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満蒙開拓団のトップは長野県

2013-05-26 00:03:00 | Weblog
長野県の阿智村に「満蒙開拓平和記念館」が開館した。

2013年4月25日のオープニングの日に行ってみると、
待ちわびたように、多くのお客さんが詰めかけていた。
外で記念撮影をしている。報道関係者がいる。
入口(左)には、花輪が並んでいる。

どうして、阿智村に「開拓平和記念館」ができたのか?
以前に書いたブログ、
満蒙開拓団は阿智村に注目」、2012年6月17日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/02ca44747cd22e2cabad80c3b680f36d
を参照してください。
1) 長野県は、「満蒙開拓団」を、
全国一、多く送り出している。
2) 阿智村を含む伊那谷が、長野県の中で、
「満蒙開拓団」を一番多く、送り出している。
3) 阿智村の旧清内路(せいないじ)村では、
村の人口の2割近くが、満州に渡っている。
4) 阿智村の「長岳寺」の住職、山本慈昭(じしょう)さんは、
「残留孤児」を捜し、帰国のために奔走した。
5) 阿智村に、「満蒙開拓平和記念館」が建設される。
6) 阿智村で、「戦争ポスター」135枚が、見つかった。
と、書いてある。

「チケット」を買った。


「満蒙開拓平和記念館」の中では、
「満州開拓団」で、生きて引き揚げることができた人でしょう?
満州に渡った経路、逃げ延びた経路を、満州の地図で指さしている。

ここから満州に入って、ここに入植した。
そして、敗戦で「地獄の逃避行」になって、
最後は収容所に入れられたが、何とか生き延びて、
舞鶴にもどってきた。だが、半数の人が亡くなった、
襲撃、飢え、発疹チフス、子どもを河に投げ捨てる、
それに、青酸カリを飲む集団自決・・・、
「生き地獄だった」
というのが聞こえてくるようだ。

この生きて日本に引き揚げてきた人たちの中に、
私は入っていけない。あまりに悲惨な人生だ。
話しかけかける「言葉」がみつからない。
きっかけになる話題がない。

どうして「満州開拓団」として満州に渡ったのだろうか?
これが私の関心。
移民募集」のポスターがあった。

拓け満蒙!
行け満洲へ!
資格 33歳以下(徴兵検査未了者を除く)にして身体強壮の者
政府の補助 1戸に付1,000円、その他諸種の便宜あり

それに、「満蒙開拓平和記念館」には、
日中戦争下における満州開拓の展開と満蒙開拓青少年義勇軍の創設
という資料があった。
県別の満州開拓団員数と満蒙開拓青少年義勇軍がわかる。
「満州開拓団」と、「満蒙開拓青少年義勇軍」の
出身県別のトップ10を作成した。つぎになる。


「満州開拓団」として満州に渡った人は22万人である。
そして、出身県別のトップは長野県で3万1千人が渡っている。
全体の14%で、ダントツである。
2位山形県、3位宮城県、4位熊本県、5位福島県が続く。

つぎに、「満蒙開拓青少年義勇軍」。
満蒙開拓青少年義勇軍募集」のポスター。

往け若人! 北満の沃野へ!!」、
「詳細は市町村役場へ」。
長野県」が作成したポスターである。

青年は、北満に国旗を掲揚し、
後ろでは、ヤマトタケル? が右手に弓、左手に剣を持っている。

「満蒙開拓青少年義勇軍」とは、
15歳~19歳の青少年を募集し、
茨城県の内原訓練所で、3ヶ月訓練してから、
「北満」、つまり、ソ連国境の奥地へ送り込み、国境警備にあてた。


「満蒙開拓青少年義勇軍」として満州に渡った人は10万人である。
出身県別のトップは長野県で6千600人が渡っている。
全体の6.5%で、ダントツである。
2位広島県、3位山形県、4位新潟県、5位福島県が続く。

「満蒙開拓団」は、農業移民の「満州開拓団」と、
武装農業移民の「満蒙開拓青少年義勇軍」になる。
「満州開拓団」と、「満蒙開拓青少年義勇軍」の合計は、つぎになる。


「満州開拓団」と「満蒙開拓青少年義勇軍」の合計は32万人である。
出身県別のトップは長野県で3万8千人が渡っている。
全体の11.8%で、ダントツである。
2位山形県、3位熊本県、4位福島県、5位新潟県が続く。

当時の長野県、富士見村の経済状態の資料があった(1937年)。
農家の平均年収は479円だった。
「移民募集」のポスターを見ると、政府の補助は、
1戸に付1,000円だから、収入の2年分に相当する。
しかし、農家の負債(借金)が、1戸当たり734円あった。
満洲へ行くと、借金が返済できて、266円が手元に残り、
そのうえ、満州では20町歩がもらえる、ということになる。

農林省の「経済更生指定村」になった富士見村は(1937年)、
分村移民」を決議した(1938年)。そして、
860戸のうち2割にあたる173戸が、満州に渡った(1939年)。

さて関心である、どうして「満州開拓団」として満州に渡ったのか?
養蚕で生計を立てていたが、繭(まゆ)の価格が3割ほどになって、
生活がたちゆかなくなった。多額の借金が残った。
しかも、次男・三男に引き継ぐ田畑はない。
生きていくためには、どうしようもない、
満州への「国策」(1936年)、
20年で100万戸、500万人の移民計画」、
「満州は日本の生命線」、
20町歩の地主になれる
満州に分村移民するしかない。
「満州開拓団」である。

そして、敗戦
どのくらいの人が帰国できたのだろうか?
長野県満蒙開拓団・旧郡市別一覧表」があった。
この表から、長野県の「満蒙開拓団の帰国者比率」の表を作成した。

32.992人が満洲に渡ったことになっているが、
前に掲げた表の37.859人とは違っている。
転載したところが違っているためである。

帰国者は16,949人で、51.4%が帰国することができたが、
未帰国者は16,043人で、48.6%が帰国できなかった。
半分の人が帰ってくることができなかったことになるが、
この未帰国者16,043人の内訳は、
死亡が14,940人で、93%を占めている。
残りは、残留者890人、6%と、
不明者213人、1%である。

「満蒙開拓平和記念館」に詰めかけた人たちは、
母を失ったかもしれない、
父を失ったかもしれない、
兄弟を失ったかもしれない、
家族の半数を失って、生きて、
引き揚げることがてきた人たちである。
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チェコ・シリーズ4

2013-05-19 00:00:37 | Weblog
チェコ」シリーズの4回目。
プラハの景観は、建物の高さは厳しく制限されている。
屋根はレンガ色と色調が統一されている。
広告看板は見当たらない。
電柱、電線がない。
鉄塔がない。
樹木が多い。
屋上には、水タンクや空調機械がない。

チェコに関するブログはつぎです。
1)「チェコもヨーロッパへの回帰」、2008年6月13日、
2)「チェコの二つのプラハの春」、2008年6月17日、
3)「プラハの春の音楽祭」、2008年6月21日、
4)「チェコの世界遺産」、2008年6月26日、
5)「トラバントは生産中止に、シュコダはフォルクスワーゲンの子会社に」、
  2009年4月5日、
6)「西ドイツのBMWと東ドイツのトラバント」、2008年8月16日、
7)「経済戦争で、計画経済が市場経済に負けた」、2009年4月8日、
8)「プラハの春のおもかげは、「共産主義の犠牲者たちを記念して」」、
2009年4月12日、
9)「プラハの春からビロード革命まで、21年の悲惨」、2009年4月15日、
10)「日本人のアイデンティティを生む、日本の5つの特徴」、2009年4月22日、
11)「三十年戦争のはじまりとなったプラハ城の窓」、2009年4月25日、
12)「チェコの通知表」、2009年5月3日、
13)「世界の通知表をみる」、2009年11月29日、
14)「プラハの景観」、2010年12月1日、
15)「プラハのランドマークはプラハ城」、2010年12月5日、
16)「世界で一番悲惨な言葉」、2012年7月8日、そして、
17)「ミュシャがプラハから東京へ」、2013年4月21日。
合計17になる。

「チェコ」シリーズの第4回は、つぎの14)~17)。
14)「プラハの景観」、2010年12月1日、
15)「プラハのランドマークはプラハ城」、2010年12月5日、
16)「世界で一番悲惨な言葉」、20120年7月8日、そして、
17)「ミュシャがプラハから東京へ」、2013年4月21日。

「チェコ」シリーズ4の閲覧状況はつぎです。

長いタイトルは、短い文字でも検索した。

14)「プラハの景観」、2010年12月1日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/f2ec45e9b17b59f99f899bf46eed34c3
プラハは「百塔の都」と言われて、尖塔の建築が目立つ。プラハ城から。


尖塔の横に、とつぜんに高層マンションはない。
プラハは、尖塔が高い建物だ。
旧市庁舎」。

尖塔の中を昇って、市街を見渡すことができる。

ティーン教会」。

ティーン教会は、旧市街の広場を挟んで、
旧市庁舎前と向かい合っている。

インドジシェスカー塔」。

インドジシェスカー塔は、旧市庁舎よりも高い位置にあるから、
プラハ城をはじめ、市街を見渡すことができる。
天辺は狭いが、観光客がいないから、ゆっくりできる。

プラハ市街」。インドジシェスカー塔から。

Pはプラハ城、手前のCは旧市庁舎、Tはティーン教会。
街の景観を見るときの指標があって、
それでプラハの景観を見る。
尖塔が一番高い建物で、建物の高さは厳しく制限されている。
尖塔の横に、とつぜんに高層マンションはない。
屋根はレンガ色と色調が統一されている。
広告看板はないか、あっても小さい。
電柱、電線がない。
鉄塔がない。
樹木が多い。
屋上には、水タンクや空調機械がない。

プラハは「百塔の都」といわれて、
多くの尖塔があり、美しい街である。

15)「プラハのランドマークはプラハ城」、2010年12月5日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/900441be95fd751a1fcfc0b522191d01
プラハ城は、丘(フラッチャニ)の上にあるから、
モルダウ川にかかるカレル橋からも遠望できる。

中央に尖塔のある聖ヴィート大聖堂、
手前の赤い屋根の旧王宮が見えて、
プラハ城は、これらを集めたもの。
プラハ城は、「プラハ歴史地区」として、
カレル橋も含めて世界遺産になっている。


16)「世界で一番悲惨な言葉」、2012年7月8日、そして、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/fcf4277fc8980498f33ba971795098a6
チェコ人の「世界のだれも、助けてくれなかった!」、
を写真で示すと、プラハのヴァーツラフ広場にある「慰霊碑」である。

“IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM”
「共産主義の犠牲者たちを記念して」

「世界のだれも、助けてくれなかった!」
と、チェコ人が言うのは、つぎである。
アメリカは、
ソ連のチェコ侵攻は国連憲章に反する内政干渉で、
即時撤退をすべきだ、としたが、
国際連合安全保障理事会で、
ソ連は拒否権を行使して、
葬(ほうむ)り去った。

そのとき、アメリカはヴェトナム戦争が泥沼状態だったから、
共産主義陣営の内輪もめには、これ以上、
手出しができなかった。

チェコには、
身内の共産主義陣営からも、
民主主義陣営からも、
援助の手は差し伸べられなかった。

世界から見捨てられたと感じた。
「世界のだれも、助けてくれなかった!」
「つらい時期」は、1989年に無血革命(ビロード革命)で、
共産党政権を倒すまで、21年間も続いた。
「どうしようもない、つらい時期だった」
「この悲惨な状況は21年続いた」

日本の慰霊碑。
日中友好不再戦の碑」、阿智村の長岳寺。

「旧西部8ヶ村から終戦前に、
王道楽土建設の名のもとに、
誤った軍国主義政治のため、かりたてられて、
中国に渡ったこの地方の開拓民は、
およそ900名に及び、
内600名の犠牲者を出した。
この不幸な体験から
『戦争はまっぴらだ、
2度とあんな目にあいたくない
中国と仲よくしよう』
と私達は心から誓って、
関係者1万余名の浄財カンパにより、
この碑を建立した」

まさしく、
「軍国主義の犠牲者たちを記念して」の碑だ。
「軍国主義」は国民を「幸せ」にするものではない。
「軍国主義」との決別を表している。


17)「ミュシャがプラハから東京へ」、2013年4月21日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/34973a8a86b82bc533a826f50ba8b006
東京の「森アーツセンターギャラリー」に「ミュシャ展」がきた。
ジスモンダ」。

絵はがきから。

女優サラ・ベルナールからの依頼を受けて制作したポスター。
上から、演目の「ジスモンダ」、
主演の「サラ・ベルナール」の文字と、
なつめやしを持つサラ・ベルナール、
そして、上演される「ルネサンス劇場」。

このポスターは、サラ・ベルナールのお気に入りになり、
以後6年、専属契約でポスターを手がけるとともに、
ミュシャの名声が確立した作品である。

チェコについて、これまでに17のブログがあった。
それらは、プラハの春、チェコ事件、ビロード革命、
シュコダ、経済戦争、三十年戦争、共産政権の崩壊、
プラハの春の音楽祭、通知表、ミュシャ、ビール、
(これは「世界がみる日本の魅力と通知表」を参考にしてください)、
景観、ランドマーク、などである。
チェコの理解に参考になれば幸いである。

また、これからチェコを訪問する人は、
見所の参考にしてください。
例えば、
民主化運動、プラハの春の痕跡である、
「慰霊碑」をヴァーツラフ広場に見に行く、
「三十年戦争」の始まりとなったプラハ城の窓を見る、
「ピルスナー・ビール」のウルケルをパブで飲む、

左にウルケルと手前は各種ハムの組み合わせ。

フィンランドの「芸者チョコレート」がプラハでも売っている、


プラハの「春の音楽祭」で、チェコ・フィルハーモニーの演奏を、
本拠地のルドルフィヌムか、市民会館のスメタナ・ホールで聴く、
ユダヤ人がいなくなった、ユダヤ人地区でシナゴークを訪れる、
ミュシャのステンドグラスをプラハ城で見る・・・、
あなたのオリジナルをつくることができる。
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チェコ・シリーズ3

2013-05-12 00:05:12 | Weblog
チェコ」シリーズの3回目。
三十年戦争」は、チェコがはじまりである。
チェコの「プラハ城」にプロテスタント派が入り込み、
カトリック派のフェルディナント2世(後の神聖ローマ皇帝)の、
補佐官3人を、窓から放り投げて、三十年戦争がはじまった(1618年)。
1848年まで続いた三十年戦争で、ヨーロッパは疲弊した。
ドイツは廃墟となり、2,100万人の人口は、
1,350万人になった。

チェコに関するブログはつぎです。
1)「チェコもヨーロッパへの回帰」、2008年6月13日、
2)「チェコの二つのプラハの春」、2008年6月17日、
3)「プラハの春の音楽祭」、2008年6月21日、
4)「チェコの世界遺産」、2008年6月26日、
5)「トラバントは生産中止に、シュコダはフォルクスワーゲンの子会社に」、
  2009年4月5日、
6)「西ドイツのBMWと東ドイツのトラバント」、2008年8月16日、
7)「経済戦争で、計画経済が市場経済に負けた」、2009年4月8日、
8)「プラハの春のおもかげは、「共産主義の犠牲者たちを記念して」」、
2009年4月12日、
9)「プラハの春からビロード革命まで、21年の悲惨」、2009年4月15日、
10)「 日本人のアイデンティティを生む、日本の5つの特徴」、2009年4月22日、
11)「三十年戦争のはじまりとなったプラハ城の窓」、2009年4月25日、
12)「チェコの通知表」、2009年5月3日、
13)「世界の通知表をみる」、2009年11月29日、
14)「プラハの景観」、2010年12月1日、
15)「プラハのランドマークはプラハ城」、2010年12月5日、
16)「世界で一番悲惨な言葉」、20120年7月8日、そして、
17)「ミュシャがプラハから東京へ」、2013年4月21日。
合計17になる。

「チェコ」シリーズの第3回は、つぎの10)~13)。
10)「 日本人のアイデンティティを生む、日本の5つの特徴」
11)「三十年戦争のはじまりとなったプラハ城の窓」、2009年4月25日、
12)「チェコの通知表」、2009年5月3日、
13)「世界の通知表をみる」、2009年11月29日、

「チェコ」シリーズ3の閲覧状況はつぎです。

長いタイトルは、短い文字でも検索した。

10)「日本人のアイデンティティを生む、日本の5つの特徴 」、
2009年4月22日
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/552add9be8b150489781bc2d561218d1
世界の市民は、日本人の「アイデンティティ」を、
「日本人は、優れた創造力とテクノロジーがあり、
国を発展させた高い能力がある」。それに、
「独自の文化を育て、文化財を保護している」
と、みていた。

この日本人のアイデンティティは、どうして生まれたのだろうか?
世界の市民に触れ、外から日本をみると、日本の特徴として、次がある。
「改善をする遺伝子」をもっている、
「子どもの教育」に力を入れている、
「排他的な宗教」ではないし、偏狭ではない、
「治安のいい街」で、「美しい自然」がある。そして、
「民主主義陣営」に属した、ことが挙げられる。


11)「三十年戦争のはじまりとなったプラハ城の窓」、
2009年4月25日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/1c06f33ba496c5692b8606fc740c371f
「三十年戦争」は、チェコがはじまりである。
チェコのプラハ城にプロテスタント派が入り込み、
カトリック派のフェルディナント2世(後の神聖ローマ皇帝)の、
補佐官3人を、窓から放り投げて、三十年戦争がはじまった(1618年)。

ツアー・ガイドは、左に突き出た城(ルドヴィーク翼)の、
左の端、上から2番目の窓を指して、
「ここから、15メートル下に放り投げたが、
ゴミ置き場の上で、助かりました」
と、話す。
地面にある、とがった⇒モニュメント」が場所を示す。

そのプラハ城の遠景。手前はモルダウ川。

今では、平和な眺めだが、三十年戦争当時は、
「フェルディナント2世の軍によって、
プロテスタントは敗北し、
モルダウ川は、死体であふれていました」
と、ツアー・ガイドは言う。

プロテスタントとカトリックは、殺戮を繰り返して、
ヨーロッパは疲弊し、1648年にやっと、
講和が成立して三十年戦争は終わった。
この三十年戦争で、ドイツは廃墟となり、
2,100万人の人口は、1,350万人になった。

1618年に三十年戦争がはじまるが、
その前に、「ヤン・フス」による宗教改革運動があった。
プロテスタント運動の先駆けで、ヤン・フスは、
1415年に火あぶりの刑になっている。

そのヤン・フスの像が、
プラハの旧市街の広場にある。


この旧市街の広場には、「天文時計」のある旧市庁舎があるが、

ヤン・フスの像は、この天文時計がある旧市庁舎の右奥になる。

天文時計の上部の窓から、時間になると、人形が表れ、
それを見る観光客で、天文時計の前は埋まる。

ハプスブルク家の支配下にあったチェコは、
チェコ語が禁止され、ドイツ語が強制された。
チェコ語が許されたのは、「人形劇」の中だけだった。

三十年戦争を経験し、チェコ語が禁止され、
第2次世界大戦後では、共産政権下でプラハの春、
ビロード革命を経験した。大変な忍耐が要求されてきた。
チェコは、国民一人当たりのピルスナー・ビールの消費量が世界一である。
これは、忍耐とウサを晴らすため?


12)「チェコの通知表」、2009年5月3日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/1877d8a8e56fd5b5c54ec257381f5593
「世界の表彰・評価」から、「指標」を定めて、「数値」で、
「チェコの通知表」を見る。2009年。

ランク…AA=3位以内 A=10位以内 B=20位以内 C=30位以内 D=40位以内。
1)創造力: ノーベル賞の受賞者1人は21位→ランクC。
2)芸術力: カンヌ映画祭でパルム・ドール受賞作品1は11位→ランクB。
3)学力:  PISA2006の15歳の知識と技能は19位→ランクB。
4)文化力: 文化遺産は12で12位→ランクB。
5)運動力: サッカーのランキングは12位→ランクB。
 陸上競技世界記録は、3人は8位→ランクAを採用。
6)経済力: 国民総生産は38位→ランクD。
7)援助力: 政府開発援助国ではない→ランクF。
8)総合力: ランクC。



[総合評価]
「経済力」は、これから再興を目指し、
「援助力」は、援助を受ける国であることから、
レーダーチャートがいびつになっている。

「文化力」が高い。
国土が日本の5分の1で、人口が1千万人を考えると、
文化遺産の12はりっぱだ。日本は11。
この文化遺産は、共産政権になる前の文化である。
共産政権下では、文化遺産は荒れ放題になったが、
半世紀ぶりに民主主義体制になり、整備して、世界遺産になっている。

「芸術力」として、チェコ・フィルハーモニーがある。
ドヴォルザークが指揮した初演からの長い歴史があり、
世界一級とされて、世界各地を駆け巡って演奏している。
チェコ・フィルハーモニーの本拠地、ルドルフィヌム。

音楽祭「プラハの春」では、会場の一つになる。
青いバナーは、音楽祭が開催中であることを示す。
手前、中央はドヴォルザーク像。

「学力」は、PISA2006では、19位と健闘している。
「運動力」は、ほかに、
アイスホッケーは世界のトップ・レベルにあり、
テニスでは、プロ選手のマルチナ・ナブラチロワ、
イワン・レンドルがいる。
体操の女王チャスラフスカもなつかしい。
オリンピックの女子体操個人総合で、
1964年の東京と、1968年のメキシコで2連勝した。

「総合力」は、さらに経済力をつけ、やがて、政府開発援助国になれば、
面積が大きく、バランスのとれたレーダーチャートになる。

チェコは、三十年戦争、共産主義体制下と、
何世紀も困難な歴史を体験してきた。
国の荒廃から復興を目指しているが、
国土が日本の5分の1、
人口が1千万人を考えれば、
りっぱな通知表である。


13)「世界の通知表をみる」、2009年11月29日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/1c4bb88e4758029a0b22dc32eb530361
ノーベル賞をベースにして、指標の順位をみる。




ノーベル賞が同順位の場合は、ODA、GDPを優先。赤い数字は、10位以内。
*印は、ブログで通知表を扱った国。
アジア、オセアニアでは、日本、中国、韓国、香港、台湾、シンガポール、
オーストラリア、の7か国。
南北アメリカでは、カナダ、アメリカ、メキシコ、コスタ・リカ、ブラジル、
ウルグアイ、アルゼンチン、の7か国。
ヨーロッパでは、フィンランド、スウェーデン、イギリス、アイルランド、
フランス、ドイツ、ベルギー、オランダ、デンマーク、オーストリア、スイス、
イタリア、スペイン、ポルトガル、ポーランド、チェコ、ブルガリア、
ギリシャ、トルコ、ロシア、の20か国。
アフリカでは、チュニジア、ケニア、南アフリカ、の3か国、合計37か国。

8)共産国、もしくは旧共産国の特徴として、
ノーベル賞、カンヌ映画祭、PISAが不振である。
ハンガリー(18位、-、26位)、ポーランド(20位、11位、23位)、
チェコ(20位、11位、19位)、中国(-、-、-)、ブルガリア(-、-、44位)。
ただし、東ドイツとソ連は、ドイツ、ロシアとして、つぎになる。
ドイツ(3位、8位、17位)、ロシア(7位、8位、36位)。
(ノーベル賞、カンヌ映画祭、PISA)。

9)共産国、もしくは旧共産国は、国内総生産GDPが低く(ロシア、中国を除く)、
政府開発援助国ではない。政府開発援助ODAを受ける国である。
ロシア(8位、-)、ハンガリー(51位、-)、ポーランド(18位、-)、
チェコ(39位、-)、中国(3位、-)、ブルガリア(71位、-)。
(国内総生産GDP、政府開発援助ODA)。

10)共産国、もしくは旧共産国は、
陸上競技世界記録と世界遺産が多い。
ロシア(1位、10位)、ハンガリー(-、24位)、ポーランド(-、12位)、
チェコ(8位、12位)、中国(7位、5位)、ブルガリア(12位、24位)。
世界遺産は、共産政権になる前のものである。
(陸上競技世界記録、世界遺産)。

11)共産国、もしくは旧共産国は、ノーベル賞、カンヌ映画祭、PISAが不振で、
陸上競技世界記録が好成績、共産政権前の世界遺産が多い、ということになるが、
これは、革命を追い続ける体制が、創造力、芸術力、学力を育まなかった。
共産主義体制になる前は、文化力があった。そして、
国威の発揚は、運動力(競技大会)に求めた。
経済振興は遅れ、政府開発援助ODAを受ける国となった。

ここからは、私の本の宣伝です。
検索サイトで、
「チェコの通知表」、あるいは、
「世界の通知表」と検索すると、
「世界がみる日本の魅力と通知表」がでてきます。
これは私の本です。チェコのことを含めて世界15か国、
それに、世界からみた日本のことが書いてあります。
つぎのような書評もいただいています。
「世界が、各国が、日本が、そして戦後史が、
よくわかる優れものであると実感しました」、
「世界に範たる国、日本で生まれ育ったことを誇りに思い、
もっと大らかに生きていこうと、この本を読みながら、
気持ちを切り換えました」
参考にしてください。
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チェコ・シリーズ2

2013-05-05 00:10:01 | Weblog
チェコ」シリーズの2回目。
東西が「冷戦状態」で、
まだ「ベルリンの壁」があったときにチェコを訪問している。
まさかと思ったその「ベルリンの壁」が崩壊した。
1989年11月だった。
東欧革命」が吹き荒れた。
チェコは、「プラハの春」から「ビロード革命」を経て、
共産主義」陣営から、「民主主義」陣営へ移行する。
「プラハの春」は1968年、「ビロード革命」は1989年だった。

チェコに関するブログはつぎです。
1)「チェコもヨーロッパへの回帰」、2008年6月13日、
2)「チェコの二つのプラハの春」、2008年6月17日、
3)「プラハの春の音楽祭」、2008年6月21日、
4)「チェコの世界遺産」、2008年6月26日、
5)「トラバントは生産中止に、シュコダはフォルクスワーゲンの子会社に」、
  2009年4月5日、
6)「西ドイツのBMWと東ドイツのトラバント」、2008年8月16日、
7)「経済戦争で、計画経済が市場経済に負けた」、2009年4月8日、
8)「プラハの春のおもかげは、「共産主義の犠牲者たちを記念して」」、
2009年4月12日、
9)「プラハの春からビロード革命まで、21年の悲惨」、2009年4月15日、
10)「 日本人のアイデンティティを生む、日本の5つの特徴」
11)「三十年戦争のはじまりとなったプラハ城の窓」、2009年4月25日、
12)「チェコの通知表」、2009年5月3日、
13)「世界の通知表をみる」、2009年11月29日、
14)「プラハの景観」、2010年12月1日、
15)「プラハのランドマークはプラハ城」、2010年12月5日、
16)「世界で一番悲惨な言葉」、20120年7月8日、そして、
17)「ミュシャがプラハから東京へ」、2013年4月21日。
合計17になる。

「チェコ」シリーズの第2回は、つぎの6)~9)。
6)「西ドイツのBMWと東ドイツのトラバント」、2008年8月16日、
7)「経済戦争で、計画経済が市場経済に負けた」、2009年4月8日、
8)「プラハの春のおもかげは、「共産主義の犠牲者たちを記念して」」、
2009年4月12日、
9)「プラハの春からビロード革命まで、21年の悲惨」、2009年4月15日、

「チェコ」シリーズ2の閲覧状況はつぎです。

長いタイトルは、短い文字でも検索した。

6)「西ドイツのBMWと東ドイツのトラバント」、2008年8月16日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/85526e7526f5ae6a30938b6ab3cdae3b
共産政権の崩壊は、「経済戦争」が遠因である。
「計画経済は市場経済に負けた」という市民の反応を、
西ドイツのBMWと東ドイツのトラバントにみた。
それは、東ドイツのハレという町で開催された、
国際見本市でのことである。

国際見本市」の会場。ハレ。1989年3月。

中央の尖塔には赤いが掲げられ、
会場の前には、レーニンの大きな頭像がある。

まだ、ドイツが東西に分割されていた。それに、
ベルリンは、「ベルリンの壁」で東西に分断されていた。
ベルリンの壁」。1988年。

西ベルリンの仮設スタンドから東ベルリンを眺める。

東西ベルリンを遮断する「一式」が、ここにはある。
手前の「ベルリンの壁」、奥にある「内側の壁」、その間の「無人地帯」、
無人地帯にある「照明」と中央に白くある「監視塔」。
監視塔の上には「サーチライト」、
黒い部分から、無人地帯を越える人を監視し、
下にポツンとある「銃眼」から射殺する。
銃眼は4面にある。

このベルリンの壁が崩壊するのは、1989年11月で、
東ドイツのハレを訪れたのは、1989年3月。
まさか、8か月後にこのベルリンの壁が崩壊し、
1年後の1990年に東ドイツが崩壊するとは、
思いもよらなかった!

東西ドイツが統一するのはであり、
それに、流血の惨事がある、
と思っていた。

そのハレの見本市会場の脇には、赤いBMWが駐車していた。
ナンバープレートから、西ドイツからの出展者の車だ。

見本市を見にきた東ドイツの若者たちが、
ひきも切らずに集まって来ては、
BMWの中をのぞきこみ、外も観る。
スタイルや性能、塗装、内装、材料、装備、環境対策……が、
東ドイツの国民車トラバントとは段違いだ。

「西側の連中は、こんなにいい車に乗っているのか?」
と、設計の思想と、それを実現できた技術力にショックを受け、
「追いつくのは難しい、トラバントは完全に負けている!」
と、いけないものを見たかのように、すごすごと去っていく。

これは、生きた見本市だ!
近未来の製品を展示したわけではない。
技術の差は歴然で、安全や公害対策も遅れている。
計画経済は負けていることを、東ドイツの市民は、肌で感じた。
くやしいだろうな? 自分の国が劣っているわけだから。
そして、自分の国は1年後になくなる。
東ドイツが崩壊する直前を見た。

チェコの車に「シュコダ」。2006年。

シュコダは、トラバントと同じように技術レベルが低かった。
まったく魅力がない、売れない。これでは市場経済では、勝てない。
企業として生き残れないから、共産政権が崩壊すると1990年に、
ドイツのフォルクスワーゲンに買収された。

西の市場経済では、スタイル、性能、デザイン、価格、
品質、安全、環境対策……において、厳しい競争をして、
優秀な製品や、市場に適合したものだけが生き延びて、
デファクト・スタンダード」(実質的な標準)になった。

「お上に逆らわずに、決められたとおりに働いていれば、給与はもらえる」
という、半世紀も続いた共産政権の無気力状態では、
市場経済では勝てない。
共産政権が崩壊したのは、内部の「腐敗や無気力」のほかに、
市場経済と計画経済による、「経済戦争」の結果が遠因である。
武力戦争」の結果ではない……自由主義国家と共産主義国家が、
直接ドンパチして、共産主義国家が滅びたわけではない。

西ドイツのBMWと東ドイツのトラバント、
西ドイツのフォルクスワーゲンとチェコのシュコダ、
市場経済と計画経済による「経済戦争」の決定的な優劣を
目の当たりにした。


7)「経済戦争で、計画経済が市場経済に負けた」、2009年4月8日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/89109cc9c5fcb8382a7c20c1142dc23f
「父は、仕事がなくても国営工場に行って、給料をもらっていた。
さからわずに、工場にいれば給料がもらえるし、解雇はなかった」
これは、チェコ人、ロマーンが、共産政権下にあったときの、
チェコについて、話したものである。

ソ連が崩壊した原因は、ミハイル・ゴルバチョフの政治改革、
ペレストロイカと情報公開グラスノスチによる民主化である。

共産主義体制が崩壊した遠因は、「経済戦争」である。
東西が、ドンパチの「武力戦争」をしたのではない。
「計画経済」が、「市場経済」に負けたのである。

「計画経済が市場経済に負けた」ことを示す事例はないか?
ソ連の車「ラーダ」と、チェコの車「シュコダ」がある。

ラーダ」をチェコで見た。2006年。

ラーダには塗装のムラがあり、サビがあるが、まだ堂々の現役だ。
後方の黄色の車は、チェコの新しい「シュコダ」である。

チェコは、1989年の「ビロード革命」(無血革命)で、共産政権が倒れた。
チェコのビロード革命は、ベルリンの壁が崩壊したことによって、
勢いがついて成功し、民主主義国家、チェコ共和国が生まれた。
1989年は、チェコにとっても、劇的な変化が起きた年である。

そして、シュコダは西ドイツのフォルクスワーゲンの子会社となった。
その新技術で製造された新しいシュコダである。

「赤のラーダを買うか? 黄色のシュコダを買うか?」
シュコダがフォルクスワーゲンの子会社になったことが回答である。
ラーダには、技術力がないことは、明らかである。

共産主義体制の計画経済で、いくら優れた指導者が、
企画・開発した製品でも、世界規模の市場経済では、
まったく競争力がなかった。

国には売れるものがない。売れない。
それで、共産政権は立ち行かなくなった。
一党独裁による硬直、内部の腐敗、無気力、
それに、計画経済の破綻で、国は破滅状態になった。

「父には、利益を生み出して、給料を稼ぎ出そう、という意識や、
能力を向上して、実績を上げれば、給料が上がる、という発想には、
なじめないでいる」
と、ロマーンは言う。
言われるままにやっていればよかった、
国家公務員に共通するとまどいだ。

「共産主義から民主主義になったが、生活はちっとも良くならない。
仕事がなくても国営工場に行って、給料をもらった昔の方が良かった、
と言うのです」

市場経済に移行したから、きょうから生活が良くなる、
とはならなかった。たまった半世紀分の垢(あか)を、
これから、そぎ落としていく。

チェコは、「ヨーロッパへの回帰」を目指して、
2004年5月に、EUヨーロッパ連合に加盟した。
しかし、その前にすることがある。
西のNATO北大西洋条約機構という軍事同盟に加盟することである。
西への忠誠心を誓う「踏み絵」である。

「学校で、きのうまでだ、と教えられていたNATOに、
加盟することには抵抗がありました」
と、ロマーンは複雑な気持ちであったことを話す。

国が立ち行かなくなって体制が変わり、
敵軍に組み入れられた。
市民までが感じる「屈辱」だ。

「それまでは、ソ連を盟主としたワルシャワ条約機構に加盟していた。
1991年にソ連が崩壊して、当然、ワルシャワ条約機構も解消となった。
1999年にNATOに加盟して、ワルシャワ条約機構の軍事秘密を、
NATOにオープンにした」

「今では、NATOから軍事指導を受け、NATOに積極的に協力して、
ミサイルを配備する防衛計画にも取り組んでいます」
と言う。

「チェコが市場経済で世界と競合していくには、無気力状態から、
活力を取りもどさなければならないが、世代があと2回くらい、
代わらないとダメだ。半世紀も続いた共産政権の習慣や意識は、
すぐには変えられない」
と、ロマーンは言う。


8)「プラハの春のおもかげは、「共産主義の犠牲者たちを記念して」」、
2009年4月12日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/abada8a132c511457bc63fade5c9e442
世界のだれも、助けてくれなかった!
どうしようもない、つらい時期だった。
この悲惨な状況は、21年続いた」
これは、チェコ人、ロマーンの悲痛である。

「現地人から、こんな悲痛な叫びを、これまでに聞いたことがない」
だれに相談することもできない閉塞(へいそく)状態である。
日本人に言うからには、よほどの絶望状態だったんだろう。

21年続いた悲惨な状況とは、
1968年の「プラハの春」から、
1989年の「ビロード革命」までである。

「プラハの春」は、言論を自由にし、出版物の検閲を廃止し、
国外旅行の規制を緩和するという、民主化運動である。

このプラハの春は、ソ連との決別を意味したために、
1968年8月20日の夜11時、ソ連軍がチョコに侵攻して、
数十人の犠牲者をだし、プラハを占拠した。
チェコ事件である。
そして、ソ連はチェコの改革運動をやめさせた。

チェコの改革運動、
「政治を、国民の皆さんにもどしたい」
と、プラハの春を進めた、時の共産党第一書記、
アレクサンデル・ドゥプチェクは失脚した。

ソ連の戦車で占拠されたプラハのヴァーツラフ広場に行きたい。
できれば、プラハの春の「おもかげ」がないか?

プラハ一番の繁華街、ヴァーツラフ広場は、
市民と観光客でにぎわっていた。
正面に見える国立博物館に向かうと、
ヴァーツラフの銅像の手前に花壇があり、
その中に、手作りのようなシラカバの十字架があった。

小さい! 見落としそうだ。しかも、地面にある。
有刺鉄線で輪をつくって、十字架にかけてある。

幅80センチメートルほどの、黒いぴかぴかの石があって、
ヤン・パラフとヤン・ザイクの顔が写っている。
ヤン・パラフは、1948年8月11日から1969年1月19日、
ヤン・ザイクは、1950年7月3日から1969年2月25日、
とあるから、20年と18年の人生だったことになる。

手前の茶色の石には、3行の文があって、2行目は英語である。
IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM
共産主義の犠牲者たちを記念して
1行目はチェコ語で、3行目はドイツ語。ロシア語はない。
2人の学生の死の抗議の「記念碑」であり、
共産主義との「決別」である。

ソ連のチェコ侵攻で、プラハの春は終わった。
そして、「秘密警察」は弾圧を再開した。
チェコは「恐怖社会」にもどって、民主化運動をすれば、
仕事を失い、投獄され、人生を失う。大学生は退学させられる。
恐怖社会に、チェコ人は口をつぐんだ……ビロード革命まで、21年間も。
「どうしようもない、つらい時期だった」


9)「プラハの春からビロード革命まで、21年の悲惨」、2009年4月15日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/8b07996a29d81579bde2e8e789e4dd56
“IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM”
「共産主義の犠牲者たちを記念して」
「しかし、重い意味の言葉だな!」
共産主義との決別で、悲惨さを体験したチェコ人でなければ、
出てこない言葉だ。
それに、歴史の劇的な変化、
パラダイム・シフトを表す言葉だ。

この小さな記念碑から、
「世界のだれも、助けてくれなかった!
どうしようもない、つらい時期だった。
この悲惨な状況は、21年続いた」
と言う、チェコ人、ロマーンのやりきれない気持ちが、
ひしひしと伝わってくる。

「世界のだれも、助けてくれなかった!」
と、ロマーンが言うのは、つぎである。
アメリカは、ソ連のチェコ侵攻は国連憲章に反する内政干渉で、
即時撤退をすべきだ、としたが、ソ連は国際連合安全保障理事会で、
拒否権を行使して、葬(ほうむ)り去った。

そのとき、アメリカはヴェトナム戦争が泥沼状態だったから、
共産主義陣営の内輪もめには、これ以上、手出しができなかった。
身内の共産主義陣営からも、民主主義陣営からも、
チェコには、援助の手は差し伸べられなかった。
世界から見捨てられたと感じた。
「世界のだれも、助けてくれなかった!」
と、ロマーンの悲痛になったのである。

「この悲惨な状況は、21年続いた」
と、しぼり出すように言った。
1968年の「プラハの春」から、
1989年の「ビロード革命」までである。
希望が持てない生活、生命が脅かされる生活が、
21年も続くとは、絶望になる。

1969年の2人の学生の死の抗議が、
20年後の「ビロード革命」につながった。
それまで、口をつぐんでいたチェコ人が口を開いたのは、
1989年11月17日のデモ行進である。それは、第2次世界大戦で、
ナチスに殺害された学生の、追悼(ついとう)50周年のデモ行進だった。

それが民主化運動と重なって、学生に市民が加わり、
日ごとに広がって、1週間後には80万人にふくれた。
ロマーンは、ビロード革命は体験している。
「私たちは、素手なんだ」
「勝利すべきは、真実と自由だ」
と、掛け声をあげた。
1968年のチェコ事件で、
ソ連の戦車が占拠したヴァーツラフ広場は、
民主化を要求するチェコ人で埋め尽くされた。

この「無血革命」で共産党体制は崩壊した。
ビロードのようにやわらかかったことから、
ビロード革命とよばれ、そのとき、
イギリスに赴任していたから、
ニュースは身近に伝わってきた。

ビロード革命に先立つ1985年に、
ソ連では、ミハイル・ゴルバチョフが、
書記長になって、政治改革ペレストロイカを進めた。
東ドイツでは、1989年11月9日に「ベルリンの壁」が崩壊する、
歴史上の劇的な変化があって、ビロード革命を勇気づけている。
1989年は「東欧革命」の年で、東欧の共産党体制が次々と崩壊した。

ビロード革命は成功して、
言論は自由になり、出版物の検閲は廃止され、
国外旅行の規制はなくなり、市場経済に移行した。
ヨーロッパへの回帰」を目指して、EUに加盟した。
プラハの春からビロード革命まで、
21年の悲惨を体験したチェコは、
もう、あともどりはしない。したくはない。
ヨーロッパへ回帰し、EUに加盟して、国を復興させていく。

カレル橋で、親子の写真を撮らせてもらった。幸せそうだった。
後方はプラハ城。2006年。
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