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季節の変化

活動の状況

東山魁夷の「残照」

2012-04-29 00:01:00 | Weblog
東山魁夷の「残照」。

「東山魁夷画文集」、東山魁夷著、新潮社、1979年から。

東山魁夷の「残照」を見たとき、
八ヶ岳だ!」と思った。

塩尻の「高ボッチ」(1,655メートル)から撮った、
「八ヶ岳」がある。2004年12月。

ちょうど、夕暮れ。
「八ヶ岳」が紫色に変化しはじめた。
それに、重なる山並みは、「残照」のイメージだ。

高ボッチから、南に「八ヶ岳」のほかに、
富士山」や「南アルプス」を見ることができる。2011年10月。

左から「八ヶ岳」、「富士山」、「南アルプス」。
「南アルプス」の中央の三角は「北岳」で、
「富士山」のつぎに高い山。
手前は「諏訪湖」。

そして、高ボッチの北に「北アルプス」が見える。2004年12月。

左に「穂高連峰」、中央に「槍ヶ岳」、右のピラミッドは「常念岳」、
右端は「大天井岳」(おてんしょうだけ)。手前は松本平。
高ボッチには、多くのカメラマンが集まる。

「残照」の説明が、「東山魁夷画文集 旅の環」、
東山魁夷著、新潮社、1980年にある。

「夕暮れ近い澄んだ大気の中に、
幾重もの襞(ひだ)を見せて、
遠くへ遠くへと山並みが重なっていた」

「褐色の山肌は夕ばえに彩(いろど)られて、
淡紅色を帯びたり、紫がかった調子になったり、
微妙な変化をあらわした」

これは、「八ヶ岳」にピッタリ、合うではないか。
でも、「八ヶ岳」ではなかった。
風景は千葉県鹿野山だった。

「昭和21年の冬、私は千葉県鹿野山へ登った。
山頂の見晴らし台に立ったとき、
夕暮れ近い澄んだ大気の中に、
幾重もの襞(ひだ)を見せて、
遠くへ遠くへと山並みが重なっていた」

「東山魁夷画文集 旅の環」には、
現実としての風景を、心の姿に写し出し、
さらに、絵に仕上げていく過程が書いてある。

「人影のない草原に腰をおろして、
刻々に変わってゆく光と影の綾(あや)を、
寒さも忘れて眺めていると、
私の心の中にはいろいろな思いが湧き上がってきた」

「喜びと悲しみを経た果てに、
見出した心のやすらぎともいうべきか、
この眺めは、対象としての、現実としての風景というより、
私の心の姿をそのまま写し出しているように見えた」

心の姿をそのまま写し出し、
切実な祈りを絵にしていく説明が、
「東山魁夷画文集 風景との対話」、
東山魁夷著、新潮社、1978年にある。

「数日を過ごすうち、
私は、この風景の上に、
いままで私が歩き廻っていた、
甲信や上越の山々の情景が重なり合い、
雄大な構想となって展開されていくのを感じた」

「中央のいちばん遠くに、
八ヶ岳か妙高の遠望を連想するような山嶺を置き、
そこに、夕陽の最後の残映を明るく与えることによって、
漠然(ばくぜん)とした構図をひき締めることができた」

やはり、「八ヶ岳」を連想していた。

「光の明暗と、大気の遠近による諧調、
嶺々の稜線が作り出す律動的な重なり合いが、
この作品を構成する要素であるが、
それによって表そうと希(こいねが)ったものは、
当時の私の心の反映、私の切実な祈り
索漠(さくばく)の極点での自然と自己との、
緊密な充足感ともいうべきものであった」

こうして、「残照」はでき上がった(1947年)。
「第三回日展に出品した『残照』は、
特選となり、政府買上げとなって、ようやく、
私の仕事が世に認められるきっかけとなったのである」
と、東山魁夷は言っている。

東山魁夷39歳である。
画壇に認められるまで、
苦難で、長い道のりだった!


「東山魁夷画文集 風景との対話」、
東山魁夷著、新潮社、1978年の、
「風景開眼」には、「八ヶ岳」のことが書いてある。

「私は一年の大半を人気(ひとけ)の無い高原にたって、
空の色、山の姿、草木の息吹を、
じっと見守っていた時がある」

「八ヶ岳の美し森と呼ばれる高原の一隅に、
ふと、好ましい風景を見つけると、
その同じ場所に一年のうち十数回行って、
見覚えのある一本一草が季節によって変ってゆく姿を、
大きな興味をもって眺めたのである」

山梨県北杜市の「美し森」から「八ヶ岳」の主峰「赤岳」を見る。2012年4月。


「冬はとっくに過ぎたはずなのに、
高原に春の訪れは遅かった。
寒い風が吹き、赤岳権現岳は白く、厳しく、
落葉松(からまつ)林だけがわずかに黄褐色に萌え出している」

「ところどころに雪の残る高原は、
打ちひしがれたような有様であった」

長野県、原村の「八ヶ岳中央農業実践大学校」から見た、
「八ヶ岳」。2012年4月。

阿弥陀岳(あみだだけ)②の奥に重なる赤岳①、権現岳(ごんげんだけ)③。

東山魁夷が、
「一年のうち十数回行って、
季節によって変ってゆく姿を、
大きな興味をもって眺めた」
「八ヶ岳」をさらに追ってみる。

特急「あずさ」から見た「八ヶ岳」。2007年12月。

南からみた「八ヶ岳」。権現岳③、編笠岳⑧。

富士見町の「入笠山」(1,955メートル)から見た「八ヶ岳」。2005年6月。

赤岳①、阿弥陀岳②、権現岳③、横岳④、硫黄岳⑤。
裾野の町は、左から原村、富士見町へと続く。

茅野市の「杖突峠」(つえつきとうげ)1,247メートルから見た、
「八ヶ岳」。2011年11月。

天狗岳⑥、右端は西岳、編笠岳が重なっている。
「八ヶ岳」には、すでに雪がある。
裾野の町は、左から茅野市、原村へと続く。

佐久の「茂来山」(もらいさん)1,717メートルから見た「八ヶ岳」。2008年5月。

西の諏訪から見た「八ヶ岳」は、見慣れているが、
東の佐久から見た「八ヶ岳」は、並びが反対で、左が南。
「茂来山」には、浩宮様が登られている。

「霧ヶ峰」の「山彦谷」(1,838メートル)から見た「八ヶ岳」。2009年2月。

「スノー・シュー」で登ると、冬の「八ヶ岳」が現れた。

茅野市」から見た「八ヶ岳」。2011年12月。

西岳⑦、編笠岳⑧。
八ヶ岳山麓は「縄文人」が居住していたところ。
日本最古の国宝「縄文のビーナス」は、
近くの「棚畑遺跡」(たなばたけいせき)から出土した。

原村の「阿久遺跡」(あきゅういせき)から見た「八ヶ岳」。2012年1月。

縄文人は八ヶ岳の裾野に住んでいた。

諏訪湖」から見た「八ヶ岳」。2012年2月。

諏訪湖を右から左に走る氷の盛り上がりは、
御神渡り」(おみわたり)の卵。
清冽、神々しさを感じる。


東山魁夷は、
東京美術学校(現在の東京藝術大学)の研究科を修了すると、
ドイツに留学した。そして、
「帰国してから私は、なかなか、
画壇に認められないで暗中模索の時代が長かったが、
先生は写生が足りないと度々、注意された」
と、言っている。
「東山魁夷画文集 風景との対話」、
東山魁夷著、新潮社、1978年、「師のこと」から。
「先生」とは、結城素明(ゆうきそめい)である。

「『スケッチブックを持って、どこかへ写生に行くんだね。
心を鏡のようにして自然を見ておいで』
と、先生は話を結ばれた」

「今でも、その時のことを思うと、目頭が熱くなる。
私は先生の言葉の通りにスケッチブックを持って、
すぐ、旅に出たが、この言葉の意味が、
闇を照らす光明のように私の体内を貫いて、
強い感銘を与えてくれたのは、もっと後のことだった。
戦争で私がすべてを失った時であった」


東山魁夷は、「残照」をつぎのようにして描いた。
千葉県鹿野山が、対象としての、
現実としての風景だった。

この風景の上に、歩き廻っていた、
甲信や上越の山々の情景を重ね合わせて、
雄大な構想とした。

そして、八ヶ岳か妙高の遠望を連想するような山嶺を置き、
そこに、夕陽の最後の残映を明るく与えた。

東山魁夷の心の反映、
東山魁夷の切実な祈りを表す作品、
「残照」が生まれた。

「残照」は、
東山魁夷の仕事が世に認められるきっかけとなった。
そして、「風景画家」としての地歩を固めた。
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東山魁夷の「自然は心の鏡」

2012-04-22 00:00:45 | Weblog
東山魁夷の「自然は心の鏡」。

東山魁夷のお墓にある石碑。

文箱(ふばこ)型の石碑に水をあげて、手できれいにした。
しばらくすると、「魁夷」が白く浮き出た。
東山魁夷にお会いできたようで、
うれしくなって撮った。

東山魁夷のお墓。

善光寺大本願、花岡平(はなおかだいら)霊園。2012年4月。

赤い信州りんごと、白い干し柿で、お墓が明るくなった。
石碑、「自然は心の鏡」は、右にある。

花岡平霊園からは、長野市街を見渡すことができる。2012年4月。

「東山魁夷館」①と「善光寺」②。
③は「信濃美術館」で、「東山魁夷館」①とは連なっている。

東山魁夷は、生前に墓地を決めていた。
作品を育ててくれた故郷信州である。
多くの作品が収蔵されている「東山魁夷館」①を、
望めるこの場所が、気に入っていた。
東山魁夷の「夢見る場所」。

夕星」(ゆうぼし)。東山魁夷の絶筆。1999年。

「東山魁夷館」所蔵。絵はがきから。

東山魁夷は「夕星」について、話している。
「これは何処の風景というものではない。
そして誰も知らない場所で、実は私も行ったことがない。
つまり私が夢の中で観た風景である。
私は今までずいぶん多くの国々を旅し、写生をしてきた。
しかし、ある晩に見た夢の中の、この風景がなぜか忘れられない。
たぶん、もう旅に出ることは無理な我が身には、
ここが最後の憩いの場になるのではとの感を、
胸に秘めながら筆を進めている」
「心の風景を巡る旅」、東山魁夷著、講談社、2008年から。

「夕星」の4本の木は、両親と兄、弟という。
空には、一つの星が輝く。
湖に映ってはいない。

「夕星」には、「魁夷」のサインと落款はない。
一度は入れたサインと落款だが、消している。
まだ、筆を加えるつもりだったのだろう?

「東山魁夷館」から、東山魁夷の「夢見る場所」が望める。

「東山魁夷館」の庭越しに山が見えるが、
ここで、東山魁夷は夢見ている。

右の4本の木は、
なぜか、「夕星」のようだ。
水に映っているところまで。

東山魁夷のお墓で、振り返ると、5本の杉が見える。

「夕星」の木のようだ。

「私は今までずいぶん多くの国々を旅し、写生をしてきた」
「ある晩に見た夢の中の、この風景がなぜか忘れられない」
と、東山魁夷が言っている。
パリ郊外を描いた「静唱」(せいしょう)が、「夕星」に似ている。

「静唱」。1981年。「東山魁夷館」所蔵。絵はがきから。
東山魁夷の夢の中に、パリがある。

東山魁夷の本に、
「自然は心の鏡」の文がないか?
「自然は心の鏡」につながる文がないか?
探してみた。

「東山魁夷画文集 美の訪れ」、東山魁夷著、新潮社、1979年、
の中に、「風景美はだれのもの」がある。

日本自然の美に恵まれた国である。
亜熱帯から亜寒帯に及ぶ変化の多い景観は、
四季の装いによって、実に多彩である」

井上 靖、川端康成、東山魁夷の3巨頭が、
安曇野の長峰(ながみね)山に集っている。1970年。

安曇野の先に、北アルプスが連なる。
「川端康成と東山魁夷 響きあう美の世界」、求龍堂、2006年発行から。
「五月の若緑に蔽われた安曇野は、なんと美しかったことか」
と、東山魁夷は言っている。

日本人は古来、自然を愛し
自然と密接なつながりを持って生活してきたが、
西洋人は、自然は人間と対立するものと見て、
それらを克服するところに進歩がある、
と考えてきたといわれる。
現在はそれがになったのではないだろうか」

「自然を人間生活の進歩のために利用する、
ということは当然のことであるし、
また、レクリエーションのための施設、
ドライブやケーブルカーなども、
ある程度は結構なことだと思う」

「しかし、私のように、戦前戦後を通じて、
始終、旅行している者から見ると、
もう遠くない将来に、
日本は風景の美しい国であった
と、過去形で語らねばならない時が来ると思う。
いや、現在、そうなっているとさえいえる」

「富士山の八合目までケーブルを架設する計画も、
現在五合目までバス道路ができているのだから、
これ以上、必要はないと思う」

「自然美だけでなく、
民族の生活のにおいを残している古い町も、
ほとんどが何とか銀座と名のつく、
安っぽい町並みに変わってしまった」

風景美だれのものか。
心ない行楽客のものでなく、
観光事業会社のものでなく、
われわれ国民全体の所有である」

「上高地」、松本市。

梓川(あずさがわ)、河童橋(かっぱばし)、穂高連峰を望む。
東山魁夷は、上高地を訪れている。

「特に重要で美しい場所は、
もっと強力保護される方法はないものだろうか。
日本美しい風景の国であると、
われわれの子孫も語ることができるように」


さらに、「自然は心の鏡」に、つながる文を探してみると、
「日本の美を求めて」、東山魁夷著、講談社、1976年の中に、
一枚の葉」がある。

「日本の美を求めて」の表紙に使われている、
秋思」(しゅうし)。1988年。奈良県天理市。

「東山魁夷館」所蔵。絵はがきから。

「私が常に作品のモチーフにしたり、随筆に書いているのは、
清澄な自然素朴な人間性に触れての感動が主である」

「現代は文明の急速度の進展が、
自然と人間人間と人間の間のバランスを崩し、
地上の全存在の生存の意義と尊さを見失う危険性が、
高まって来たことを感じるからである。
平衡感覚を取り戻すことが必要であるのは言う迄もない」

清澄な自然と、素朴な人間性を大切にすることは、
人間のデモーニッシュ(悪魔的)な暴走を、
制御する力の一つではないだろうか。
人はもっと謙虚に自然を、
風景を見つめるべきである」

「たとえば、庭の一本の木、一枚の葉でも心を籠めて眺めれば、
根源的な生の意義を感じ取る場合があると思われる」

「日本の美を求めて」、東山魁夷著、講談社、1976年の中には、
心の鏡」がある。

自然人間対立するものとしない感じ方、考え方が、
幼い頃から私の中に芽生えていたことは事実である」

「私は人間的な感動が基底になくて、
風景を美しいと見ることは在り得ないと信じている。
風景は、いわば人間の心の祈りである」

「私は清澄な風景を描きたいと思っている。
汚染され、荒らされた風景が、
人間の心の救いであり得るはずがない。
風景心の鏡である」

緑響く」。1982年。「東山魁夷館」所蔵。絵はがきから。

長野県、茅野市の奥蓼科にある御射鹿池(みしゃかいけ)がモデル。
緑の風景が、御射鹿池に鏡のように映る。

日本の、何という荒れようであろうか。
また、競って核爆発の灰を大気の中に振り撒(ま)く国々の、
何という無謀な所業(しょぎょう)であろうか。
人間はいまんでいる」

「母なる大地を、私達はもっと清浄に保たねばならない。
なぜなら、それは生命の源泉だからである」

「自然として生きる素朴な心が必要である。
人工の楽園に生命の輝きは宿らない」

「私達の風景という問題には、
いまこそ私達人間の生存がかかっていることを、
否応なしに深く考えざるを得ない現在である」


東山魁夷の想い!
自然は心の鏡
そして、東山魁夷の最後の言葉!
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東山魁夷と信州の絆

2012-04-15 00:04:15 | Weblog
「私の作品を育ててくれた故郷とも言える信州」に、
東山魁夷は作品を寄贈された。そして、
東山魁夷館」が建設された。

「東山魁夷館」は、東山魁夷の作品を950点所蔵する。長野市。

「東山魁夷館」へ行くと、
東山魁夷信州の「」を示すパネルがある。

「私が初めて信州を旅したのは、
東京美術学校、日本画科1年生のときだった」
「8日間のテント旅行で木曽路を旅し、御嶽山に登った」
(1926年)。

冬の「御嶽山」。霧ヶ峰から望む。


「横浜生まれで、神戸で少年期を過ごした私は、
初めて接した山国自然の厳しさに、
強い感動を受けるとともに、
そこに住む素朴な人々心の温かさに、
触れることができたのです」

「それ以来、山国へよく旅をするようになり、
信濃路の自然を描くことが多くなりました。
そして、風景画家として一筋の道を歩いてきました」

「北アルプス」を望む。

長峰山、安曇野市から。2012年4月。
東山魁夷、川端康成、井上 靖の3巨頭は長峰山を訪れている(1970年)。

「いつの間にか、私も年を重ね、
子どもがいませんので今の内に、
自家所有の作品などの処置について、
真剣に考えねばならない時期になりました」

「いろいろ考えた末に、
私の作品を育ててくれた故郷とも言える、
長野県にお願いしたいと決心したのです」

「はなはだ唐突のようなことですが、それは、
私の心の中で長い間に結ばれてきた、
信州の豊かな自然との強い絆が、
今日の結果となったわけです」

「長野県では私の身勝手な願いを快くお聞き届けになり、
このような立派な館を建てて戴き、
誠に御礼の申し上げようもないことと、
心から感謝しているしだいです」
1990年4月 東山魁夷

東山魁夷と信州の「絆」から、
「東山魁夷館」ができた。
信州には、もう一つ東山魁夷の美術館がある。
その美術館も、東山魁夷と信州の「絆」から生まれた。
「東山魁夷 心の旅路館」である。木曽郡、山口村。


東山魁夷は、東京美術学校、日本画科1年生のときに、
「テント旅行で木曽路を旅し、御嶽山に登った」。

木曽郡、山口村の「賤母」(しずも)の山中で雷雨にあい、
麻生(あそう)の村はずれの農家に駆け込んで、
「一夜の宿を求めました」
「そこで、私は思いがけないほどの、
温かいもてなしを受けたのです」
「東山魁夷 心の旅路館」のリーフレットから。

「それまで知らなかった木曽の人たちの素朴な生活と、
山岳をめぐる雄大な自然に心を打たれ、
やがて風景画家への道を歩む決意をしました」

これがきっかけで、のちに東山魁夷は、
「青春時代の思い出の地」、木曽郡の山口村に、
リトグラフや木版画、500点を寄贈された。

山口村では、東山魁夷の青春の所縁(ゆかり)の地に、
「東山魁夷 心の旅路館」を建設した(1995年)。
国道19号の道の駅「賤母」(しずも)にある。

松本は、北の「東山魁夷館」と、
南の「東山魁夷 心の旅路館」の、
中間にあって、90キロほどである。

上の写真で、左右の白樺と、右のユキツバキは(街灯の左)は、
「東山魁夷 心の旅路館」竣工記念の植樹である。
左の白樺は、「長野県の木」として、
吉村午良(ごろう)長野県知事が植樹され、
右の白樺は、「画伯の好まれる木」として、
東山魁夷画伯夫人が植樹されている。

さらに右にあるユキツバキは、「山口村の木」として、
加藤出 山口村長と大脇芳朗 山口村議会議長が、
植樹されている。

左右の白樺の間には、東山魁夷の書による「」がある。

「歩み入る者に やすらぎを
去り行く人に しあわせを」
           魁夷

これは、ドイツの古都、ローテンブルクの入り口の城門、
シュピタール門に刻まれた言葉である。
“Pax intrantibus,
Salus exeuntibus”

ローテンブルク。市庁舎の塔から。

ハイデルベルクの東100キロのロマンチック街道にある。

東山魁夷はつぎのように言っている。
「緑濃い賤母(しずも)の森陰に、『心の旅路館』と名付けた、
私の版画による展示館が設立されたのも、
木曽路と私を結ぶ縁の糸が、
だんだん大きく太くなった結果かもしれません」

「この地を過ぎる旅の人たちにとって、
しばしの安らぎ憩いになれば、
誠に幸いに思います」
「東山魁夷 心の旅路館」のリーフレットから。

「東山魁夷 心の旅路館」建設10年後の2005年に、
越県合併で、山口村は岐阜県中津川市になっている。

東山魁夷は、東京美術学校、日本画科1年生のときに、
「テント旅行で木曽路を旅し、御嶽山に登った」様子を、
日記に書いている。「東山魁夷画文集 私の窓」、1978年から。

7月3日(1926年)。
「山路を麻生(あそう)に向う」
「木曽川沿いの中仙道を通った」
「いたるところに清水があり、眺めも美しい」

「麻生(あそう)に着いた」
「キャンプ地を探しているうちに、大粒の雨が降ってきた。
日はすっかり暮れて、雨はますます烈しく、
電光雷鳴がものすごくなった」

「山路は滝のようになり、
杉木立の下で雨宿りしていると、
バリバリと頭の真上で容赦なく鳴り響く」

「麻生に引き返して、
とある農家へ入ってわけを話すと、
老婆が快く迎え入れてくれた。
頑丈な木組み、黒光りしている柱」

「麻生」。2012年4月。

道の駅「賤母」(しずも)から南へ1.5キロ。
麻生で、人を見かけると、
「東山魁夷を、温かくもてなした老婆かな?」
と、重なってしまう。

「老婆はお茶やお菓子を出してくれて、
話などしているうちに雷も遠くなり、
やがて雨も止んだ」

「この辺には名所もないが、
公園ができたからといいながら、
老婆は私たちを誘って外へ出た」

賤母(しずも)発電所の取水ダムと水圧路管。2012年4月。

3本の水圧路管は、国道19号の下を通ってから、
木曽川沿いにある発電所に向かって急降下する。

「美しい月夜になっていた。
公園というのは、近くの水力電気の発電所のそばに、
すこしばかり桜の樹らしいものが植わっているだけの、
お粗末なものだが、老婆はまんざらでもなさそうな様子である」

発電所のそばの公園とは、これだろうか? 2012年4月。

右に水圧路管が走り、水圧路管の先は木曽川に向かって落ちていく。
水圧路管の右には、さらに広い公園が続いていた。

「私も、この月明りの山峡の眺めは、
都会のどの公園よりも素晴らしいと感じた」
「人を疑うことを知らぬこの老婆の心がうれしかった」

賤母(しずも)発電所(右)と木曽川。2012年4月。


7月4日。
「馬鈴薯ときゅうりもみのご馳走になって、
この家に別れを告げる」
須原の鎮守の森にある祠(ほこら)のそばの小屋に泊まる。

7月5日。
「小野の滝」、「寝覚めの床」を見て、
上松(あげまつ)に着く。森林鉄道に沿いに進む。
夜、土地の人に、集会所を案内され、
薪とむしろをもらって泊まる。

7月6日。
「朝起きてみると、断崖絶壁の上だった」
「さらに、森林鉄道に沿って登る」

御嶽山がはじめて眼の前に姿をあらわす。
頂上は雲に蔽われて見えないが、雄大な山容である」
「断崖から断崖にかかる鞍馬橋を渡り、王滝の宿屋へ泊まる」

7月7日。
朝7時半、宿を出て、御嶽山に登る。
「八合目あたりで、雪渓を渡る頃から寒くなってきた」

「御嶽山」。

夏でも雪が残る。2011年8月。

「風が出て霧が舞い上がってきたと思う間もなく、
何も見えなくなってしまった。
ただ上へ上へと登る。
12時半、石室へ着く。
を交えて吹きつのってきた」

「石室で一休みして剣ヶ峰へ行こうとしたが、
風雨がますます強くなってくるのでやめにした」
寒い夜を迎える」
風の音が烈しい」

九合目「石室山荘」と「剣ヶ峰」(右奥)。2011年8月。


7月8日。
「石室を出て剣ヶ峰へ登る。標高3067メートル。
晴れていれば素晴らしい眺望が得られるだろうが、
今は風雨の上に霧が渦巻く混沌とした灰色の世界である」

「道を黒沢口にとって下山する。
登りの時より難路である」

御嶽山の登山コース。九合目に「石室山荘」がある。

木曽町観光協会の「御嶽山に登ろう」の「登山コース」(黒沢口)から。

木曽路のテント旅行を振り返って、
東山魁夷は、つぎのように言っている。

「この旅行は、その時は気がつかなかったが、
私に大きな影響を与えたものであることが、
あとになってわかった。
神戸で少年時代を送った私は、
生まれてはじめて山国の姿を見たのである」

「それは、私の少年時代を育ててくれた環境とは、
まったく違ったもので、
素朴で、厳しくたくましいものだった」

「感覚的な自然環境に恵まれていた私が、
この山国の旅行で意志的なものを知ったのは、
芸術の世界という峻厳な道に踏み入る、
最初の時期であっただけに、
なにか私の人生に、
一つの眼を開いてくれたといってよい。
また、あの山国の人々の人情も忘れ得ないものである」

「私は自然の深さにひかれ、風景画家としての道をたどったが、
自然と私を強く結びつけてくれた、この青春の日の木曽路の旅は、
長い年月を経た今でも、鮮やかに浮かんでくるのである」


東山魁夷と信州との「」のわけが、
わかっていただけたと思う。
「山国の自然の厳しさ」に感動し、
「そこに住む素朴な人々の心の温かさ」に触れ、
「風景画家への道をたどった」ことである。

あわせて、
東山魁夷が「風景画家」になったわけも、
「山国の自然の厳しさ」に感動し、
「そこに住む素朴な人々の心の温かさ」に触れたことに、
あったことも、ご理解いただければ幸いである。
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東山魁夷の「行く秋」が生まれた町

2012-04-08 00:14:00 | Weblog
東山魁夷の「行く秋」は、秋になると玄関に飾る。

「行く秋」は、私の宝物。
黄金色」に輝いて、秋を豪華にしてくれる。

私の「行く秋」は、もちろん、オリジナルではない。
1,050円だった。でも、大きい、A1サイズ。

「行く秋」のオリジナルは、
「東山魁夷館」が所蔵している。

東山魁夷の「行く秋」が生まれた町は、どこだろう?
ドイツ北部」、というが、広い。
ドイツ北部の、どこの町だろう?
「行く秋」の故郷を知りたい!

東山魁夷の著書、ほかをみると、
「行く秋」を、つぎのように説明している。
1)「森と湖の国への旅」、東山魁夷著、講談社、2008年では、
「白樺の林の道を、池の岸へと歩いて、
ふと、心に思い当ることがあった。
これが私の心に、長い間、郷愁の象徴として、
潜在していた風景ではなかったかと」

「秋深い林の中を落葉を踏んで歩く。
(かえで)の黄葉が地上に織り上げた金色のタペストリー。
行く秋は淋しいと誰が言ったのか。私が見出したのは、
荘重で華麗な自然の生命の燃焼である」

2)「四季めぐりあい 秋」、東山魁夷著、講談社、1995年では、
「たとえば、庭の一本の木、一枚の葉でも、
心を籠めて、眺めれば、根源的な生の意義を、
感じ取れる場合がある」

3)「別冊太陽 東山魁夷」、菊屋吉生監修、平凡社、2008年では、
ドイツ北部にて取材した東山魁夷の作品。
人生も終焉を迎えた東山の作品のなかでも、
生命の輝きが画面いっぱいにはなたれ、
とても眩(まぶ)しく感じられる一点」

4)「生誕100年 東山魁夷展」、尾崎正明編集、日本経済新聞社、2008年では、
の樹と周囲に敷き詰められた黄金色落葉を描く。
中央に平面的な樹の根元を置き、
色感と落葉の形体によって奥行きを表している」
「東山はこの作品で『荘重で華麗な自然の燃焼』を主題とした」

5)「もっと知りたい東山魁夷」、鶴見香織著、東京美術、2008年では、
「一株の(かえで)の根元に敷き詰められた、
黄金色落葉の絨毯(じゅうたん)が描かれる」
ドイツ北部の景色に、
『荘重で華麗な自然の燃焼』を、
見てとった魁夷は、一抹の寂しさとてない、
絢爛(けんらん)豪華な色彩美を画面につくりだした」

私の宝物、「行く秋」の生まれた街は、
「ドイツ北部」であることは、わかる。
しかし、どこの町か? は、書いてない。

東山魁夷は、1969年にドイツ・オーストリアを旅して、
紀行文、「馬車よ、ゆっくり走れ」を書いた。新潮社、1971年。

ここで、長野県の須坂市まで寄り道して、
この紀行文と同じようなタイトルの石碑を見る。
「馬車よ ゆっくり走れ!」。「蔵の町」横町。

「字」も「馬車の絵」も、東山魁夷からの贈りもの。

「蔵の町」を復興した記念に、入り口で、
「歩み入る者に安らぎを、
去りゆく人に、しあわせを」
の願いをこめて、訪れる人を出迎える。

「蔵の町」には、製糸業で栄えた当時の建築物を復興してある。
まゆ蔵」。

昔の日本の主産業は製糸業だった。
須坂では、まゆ蔵をよく残してくれたと思う。
岡谷にいっぱいあったまゆ蔵は、今はない。

まゆ蔵は、「ふれあい館まゆぐら」という博物館になっていて、
道具(かいこ棚)や、機械類(座繰器)が展示されている。
帰りに、お茶とつけものをごちそうになった。
入館料はタダだったが。


さて、東山魁夷の紀行文、
「馬車よ、ゆっくり走れ」にもどって、
「馬車よ、ゆっくり走れ」の章では、
つぎのように書いている。

ラッツェルブルクからメルンへ向かう道は、
橅(ぶな)の森の、匂うばかりの若葉の下を走る。
メルンに、道化者ティル・オイレンシュピーゲルがいた。

ある朝、馬車を走らせて田舎道を進んでくる人がある。
道端にいたティルの前で馬車が止まり、
「次の町まで何時間かかるかね?」と聞く。

ティルは馬車の様子を見て答える。
「そうさね。ゆっくり行けば4、5時間だね。
急いで行くと、1日がかりかね」

「人を馬鹿にするな」
と、男は怒って馬に鞭を当て、
前よりも早く馬を走らせた。

2時間ほどで馬車の車が壊れ、
次の町へようやく辿り着いたのは真夜中だった。

「なぜ、人は急ぐのだ」
科学の急激な進歩は、工業の発達は、
スピードと騒音と、人間喪失と、
自然の破壊と大気の汚染をもたらし、
ますます人間にとって住みにくい環境を造り出している。

紀行文「馬車よ、ゆっくり走れ」の、
ドイツの地図に文字を書き入れた。

ラッツェルブルク①は、ドイツ北部の町である。
メルン★②は、ラッツェルブルク①の南西。

東山魁夷画文集」、東山魁夷著、1978年を、
松本の古本屋「青翰堂」(せいかんどう)で買った。
この「東山魁夷画文集」、全10巻、別巻1巻の中に、
「行く秋」を描いた町の記述がないか? 探してみる。

「ドイツ北部」を旅して「公園」、「楓(かえで)」、「秋」、「黄金色」、
「落葉」、「湖」、「黄葉」、「森」、「白樺」などをヒントにして。

そして、「行く秋」を描いた町の記述らしいものは、つぎである。
a)「馬車よ、ゆっくり走れ」、東山魁夷著、1969年では、
オイティーン③のゼーシャルの森か?
「薔薇の町」の章には、つぎのように書いてある。

「オイティーンは、ドイツの最も北の地方」
「湖畔の城と自然林の赴きを残した庭」
「白樺と樅(もみ)の美しい公園、
「湖畔沿いに木の橋を渡って行くゼーシャルの森」

b)「馬車よ、ゆっくり走れ」、東山魁夷著、1969年では、
ベルリン④のティーヤガルテンか?
「再びティーヤガルテンで」の章には、
つぎのように書いてある。

「私の足は、自然にティーヤガルテンの中へ入って行った」
「もう、ベルリンにも別れる時が来た。
白樺の林の道を、池の岸へと歩いて、
ふと、心に思い当ることがあった。
これが私の心に、長い間、郷愁の象徴として、
潜在していた風景ではなかったかと」

これは、説明文1)と同じである。
そうすると、「行く秋」は、ベルリン④のティーヤガルテンか?
しかし、「秋」、「楓(かえで)」、「落葉」などの言葉はない。
ベルリン④を訪れたのは、春だから。

さらに、「行く秋」に関係しそうな記述を探そう。

c)「馬車よ、ゆっくり走れ」、東山魁夷著、1969年では、
ハンブルク⑤のザクセン・ヴァルトか?
「ザクセン・ヴァルトの秋」の章には、
つぎのように書いてある。

「黄ばんだ茶褐色の葉は、主に橅(ぶな)で、
(かえで)も交じっていた。
樅(もみ)の森が、背景になっていた。
地面には落葉が散り敷いていた」
「これが昔、ザクセン・ヴァルトで私の感じたものであり、
その後も脳裡に深く蔵(しまわ)われている光景である。
ヴァルトとは森の意味である。森の持つ魅力に、
このときほど引かれたことはなかった」

d)「東山魁夷画文集 六本の色鉛筆」、東山魁夷著、1979年では、
ハンブルク⑤のザクセン・ヴァルトか?
「ザクセン・ヴァルトの秋」の章には、
つぎのように書いてある。

「ザクセン・ヴァルトのに心を打たれたのは、
私の画家としての振り出しの地点であったのです」
「こんどの旅でも、ハンブルクに着くなり、
その日の午後、ザクセン・ヴァルトへ行っています。
それは、11月のはじめでした」

「例年よりも紅葉が残っていると土地の人は話していました」
「厚い絨毯(じゅうたん)を踏むよりも、もっと靴が深く沈み、
その上に弾力があって歩く度にざくざくと音を立てる落葉

e)「東山魁夷画文集 六本の色鉛筆」、東山魁夷著、1979年では、
ハンブルク⑤のザクセン・ヴァルトか?
「ザクセン・ヴァルトの秋」の章には、
つぎのように書いてある。

「『ドイツの森の落葉は、
それぞれの木の形なりに散り敷いています』
とハンブルクのある婦人が言いましたが、これは、
たいへん感じを捉えた表現だと思います。
風がなく、どの木の落葉も、その木を中心として、
落ちたままの場所に積もってゆくのです」

「茶色の塊(かたま)り、オレンジ色の塊り、
橅(ぶな)は橅、(かえで)は楓というふうに
それぞれの木の下に、ぐるりと纏(まとま)っているからです」

f)「東山魁夷画文集 六本の色鉛筆」、東山魁夷著、1979年では、
メルン②か?
「メルンの町」の章には、つぎのように書いてある。

「メルンのホテルへ着くと、湖に沿う道を歩いてみました」
「多彩なの木の葉の彩り、水面を流れ過ぎてゆく落葉
落葉の厚く敷きつめた草地、小高い丘の林というふうに、
自然の趣をゆっくり観賞しながら歩くことができます」

g)「東山魁夷画文集 六本の色鉛筆」、東山魁夷著、1979年では、
メルン②か?
「落葉の森」の章には、つぎのように書いてある。

「メルンの想い出の風景は、全て茶色のトーンです。
グレーを帯びた静かな渋い茶と、
オレンジや黄に近い、やや、鮮やかな茶色の、
二つの系統が混り合っています」

「森や林を好む私は、秋の落葉の森も大好きです。
だいぶ前に落ちた葉と、新しく落ちた葉の色彩の鮮度の違い、
木の種類による落葉の豊富な色彩の変化、
晴れた日、雨の日の違い、
乾いた落ち葉、霜を置く落葉」

h)「東山魁夷画文集 旅の環」、東山魁夷著、1980年では、
ハンブルク⑤か? メルン②か?
「第三部」には、つぎのように書いてある。

「私はハンブルクとメルンに十日ばかり滞在した。
北ドイツの湖沼地帯の秋色を見たいと思ったからである。
幸いにその年の秋は天候が穏やかで紅葉が、
かなり残っていたのはうれしかった。
紅葉と言っても、橅(ぶな)、菩提樹、(かえで)、柏(かしわ)、
白樺などであるから、黄褐色から茶褐色の渋い色調である」

「ハンブルクの市内にも、近郊にも森が多く、
ことにザクセン・ヴァルトと呼ばれる広大な森は、
若いころに見たの色彩が忘れられないものになっている。
六年前に訪れた時は早春の季節であったが、
こんどは厚く散り敷いた落葉を踏み、
暗い水の上に漂い流れる色とりどりの紅葉を、
眺めながら森の中を歩いた。
そして遠い昔の印象が鮮やかに蘇えるのを感じた」

「ハンブルクの東南方にあるメルンは、
いくつもの湖に囲まれた小さな町」
「野趣のみなぎる静寂な環境は、
すでに冬の訪れを待つばかりの季節となり、
私にはいっそう好ましく映った」


「東山魁夷画文集」から、
「行く秋」が生まれた町の記述を探してきた。
そして、「行く秋」が生まれた町の候補は、つぎになった。
メルン②、
オイティーン③のゼーシャルの森、
ベルリン④のティーヤガルテン、そして、
ハンブルク⑤のザクセン・ヴァルト。

東山魁夷の説明文と一致するのは、
ベルリン④のティーヤガルテン、である。

しかし、東山魁夷がベルリン④訪れたのは春。
それに、「秋」、「楓(かえで)」、「落葉」、という言葉がない。
でも、「長い間、郷愁の象徴として潜在していた風景」として、
「荘重で華麗な自然の生命の燃焼」を、描いたと思えばいい。

「秋」、「楓(かえで)」、「落葉」、という言葉があるのは、
ハンブルグ⑤のザクセン・ヴァルトである。
それに、「行く秋」を記述している文がある、
「木の落葉も、その木を中心として、
落ちたままの場所に積もってゆくのです」

東山魁夷の説明からは、
ベルリン④のティーヤガルテンです。

秋に現地を訪れて、
「楓(かえで)」、「紅葉」、「落葉」に感激しているのは、
ハンブルグ⑤のザクセン・ヴァルトです。
「北ドイツの湖沼地帯の秋色を見たいと思ったからである」

「ザクセン・ヴァルトの秋に心を打たれたのは、
私の画家としての振り出しの地点であったのです」
と、ハンブルグ⑤のザクセン・ヴァルトへの想いは強い。
「こんどの旅でも、ハンブルクに着くなり、
その日の午後、ザクセン・ヴァルトへ行っています」

「行く秋」は、
ベルリン④のティーヤガルテンか、
ハンブルグ⑤のザクセン・ヴァルトにしぼられた。

どちらであっても、
「行く秋」は、「黄金色」に輝き、
私の「宝物」であることに、
かわりはない。
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東山魁夷の北欧

2012-04-01 00:01:30 | Weblog
東山魁夷北欧を旅している。
東山魁夷の北欧の旅は1962年、54歳である。
東山魁夷がドイツに留学したのは1933年、23歳で、
ドイツ・オーストリアの旅は1969年、61歳だから、
東山魁夷の北欧の旅は、ドイツ・オーストリアの前になる。

北欧4カ国、
デンマーク(D)、ノルウェー(N)、
スウェーデン(S)、フィンランド(F)を、
4月中旬から7月末まで、ご夫妻で旅行されている。

「森と湖と」、新潮文庫の地図に文字を書き入れた。

東山魁夷は、北欧をつぎのように言っている。
「私は若い頃から、
北方に惹(ひ)かれる性格を持っていたのです。
戦前の留学地もドイツのベルリンであり、
戦後初めての欧州の旅は、デンマーク、ノルウェー、
スウェーデン、フィンランドの、いわゆる北欧四カ国でした」
さらに、
「北欧は森と湖を巡る旅が最大の目的」
「森と湖の国への旅」、講談社から。
北欧の旅の動機や目的を話している。

そして、
清澄な自然素朴な人々の生活に接しての喜び、
静かで暖かい感動が長く心に残った。それは、
心の映像を一つ一つ辿(たど)って行くような旅であったため、
数々の作品となって結晶した」
「森と湖と」、新潮文庫から。

結晶には、つぎがある。
「白夜光」、フィンランド、1965年、
「白夜」、スウェーデン、1963年、
「二つの月」、フィンランド、1963年。

東山魁夷の絵と文、
撮ってあった写真から、
北欧の白夜、清澄な自然、
自然と喜びを分ちあう人々、
を、味わってみようと思う。

白夜光」(びゃくやこう)、フィンランド。

「真夏の夜、太陽はほんのひととき地平線の下に隠れる」
「森と湖と」、新潮文庫から。

東山魁夷は、スウェーデンの北極圏(地図でA)に広がる、
ラップランドを訪問している。
写真は、フィンランドに広がるラップランド(L)、クーサモ★②。

森を過ぎると湖、湖を過ぎると森というように、森と湖が重なる。
それに、どこが大地で、どこが湖か?
まっ平らが湖。

モーター・スキーでラップランドの森と湖を駆け巡る。
森をぬい、湖を抜け、丘を駆け上がり、道なき道を、
雪けむりを舞い上げて駆けるが、一面の雪原には、
モーター・スキーはピッタリだ。

ラップランドで、ライチョウトナカイは見ることができた。
信州では、3,000メートルの高山にいるライチョウが、
ここラップランドでは平地にいる。
シラカバも平地にある。

シラカバとトナカイがいっしょの写真がある?
ククサ」Kuksa。

シラカバのコブ(バハカ)から作ったカップ。
取っ手と、かき回す棒はトナカイの角。

どうして、シラカバのコブを使うのか?
厳しい寒さでシラカバの成長は遅い。
だから、できたコブを使う、
とフィンランド人はいう。

半日のモーター・スキーのツアーで、
ライチョウとトナカイ、シラカバは見たが、
人には会わなかった。湖の畔にサウナ・バスはあったが。

人口密度が1平方キロメートル当たり3.7人、を実感する。
日本の人口密度は336人だから、100分の1である。

モーター・スキーはラップランド人には必需品で、
ツアーのほか、狩猟、移動に使う。
カナダ製だった。

モーター・スキーで駆け巡ったあとは、穴釣り。

スノー・シューを履き、釣りざおとイスを持って湖にでる。
氷の厚さは40センチ。ドリルで穴をあける。
ねらいは、鮭やマスより小ぶりのパーチ。

ラップランドは重なる森と湖。
たっぷりの雪と冷気と薄日がある。
でも、ないものがある・・・それは、「」。

「シーン!」
というのは、ラップランドのことをいうのだろう。
人工の音から、まったく隔離されている。
静まり返っているのだ。

音がしないと、
「つぎの音は何だろう?」
と、敏感になって、かえって恐い。

「まさか、ワシやオオカミが襲ってくることはないと思うが?」
振り返って、仲間のフィンランド人がいることを確かめる。
ラップランドは、無音。音の予想ができない未知の世界。

パーチは、さっぱり釣れない。しかし、フィンランド人は、
25センチくらいを、ひょいひょいと釣り上げる。そして、
氷上に放り投げたパーチは、口を開けたまま冷凍になる。
目までむいて、無念そうだ! えさのミミズにやられた!

白夜」、スウェーデン。

「カーテンの隙間からもれる戸外の明るさに気がついて、
窓からのぞいてみた。美しい薄明の世界があった」
「五月半ばを過ぎ、北の国はようやく白夜の季節に入ったのである」
「東山魁夷画文集」、新潮社から。

「白夜」はスウェーデンだが、写真はフィンランドのヘルシンキ①。

ヘルシンキは首都であっても、森と湖が広がる。

スウェーデンには山があるが、
フィンランドには高い山はない。
平らな大地に、森と湖が広がっている。

二つの月」、フィンランド。

「空と水とに二つの月のある風景、
フィンランドのどこにでもある風景である。
しかし、ヘルシンキでの月夜が、
私には、一番、印象が深い」

「美しい白夜であった」
「ヘルシンキの夏の夜は、夜といっても一向に暗くなってゆかない」
「すでに真夜中近くであるのに、夕づく頃の明るさである」
「静寂と浄福が、全てのものの上に漂う夜である」
「月が二つあった。冴えてはいるが穏やかな光であった」
「東山魁夷画文集」、新潮社から。

フィンランドのラップランド(L)の夕陽を撮った。

森、湖、森が続く。
太陽は森から昇り、森に沈む。

そして、フィンランドに待ちわびた「」がきた。
長く厳しい冬との決別は、5月1日の、
春祭りヴァップVappuである。

首都ヘルシンキ①のエスプラナーディ大通りにある、
バルト海の乙女像「ハヴィス・アマンダHarvis Amanda」を、
学生が掃除して、最後に学帽を乗せるというもの。

「むかし、春になって、酔っぱらった学生が、
ふらふらとハヴィス・アマンダによじ登って、
愛撫するように掃除して、
最後に自分の白い学帽を乗せてきた」

「ハヴィス・アマンダによじ登ることは禁じられていたが、
いまでは春祭りのメイン・イベントになっている」
と、フィンランド人は「春祭り」ヴァップの「いわれ」を話す。

エスプラナーディ大通りは、学生と市民であふれている。
これまで、この人たちは、どこにいたのだろうか?
ひっそりとした街だったのに。

そして、フィンランドにがきた。

首都ヘルシンキ①のエスプラナーディ大通り。6月。
短い夏の太陽を、精一杯楽しむように、
逃さないように、日光浴をする。
ヘルシンキが明るくなった。

東山魁夷は言う。
「夏が近づくと、
一時に芽生える樹々の若葉のなんと明るく、
生き生きとしていたことか、そして人々の表情からも、
なんと喜びが伝わってくるのを感じたことか」
「森と湖と」、新潮文庫から。

「白夜の森や湖は、なんと美しく、つつましく、
生命に対する賛歌を奏でていたことであろうか」

「人々も、その自然と喜びを分ちあって、
少しでも太陽の光を浴びておこうとするようだった」

東山魁夷が想う北欧、
「美しい白夜の森や湖」、
「人々の、太陽の恵みを大切に思う心」
が伝わればと思う。


フィンランドのラップランド(L)と、
フィンランドの「春祭り」ヴァップについて、
もう少し説明するので、訪問するときのご参考に。

北極圏のラップランド(L)、クーサモKuusamo②は、
森と湖、それに雪がいっぱいある保養地、スキー・リゾート。
首都ヘルシンキ①から647キロ、
ジェット機で1時間20分。

クーサモを訪れたのは、
晴天が多く、オーロラを見ることができる3月。
天候の安定した3月と10月は、オーロラ人気で、
フライトも宿も一杯になるので、早めの予約が要。

クーサモ②の年間平均気温は0℃。
3月の夜はマイナス20℃、
雪は50センチから1メートル。

ロシア(R)とは陸続きで、35キロ。
ロシアからクーサモに観光客が来る。
クーサモの方が、施設が整っているから。

クーサモは森と湖、それに雪ばかりだから、
吹雪けば、雪倒れ?(行き倒れ)になる。
ホテルは予約し、空港への迎えを頼んでおくこと。
サウナ・バスは、ラップランドにも当然ある。湖のほとりに。

フィンランドの「春祭り」ヴァップVappu。
バルト海の乙女像「ハヴィス・アマンダHarvis Amanda」。9月。

噴水がでるのは、「春祭り」ヴァップから。

「フィンランドの春祭りヴァップ」、2008年10月19日に詳細があります。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/ce0c924072e86bf6f3d1009ea0b01cd6
クレーンに乗った学生が、「ハヴィス・アマンダHarvis Amanda」を掃除し、
最後に白い学帽を乗せる。その瞬間に、観衆からどよめきが上がり、
下で待ち構えていた学生は、いっせいに学帽をかぶる。
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