季節の変化

活動の状況

初春の鎌池のあらゆる緑

2013-06-30 00:03:50 | Weblog
信州の北にある「鎌池」。小谷(おたり)温泉の先で、松本から車で3時間ほど。
信州の高原の5月は雪が融けたばかり。初春らしい写真を撮りたい!
フキノトウとエンレイソウ」。

鎌池に風が出てきて、大きくなったフキノトウが波に映えている。

さっきまで晴れていたが、が出てきた。

霧の白さで緑が引き立つ。初春の鎌池には、あらゆるがあるようだ。
東山魁夷の世界にひたっているようで、うっとりする。

初春の鎌池は天気が急変する。霧が湖面に降りてきた。

舞台にどんちょうが降りてきたようだ。

霧が湖面を渡っていく。


霧がサーっと通り抜けると、緑がもどってきた。

舞台が開けるように。繰り広げられた自然のショウ

「1枚でいいから、いい写真を撮りたい!」
と思ってやってきた鎌池。天候の急変が味方した。
目の前に繰り広げられ自然の贈り物に、見入っていた。

それに、淡い緑の若葉が目を癒してくれる。


鎌池のそばにある「鉈池」(なたいけ)には残雪があった。

霧が鉈池に舞い降りてきた。

この鎌池は、松本から大町を経て白馬へ、千国街道148号を北に。
トンネルを過ぎるとすぐにある「小谷温泉口」を右折して、
114号に入って20分ほど。

初春の鎌池は、あらゆる緑が迎えてくれる。
冬から春へ向かう季節の変化の贈り物があった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国帰国者への差別は日本語から

2013-06-23 00:15:50 | Weblog
中国帰国者への差別日本語からはじまる。
「あっ、中国人だ!」
と、友達から言われた。
うまくなったつもりの日本語でも、
発音に微妙なちがいがあったのだ。
さげすまれたようで、心に大きな傷を受ける。

中国からの帰国者に「中国残留者2世」がいる。
日本語、日本文化、習慣の知識をまったく持たずに、
中国から故郷の長野県に帰ってくるのが普通だ。
中国語しか話せない、日本語が話せない、
日本の文化がわからない状態で、
日本の社会で生きていく。

「中国残留者2世」が、学童ならば日本の学校へ通って、日本語を覚えていく。
「中国残留者2世」が、就労年齢になっていれば、就職するが、
日本語が話せないから、就職はうまくいかない。
結局、3Kの危険、汚い、きつい、の仕事しか見つからない。
社会の底辺で生きていくことになる。

このために、日本にはなじめずに、中国に帰る場合がある。
しゃべる日本語から、中国人とわかって差別される。
それに、文化が劣っていると思われて差別される。
中国からの帰国者というだけで、
いわれなき差別を受ける。

中国残留者2世」とは、つぎである。
満蒙開拓団の家族が、日本の敗戦が濃厚になって、
父は根こそぎ動員で召集される。
そして、ソ連の襲撃で倒れる。あるいは、
捕虜になってシベリアの強制収容所で、
重労働、飢え、凍死、発疹チフスで死亡する。

残された母と子どもは「地獄の逃避行」がはじまり、
襲撃、飢え、凍死、発疹チフス、集団自決にさらされる。
幼い子どもは死亡したり、生き延びるために中国人に売られる。
母も同様に、死ぬか、生き延びるために中国人と結婚して中国に留まる。
その母と中国人の父との間に生まれた子どもが、
「中国残留者2世」である。

一方、中国人に救われた子どもは、中国残留者1世である。
中国の家庭で、家事労働をこなし、中国語で育つ。
やがて成人して、中国人女性と結婚する。そして、
生まれた子どもが、「中国残留者2世」である。

この「中国残留者2世」の女性に話を聞くことができた。
中国から一家6人が、父の故郷である長野県に帰った。
父にとっても、まったく初めて見る日本である。
中国語しか話せない日本人の父と中国人の母、
それに、中国で生まれた3人の子どもたち、「中国残留者2世」。
女性はその一人で、長野県の「豊丘村」に帰ったのは3歳だった。

帰国の動機は「文化大革命」だった。
多くの人民を巻き込んだ粛清虐殺があった。
侵略国日本」に近い人たちがスパイ容疑で迫害され、
「日本人」の父も、人民公社の会計係の職を追われた。

日本への帰国には、中国人の「母」は猛反対した。
それに、母の親戚も猛反対だった。
「母」は日本をまったく知らない。
このまま中国にいれば、家もあるし、
なんとか生きていかれる。しかし、
「豊丘村」に行けば、職業も家もない。
家族は、だれも日本語を話せない。
「ゼロ」からのスタートではない。
「マイナス」からのスタートである。

中国の家と土地は売り払って日本に来たが、
蓄えは、日本の半年の生活で底をついた。
物価水準の違いが大き過ぎた。

家族6人は日本語、日本文化、習慣の知識を、
まったく持たずに日本の社会に飛び込んだ。
家族は日本語を一生懸命に学んだ。必死に。
広告の裏に、日本語を書いて覚えた。
3歳の女の子の日本語は上達してきた。

そして、言われたのが、
「あっ、中国人だ!」
当初は、「中国人」と「日本人」の違いを、
言っているだけの言葉だと思っていた。

しかし、日本での生活が長くなると、
中国からの帰国者の多くが、地位的にも経済的にも、
社会の底辺に位置づけられている現実を知るようになった。
それに、開発途上国の人は、文化的に低く、劣っているとみられた。
「あっ、中国人だ!」
さげすみに大きく傷ついた。
「中国人」という言葉を避けるようになった。

そして、日本で生きていくには、日本人になりきらないと、
社会の底辺で生活することになる。
底辺の生活はしたくない。

この「中国残留者2世」のことは、つぎに書いてある。
「中国残留者2世の幸せは?」、2012年7月15日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/e54c3361cac3f9c32dcfb5871a3b83c5

高校、大学では、友人にも、
「中国残留者2世」であることを明かさなかった。
「日本人」になりきろうとした。
「中国人」を消し去った。

しかし、偽(いつわ)ることに苦しみ、
「自分は何者?」と、葛藤した。
「自分は何者?」の「封印」を解くことが起きた。

英文学を学び、英語教師として長野県にもどった。
赴任した中学校に「中国残留者3世」が、
入学してくることになった。
「満蒙開拓団」を日本一多く送り出した長野県には、
「中国残留者」が帰ってくることが多い。

学習交流会の場で、ある教師が発言した。
「中国人の帰国者は、中国から来たことを知られまい、
と苦しんでいます。どうしたら救えるのでしょうか?」

「中国残留者2世」の女性は、
自分のことを言われているようで、
心臓がバクバクし、冷や汗が流れた。
そして、手を挙げて、
「私も帰国者です!」
と発言していた。

「中国残留者2世」の女性は続けた。
「先生方が帰国者の気持ちを理解しようと、
してくださっていることに、とても感激しました」
身体が震え、全身のが逆流したかのように鳥肌が立った、
「封印」が解かれた。長い間、かぶっていた「殻」が解き放たれた。

「中国残留者2世」の女性は、
「中国残留者3世」に、中国語で話しかけて、
日本復帰への力になっている。

中国帰国者に日本語、日本文化、習慣の知識を授けて、
日本の社会になじませること、日本復帰への力になること、
信濃教育会」は、これをすでに実行している。

「満蒙開拓青少年義勇軍」の生存者が言うことがある。
「先生は夢のある満州だと言って、だまして送り込んだ」
「先生自身は満州に行かなかった」

満州は希望の大地ではなかった。そして、
ソ連に襲撃され、シベリアに抑留された。
友は死に、自分は死線をさまよいながら帰国できた。
遺族は、もっと納得できないだろう。

「満蒙開拓青少年義勇軍」の「慰霊碑」がある。
拓友之碑」。長野県護国神社、松本市。

「元満蒙開拓青少年義勇軍斉藤中隊は、217名の隊員をもって編成。
昭和19年6月、斉藤義男中隊長指揮のもとに14、15才の少年達が、
肉親と別れ、遥か満蒙の広野に開拓の意気高く、時の国策を信じ大陸に渡る。
しかし、昭和20年8月、国境を突破したソ連軍の怒涛の進攻の前に、
なんら為す術もなく、全員捕虜となる。
銃口を背に、過酷な重労働を強られ、寒さと飢えと疲労のため、
つぎつぎに病に倒れ、実に120余名の隊員が、異国の土となる」
碑によれば、14、15才の少年たち217名の内、
120余名が異国の土となった。
6割ほどが亡くなったのだ。


「満蒙開拓青少年義勇軍」とは、何だったんだろうか?
後世に、平和教育をする材料にすると言うが、
友は亡くなり、自分は死に直面し、命からがら逃げてきている。
平和教育の材料になると言われても、釈然としない、ピンとこない。

反対を考えればいい。
後世の平和教育の材料にするから、
これから「満蒙開拓青少年義勇軍」で、満州に行ってください、
死に直面するかも知れませんし、年金は出ませんが、
後世の平和教育の材料にするから、と言われて、
あなたは「満蒙開拓青少年義勇軍」に入りますか?

「満蒙開拓青少年義勇軍」とは、
ソ連国境の警護民族の協和食糧の増産だった。
そして、関東軍の支配下の予備軍であった。

この政策のうち、ソ連国境の警護にあたり、
関東軍の予備軍でソ連侵攻にあたることは、
青少年には知らされることがなかった。そして、
世界でも例がない、青少年を戦場に送る軍隊をつくった。

先生からは、
「満蒙開拓は国策で、君の幸せを約束するものだ」
「満州に行けば、20町歩がもらえる」
と、説得されて「満蒙開拓青少年義勇軍」に入っている。

「満蒙開拓青少年義勇軍」が、
ソ連国境の警護をし、関東軍の予備軍であることは、
戦後に聞かされたことだった。


満蒙開拓青少年義勇軍」を壮行すると思う写真がある。大日向村。

日の丸、鼓笛隊が先導し、「満蒙開拓青少年義勇軍」が続く。

長野県立歴史館の企画展「長野県の満洲移民」で、
展示されていたこの写真を見に来た人が、
「ここに写っているのは、親父だ。親父が17歳のときだった」
と言っているのが聞こえてきた。
生きて帰国できたから、見に来た人が生まれたのだろう。
それか、満州で生まれたが、生きて日本に引き揚げることができた。
長野県立歴史館の企画展、
「長野県の満洲移民」-三つの大日向をたどる- 2012年、から。


先生も、
「満蒙開拓青少年義勇軍」は、
民族の協和、食糧の増産とは言うが、
ソ連国境の警護であり、関東軍の予備軍だ、
とは言えなかった。そんなことを言えば、
14歳、15歳の子どもが死にさらされるわけで、
子どもを持つ母親は猛反対する。すると、
先生は、満州に送り出すノルマが達成できなくなる。

満蒙開拓青少年義勇軍」の送出のトップは長野県。



「満蒙開拓青少年義勇軍」の生存者は、
「満蒙開拓青少年義勇軍」を送り出した、
信濃教育会」の責任と謝罪を要求している。

「信濃教育会」は謝罪をしていない。
今後も謝罪はしないと思う。
「満蒙開拓青少年義勇軍」の生存者の、
気持ちに区切りはつくだろうが、
償(つぐな)いにはならない。

しかし、「信濃教育会」が実効を上げていることがある。
中国からの帰国者に、日本の社会になじませ、
日本復帰への力になる教育をしている。

「中国残留者2世」、「中国残留者3世」・・・は、
日本の文化を知り、中国の文化を知っている。
両国の文化を知る貴重な日本人として、
日本と中国で活躍できる人材を育てることができる。
これを「信濃教育会」の責任として、組織で進める。


長野県の阿智村に「満蒙開拓平和祈念館」ができた。2013年4月25日。

「満蒙開拓平和記念館」の設立にあたって、
「信濃教育会」は積極的に協力している。
「平和の尊さを次世代に語り継ぐ」という、
「満蒙開拓平和記念館」の趣旨に賛同して、
200万円を寄付している。

「信濃教育会」が積極的に、
「満蒙開拓平和記念館」に生徒を引率して、
「平和教育」、「歴史教育」を実施する。
「平和の尊さを次世代に語り継ぐ」という教育を、
「信濃教育会」が市別の「番付表」で発表してもいい。
「満蒙開拓青少年義勇軍」とは、
後世に、平和教育をする材料にすると言う指標になる。

中国帰国者日本語日本文化習慣の知識を授けて、
日本の社会になじませ、日本へ復帰する力になり、
日本の文化と中国の文化を知る貴重な人材を育てる、
中国からの帰国者への教育は、
「信濃教育会」に学べ! になればいい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

慰霊碑に見る満蒙開拓青少年義勇軍

2013-06-16 00:15:01 | Weblog
満蒙開拓青少年義勇軍」の送出数のトップは長野県である。
「満蒙開拓青少年義勇軍」の「慰霊碑」を、あちこちで見る。
これらの「慰霊碑」は、どのようにして建ったのだろうか?
「慰霊碑」に「満蒙開拓青少年義勇軍」を見る。

「満蒙開拓青少年義勇軍」は、茨城県の内原で3か月の訓練を終えて、
満州に渡ると「満蒙開拓青少年義勇隊」と呼ばれて、訓練所に入った。
「満蒙開拓青少年義勇軍」では、「関東軍」のほかに、
また「軍」が満州に来たと思われるために、
「満蒙開拓青少年義勇隊」と呼ばれた。
満蒙開拓青少年義勇隊」。

「シベリア俘虜記」。穂苅甲子男 著、光人NF文庫から。

満州に行けば、20町歩がもらえる、
「満蒙開拓は国策で、君の幸せを約束するものだ」
と、先生に説得されて「満蒙開拓青少年義勇軍」に入った。
村長、校長、在校生、村人から盛大に送り出されたが、
夢は崩れ去った。現実の満州は、まったく違っていた。
だだっ広い原っぱに、粗末な建物、貧しい暮らし、
9月には冬が訪れ、マイナス30度になった。

ソ連の満州侵攻で、「満蒙開拓青少年義勇隊」は、
撃たれた。そして、シベリアに抑留され、
死亡したり、行方不明になった。

「自分は、死線をくぐりぬけて、なんとか日本に帰ることができた。しかし、
友は銃弾に倒れた、凍死した、餓死した、行方不明になった」
「戦後、黙っていたが、このままでは、友は浮かばれない」
「亡くなった友の霊を祀りたい、そうしなければ、
三途の川を渡ってあの世に行けない」
「生存者を探し求めることから始めて、
死者、行方不明者の名簿の作成をし、
生存者と連絡を取り合って慰霊碑の建立の説明をして、
賛同を得て、寄附を募り、故郷のどこかに慰霊碑を建てよう」
ということで建設された「慰霊碑」だ。


「満蒙開拓青少年義勇軍」の「慰霊碑」を、
いくつか訪れて、どのようなことが書いてあるのか? を見る。
「満蒙開拓青少年義勇軍」のことがわかるし、
「慰霊碑」のこともわかる。

八洲魂」(やしま)。善知鳥峠(うとうとうげ)、塩尻市。

八洲魂歌誌
昭和13年早春 国策として満蒙開拓義勇軍発足し 県下多数の青少年が
これに参加しましたが、その内の300数名と高知出身者61名を以て
折山中隊を編成し、元満州国黒河省嫩江県八洲訓練所に入所して
北満の荒野に若き開拓の情熱を燃し その地に開拓団として入植し
中には妻子もあり一家の経営としている様になりました。
戦果次第に烈しくなるや若者は戦列に加わる者多く
その間に散華したる者や 開拓途上や終戦時に
又帰国後に物故された者等 
子女を含め多数の同志を失いました。
それらの方々の霊を弔い慰めんと八洲会員一同相計り
当地矢彦沢良一氏の御協力を得て
茲善知鳥峠の分水嶺地に八洲魂碑を建て
慰霊祭を営み 亡き同志の冥福を切に祈るものです。
昭和45年8月16日
元満州国黒河省嫩江県第1次八洲義勇隊開拓団員
八洲会一同

この「慰霊碑」から、つぎがわかる。
「満州国開拓青少年義勇軍」は、国策として昭和12年に制定されたが、
昭和13年というのは、極めて早い時期に満州に渡っている。
そして、訓練所で3年の訓練期間を終えると、
「八洲義勇隊開拓団」に入植し、やがて、
「大陸の花嫁」をもらって、
家族で農業経営が始まった。

しかし、戦局が悪化した。
「満州開拓団」を守る「関東軍」は南方に渡って、いなかったから、
「満州開拓団」の15歳~45歳の男は、ねこそぎ動員で、
非常召集され、ソ連の銃弾に倒れたり、シベリアに抑留された。
残された女、子どもは「地獄の逃避行」で多数が命を絶った。

「慰霊碑」の建立は、
終戦の昭和20年8月15日から、
25年後の昭和45年8月16日である。


拓友之碑」、佐藤中隊。長野県護国神社、松本市。

碑に寄せて
思えば昭和14年 満蒙開拓青少年義勇軍 大いなる夢と希望を抱いた
300余名の14、15才の少年が 国策の第一線興亜の大業をめざして
遠く異国の地に骨を埋める決意も固く
懐かしい故国を後に敦賀港より壮途につきました。
満洲国勃利(ぼつり)訓練所への道は遠く 1日48キロの行程に
大陸の野の花を見るゆとりもなく空腹と疲労を克服し 1人の落伍者もなく到着
涙なくして開拓の途は歩めない辛苦の4年有余
やがて大東亜戦争勃発 数多くの者が応召され 或は病に倒れ終戦を迎えました
其の間の労苦は筆舌に尽し難いものがあります
不幸にして病に倒れ 戦果に散り 永遠に満蒙の地に眠る同志に対し
哀惜の感に堪えません
終戦後同志を捜し求むる術もなく20数年の歳月は水の如く流れ去りましたが
同志の熱意によりここに「拓友の碑」の建立を見ましたことは
同志と共に歓喜に堪えません
当時中隊長佐藤剛吉
昭和48年4月17日
拓友会一同建之

この「拓友の碑」から、つぎがわかる。
昭和14年と早い時期の「満蒙開拓青少年義勇軍」である。

辛苦の開拓に4年ほどかかった。
が、戦争が勃発して、多くが応召され、倒れた。

同志の消息を探すのは困難であったが、
終戦から20数年後に「拓友の碑」を建立した。


供養塔 満州開拓 鳳鳴義勇団」。貞松院、諏訪市。

昭和15年3月 満蒙開拓を志す少年300余名
第3次青少年義勇隊小林中隊を編成し 内地訓練を終えて 同年7月渡満
現地教育を修め18年10月北満の鳳鳴に入植す
後多くは関東軍の軍籍に列し偉勲を挙げしも ソ連参戦により
戦死せし者 抑留中若しくは引揚途上にて病死せし者 少なからず
ここに同志の霊を祀りて供養せるものなり
昭和41年1月23日 鳳鳴同志会建之

この「供養塔」から、つぎがわかる。
昭和15年7月と比較的早い時期の渡満で、
訓練所で3年の訓練期間を終えて、
「鳳鳴開拓団」に入植している。

しかし、ソ連の参戦で戦死や、シベリア抑留、
引き揚げ時の「地獄の逃避行」で死者が多数でている。
「満蒙開拓青少年義勇軍」は「関東軍」の指揮下にあった。

「供養塔」の建立は、
終戦の昭和20年8月15日から、
20年後の昭和41年1月23日である。


少年義勇隊之碑」。温泉寺、諏訪市。

 碑 文
昭和19年3月 当時国策の一環であった半軍半農の 旧満蒙開拓青少年義勇隊
第7次郷土中隊として 諏訪 上伊那 下伊那 3郡により 273名の当時15才 16才の
少年隊員で編成され 茨城県内原訓練所に入所 2ヶ月程訓練を受け祖国の為
大陸の荒野に立たんと胸弾ませ 渡満したのも束の間
翌20年8月11日 関東軍の指令により出動
8月15日終戦と共にソ連軍捕虜となり 捕虜生活中 病死または栄養失調に臥し
76名の隊員を喪う
21年9月帰還の途に着き 約1ヶ月かかり10月 日夜忘れえぬ故郷の地に
帰還できました
此の碑は 我等帰還者により亡き友の霊を弔う 慰霊碑建立の声が盛り上り
昭和50年5月頃より隊員から寄附を願い 町村より台石を寄贈戴き
尚温泉寺の御厚意に頼り永代供養として建碑出来たものである。
建立には諏訪隊員が主体となり 建設委員の奉仕により約7ヶ月かかり
建碑の完成を得ました。
 昭和51年3月14日 建立

この「慰霊碑」から、つぎがわかる。
敗戦が濃厚となった昭和19年3月に、
273名が満州に渡っている。
1942年(昭和17年)の末には、
ミッドウエイ海戦で海軍が大敗北して、
半身不随の状態になっていた。

そして、この第7次郷土中隊は、関東軍の指令により出動し、
ソ連軍の捕虜となり、病死、栄養失調で、
273名のうち、76名が亡くなっている。

「慰霊碑」の建立は、
昭和21年10月に帰還してから、
30年後の昭和51年3月14日である。


拓友之碑」、斉藤中隊。長野県護国神社、松本市。

碑 文
元満蒙開拓青少年義勇軍斉藤中隊は 217名の隊員をもって編成
昭和19年6月 斉藤義男中隊長指揮のもとに14 5才の少年達が肉親と別れ
遥か満蒙の広野に開拓の意気高く 時の国策を信じ大陸に渡る
しかし昭和20年8月 国境を突破したソ連軍の怒涛の進攻の前に
なんら為す術もなく 全員捕虜となる
銃口を背に 過酷な重労働を強られ 寒さと飢えと疲労のため
つぎつぎに病に倒れ 実に120余名の隊員が 異国の土となる
あれから30余年の星霜が流れ
とかく忘れがちなこの厳粛な事実に思いをいたし
きょう茲にわれら生存者は美須々の森に集い
亡き師 亡き友を偲び 御霊の安からんことを祈願し
この地に拓友の碑を建立する
歳月は流れども われらはいつもこの碑に集い 師を憶い 友を語り
やがていつの日にか碑下にて相まみえんことを誓い
以て恒久平和への礎としたい
昭和51年11月吉日建立
興安拓友会

松本市の長野県護国神社には、「拓友之碑」が2つある。
昭和19年のこの斉藤中隊と
昭和14年の先の佐藤中隊で、
2つの「拓友之碑」の間は、
数十メートルほどである。

昭和19年の斉藤中隊の「拓友之碑」から、つぎがわかる。
満州に渡った217名の内、120余名が異国の土となった。
6割ほどが亡くなるという高い死亡率であった。

昭和19年(1944年)6月とは、敗戦間近に満州に渡っている。
昭和17年(1942年)の末に、ミッドウエイ海戦で海軍が大敗北して、
半身不随の状態にあった。そして、1944年末には、
日本の敗戦も近いという情報が中学生の間にも流れていた。
また、「満蒙開拓青少年義勇軍」の悲惨な状況も満州から伝わってきていた。

「拓友之碑」の建立は、
敗戦から30余年の昭和51年11月である。


最後に、伊那市の伊那公園には3つの「碑」がある。
「満蒙開拓青少年義勇軍招魂碑」、「吾等の魂を永遠に此処に刻む」、
それに、「少年の塔」である。
「満蒙開拓青少年義勇軍招魂碑」と「少年の塔」を紹介する。

満蒙開拓青少年義勇軍招魂碑」、伊那公園、伊那市。

碑 文
満州国開拓青少年義勇軍は 昭和12年 我が国の国策にして
満州国(現中国東北)の広大にして肥沃なる未開の原野を開拓し
食糧の増産と友好国大満州国建設の礎石なるべく強健なる体力と
精神力を持った青少年による移民団であり 又の名を鍬の戦士と呼ばれた
昭和12年先遣隊渡満以来 終戦まで数百万の青少年が大望を懐いて渡満した
然るに昭和20年8月15日終戦により 日本引揚げを余儀なくされた 
この間異郷にありて大理想郷建設の為 日夜激務に精励し
其の尊き犠牲となり 又不幸にして病に仆れ
或は大東亜戦争に出征し 命を戦場に散したる
全県下の拓友の尊い数多の御霊を慰めんため
戦後21年を過ぎた今日 生還せし同志相集いて此処に碑を建立し
其の聖霊を祀る
曙 会


少年の塔」。伊那公園、伊那市。

太平洋戦争中 いくたの若い生命が満蒙開拓青少年義勇軍として
また学徒動員として 祖国の平和を願いながら消えていった
その若くして散った霊をなぐさめるために この塔をたて
永遠の平和を祈念するものである


これまで、「満蒙開拓青少年義勇軍」の「慰霊碑」を見てきて、
気がついたことがあった。それは、「慰霊碑」は、
生き延びて日本に帰ってきた生存者が建立していることである。
国策で満州に行った「満蒙開拓青少年義勇軍」だが、「慰霊碑」は、
国でも、県でもない、市でも、町でも、村でもない、
仲間が作っているのである。

「信濃教育会」は、「満蒙開拓青少年義勇軍」を満州に、
積極的に送り込んだ。
しかし、「信濃教育会」は、
「慰霊碑」の建立に関わっていない。

「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出には、
「信濃教育会」は勧進元になっている。


「下伊那のなかの満州」、満蒙開拓を語りつぐ会編では、
「満蒙開拓青少年義勇軍」の生存者はつぎのように言っている。
「碑を建てようということになったんです。
費用のことで「信濃教育会」に言ったら、
そんなものは知らんぞ、お前たち勝手にやりなさい
と、言われました」

「自分が生き延びるだけがやっとで、
友がどうなっているのか? 考えられなかった」
と、生き残って日本に帰ってきた人たちが、
20年~30年経って、重い口を開いた。
「亡くなった友の御霊を鎮めよう」と。そして、
寄附をして作った「満蒙開拓青少年義勇軍」の「慰霊碑」である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大陸の花嫁の養成所

2013-06-09 00:03:50 | Weblog
満蒙開拓青少年義勇軍」を満州に送れば、
つぎは、伴侶として、「大陸の花嫁」を送る必要がある。それには、
「満州開拓民の伴侶として確固たる信念を有する女子の育成」
をしなければならない。
「大陸の花嫁」を養成する、訓練所」が必要である。
女子拓務訓練所」。

「長野県歴史教育者協議会」による、
満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」を読むと、
つぎのように、「信濃教育会」は「大陸の花嫁」の養成に力を入れている。

信濃教育会」は、
「長野県桔梗ヶ原女子拓務訓練所」(ききょうがはら)を設置し、
「大陸の花嫁」の養成に力を入れる。

「長野県桔梗ヶ原女子拓務訓練所」とは、何だろう?
飯田市歴史研究所、現代史料出版の、
「満州移民 飯田下伊那からのメッセージ」に書いてあった。
長野県桔梗ヶ原女子拓務訓練所」。

建物は茨城県の「満蒙開拓青少年義勇軍」内原訓練所に、
設置されていた円形の日輪兵舎が2棟あった。
奥は鉢伏山。
全国各地から20歳前後の女性が長期1年、
短期間1か月共同生活をして訓練を受けた。

「長野県桔梗ヶ原女子拓務訓練所」へ行ってみたくなった。
松本市の南隣である塩尻市広丘野村へ行くと、
国道19号の東に農地が広がる。
レタスやアスパラガスの畑や、ブドウ園、桃園がある。

手前はレタス畑、左はブドウ園。鉢伏山は鉄塔の左奥。

長野県桔梗ヶ原女子拓務訓練所跡」。

訓練所の施設の面影はなかった。
礎石と看板があるだけ。
看板には、つぎのように書いてある。
長野県桔梗ヶ原女子拓務訓練所跡
戦時中、中国東北区(旧満州)への開拓移民の配偶者(花嫁)を養成する施設として、
長野県が全国にさきがけて昭和15年9月に開所した。
大陸への花嫁学校」として全国に紹介された。

つぎに、上 笙一郎著、中公新書発行の「満蒙開拓青少年義勇軍」には、
「桔梗ヶ原女子拓務訓練所」のことが、つぎのように書いてある。

昭和15年7月に長野県東筑摩郡広丘村に開かれた
桔梗ヶ原女子拓務訓練所がその嚆矢である。
同訓練所の開設趣旨に、
「満蒙開拓青少年義勇軍ならびに農業開拓団員の送出において、
全国に冠たる我が信州は、率先これら配偶者養成の急務を痛感し、
ここに本訓練所を開設するに至れり」と記されている。
いかにも、義勇隊送出数全国一の長野県らしい反応であるといえよう」

これにつづいて、昭和15年11月には農林省が全国35か所に、
翌昭和16年5月には拓務省が7か所に設置を決定した、
とある。

「大陸の花嫁」の養成の内容は、つぎである。
指導者と生徒が起居を共にする塾風訓練を基本にして、
「満州開拓民の伴侶として確固たる信念を有する女子の育成」をする。
訓練内容は学科と農業実習で、学科は調理、生け花、裁縫のほかに、
「皇国臣民道」という精神講座に特に力を入れた。

満州にも同様の訓練所が「開拓女塾」として、16か所に設けられた。
日本国内の「女子拓務訓練所」をやや小規模にしたもので、
訓練内容もほぼ似たようなものであった。

さらに、信濃毎日新聞は、戦争体験者に関する記事、
足元を見つめて」を連載した、その中で、
「桔梗ヶ原女子拓務訓練所」は5回掲載された。

地元の旧広丘村は、訓練所を誘致するために、
5千坪(約1万6千500平方メートル)の畑と山林を買い上げ寄付した。
県は旧満州の家屋を模した寮舎や炊事場、2階建ての講堂などを建設した。

設立の目的は、
その2年前から旧満州に送り出された満蒙開拓青少年義勇軍などの若者たちの、
「配偶者養成」だった。県内外から主に20歳前後の女性たちが入所。
対象者として「新時代建設の推進力たらんとする」。

訓練所で暮らした女性たちの記憶を載せている。
訓練所に行く動機について。
男子は義勇軍に-という時代。
女子であっても国のために役立ちたいという思いもあった」
入所を決めたのは、青年学校教員の突然の一言だった。
「花嫁訓練所に行くように」。
日ごろから、
「銃後を守る体と精神を鍛えなさい」と教えられていた2人は、
ほかに指名された3人とともに迷わず「はい」と答えた。

「ここは、原野が広がり冬は凍るほどの寒冷地だった。
満州で暮らすために訓練する場所としては、
ちょうどよかったんだろうか」

一期生は28人。訓練期間が1年の長期生と、1か月の短期生がいっしょだった。
「お国のために、この中から何人が花嫁になるか。満州に行かない手はない」
と、訓練所の先生に言われた。
この年の秋、一期生たちは奉仕隊として旧満州を訪問。
県内から渡った開拓団の生活を垣間見た。
家を建て自ら育てた作物を食べ、
手つむぎの太い毛糸で編んだ暖かい服を着る人たち。
満州へのあこがれを膨らませていった。

訓練所で「先生」と呼ばれた職員たちは、
小学校や農蚕学校などの元教員が目立った。

1年間暮す長期生は、堆肥作りや家畜の世話など、
本格的な訓練を受けた。
長期生たちは「集団見合い」をした。
相手は満州から一時帰省した開拓団員の若い男性たちだった。

そして、結婚して満州に渡った。
「大陸の花嫁」はどうなったか?
戦局が悪化した。
開拓民を守る「関東軍」は南方に渡って、いなかった。
それに、開拓民の男は、ねこそぎ動員で、非常召集された。
残された女、子どもに待っていたのは「地獄の逃避行」である。
この「地獄の逃避行」で、
多くの「大陸の花嫁」は子どもとともに、
死亡したり、残留婦人、残留孤児となった。

「大陸の花嫁」とは、話に聞くだけだったが、
こんなに近くに「大陸の花嫁」の養成所、
「女子拓務訓練所」があったとは、
思いもよらなかった!

そして、「満蒙開拓青少年義勇軍」や、
「大陸の花嫁」がより身近になった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

満蒙開拓青少年義勇軍のトップは長野県

2013-06-02 00:18:25 | Weblog
満蒙開拓青少年義勇軍」を送出したトップは、長野県である。
どうして長野県がトップなのだろうか?
これが、つぎの私の関心である。


「満蒙開拓青少年義勇軍」として満州に渡った人は10万人である。
出身都道府県別のトップは長野県で6千600人が渡っている。
全体の6.5%で、ダントツである。
2位広島県、3位山形県、4位新潟県、5位福島県が続く。

「長野県」が作成したポスターがある。
満蒙開拓青少年義勇軍募集」。

往け若人! 北満の沃野へ!!」、
「詳細は市町村役場へ」。

「満蒙開拓青少年義勇軍」とは、
15歳~19歳の青少年を募集し、
茨城県の内原訓練所で、3ヶ月訓練してから、
「北満」、つまり、ソ連国境の奥地へ送り込み、国境警備にあてた。

長野県が独自に製作したポスター、
「満蒙開拓青少年義勇軍募集」から、
長野県は「満蒙開拓青少年義勇軍」の募集に、
力を入れていたことがわかる。

しかし、どうして、
長野県がトップであるのか?
対象となる15歳~19歳の青少年は、
長野県だけではなく、日本全国どこの県にもいる。

国民精神総動員強調週間」。戦争ポスター。

特輯放送番組
「2月11日から2月17日まで」
「日本放送協会(NHK)」

「国民精神総動員」で、
戦争遂行の思想教育を徹底した。
戦争遂行に駆り立てた。

軍国主義教育を行い、
「天皇陛下のために命を捨てる」精神を叩き込み、
少年は、「少年航空兵になる」、
少女は、「お国のために尽くしたい」、
と、軍国少年、軍国少女を育てた。

この軍国主義教育も長野県だけの特徴ではない。
日本全国で行われてきた。しかし、
「満蒙開拓青少年義勇軍」のトップは、長野県である。
これには、「信濃教育会」が積極的に関わっていた。

満蒙開拓平和記念館」の、
「満蒙開拓青少年義勇軍」を説明するパネルには、
つぎが書いてある。


「満蒙開拓青少年義勇軍」に応募した動機は(1941年の調査)、
1番が教師の指導による、3,422人、54%、
2番が本人の意志による、2,469人、39%、
3番が父兄の奨めによる、429人、7%、
とある。

さらに、つぎも書いてある。
拓務省は文部省と提携して、
「お国のため」であるとして
少年に満洲を目指さしたこと、さらに、
県からの割当で、教師が半ば強引に進めたケースもあった、
と、説明がある。

「満蒙開拓青少年義勇軍」の募集は、
各県、村、学校ごとに割り当てられた。
候補とされた少年は、校長室に呼ばれて、
入隊を決意するまで3日、立たされたという。
半ば強制的な募集で、割り当てをこなす。

「信濃教育会」は、どうしてここまでして、
「満蒙開拓青少年義勇軍」を送り出したのか?
できれば、「満蒙開拓青少年義勇軍」の人に聞いてみたい。

その「満蒙開拓青少年義勇軍」の人だろう?
と、思う人が「満蒙開拓平和記念館」の中にいた。
「満蒙開拓青少年義勇軍」に関する展示を見ている。
展示の見方が私とはちがっていて、
「満蒙開拓青少年義勇軍」について、
どうであったのか? 初めて知るのではなく、
自分のことが、どのように展示されているのか?
を見ているのである。
それに、記者のインタビューに答えているから、
間違いなく「満蒙開拓青少年義勇軍」の人だ。

しかし、「満蒙開拓青少年義勇軍」は、
生き地獄」に遭い、
多くが死亡や行方不明という状況だから、
生き延びて日本に帰国できたその人とは、
話のきっかけがつかめない。

長野県における旧郡市別義勇軍送出数および犠牲者数マップ

「満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」、大月書店発行から。

「満蒙開拓青少年義勇軍」として長野県から、
6,939人が送出されて、1,360人が犠牲となった。
犠牲者は20%になる。
義勇隊員とは、「満蒙開拓青少年義勇軍」は、
満州に渡ると、訓練所に入って「満蒙開拓青少年義勇隊」と呼ばれた。

その「満蒙開拓青少年義勇軍」の人とは、
展示室で会った。そして、隣の資料室で本を見ていると、
そこでも会った。そして、話をすることができた。
85歳だというが、お元気そうだ。それに、
記憶力がしっかりしている。
きのうのことのように話をする。

「満蒙開拓青少年義勇軍」とは、話には聞いたことがある。
それが、目の前にして話をしてもらっている。
「こんな幸運があるだろうか!」
1時間半も話をしただろうか。

先生に説得されて「満蒙開拓青少年義勇軍」に入った。
満州に行けば、20町歩がもらえる、ということだった。
「満蒙開拓は国策で、君の幸せを約束するものだ」と言われた。
茨城の「満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所」へ行って、
3か月の軍事教練を受けた。
「お前たちは覚えが早い。成績優秀だ!」
と、ほめられて、満州に渡った。
その前に、松本にいったんもどった。
駅前から本町をパレードした。
鼓笛隊が入った華やかなものだった。
あれは、壮行会でもあり、「信濃教育会」が成果を示し、
さらに「満蒙開拓青少年義勇軍」を送り込む宣伝でもあった。

朝鮮(北)に渡るのに2週間かかった。
船酔いがひどかった。
ソ連の国境近くに配備された。
国境の警備だった。

「満蒙開拓青少年義勇軍」は、「関東軍」の組織の下にあった。
「関東軍」の命令通りに、匪賊から「満州開拓団」を守り、
「関東軍」の兵站部隊として輸送、弾薬、食料補給をした。

満州で義勇隊訓練所に入って3年間の訓練期間を終えると、
義勇隊開拓団」を作って、20町歩がもらえる、
やがて、「大陸の花嫁」をもらえる、というのは嘘だった。
満州で3年経っても「義勇隊開拓団」になることはなかった。

そして、戦局が悪化した。
「満州開拓団」を守る「関東軍」は南方に渡って、いなかった。
「満州開拓団」の男は、ねこそぎ動員で、非常召集された。
武器は手りゅう弾だった。それと、鍬の柄だった。
ソ連が襲撃してきた。ソ連は連発銃だった。
「満蒙開拓青少年義勇軍」の38銃では、勝ち目はなかった。
38銃とは、明治38年に製造されたことからきている。

ソ連の襲撃で仲間は銃弾に倒れた。生き延びた者は、
武装解除されて、捕虜となってシベリアの収容所へ入れられた。
3交代でレンガ作りをさせられた。

シベリアの収容所では「赤化教育」が行われた。
「天皇制の悲惨さを知らないのか?」
と、頭の良い人を選んで、赤化教育をする。
教育を受けた人は、収容所の日本人を、作業後に赤化教育をする。
捕虜がするレンガ作り、
木材の伐採などの強制労働をしなくてもいい。
普段は宣伝や壁紙などを作っている。

「関東軍」の上層部は、だれもソ連の捕虜にならなかった。
戦局の悪化を知って、いち早く日本に戻っていた。

加藤完治が「満蒙開拓青少年義勇軍」の責任者だった。
だが、戦犯にならなかった。
米軍の取調べで、
「大和魂とは?」
と、聞かれて、
「大和魂とは、人に親切にすること」
と答えた。

そして、「信濃教育会」の話をした。
「信濃教育会」で教員の、「赤化事件」がおきた、
と、すらすらと話す。
軍の意向に合わなかったら、「信濃教育会」が弾圧される。

「赤化事件」とは知らなかった。なんだろう?
満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」という本に書いてあった。大月書店。


「長野県教員赤化事件」とは、教員による、戦時体制に反対する左翼活動。
「教育勅語」に基づく忠君愛国の教育政策から、現在の言葉でいえば、
人権尊重、民主的人間形成、平和教育の実践に努めた。

特高警察は徹底的に弾圧した。
1933年2月4日に86名を検挙したことを手始めに、
7か月にわたって検挙取調べは600余名におよんだ。
一般教員137名のうち、起訴29名、懲戒免職6名、論旨退職27名・・・、
校長は56名のうち、論旨退職5名、既退職8名、鑓責8名・・・。
これで、長野県下の左翼活動は壊滅状態になった。

「信濃教育会」は、「赤化事件」を、
「我が信州教育における一大不祥事」
と、とらえて挽回をしようとした。
「満蒙開拓青少年義勇軍」の大量の送出に、
全力をあげていくことになった。
「信濃教育会」は長野県に割り当てられた、
「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出に力を注ぎ、
各村の学校長は割当をこなした。

31名を送り込んだ先生がいた。
「満蒙開拓青少年義勇軍」を送り出す「興亜教育」の見本とされた。
「信濃教育会」は、「興亜教育大会」を松本で2日間開催し、
3千人の教職員を動員して、「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出の実践を学んだ。

31名を送り込んだ先生は、すぐに出世した。
教頭を飛び越えて、校長に抜てきされた。

そして、長野県の郡市別の結果は
満蒙開拓青少年義勇軍・長野県郡市別送出番付表」に見ることができる。

「中国残留邦人」-置き去られた60余年。岩波新書、井出孫六 著。

勧進元は「信濃教育会」である。それに、「各郡市教育会」である。
郡市別に「満蒙開拓青少年義勇軍」送出の「番付表」を作成した。

東の横綱「下伊那郡」は、
「満蒙開拓平和記念館」の阿智村があるところ、
西の横綱「東筑摩郡」は松本周辺、
東の大関「諏訪郡」は富士見村があるところ、
西の大関「上水内郡」は長野周辺。

東の横綱「下伊那郡」にあたる飯田、下伊那の、
「満蒙開拓青少年義勇軍」の「応募の動機」がある。1941年。

「満州移民 飯田下伊那からのメッセージ」。
飯田市歴史研究所編、現代史料出版から。
応募の動機は、学校の先生の勧めが77%と断然多かった。

「信濃教育会」は「番付表」を作成して、
郡市の「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出を競っている。
これらで、長野県の「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出が、
ダントツだったわけがわかった。

軍国主義の圧力のもとで、
「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出に、
大きく関係した「信濃教育会」は、
「満蒙開拓平和記念館」の設立にあたって、
積極的に協力している。
「平和の尊さを次世代に語り継ぐ」という、
「満蒙開拓平和記念館」の趣旨に賛同して、
「信濃教育会」は、200万円を寄付している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする