季節の変化

活動の状況

トルコの通知表

2009-08-30 06:31:40 | Weblog
“世界の表彰・評価”から、“指標”を定めて、“数値”で、
日本の通知表”をみたが、同じ指標で、
トルコの通知表”は、どうなるだろうか?

トルコは大の親日国である。
日本とトルコの友好のきっかけは、100年前にある。

「1990年の日本とトルコの修好100周年を祝う会場の港には、
フラスコに入った“和歌山”が置かれました」
と、トルコ人から言われた。

“和歌山の水と土”とは、つぎからきている。
日本を親善訪問したオスマン・トルコのオスマン・パシャ提督が、
明治天皇を表敬訪問して、軍艦“エルトゥールル号”で帰る途中、
和歌山県の串本で台風にあって座礁し、爆発、炎上した(1890年)。

エルトゥールル号の遭難現場は、岬の先の右端の小岩。串本。

乗組員600人のうち、69人は串本の村人の献身的な救助で助かった。
生存者を崖の上にかつぎ上げ、食糧を持ち寄って介護した。
犠牲者は村人によって捜索され、手厚く埋葬された。
生存者は、明治政府による医師の看護を受けた。そして、
軍艦2隻でトルコに、送り届けられた。
日本中から集まった義援金も、届けられている。
この美談が、トルコと日本の友好関係のはじまりである。

エルトゥールル号の遭難慰霊碑、串本。

同じ慰霊碑が、串本の姉妹都市、トルコ(メルシン)にもある。

トルコからの留学生は、日本滞在中に、この慰霊碑を訪れるという。
2008年6月には、日本を訪問されたアブドゥッラー・ギュル大統領は、
忙しい公務の中、東京から串本に赴いて慰霊碑で慰霊されている。
出迎えた串本の小中学生が、「エルトゥールル号追悼歌」を歌うと、
胸を詰まらせているアブドゥッラー・ギュル大統領がテレビで映された。

エルトゥールル号。

中近東文化センター(東京都、三鷹市)で開催された、
「エルトゥールル号回顧展」で買った絵はがきから。

「1990年の日本とトルコの修好100周年を祝う会場の港には、
フラスコに入った“和歌山の水と土”が置かれました」
と、トルコ人が言うのは、エルトゥールル号の遭難で、
海と土に還ったトルコ人の御魂(みたま)を、
和歌山の水と土が鎮(しず)めている。

アヤソフィア、世界遺産。イスタンブル。

モスクの尖塔は、当時、一番高い建築物だった。
日本とトルコ修好100周年の1990年。

そのオスマン・トルコはロシアと紛糾していた。
ロシアは冬でも凍らない港を求めて、黒海からボスポラス海峡を通って、
地中海に出る“南下政策”をとった。
これは、オスマン・トルコの領域を通るから、衝突し、
戦争になり、トルコ艦隊はロシア艦隊によって全滅させられた(1854年)。

「そのロシアと日本は戦争をした。
ロシアが日本をせん滅しようと、バルチック艦隊を送りこんだときには、
日本は負けて、ロシアの“植民地”になるものと思っていた」
と、トルコ人は言う。
およそ100年前の日露戦争である(1904年~1905年)。

「それが、日本はバルチック艦隊を破って、ロシアに勝ったから、
“大国ロシアに日本が勝った!”と、トルコ人は拍手喝采をし、
大いに勇気づけられたのです」
と、トルコ人は言う。
「アドミラル・トーゴーが有名になって、多くの子どもがトーゴーと名づけられた」

そして、親日的なトルコから“100年後の恩返し”があった。
それは、イラン・イラク戦争が勃発して(1985年)、イランの企業に働く日本人と、
その家族、200人以上が出国できずに、閉じ込められた。
そのときに、トルコ航空機の“助け船”によって、日本人は命からがら、
テヘランからイスタンブルへ、そして、成田へと脱出できたのである。

イラン・イラク戦争は、時のイラク大統領サダム・フセインが、
イランの首都テヘランを空爆したことに始まり、
「48時間後には、イラン領空を飛ぶ民間機も撃墜対象とする」
と、宣言した。

戦争状態のイランから脱出するために、テヘラン空港に集まった日本人は、
救援機を待ったが、日本航空はイランに救援に行けなかった。
日航機が攻撃された場合に、日本政府から安全を保証してもらえない限り、
乗客や乗務員の命の保証ができなかったからである。
ほかの国の航空会社は、自国民の救出を優先させるから、
日本人には席はなく、テヘラン空港で閉じこめられたたまま、
身動きができなかった。

この絶体絶命のときに、救援に向かったのが、トルコ航空機である。
危険をかえりみず、テヘラン空港に到着し、日本人全員を乗せて、
イスタンブルに送り届けたのである。そして成田に帰ることができた。

トルコ航空機(100年後の恩返しとは関係がない)。アンカラ空港。

イランには、多くのトルコ人が残留していたが、
日本人を優先したことに、トルコ国内から批判はなかった。
トルコ人が一番好きな国、それは日本である。断然一位で。

トルコ人とのあいさつは、抱き合ってほほを寄せ合う。
ほかの国の人とは、握手だけだが。

オスマン・トルコは、東ローマ帝国を滅ぼして、それまでの都、
コンスタンチノープルをイスタンブルと改名して首都にした(1453年)。
キリスト教会はイスラム教のモスクに改修して、イスラム化した。

キリストのモザイク画。アヤソフィア。

20世紀の調査で、塗り固められた漆喰の下から現れた。

トルコは勇敢な騎馬民族の戦士で、単なる侵略者ではなく、
イスラム教を広める信者だった。そして、
人を住まわせ、宗教を広げ、生活や文化をトルコ風にして、領土を拡大した。
最盛期には、西はオーストリアの前まで、地中海沿岸の北アフリカ、
東は中東までを支配して、こんにちのイスラム圏を樹立した。
トルコは世界の政治、経済、軍事、それに文化の中心だった。
トルコ人には、600年の栄華を極めた誇りがある。
イギリスもフランスも、まだ歴史の表舞台に現われる前である。

トプカピ宮殿、イスタンブル。

ハレム内、スルタンの間の玉座。

「ポルトガルもスペインも、植民地支配で潤った時代は短かった」
「太陽王、ルイ王朝のフランスも、産業革命のイギリスも、陽が沈みかけている」
「アメリカの繁栄は、第2次世界大戦後から2001年の同時多発テロまでかな?」
日本の奇跡的な経済復興と繁栄はすばらしい。
バブルがはじけて、経済が破綻したのに、回復している。
経済大国が、あと何年続くのだろう?」
「2000年代の100年は、中国の時代かな?」
と、トルコ人は言う。

トルコ人が一番好きな国、日本。
“和歌山の水と土”で、海と土に還ったトルコ人の御魂を鎮めている、
トルコの通知表”をみたい。

ランク…AA=3位以内 A=10位以内 B=20位以内 C=30位以内 D=40位以内。
1)創造力: ノーベル賞の受賞者はいない→ランクF。
2)芸術力: カンヌ映画祭でパルム・ドール受賞作品はない→ランクF。
3)学力:  PISA2006の15歳の知識と技能は39位→ランクD。
4)文化力: 文化遺産は9で17位→ランクB。
5)運動力: サッカーのランキングは28位→ランクC。
陸上競技世界記録はない→ランクF。
6)経済力: 国民総生産は17位→ランクB。
7)援助力: 政府開発援助はない→ランクF。
8)総合力: ランクC。


トルコのレーダーチャート(2009年8月)。

[総合評価]
“創造力”のノーベル賞で、受賞者がいないこと、
“芸術力”のカンヌ映画祭で、パルム・ドール受賞作品がないこと、
“援助力”の政府開発援助ODAは、援助を受ける国であることから、
いびつなレーダーチャートになっている。
しかし、“文化力”の文化遺産は9で17位と高く、
“経済力”の国民総生産GDPも17位と高い。

トルコには多くの世界遺産がある。そして、ハレムを見たい、
ヨーロッパとアジアを分離するボスポラス海峡を見たい、
トルコ料理を味わいたい、と世界から観光客が押し寄せる。

ブルーモスク。世界遺産。イスタンブル。


世界観光機関UNWTO(United Nations World Tourism Organization)が、
旅行者が訪れる国のデータをオープンしている(2007年)。
その世界観光機関UNWTOから、ランキングを作成した。

フランスを訪れる旅行者が、世界一で7,890万人である。
トルコは8位で、2,225万人が訪れている。
日本は27位、835万人である。
トルコには、日本の2.7倍のお客さんが訪れている。

旅行者の行き先ランキング(2007年)と世界遺産の数とランキングを比べてみた。

世界遺産は、文化遺産、複合遺産、自然遺産の合計とした。

トルコの世界遺産は9位、21である。旅行者の行き先ランキングは8位。
日本の世界遺産は15位、14である。旅行者の行き先ランキングは27位。
旅行者の行き先ランキングが上位の国は、世界遺産が多い。それに、
「世界の三大料理は、フランス料理、つぎにトルコ料理、そして中華料理です」
と、トルコ人が自慢するトルコ料理がある。

トプカピ宮殿。世界遺産。イスタンブル。

表敬の門。中にハレムがある。

旅行者の行き先ランキング(2007年)と旅行収支を調べてみた。

トルコは、観光黒字国である。
日本は、観光赤字国である。これは、日本に来る旅行者835万人よりも、
海外に出かける旅行者1,730万人が、多い(2倍以上)からである。

トルコはEUへの加盟を申請している。
EUの加盟には、あらかじめNATO北大西洋条約機構に加盟する。

チェコもポーランドもNATOに加盟してから(1999年)、
EUに加盟できた(2004年)。
NATOに加盟することは、西への忠誠心を誓う“踏み絵”である。
ブルガリアもルーマニアもNATOに加盟してから(2004年)、
EUに加盟できた(2007年)。

例外はフィンランドで、NATOに加盟せずに、EUに加盟できている。
EUの発足は1993年で、フィンランドの加盟は1995年だから、早い。
フィンランドは、第2次世界大戦後に、ロシアと不可侵条約を結んでいる。
陸続きで、歴史的にも関わりのあるロシアとの姿勢である。

トルコのNATO加盟は早かった(1952年)。NATOの発足は1949年。
早めのNATO加盟には、ロシアとは仇敵であったいきさつがある。
トルコはNATOに加盟したから、西への忠誠心を誓う“踏み絵”はパスした。

それに、NATOには協力してきている。
「イラク戦争では、トルコ領土内の空港をアメリカに提供した。
それで、アメリカ軍は、トルコ領からイラクを攻撃した」
と、トルコ人は西への貢献を言う。
トルコと同じイスラム国家、イラクの攻撃のために、犠牲を払ったのだから、
西への大きな貸しである。

トルコのEU加盟に、不利な項目を挙げるEUの国もある。
地理的にヨーロッパ部分は5%で、95%はアジアであること、
イスラム国家であること、などは小さいこととしても、
小数民族クルド人の人権を多く認めること、
キプロス共和国(ギリシャ系の南キプロス)が、
トルコのEU加盟に反対していることである。

トルコの南70キロメートルの地中海にあるキプロス島は、
ギリシャ系の南キプロスとトルコ系の北キプロス、
の南北に分離し、対立している。
ギリシャ系の南キプロス(キプロス共和国)は、EUに加盟している(2004年)。
しかし、南北キプロスの統一が進められているから、EU加盟は近づく。

日本とトルコの友好の証は、エルトゥールル号の遭難から100年後の、
こんにちにもみることができる。
トルコの遺跡(カマン・カレホユック)の発掘では、日本の調査隊が担当して、
学術調査を進めている。
ボスポラス海峡にかかる第2ボスポラス大橋は、日本の政府開発援助ODAで、
竣工し、アジアとヨーロッパを結ぶ動脈になっている(1988年)。

ボスポラス海峡。トプカピ宮殿から。

奥に見えるのは第1ボスポラス大橋。左はヨーロッパ、右はアジア。
第2ボスポラス大橋は、この第1ボスポラス大橋から5キロメートル先にある。

第2ボスポラス大橋のほかに、アジアとヨーロッパを結ぶ地下鉄を、
日本の政府開発援助ODAで進めている。
大林組と熊谷組の技術で、ボスポラス海峡に海底トンネルを敷設し、
地下鉄を走らせる工事は、2010年の開通を目指している。

トルコの急成長を示すオフィス・ビルディング。イスタンブル。2003年。

モスクの尖塔を抜いて、トルコで一番高い建築物になっている。

エルトゥールル号ほかについては、トルコ記念館に資料がある。串本。

屋上から、エルトゥールル号の遭難現場を見ることができる。

中近東文化センターでは、トルコの企画展が開催された。東京都、三鷹市。

「エルトゥールル号回顧展」。2007年。
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日本人のアイデンティティ その2

2009-08-23 07:51:50 | Weblog
“メキシコの通知表”で、メキシコ人とはなにか? と、
“アイデンティティ”を追い求める“メキシコ壁画運動”があったことを書いた。

日本人の“アイデンティティ”とはなんだろう?
「季節の変化」では、前に、
「日本人のアイデンティティを生む、日本の5つの特徴」で、
日本人の“アイデンティティ”について書いた。
“日本人は、優れた創造力とテクノロジーがあり、国を発展させた高い能力がある”。
それに、
“独自の文化を育て、文化財を保護している”。

“世界の通知表”では、次のことも書いた。
“ブルガリアの通知表”で、ブルガリアは第2次世界大戦の敗戦国で、
戦後、共産主義陣営に属したが、計画経済は失敗して、国の復興が遅れた。
“フィンランドの通知表”で、フィンランドは第2次世界大戦の敗戦国だったが、
戦後、民主主義陣営に属して、市場経済でもまれ、国が復興した。

“オランダの通知表”で、ゴッホは日本の浮世絵に刺激を受けて、
歌川広重の「亀戸梅屋敷」を描いていた。
“オーストリアの通知表”で、グスタフ・クリムトの「接吻」は、
日本の浮世絵から正方形を、琳派から金箔の使用を採り入れた。

この8月に、日本の独自の文化と、美しい日本の自然に触れる機会があった。
日本の独自の文化は、屏風絵の複製である。

松本市立博物館。2009年8月。

オリジナルの画像を読み込んで、印刷したものと思っていたが、さらに、
金箔を貼りつけ、表装し、ちょうつがいや、取っ手の表具まで再現してあった。

狩野山楽の「竜虎図屏風」のうち、「竜」の部分。

「金箔を切り抜いて、印刷した絵の上に貼るのでは微細な部分が再現できません」
と、金箔の工芸士は話してくれた。
そして、竜の上部にある雲を指して、説明した。
雲の拡大。

「オリジナルは、金箔を貼った上に、刷毛でスーッと描いてある。
ここは、接着強度10番から100番のうち、接着強度を10番と、
弱くして、金箔を貼って再現した」
よく再現できたものだ。これは、平成の文化だ。第2の文化の創造だ。

オーストリアのグスタフ・クリムトの「接吻」が、
琳派から金箔の使用を採り入れたことは、金箔の工芸士はご存知で、

「オーストリアのクリムト工房とは、技術の交流をしている」
と話された。そして、
「日本は薄い金箔の技術があり、クリムト工房は厚い金細工が得意である」
クリムトは金細工職人の家に生まれているから、金箔の使用に挑戦できている。

屏風絵は、ほかに俵屋宗達の「風人雷人図屏風」、尾形光琳の「八橋図屏風」、
狩野永徳の「洛中洛外図屏風」、長谷川等伯の「松林図屏風」など、
全部で9幅あった。いづれも国宝や重要文化財の複製だ。
日本の各地にある宝を、一堂に見ることができる。

再現した尾形光琳の「八橋図屏風」。

「八橋図屏風」は、もう日本では見ることができない。
ニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵している。

この屏風絵の複製は、パリのルーブル美術館でも展示して、好評だったという。
日本の誇る独自文化は、日本でも学童はじめ、多くの人が見てほしい。
世界が称賛し、影響を受けている日本の文化である。

つぎに、美しい日本の自然は、蝶ヶ岳(2,677m)から見た槍・穂高のパノラマ。

安曇野市の三股(みつまた)登山口から、蝶ヶ岳まで登ると、
左の穂高連峰から、右の槍ヶ岳(3,180m)まで、3,000m級の山が
屏風のように連なっている。5時間半かけて登ったかいがあった。2009年8月。
日本で、もっとも美しい自然のひとつだと思う。

これは、スイスのマッターホルン(4,478m)。

息をのむ景色。4,000m級の山が連なる。
この景色のスイスから、ノーベル賞受賞者を輩出しているが、
人口をノーベル賞の受賞者数で割った、受賞に必要な人数が、世界一少ない。

蝶ヶ岳から穂高連峰の見晴らし。

左の高いピークから前穂高岳(3,090m)、奥穂高岳(3,190m)、
涸沢岳(3,103m)、北穂高岳(3,106m)。その右はキレット。

蝶ヶ岳では、多くの登山者と行き交った。
言葉を交わした人は、徳島、岡山、神戸、東京、新潟。
蝶ヶ岳へは、上高地から2つの登山ルートがある。
「上高地まで、大阪、京都から、夜行バスで来た」
と、槍・穂高の美しさにひかれて、上高地から数時間かけて登ってくる。

蝶ヶ岳山頂近くの蝶ヶ岳ヒュッテに泊って、ひんやりした夜は、満天の星。
天の川が覆いかぶさる。こんなに輝いている星空を見たのは久しぶりだ。
翌朝4時から、常念岳(2,857m)までの縦走は、槍・穂高のパノラマが続く。
途中、ご来光では、自然に手を合わせて拝む。


5時間の縦走で、常念岳の山頂へ。槍ヶ岳が正面に見える。

独自の文化があり、美しい自然がある日本。
日本人の“アイデンティティ”は、
“日本人は、優れた創造力とテクノロジーがあり、国を発展させた高い能力がある”。
それに、
“独自の文化を育て、文化財を保護している”。


そして、この日本人のアイデンティティは、どうして生まれたのだろうか?
世界の市民に触れ、外から日本をみると、日本の特徴として、次がある。
“改善をする遺伝子”をもっている、
“子どもの教育”に力を入れている、
“排他的な宗教”ではないし、偏狭ではない、
“治安のいい街”で、“美しい自然”がある。そして、
“民主主義陣営”に属した。

1)改善や発明をする遺伝子DNAが宿っている
日本人は、改善、改良の思想が徹底している。
研究開発費が多く、特許の取得やノーベル賞の受賞者が多い。
創造力があり、ノーベル賞を受賞できる環境は日本の底力、品格となっている。

トランペットを吹くロボット。トヨタ産業技術記念館。名古屋市。

常設展だから、毎時にロボットの演奏を見ることができる。

2)子どもの教育に力を入れている
親には食費を倹約してでも、子どもの教育には力を入れる伝統がある。
教育を受け、実績を上げれば夢が実現できるという上昇志向や平等意識がある。

開智学校(1876年建設)。松本市。

もっとも古い小学校のひとつ。重要文化財。

3)排他的な宗教ではないし、偏狭ではない
ほかを否定したり、拒絶する宗教ではない。だから宗教戦争はない。
偏狭ではなく、異質なものや風習に興味を持ち、日本風に融合、
調和する才があって、改良や発展、文化の創出につながっている。

アウシュビッツ第一強制収容所の入口。ポーランド。

ナチスは、ヨーロッパ各地から多くのユダヤ人を運び入れて、殺害した。

4)街の治安がいい、美しい自然がある
治安の悪さやテロに対して、びくびくしないですむ安全な生活や、
美しい自然は、創造的な活動や経済活動、文化活動をするのに重要である。

爆心地グラウンド・ゼロ。ニューヨーク(2002年2月)。

犠牲者を悼(いた)みに、やってきたのだろうか?
心の痛みは、ズーッと残り続ける。

5)第2次世界大戦後は民主主義陣営に属した
第2次世界大戦後の廃墟から、技術開発をし、国の復興をとげた。
民主主義陣営に属して、地球規模の市場競争にもまれ、世界一を目指して、
“デファクト・スタンダード”(実質的な標準)を開発してきた。

西ベルリンから見たベルリンの壁とブランデンブルク門。
ベルリンの壁が崩壊する前年。1988年3月。

ベルリンの壁をはさんで、こちら側が民主主義陣営、
向こう側が共産主義陣営。

民主主義陣営に属した例は、フィンランドでも西ドイツでもみてきた。
第2次世界大戦の敗戦国だったが、戦後は民主主義陣営に属して、
国を復興し、先進22か国の経済援助国になっている。

東ベルリンから見たブランデンブルク門とベルリンの壁。
ベルリンの壁が崩壊する前年。1988年3月。

金網の向こうは、ガレキと資材置き場で、進入禁止。

一方で、共産主義陣営に属した東ドイツやチェコ、ポーランド、ブルガリア、
ルーマニアなどの東欧では、半世紀たって、国が立ち行かなくなった。
ソ連が崩壊して、共産主義陣営から民主主義陣営に入り、EUに加盟し、
市場経済に移行し、半世紀のおくれを取りもどして、国を復興していく。

日本は、内からみると、悪いところばかりが目につく。
ムダ使いが多く、改革が進まない、膨大な借金があって、
返済はつぎの世代に先送りされている……と、悪いところも多い。
そして、日本はダメだ、ダメだと悲観し、批判することになる。

悪いところも多いが、世界の市民は、日本人のいいところをみて、
「日本は、どうして経済大国に成長したのか?」と、ベンチ・マーキングし、
「日本のようにハイテク産業を興したい」と、技術援助や経済援助を受け、
「日本は、模範Role Modelで、追いつき、追い越したい」と、目標にし、
「日本は、独自の文化を持ち、よその国の文化も保護している」と、
日本に、あこがれ、尊敬していた。

そして、見失いがちな日本人のアイデンティティだが、
“日本人は、優れた創造力とテクノロジーがあり、国を発展させた高い能力がある”。
それに、
“独自の文化を育て、文化財を保護している”。

この日本人のアイデンティティは、
“改善をする遺伝子”をもっている、
“子どもの教育”に力を入れている、
“排他的な宗教”ではないし、偏狭ではない、
“治安のいい街”で、“美しい自然”がある。そして、
“民主主義陣営”に属した、という日本の特徴から生まれている。
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メキシコの通知表

2009-08-16 08:51:51 | Weblog
“世界の表彰・評価”から、“指標”を定めて、“数値”で、
日本の通知表”をみたが、同じ指標で、
メキシコの通知表”は、どうなるだろうか?

2009年は「日本メキシコ交流400周年」である。
1609年9月に、フィリピン諸島総督ロドリゴ・デ・ビベロ一行の船が、
フィリピンから(スペイン領)メキシコへ帰る途中、嵐にあって、
千葉県の御宿沖で遭難した。地元の漁師によって317名が救助された。
ビベロ総督は時の為政者、徳川家康と謁見している。徳川家康は、
特別船を建造して、ビベロ一行をメキシコに送り届けた(1610年)。
これが日本とメキシコの友好のはじまりである。

この日本メキシコ交流400周年は、外務省のホームページと、
世田谷美術館の「メキシコ20世紀絵画展」に説明がある。
これは、「メキシコ20世紀絵画展」の入場券。

フリーダ・カーロの「メダリオンをつけた自画像」の、
“メダリオン”は、先住民族の衣装。町役場へおもむいて、
結婚の誓いをするときや、5月のお祭りのパレードで着ける。
フリーダ・カーロの祖父は先住民族、夫は画家のディエゴ・リベラ。

ディエゴ・リベラは1920年代に、ダビッド・アルファロ・シケイロス、
ホセ・クレメンテ・オロスコともに、“メキシコ壁画運動”を進めた人である。
メキシコ人の“アイデンティティ”を求めて、メキシコ人とはなにか?
メキシコの未来は? を、公共建造物に“壁画”で表現した運動である。

これは「メキシコ20世紀絵画展」のロビー。世田谷美術館

「それは“壁”から始まった」と、メキシコ壁画運動を上映している。
メキシコ壁画運動の一人、シケイロスが映っている。

メキシコにはマヤ文明があり、アステカ文明があった。
16世紀に、スペインによって征服されて植民地になった。
先住民族とスペイン人との混血、メスティーソが、人口の60%を占め、
先住民族が25%、スペイン系白人が15%である。

パリで西欧美術を学んだディエゴ・リベラは、メキシコにもどり、
西洋の近代化は人間本来の姿を失う、西洋美術の採り入れは模倣にすぎない、
メキシコらしいもの、メキシコ人の“アイデンティティ”を求めて、
メキシコ・シティの南東500キロメートル、先住民族のテワンベック地域へ行く。
そこで、メキシコの本物の姿を見つけ出し、豊かな表現力を得ている。

鉢(はち)。色と筆の動きに、メキシコらしさを感じた。

ずっしりと重かったが、気に入って買ってきた。

西洋の模倣でないメキシコらしさ、メキシコとは何か? を追い求めた、
メキシコの通知表”をみたい。

ランク…AA=3位以内 A=10位以内 B=20位以内 C=30位以内 D=40位以内。
1)創造力: ノーベル賞の受賞者はいない→ランクF。
2)芸術力: カンヌ映画祭でパルム・ドール受賞作品1は11位→ランクB。
3)学力:  PISA2006の15歳の知識と技能は46位→ランクE。
4)文化力: 文化遺産は25で6位→ランクA。
5)運動力: サッカーのランキングは30位→ランクC。
陸上競技世界記録は、1で16位→ランクB。こちらを採用。
6)経済力: 国民総生産は13位→ランクB。
7)援助力: 政府開発援助はない→ランクF。
8)総合力: ランクC。


メキシコのレーダーチャート(2009年8月)。

[総合評価]
“創造力”のノーベル賞で、受賞者がいないこと、
“援助力”の政府開発援助ODAは、援助を受ける国であることから、
いびつなレーダーチャートになっている。
しかし、“文化力”の文化遺産は25で6位と高く、
“経済力”の国民総生産GDPも13位と高い。

メキシコには、マヤ文明、アステカ文明ほか、29の世界遺産がある。
世界遺産が多いことが、世界の旅行者をメキシコに引きつけている。

世界観光機関UNWTO(United Nations World Tourism Organization)が、
旅行者が訪れる国のデータをオープンしている(2007年)。
その世界観光機関UNWTOから、旅行者の行き先ランキングを作成した。

フランスを訪れる旅行者が、世界一で8,190万人である。
2000年と比べても、1位は変わらない。
2位スペイン5,919万人、3位アメリカ5,599万人、
4位中国5,472万人、5位イタリア4,365万人が続く。そして、
メキシコは9位で2,142万人が訪れている。2000年の7位から順位を落としている。

日本は27位、835万人である。メキシコは、日本の2.5倍のお客さんが訪れている。

ティファナの露天商。アメリカのカリフォルニア州から車で行ける。


旅行者の行き先ランキング(2007年)と世界遺産の数とランキングを比べてみた。
世界遺産は、文化遺産、複合遺産、自然遺産の合計とした。

メキシコは世界遺産のランキング6位で、旅行者の行き先ランキングは9位である。
日本は世界遺産のランキング15位で、旅行者の行き先ランキングは27位である。
旅行者の行き先ランキングが上位の国は、世界遺産が多い。
それに、メキシコの保養地カンクン、アカプルコは海外のお客でにぎわっている。

旅行者の行き先ランキング(2007年)と旅行収支を調べてみた。

メキシコは、観光黒字国である。
日本は、観光赤字国である。これは、日本に来る旅行者835万人よりも、
海外に出かける旅行者1,730万人が、多い(2倍以上)からである。


メキシコ・シティの中心街。フォルクスワーゲンはメキシコで生産している。

さて、メキシコは石油の生産国である。
ブリティッシュ・ペトロリアムBP(イギリス)が、
Statistical Review of World Energy 2009で、
世界のエネルギーの統計資料を、発表している。
この統計資料から、石油生産量(2008年)のランキングを作成した。

メキシコの石油の生産量は6位である。世界全体の4.0%を生産している。
1位はサウジアラビア、ロシア2位、アメリカ3位、イラン4位、中国5位。

メキシコの石油の生産量の60%を占めるカンタレル油田が、
枯渇しつつあることをメキシコ政府は危惧している。
というのは、メキシコ石油公社(ペメックスPEMEX)の売上は、
メキシコの歳入の3割を占めるからであり、経済の牽引者だからである。

ブリティッシュ・ペトロリアムBPの、世界のエネルギーの統計資料から、
石油埋蔵量のランキング(2008年)を作成した。

メキシコの石油埋蔵量は、10位以内に入っていない。
新たな油田を探査しなければならない。
しかし、メキシコ湾の深い水域の油田開発には、
技術を持った外国の石油企業との提携が必要になる。
これまで外資の参入を遮断してきた国営企業ペメックスPEMEXは、
深海での探査、掘削に外資との共同開発に踏みきった。

石油埋蔵量のランキング(2008年) 20位まで。

新たな油田が見つかったといわれているが、
メキシコは18位、16億トンの石油埋蔵量となっている。

これは、独立記念塔。メキシコ・シティ。


メキシコの教育費を調べてみた。
教育費とGDP、教育費が財政支出に占める割合を調査したデータが、
OECDにあるので、教育費の表を作った。


メキシコは12位で、国民総生産GDPの5.5%を教育費に充てている。
財政支出と教育費をみると、23.4%を充てているが、これは断然の1位である。
教育に力を入れている成果は、やがて出てくる。


狩の女神ディアナの噴水。メキシコ・シティ。

教育費とGDPの割合で、21位以下はつぎになる。

日本の教育費と国民総生産GDPの割合は、3.5%で、33位である。
OECD各国の平均は5%。日本は、OECD加盟32か国の最下位である。
つぎに、日本の教育費が財政支出に占める割合は9.5%、30位である。
日本の30位は、OECD加盟国の最下位である。

メキシコの文化は、西洋の物まねでなく、メキシコらしさを求めるものである。
石油の生産、電子機器や自動車の生産は経済をけん引し、
世界遺産や保養地は海外からのお客でにぎわい、観光黒字国である。
教育に力をいれているから、やがて成果がでるだろう。
メキシコはブラジルとならぶ中南米の中心国、そして、
BRICsと肩をならべ、追い越して、大国を目指す。


カテドラル。メキシコ・シティ。
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ブルガリアの通知表

2009-08-09 07:06:28 | Weblog
“世界の表彰・評価”から、“指標”を定めて、“数値”で、
日本の通知表”をみたが、同じ指標で、
ブルガリアの通知表”は、どうなるだろうか?

首都ソフィアの中心街に、聖ゲオルゲ円形教会(ロタンダ)があって、
「聖ゲオルゲ円形教会(ロタンダ)は、4世紀に建設されました。そして、
第2次世界大戦の爆撃のときにも、奇跡的に戦禍(せんか)を免れました」
と、ブルガリア人のツアー・ガイドが説明したので、思わず質問した。
「爆撃したのはだれですか。ナチスですか? ソ連ですか?」

「アメリカです。ブルガリアも日本と同じ枢軸(すうじく)国だったんですよ」
と、ガイドが応えた。
いくぶん、日本人に対する親しみが込められているような気がした。


聖ゲオルゲ円形教会(ロタンダ)。手前はローマ時代の遺跡(4世紀)。
奥はシェラントン・ホテル、右は官庁。

ということは、ナチス・ドイツと運命をともにしたブルガリアは、
第2次世界大戦の敗戦国だった。そして、
ブルガリアは戦後、ソ連の衛星国として共産主義陣営に属した。
しかし、計画経済は40数年後に破綻した。共産政権が崩壊したのは、
内部の無気力や腐敗からという歴史の定めのほかに、
計画経済と市場経済による“経済戦争”の結果が遠因である。

ソ連は崩壊し(1991年)、ブルガリアは民主主義陣営に入り、
2004年にNATOに加盟し、さらに、“欧州への回帰”を目指して、
2007年にEUに加盟している。
同じ枢軸国であったルーマニアも、2007年にEUに加盟した。

“フィンランドの通知表”で、フィンランドも第2次世界大戦の敗戦国だった、
ことをお伝えした。
フィンランド人は、日露戦争を“日本存亡の危機”として、とらえていた。
そして、日露戦争はフィンランドにとっても重要なできごとだった。
「日露戦争で、帝政ロシアは回復不可能までに弱体化し、ロシア革命が起こった。
ニコライ2世の帝政が崩壊した1917年に、フィンランドは独立宣言をした」
と、フィンランド人は言う。

これは、“東郷ビール”。

フィンランドには提督シリーズのビールがあって、
日露戦争で日本海海戦を指揮した提督、東郷平八郎を称えるビールである。
その東郷ビールの復刻版(日本製)が、横須賀の記念艦「三笠」で売っていた。

「しかし、帝政ロシアが崩壊したあとでも、フィンランドは、
ソ連と戦争があって(冬戦争1939年)、領土を奪われた。
ソ連の脅威に対抗するため、ナチス・ドイツに援助を求めて同盟を結んだ。
そのナチス・ドイツが、ソ連に侵攻したために(1941年)、
同盟国のフィンランドも、参戦を余儀なくされて、“敗戦国”となった」

第2次世界大戦の敗戦国は、日本、ドイツ、イタリアだけでなかった。
ブルガリア、フィンランド、ルーマニア、ハンガリー、タイも敗戦国だった。

2009年は、日本はブルガリアと国交を再開して、50周年である。
パルヴァノフ、ブルガリア大統領ご夫妻が、日本を訪問され(1月)、
日本とブルガリアの関係は、緊密さを増している。
日本の政府開発援助ODAも厚い。

ブルガリア人といえば琴欧洲。祖国ブルガリアから国民栄誉賞の、
「スタラ・プラニア賞」が授与されている。
日本人に人気があるブルガリアの英雄は、横綱が期待されている。

ブルガリアは、第2次世界大戦で敗戦国になり、戦後はソ連傘下の、
共産主義陣営に入り、半世紀後、盟主ソ連が弱体して、民主主義陣営に入り、
“欧州への回帰”を目指して、EUに加盟するという、歴史の激変を体験した、
ブルガリアの通知表”をみたい。

ランク…AA=3位以内 A=10位以内 B=20位以内 C=30位以内 D=40位以内。
1)創造力: ノーベル賞の受賞者はいない→ランクF。
2)芸術力: カンヌ映画祭でパルム・ドール受賞作品はない→ランクF。
3)学力:  PISA2006の15歳の知識と技能は44位→ランクE。
4)文化力: 文化遺産は7で24位→ランクC。
5)運動力: サッカーのランキングは23位→ランクC。
陸上競技世界記録は、2で12位→ランクB。こちらを採用。
6)経済力: 国民総生産は71位→ランクF。
7)援助力: 政府開発援助はない→ランクF。
8)総合力: ランクE。


ブルガリアのレーダーチャート(2009年8月)。

[総合評価]
面積の小さいレーダーチャートになっている。
国土は日本の3分の1で、人口は730万人と少ないこともあるが、
半世紀もソ連傘下の共産主義陣営に属したことによって、
“創造力”、“芸術力”、“学力”、それに、“経済力”は振るわなかった。
そして、政府開発援助ODAを受ける国になっている。

“運動力”は、陸上競技世界記録が2で12位と結果を残している。
ロシアの陸上競技世界記録が16で1位、中国は4で7位だから、
共産主義陣営では、運動力に国威の発揚を求めたのだろう。

経済力は振るわず、政府開発援助ODAを受ける国になっていることは、
ナチスに侵攻されたり、協力して敗戦国になり、ソ連傘下の共産主義陣営になった、
東欧の国々、東ドイツ、ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ブルガリア、
ルーマニア、ハンガリーに共通している。

同じ敗戦国であった日本、西ドイツ、イタリア、タイ、そしてフィンランドは、
戦後、民主主義陣営に属した。いずれも、国存亡の危機や廃墟の中から、
経済復興をし、そして、政府開発援助ODAの国になっている。

日本は、第2次世界大戦で広島と長崎に原爆が落とされ、都市が焼かれた廃墟から、
復興をとげた。西ドイツもイタリアも同じである。壊滅状態から、復興をとげた。
フィンランドも、学力とノキアのIT産業への転換で国を復興させた。

戦後、民主主義陣営に属して、グローバルな規模での厳しい市場競争にもまれ、
世界一を目指して“デファクト・スタンダード(実質的な標準)”となる製品を、
次々と開発してきた成果である。

戦後、日本やフィンランドは民主主義陣営に入ったが、
このことによって、国の復興が早まった。
もし、ブルガリアがソ連傘下の共産主義陣営に入らずに、
民主主義陣営に入っていたならば、戦後の復興はもっと早かったに違いない。
戦後、民主主義陣営に入ったか、共産主義陣営に入ったかが、
国の復興の命運を分けた。

“芸術力”は、カンヌ映画祭でパルム・ドール受賞作品はないが、
ブルガリアはイコンフレスコ画の宝庫である。
ソフィアにあるアレクサンドル・ネフスキー寺院の地下のイコン博物館には、
ブルガリア全土から集めたイコンがある。
ソフィアから南西8キロメートルのボヤナ教会(世界遺産)には、フレスコ画があり、
ソフィアから北東80キロメートルのアルバナシの聖クリスマス教会には、
祭壇、フレスコ画、イコンがある。
そして、ソフィアから南へ65キロメートルのリラ修道院(世界遺産)は、
フレスコ画とイコンで装飾されている。

アレクサンドル・ネフスキー寺院。ソフィア。

ブルガリアは、オスマン・トルコに500年間占領されていた(1396年~1878年)。
オスマン・トルコの占領からブルガリアを解放したのはロシアである(1878年)。
このロシア・トルコ戦争で犠牲となったロシア兵士20万人を慰霊するために、
ロシアはアレクサンドル・ネフスキー寺院を建てた。
中には3つの祭壇があって、中央の一段と大きいのがロシア、
左側はブルガリア、右側にスラブ諸国を慰霊する。

このアレクサンドル・ネフスキー寺院の地下が、イコン博物館になっている。
イコンは撮影禁止なので、印象に残ったイコンをメモした。キリスト像、マリア像、
受胎告知、怪物を退治する聖ジョージなどで、17世紀~18世紀の制作だった。

受胎告知は15世紀に、イタリアのラファエロやレオナルド・ダ・ヴィンチも、
描いている。ブルガリアのイコンは、素朴な感じがして、イタリアの影響はない。
オスマン・トルコに占領されていたから(1878年に解放される)、
イタリアとの交流はなかったのだろう。

ボヤナ教会。世界遺産。

右端のアーチ3つ分が11世紀、2回増築されて、中央が13世紀、
左端のツタ部分が19世紀の建築。

内部は、壁も天井もフレスコ画で飾られている。撮影禁止。パンフレットを買った。
「最後の晩餐」、「聖ニコライの生涯」があり、中でも「受胎告知の天使ガブリエル」、
「第2ブルガリア帝国皇帝のコンスタンチン・アッセンと妃のイリナ」が、
際立っていた。
1259年の作品というから、イタリア・ルネッサンスに先駆けている。
しかも無名の画家である。ブルガリアには、すばらしいフレスコ画がある。

聖クリスマス教会。16世紀。アルバナシ。

長細い建物は、教会と思えなかった。牧舎かと思った。しかし、
内部は、祭壇があり、フレスコ画、イコンで埋め尽くされていた(17世紀)。
撮影禁止。うすいパンフレットを買った。
「キリストの生涯」、「マリアの生涯」、「キリストの死を悼む」、
「人生の輪The Wheel of Life」ほかのフレスコ画があった。
「人生の輪」とは変わっている。じっくり見た。太陽の周りに12の星座があり、
人の一生がある。上部には最後の審判をおこなうキリストが描かれていた。

リラ修道院。世界遺産。

正面は聖母誕生教会、左奥は、一番古い建築のフレリョの塔(14世紀)。


聖母誕生教会の外壁にあるフレスコ画の写真を撮っていると、
私を見ている聖職者に気がついた。

写真を撮らしてもらうと、快諾してくれた。
お礼は言ったが、つぎになんの話をしたらいいのだろうか?
「すばらしいフレスコ画ですね」
と言えばよかった。

ソフィアの中心部。

中央奥は旧共産党本部、手前は聖ペトカ地下教会、左はツム百貨店、右は官庁。
右の官庁の内側に、聖ゲオルゲ円形教会(ロタンダ)がある。

聖ペトカ地下教会は、オスマン・トルコに占領されていたときに、
建設されている(16世紀)。オスマン・トルコには、教会とわからないように、
高さをおさえて、しかも半地下としてある。それに、窓をつけなかった。

ブルガリアには、すばらしい観光資源がある。
アレクサンドル・ネフスキー寺院、ボヤナ教会、聖クリスマス教会、
リラ修道院は、イコン、フレスコ画の宝庫である。

ブルガリアは、オスマン・トルコによる500年の占領、
ロシアによる半世紀の抑圧……と激動を体験してきた。そして、
“欧州への回帰”を目指して、EUに加盟した。軍事費は削減した。
徴兵制度による兵役は、2年から1年以下に短縮し、そして廃止した。
早めに産業に従事し、経済を復興して、失われた半世紀を取りもどしていく。
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ロシアの通知表

2009-08-02 06:07:02 | Weblog
“世界の表彰・評価”から、“指標”を定めて、“数値”で、
日本の通知表”をみたが、同じ指標で、
ロシアの通知表”は、どうなるだろうか?

「季節の変化」では、ロシアと利害関係のある国の人の話が出てきた。
イギリス人は、
「今度は、日本がイギリスを助けて、“100年前の恩返し”をする番だ!
日露戦争で(1904年)、ロシアに負けていたら、こんにちの日本はなかった。
日本が勝ったのは、軍艦や兵器、それに戦費をイギリスから調達したからだ」

東郷平八郎の乗った旗艦“三笠”はイギリス製。横須賀の記念艦「三笠」で。
イギリスの戦艦で構成された日本艦隊は、バルチック艦隊をせん滅した(1905年)。
この日本海海戦の勝利の第一報を、誤報だろうとして、世界はすぐには信じなかった。

トルコ人は、
「日露戦争で日本は負けて、“ロシアの植民地”になるものと思っていた。
ところが、日本が勝ったから、トルコ人は拍手喝さいし、大いに勇気づけられた。
アドミラル・トーゴーを称えて、多くの子どもにトーゴーと名づけられた」

フィンランド人は、
「ロシアに800年間併合され、統治されていた。勝ち目のない蜂起をするか?
それとも、国が消滅するのをだまって待つのか? “国存亡の危機”だった。
日露戦争で日本が勝って、帝政ロシアが弱体化した。そしてロシア革命が起きて、
ニコライ2世の帝政が崩壊した1917年に独立宣言をした」

ヘルシンキのランド・マークであるヘルシンキ大聖堂は、
1917年の独立宣言まで、ニコライ教会と呼ばれていた。

インドの初代首相、“ネルー”は、
「(日露戦争で)日本の勝利に血が逆流するほど“歓喜”し、
インド独立のため命を捧げる決意をした」

中国の建国の父、“孫文”は、
「(日露戦争は)アジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。
この日本の勝利は、全アジアに影響を及ぼし、
アジアの民族は極めて“大きな希望”を抱くに至った」

チェコ人は、ソ連のチェコ侵攻に対して、
「世界のだれも、助けてくれなかった!
どうしようもない、つらい時期だった。この悲惨な状況は、21年続いた」
チェコの民主化運動“プラハの春”が、ソ連の戦車が首都プラハに侵攻して、
民主化運動を踏みにじった、チェコ事件である(1968年)。そして21年後、
ビロード革命(無血革命)が成功して、共産政権が倒れた。

チェコ事件のときの犠牲者を悼(いた)む碑には、
“IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM”
「共産主義の犠牲者たちを記念して」
と、ある。

プラハの繁華街、ヴァーツラフ広場で。

“ベルリンの壁”を目の前にして、ソ連の共産政権下にある東ドイツ人は、
「共産主義を崩壊させようとする西の帝国主義者によって、
東ドイツ国民が“拉致(らち)”されるのを防ぐために、壁を築いたのです」
と言い、西ドイツ人は、
「東ドイツ人の脱出が多くて、東ドイツの存在が危うくなったから、
壁を築いたんじゃないか? 壁ができても、なぜ東ドイツ人は、
命をかけて、西に脱出するのだ?」
と言い合う“ケンカ状態”だった(1988年)。

ベルリンの壁”の向こうに“無人地帯”が広がり、“照明”がある。
中央が“監視塔”で、サーチ・ライトで脱出者を照らし、銃眼から射殺する。
さらに奥に“白い壁”があり、2重の壁の先が東ベルリン市街である。

ベルリンの壁は、“東西冷戦”の象徴で、造りはじめてから(1961年)、
崩壊するまで(1989年)、28年間、東西ベルリンを遮断していた。
崩壊した翌年に東西ドイツは統一し(1990年)、1991年にソ連は崩壊した。

ポーランド人で、前のローマ教皇のヨハネ・パウロ2世は、
「恐れてはいけない」
と、ソ連の共産主義体制下にあるポーランドで、聴衆にむかって語りかけ、
“ポーランドの民主化運動”を支持し、勇気づけた。

ポーランド人は、スターリンの贈り物、文化科学宮殿を、
「スターリンの墓石」と、呼んでいた。

この文化科学宮殿は、世界遺産にはならなかった。ワルシャワ。

「経済戦争で、計画経済が市場経済に負けた」
この事例は、ソ連の車“ラーダ”と、チェコの新しい車“シュコダ”に見た。

ソ連のラーダと右後方の黄色の車が新しいシュコダ。チェコ(2006年)。

共産主義体制下の計画経済で、いくら優れた指導者が、
企画・開発した製品でも、世界規模の市場経済では、
まったく競争力がなかった。そして、国が立ち行かなくなった。

別に、ロシアの悪口を集めたのではない。
訪れた国の人の言葉で、これらはソ連が崩壊する(1991年)前のことである。
しかし、今のロシアは違う。共産党の一党独裁が終わり、市場経済に移行した。

そして、石油、天然ガスによって経済がうるおった。
経済の発展が著しいBRICs
(Brazilブラジル、Russiaロシア、Indiaインド、China中国)の一角である、
ロシアの通知表”をみたい。

ランク…AA=3位以内 A=10位以内 B=20位以内 C=30位以内 D=40位以内。
1)創造力: ノーベル賞の受賞者13人は7位→ランクA。
2)芸術力: カンヌ映画祭でパルム・ドール受賞作品2は6位→ランクA。
3)学力:  PISA2006の15歳の知識と技能は36位→ランクD。
4)文化力: 文化遺産は15で10位→ランクA。
5)運動力: サッカーのランキングは6位→ランクA。
陸上競技世界記録は、16で1位→ランクAA。こちらを採用。
6)経済力: 国民総生産は8位→ランクA。
7)援助力: 政府開発援助はない→ランクF。
8)総合力: ランクB。


ロシアのレーダーチャート(2009年8月)。

[総合評価]
“学力”、“援助力”が低いために、いびつなレーダーチャートになっているが、
“創造力”、“芸術力”、“文化力”、“運動力”、“経済力”はすばらしい。

ブリティッシュ・ペトロリアムBP(イギリス)が、
Statistical Review of World Energy 2009で、
世界のエネルギーの統計資料を、発表している。
この統計資料から、石油の生産量のランキング(2008年)を作成した。

ロシアの石油の生産量は2位である。世界全体の12.4%を生産している。
1位はサウジアラビア。アメリカ3位、イラン4位、中国5位が続く。

天然ガスの生産量のランキング(2008年)を作成した。

ロシアが1位である。世界全体の19.6%を生産している。
アメリカ2位、カナダ3位、イラン4位、ノルウェー5位が続く。

石油の埋蔵量のランキング(2008年)を作成した。

ロシアは7位で、世界全体の6.3%を生産している。
1位はサウジアラビア、イラン2位、イラク3位、クウェート4位、
5位ベネズエラが続く。

ロシアの埋蔵量108億トンを、2008年の生産量4.885億トンで、
割ってみると、22年間は生産できることになる。

天然ガスの埋蔵量のランキング(2008年)を作成した。

ロシアが1位である。全世界の23.4%を埋蔵している。
イラン2位、カタール3位、トルクメニスタン4位、サウジアラビア5位が続く。

ロシアの埋蔵量43.30兆立方メートルを、2008年の生産量、
6,017億立方メートルで、割ってみると、71年間は生産できることになる。

ロシアの地下には自然資源というが埋まっている。あとは金を堀出せばいい。
ロシア経済がうるおうわけはここにある。うらやましい限りだ。

石油の消費量のランキング(2008年)を作成した。

アメリカが1位で、世界全体の22.5%を消費している。
日本は3位で、5.6%を消費している。
BRICsの中国2位、インド4位、ロシア5位、ブラジル7位がある。
BRICsの消費は、19%になる。

ロシアの石油の消費量は1.304億トンで、生産量は4.885億トンだから、
内需をまかなえる。
中国の石油の消費量は3.757億トンで、生産量は1.897億トンだから、
不足する石油の確保は、重大である。

天然ガスの消費量のランキング(2008年)を作成した。

アメリカが1位、ロシア2位で、それぞれ世界全体の22.0%、13.9%を占める。
日本は5位で、世界全体の3.1%を消費する。
BRICsの中国は、8位である。

ロシアの天然ガスの消費量は4,202億立方メートルで、
生産量は6,017億立方メートルだから、内需をまかなえる。
中国の天然ガスの消費量は807億立方メートルで、
生産量は761億立方メートルだから、不足分を確保していく。
日本は、石油もの天然ガスも輸入に頼らなければならない。

ロシアは、経済の発展に石油も天然ガスも内需の供給に問題ない。
さらに、輸出をして経済の発展に、大きく寄与していく。

これは、ロシアの民芸スプーン、ウォシュカ。

ロシア人のニコライが来日したときに、おみやげにもらった。
ハフハマイ地方の名産という。木の実と葉が描かれている。

会談の区切りに、お茶で休憩した。すると、
大きなカバンの中から、ニコライが取り出したのは、ケーキだった。
「プリャニャックといって、モスクワ近郊のトアという町の名物です。
トアにはもう1つ名物があって、銃(アルマ)です」

ニコライを迎えるにあたって、十分な準備もしたし、資料もそろえておいた。
それが、うれしかったのだろう?
プリャニャックは、カステラを圧縮した菓子パンのようで、
上にチョコレートでトア産と書かれていた。甘すぎることもなく、
淡い香料が入っていて、うまい……高級のケーキではないだろうか?

「週末になると、家族でモスクワから400キロメートル離れた森の別荘へ行って、
湖でボーティングを楽しんだり、鹿をハンティングする」
と、言うから、うらやましい。

ニコライへのおみやげをなんにするか? モナカにした。
ウエハースの中にアンコがはいっていて、ジャムの一種と説明した。
「二人の男の子とワイフへのおみやげにする」
と、資料とともに、ニコライは大事そうにしまった。

さて、会談が終わって、ロビーまで送ると、
「いい会談でした。ありがとう」
と、大きな手をさし出して、ガッシと握手された。握りしめた手を放さない。
「モスクワにいらしてください。モスクワで会いましょう」

これまで、ロシア人に対して抱いていたイメージはなんだったんだろう?
イギリス人の、「日露戦争で日本が勝ったのは、イギリスのおかげだ」、
トルコ人の、「日本は負けて、“ロシアの植民地”になるものと思っていた」、
フィンランド人の、「“国存亡の危機”だった」、
インドの初代首相、ネルーは、「日本の勝利に血が逆流するほど“歓喜”した」、
中国の建国の父、孫文は、「日本の勝利は、“大きな希望”を抱くに至った」、
チェコ人は、「世界のだれも、助けてくれなかった!」、
前のローマ教皇のヨハネ・パウロ2世は、「恐れてはいけない」。

日本に来るのは初めてというニコライは、礼儀をわきまえていた。
日本人とのつき合う礼儀作法を、あらかじめ学習していたのだろう?
肩幅があって身長も高い大男は、厚手の皮のハーフ・コートに、
生地が厚くて、しっかりした背広を着て、身だしなみはちゃんとしていた。

それに、おみやげまで用意していた。(私はワイロに弱い?)
ニコライと会談して、ロシア人に抱いていたイメージが、変わった。
相手を圧倒する高圧的なところ、攻撃性は、これっぽっちもない。
ニコライとの会談は楽しかった。人間性を感じた。

ロシアの地下には自然資源というが埋まっている。年々、金を堀出せばいい。
その自然資源と、顧客満足によるビジネス感覚が備われば、強国がよみがえる。
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