“世界の表彰・評価”から、“指標”を定めて、“数値”で、
“日本の通知表”をみたが、同じ指標で、
“トルコの通知表”は、どうなるだろうか?
トルコは大の親日国である。
日本とトルコの友好のきっかけは、100年前にある。
「1990年の日本とトルコの修好100周年を祝う会場の港には、
フラスコに入った“和歌山の水と土”が置かれました」
と、トルコ人から言われた。
“和歌山の水と土”とは、つぎからきている。
日本を親善訪問したオスマン・トルコのオスマン・パシャ提督が、
明治天皇を表敬訪問して、軍艦“エルトゥールル号”で帰る途中、
和歌山県の串本で台風にあって座礁し、爆発、炎上した(1890年)。
エルトゥールル号の遭難現場は、岬の先の右端の小岩。串本。
乗組員600人のうち、69人は串本の村人の献身的な救助で助かった。
生存者を崖の上にかつぎ上げ、食糧を持ち寄って介護した。
犠牲者は村人によって捜索され、手厚く埋葬された。
生存者は、明治政府による医師の看護を受けた。そして、
軍艦2隻でトルコに、送り届けられた。
日本中から集まった義援金も、届けられている。
この美談が、トルコと日本の友好関係のはじまりである。
エルトゥールル号の遭難慰霊碑、串本。
同じ慰霊碑が、串本の姉妹都市、トルコ(メルシン)にもある。
トルコからの留学生は、日本滞在中に、この慰霊碑を訪れるという。
2008年6月には、日本を訪問されたアブドゥッラー・ギュル大統領は、
忙しい公務の中、東京から串本に赴いて慰霊碑で慰霊されている。
出迎えた串本の小中学生が、「エルトゥールル号追悼歌」を歌うと、
胸を詰まらせているアブドゥッラー・ギュル大統領がテレビで映された。
エルトゥールル号。
中近東文化センター(東京都、三鷹市)で開催された、
「エルトゥールル号回顧展」で買った絵はがきから。
「1990年の日本とトルコの修好100周年を祝う会場の港には、
フラスコに入った“和歌山の水と土”が置かれました」
と、トルコ人が言うのは、エルトゥールル号の遭難で、
海と土に還ったトルコ人の御魂(みたま)を、
和歌山の水と土が鎮(しず)めている。
アヤソフィア、世界遺産。イスタンブル。
モスクの尖塔は、当時、一番高い建築物だった。
日本とトルコ修好100周年の1990年。
そのオスマン・トルコはロシアと紛糾していた。
ロシアは冬でも凍らない港を求めて、黒海からボスポラス海峡を通って、
地中海に出る“南下政策”をとった。
これは、オスマン・トルコの領域を通るから、衝突し、
戦争になり、トルコ艦隊はロシア艦隊によって全滅させられた(1854年)。
「そのロシアと日本は戦争をした。
ロシアが日本をせん滅しようと、バルチック艦隊を送りこんだときには、
日本は負けて、ロシアの“植民地”になるものと思っていた」
と、トルコ人は言う。
およそ100年前の日露戦争である(1904年~1905年)。
「それが、日本はバルチック艦隊を破って、ロシアに勝ったから、
“大国ロシアに日本が勝った!”と、トルコ人は拍手喝采をし、
大いに勇気づけられたのです」
と、トルコ人は言う。
「アドミラル・トーゴーが有名になって、多くの子どもがトーゴーと名づけられた」
そして、親日的なトルコから“100年後の恩返し”があった。
それは、イラン・イラク戦争が勃発して(1985年)、イランの企業に働く日本人と、
その家族、200人以上が出国できずに、閉じ込められた。
そのときに、トルコ航空機の“助け船”によって、日本人は命からがら、
テヘランからイスタンブルへ、そして、成田へと脱出できたのである。
イラン・イラク戦争は、時のイラク大統領サダム・フセインが、
イランの首都テヘランを空爆したことに始まり、
「48時間後には、イラン領空を飛ぶ民間機も撃墜対象とする」
と、宣言した。
戦争状態のイランから脱出するために、テヘラン空港に集まった日本人は、
救援機を待ったが、日本航空はイランに救援に行けなかった。
日航機が攻撃された場合に、日本政府から安全を保証してもらえない限り、
乗客や乗務員の命の保証ができなかったからである。
ほかの国の航空会社は、自国民の救出を優先させるから、
日本人には席はなく、テヘラン空港で閉じこめられたたまま、
身動きができなかった。
この絶体絶命のときに、救援に向かったのが、トルコ航空機である。
危険をかえりみず、テヘラン空港に到着し、日本人全員を乗せて、
イスタンブルに送り届けたのである。そして成田に帰ることができた。
トルコ航空機(100年後の恩返しとは関係がない)。アンカラ空港。
イランには、多くのトルコ人が残留していたが、
日本人を優先したことに、トルコ国内から批判はなかった。
トルコ人が一番好きな国、それは日本である。断然一位で。
トルコ人とのあいさつは、抱き合ってほほを寄せ合う。
ほかの国の人とは、握手だけだが。
オスマン・トルコは、東ローマ帝国を滅ぼして、それまでの都、
コンスタンチノープルをイスタンブルと改名して首都にした(1453年)。
キリスト教会はイスラム教のモスクに改修して、イスラム化した。
キリストのモザイク画。アヤソフィア。
20世紀の調査で、塗り固められた漆喰の下から現れた。
トルコは勇敢な騎馬民族の戦士で、単なる侵略者ではなく、
イスラム教を広める信者だった。そして、
人を住まわせ、宗教を広げ、生活や文化をトルコ風にして、領土を拡大した。
最盛期には、西はオーストリアの前まで、地中海沿岸の北アフリカ、
東は中東までを支配して、こんにちのイスラム圏を樹立した。
トルコは世界の政治、経済、軍事、それに文化の中心だった。
トルコ人には、600年の栄華を極めた誇りがある。
イギリスもフランスも、まだ歴史の表舞台に現われる前である。
トプカピ宮殿、イスタンブル。
ハレム内、スルタンの間の玉座。
「ポルトガルもスペインも、植民地支配で潤った時代は短かった」
「太陽王、ルイ王朝のフランスも、産業革命のイギリスも、陽が沈みかけている」
「アメリカの繁栄は、第2次世界大戦後から2001年の同時多発テロまでかな?」
「日本の奇跡的な経済復興と繁栄はすばらしい。
バブルがはじけて、経済が破綻したのに、回復している。
経済大国が、あと何年続くのだろう?」
「2000年代の100年は、中国の時代かな?」
と、トルコ人は言う。
トルコ人が一番好きな国、日本。
“和歌山の水と土”で、海と土に還ったトルコ人の御魂を鎮めている、
“トルコの通知表”をみたい。
ランク…AA=3位以内 A=10位以内 B=20位以内 C=30位以内 D=40位以内。
1)創造力: ノーベル賞の受賞者はいない→ランクF。
2)芸術力: カンヌ映画祭でパルム・ドール受賞作品はない→ランクF。
3)学力: PISA2006の15歳の知識と技能は39位→ランクD。
4)文化力: 文化遺産は9で17位→ランクB。
5)運動力: サッカーのランキングは28位→ランクC。
陸上競技世界記録はない→ランクF。
6)経済力: 国民総生産は17位→ランクB。
7)援助力: 政府開発援助はない→ランクF。
8)総合力: ランクC。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/fc/f4e0d35ccb4680406e65aabedbc439ee.jpg)
トルコのレーダーチャート(2009年8月)。
[総合評価]
“創造力”のノーベル賞で、受賞者がいないこと、
“芸術力”のカンヌ映画祭で、パルム・ドール受賞作品がないこと、
“援助力”の政府開発援助ODAは、援助を受ける国であることから、
いびつなレーダーチャートになっている。
しかし、“文化力”の文化遺産は9で17位と高く、
“経済力”の国民総生産GDPも17位と高い。
トルコには多くの世界遺産がある。そして、ハレムを見たい、
ヨーロッパとアジアを分離するボスポラス海峡を見たい、
トルコ料理を味わいたい、と世界から観光客が押し寄せる。
ブルーモスク。世界遺産。イスタンブル。
世界観光機関UNWTO(United Nations World Tourism Organization)が、
旅行者が訪れる国のデータをオープンしている(2007年)。
その世界観光機関UNWTOから、ランキングを作成した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/88/535cc528cae305de1c3b7517a28dee7c.jpg)
フランスを訪れる旅行者が、世界一で7,890万人である。
トルコは8位で、2,225万人が訪れている。
日本は27位、835万人である。
トルコには、日本の2.7倍のお客さんが訪れている。
旅行者の行き先ランキング(2007年)と世界遺産の数とランキングを比べてみた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/6e/61bdc4fd08849f4dbc88c44e8de15e8b.jpg)
世界遺産は、文化遺産、複合遺産、自然遺産の合計とした。
トルコの世界遺産は9位、21である。旅行者の行き先ランキングは8位。
日本の世界遺産は15位、14である。旅行者の行き先ランキングは27位。
旅行者の行き先ランキングが上位の国は、世界遺産が多い。それに、
「世界の三大料理は、フランス料理、つぎにトルコ料理、そして中華料理です」
と、トルコ人が自慢するトルコ料理がある。
トプカピ宮殿。世界遺産。イスタンブル。
表敬の門。中にハレムがある。
旅行者の行き先ランキング(2007年)と旅行収支を調べてみた。
トルコは、観光黒字国である。
日本は、観光赤字国である。これは、日本に来る旅行者835万人よりも、
海外に出かける旅行者1,730万人が、多い(2倍以上)からである。
トルコはEUへの加盟を申請している。
EUの加盟には、あらかじめNATO北大西洋条約機構に加盟する。
チェコもポーランドもNATOに加盟してから(1999年)、
EUに加盟できた(2004年)。
NATOに加盟することは、西への忠誠心を誓う“踏み絵”である。
ブルガリアもルーマニアもNATOに加盟してから(2004年)、
EUに加盟できた(2007年)。
例外はフィンランドで、NATOに加盟せずに、EUに加盟できている。
EUの発足は1993年で、フィンランドの加盟は1995年だから、早い。
フィンランドは、第2次世界大戦後に、ロシアと不可侵条約を結んでいる。
陸続きで、歴史的にも関わりのあるロシアとの姿勢である。
トルコのNATO加盟は早かった(1952年)。NATOの発足は1949年。
早めのNATO加盟には、ロシアとは仇敵であったいきさつがある。
トルコはNATOに加盟したから、西への忠誠心を誓う“踏み絵”はパスした。
それに、NATOには協力してきている。
「イラク戦争では、トルコ領土内の空港をアメリカに提供した。
それで、アメリカ軍は、トルコ領からイラクを攻撃した」
と、トルコ人は西への貢献を言う。
トルコと同じイスラム国家、イラクの攻撃のために、犠牲を払ったのだから、
西への大きな貸しである。
トルコのEU加盟に、不利な項目を挙げるEUの国もある。
地理的にヨーロッパ部分は5%で、95%はアジアであること、
イスラム国家であること、などは小さいこととしても、
小数民族クルド人の人権を多く認めること、
キプロス共和国(ギリシャ系の南キプロス)が、
トルコのEU加盟に反対していることである。
トルコの南70キロメートルの地中海にあるキプロス島は、
ギリシャ系の南キプロスとトルコ系の北キプロス、
の南北に分離し、対立している。
ギリシャ系の南キプロス(キプロス共和国)は、EUに加盟している(2004年)。
しかし、南北キプロスの統一が進められているから、EU加盟は近づく。
日本とトルコの友好の証は、エルトゥールル号の遭難から100年後の、
こんにちにもみることができる。
トルコの遺跡(カマン・カレホユック)の発掘では、日本の調査隊が担当して、
学術調査を進めている。
ボスポラス海峡にかかる第2ボスポラス大橋は、日本の政府開発援助ODAで、
竣工し、アジアとヨーロッパを結ぶ動脈になっている(1988年)。
ボスポラス海峡。トプカピ宮殿から。
奥に見えるのは第1ボスポラス大橋。左はヨーロッパ、右はアジア。
第2ボスポラス大橋は、この第1ボスポラス大橋から5キロメートル先にある。
第2ボスポラス大橋のほかに、アジアとヨーロッパを結ぶ地下鉄を、
日本の政府開発援助ODAで進めている。
大林組と熊谷組の技術で、ボスポラス海峡に海底トンネルを敷設し、
地下鉄を走らせる工事は、2010年の開通を目指している。
トルコの急成長を示すオフィス・ビルディング。イスタンブル。2003年。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/09/f96f968644b38ceea1f86b62d4b81971.jpg)
モスクの尖塔を抜いて、トルコで一番高い建築物になっている。
エルトゥールル号ほかについては、トルコ記念館に資料がある。串本。
屋上から、エルトゥールル号の遭難現場を見ることができる。
中近東文化センターでは、トルコの企画展が開催された。東京都、三鷹市。
「エルトゥールル号回顧展」。2007年。
“日本の通知表”をみたが、同じ指標で、
“トルコの通知表”は、どうなるだろうか?
トルコは大の親日国である。
日本とトルコの友好のきっかけは、100年前にある。
「1990年の日本とトルコの修好100周年を祝う会場の港には、
フラスコに入った“和歌山の水と土”が置かれました」
と、トルコ人から言われた。
“和歌山の水と土”とは、つぎからきている。
日本を親善訪問したオスマン・トルコのオスマン・パシャ提督が、
明治天皇を表敬訪問して、軍艦“エルトゥールル号”で帰る途中、
和歌山県の串本で台風にあって座礁し、爆発、炎上した(1890年)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/d5/5f6f5801f3e27790876d0d5a6027f7d7.jpg)
エルトゥールル号の遭難現場は、岬の先の右端の小岩。串本。
乗組員600人のうち、69人は串本の村人の献身的な救助で助かった。
生存者を崖の上にかつぎ上げ、食糧を持ち寄って介護した。
犠牲者は村人によって捜索され、手厚く埋葬された。
生存者は、明治政府による医師の看護を受けた。そして、
軍艦2隻でトルコに、送り届けられた。
日本中から集まった義援金も、届けられている。
この美談が、トルコと日本の友好関係のはじまりである。
エルトゥールル号の遭難慰霊碑、串本。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/d8/38236f45a62ef0404b12d65da8bf115b.jpg)
同じ慰霊碑が、串本の姉妹都市、トルコ(メルシン)にもある。
トルコからの留学生は、日本滞在中に、この慰霊碑を訪れるという。
2008年6月には、日本を訪問されたアブドゥッラー・ギュル大統領は、
忙しい公務の中、東京から串本に赴いて慰霊碑で慰霊されている。
出迎えた串本の小中学生が、「エルトゥールル号追悼歌」を歌うと、
胸を詰まらせているアブドゥッラー・ギュル大統領がテレビで映された。
エルトゥールル号。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/1f/140bb515ce131850d7a310f0f4bab803.jpg)
中近東文化センター(東京都、三鷹市)で開催された、
「エルトゥールル号回顧展」で買った絵はがきから。
「1990年の日本とトルコの修好100周年を祝う会場の港には、
フラスコに入った“和歌山の水と土”が置かれました」
と、トルコ人が言うのは、エルトゥールル号の遭難で、
海と土に還ったトルコ人の御魂(みたま)を、
和歌山の水と土が鎮(しず)めている。
アヤソフィア、世界遺産。イスタンブル。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/df/78d1922e29a920495c7408119f49c904.jpg)
モスクの尖塔は、当時、一番高い建築物だった。
日本とトルコ修好100周年の1990年。
そのオスマン・トルコはロシアと紛糾していた。
ロシアは冬でも凍らない港を求めて、黒海からボスポラス海峡を通って、
地中海に出る“南下政策”をとった。
これは、オスマン・トルコの領域を通るから、衝突し、
戦争になり、トルコ艦隊はロシア艦隊によって全滅させられた(1854年)。
「そのロシアと日本は戦争をした。
ロシアが日本をせん滅しようと、バルチック艦隊を送りこんだときには、
日本は負けて、ロシアの“植民地”になるものと思っていた」
と、トルコ人は言う。
およそ100年前の日露戦争である(1904年~1905年)。
「それが、日本はバルチック艦隊を破って、ロシアに勝ったから、
“大国ロシアに日本が勝った!”と、トルコ人は拍手喝采をし、
大いに勇気づけられたのです」
と、トルコ人は言う。
「アドミラル・トーゴーが有名になって、多くの子どもがトーゴーと名づけられた」
そして、親日的なトルコから“100年後の恩返し”があった。
それは、イラン・イラク戦争が勃発して(1985年)、イランの企業に働く日本人と、
その家族、200人以上が出国できずに、閉じ込められた。
そのときに、トルコ航空機の“助け船”によって、日本人は命からがら、
テヘランからイスタンブルへ、そして、成田へと脱出できたのである。
イラン・イラク戦争は、時のイラク大統領サダム・フセインが、
イランの首都テヘランを空爆したことに始まり、
「48時間後には、イラン領空を飛ぶ民間機も撃墜対象とする」
と、宣言した。
戦争状態のイランから脱出するために、テヘラン空港に集まった日本人は、
救援機を待ったが、日本航空はイランに救援に行けなかった。
日航機が攻撃された場合に、日本政府から安全を保証してもらえない限り、
乗客や乗務員の命の保証ができなかったからである。
ほかの国の航空会社は、自国民の救出を優先させるから、
日本人には席はなく、テヘラン空港で閉じこめられたたまま、
身動きができなかった。
この絶体絶命のときに、救援に向かったのが、トルコ航空機である。
危険をかえりみず、テヘラン空港に到着し、日本人全員を乗せて、
イスタンブルに送り届けたのである。そして成田に帰ることができた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/e7/40f3594bacc6d46f17cd5419478621d4.jpg)
トルコ航空機(100年後の恩返しとは関係がない)。アンカラ空港。
イランには、多くのトルコ人が残留していたが、
日本人を優先したことに、トルコ国内から批判はなかった。
トルコ人が一番好きな国、それは日本である。断然一位で。
トルコ人とのあいさつは、抱き合ってほほを寄せ合う。
ほかの国の人とは、握手だけだが。
オスマン・トルコは、東ローマ帝国を滅ぼして、それまでの都、
コンスタンチノープルをイスタンブルと改名して首都にした(1453年)。
キリスト教会はイスラム教のモスクに改修して、イスラム化した。
キリストのモザイク画。アヤソフィア。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/2d/be9072df38328c4621f48f6db23ad8a2.jpg)
20世紀の調査で、塗り固められた漆喰の下から現れた。
トルコは勇敢な騎馬民族の戦士で、単なる侵略者ではなく、
イスラム教を広める信者だった。そして、
人を住まわせ、宗教を広げ、生活や文化をトルコ風にして、領土を拡大した。
最盛期には、西はオーストリアの前まで、地中海沿岸の北アフリカ、
東は中東までを支配して、こんにちのイスラム圏を樹立した。
トルコは世界の政治、経済、軍事、それに文化の中心だった。
トルコ人には、600年の栄華を極めた誇りがある。
イギリスもフランスも、まだ歴史の表舞台に現われる前である。
トプカピ宮殿、イスタンブル。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/5d/ea319e178508878f29783b2a039a0c95.jpg)
ハレム内、スルタンの間の玉座。
「ポルトガルもスペインも、植民地支配で潤った時代は短かった」
「太陽王、ルイ王朝のフランスも、産業革命のイギリスも、陽が沈みかけている」
「アメリカの繁栄は、第2次世界大戦後から2001年の同時多発テロまでかな?」
「日本の奇跡的な経済復興と繁栄はすばらしい。
バブルがはじけて、経済が破綻したのに、回復している。
経済大国が、あと何年続くのだろう?」
「2000年代の100年は、中国の時代かな?」
と、トルコ人は言う。
トルコ人が一番好きな国、日本。
“和歌山の水と土”で、海と土に還ったトルコ人の御魂を鎮めている、
“トルコの通知表”をみたい。
ランク…AA=3位以内 A=10位以内 B=20位以内 C=30位以内 D=40位以内。
1)創造力: ノーベル賞の受賞者はいない→ランクF。
2)芸術力: カンヌ映画祭でパルム・ドール受賞作品はない→ランクF。
3)学力: PISA2006の15歳の知識と技能は39位→ランクD。
4)文化力: 文化遺産は9で17位→ランクB。
5)運動力: サッカーのランキングは28位→ランクC。
陸上競技世界記録はない→ランクF。
6)経済力: 国民総生産は17位→ランクB。
7)援助力: 政府開発援助はない→ランクF。
8)総合力: ランクC。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/fc/f4e0d35ccb4680406e65aabedbc439ee.jpg)
トルコのレーダーチャート(2009年8月)。
[総合評価]
“創造力”のノーベル賞で、受賞者がいないこと、
“芸術力”のカンヌ映画祭で、パルム・ドール受賞作品がないこと、
“援助力”の政府開発援助ODAは、援助を受ける国であることから、
いびつなレーダーチャートになっている。
しかし、“文化力”の文化遺産は9で17位と高く、
“経済力”の国民総生産GDPも17位と高い。
トルコには多くの世界遺産がある。そして、ハレムを見たい、
ヨーロッパとアジアを分離するボスポラス海峡を見たい、
トルコ料理を味わいたい、と世界から観光客が押し寄せる。
ブルーモスク。世界遺産。イスタンブル。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/2a/d1725c596932ad6dbfce51bfd8cb2d1e.jpg)
世界観光機関UNWTO(United Nations World Tourism Organization)が、
旅行者が訪れる国のデータをオープンしている(2007年)。
その世界観光機関UNWTOから、ランキングを作成した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/88/535cc528cae305de1c3b7517a28dee7c.jpg)
フランスを訪れる旅行者が、世界一で7,890万人である。
トルコは8位で、2,225万人が訪れている。
日本は27位、835万人である。
トルコには、日本の2.7倍のお客さんが訪れている。
旅行者の行き先ランキング(2007年)と世界遺産の数とランキングを比べてみた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/6e/61bdc4fd08849f4dbc88c44e8de15e8b.jpg)
世界遺産は、文化遺産、複合遺産、自然遺産の合計とした。
トルコの世界遺産は9位、21である。旅行者の行き先ランキングは8位。
日本の世界遺産は15位、14である。旅行者の行き先ランキングは27位。
旅行者の行き先ランキングが上位の国は、世界遺産が多い。それに、
「世界の三大料理は、フランス料理、つぎにトルコ料理、そして中華料理です」
と、トルコ人が自慢するトルコ料理がある。
トプカピ宮殿。世界遺産。イスタンブル。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/1a/b0db578e04e9860090fdc12b46ac9da1.jpg)
表敬の門。中にハレムがある。
旅行者の行き先ランキング(2007年)と旅行収支を調べてみた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/d6/2eda3e19b2593adbbfd7bc458570fe21.jpg)
トルコは、観光黒字国である。
日本は、観光赤字国である。これは、日本に来る旅行者835万人よりも、
海外に出かける旅行者1,730万人が、多い(2倍以上)からである。
トルコはEUへの加盟を申請している。
EUの加盟には、あらかじめNATO北大西洋条約機構に加盟する。
チェコもポーランドもNATOに加盟してから(1999年)、
EUに加盟できた(2004年)。
NATOに加盟することは、西への忠誠心を誓う“踏み絵”である。
ブルガリアもルーマニアもNATOに加盟してから(2004年)、
EUに加盟できた(2007年)。
例外はフィンランドで、NATOに加盟せずに、EUに加盟できている。
EUの発足は1993年で、フィンランドの加盟は1995年だから、早い。
フィンランドは、第2次世界大戦後に、ロシアと不可侵条約を結んでいる。
陸続きで、歴史的にも関わりのあるロシアとの姿勢である。
トルコのNATO加盟は早かった(1952年)。NATOの発足は1949年。
早めのNATO加盟には、ロシアとは仇敵であったいきさつがある。
トルコはNATOに加盟したから、西への忠誠心を誓う“踏み絵”はパスした。
それに、NATOには協力してきている。
「イラク戦争では、トルコ領土内の空港をアメリカに提供した。
それで、アメリカ軍は、トルコ領からイラクを攻撃した」
と、トルコ人は西への貢献を言う。
トルコと同じイスラム国家、イラクの攻撃のために、犠牲を払ったのだから、
西への大きな貸しである。
トルコのEU加盟に、不利な項目を挙げるEUの国もある。
地理的にヨーロッパ部分は5%で、95%はアジアであること、
イスラム国家であること、などは小さいこととしても、
小数民族クルド人の人権を多く認めること、
キプロス共和国(ギリシャ系の南キプロス)が、
トルコのEU加盟に反対していることである。
トルコの南70キロメートルの地中海にあるキプロス島は、
ギリシャ系の南キプロスとトルコ系の北キプロス、
の南北に分離し、対立している。
ギリシャ系の南キプロス(キプロス共和国)は、EUに加盟している(2004年)。
しかし、南北キプロスの統一が進められているから、EU加盟は近づく。
日本とトルコの友好の証は、エルトゥールル号の遭難から100年後の、
こんにちにもみることができる。
トルコの遺跡(カマン・カレホユック)の発掘では、日本の調査隊が担当して、
学術調査を進めている。
ボスポラス海峡にかかる第2ボスポラス大橋は、日本の政府開発援助ODAで、
竣工し、アジアとヨーロッパを結ぶ動脈になっている(1988年)。
ボスポラス海峡。トプカピ宮殿から。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/c4/32e8d378b4da8357d0a5b4e3fc70675d.jpg)
奥に見えるのは第1ボスポラス大橋。左はヨーロッパ、右はアジア。
第2ボスポラス大橋は、この第1ボスポラス大橋から5キロメートル先にある。
第2ボスポラス大橋のほかに、アジアとヨーロッパを結ぶ地下鉄を、
日本の政府開発援助ODAで進めている。
大林組と熊谷組の技術で、ボスポラス海峡に海底トンネルを敷設し、
地下鉄を走らせる工事は、2010年の開通を目指している。
トルコの急成長を示すオフィス・ビルディング。イスタンブル。2003年。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/09/f96f968644b38ceea1f86b62d4b81971.jpg)
モスクの尖塔を抜いて、トルコで一番高い建築物になっている。
エルトゥールル号ほかについては、トルコ記念館に資料がある。串本。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/be/c402b6088c585f1e3149d6e5b4d776c2.jpg)
屋上から、エルトゥールル号の遭難現場を見ることができる。
中近東文化センターでは、トルコの企画展が開催された。東京都、三鷹市。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/49/29c79dfa3bec77928473bfbb9b60cd9b.jpg)
「エルトゥールル号回顧展」。2007年。