季節の変化

活動の状況

閲覧状況2012年 御柱祭、縄文文化シリーズ

2012-11-25 00:03:18 | Weblog
あと一ヶ月で2012年も終わろうとしている。
そして、ブログ「季節の変化」は満5年になる。
この5年間、毎週欠かさずにブログを掲載してきた。

2012年の締めくくりは、「季節の変化」で、
読者はどのシリーズのタイトルに、
興味や関心をもたれたのだろうか?
2012年の閲覧状況をみる。

2012年の「季節の変化」の掲載はつぎ。
御柱祭、縄文文化」シリーズ、
放射線量」シリーズ、
東山魁夷」シリーズ、
幸せと戦争」シリーズ、
駒ヶ岳、氷河地形、紅葉」シリーズ、
草間彌生」シリーズ。

御柱祭、縄文文化」シリーズ9回(一部2011年)。
1)「岡本太郎が爆発する御柱祭」、2011年12月11日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/79b7598d139022e4b5d3d221979c8586
2)「御柱祭は世界遺産に」、2011年12月18日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/b042a9c271d5bd38025af89fe0e4d92c
3)「縄文のビーナスは世界遺産に」、2011年12月25日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/2aec603cdd0df61da7138b616a42d8d1
4)「「縄文王国」諏訪を眺める」、2012年1月1日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/8e2df8d4be961bdcc6f41d43d7754090
5)「御柱祭の舞台は「縄文王国」諏訪」、2012年1月8日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/4ab82d52dfaed48925dc9f4d39dc3324
6)「岡本太郎が縄文美術を発見した」、2012年1月15日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/67b4095dc85aa98e50496fc797dfa3d7
7)「合掌土偶のなぞ」、2012年1月29日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/30198ea423fc91bd965ad8057c9b7074
8)「三内丸山遺跡のなぞ」、2012年2月5日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/b0bf8e9e26a45b35e23cb26e15b3504d
9)「御神渡りの神事」、2012年2月12日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/c1fa1153926cdc476af592c917abe713

放射線量」シリーズ8回(一部2011年)。
1)「福島市の放射線量2012年」、2012年1月22日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/2942155d17396e57ce694557cf16e261
2)「累積の被ばく量が1mSvを超えた」、2012年5月20日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/17eac3dac01b2c12fae54c8ab6381dfd
3)「このブログの人気記事は「福島市の放射線量」」、2012年5月27日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/c52df0802fcb9eb5c8c7d19ad49e2010
4)「日本のランドマークは原爆ドームと原発の廃炉」、2012年8月12日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/b46dc71e9cf6be905384b7379af39ee5
5)「南相馬市の放射線量」、2011年7月10日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/a01c1d1ec1ed310effe03992a7f9b83d
6)「福島市の放射線量」、2011年9月11日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/f6427ef824f387fce8ed19399f00f7cf
7)「東北新幹線の放射線量」、2011年9月18日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/c3d0691423740012734ab8dd94e63286
8)「六ヶ所原燃PRセンターの放射線量」、2011年10月9日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/ee2d42dc62242be4c1b26d5d0434d5c1

東山魁夷」シリーズ18回(一部2011年)。
1)「東山魁夷の「花明り」」、2011年11月6日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/5d2fb467f0b2f445c4612087812e077d
2)「東山魁夷の「年暮る」」、2011年11月13日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/a5dac37b237ee890a9b85629131e1808
3)「東山魁夷の「緑のハイデルベルク」」、2011年11月20日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/f7c7523990957d0900cf066cf0984e63
4)「川端康成、東山魁夷、井上靖の安曇野」、
2011年11月27日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/e0ec23bbd5be088a697624dd222d06bc
5)「東山魁夷の「安曇野を想う」」、2011年12月4日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/6b4d0e185dffac26dde0160f895e6f31
6)「東山魁夷が想う京都」、2012年2月19日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/ba8c3630ff34fb37eea0fbf652e8f504
7)「東山魁夷の安曇野への旅」、2012年2月26日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/4299107241d287b1069fb4d678761e32
8)「東山魁夷の「年暮る」から半世紀」、2012年3月4日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/4299107241d287b1069fb4d678761e32
9)「東山魁夷の「北山初雪」は残っていた」、2012年3月11日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/2ffa9c842818d587aaa8d8f90d339cd9
10)「東山魁夷のハイデルベルクはドイツの京都」、2012年3月18日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/63fd6769eb683384262393522d7e20b1
11)「東山魁夷のザルツブルク」、2012年3月25日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/65a99ce58c1287c48ccb357e29176a03
12)「東山魁夷の北欧」、2012年4月1日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/d27c6e3e43951a5789a0996817186533
13)「東山魁夷の「行く秋」が生まれた町」、2012年4月8日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/09c25b7272ba08d2403ea3ad61313afe
14)「東山魁夷と信州の絆」、2012年4月15日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/9e52195242e2cea284b414a400fd22d9
15)「東山魁夷の「自然は心の鏡」」、2012年4月22日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/9ff6b846278e55a02e7ee7f05e429595
16)「東山魁夷の「残照」」、2012年4月29日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/88651acd2017d5783aa6c0f4d183cf22
17)「東山魁夷の心の故郷を失った人」、2012年5月6日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/49d960a63fc3dec03c02b81f75574623
18)「東山魁夷のブログの閲覧状況」、2012年5月13日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/2ae595d72a2bc0c938b331f3a573c584

幸せと戦争」シリーズ15回。
1)「幸せを感じるときは?」、2012年6月3日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/2439400dce70acf2abc74aa6d9901b62
2)「満州からの引揚者の幸せは?」、2012年6月10日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/55ac2f7f0cdcd9b131f591a2c1ed0f5b
3)「満蒙開拓団は阿智村に注目」、2012年6月17日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/02ca44747cd22e2cabad80c3b680f36d
4)「満蒙開拓団の幸せは?」、2012年6月24日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/55ed27b7ccf1471fd8369ec4d9791bdf
5)「満蒙開拓団の女性に幸せはない」、2012年7月1日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/5c3b03d1d6f6c716aa85b760a87f2755
6)「世界で一番悲惨な言葉」、2012年7月8日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/fcf4277fc8980498f33ba971795098a6
7)「中国残留者2世の幸せは?」、2012年7月15日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/e54c3361cac3f9c32dcfb5871a3b83c5
8)「満蒙開拓団の痕跡」、2012年7月22日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/7c1d82aa8387ba6c103cb98adbe46918
9)「大日向村は満蒙開拓団のモデルケース」、2012年7月29日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/06fc71750703afcedf419e93fd12aaa7
10)「開拓を知るなら北海道大学の第2農場」、2012年8月5日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/2322e0c4a6941da782c9f295a5aebddc
11)「戦争ポスターは焼却せよ」、2012年8月19日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/178c5a26cf3aa96d7fbdb5eb57653617
12)「戦争ポスターの謎とき」、2012年8月26日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/242a971ae119e2e0c77d5c9188b354b6
13)「戦争の証拠隠滅」、2012年9月2日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/6373e9fcdda2502639dac8eb230adcad
14)「重要書類は疎開から焼却へ」、2012年9月9日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/aa6a80156230a114c0eca482d765fd07
15)「幸せと戦争の閲覧状況」、2012年9月16日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/7e06acc3ac2f8fcfac8691dcf4566d79

駒ヶ岳、氷河地形、紅葉」シリーズ6回。
1)「駒ヶ岳の白いコマクサ」、2012年9月23日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/744d0e49c1b6d1b18d1a11d72a9a7210
2)「駒ヶ岳と世界の氷河地形」、2012年9月30日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/d79b41f417d8ef47001dfd320cde2ed9
3)「駒ヶ岳のカール地形はお花畑」、2012年10月7日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/fa32ab0423ccfc6f558b37f7d7a75804
4)「駒ヶ岳は「聖職の碑」の現場」、2012年10月14日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/f6832da34a8ecda236f0f362df9e3ff3
5)「駒ヶ岳の紅葉とカナディアン・ロッキー」、2012年10月21日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/f77e7fe6e81a67973baef9a983eaa9be
6)「ビーナスラインの紅葉狩り」、2012年10月28日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/f4a3a9a7896b4a62a9b96386cf863c21

草間彌生」シリーズ3回。
1)「草間彌生色の松本」、2012年11月4日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/265231232fb768219f03abb6a2e9bd33
2)「草間彌と川端康成」、2012年11月11日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/c6063f4bb531b6c9eca7e63e30bc1dcc
3)「草間彌生と東山魁夷がみる日本」2012年11月18日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/9960b497c11ade2cf353c95b04998048

「季節の変化」の閲覧状況は、つぎの検索エンジンでみる。
Google、Yahoo! Japan、bing。
Yahoo! Japanには、Googleの検索エンジンが、
供給されていると思うから、順位は、Googleと似ている。

今回は「御柱祭、縄文文化」シリーズをみる。
御柱祭、縄文文化」シリーズの閲覧状況 (1/2)。


1)「岡本太郎が爆発する御柱祭」、2011年12月11日。
「御柱」に乗る岡本太郎。今にも爆発しそうだ!

下諏訪町の「ハーモ美術館」の「岡本太郎と祭り展」。
写真提供:小口惣三郎氏。1980年の「御柱祭」。
http://www.harmo-museum.jp/taro-okamoto.html

「御柱祭」や「縄文美術」の調査のために、
岡本太朗は、諏訪を40回近く訪問している。

2)「御柱祭は世界遺産に」、2011年12月18日。
「御柱祭」は、平安時代の初期(8世紀)に最初の記録があって、
起源は、さらにさかのぼるというから、長い歴史である。
「御柱祭」の絵巻。諏訪市博物館のリーフレットから。

「御柱」を曳く人、縄やてこを持つ人、そして、
おんべや扇子、笹を持って掛け声をかける人と、
住民が分担し、結束してお祭りをしている。

3)「縄文のビーナスは世界遺産に」、2011年12月25日。
4)「「縄文王国」諏訪を眺める」、2012年1月1日。
縄文王国 諏訪」、八ヶ岳方面の写真。杖突峠(つえつき とうげ)から。

左端の三角は蓼科山T。Sは茅野駅で、茅野市から右へ原村、富士見町へと続く。
茅野駅Sの左先は諏訪湖Uにつながる。

八ヶ岳Yのふもとからは、縄文時代や石器時代の国宝、
重要文化財が多数出ている。
日本で最古の国宝、「縄文のビーナス」①は、
「棚畑遺跡」(たなばたけ いせき)から出土。

縄文時代前期、約5000年前。高さ27センチ、重さ2.14キログラム。
「尖石(とがりいし)縄文考古館」に収蔵されている。茅野市。
実物で撮影はOK。

重要文化財の「仮面の女神」②は、
「中ッ原遺跡」(なかっぱら せき)から出土。

縄文時代中期、約4000年前。高さ34センチ、重さ2.7キログラム。
実物で撮影はOK。
「尖石縄文考古館」に、「縄文のビーナス」とともに収蔵されている。
「縄文のビーナス」も「仮面の女神」も、大きく、威風堂々としている。

国の「特別史跡」、「尖石・与助尾根遺跡」(とがりいし・よすけおね)には、
尖石」③(とがりいし)がある。茅野市。

先端のカールは、石斧(せきふ)を作るときに磨いたときにできたくぼみ。
「尖石」は、信仰に使われたといわれている。
「尖石・与助尾根遺跡」には、「尖石縄文考古館」があって、
「縄文のビーナス」と「仮面の女神」が展示されている。

阿久遺跡」④(あきゅう いせき)は、
縄文時代前期、約5000年から6500年前の遺跡。原村。

「阿久遺蹟」から、大集落や、桁外れの規模の祭祀(さいし)場、
直径120メートル、日本で最も古い環状集石群(ストーン・サークル)、
が見つかり、縄文の時代観をくつがえすものとなって、
国の指定史跡になっている。

重要文化財の「神像筒型土器」⑤(しんぞうつつがたどき)は、

「藤内遺跡」(とうない せき)から出土。富士見町。
「井戸尻考古館」に収蔵。絵はがきから。
「藤内遺跡」から出た土器や土偶199点は、
重要文化財に指定されている。

霧ヶ峰から切り出された「黒曜石」は、「やじり」⑨に加工されて、

全国に流通した。
青森県の「三内丸山遺跡」で「石鏃」(せきぞく)が展示されている。
霧ヶ峰の黒曜石は、「やじり」に加工し、姫川を下って日本海に出て、
海路で「三内丸山遺跡」に運び込まれた。

「やじり」は矢の先として、狩猟生活には欠かせない。
今で言えば猟銃の弾である。
加工技術が優れているから、形が美しい。
それに、職業が確立していたことがわかる。
黒曜石を切り出す職人、やじりに加工する技術者、
全国に運搬する流通業者と物々交換する販売者。

国宝の「縄文のビーナス」①と重要文化財の「仮面の女神」②、
国の特別史跡「尖石」③、重要文化財の「神像筒型土器」⑤間の距離は、
「縄文のビーナス」①の「棚畑遺跡」から、
「仮面の女神」②の「中ッ原遺跡」までは、3.9キロ。歩いて1時間。

「仮面の女神」②の中ッ原遺跡」から、「尖石」③がある
国の特別史跡「尖石・与助尾根遺跡までは、2.6キロ。
「尖石・与助尾根遺跡」から、
「神像筒型土器」⑤の「藤内遺跡」までは、14.6キロ。
トレッキンッグの距離から、国宝、重要文化財が続々と出ている。
優れた縄文美術の誕生で、「縄文王国 諏訪」といわている。

梅原猛 新潟県十日町市博物館名誉館長は、
新潟県、福井県で、つぎのように講演されている。
新潟県で。
「縄文中期の土器は何処が一番良いのか。
明らかに長野県から新潟県にかけてです。
諏訪湖周辺の地域から素晴らしい縄文土器が出る。
信州からここにかけて縄文中期は一番文化が栄えた

福井県で。
「縄文中期において最も優れた土器を産出するのは、
諏訪湖の周辺であります。
今から五千年から四千年前、縄文中期と言われる時代においては、
諏訪地方日本の文化の中心地方であったと思われます」


御柱祭、縄文文化」シリーズの閲覧状況 (2/2)。


5)「御柱祭の舞台は「縄文王国」諏訪」、2012年1月8日。
御柱祭」は、
「諏訪大社、「上社」(かみしゃ)と「諏訪大社、下社」(しもしゃ)で行われて、
それぞれのルートで「御柱」を曳行(えいこう)するが、
国宝、重要文化財がある「縄文王国 諏訪」が舞台である。

「諏訪大社、上社」の「御柱祭」の舞台。
「縄文王国 諏訪」、八ヶ岳方面の写真に、
「諏訪大社、上社」の「御柱」の曳行(えいこう)ルートを重ね合わせる。

諏訪大社、上社の「御柱」の曳行ルートA、B、C。

八ヶ岳Yからモミの木、8本を切り出して、
「御柱綱置場」Aから曳行(えいこう)をスタートする。
「御柱街道」Bを曳き、「木落し坂」(きおとしざか)Cで落し、
「川越し」(かわごし)で「御柱」を清め、
諏訪大社、上社の前宮Dと本宮Eへ曳き、
(次の「諏訪湖方面の写真」)
前宮と本宮の4隅に「御柱」を建てる、
「建御柱」(たておんばしら)でフィナーレを迎える。

「諏訪大社、上社」、本宮の「一の御柱」。


「縄文王国 諏訪」の遺跡はつぎで、縄文時代のほかに石器時代もある。
①は、国宝「縄文のビーナス」の「棚畑遺跡」、茅野市。
②は、重要文化財「仮面の女神」の「 中ッ原遺跡」、茅野市。
③は、国の「特別史跡」、「尖石・与助尾根遺跡」、茅野市。
④は、国の「史跡」で、祭祀場がある「阿久遺蹟」、原村。
⑤は、重要文化財「神像筒型土器」ほかの「井戸尻遺跡群」、富士見町。
⑨は、「黒曜石」が出る霧が峰、下諏訪町。
「黒曜石」は、狩猟には欠かせない「鏃(やじり)」として加工され、
全国に流通した。

「諏訪大社、下社」の「御柱祭」の舞台。
「縄文王国 諏訪」、諏訪湖方面の写真(杖突峠から)に、
「諏訪大社、下社」の「御柱」の曳行(えいこう)ルートを重ね合わせる。

諏訪湖Uの左奥は北アルプスV、右奥は美ヶ原高原W。上諏訪駅X。

「諏訪大社、下社」の「御柱」の曳行ルートは、
「棚木場」K(たなこば)からスタートし、
「木落し坂」Lで「御柱」を落して、
「諏訪大社、下社」の「秋宮」Mと「春宮」Nへ曳き、
「建御柱」(たておんばしら)でフィナーレを迎える。

「諏訪大社、下社」、秋宮の「一の御柱」。



「縄文王国 諏訪」の遺跡はつぎである。
重要文化財「顔面把手付深鉢形土器」⑥(がんめんとってつきふかばちがたどき」は、

「海戸遺跡」から出土。岡谷市。岡谷美術考古館から。

霧ヶ峰から切り出された「黒曜石」は(「尖石縄文考古館」で)、

「やじり」⑨に加工されて、全国に流通した。
黒曜石という土地の産物を、
やじりに加工、製造する産業を興し、
全国に流通して製品を交易するという、
加工貿易のビジネス・モデルをつくった。


6)「岡本太郎が縄文美術を発見した」、2012年1月15日。
岡本太郎が「縄文土器」を優れた「芸術品」とした。
それまでの「縄文土器」は、時代を考証する研究対象にすぎなかった。
水煙渦巻文深鉢」(すいえんうずまきもんふかばち)。「井戸尻考古館」。

曽利遺跡。縄文時代中期。富士見町。「井戸尻考古館」の絵はがきから。
10円はがきのモデルになった(1972年)。

岡本太朗は、諏訪を40回近く訪れている。
美術誌「みづゑ」に「縄文土器論」を発表して、
縄文土器の芸術性を絶賛した(1952年)。
「縄文土器論」-民族の生命力
「現代人の神経にとっては、まったく怪奇だが、
この圧倒的な凄(すご)みは、日本人の祖先の誇った美意識だ。
それは今日なお、われわれの血の深い底流にひそんでいる」
「この非日本的と思われるほど強烈な美学を、
ふたたび、われわれのものとして取りもどしたい」

梅原猛、新潟県十日町市博物館名誉館長は講演されている。
岡本太郎縄文土器の芸術性を発見した、大した人だと思います」
「岡本太郎の発言を契機にして縄文土器は芸術になった」


7)「合掌土偶のなぞ」、2012年1月29日。
合掌土偶」は、なにを意味しているのか?
「是川縄文館」のリーフレットから。

八戸市の風張(かざはり)1遺跡から出土。
縄文時代後期、約3500年前。

「合掌土偶」のなぞについて、作者のつもりで予想した。
「合掌土偶」は出産した後のポーズ。
わかりやすく、腹はペシャンコにした。
女性器は、出産のときに切れてしまった。

「合掌」しているのは、
子どもが生まれたうれしさ?
それか、死産の嘆き、悲しみ?


8)「三内丸山遺跡のなぞ」、2012年2月5日。
三内丸山遺跡のシンボルである「六本柱」は、なんのため?

「六本柱」は、屋根のない3層構造の「建物」として復元してある。
右の雪の小山は、「大型竪穴住居」の復元。青森の2012年1月は、
最低気温がマイナス10℃、最高気温はマイナス3℃だった。

小林達雄 国学院大学教授は、「世界遺産 縄文遺跡」、同成社発行で、
つぎのように書いている。
「六本柱はただに6本の巨木柱が天を衝いて立つというだけでなく、
その等間隔の配置が作り出す図形には縄文人の二至二分の原理を、
心得た上での巧みなカラクリがこめられていたのである。
これを大形建物の柱組みと見倣すのは、
縄文人の知、縄文人の世界観を否定する誤りを犯すことになる」

さらに、デーリー東北新聞社のOnline Serviceで、
つぎのように言われている。
「床を三層も張った、見るも無残な姿をしている。
どうにか屋根だけは取れたが、床を張るなんてとんでもない。
縄文人の心を踏みにじるものだ、今のままでは困る」
そして、
「六本柱」は、「諏訪大社の御柱のような信仰の対象」
と、主張されている。

梅原猛、新潟県十日町市博物館名誉館長は、
「御柱」について、つぎのように言われている。
「柱は天と地を結ぶもの、神が柱を下って人間のところへやってきて、
人間も柱を上がって神のところへ行く。
柱はそういう天と地、神と人間を媒介するものであると思います」

「柱の遺跡が、諏訪神社の6年に一回、巨大な柱を建てる儀式や、
20年に一回、お遷宮をする伊勢神宮の神事と結び付いているに違いない、
と思います」


9)「御神渡りの神事」、2012年2月12日。
「御神渡り」を記録した「御渡帳」と「当社神幸記」。諏訪市博物館で。


左の「御渡帳」には、1683年から約330年の、
「御神渡り」の神事と、豊作か凶作かの「年占い」が書かれている。

右の「当社神幸記」は1443年から1681年まで、
240年間の「御渡神事」(みわたりしんじ)や気候変動が、
記載されて、奉行所に報告している。
さらに、その年の「できごと」を書き加えてある。
「明くる年の4月29日、乱世になり下宮(下社?)が焼失した」
「8月24日、塩尻で合戦があり、数えきれない死者がでた・・・」
「気象」や「できごと」を記録した貴重な史料となっている。

「御柱祭、縄文文化」シリーズは、おかげさまで、
多くの方から閲覧いただきました。
ありがとうございます。
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草間彌生と東山魁夷がみる日本

2012-11-18 00:00:07 | Weblog
草間彌生東山魁夷がみる日本
草間彌生と東山魁夷は、海外で生活をした。
そして、外から日本を愛情の目、
客観的な目でみている。

草間彌生と東山魁夷の海外の生活はつぎである。
草間彌生は1957年、26歳のときにアメリカに渡って創作活動をし、
1974年に帰国した。

東山魁夷は1932年、25歳のときにドイツに渡り、ベルリン大学に留学した。
父の病状が悪化し、残り1年の留学を断念して1935年に帰国した。
敬称は略します。

無限の網」草間彌生自伝、作品社、2002年発行で、

草間彌生は、アメリカでの生活や創作活動をつぎのように書いている。

ニューヨークの生き地獄」の章で、
「ニューヨークの生き地獄は凄まじかった。
勉強に明け暮れるだけの日々の中で、
私は次第にドルを使い果たしていった。
そして、極端な貧困へと落ちていった」
「日常の食物を得ること。絵具とカンヴァス代の確保。
移民局の旅券の問題。病気。さまざまな困難が私を襲ってきた」

大成功のニューヨーク・デビュー」の章で、
「世界的な美術の先鋭的中心地ニューヨークで、
前衛美術家としての確固たる地位を築いていく結果となった」(1960年)。


東山魁夷はヨーロッパの美術行脚やドイツの留学をつぎのように言っている。
「ただ一通りの美術行脚の旅でなく、
西洋で生活することによって、
そこから日本振り返ってみたいと思った」

「東山魁夷画文集 美の訪れ」、東山魁夷著、新潮社、1979年、
「心の故郷」の章で、東山魁夷は書いている。
「若いとき、外国での生活という、
道草をくっていたときがありました。
西洋の芸術や、町に親しさを感じたことがありますが、
それは、いまになってみると、
日本風景文化に対する愛着を深めるための、
回り道であったように思えます」

「こういう意味からいえば、
私は故郷を見失った人間ではなく、
故郷を心の中に持っているともいえるのでしょう。
そして、逆に、いまの日本には心の故郷を失った人が、
多すぎると考えるときがあります」

信州の安曇野(あずみの)へ旅した東山魁夷。

「川端康成と東山魁夷 響きあう美の世界」。求龍堂、2006年発行。
左から井上靖、川端康成、東山魁夷の3巨頭が安曇野に会した。
後方は北アルプス。長峰(ながみね)山で、1970年5月12日。


草間彌生は、17年におよぶニューヨークの暮らしで、
前衛芸術の世界における「草間彌生」の存在を、
限りなく大きく、揺るぎないものへと発展させて、
1974年に帰国した。
そして、日本をつぎのようにみている。

「無限の網」草間彌生自伝の、
日本とニューヨークとのギャップ」から。
「国電の駅の階段を、奔流のように流れる人の波、
その不気味とも言える異様さ、
反面その一人一人をくわしくながめれば、
その表情、服装など、すべてにおいて没個性的で、
私が想像していた日本人の姿とは、まったくちがったものであった。
たまたま、「おや?」と思うと、それはアメリカやフランスの、
ファッション雑誌そのものの真似であった」。

「街を歩いていても、ここはどこの国だろうか、とまどってしまう。
個性を失った、奇妙で醜い建築物がひしめいて、
イタリアでもなく、フランスでもなく、アメリカでもなく、
まして日本でさえない」

「日本は、日本伝統の良さを失って、醜く近代化していた。
こんなふうに日本は変わってほしくなかった」

「進歩と近代化は、日本人に必ずしも幸福をもたらしている、
と言えるのだろうか。それらはかえって、人々の心自然とを、
公害と騒音でかきみだしているように思えてならない。
このような中で、彼らの心が荒れていることを、
彼ら自身、きづいていない

「私はいたるところを歩いて、日本の静けさ、美しい自然、
細やかな人情、素朴な混じり気のないもの、
良い意味での伝陽的純粋さを、さがし求めてみた。
けれど、日本は経済大国に成長したあと、
多くのものを失ってしまったと、つくづく思った」

日本政治庶民のためではなく
政治家一部の資産家ごまかしであると、つくづく感じた」
「これらに対して、文学者芸術家庶民は、一体何をしているのか」

松本から未来へ」。高さ14メートル、横46メートルの松本市美術館の壁面。

草間彌生の企画展、「永遠の永遠の永遠」に行列ができて、入場制限をした。2012年11月。

東山魁夷の「年暮る」(としくる)。1968年作。

山種美術館創立45周年記念特別展、
「ザ・ベスト・オブ山種コレクション」。2012年1月。

川端康成は、東山魁夷に進言している。
「京都は、今描いていただかないと、なくなります。
京都のあるうちに、描いておいてください」
それで、東山魁夷は「京洛四季」を描いた。
「京洛四季」の一つが「年暮る」である。


東山魁夷は、日本をつぎのようにみている。
「東山魁夷画文集5」。新潮社、1978年発行に、
遠い京都」という章と、
ある美しかった国の物語」という章がある。

遠い京都」。
「京都が今日に伝え得たものの中には、
世界的に貴重なものが沢山ある。
京都の誇り、日本の誇りということを越えて、
人類全体の重要な文化的な遺産なり、
日本伝統美を伝え発展させた多くの
技術的なものを持っている」

「京都が京都として、より生きるためにも、
日本国中どこにでもあるような都市になってしまうことなく、
京都のみ存在する価値あるものを失わないことだと思うのだが、
京都の此頃の様子を見ていると、どうも、
特色のない地方都市になり下がるように、
努力している傾向も見える」

「京都自身が、京都から遥か遠くへ離れていくことを感じる」

観光ということほど、
その地元側からも、観光客の側からも、
間違った意味で行われていることが、
今日の日本ほど甚だしい例を私は知らない」

美しい自然建築町の風致破棄することに、
全力を挙げているのが日本の現状である。
こんな馬鹿々々しいことがあるものかと、
嘆く一部の人々の声は、
土地開発とか、レジャーブームという騒々しさの中に、
掻き消されてしまっている」

「『看都満眼の涙』とは、
川端先生が、私の画集『京洛四季』のために、
書いてくださった序文の中の言葉である」
で、「遠い京都」は終わっている。

「看都満眼の涙」とは、なんだろう?
「京都をみると、眼にはいっぱいの涙があふれてくる」
じゃないだろうか?
川端康成を嘆かせ、泣かせた京都、ということになる。

「年暮る」の方向を眺めた写真。京都、2012年。

「京都のあるうちに」描いた「年暮る」(1968年)から、
半世紀たって、雑然とした「街並み」になった。
「年暮る」は、なくなってしまった。

半世紀前よりも、建築の「技術」は進歩した。
それに、「美意識」も向上しているだろうから、
京都の街は、半世紀前よりも、きれいになっていい。
しかし、川端康成の言うとおりになった。


つぎに、「ある美しかった国の物語」。
美しい風景の島国が東方の海上にあった」
と、物語がはじまる。

「人々は、遠い昔から自然を愛し
自然とともに暮らしてきた」

「こまやかな感覚を持つ女性の美意識が磨き上げられて、
今でも世界の宝といわれる優れた文芸作品が書かれた」

「ある日、西洋から黒い船がやって来た。
西洋の文明が押し寄せ、西洋におくれまいとして、
自国の優れたものを見失いがちなことが多かった」

「その小さな国と、ある大きな国との間に戦争が起こった。
空から降ってくるで、町という町は灰になってしまった」

「さて、それから後が問題である。
昔、中国の詩人が、国が敗れても山河はあると歌ったように、
はじめのうちは美しい自然はちゃんと残っていた

「もう戦争はやめて、経済を発展させ、平和に暮らそうとした。
経済の発展に、前後のわきまえもなく、熱中した。
エコノミックアニマルと名前をつけられ、
その国の美しい自然をも食い尽してしまった」

「自然の開発とか観光ということも、
ただ目先きだけの利益で、
かんじんの自然美を護る心が見棄てられた」

泥海のそばの砂漠のような乾ききった土地に、
ただ四角な高い建築ばかりが建っていた」

「そこには、意味のない叫び声を挙げながら、
ただやたらに忙しく動き廻っている群集があるだけだった」

「昔、美しい風景の島国があったと、
今ではものの本に書いてあるだけである」
と、「ある美しかった国の物語」を閉じている。

それから、半世紀たった。
「ある美しかった国の物語」の続編はつぎにようになるだろう。
「経済のすさまじい膨張は、バブルがはじけると、しぼんでしまった。
世界のヒノキ舞台で、主役を演じてきたが、その座からすべり落ちた。
日いずる国』と、もてはやされた主役の座は、30年だった」

「つぎの主役は、中国が演じるようだ。
アメリカやEUを訪れた中国の要人は、世界の発展のためには、
互いの協調が必要であると、大いに歓迎され、もてはやされている」

「島国の決定的打撃は、2011年3月11日に起きた。
東日本大震災原発事故である。
トヨタ、ホンダ、キャノンでもうけた金は、
箱物、道路、ダム、そして原発に注いできた。
それでも物足らずに、赤字国債を発行して、
ムダな箱物を造り続けてきた。国力は低下した」

「赤字国債のツケは、つぎの世代にバトンタッチされる。
膨大な赤字国債は、つぎの世代では返済しきれない。
さらに、つぎの世代までかかりそうだ。
原発の廃炉には、半世紀かかる。
廃炉には、国民の税金を使う」

「昔、美しい風景の島国があったと、ものの本に書いてあったが、
原爆ドーム原発の廃炉記念碑のように残されていた。
人々は、汚染された海と土地で、
汚染された水と空気にさらされて、
健康障害におびえながら暮らしていた」

これは、笑えない。
日本人がやってきたことだ。
日本は、どこぞの大国の植民地で、
宗主国の命令に従って、やってきたのではない。
日本人が進んで「美しい風景の島国」を壊してきたのだ。


草間彌生と東山魁夷の、日本をみる目は似ている。
「国電の駅の階段を、奔流のように流れる人の波、
その不気味とも言える異様さ、
反面その一人一人をくわしくながめれば、
その表情、服装など、すべてにおいて没個性的で、
私が想像していた日本人の姿とは、まったくちがったものであった。
たまたま、「おや?」と思うと、それはアメリカやフランスの、
ファッション雑誌そのものの真似であった」
「街を歩いていても、ここはどこの国だろうか、とまどってしまう。
個性と美を失った、奇妙で醜い建築物がひしめいて、
イタリアでもなく、フランスでもなく、アメリカでもなく、
まして日本でさえない」
「日本は、日本の伝統の良さを失って、醜く近代化していた。
こんなふうに日本は変わってほしくなかった」
「日本の政治は庶民のためではなく、
政治家や一部の資産家のごまかしであると、つくづく感じた」

「美しい自然や建築や町の風致を破棄することに、
全力を挙げているのが日本の現状である」
「泥海のそばの砂漠のような乾ききった土地に、
ただ四角な高い建築ばかりが建っていた」
「そこには、意味のない叫び声を挙げながら、
ただやたらに忙しく動き廻っている群集があるだけだった」
「昔、美しい風景の島国があったと、
今ではものの本に書いてあるだけである」

自然は心の鏡」。東山魁夷。

石碑は東山魁夷のお墓にある、長野市。

「私は清澄な風景を描きたいと思っている。
汚染され、荒らされた風景が、
人間の心の救いであり得るはずがない。
風景は心の鏡である」
東山魁夷はお墓から、
「自然は心の鏡」と警鐘し、
日本が再生することを願っている。

草間彌生と東山魁夷の警告、
「日本人は、なにをしているのだ!」
「早く眼を覚ませ!」
を、日本人は半世紀も無視してきた。

そして、日本人に目を覚まさせる衝撃が起きた。
2011年3月11日の東日本大震災と原発事故である。
日本人は、汚染された海と土地で、
汚染された水と空気にさらされて、
健康障害におびえながら暮らしている。

ポスト2011年3月11日、
日本は変革することができるのか?
世界がみている。日本人は試されている。
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草間彌生と川端康成

2012-11-11 00:05:11 | Weblog
草間彌生さんの作品を作家の川端康成さんが買っている。
「不知火」(しらぬい)と「雑草」である。
不知火」Sea Fire。1955年作。

東京国立近代美術館、広島市現代美術館、熊本市現代美術館、
松本市美術館発行、「草間彌生」、2004年から。

雑草」Weeds。1953年作。

東京国立近代美術館、広島市現代美術館、熊本市現代美術館、
松本市美術館発行、「草間彌生」、2004年から。
以下、敬称を省略する。

草間彌生の「不知火」と「雑草」を観たのは、
山梨県立美術館で開催された2011年の企画展、
川端康成コレクションと東山魁夷」だった。

「川端康成コレクションと東山魁夷」のリーフレット。

川端康成がコレクションしている東山魁夷の作品を、
甲府市の山梨県立美術館へ見に行った。
そこには東山魁夷の「北山初雪」があった。

「現代日本の美術」、「東山魁夷」。集英社、1976年発行から。

川端康成が「ノーベル賞」を受賞したお祝いに、
東山魁夷が「北山初雪」を贈っている (1968年)。
「北山初雪」は美術館の所蔵ではなく、個人蔵だから、
一般公開されて、観ることができたのは幸運だった。

それ以前の1962年に、
川端康成は「文化勲章」を受章しているが、そのお祝いに、
東山魁夷は「冬の花」(北山杉)を贈っている。

「今、ふたたびの京都」、平山三男編、求龍堂発行から。

川端康成は、東山魁夷に進言している。
「京都は、今描いていただかないと、なくなります。
京都のあるうちに、描いておいてください」

それで、東山魁夷は「京洛四季」を描いた。
「京洛四季」の一つが「北山初雪」である。
「冬の花」(北山杉)と同じ構図になっている。

このことは、つぎに記載したので参照してください。
「東山魁夷の『北山初雪』は残っていた」、2012年3月11日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/2ffa9c842818d587aaa8d8f90d339cd9

山梨県立美術館の「川端康成コレクションと東山魁夷」で、
草間彌生の「不知火」と「雑草」が展示されているのを偶然に観て、
「川端康成は草間彌生の作品を所蔵している」
「どうしてだろう?」
と、いきさつを知りたくなった。

草間彌生は1929年、松本市生まれ。
現在の蟻ヶ崎高校を卒業して、
1957年にニューヨークに渡っている。

「不知火」は1955年の作、「雑草」は1953年の作だから、
草間彌生がニューヨークへ行く前の初期の作品(水彩画)である。
川端康成が草間彌生の「不知火」、「雑草」を買ったいきさつは、
無限の網」草間彌生自伝、作品社、2002年発行に書いてある。

草間彌生は1955年3月、東京の求龍堂画廊で、
「不知火」ほか水彩画15点の個展を開いた。
「この個展の会場に訪れた作家の川端康成と、
美術評論化の久保貞次郎が、作品を購入した」
と、草間彌生は書いている。

この「無限の網」草間彌生自伝の最後に、
73歳の草間彌生は、つぎのように書いている。
人生は真実素晴らしいとつくづく思い、
体が震えるほど、芸術の世界は尽きることなく興味があり、
私にはこの世界しか希望のわく、生きがいのある場所は他にないのだ。
そして、そのためにはいかなる苦労をしても悔いはない。
私はそのようにこれまで生きてきて、これからもそう生きてゆく」

松本市美術館で開催された草間彌生の企画展、
永遠の永遠の永遠」で(2012年7月撮影)、

83歳の草間彌生の創作の様子が放映されていた。
草間彌生にスタッフがたずねている。
「先生、何歳まで描くんですか?」
すると、草間彌生はつぎのように応えた。
「1,000枚でも2,000枚でも、死ぬまで描く
「描きまくって死ぬ」
さらに、
絵の力で生きている」
「絵がなかったら、とうの昔に自殺していた」
「力のある限り、命のある限り、私は闘っている
ほとばしるイメージを、ためらいもなくスイスイと描き続けている。

松本市美術館は、草間彌生の初期の作品を持っている。
草間彌生が超一流となった今では、買い増すことはむずかしいという。

川端康成が草間彌生の「不知火」と「雑草」を買ったのは、
26歳の草間彌生に、将来性を感じたのであろうか?
前衛芸術家を育てようとしたのだろうか?

草間彌生の作品を観るには、松本市美術館へ行けばいい。
幻の華」が、いつでも迎えてくれる。2005年2月撮影。

高さ10メートル、横18メートルの巨大な草間彌生が。

川端康成が「不知火」も「雑草」を購入したのは1955年。
それから半世紀たった今、川端康成が「幻の華」を観れば、
ビックリされるだろうか? つぎのように言われるだろうか?

「『不知火』も『雑草』も、草間彌生が、
若いときの作品だったから買うことができた」
「草間彌生の作品は、もう手に入れるのはむずかしいだろう」
「草間彌生は、日本を代表する前衛芸術家になった」
「草間彌生は、天才だと思っていた」

宇宙の中の水玉かぼちゃ」。

松本市美術館、2012年3月。
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草間彌生色の松本

2012-11-04 00:11:04 | Weblog
草間彌生(くさま やよい)さんは松本市出身。
2012年、松本草間彌生になった。松本市美術館も街も、バスも。

松本市美術館では、草間彌生の「幻の華」(まぼろしのはな)が迎えてくれる。
「幻の華」、The Visionary Flowersが雪の上に咲く。2005年2月撮影。

高さが10メートル、横18メートルある「幻の華」は、草間彌生の最大の作品。
後方の黒い壁は、松本市美術館の側面。

「幻の華」は、2002年に松本市美術館が開館する当時からある。
松本市美術館に来ると、草間彌生の常設展と、
「幻の華」に、いつでも会える。
敬称は省略します。

常設展のほかに、2009年には草間彌生の企画展があった。
魂のおきどころ」。
渾身作「愛はとこしえ」シリーズ全50点を公開!

松本でなければ体験できない
クサマヤヨイの原点と現在がここに。

2012年は松本市美術館の開館10周年。
草間彌生の企画展、「永遠の永遠の永遠」が開催された。

松本市美術館はドットドットドットの草間彌生色になった。
明るくなった。多くのお客さんでにぎわっている。2012年7月撮影。

「永遠の永遠の永遠」のチケット。2012年7月14日~11月4日開催。

草間彌生は空間のドットの中に作品とまぎれている。

企画展では、松本市美術館の中庭に巨大かぼちゃが出現した。

「大いなる巨大な南瓜」、Great Gigantic Pumpkin。

松本市美術館では、自動販売機も、ベンチも、左のゴミ箱も、

後ろの壁もドット、ドット、ドット。2012年11月撮影。
後ろの壁のドットだけは、企画展が終わると消される。

ドット入り自動販売機も、ベンチも、ゴミ箱も、
草間彌生の芸術作品ではないが、2002年に、
松本市美術館が開館した当時からである。

自動販売機の正面には、YAYOI KUSAMAと、
サインがあるが、見えるでしょうか?
サイン入りの自動販売機は初めてだ。

概して醜い自動販売機だが、草間彌生色は、
美術館や景観に合っている自動販売機だ。
松本市美術館は粋なことをする。

自動販売機の右横には「水玉脅迫」、Dots Obsession。

中庭に抜けるコーナーにあって、
ショップのようにしつらえてある。
ショウ・ウインドウのマネキンのほかに、
壁も、自動販売機までも、あたりは「水玉脅迫」だ。

売店で図録「永遠の永遠の永遠」や絵はがきを買ったが、
ドット、ドットのクサマ・バッグに入れてくれた。

The Visionary Flowers「幻の華」に、
YAYOI KUSAMAとあるから、うれしくなる。

街のショウ・ウインドウには、草間彌生のポスターがある。2012年7月。


街では、草間彌生色のドットバスが走る。
水玉乱舞号」。後方の木は松本市美術館。

松本が明るくなり、観光客も喜んで利用している。松本市も粋なことをする。

クサマ・バス(タウンスニーカー)は、2010年12月1日から走っている。
出発式で、草間彌生はフロントのドットにサインをされた。

「御祝 Yayoi Kusama 2010」。

タウンスニーカーは松本の中心部を周遊する(190円)。
一日乗車券(500円)を買うと、4コースが乗り放題のほかに、
松本市美術館、松本城、開智学校などの入場料が割引になる。

ドットは松本ばかりではなかった。
名古屋もドット・ブローチ。ミッドランドスクエア、2012年10月。

LOUIS VUITTONのショウ・ウインドウで。
草間彌生とLOUIS VUITTONとの提携による商品。

札幌もドット・ニョロニョロ(再生の瞬間)。丸井今井、2012年7月。

世界のLOUIS VUITTONが草間彌生との提携を展開している。
世界の街も明るくなっただろう。

草間彌生は1929年松本市生まれ。
現在の松本蟻ヶ崎高校を卒業してニューヨークへ。
1993年ベネチア・ビエンナーレの日本館の代表作家になり、
2008年に松本市名誉市民、2009年に文化功労者になっている。

草間彌生に会うには、松本市美術館へ行けばいい。

等身大の草間彌生が待っている。

草間彌生には、若い人ほど表現が豊か。
中にはキスする人も。年配の人はかしこまる。
等身大は企画展が終わっても、常設展で待っていてほしいが。

松本市美術館では、草間彌生の世界にひたることができる。
チュリップに愛をこめて、永遠に祈る」、
With All My Love for the Tulips, I Pray Forever。

作品の一部は写真が許可されていて、子どもも写真を撮りたい。

新たなる空間への道標」、Guidepost to the New Space。

草間彌生は子どもたちを惹きつけ、喜々とさせる。
「お母さん、どんな写真が撮れた?」と、のぞきこむ。

2012年の企画展、草間彌生の「永遠の永遠の永遠」のメインは、
「わが永遠の魂」と「愛はとこしえ」。
愛はとこしえ」は、2009年の企画展「魂のおきどころ」で、
シリーズ全50点が展示されたが、2012年でも展示されている。
「波」、Waves。

作業風景をビデオで見ると、
ほとばしるイメージを、ためらいもなくスイスイと描いている。
「おもしろいな!」、「すごいな!」と思って絵はがきを買った。

わが永遠の魂」は66点が展示されている。
果てしない人間の一生」、Endless Life of People。

絵はがきから。

「わが永遠の魂」は、これまでの巡回で展示されてきた47点のほかに、
松本市美術館だけは17点を追加し、さらに2012年10月の最新作2点が追加された。
「宇宙の中」と「失意」で、まじまじと観た。松本市美術館ならではである。

松本市美術館の壁面、高さ14メートル、横46メートルは、
松本から未来へ」。草間彌生色になった。

美術館まで草間彌生色にしてしまう草間彌生は稀有の人だ。

YAYOI KUSAMAからのメッセージ、
「私の蝶が信濃路の空高くとんでゆく、犬のトコトンも大好き」
「永遠の永遠の永遠」のリーフレットから。

草間彌生の個展が、2011年から2012年にかけてマドリッド、
パリ、ロンドン、ニューヨークの現代美術館で開かれた。
これは、日本人として初めての快挙である。

ロンドンのテート美術館から、草間彌生はつぎのように評された。
「男性作家の独壇場である現代美術に女性が進出。
日本の最も著名な現代美術作家」

松本市美術館は、草間彌生の初期の作品を持っている。
常設展、企画展で草間彌生の作品に触れることを、ありがたく思う。
草間彌生が超一流となった今では、買い増すことはむずかしいという。

草間彌生の「永遠の永遠の永遠」展は、これまでに、
国立国際美術館、埼玉県立近代美術館で開催された。
松本市美術館(2012年7月14日~11月4日)のあとは、
新潟市美術館に巡回する(2012年11月10日~12月24日)。

松本を訪れれば、クサマ・バスがお迎えする。
そして、松本市美術館にお連れする。
草間彌生の常設展があり、いつでも、
幻の華」が迎えてくれる。
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