「常念、東天井、燕」を写真で見る。
それと、「残雪の嶺々」も。

「常念、東天井、燕」の写真。
この日は、朝焼けがあった。2011年11月。

左のピラミッド型が常念岳、赤い三角が横通岳(よこどおしだけ)、
東天井岳(ひがしてんしょだけ)、中央の大天井岳(おてんしょだけ)をへて、
右端の燕岳(つばくろだけ)へと連なる。
燕岳の手前の富士山型は、有明山(ありあけさん)。
ふもとは安曇野。

「残雪の嶺々」。燕岳から、さらに右(北)の北アルプス。2011年11月。

左の大きな山が蓮華岳(れんげだけ)、
3つのピークがある爺ケ岳(じいがたけ)、
2つのピークの鹿島槍ヶ岳(かしまやりがたけ)が連なる。

左端の白い三角形は空木岳(うつぎだけ)、
その右に立山(たてやま)が小さく見える。
ふもとは、安曇野の松川で、「安曇野ちひろ美術館」があるところ。

鹿島槍ヶ岳の右(北)の「残雪の嶺々」。2011年11月。

左から鹿島槍ヶ岳、五竜岳(ごりゅうだけ)、唐松岳(からまつだけ)、そして、
白馬三山(しろうまさんざん)の白馬鑓ケ岳(はくばやりがたけ)、
杓子岳(しゃくしだけ)、白馬岳(しろうまだけ)が連なる。

日が昇って、老若男女が長峰山に来る。2011年11月。

ふもとから狭く曲がりくねった6キロの林道を、
登ってきたごほうびがある。それは、
川端康成が言われた、「残したい 静けさ 美しさ」、
東山魁夷が言われた、「安曇野は、なんと美しかったことか」、
を実感できること。

「安曇野を想う」の碑の裏には、つぎのようにある。


          撰 文
 日本芸術院会員
 文化勲章受章者
東山魁夷画伯 かって昭和四十五年五月に
川端康成、井上靖両先生とともにここ長峰山で遊ぶ

 そして雄大な安曇野の景観を目の当りにして
圧倒的なパノラマに驚愕感動した 
以後豊かな自然の贈り物に囲まれた日々を過ごせることへの感謝と
最近の急速な開発によってそこなわれつつある景観を憂慮し
多くの人たちに郷土を愛する心を持ち続けてほしいとの切なる願いから、
ここにその熱き想いを揮毫していただく

 平成七年は明科町制施行四十周年にあたり
自然保護の立場からこれを刻し
保全への決意とともに記念するものである

  平成七年九月
           長野県 明科町

「安曇野を想う」の碑は、3巨頭が会した長峰山に、
明科町(あかしなまち)、現在の安曇野市が1995年に建てた。

「残雪の嶺々」を、ふもとの安曇野から撮った写真がある。2011年3月。

左から3つのピークがある爺ケ岳、2つのピークの鹿島槍ヶ岳、五竜岳、唐松岳、
そして、白馬三山の白馬鑓ケ岳、杓子岳、白馬岳が連なる。

「安曇野を見たい」と、
たずねて来るお客さんには、この景色や長峰山にご案内する。
屏風のようにそそり立つ、3,000メートル級の北アルプスの嶺々に、感激される。

長峰山頂近くにある「天平の森」では、
北アルプスを眺めながら食事ができる。

明科の名物、ニジマスのから揚げをメインとした天平定食。
「新米ですよ」
と言われたご飯をお代わりした。
うまかった。2011年11月。
床暖房で、足がホカホカしてくる。
目も、口も、足も、満足! 満足!

平日に食事をすると、風呂のサービスがある。
風呂から眺める北アルプス、最高だ!
「いいところだな!」と思う。

スイスのツェルマットの景観にも劣らない。

ツェルマットの街とマッターホルン(4,478m)。

しかし、ツェルマットとの違いがある。
安曇野には、クモの巣のような電柱・電線があり、
ツェルマットには、電柱・電線がない。
このことを、
「ツェルマットの景観」、2010年11月21日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/b72eadc9f0ef5e924b4da2e3d1a78fbb
に書いた。

日本の「電線の埋設率」は、大きく立ちおくている。
「電線の埋設率の国際比較」、2011年2月13日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/7ed94ec8f3bdafa473ac134d7ee7c355
を見てください。

先進国の中では、最低である。そして、
1)「景観」が悪く、
2)「危険」で、しかも、
3)「電気料金」が高い。

安曇野市は景観条例で、景観を良くしようとして、
広告看板を規制し、視野をさえぎる高い建物を規制している。
つぎは、電柱・電線の「埋設」にも取り組んでほしい。

「二年坂の電線」、2011年10月30日では、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/ec3c920c2d3b97c768793cdc09f5cede
「二年坂」から、クモの巣のような電柱・電線を取り払った、と書いた。

そして、「」が開いた。
日本も、電線を埋設する技術はある。

電力会社は、電線を埋設しないと、
利益を、景観のために使っていない、
安全は、後回しにしている、と思われる。

川端康成が言われたこと、そして、
東山魁夷が言われたことは、
いまの日本を表している。
川端康成は、
「余りに美しい」
「残したい 静けさ 美しさ」。

東山魁夷は、
「安曇野は、なんと美しかったことか」
「最近の急速な開発によってそこなわれつつある景観を憂慮」、
「多くの人たちに郷土を愛する心を持ち続けてほしい」

東山魁夷からのメッセージが、安曇野市の明科高校にある。
玄関前にある「碑」を撮らせてもらった。


次代を荷う皆さんは
あの安曇野の美しさを
長く伝えて下さるよう
お願いいたします

 平成四年二月
         東山魁夷
コメント
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