季節の変化

活動の状況

チェコ・シリーズ1

2013-04-28 00:03:58 | Weblog
「ミュシャ展」を六本木の「森アーツセンターギャラリー」で観た。
それで、「ミュシャがプラハから東京へ」を記載した。
チェコについては、これまでにも書いてきていた。
それで、「チェコ」シリーズとしてとりあげてみる。

チェコのことがよくわかる。
それに、共産政権が滅びたことも書いてある。
西側とドンパチの戦争で、東側が負けたのではない。
経済戦争に負けた。計画経済が市場経済に負けたのである。

チェコに関するブログはつぎになる。
1)「チェコもヨーロッパへの回帰」、2008年6月13日、
2)「チェコの二つのプラハの春」、2008年6月17日、
3)「プラハの春の音楽祭」、2008年6月21日、
4)「チェコの世界遺産」、2008年6月26日、
5)「トラバントは生産中止に、シュコダはフォルクスワーゲンの子会社に」、
2009年4月5日、
6)「 西ドイツのBMWと東ドイツのトラバント」、2008年8月16日、
7)「経済戦争で、計画経済が市場経済に負けた」、2009年4月8日、
8)「プラハの春のおもかげは、「共産主義の犠牲者たちを記念して」」、
2009年4月12日、
9)「プラハの春からビロード革命まで、21年の悲惨」、2009年4月15日、
10)「三十年戦争のはじまりとなったプラハ城の窓」、2009年4月25日、
11)「チェコの通知表」、2009年5月3日、
12)「世界の通知表をみる」、2009年11月29日、
13)「プラハの景観」、2010年12月1日、
14)「プラハのランドマークはプラハ城」、2010年12月5日、
15)「世界で一番悲惨な言葉」、20120年7月8日、そして、
16)「ミュシャがプラハから東京へ」、2013年4月21日。
合計16になる。
どのくらい興味を持たれたのだろうか?
「チェコ」シリーズを3回に分けて、振り返ってみる。

第1回は、つぎの1)~5)。
1)「チェコもヨーロッパへの回帰」、2008年6月13日、
2)「チェコの二つのプラハの春」、2008年6月17日、
3)「プラハの春の音楽祭」、2008年6月21日、
4)「チェコの世界遺産」、2008年6月26日、
5)「トラバントは生産中止に、シュコダはフォルクスワーゲンの子会社に」、
2009年4月5日、

「チェコ」シリーズの閲覧状況はつぎです。


1)「チェコもヨーロッパへの回帰」、2008年6月13日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/7331297ad5e2ad05171944b59b71e0b1
「世界のだれも、助けてくれなかった!」
「どうしようもない、つらい時期だった」
と、チェコ人のロマーンは、外国人である私に言う。
現地人から、こんな悲惨な言葉を聞いたことがない。

それは、チェコに民主化運動「プラハの春」がおきると、
ソ連は戦車でプラハの繁華街ヴァーツラフ広場に侵攻して、
そのまま占拠した。そして、民主化運動を、もとに戻させた。
チェコ事件」1968年である。

これに抗議して、
二人の学生がヴァーツラフ広場で焼身自殺をしたが、
その「慰霊碑」が、「ヴァーツラフ広場」にある。

手前の花壇の中に「慰霊碑」があって、
2人の女性がのぞきこんでいる。
うしろは、ヴァーツラフ像、そして、国立博物館。

民主化運動とは、言論を自由にし、出版物の検閲を廃止し、
国外旅行の規制を緩和して、市場経済の導入を進めよう、
というものだった。

アメリカは、ソ連のチェコ侵攻は国連憲章に反する内政干渉で、
即時撤退をすべきだ、としたが、ソ連は国際連合安全保障理事会で、
拒否権を行使して、葬(ほうむ)り去った。

そのとき、アメリカはヴェトナム戦争が泥沼状態だったから、
共産主義陣営の内輪もめには、これ以上、手出しができなかった。
身内の共産主義陣営からも、民主主義陣営からも、
チェコには、援助の手は差し伸べられなかった。

世界から見捨てられたと感じた。
世界のだれも、助けてくれなかった!
と、ロマーンの悲痛になったのである。

「つらい時期」は、1989年に無血革命(ビロード革命)で、
共産党政権を倒すまで、21年間も続いた。
そして、1991年にソ連が崩壊すると、
チェコは、「ヨーロッパへの回帰」を目指して、
2004年にEUに加盟した。
そして、今までの東欧から、これからは中欧と呼ばれ、
ヨーロッパの中心にあるという立地を生かして、国の再興をしていく。


2)「チェコの二つのプラハの春」、2008年6月17日、
 http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/6d334ca4f44161d434c06296e57d20ab
チェコには、二つの「プラハの春」がある。
一つは、民主化運動の「プラハの春」。
もう一つは、「春の音楽祭」である。

二つの「プラハの春」を写真で見る。
一つ目の「プラハの春」は、チェコ事件(1968年)。
ソ連の戦車によって、ヴァーツラフ広場は占拠され、
民主化運動は、元にもどされた。これに抗議して、
二人の学生がヴァーツラフ広場で焼身自殺をした。
円形の花壇の中にある「慰霊碑」。ヴァーツラフ広場。

ぴかぴかの石には、ヤン・パラフとヤン・ザイクの顔が映り、
1969年1月19日、1969年2月25日と彫ってあって、
20歳と18歳の人生であった。

手前の石にはつぎのように刻まれている。
IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM
共産主義の犠牲者たちを記念して

二つ目の「プラハの春」は「春の音楽祭」。
毎年、春になると、チェコ・フィルハーモニーほかが、
プラハのいくつかの会場で演奏する。会場は、
「市民会館」と「ルドルフィヌム」、「国立歌劇場」である。

市民会館」。スメタナ・ホールで演奏された。

青いバナーは音楽祭、「プラハの春」が開催中であることを示す。2006年。

「プラハの春」といえば、今では春の音楽祭の方が有名で、
1968年の民主化運動は、なじみが薄れてきている。


3)「プラハの春の音楽祭」、2008年6月21日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/e02ef2f323748aa88a7f8bd038f25f1f
プラハの春の音楽祭は、
「市民会館」のスメタナ・ホールのほかに、
ルドルフィヌム」で開催される。

「ルドルフィヌム」はチェコ・フィルハーモニーの本拠地。
音楽祭が開催中であることを示す青いバナーが見える。


4)「チェコの世界遺産」、2008年6月26日、
 http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/5ec3a4f8ee846816d460e8c0b7c309d9
チェコの世界遺産は12ある。
4か所を訪れたが、いずれも中世や近代の街並み、城、教会であった。
共産政権のときのものではない。
みんな、共産政権になる前のものである。
これは、東欧、中国でも同じで、共産政権のときのものはない。

チェスキー・クルムロフ」の街。

左は13世紀から建設が始まった「チェスキー・クルムロフ城」。
共産政権下では、荒れ放題となった。

東欧で、共産政権の遺産を見ると、
「ベルリンの壁」、
ルーマニアの「国民の館」、
ポーランドの「文化科学宮殿」がある。
しかし、どれも世界遺産にはならなかった。
いまわしい建造物として遺っているか、取り壊された。

ベルリンの壁」。1989年3月。

仮設スタンドの階段を上がり、
台上からベルリンの壁越しに東ベルリンを見て、
無言で階段を降りる。

国民の館」。ルーマニア。

故チャウシェスク大統領が建てた3千室の宮殿。

文化科学宮殿」。ポーランド。

高さ237メートル。「墓石」と呼ばれるスターリンの贈り物。

国民の館も文化科学宮殿も、
贅(ぜい)をつくした威圧的な巨大建築だが、世界遺産ではない。
共産政権下では、人類の創造的な傑作を遺せなかったことになる。


5)「トラバントは生産中止に、シュコダはフォルクスワーゲンの子会社に」、
2009年4月5日、
 http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/ed4d93f929980fc452e0b35276d73777
東ドイツの国民車「トラバント」は、生産中止になった。

トラバント」が駐車している。東ドイツのハレ。

ベルリンの壁が崩壊する8か月前の1989年3月。
廃車置場ではない。等間隔にならんでいるし、
ちゃんと、ナンバー・プレートがついている。

右はアパートメントがある居住区。
乳母車の母子が見える。

チェコの国民車「シュコダ」。

「よく走るもんだ!」
サビサビ、ボコボコ。それに、もとはなに色?
左の乳母車のほうが、ちゃんと部品はある。2006年。

チェコは、1989年の「無血革命(ビロード革命)」で、
共産政権が崩壊した。そして、民主主義陣営に入って、
計画経済」から「市場経済」に移行した。
1989年は、歴史の劇的な変化が起きた年だ。

チェコのシュコダは、
東ドイツのトラバントと同じ運命だった。売れないのである。
シュコダは1990年に、ドイツのフォルクスワーゲンの子会社になった。
そして、新しい技術を導入した新型のシュコダを、街で多く見かけた。2006年。

後方の赤い車はソ連の「ラーダ」。

歴史の劇的な変化「パラダイム・シフト」を写真で表現すると、
「東西ドイツの統一」としては、ベルリンの壁の崩壊になる。

「地球規模での先端技術の競争」としては、
東ドイツの国民車「トラバント」の生産中止と、
チェコの国民車「シュコダ」が、ドイツの「フォルクスワーゲン」の、
子会社となって、新しい技術を導入した新製品を見た。

東ドイツの国民車「トラバント」の生産中止と、
チェコの国民車「シュコダ」のフォルクワーゲンの子会社化は、
計画経済の終焉(しゅうえん)である。共産政権は半世紀で終わった。

西側とドンパチの戦争で、チェコが負けたのではない。
経済戦争に負けたのである。そして、チェコは、
市場経済で、国を再興していく。
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ミュシャがプラハから東京へ

2013-04-21 00:04:21 | Weblog
ミュシャプラハから東京へ来た。
プラハでは、「ミュシャ美術館」と、
プラハ城の「聖ヴィート大聖堂」、それに、
プラハの「市民会館」へ行けば、ミュシャに会える。
東京では、「森アーツセンターギャラリー」の「ミュシャ展」。

プラハの「ミュシャ美術館」は小さかった。
黄道十二宮」。絵はがきから。


2番目の「プラハ城」は、プラハのランドマーク

プラハ城は高台にあるから、モルダウ川のカレル橋から望むことができる。
手前は演奏する芸人。

「プラハ城」の中央に見える尖塔が「聖ヴィート大聖堂」。
聖ヴィート大聖堂」では、

入場料とは別料金を払うと、中の撮影ができた。

ミュシャによるステンドグラス。「聖ヴィート大聖堂」。

息子のイジーが聖ヴァツラフとして描かれている。

3番目は、プラハの「市民会館」。

左右のバナーは、左はチェコの国旗。右の青いバナーは、
音楽祭「プラハの春」が開催中であることを示している。

「市民会館」は、音楽祭「プラハの春」の主会場で、
夕方、ネクタイを締めて正装で出かけた。
正面ドームにはモザイクがあり、
正面入り口には、ステンドグラスがある。

「市民会館」の「市長の間」の天井画はミュシャの作品だが、
音楽祭「プラハの春」のために、「スメタナホール」へ直行した。

音楽祭「プラハの春」は、市民会館の「スメタナホール」で、
チェコ・フィルハーモニーの演奏による「ジュピター」。
「スメタナホール」の天井。

ステンドグラスがあり、周囲には絵があった。

このように、プラハでミュシャに会うには、
「ミュシャ美術館」、「聖ヴィート大聖堂」、
「市民会館」と、3か所を歩き回る。

六本木の「森アーツセンターギャラリー」の「ミュシャ展」では、
240点が一堂に集められている。というから、観に行こう
朝の10時前に入った。まだお客さんはマバラ。

美術館では、すぐにすることがある。
それは、音声ガイドを買って、流しながら、
美術館全体をすぐに回って、ザーッと眺める。そして、
概要をつかんでから、メインの作品や、お目当てを先に観る。
それから、入り口にもどって、ほかの目玉商品をたどりながら観直す。
したがって、入り口から出口まで、人の列のあとについて、
作品を順繰りに観ていくことはしない。

好きな絵は「夢想」。

絵はがきから。

「スラヴ叙事詩」の習作があった。
が、ミュシャではないような作品だった。
「スタイルを変えろ!」
作家は、挑戦しなければならないが、
娘を描いた「ヤロスラヴァの肖像」までが、
アルフォンス・ミュシャの作品、と思った。
大作「スラヴ叙事詩」の本物20点を観たい。

入り口近くにもどって、再び「ジスモンダ」。

絵はがきから。

女優サラ・ベルナールからの依頼を受けて制作したポスター。
上から、演目の「ジスモンダ」、
主演の「サラ・ベルナール」の文字と、
なつめやしを持つサラ・ベルナール、
そして、上演される「ルネサンス劇場」。

このポスターは、サラ・ベルナールのお気に入りになり、
以後6年、専属契約でポスターを手がけるとともに、
ミュシャの名声が確立した作品である。

入り口に近い「ジスモンダ」には列ができていた。
すいているときに、じっくり観ておいたから、
列の後方から、全体を観ることができた。

チェコスロバキアはオーストリアから独立するが、
「市民会館」の「市長の間」で独立宣言をした。
市長の間の天井画はミュシャの作品で、
「チェコ展」では、習作があった。

プラハの「市民会館」では、「スメタナホール」で、
チェコ・フィルハーモニーの演奏は聴くことができたが、
「市長の間」へは入っていないから、
「ミュシャ展」はいい機会であった。

「ミュシャ」展は、ザーッと眺めて概要をつかみ、
好きな絵を観てから、入り口にもどり、それから、
「椿姫」、「演劇芸術のアレゴリー」、「四季」、
娘の「ヤロスラヴァの肖像」と、興味を追いながら、また観る。
240点は、目玉が多く見ごたえがあった。
そして、ミュシャを堪能することができた。
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桜に雪

2013-04-14 00:04:14 | Weblog
桜が満開というのに、このところ冷える。
朝、起きてみたら、屋根に雪が積もっていた。
ビックリしたね! この時期、まさかと思った。
なのにだ!

そして、満開の桜に雪が積もっていた。かわいそう!
桜は「重い」と言っている。それに、
「もう、散ろう!」と、ふるえている。
芳川公園、松本市。2013年4月11日。

これから、南にある山梨県の笛吹市に出かける。
長野県を過ぎて、山梨県に入ると景色がちがう。
雪はなく、暖かいのである。とっくに、春だ。
もう桜は終わっている。雪が積もることもない。

ねらいの笛吹市のももの花は、盛りを過ぎて赤くなっている。2013年4月11日。


しかし、ハナモモは満開だった。

村松農園、笛吹市。

赤いハナモモとももの花。


菜の花とモモの花。


ヤシャゼンマイ。蜂城(はちじょう)山、笛吹市。

山梨県の山ではもう、ぜんまい、わらびが顔を出すんだ。

松本市は雪が降り、底冷えの春、笛吹市は暖かい春。
南北に隣り合う県だが、大きなちがいだ。

それに、標高がちがう。
芳川公園の標高は632メートル。

「Wristables GPS」EPSONで測定した。
笛吹市の標高は200~400メートル。

一足早くハナモモを見るならば、南で標高が低い山梨県へ。

白いハナモモ。「春の陽が、いっぱいだ!」と言っている。
季節の変化が3週間早い。
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高校野球は監督を見ろ

2013-04-07 00:04:07 | Weblog
高校野球は監督を見ろ!

高校野球が好きで、バックネット裏から、
監督になった気分で采配している。
次の一球は外角? 点差からヒット・エンド・ラン?
いや、1塁への牽制球がベストだと、あれこれ予想して。
そして、当たるとうれしくなる。
当たらないと、そういう戦術もあるんだ。

写真は、2011年10月、松本市野球場。
背中は、「年中夢
「一年中休むことなく 野球に夢中になれる しあわせ」

高校球児を甲子園に連れ行くにはどうしたらいいか?
まず球児の「身体」をつくる、
つぎにバッティングと守備の「技術」を体得させる。
ここまで1年半。そして、つぎに「戦術」を教え込む。
毎週、練習試合をして、実践でとっさの判断力や、
強い精神力、それに戦術を身につけさせる。

そして、これを指揮する監督は、
兄貴のように慕われる監督がいいのか?
それとも、のように怖い監督がいいのか?

名監督といわれる人に聞く機会があった。
「監督として一番重要なことはなんですか?」
すると、名監督はすぐに言われた、
「監督として一番重要なことは、
選手との『信頼関係』を築くことです」

これを聞いてから、高校野球を見る目が変わった。
「監督と選手の『信頼関係』を築いたチーム」は、
「この監督と、甲子園に行きたい」
「この監督を、甲子園に行かせたい」
「この監督が言うようにやれば、勝てる」
という空気が、監督を囲む円陣からヒシヒシと伝わってくる。
円陣が小さく、監督と選手の距離が近い。目と目が合っている。

2011年5月、諏訪湖スタジアム。

それに、名監督はつけ加えた。
「プロ野球の選手を育てているわけではない。
野球も人なり。野球を通しての人間教育である。
野球人である前に人間たれ、を信念にしている。
下手でも、練習に出てくる選手はバントをさせても使う」
選手はうれしくなるじゃないか。
監督に信頼された選手、愛情をかけられた選手は、
期待に応えようと、「」に燃え、
持っている以上の能力を発揮する。

「監督は選手との『信頼関係』を築くこと」
この話を、大手会社の新製品開発のリーダーに話した。
すると、
「それは、仕事にも言える」と、すぐに応えた。
「リーダーは部下との『信頼関係』を築くこと」
「上下関係の厳しさだけでは、いい結果はでない。愛情がなければ」
意欲集団をつくるリーダーの人間像にも当てはまる。

高校球児は、監督からチームの掌握、采配を学んでいる。
仲間には、優秀な選手もいれば、補欠、玉拾いもいる。
みんなを束ねられたチームが、力を発揮する。
これは、社会生活に役立つ。
社会で学ぶことを、高校で学んでいる。
高校球児よ、監督からチームの統率の仕方を学べ! 盗め!

春の選抜高校野球では、愛媛の斉美(さいび)高校が、
同じ四国の高知高校と準決勝で対決した。
斉美高校の安樂投手が最高速151km/hで、
高知高校を破って、決勝に進出した。
結果、斉美高校は準優勝だった。
浦和学院が初優勝した。

どうして、四国勢が強いのだろう?
四国や斉美高校について、
愛媛の友人に聞いてみた。

すると、つぎのようだった。
斉美高校は、元は女子高で、10年ほど前に共学になった(2002年)。
上甲(じょうこう)監督は、宇和島東高校を選抜で優勝させた(1988年)。
その後、斉美高校の監督になり、選抜初出場、初優勝させた(2004年)。

野球をやっていた小6の息子の試合を見に、宇和島へ行った。
球場は宇和島東高校の近くで、子どもたちは、たまたま、
上甲正典監督と会うことができて、大喜びだった。

四国では、どんな学校でも正月もなく、1年中練習している。
夜間照明は、どの高校にもある。息子は野球部に入って、
家に帰ってくるのは、毎日、夜の9時過ぎだった。

驚いたね!
四国では、「年中無」だ。
信州では、「年中夢」だが。
信州では、福寿草色に輝くまで、である。

2013年3月22日、松本市四賀。

寒い冬は、ボールをにぎることができない。肩を壊す。
春になって、アイスホッケーの選手を入れて、
メンバーをそろえる高校もある。

高校野球は監督を見ろ!
選手は、監督を慕って入部する。
「あの監督のもとで、野球をやりたい」
監督は選手との信頼関係を築いている。
「暴力」、「いじめ」とは無縁で、愛情で選手を育てる。
チームの力は、監督によって決まる。監督以上には伸びない。

わが母校を見る。「信頼関係」が築かれているか?
みなさんのチームはどうですか?
職場はどうですか?
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