季節の変化

活動の状況

日本のゲーム・ミート野性動物の肉 シカ

2008-10-29 07:13:38 | Weblog
信州では、米の収穫も終わり、10月は秋祭りである。
安曇野市の“いのしし祭り”を新聞でみた。

ケニアゲーム・ミート野性動物の肉は、
バーベキューで味わい、ダチョウがうまかったことを前に書いた。
日本では、伊那でダチョウの肉を買って、食べてみたが、
さしみでも野菜炒めでも、うまかった。
ケニアでうまいものは、日本でもうまい。

ダチョウ以外に日本のゲーム・ミート野性動物の肉を
ねらっていたところで見た“いのしし祭り”の数行の案内である。
いのしし以外に“シカ”もあるというから、
日本のゲーム・ミート野性動物の肉、シカにありつけそうだ。

障害者支援施設、幸泉園が毎年開催していて、
今年で15回目という。中庭が会場で、
施設利用者の手作りのゲートが迎えてくれる(10月3日)。


メニューには、いのしし、シカ、ダチョウがあって、
シカだけが、さしみ、焼き肉、鍋の3種類がある。
        いのしし      シカ       ダチョウ
さしみ    ×          ○          ○
焼き肉   ○          ○          ×
       ○          ○          ×
――3種類のシカ肉を味わってみよう。

シカ刺し、つぎに焼き肉、最後にシカ鍋の順番でお願いした。
――このシカ刺しは厚い(800円)。

「シカ刺しは、ほかではぺらぺらに薄く切ってありますが、
ここでは、厚めに切ってあるから、食べごたえがありますよ」
と、サービスする幸泉園の女性スタッフに言われたが、
――たしかに厚い、それに色がきれいだ……新鮮な感じがする。

まず、しょうゆで食べてみた……うまい。
マグロよりも歯ごたえがある、もちろんクサミはない。
つぎにショウガ、ニンニクを乗せたが、ニンニクのほうがうまい。

――信州で獲れたシカですか?
エゾシカです」
――? “地物”ではなかった。
信州の山で捕獲したシカと、ばっかり思っていた。

「信州でも、シカの被害が問題となっていて、
駆除することが進められています。
まだ、シカ肉は流通していません」
――松本、諏訪の信州の中部と南部の被害が取りざたされている。

「エゾシカはクサミがありませんから使っています。
シカはクサミがあります、カモシカはさらにクサミがあります」
と、エゾシカの理由を、女性スタッフは話してくれた。
――たしかに、エゾシカはクサミがない。
それに、さっぱりしている。あぶらみがないから、健康食かな?

つぎに、シカの焼肉(1,000円)。

右の丸皿が焼き肉用、左の角皿はシカ刺し。
手前の小皿は、さしみ用のしょう油と焼肉のタレ。
生で食べてみたが、シカ刺しと同じ肉だった。
――焼き肉も、シカ刺しと同じ肉を使っている。
「シカ刺しにもなる、いいところを焼肉用にしています。
焼き肉用には、もうすこしあぶらみがあってもいいですが」

炭火で焼くが、焼きすぎないほうがいい。

外は熱く、中は温まったぐらいが、うまい。
生でも食べられるいい肉だから、半焼きがいい。
タレにあらかじめ漬けた味付け肉でないところがいい。
シカ肉の“本来の味”を楽しめる。

最後は、シカ鍋(1,500円)。

シカ鍋のシカ肉もいい肉だ……シカ刺しになる。
スープはみそ味。具がたくさん入っている……春菊、ネギ、
人参、大根、ごぼう、えのき、焼き豆腐、こんにゃく、
それに、たっぷりのシカ肉。
「あらかじめ煮てあるから、温めるだけでいいですよ」
コンロをすぐに弱火にして、味がしみたやわらかい肉を食べる。

どれもうまかった……さしみ、鍋、焼き肉の順だ。

「おいしかったですか?」
と、帰りがけに、施設利用者から声をかけられた。
「おいしかったよ、来年も来るよ」
「来年も来てね」
と、純粋で元気な声が返ってきた。
来年も来るさ! シカ肉の本来のうまさを味わえるから、
幸泉園の“いのしし祭り”は15年も続いているのだろう。

日本のゲーム・ミート野性動物の肉は、ケニア同様にうまい。
ケニアでは、もっぱらバーベキューだったが、
日本では、さしみ焼き肉の3種類が味わえる。
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お百姓さんの1年で最大の喜び収穫

2008-10-26 07:23:12 | Weblog
を迎えて、お百姓さんは、
さァ、始めるぞ!
と、田植えをして、うきうきしていたことを書いた。
世界の郷土料理をお届けしているうちに、季節が変わった。
田植えができる喜びから→手を入れ→収穫への期待となった。
すっかりになって、実り、稲刈りが始まり、そして、脱穀が終わった。
お百姓さんの1年で最大の喜び、収穫をお伝えしたい。

北海道へ行くと、黄金の穂がついていた(9月2日)。

電車が通ると、は驚いて逃げる(苗穂で)。
しかし、“かかし”や“スズメおどし”はない。
札幌から旭川まで続く田んぼを、電車から眺めたが、
かかしもスズメおどしも見つからなかった。

「どうせ、かかしもスズメおどしも効かない。
少しは、スズメにも分け前をあげよう。
スズメはイネも食べるが、害虫も食べてくれているんだ」
という、北海道のお百姓さんのやさしい思いやり?
広大な田んぼでは、電車が、かかしの役割。

松本では、早い稲刈りは9月12日にみた。
稲刈り機を使い、

ハゼかけをする。

ハゼかけによる自然乾燥は人手仕事だ。

コンバインで刈り取りをしていた(9月15日)。

デキは、どうですか?」
「まぁ、平年並みといったところじゃないですか」
と、お百姓さん。
――よかった、よかった……天候も味方し、手をかけたのが実った。

ハゼかけの乾燥が終わって、脱穀をしている(9月26日)。

「乾燥するのに、どのくらいかかるんですか?」
「5日から1週間ほどです。
本当は、きょう脱穀したくなかったが、あしたからになるから」
と、脱穀するお母さんと、棒を片づける息子さんが応えてくれた。
天候と相談しながらの脱穀である。
そのとおり、翌日は雨だった。
――お百姓さんは、天候に敏感だ!

「デキは、どうだったですか?」
稲の束を持つとわかるが、今年は、やや軽かったかな……」

「ハゼかけをして、乾燥して、脱穀するのは、手間ひまかかるから、
自分たちが食べる分だけにしている。“ハゼかけ米”として、
高く売れればハゼかけをするが、特別高くならないから。
販売の規制がゆるくなったから、ネットでハゼかけ米や、
産地直送米として販売したり、契約する農家もあるが、手間がかかる」
母ちゃんと勤めの息子さんの農業では、むりなようだ。

「コンバインは簡単で、刈り取って、脱穀して、
農協へ納めると、人工乾燥して、精米する。
だから、うちの田んぼも、ここから先は、コンバインを使った」
トラックから先の田んぼが、すでにコンバインで収穫したあとだ。

自然乾燥したほうが、人工乾燥よりも、うまいですか?」
「人工乾燥した米は食べたことがないから、味はわからない」

「米はもうからない……赤字です。
食糧の自給率が40%以下といわれているから、続けているが、
いいことは、自分たちが食べる分が、
自分の土地で、できるということですかね。
それに、親せきに配ると大喜びしてくれるから。
おいしいと、毎年当てにされている……1年1度だけですが」

「収穫した米は、どうやって保存するんですか?」

もみをつけたまま保存して、食べるときに、そのつど精米する。
コンバインで収穫して、一度に精米したときは、
低温保存(1℃)しなければならない。そうしないと、
乾燥してヒビ割れるし、カビが生える。
もみをつけたままだと、家で保存できる。ヒビ割れがない。もみが湿度を保つから」

――毎日食べているご飯だが、知らないことが多いなァ。
手を休めながら、応えてくれたお百姓さん、ありがとうございました。
大昔から続いてきた、日本の営みを見せてもらいました。
お百姓さんによって、美しい自然日本に残っている。

やっと終わった! 秋祭りが迎えられる」
と、ホッとしている顔になっている。
まずまずのデキ。それに、
おいしいご飯をたべることができるのは、
自然から、お百姓さんへのプレゼントだ。
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100年たっても世界が忘れない日露戦争

2008-10-22 03:33:48 | Weblog
日露戦争を、“日本の存亡の危機”として、
重要に考えている国々があることに触れてきた。
フィンランドトルコで、どちらもロシアと国境を接して、
戦争状態にあり、長い間、抑圧されていたり、仇敵であった。

フィンランド人は、つぎのように言っていた。
「ロシアのバルチック艦隊が日本へ向かったときに、
これで、日本は敗れて、ロシアの植民地になるものと思っていた。
ところが、日本は勝ったから(1905年)、フィンランド人は喜び、
大いに勇気づけられました」
そして、帝政ロシアが弱体化して倒れた1917年独立宣言をした。

トルコ人は、つぎのように言っていた。
日露戦争を単なる戦争の勝利だけではなく、
「日本がロシアの植民地になることを防いだ歴史の転換であり、
あわせて、中国、韓国への侵出による植民地化をくい止めた。
アドミラル・トーゴーが有名になって、
多くの子どもにトーゴーという名前がつけられました」
アドミラル・トーゴーとは、
日本海海戦を指揮した提督、東郷平八郎である。

日露戦争を、“日本の存亡の危機”として、
重要に考えている国は、まだ、ある……イギリスである。
イギリス人のジェフに言われた。
「今度は、日本がイギリスを助けて、“100年前の恩返し”をする番だ!」
――100年前の恩返し? いったいなんのことだろう。
“日露戦争”のことだった。

“100年前の恩返し”とは、こうである。
「日本が日露戦争に勝って(1905年)、
ロシアの植民地にならずにすんだのは、イギリスのおかげだ。
日露戦争に負けていたら、こんにちの日本はなかった」

「日本海海戦で、日本艦隊はバルチック艦隊を破ったが、
その日本艦隊の軍艦は、ほとんどがイギリス製だ。
イングランド西部のバロー、東部のニューカッスルで建造した。
アドミラル・トーゴーの乗った旗艦“三笠”はバロー製だ」

「アドミラル・トーゴーがイギリスに留学して、
軍艦や兵器、軍事作戦などの軍事力を学んだ。
イギリスから買いつけた軍艦兵器と学んだ戦術を使って、
日本はロシアに勝つことができた。
有名な“トーゴー・ターン”は、
イギリスに留学したときに学んだ戦術だ」

それで、戦艦“三笠”がある横須賀の記念艦「三笠」に行ってみた。


つぎのような説明がある。
「明治時代の日本には、戦艦を建造する能力がなかったために、
イギリスに“三笠”の建造を発注した。
イングランド西部のバローにあるヴィッカース造船所で造られた」
――ジェフの言うとおりだ、三笠はイギリス製だ。

日本は、「海軍はイギリス式」とする国策によって、
世界一の海軍国イギリスから戦術を学び、軍艦を買っていた。
“トーゴー・ターン”とはT字作戦で、動く模型がある。
直進してくるバルチック艦隊に、日本艦隊は平行になって
撃ち合うのではなく、艦砲が届く8千メートルのところで、
急旋回して横一列になって進路を防ぎ、“T”の字になって、
直進してくるバルチック艦隊をつぎつぎと攻撃して、せん滅した。

売るものは、絹しかなかった貧乏な日本が、
イギリスやアメリカから戦費を調達して、その金で、
イギリスから軍艦や大砲などの近代兵器を買って、
国の興亡をかけて、大国ロシアと戦争をして、
日露戦争に勝ったが、それには、イギリスの貢献があった。

日露戦争に負けていれば、ロシアの植民地か、
国土の割譲を、覚悟しなければならなかった。
――たしかに、日露戦争は、日本の“国存亡”の危機であった。
当時のアジアは、列強によって財産を奪われ、
国土をむしばまれ、植民地化が進んでいた。
もし、日本が負けていれば、同じ運命をたどっていた。

日本の勝利に勇気づけられ、希望が得られた国々の説明がある。
蔑視(べっし)されていた有色人種が、
初めて白色人種を打ち負かしたから、
虐げられていたインド中国などのアジアが勇気づけられた。

「のちに、インドの初代首相になったネルーは、
日本の勝利に血が逆流するほど歓喜し、
インド独立のため命を捧げる決意をした」

「中国の“建国の父孫文は、
アジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。
この日本の勝利は全アジアに影響を及ぼし、
アジアの民族は極めて大きな希望を抱くに至った」

フィンランドには、“東郷ビール”があると聞いていた。
提督シリーズの一つとして、東郷平八郎を称えたものだ。
それで、デパートメント・ストア、ストックマンを
探してみたが、“東郷ビール”は見つからなかった。
日本料理レストラン“古都”、“歌舞伎”にもなかった。
――東郷ビールがあれば、売れるのに。話題にもなるし。
東郷ビールは、記念艦「三笠」の売店で復刻版が売っていた。

――日本に親しみを感じる商品だ。芸者チョコレートのように。

日露戦争は、中学生のときに、年号と東郷平八郎を覚えたが、
世界を歩いて、見て、聞いてみると、
世界は日露戦争を重要なできごととして考えていた。
日本存亡の危機だった、
―「海軍はイギリス式」とした、
軍艦兵器をイギリスから買った、
大国ロシア小国日本が破った、
東洋人西洋人に初めて勝利した、
ロシア列強から独立するきっかけになった、
と、100年たっても世界が忘れない日露戦争となっている。

イギリス人が求めた“100年前の恩返し”は、
自費出版した『世界がみる日本の魅了と通知表』
を参考にしてください。
日本からの恩返しで、イギリスが再興できたことを含めて、
“100年後の恩返し”を求めたイギリス人、
を載せてある。さらに、
“100年後の恩返し”をしてくれたトルコ人、
“世界一の学力”で国を復興するフィンランド人、
“モデルは日本”と近代化を進め、幸せを感じている中国人、
についても、記載してある。
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フィンランドの春祭りヴァップ

2008-10-19 06:10:30 | Weblog
フィンランドに、待ちわびた“”がきた。
フィンランド人は、いっせいに外に飛び出す。
太陽を求めて、街にあふれ、ピクニックに出かける。

日光浴、エスプラナーディ大通り、ヘルシンキ(6月)。
短い夏の太陽を、精一杯楽しむように、日なたぼっこをする。

フィンランドの長く厳しい冬との決別は、
5月1日の“春祭りVappuヴァップ”である。
日本の春祭りは、桜が咲く4月……だから、1か月遅い。

フィンランドの春祭りヴァップのメイン・イベントは、
前夜祭”にある。
バルト海の乙女像“ハヴィス・アマンダHarvis Amanda”を、
学生掃除して、最後に学帽を乗せるというもの。

ヘルシンキは、バルト海の乙女と呼ばれている美しい港町。
そのシンボル、バルト海の乙女像ハヴィス・アマンダは、
エスプラナーディ通りの東の端、マーケット広場にある。

噴水が、勢いよく出ている9月に撮影。
右端はオットセイの噴水。
噴水は、前夜祭が始まる直前に出る……それから、秋が終わるまで。

「メーデーの前夜祭があるから、見よう」
ティモに誘われて、エスプラナーディ大通りへ行った。

色とりどりの風船を売る人(黄色のつなぎ)。


風船を買った学生。白と紫のかつらで仮装?


おそろいのつなぎを着た学生。

学生は白い学帽を持っている……かむってはいない。
まだ、かむってはいないことは、あとでわかる。

「学帽の形は統一されていて、色もと決まっている。
記章だけが、専攻によって違う」
と、ティモは言う。

春といっても、肌寒い。曇れば、雪が舞いそうだが、
バルト海の乙女像が眺められるところにある、
バーの外のイスに座って、ビールを飲むことにした。

「むかし、になって、酔っぱらった学生が、
ふらふらとバルト海の乙女像、ハヴィス・アマンダによじ登った。
そして、愛撫するように掃除し、
最後に自分の白い学帽を乗せてきた……ことからきている」
と、ティモは前夜祭のいわれを話す。

――たしかに、愛撫したくなるような格好をしている!
「バルト海の乙女像に登ることは、100年前は禁じられていた。
今では、前夜祭のメイン・イベントになっている」

札幌の大通り公園に似たエスプラナーディ通りには、
前夜際を楽しむ学生と市民が、続々と集まってきた。
前夜祭を、ビールを飲みながら眺められるのは、
ティモが、ここに連れてきてくれたおかげだ。

そして、日本の朝の通勤の混みようになった。
――これまで、この人たちは、どこにいたのだろうか?
ひっそりとした街だったのに。

5時過ぎ、クレーンが、バルト海の乙女像を掃除する
男女6人の学生を釣り上げた。

6人は、おそろいのつなぎを着ている。
(まだ、学帽はかむっていない)
「つなぎの色は、専攻によって違っていて、
今年は緑色だから、掃除するカレッジは経済学専攻です」

わざと大きなスポンジや洗剤を持って、
バルト海の乙女像を磨き始めた。
儀式なのか、掃除なのか? 頭、胸、腹、背、脚を洗っている。
特にオッパイは、愛撫するように、ていねいに洗い始めた。
すると、下の学生から、ヤンヤの歓声が上がる。

洗い終わると、清掃した6人と入れ替わるように、
学帽を乗せる役目の4人が、バルト海の乙女像に下りてきた。
その中の1人が、特大の白い学帽を持っている。

すると、下の学生の群衆は、「待っていた!」とばかりに、
手にしている白い学帽を、よりいっそう高く掲げて、
ぐるぐる振りまわしている。

そして、クレーンの学生が、特大の白い学帽を、
バルト海の乙女像の頭に、うやうやしく乗せた。

学帽を乗せた瞬間、観衆からどよめきが上がり、
それまで振りまわしていた白い学帽を、
タイミングを合せて、いっせいに自分の頭に乗せた。
10人のクレーンの学生も、白い学帽をかむった。

「この日は、アルコールも大目に見られる」
と言う。
学生のほのぼのとしたお祭りに、
春を待ちわびた市民が、いっしょになって楽しんでいる。
大通りに近かったホテルには、学生の歓声が朝まで響いてきた。


“フィンランド”について、これまでに、
ククサのウォッカで乾杯、ラップランドの週末、
サウナ・バス、国際化か死か、世界一の学力、
主産業をITにしたノキア、春祭りヴァップ、
などでみてきた。

“フィンランド人”とおつき合いをしたが、
尊大なところがない、
イヤな思いをしたことがない。
やさしい思いやりがあって、大げさに言うと、
フィンランド人には、“やすらぎ”を感じる、“平和”を感じる。

――だから、フィンランドは世界から信頼され、支援され、
知的な中立国として、外交ビジネスも、うまくいくのだろう。

フィンランド人には、
厳寒を乗り切る知恵があり、
危機を乗り切る改革や勇気がある。

ソ連が崩壊した1991年は、たった17年前だ。
それまで800年間も抑圧されていたという、
鬱屈(うっくつ)もないし、攻撃的なところもない。
それどころか、おおらかさ、暖かさ、ゆとりが感じられた。

国存亡”の危機、“国際化か死か”の危機を乗り切った
フィンランド人には、最後に勝利するパワーやさしさがある。

2008年のノーベル平和賞は、フィンランドの前大統領、
マルッティ・アハティサーリに授与されるニュースが流れた。
――フィンランド人に平和を感じるのは、大げさではなかった。
ノーベル賞が実証した。
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フィンランドを林業から情報機器産業にしたノキア

2008-10-15 05:15:08 | Weblog
ノキアNokiaという名前から、
最初は日本の企業と思われました。これは名誉なことです。
日本製品は、先端技術高品質の代名詞ですから」
と、ティモはうれしいことを言ってくれる。

フィンランドを代表する企業にノキアがある。
携帯電話世界一のシェア(30%以上)だ。
ノキアによって、フィンランドの主産業は、
これまでの製紙や林業から、IT(情報機器) 産業へと、
産業構造転換することに成功した。

「ノキアは、世界の9か国に製造工場があり、
研究所が11か国にあり、5万人以上の社員がいます。
フィンランドのノキアから、世界のノキアになりました」

ガラス張りの本社ビル(ノキア・ハウス)は、
首都ヘルシンキのとなり町エスポーの林の中に、
建設して、これまでのヘルシンンキから移転した。

会議室からは、森と湖が広がり、
まさに、フィンランドそのものである。

――どうして、ノキアは急成長したのだろうか?
フィンランドの産業を、林業からITへと、
みごとに、産業構造を転換してしまったが。

ティモは、ノキア成長の秘密を話す。
「ノキアは、1865年の製紙業がスタートでした。
一時、ゴム長靴や電線も手がけたが、経営危機になった」

「携帯電話の開発に着手したが、
用途が、災害や救助の緊急用と限定的で、しかも、
基地局を数キロごとに造らなければならないから、
インフラストラクチャー社会基盤への投資が大変で、
既存の電話よりも大きなビジネスになるとは、
世界のだれもが考えませんでした」

ニッチ(すき間)産業のままだろう、と思われていた。
まして、IT産業の主役に躍り出ようとは、
思いもよりませんでした」

「それでも、地道に開発を続けたことが幸運をもたらした。
1990年代にGSMというディジタル携帯電話の世界標準規格が、
定められた。そして、通信サービスの規制緩和によって、
市場が開放された」

「これまで開発を進めてきたノキアが、
最初に携帯電話の市場に入ることができました。
それで、急速に世界に進出できたのです。
環境の変化に、勇気をもって技術開発をしていたことが、
成功につながりました」

「しかし、携帯電話は最初、企業に1台でした。
緊急連絡が必要な経営者や役員が持ちました。
そして、災害や救助の連絡にも、使われ始めました。
つぎに、屋外で仕事をする営業やドライバーが持つようになり、
今では一般の人から学童まで、なくてはならないものになりました」

――ビジネスの用途からスタートしているが、
既存の電話を超えてしまった。一般の商品になって、
ニッチ(すき間)産業から、IT産業の主役に成長させている。

「それに、電話としての機能ばかりではなく、
パーソナルな情報機器として、その用途は無限に広がっています。
eメール、インターネット、ショッピング、銀行の取引、
自販機から商品の購入、家のセキュリティの管理、位置の管理、
サウナ・バスの電源、音楽やゲーム、映画のエンターテイメント……」

「全部をノキアやフィンランドだけで開発するのは、限界があります。
それで、世界の企業が参加して、プロジェクトを達成する、
コンソーシアム”を作って、国際的な協調で進めています」

ノキアのパーティが開催されたヘルシンキ大学の学生会館

舞踏室、レストラン、ミュージック・ルームなどがある。
繁華街にあって、デパートメント・ストア、ストックマンに近い。
140年の歴史があり、当時のヘルシンキ大学の学長、
ロシア皇帝アレクサンドル3世が訪れている。

「大学との“産学連携”も積極的に進めています。
先端技術から品質管理まで、幅広く共同研究し、
連携する大学も、フィンランドの大学のほかに、
アイルランド大学をはじめ、世界に広げています」

「産学連携は、ノキアにとっては知恵袋であるとともに、
優秀な人材の確保になります。共同研究に参画した学生が、
ノキアを知り、就職する効果につながるからです」

環境の変化を見越した開発、コンソーシアムや産学連携などの
世界との協調によって、ノキアはよみがえり、世界企業に成長した。
そして、フィンランドを林業からIT(情報機器)産業転換させて、
ドイツ資本に侵略されるという杞憂を乗り切った。

フィンランドは、これまで、
歴史から消滅する“国存亡”の危機、
国際化か死か”の危機があった。

国存亡”の危機とは、
スウェーデンとロシアに分割された統治700年間、
帝政ロシアのニコライ2世による抑圧(1917年まで)、
第2次世界大戦の敗戦、ソ連への賠償支払い、
ソ連が崩壊する1991年までの脅威。

国際化か死か”の危機とは、
人口も資源もないフィンランドは、
先端技術でヨーロッパと競争するのか?
それとも北欧の中立国として埋没するのか?
の選択を迫られていた。

国の復興をかけて、
教育の改革IT産業への転換国際協調に、
取り組んできた。
そして、“国存亡”の危機、“国際化か死か”の危機を乗り切った。

フィンランドは危機を乗り超え、知的な中立国を実現しているが、
ノキアは、その中心的な役割を果たしている。
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世界一の学力フィンランド

2008-10-12 00:16:05 | Weblog
PISAの調査で、フィンランド学力世界一である。
――フィンランドの学力が、どうして世界一だろうか?
その秘訣を知りたいが。

PISA(Programme for International Student Assessment)とは、
義務教育が終わる15歳を対象とした、
知識と技能の学習到達度調査である。

世界の文教関係者が、
☆自分の国の教育改革が、成果を上げているのか?
☆生徒の学力のレベルが、世界のどの位置にあるのか?
国際比較を知りたい、という要望に応えて、
経済開発協力機構(OECD)が開発したのがPISAである。

読解力数学科学について、OECD加盟国を中心に、
2000年から調査を開始した、その後、2003年、2006年と、
3年ごとに調査をし、参加国も増えてきている。

読解力と数学、科学の点数が公表されているので、
合計した“総合点”で評価すると、
PISA2000は、1位日本、2位韓国、3位フィンランドである。
PISA 2003は、1位フィンランド、2位韓国、3位香港で、
日本は5位。
PISA 2006は、1位フィンランド、2位は韓国と香港、
日本は10位である。


ラップランド上空(冬)。
青の凍った海と、白い雪に覆われた大地か湖が広がる。

PISA2000→PISA 2003→PISA 2006の順位でみると、
日本は、1位→5位→10位、
フィンランドは、3位→1位→1位、
韓国は、2位→2位→2位、
香港は、2000年は参加せず→3位→2位。
フィンランド学力世界一である。
2位グループに韓国、香港がつけている。

――フィンランドの学力が、どうして世界一だろうか?
フィンランドの国土は日本と同じだが、
山がなく平坦なところに、少ない人口(520万人)だから、
家と家が離れている。
家から学校まで、とても歩いて通える距離ではない。

ラップランド上空(冬)。黒は森、白は大地か湖。

――生徒は、どうして通っているのだろうか?
夏は自転車でも通えるが、その時期は極端に短い。
冬はスキーでクロスカントリーをするのだろうか。
その極寒で、極端に長い

――学ぶ環境としては、恵まれていないと思うのだが。
冬の太陽が昇るのは10時半過ぎで、
2時半には沈んでしまうから、登校時と下校時は真っ暗である。
フィンランドの3分の1を占める北極圏のラップランドでは、
寒さも通学距離もさらに条件は悪い。
吹雪になれば、雪倒れ? になる。

最高学府であるヘルシンキ大学を卒業しているティモは、
フィンランドの教育事情について、
暖かみのある言葉で説明する。


ヘルシンキ大学。

「生徒は、タクシーで送り迎えしています。
タクシー代は町の負担です。そうしないと、
冬は寒さで倒れてしまうからね。
雪は50センチから1メートルで、多くはないが、
寒さが厳しくて、マイナス20℃になるから」

落ちこぼれがないように、
全ての児童にきちんとした教育をする、
という伝統が、小学校にも中学校にもある。
フィンランドの冬は長くて、暗くて、寒いでしょう。
スキーか穴釣り、サウナ・バス、読書、それに、
インターネットしかすることがない」

それで、100人当たりのインターネット利用者数は、
(国際電気通信連合、2006年)。
日本50.20人
フィンランド62.90人で、日本の1.3倍。
韓国は68.35人で、日本の1.4倍。
香港は50.08人で、日本と同じ。
インターネットの利用者数が多い国は、
概してPISAの調査でいい成績をあげている。

「フィンランドが復興できたのは、
長期計画による“教育改革”の成果です。
いい先生を確保するために、修士号を義務づけています。
教育学のほかに専門課目の学位の取得が必要です。
過疎地にも障害児にも学校を用意して、
ほぼ100%が義務教育を終了します」

「人口が6%のスウェーデン人にも、
スウェーデン語による教育態勢ができています。
それに、スウェーデン語の高校、大学もあって、
民族による差別はない」

スウェーデンはフィンランドの西隣である。
ヘルシンキから西へ1時間ほど車を走らせると、
街の標識が2か国語で表示してあった。
「ここは、スウェーデン人が多い地域なので、
上はスウェーデン語、下がフィンランド語です」
と、ティモが説明したことがあった。
――少数民族にも暖かい配慮である。
スウェーデンとロシアによって、700年もの間、
東西に分割されていた国とは思えない。

高校大学も、授業料はタダです。
全ての生徒を高校に進学させる政策で、進学率は90%以上。
女性の進学率が高く、大学も大学院も半分を占めている。
21ある大学は全部国立で、予算の5%は重要研究に充てている。
ほかに、予算の5%は成果主義で、文部省と大学で成果を評定して、
割り当てるから、大学は満額の予算獲得を目指して努力する」

「そして、EUで生き延びていくためには英語は必須です。
語学の時間は多くとり、高校や大学では交換留学に力を入れている。
ヨーロッパの留学生も受け入れ、英語による講座が用意されている」
――ティモが英語を話すのは、EUでもビジネスの世界でも、
生き延びていく最低の条件だ。
ほかにドイツ語やスウェーデン語、ロシア語を駆使して、
ビジネスを円滑に進めている経済人も多い。

GDPの6%教育費に充て(日本は3.5%、2004年)、
詰め込みではなく考える教育をし、いい先生を確保し、
教育の現場に判断をゆだね、差別のない教育をし、
国際交流を進める……という教育改革で、
国の復興をはかる必死さが、当然のように、
PISAの学力調査で世界一として表れた。
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国際化か死か

2008-10-08 01:34:49 | Weblog
「フィンランドは、歴史から消滅する“国存亡”の危機が、何度かあった」
と、ティモは言う。

「東はロシア、西はスウェーデンの2つの大国によって、
700年もの間、東西に分割されていた。
そのロシアとスウェーデンが戦争をして、
勝ったロシア(1909年)にさらに統治され、そして、
ソ連が崩壊する1991年まで80年間も、抑圧は続いた」

「ロシア皇帝アレクサンドル2世と3世のときは、
フィンランドには国境もでき、大幅な自治権を得ていたが、
ニコライ2世になると、フィンランド語を禁止して、
ロシア語を強要し、自治権をはく奪する、
抑圧政策を進めた(1917年まで)」

「そのロシアと日本は戦争をした(日露戦争1904年~1905年)。
ニコライ2世は日本をせん滅するために、
バルチック艦隊を日本に送り込んだ。
これで、東洋の島国、日本は負けて、
ロシアの植民地”になるものと、
フィンランド人や世界中がそう思っていました」
――フィンランド人は、日露戦争を“日本存亡の危機”として、
重要に考えていたのだ。

売るものは、絹しかなかった貧乏な日本が、
イギリスやアメリカから戦費を調達して、その金で、
イギリスから軍艦大砲などの近代兵器を買って、
国の興亡をかけて、大国ロシアと戦争をしたのだから、
――たしかに“国存亡”の危機である。
負ければ、ロシアの植民地か、領土の割譲を、
覚悟しなければならなかったのだから。

――国存亡の危機は、日露戦争のほかに、
第2次世界大戦の敗戦
もそうだろう(1945年)。
国は荒廃し、国土は焦土と化した。
そして、連合国軍(アメリカ)によって、
1952年4月まで、6年9か月占領統治された。

ティモは、日露戦争の話を続ける。
「世界が注目した日本海海戦で、日本はバルチック艦隊を破ったが、
この速報を世界は誤報として、最初は信じなかった。
そして、日本は日露戦争に勝利したから(1905年)、
フィンランド人は喜び、大いに勇気づけられました」

「この日露戦争で、帝政ロシアは回復不可能までに弱体化した。
ロシア革命が起こって、ニコライ2世の帝政が崩壊した1917年に、
フィンランドは独立宣言をした」

――フィンランドに“芸者チョコレート”があるのは、
日本がロシアに勝ったことを喜び、勇気づけられたから?
日本に親しみの味”がするようで、おみやげにしている。


ヘルシンキの大通りエスプラナーディにあるデパートメント・ストア、
ストックマンの食品売り場で買うことができる。


ロシアの帝政が崩壊しても、フィンランドの危機は終わらなかった。
「ソ連と戦争になって(冬戦争、1939年)、領土をとられた。
ソ連の脅威に対して、ナチス・ドイツと同盟国となったが、
そのナチス・ドイツが、ソ連に侵攻した(1941年)から、
同盟国だったフィンランドも、参戦を余儀なくされて、
第2次世界大戦の“敗戦国”となったのです」

――第2次世界大戦の敗戦国は、日本、ドイツ、イタリア、
とばかり思っていた。
フィンランドが敗戦国だったとは、知らなかった。
そればかりではない、ブルガリア、ルーマニア、
ハンガリー、タイも敗戦国であった。

このことは、ブルガリアへ行ったときにわかった。
首都ソフィアの中心街にある聖ロウタンダ教会を訪れた。

奥はシェラトン・ホテル、手前はローマ時代の遺跡。

ブルガリア人のツアー・ガイドが、
「この聖ロウタンダ教会は、4世紀に建立されました。
第2次世界大戦の爆撃のときにも、奇跡的に戦禍を免れました」
と、説明したから、思わず質問した。
「爆撃したのは誰ですか? ナチスですか? ソ連ですか?」
アメリカです。ブルガリアも日本と同じ枢軸国だったんですよ」
と、応えてくれた。いくぶん、親しみがあるように感じられた。

ブルガリアは、ナチス・ドイツと運命をともにして、
第2次世界大戦の敗戦国となった。
そして、ナチスから開放されたソ連の支配のもとで、
社会主義国になったのだが……ルーマニアもハンガリーも。

自費出版した『世界がみる日本の魅力と通知表』では、
敗戦国の復興について書いてあるので、参考にしてください。
敗戦国でも、日本とフィンランドは市場経済のもとで経済復興したが、
同じ敗戦国であった東欧は、ソ連の支配のもとで計画経済を進めたが、
破綻したために、ソ連が崩壊する(1991年)とともに、くびきから離れて、
市場経済に移行し、EUに加盟して、国の復興をしている。

「ソ連は1991年に崩壊した。
これで、ソ連から侵略される脅威がなくなった、
という“歴史的な激変”です。東西の緊張の終わりという、
新しい時代の幕開けを、フィンランドはひしひしと感じました」

「しかし、イデオロギーに代わって、
先端技術がヨーロッパを支配するようになった。
1995年のEU加盟にあたって、
先端技術でヨーロッパと競争するのか?
それとも北欧の中立国として埋没するのか?
人口も資源もないフィンランドは、
国際化か死か”の選択をせまられたのです」
この“国際化か死か”は、フィンランドの国連代表、
マックス・ヤコブソンが言っている。

「フィンランドは国土も小さく、人口も520万と少なく、
木材以外には、これといった資源がありません。
教育の改革をし、林業からIT(情報機器)に産業構造を転換し、
中立国として国際協調をしていく。そうしないと、
あすのフィンランドはない”と、国を復興してきた」

「いまでは、生徒の“学力は世界一”なり、“ノキア”の携帯電話は、
世界一のシェア(30%以上)で、主産業はIT産業になりました。
外交も、留学も、開発も、製造も、販売も、国際協調を進めています」

フィンランドは、
歴史から消滅する“国存亡”の危機、
国際化か死か”の危機を、
教育の改革、ITへの産業構造の転換、国際協調で乗り切った。

ヘルシンキ大聖堂。ヘルシンキのランド・マーク。

1917年の独立宣言までは、ニコライ教会と呼ばれていた。
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最高のおもてなしはサウナ・バス

2008-10-05 06:05:32 | Weblog
サウナ・バス発祥の地、フィンランド。
ラップランドにも当然サウナ・バスはある。
コッテージから100メートル離れた湖畔にあって、
完全防寒で、ブーツで雪を踏みしめながらサウナ・バスへ行く。


そして、更衣室を兼ねたリビング・ルームで、まっ裸になる。
極寒で、完全防寒まっ裸……ラップランドのこの“極端”がいい。

ティモとは文字通り“裸のつき合い”になる。
ティモがするように、最初にシャワー・ルームで体を洗う。
それから、サウナ・バスに入るが、汗でベンチが濡れないように、
尻の下に敷くプラスチックを持って、ティモのあとに続く。

左のドアは、リビング・ルームへ。

ベンチは2段で、上段には木のまくらがある。


ティモは、ストーブの上の香花石というサウナ・ストーンに、
ときどき水をかけては、水蒸気ロウリュlöylyを充満させる。
「60℃から70℃で、湿度の多いタイトロピカルなムードを楽しみます」
この水蒸気ロウリュを充満させる湿度調整は、フィンランド特有のものだ。
――タイには、フィンランドにはない南国へのあこがれがある。

温度計をみたら、65℃であった。
日本のように100℃の高温にして、空気をカンカンに乾燥させて、
汗をダクダクと流すことに慣れていると、最初は物足らない。
それに、サウナ・バスとは、空気カンカンのどカラカラ
という砂漠のしゃく熱地獄に、いかに耐えることができるか?
……そういうものだ! と思っていた。

しかし、フィンランドの水蒸気ロウリュを立て、湿度を高くして、
乾燥よりも湿度の、空気シットリのどウルオイの、
体に優しいフィンランド方式?(実は本場だが) に慣れると、
砂漠のしゃく熱地獄よりも、トロピカル・ムードがよくなる。

ほてった体は、夏ならば、まっ裸のまま湖に飛び込んで鎮めるが、
3月の湖は凍っているから、外のの上で仰向けになった。
――しかし、これは長くいられない、寒すぎる!
「水中のほうが暖かい。外気はマイナス10℃だが、
氷を割った水中は0℃くらいだから」
と言うが、湖まで雪道を踏みしめて、氷割りする勇気はなかった。

外の雪の代わりに、シャワーで水を浴びる。
リビング・ルームで、ビール(LEGENDA)を飲む。
のどをごくごくと通り過ぎる。

奥のドアからシャワー・ルームへ。

ヒーティングで発汗 → 水か雪でクーリング・ダウン
ビールで水分補給……これに団らんが加わる。
この“ヒート・サイクル”を繰り返す。
いい気分になる。至福のときだ。


ここで、フィンランド人の言葉から、
“サウナ・バスへの熱い思い入れ”
サウナ・バス 命!”をみる。
サウナ・バスに、もう少し、おつき合いしてください。

それに、なるべく写真を載せるので、参考にしてください。
サウナ・バスは高温・高湿だから、カメラによくないし、
レンズは曇るから、撮るのはむずかしいが、集めてみました。

「フィンランドでは、すべての家にサウナ・バスがある。
フィンランドでサウナ・バスがないのは、家を建てたときに、
屋根をつけ忘れたようなもので、間が抜ける

「湖のほとりに、サマー・コッテージを持っているが、
そこにも当然サウナ・バスがある。
2つ以上のサウナ・バスを持つ家庭が多いから、
フィンランドの人口は520万人でも、サウナ・バスは170万ある」

そのサマー・コッテージで、一番大事なのはサウナ・バス。
ほかに、キッチンを兼ねたリビング・ルーム、トイレ、テラスがある。
湖のそばにあるが、ほかにサマー・コッテージは見当たらない。

サマー・コッテージからオールを持ってきて、ボートにつけている。
湖を独り占めして、ボート遊びや釣りができる。ヘルシンキ郊外。

ボート遊びが終わると、サウナ・バスだ。
尻の下に敷くプラスチックの代わりに、布が敷いてあった。

左の壁に立てかけてあるのは火かき棒
柄には、やけどをしなように、布が巻きつけてある。

まきストーブに火をつけると、
2メートル四方の小さなサウナ・バスはすぐに温まったようで、
「そろそろ、いいですよ」
と、言われて、入ると温度計は60℃であった。
――まだ、ぬるいんじゃない?

しかし、湖から汲んできたバケツの水を、ひしゃくで、
一度に5、6杯、ストーブの上のサウナ・ストーンに、
じゃぶじゃぶとかけて、水蒸気(ロウリュ)をモワーッと沸き立たせた。
すると、熱くなってきた。水蒸気が体にジワーっとしみとおるようだ。

「きょうは、急で用意できませんでしたが、
ヴィータVihta”というシラカバの葉っぱで体を叩きます。
皮膚に刺激を与え、血行をよくし、さわやかな香りが充満します」
曇った小窓をぬぐうと、外にシラカバが見える。しかし、
ヴィータは、シラカバの小枝を乾燥させて作るから、時間がかかる

ほてった体は、湖に飛びこんで鎮めるが、
水泳のゴーグルで、目だけ隠した奇妙なスタイルで、
湖までホイホイと走って……なぜか走って、湖にいく。
人は、になると、外では自然に走り出す?

小さな魚が群れをなして泳いでいる。パーチの子どもかな?
裸の魚といっしょに泳いで、またサウナ・バスにもどる。
そして、ビール。
サウナ・バスは、楽しみ、遊ぶようになっている。

「海外出張で、ホテルにサウナ・バスがないと、
まるで、することがない」
ヘルシンキのホテルにもサウナ・バスはあったし、
ティモの会社の最上階にもあって、“裸のつき合い”をする。

「アメリカのテキサス州に赴任したフィンランド人は、
家にサウナ・バスを造った。
テキサスで木材とストーブを探したが、適当なものがなかった。
それで、フィンランドからモミの木まきストーブを取り寄せたが、
一式で550万円ほどかかったようだ」

――テキサスには、1年中、降り注ぐ太陽があるんだから、
ゴルフや乗馬、トレッキングなどのアウトドア・スポーツを楽しめば、
と思うのだが。
「自慢のサウナ・バスで、裸のつき合いの“招待”にも使っている。
アメリカ人からは、ゴルフ場のディナーへ招待されたようだ」

テキサスへ行っても、世界のどこへ行っても、
フィンランド人はサウナ・バスを手放さない。
サウナ・バス 命!

「これまでの、まきストーブのほかに、

(ストーブの上にあるのは、サウナ・ストーン、香花石。
ストーブの左では、お湯が沸く)

電気ストーブがあって、設置が楽だから、
都市部やアパートメントに普及してきた」

電気ストーブの上に、サウナ・ストーンがある。
バケツとひしゃくは銅製。木製が多い。

「会社へ行く前にサウナ・バスに入り、帰ってからも入る。
退社するときに、ノキアの携帯電話から電気ストーブの電源を入れると、
家に帰ればサウナ・バスは、ちょうどいい温度に暖まっている」

週末にはたっぷりと時間をかけ、家族で楽しむ。
家族のときは団らんする。ひとりだけのときは、思いにふける。
2人のこどもは、大きくなったら、家族といっしょに入らなくなった」

フィンランドで最高の“おもてなし”、
それは、サウナ・バスで“やすらいでもらう”こと。
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キツネの火のオーロラ

2008-10-01 06:51:57 | Weblog
ラップランドで、待ち遠しかったになった。
ラップランドの本番……それは、オーロラだ。

湖畔でサウナ・バスも浴びたし、
エスコの奥さんラウラが作ってくれた、
淡水魚のムニエルの晩飯もうまかったし、
コッテージで読書もした。

読書といっても、モータ・スキーのツァーで見かけたを、
備えつけの図鑑で、ティモと確認したのだが。

夜を待ちわびて、気になる天気だが、
コッテージのリビング・ルームから、
ときどき外を見るかぎり、
は舞っていない、ってもいない、
ひゅーひゅーとも吹いていない……よさそうだ。

3月と10月のラップランドは、オーロラを見る確率が高い」
と、ティモが言う。
――どうりで、ヘルシンキからのジェット機が満席だったわけだ。

「フィンランドではオーロラを、
キツネの火”Revontuliレボントゥリと言って、
黒キツネが雪の中を駆けるときに、しっぽが舞い上げた粉雪が、
きらめきとなってオーロラになった、といわれている」

「すばらしいオーロラを見たことがありました。
普通は青白いが、そのときは赤くて大きなオーロラが空を覆って、
辺りが明るくなった。
ちょうど、北極圏をドライブしているときで、
道路わきに車を止めてオーロラを眺めた。
他の車も止まって、眺めていた。
あんなに明るいオーロラは珍しい」
と言うから、期待はますます上がってくる。

「オーロラは夜の10時から2時まで活発になります」
という10時になった。
これで、オーロラをみる条件はそろった。
北極点に近い……ここは、ラップランドだ。
季節は3月、時は夜の10時、そして天気はれている。

目だけさらす完全防寒に、ブーツを履いて、ティモと外に出る。
陽が落ちた夜は冷えている。
コッテージの外の温度計は、マイナス20℃

温度は青色ですが、見にくくて、すみません。

「東の方がでやすい」
と、言われて、松林の間に目をこらしていると、
「あれだよ!」
と、ティモが指さしたのは、
木立の間から立ち昇る、ほのかに青白い一筋の光
うすぼんやりした縦の筋がスーッと空に上がっては、消えていく。
妖しい影が揺り動いているようなもの……オーロラが見えた。

――しかし、これでは貧弱だ!
予想したオーロラは、厚いドレープで、すそが波打ち、
しかも虹色に輝き、天井をこがすかのように明るいものだ。
「前に見たときは、もっと明るかった。
きょうは、このくらいの幸運でいいです」
ティモは、すまなそうにコッテージへもどった。

がっかりと期待で、30分ほど目をこらしていた。
すると、大きな“”の字が、ぶら下がった。
しかも、上空を占拠する巨大さだ。
――厚いドレープがぶら下がっている。
これが、オーロラだ! 大きい、形がいい、しかも明るい。

つの字の径が、だんだんと大きくなってくる。
頭上に覆いかぶさるように下がってきた。
そして、ぼんやりして消えた。
――満足だ! 長かった。
私のためだけの? 自然のショーだった。

つぎの晩も晴れた。
週末だけのラップランドだから、
――オーロラを見逃すわけにはいかない。
ティモは、きのうの幸運で満足して、読書をしている。
――フィンランド人はオーロラに、あまり興味を示さないな。
信州の雪のようだ? 初雪は感激するが、あとは、ふだんの雪。

オーロラはいきなり、真上に現れた。
天の川”状のオーロラが頭上を走る。
方向が変わり、赤い筋が混じる。
大きな刷毛(ハケ)で、天井にスイー、スイーっと、
気ままに描いたようだ。自然の造形美だ!
形と色の変化が速い。
――黒キツネが、あっちこっち飛び跳ねている。
(オーロラは写っていませんでした、残念)
ラップランドで、キツネの火を見た。
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