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季節の変化

活動の状況

合掌土偶のなぞ

2012-01-29 00:01:29 | Weblog
合掌土偶」のなぞ
「合掌土偶」は、座って祈っているのか?
それとも、座ってお産をしているのか?

是川(これかわ)縄文館」で国宝「合掌土偶」に会えた。

青森県、八戸市。2012年1月。

最寄りのバス停「是川遺跡 縄文学習館」からは、
遠くに、豪華な建物が見えた。
なんかのクラブ・ハウスかホテルだろうと思った。

それで、近くには「竪穴(たてあな)住居」の復元があったから、
「あれだろう?」
と思って行ってみると、「縄文学習館」だった。
そこに案内板があって、それによって歩くと、
クラブ・ハウスと思った「是川縄文館」に着いた。

入り口には、レンガ造りの門があって、
雪かきをした長いアプローチが
「是川縄文館」の玄関に導く。

中央の切妻の屋根が玄関で、
その前には庭が広がり、
さらに前は広い駐車場。

中も豪華。空調は快適。

建物の写真撮影はOKだった。展示室内は、撮影禁止。

展示室を見学するが、受付でお嬢さんは、
ボランティアのガイドさんを付けてくれた。
たった一人のために。ありがたいことである。

「合掌土偶」が国宝に指定されたのが2009年7月。
国宝を記念して、2年後の7月に間に合わせて、
「是川縄文館」を造りました(2011年)、
と、ガイドさんは説明してくれた。

2階の右半分が展示室になっている。
「漆塗り」、「土器」、「とちの実」をさらすための「灌漑(かんがい)」、
縄文時代の後期から弥生時代まで続いたことなどを、
説明していただいた。
そして、待望の「合掌土偶」は展示室の最後の部屋、
国宝展示室にあった。

合掌土偶」。八戸市のホーム・ページから。

八戸市の風張(かざはり)1遺跡から出土。縄文時代後期。

「合掌土偶」は、ちょこんと、座っていた。
「尖石縄文考古館」で見てきた、
国宝「縄文のビーナス」、縄文時代中期(の広場から出土)や、


重要文化財「仮面の女神」、縄文時代後期(墓の上から出土)が、

大きく、威風堂々としていたのに比べると、
「合掌土偶」は小さい。

「縄文のビーナス」、約5000年前は、27センチ、2.14キログラム、
「仮面の女神」、約4000年前は、34センチ、2.7キログラム、
「合掌土偶」、約3500年前は、19.8センチ、1.05キログラム。

「合掌土偶」が国宝になった理由を、
ガイドさんは、進んで説明してくれた。

合掌しているようなポーズが特異だった、
4つの部品に分散していたが、全部そろった、
青森県の「三内丸山遺跡」の「板状土偶」のように、
これまでの土偶は、ゴミ捨て場から出てきたが、
シャーマン(占い師)の家の竪穴住居の奥から出てきた、
ことなどによって国宝に指定された。

「合掌土偶」が出たシャーマンの家、
第15号竪穴住居は、
バス停から見えたものだった。

「是川縄文館」に来るときに通った、
「縄文学習館」の庭に復元してあった。1993年。

右が第15号竪穴住居、広さは16.4畳、
左は第16号竪穴住居、広さは6.9畳。
さらに左奥は「縄文学習館」。

第15号竪穴住居の中。

4本の柱が住居を支え(写真には、左右に2本が写っている)、
床には丸太を敷いた席がある。
土間の中央には炉らしきがあって、
ドラム缶を短く切って、伏せてあったから、
実際の炉は見えなかった。

「合掌土偶」は、入り口から突き当たりの、
祭壇」にあったというが、
「祭壇」らしきはなかった。

この第15号竪穴住居を復元した1993年当時は
「合掌土偶」を置く「祭壇」は、
定説になっていないのだろう?

さて、「合掌土偶」を見ると、
腹はペシャンコで、妊娠はしていない。
おっぱいがあるから、女性であることはわかる。

「合掌土偶」が「祈り」の姿ならば、
男の「合掌土偶」があってもおかしくない。

男にだって「祈り」はある。
うさぎやカモが獲れるように、
(シカやイノシシはいなかった、と説明を受けた)
とちの実やクルミがたくさん採れるように、
天変地異がないように・・・、
と、男が祈る姿があってもいい。
しかし、「合掌土偶」は男ではない。

「合掌土偶」は、「祈り」か?
それとも「お産」か?
その間を揺れ動く。

正面から「合掌土偶」を見た。
女性器がはっきりと見えるではないか!

撮影禁止だから、写真がない。
「是川縄文館」のリーフレットに正面の図がある。


この図を見ると、お気づきでしょう。
「合掌土偶」の女性器は強調されている。
まず、大きい。
「仮面の女神」と比べてください。
はるかに大きい。
「縄文のビーナス」では、細部まで表現していない。

つぎに、「合掌土偶」の女性器は厚ぼったく盛り上がっている。
その盛り上がりは、なぜか、左上で切れていた。

ところが、「仮面の女神」の女性器は楕円形で、つながっている。
それが、「合掌の土偶」では、つながっていない。
左上と下の2か所で切れている。
掘り出したときに欠けたのではない。

そして、女性器はオープンにした。
脚にはスパッツらしきを着け、
腹にもなにかを着けている。

腕にも手甲らしきを着け、
背中を見たが、まとっている。
しかし、女性器は見てくれ! とオープンである。

「合掌の土偶」の作者は、
土偶全体のプロポーションに比べて、
女性器を、異常に大きくし、
厚くし、切れをいれ、
しかも、オープンにして、
強調して作った。

なぜだろう?
腹がペシャンコだから、臨月ではない。
では、「合掌土偶」はなぜ、女性器を強調したのか?

「合掌土偶」の作者のつもりで予想した。
「合掌土偶」は出産した後のポーズ。
わかりやすく、腹はペシャンコにした。
女性器は、出産のときに切れてしまった。

「合掌」しているのは、
子どもが生まれたうれしさ?
それか、死産の嘆き、悲しみ?

「合掌土偶」の表情を見ると、うれしそうではない。
「仮面をかぶっている、という説がある」
と、ガイドさんは説明された。

眉毛は太く、それに左右がつながっている。
鼻は、高くとがっていた。
これは、仮面のため?

はたして、「合掌土偶」は、どんなメッセージを伝えようとしたのか?
強調した女性器は、なぞ解きのヒントだ。
女性の産婦人科医か、
進んで発言する女性がいないと、
「合掌土偶」のポーズは、永遠のなぞになる。

最後に、ボランティアのガイドさん、
1時間半にわたって、ていねいに、
ご説明していただきました。
たった一人のために。

ありがとうございました。
来たかいがありました。
ボランティアのガイドさんは、
「是川縄文館」の財産です。
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福島市の放射線量2012年

2012-01-22 00:01:20 | Weblog
福島市の放射線量2012年は、どうだろうか?
2011年12月16日に、原発事故の「収束宣言」がでた。
圧力容器内が100℃以下におさえられて、「冷温停止」になった。
そして、「放射線量」は、年1ミリ・シーベルト未満が達成される、という。

「収束宣言」は、廃炉になったときだと思うが、
それでは、40年先になってしまう。気が遠くなる。
当面の区切りをつけたのだろう。

福島市の放射線量は、2012年になって落ちたのだろうか?
年1ミリ・シーベルト未満が達成されるのだろうか?
関心事である。

2012年1月14日、福島市で放射線量を測っていると、
福島の3人の男性が話しかけてきた。

「こんどは、どのくらいですか?」
以前に天神橋の西で測ったときに、話をした人。
3.33マイクロ・シーベルト毎時ですか? 増えていますね」
「こうして、放射線量を測って、教えてくれるから助かります」

「放射線量を測っているんですか? どのくらいですか?」
阿武隈川を、犬と散歩している人。
紅葉山(もみじやま)公園が高いって言われている。県庁のとなりです」

「放射線量を測っているんですか?」
紅葉山公園を、犬と散歩している人。
「側溝で測ってみてください」
27.4マイクロ・シーベルト毎時ですか!・・・」
「高いですね! 公表されている値だと低くて問題はなかったが」

国際放射線防護委員会(ICRP)は、毎時の被曝限度を、
0.52マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]と定めている。
0.50マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]以上になると、
放射線量計が警告するように設定してある。

福島駅に降り立って、福島市内を歩くと、
大概の場所で、ピッピッ、ピッピッと警告音が鳴る。
0.50マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]以上になったのである。
「ドギマギする!」

福島市を訪れた2012年1月14日は、
以前に放射線量を測った2011年9月6日から、
4ヶ月たっているが、毎時の被曝限度を超えている。

福島市の放射線量の結果は、つぎであった。


放射線量が0.52マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]を超えた場合は、
赤い数字で示した。
国際放射線防護委員会(ICRP)が被曝限度と決めた値で、
もし、0.52マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]を超えたら、
すぐに、その場を立ち去らなければならない。

放射線量を測った主なところは、
①福島駅-東、
②福島駅-東の駐車場、
③福島県庁、
④天神橋-西、
⑤親水公園/阿武隈川、
⑥紅葉山公園、である。

測った時期は、
1) 2011年6月30日、
2) 2011年9月6日、
3) 2012年1月14日、である。

放射線量の傾向は、
変わりがない場合は、「」、
10%以上の上昇は、「
10%以下の減少は、「↘」、で示した。

地図で、測った場所を示す。

この地図は福島駅前(現在地と表示されている)にある、
「福島駅周辺施設案内」を使って、
測った場所に①、②、③・・・⑥と、書き入れた。

主な場所の放射線量の写真を示す。
①福島駅-東。

2.17マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]。2012年1月14日。

2011年6月30日は、2.46マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]、
2011年9月6日も、2.46マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]だったから、
2012年1月14日の2.17マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]は、
10%ほど下がっている。。

③福島県庁。

2.99マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]。2012年1月14日。

2011年9月6日は、2.65マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]だったから、
2012年1月14日の2.99マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]は、
10%以上増えている。

④天神橋-西。

3.33マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]。2012年1月14日。

2011年9月6日は、3.18マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]だったから、
2012年1月14日の3.33マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]は、
10%以下の増加である。

測っていると、以前に話をした人が、
「こんどは、どのくらいですか?」
と聞いてきた。
「3.33マイクロ・シーベルト毎時ですか? 増えていますね」
と、ガッカリしていた。

「放射線漏れがあるようだ」
「公表されている値は低いから、空中の放射線量を測っているからだろう?」
「小学生がここを通るが、マスクをしなくなった。まだマスクが必要だ」
「こうして、放射線量を測って、教えてくれるから助かります」

なんと応えればいいのかわからない。
「まだまだ気をつけてください」
それしか、言えなかった。

紅葉山公園。側溝で。

23.6マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]。
格子は、側溝のふたで、土砂でつまっている。

「桁が違う!」
「なんかのまちがい!」
と思った。
「初めて経験する値だ!」

変化を見ていた。

すると、22.6マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]が撮れた。
まちがいなく、2桁だ!

犬と散歩をしていた福島の人といっしょに見ていたが、
「27.4マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]か!」
と、ビックリしていた。

27.4マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]の写真は撮れなかった。
が、2.74マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]ではない。
桁はまちがっていない。2桁を示した。
初めてみる高い値だ!

側溝の土砂落ち葉には、放射性物質がたまっている。

「今年は、落ち葉の清掃をしていない」
と、犬と散歩をしていた福島の人は言う。
「いつもは、落ち葉をかき集めるが・・・」
「汚染された落ち葉を集めても、処分したり、
持って行く場所がないからかな?」

確かに、落ち葉はかき集めていない。2012年1月14日。

紅葉山公園は、奥に見える阿武隈川と、
左(北)にある知事公館、手前(西)の福島県庁にはさまれ、
福島市の行政の中心に近い。

目が行き届かない公園ではないだろうが、
なぜか、落ち葉は放置してある。
人が通る散歩道だけ、落ち葉が少ない。

そして、福島の人は、
「あれが、モニタリング・ポストです」
と、示してくれた。
2人で近寄った。

左のモニタリング・ポストは地表から2メートル、
右のモニタリング・ポストは地表から50センチで、
空中に浮遊している放射線量を測っている。

「紅葉山公園の放射線量は公表されていない」
「なぜか? 聞いたら、
ちがう場所にある、基になるモニタリングの値を公表しているから、
と係員から言われた」

どなたか福島の人、確認してください。
紅葉山公園の放射線量は、公表されているか? どうか。
それに、紅葉山公園の側溝の放射線量は、
23.6マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]だったが、
こんなに高い値になるのか? どうか。
ほかに、側溝の放射線量は、測っているのか? どうか。

さて、福島市での「被曝量」はどのくらいか?
外で放射線量を測った2時間44分の被爆量は、
1.9マイクロ・シーベルト[μSv]だった。
これを、年間にすると、6ミリ・シーベルト年[mSv/y]になる。
安全基準である1ミリ・シーベルト年[mSv/y]を超えてしまう。

それで、福島市に滞在した被曝量を計算した。
夕方5時前に福島市のホテルに入って、出なかった。
そして、翌日の朝、福島市を出発するが、
福島市に滞在した19時間6分の被曝量は、
4.2マイクロ・シーベルト[μSv]だった。
これを、年間にすると、1.9ミリ・シーベルト年[mSv/y]になる。
安全基準である1ミリ・シーベルト年[mSv/y]を超える。

「収束宣言」はでたが、
福島市の放射線量は減っていない、
と考えて、行動されたほうがいい。
いっしょにいた福島市民は、高い放射線量に、
ビックリしたり、ガッカリしていた。


放射線を警告する看板は、まだまだ有効。
側溝にたまった土砂や落ち葉は、除去する必要がある。
そして、看板の「公園利用」は「外出」に置き換えればいい。
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岡本太郎が縄文美術を発見した

2012-01-15 00:01:15 | Weblog
岡本太郎が「縄文美術」を発見した。
弥生時代の埴輪(はにわ)から始まった日本の歴史の教科書を、
縄文時代から始まるようにしたのは、岡本太郎である。

それまでの「縄文土器」は、時代を考証する研究対象だったが、
岡本太郎が「縄文土器」を優れた芸術品とした。

「井戸尻考古館」には「水煙渦巻文深鉢
(すいえんうずまきもんふかばち)がある。

曽利遺跡。縄文時代中期。
「井戸尻考古館」の絵はがきから。
左の把手は「太陽」、対象の右は「月」を表しているという。

すばらしいと思う。
どうして、こんな芸術品が生まれたのだろう。

この「水煙渦巻文深鉢」は、
「井戸尻考古館」の自慢の一つで、
スタッフはつぎのように話してくれる。

パリで開催された「日本古美術展」に出品されました(1963年)、
10円はがきのモデルになりました(1972年)、
「岡本太郎と縄文展」に出品されました(2001年、2006年)、
北は帯広から、南は沖縄まで巡回しました。

岡本太郎は、東京国立博物館で、
縄文土器」と出会って、衝撃を受けた(1951年)。

「縄文土器」と出会ったときの様子を、
岡本太郎は、つぎのように言っている。

「戦後のある日、私は、
心身がひっくりかえるような発見をしたのだ。
偶然、上野の博物館へ行った。
考古学の資料だけ展示してある一隅(いちぐう)に、
不思議なモノがあった。
ものすごい、こちらに迫ってくるような強烈な表情だ」
「自伝抄・挑む」、読売新聞、1976年10月14日。

「縄文土器」に出会ってから、
岡本太郎は「縄文土器」の調査を始めた。

母校の慶応大学に出向いて教えを乞い、
東京大学や明治大学、国分寺文化財保存館を回り、
諏訪の「尖石(とがりいし)遺跡」、
井戸尻(いどじり)遺跡」を紹介されて訪れた。
「縄文土器」や「土偶」を見て写真を撮った。

そして、美術誌「みづゑ」に「縄文土器論」を発表した。
縄文土器の芸術性を絶賛している(1952年)。

「みづゑ」(1952年)に掲載された「縄文土器論」は、
「日本の伝統」として編纂されて、
光文社から発行された(1956年)。

岡本太郎はつぎのように書いている。
縄文土器論」-民族の生命力
「現代人の神経にとっては、まったく怪奇だが、
この圧倒的な凄(すご)みは、日本人の祖先の誇った美意識だ。
それは今日なお、われわれの血の深い底流にひそんでいる」
「この非日本的と思われるほど強烈な美学を、
ふたたび、われわれのものとして取りもどしたい」

岡本太朗は、諏訪を40回近く訪れている。
当然のように「井戸尻考古館」も訪れて、
「岡本太郎さんは何回か来られて、撮影されました」

「四次元との対話-縄文土器」、みづゑ、1952年2月号では、
岡本太郎はつぎのように書いている。

「激しく追いかぶさり重なり合って、
隆起し、下降し、旋回する隆線紋。
これでもかこれでもかと執拗に迫る緊張感。
しかも純粋に透った神経の鋭さ。
堂々芸術の本質として超自然的激超を主張する私でさえ、
思わず叫びたくなる凄みである」

「井戸尻考古館」の「水煙渦巻文深鉢」を、
目の前にしているようじゃないか?

「井戸尻考古館」発行の「井戸尻」には、
縄文時代の文化的頂点は「藤内(とうない)遺跡」である、
と、書いてある。

「藤内遺跡」から出た土器や土偶199点は、
重要文化財になっている。

「神像筒型土器」(しんぞうつつがたどき)、
「巳を戴く神子」(へびをいただくみこ)、
「半人半蛙文有孔鍔付土器」(はんじんはんあもんゆうこうふちつきどき)、
「双眼五重深鉢」(そうがんごじゅうふかばち)、
を見ると、縄文芸術の頂点を極めたことを実感する

神像筒型土器」(しんぞうつつがたどき)。重要文化財、「藤内遺跡」。

縄文人は神をイメージした。
「井戸尻考古館」の絵はがきから。

巳を戴く神子」(へびをいただくみこ)。重要文化財、「藤内遺跡」。

頭の「まむし」は、今にも襲いかかってきそうだ。
「井戸尻考古館」の絵はがきから。
エジプトの王(ファラオ)は、
コブラは守護神であり、王権のシンボルとして、
頭につけたり、王冠につけている。
ヘビを神とする共通を思わせる。

半人半蛙文有孔鍔付土器
(はんじんはんあもんゆうこうふちつきどき)。
重要文化財、「藤内遺跡」。

人と蛙のハーフで、背中は女性器を表している。
「井戸尻考古館」の絵はがきから。

双眼五重深鉢」(そうがんごじゅうふかばち)。重要文化財、「藤内遺跡」。

上部にかえるの2つの眼、下部は5層になって、さまざまな文様がある。
「井戸尻考古館」の絵はがきから。

よくもまあ、変化に富んだ芸術品が、生まれたものだ。
躍動的で、エネルギーにあふれている。
諏訪には「縄文美術学校」があった?
「5000年前の岡本太郎」が、うじゃうじゃいる?

梅原猛、新潟県十日町市博物館名誉館長は、
新潟県、福井県で講演されている。
「岡本太郎は縄文土器の芸術性を発見した、大した人だと思います」
「岡本太郎の発言を契機にして縄文土器は芸術になった」

新潟県で。
「縄文中期の土器は何処が一番良いのか。
明らかに長野県から新潟県にかけてです。
諏訪湖周辺の地域から素晴らしい縄文土器が出る。
信州からここにかけて縄文中期は一番文化が栄えた

福井県で。
「縄文中期において最も優れた土器を産出するのは、
諏訪湖の周辺であります。
今から五千年から四千年前、縄文中期と言われる時代においては、
諏訪地方が日本の文化の中心地方であったと思われます」

御柱」の説明もしている。
「柱はを結ぶもの、神が柱を下って人間のところへやってきて、
人間も柱を上がって神のところへ行く。
柱はそういう天と地、神と人間を媒介するものであると思います」
「柱の遺跡が、諏訪神社の6年に一回、巨大な柱を建てる儀式や、
20年に一回、お遷宮をする伊勢神宮の神事と結び付いているに違いないと思います」

「井戸尻遺跡群」の土器や土偶、
「尖石縄文考古館」の「縄文のビーナス」日本最古の国宝、


仮面の女神」重要文化財を見ると、

「縄文王国」諏訪は、
縄文時代の文化的頂点であり、
日本の文化の中心であったことを実感する。
「仮面の女神」は、2014年に国宝になる。
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御柱祭の舞台は「縄文王国」諏訪

2012-01-08 00:00:20 | Weblog
御柱祭」の舞台は「縄文王国諏訪である。
「縄文王国」諏訪の地図に、「御柱祭」を重ね合わせてみる。

「縄文王国」諏訪と「御柱祭」の地図。Google earthから。


黄色のピンは、「縄文遺跡」の場所で、
青色のピンは、「御柱祭」の場所である。

地図の概要はつぎで、
左上(北西)に諏訪湖がある。
諏訪湖を囲むように、岡谷市、下諏訪町、諏訪市があり、
諏訪市の南に茅野市、原村、富士見町が続く。
「御柱祭」を繰り広げる6市町村である。

東に主峰、赤岳の八ヶ岳が、諏訪地方を包むようにあり、
八ヶ岳の北には、北八ヶ岳の北横岳、蓼科山が続き、
その西には、黒曜石が出る霧ヶ峰(車山)がある。

黄色のピンの「縄文遺跡」は、つぎである。
① 日本最古の国宝「縄文のビーナス」の「棚畑(たなばたけ)遺跡」、茅野市。
② 重要文化財「仮面の女神」の「中ッ原(なかっぱら)遺跡」、茅野市。
③ 国の「特別史跡」、「尖石・与助尾根遺跡」(とがりいし・よすけおね)、茅野市。
④ 国の「史跡」で、桁外れの規模の祭祀(さいし)場、縄文時代前期があって、
縄文の時代観をくつがえすものとなった「阿久(あきゅう)遺蹟」、原村。
⑤ 重要文化財「巳を戴く神子」(へびをいただくみこ)や重要文化財、
「神像筒型土器」(しんぞうつつがたどき)の「藤内(とうない)遺跡」、
「人面香炉形土器」の「曽利(そり)遺跡」、「井戸尻(いどじり)遺跡」、
「居平(いだいら)遺跡」、「九兵衛尾根(きゅうべえおね)遺跡」など、
井戸尻遺跡群」がある。富士見町。
諏訪湖の北、岡谷市には、
⑥ 重要文化財「顔面把手付深鉢形土器」の「海戸(かいど)遺跡」がある。

「御柱祭」は、
「諏訪大社、上社」と、
「諏訪大社、下社」で行われるが、
「御柱」を曳行(えいこう)するルートがちがう。
青色のピンで示す。

諏訪大社、上社の「御柱」の曳行ルートは、
八ヶ岳からモミの木、8本を切り出して、
「御柱綱置場」から曳行(えいこう)をスタートする。
「御柱綱置場」は、「尖石・与助尾根遺跡」の南にある。
「御柱街道」を西に向かい、「木落し坂」、「川越し」を通って、
諏訪湖の南にある諏訪大社、上社の前宮と本宮へ向かう。
そして、前宮と本宮の4隅に「御柱」を建てる。

諏訪大社、下社の「御柱」の曳行ルートは、
霧ヶ峰(車山)からモミの木、8本を切り出して、
「棚木場」(たなこば)から曳行をスタートする。
西に向かって曳行し、「木落し坂」を通って、
諏訪湖の北にある諏訪大社、下社の春宮と秋宮へ向かう。
そして、春宮と秋宮の4隅に「御柱」を建てる。

「縄文王国」諏訪の地図の西にあるカメラ・マークは、
杖突峠(つえつきとうげ)である。この杖突峠から、
「縄文王国」諏訪と「御柱祭」を眺める。
1) 「八ヶ岳方面」と、2)「諏訪湖方面」の写真に、
「御柱」の曳行ルートを示す。

1)「八ヶ岳方面」。杖突峠から。

八ヶ岳は、左半分が北八ヶ岳で、Ⅰは蓼科山、Ⅱは北横岳。
右半分の八ヶ岳は、Ⅲは天狗岳、Ⅳは横岳、Ⅴは八ヶ岳の主峰、赤岳、Ⅵは権現岳。
左手前の街は茅野市。右(南)へ原村、富士見町と続く。

「縄文遺跡」はつぎである。
①は、国宝「縄文のビーナス」の「棚畑遺跡」、茅野市。
②は、重要文化財「仮面の女神」の「 中ッ原遺跡」、茅野市。
③は、国の「特別史跡」、「尖石・与助尾根遺跡」、茅野市。
④は、国の「史跡」、祭祀場がある「阿久遺蹟」、原村。
⑤は、重要文化財「巳を戴く神子」の「井戸尻遺跡群」、富士見町。

諏訪大社、上社の「御柱」の曳行ルートは、
A) 「御柱綱置場」から、曳行(えいこう)がスタートする。
B) 「御柱街道」を通って、
C) 「木落し坂」へ向かう。
そして、写真の左下方向の「川越し」を経て、
諏訪大社、上社へ曳行して、「前宮」と「本宮」の4隅に建てる。

諏訪大社、上社の「御柱」の曳行ルートの現場を写真で見る。
A) 「御柱綱置場」(おんばしらつなおきば)。

奥の八ヶ岳(白いのは阿弥陀岳と赤岳)から切り出された「御柱」8本は、
左の「御柱綱置場」に置かれてから、
手前に延びる「御柱街道」を曳行して、
「木落し坂」、「川越し」を通って、
里の諏訪大社、上社を目指す。

案内板には、つぎのようにある。


B) 「御柱街道」(おんばしらかいどう)。
「八ヶ岳方面」の写真で「御柱街道」Bを見ると、
民家や、並木に沿って走り、「木落し坂」Cにつながる。

C) 「木落し坂」。

「木落し」を見る観光客。

2)「諏訪湖方面」。杖突峠から。

Ⅶは諏訪湖。諏訪湖を囲うように、左奥から岡谷市、下諏訪町、諏訪市(手前)。
Ⅷは北アルプス。Ⅸは美ヶ原高原。
⑥は重要文化財「顔面把手付深鉢形土器」の「海戸遺跡」。岡谷市。

この「諏訪湖方面」の写真から、
「諏訪大社」の「上社」と「下社」の位置関係がわかる。
諏訪湖をはさんで、南(手前)に、
D)「諏訪大社、上社」の「前宮」(重要文化財)。茅野市。


E)「諏訪大社、上社」の「本宮」(重要文化財)がある。諏訪市。


諏訪湖の北、下諏訪町に、
F)「諏訪大社、下社」の「秋宮」(重要文化財)と、


G)「諏訪大社、下社」の「春宮」がある(重要文化財)。


上社は男の神、「建御名方命」(たてみなかたのみこと)を、
下社は女の神、「八坂刀売命」(やさかとめのみこと)を、祀っている。

上社の男神(たてみなかたのみこと)が、諏訪湖の対岸にいる
下社の女神(やさかとめのみこと)に、逢いに行く道が、
御神渡」(おみわたり)である。

諏訪湖が結氷すると、膨張して盛り上がる。2008年。
「御神渡」は、男神の諏訪から、女神の下諏訪に、
向かっているように見える。

諏訪大社、下社の「御柱」の曳行ルートは、
H) 「棚木場」(たなこば)から、曳行(えいこう)がスタートする。
I) 「木落し坂」を落して、
諏訪大社、下社の「春宮」、「秋宮」へ曳行する。

「諏訪大社、下社」の「御柱」の曳行ルートを現場の写真で見る。
H) 「棚木場」(たなこば)。

奥方向の霧が峰(車山)から切り出された「御柱」8本は、
「棚木場」に置かれてから、
西に向かって(上の写真では手前)、曳行し、
「木落し坂」を通って、里の諏訪大社、下社を目指す。

I) 「木落し坂」。御柱祭のパンフレットから。

「御柱祭」の最大の見せ場、「木落し」。このあと、
諏訪大社、下社へ曳行して、「秋宮」と「春宮」の4隅に建てる。

なお、「御柱祭」とは関係がないが、
J) 「万治の石仏」(まんじのせきぶつ)が、春宮の横にある。下諏訪。

「世界中歩いてみたがこんな面白いのはじめて」
「永遠の人生を象徴する石である」
と、岡本太郎は称賛している。

「御柱祭」の青色のピンの場所と、
「縄文遺跡」の黄色のピンの場所を見ると、
「御柱祭」の舞台は、「縄文人」が生活していた場所である。

つぎに、「御柱祭」の「歴史」。
記録でみる「御柱祭」は、798年の桓武天皇の時代になる。
「御柱祭」は合戦があっても、明治維新でも、敗戦で人や物資がないときでも、
途切れることなく行われてきた。そして、ますます盛大になっている。

「御柱祭」の「起源」は、
縄文時代に遡(さかのぼ)らないだろうか?
「井戸尻遺跡考古館」には、
居平(いだいら)遺跡」縄文時代中期の、環状集落を示す画があった。

「井戸尻」。井戸尻考古館発行から。

村の中央に広場があり、広場の周囲に土盛りの墓群がある。
いくつかの墓には、土器が遺されていた。
中からヒスイが出た墓もあった。
墓の周囲に住居がある。
墓が中心にあり、しかも、生活に近いことから、
「縄文人」は死者を忌み嫌ってはいなかった。

そして、注目したのは、
広場の周囲にある5本の「墓標柱」である。
これは「御柱」じゃないか?
「御柱祭」の起源じゃないか? と思うが、
「井戸尻」には、「御柱祭」の記述はなかった。

墓群は六角形をなし、東南(右)が途切れているが、
冬至に太陽が中央広場に差し込む方向、とある。

「御柱祭」の起源をさがしていると、
縄文時代に遡るという研究報告があった。
考古学者、宮坂光昭さんである。
1992年「御柱祭」講演会、諏訪市博物館。

今から6500年前の縄文時代前期の、
阿久(あきゅう)遺蹟」が原村にある。
「阿久遺蹟」から、大集落や、桁外れの規模の祭祀(さいし)場
直径120メートル、日本で最も古い環状集石群(ストーン・サークル)、
が見つかって、縄文の時代観をくつがえすものとなった。
そして、国の指定史跡になっている、

「阿久遺蹟」には、「方形柱列」があるが、
柱立て祭り」として、「御柱祭」の起源と考えられている。
祖先の霊が「柱」を伝わって降りてくる、「祖霊祭祀」である。

青森県に、今から5500年前の縄文時代前期の、
三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)がある。Wikipediaより。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%86%85%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1

三内丸山遺跡のシンボル「6本柱」は、
屋根のない3層構造の建物として復元した。

「6本柱」の復元にあたっては、
さまざまな見解、意見が出た。
祭殿、神殿のような高床建物や、
小林達雄 国学院大学教授が主張する、
諏訪大社の御柱のような信仰の対象」である。

結局、「今後の研究成果を待ちたい」と、
屋根のない3層構造の建物として復元した。

考古学者、宮坂光昭さんの話を続ける。
諏訪では、「阿久遺蹟」のほかに、「祖霊祭祀」は
「縄文のビーナス」が出た縄文時代中期の「棚畑遺跡」や、
「仮面の女神」が出た縄文時代後期の「中ッ原遺跡」でもみられる。

「中ッ原遺跡」では、大型土抗(どこう)に、柱が復元されている。
「柱」を伝わって祖先の霊が降りてくる、
「祖霊祭祀」である。

「方形柱列」は、
住居跡や高床式の食料倉庫ではない。
「ドングリ」や「クルミ」を蓄えたとすると、
「方形柱列」の内側からは、見つかっていない。

「方形柱列」の周囲にある住居跡からは、
「ドングリ」や「クルミ」、ほかに土器などの、
生活に使ったものが見つかっているから。

「三内丸山遺跡」青森県のほかにも、
「柱列」が見つかっている。
真脇(まわき)遺跡」石川県、
チカモリ遺跡」石川県、
寺地(てらち)遺跡」新潟県などで、
縄文時代中期から後期の遺跡である。

大木を山から曳いてくるために、
(「チカモリ遺跡」では20キロを曳く)
「ホゾ穴」を掘って、藤のつたを通した。
そして、大木を曳いて、広場に建てた。
まるで「御柱祭」である。

さて、「御柱祭」の舞台は、
「縄文人」が生活していた場所である。

そして、「御柱祭」の起源は、
記録がある798年のほかに、
研究では、縄文時代に遡る。

日本人は、縄文時代に日本列島に根付いた。
そして、優れた「縄文文化」を築いた。
日本人の精神の基盤は縄文時代にある。
「縄文王国」諏訪の「御柱祭」は、
生きた「縄文の文化」である。

「諏訪は、縄文の文化が生きている」。岡本太郎、「縄文美術」の発見者。

下諏訪向陽高校の生徒による書。下諏訪駅。
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「縄文王国」諏訪を眺める

2012-01-01 00:01:01 | Weblog
諏訪湖から八ヶ岳に広がる「縄文王国諏訪を眺める。
「縄文王国」諏訪は、地図と写真から眺めることができる。

最初に、地図から「縄文王国」諏訪を眺める。Google earthから。


左上(北西)に諏訪湖がある。
諏訪湖を囲むように、岡谷市、下諏訪町、諏訪市があり、
諏訪市の南に茅野市、原村、富士見町が続く。
「御柱祭」を繰り広げる6市町村である。

東に主峰、赤岳の八ヶ岳が、諏訪を包むようにあり、
八ヶ岳の北には、北八ヶ岳の北横岳、蓼科山が続き、
その西には、黒曜石が出る霧が峰(車山)がある。

「縄文遺跡」の場所は、黄色のピンで示した。
1) 国宝「縄文のビーナス」の「棚畑(たなばたけ)遺跡」は、
ほぼ中央にある。八ヶ岳のふもとになる。

縄文時代中期。日本最古の国宝である。

2) 重要文化財「仮面の女神」の「中ッ原(なかっぱら)遺跡」は、
「棚畑遺跡」の東にある。

縄文時代後期。

2014年に、「仮面の女神」は国宝になる。
「仮面の女神が国宝に」、2014年3月23日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/a8194a1ab90005aefe42b78723a0e913
を参照してください。

3) 国の「特別史跡」、「尖石・与助尾根遺跡」(とがりいし・よすけおね)は、
「中ッ原遺跡」の南東にある。

尖石」(とがりいし)。

先端のカールは、石斧(せきふ)を作るときに磨いたくぼみだという。
それと、信仰に使われたともいわれている。

「縄文のビーナス」と「仮面の女神」は、
尖石縄文考古館」に展示されているから、同時に見ることができる。

手前は「与助尾根(よすけおね)遺跡」、先が「尖石縄文考古館」。

4) 直径120メートルの桁外れの規模の「祭祀(さいし)場」縄文時代前期が見つかって、
縄文の時代観をくつがえすものとなった国の「史跡」、「阿久(あきゅう)遺蹟」。

阿久遺跡から八ヶ岳を望む。

「阿久遺跡と縄文人の世界」、長野県立歴史館発行から。

5-a) 重要文化財「巳を戴く神子」(へびをいただくみこ)の、
「藤内(とうない)遺跡」は、「尖石・与助尾根遺跡」の南にある。

縄文時代中期。「井戸尻考古館」の絵はがきから。

「藤内遺跡」は、すぐ南にある「井戸尻(いどじり)遺跡」や、
「曽利(そり)遺跡」ほかとともに、「井戸尻遺跡群」を形成している。

「巳を戴く神子」を含めて、
「井戸尻遺跡群」の重要文化財は、
「井戸尻遺跡」の脇にある「井戸尻考古館」に展示されている。

5-b) 重要文化財「神像筒型土器」(しんぞうつつがたどき)。「藤内遺跡」。

縄文時代中期。「井戸尻考古館」の絵はがきから。
重要な作品は撮影禁止になっていたので。

「藤内遺跡」の重要文化財199点の一つである。
土偶ではないが、特徴のある土器だったので掲載した。
鎧(よろい)を着たような肩をしているが、
「神像筒型土器」という名前から、
縄文人はをイメージした。

5-c)「人面香炉形土器」(じんめんこうろがたどき)。「曽利遺跡」。

縄文時代中期。「井戸尻考古館」の絵はがきから。

表(左)から見ると、吊り上った目の「土偶」だったが、
裏から見ると、「どくろ」に変わった。

まわりに、たくさん付いているのは「うり坊」のようだ。
いのししの多産にあやかったのだろうか?

この「縄文王国」諏訪の地図から、
「縄文遺跡」間の距離がわかる。

「縄文のビーナス」の「棚畑遺跡」から、
「仮面の女神」の「中ッ原遺跡」までは、
3.9キロである。39キロではない。
歩いて1時間ほどである。

「中ッ原遺跡」から、
国の特別史跡「尖石・与助尾根遺跡までは、
2.6キロである。

「尖石・与助尾根遺跡」から、
「巳を戴く神子」の「藤内遺跡」までは、
14.6キロである。

また、「藤内遺跡」から「井戸尻遺跡」までは、1キロである。
北の「棚畑遺跡」から、南の「井戸尻遺跡」まで、18.6キロ。
諏訪湖の北、岡谷から、南の「井戸尻遺跡」まで、29キロである。

6) 重要文化財「顔面把手付深鉢形土器」。
(がんめんとってつきふかばちがたどき)

縄文時代中期。岡谷の「海戸遺跡」から出た。
岡谷美術考古館から。

「縄文王国」諏訪の地図の西にカメラ・マークがある。
杖突峠(つえつきとうげ)である。
「縄文王国」諏訪を杖突峠から眺める。そして、
1)「八ヶ岳方面」と、2)「諏訪湖方面」の写真に、
「縄文遺跡」の場所を示す。

1)「八ヶ岳方面」。杖突峠から。

八ヶ岳は、左半分が北八ヶ岳で、Ⅰは蓼科山、Ⅱは北横岳。
右半分の八ヶ岳は、Ⅲは天狗岳、Ⅳは横岳、Ⅴは八ヶ岳の主峰、赤岳、Ⅵは権現岳。
左手前の街は茅野市。右(南)へ原村、富士見町と続く。

「縄文遺跡」の場所は、番号で示した(①、②、③・・・)。
杖突峠から、双眼鏡で「縄文遺跡」の場所を眺め、
「縄文遺跡」のそれぞれの現場へ行っては、
杖突峠を振り返ることをしながら、
番号を記入した。

縄文時代に、もっとも優れた芸術を生んだ、
「縄文王国」諏訪の「縄文遺跡」の場所が、
わかってもらえると思う。

①は国宝「縄文のビーナス」の「棚畑遺跡」。茅野市。

「縄文のビーナス」は、左の日本電産ニッシンの建設現場から見つかった。
右後方は八ヶ岳。

②は重要文化財「仮面の女神」の「中ッ原遺跡」。茅野市。
2014年に、「仮面の女神」は国宝になる。

「仮面の女神」は中央の小屋の中に、見つけた状態を再現してある。
手前の石模様は住居跡を示し、中央に炉がある。
後方は八ヶ岳。

③は特別史跡「尖石・与助尾根遺跡」。茅野市。

集落が見つかり、再現してある。

④は国の「史跡」、「阿久(あきゅう)遺蹟」。原村。
直径120メートルの「祭祀(さいし)場」縄文時代前期が見つかった。

⑤は重要文化財「巳を戴く神子」と、
重要文化財「神像筒型土器」の「藤内遺跡」、
重要文化財「人面香炉形土器」の「曽利遺跡」。富士見町。

井戸尻遺跡」。富士見町。

中央に富士山、右に鳳凰三山(南)アルプスを望む。
八ヶ岳は、左後方になる。

2)「諏訪湖方面」。杖突峠から。

Ⅶは諏訪湖。諏訪湖を囲うように、左奥から岡谷市、下諏訪町、諏訪市(手前)。
Ⅷは北アルプス、Ⅸは美ヶ原高原。
⑥は重要文化財「顔面把手付深鉢形土器」の「海戸遺跡」。岡谷市。

今から5000年前の縄文時代中期に、
長野県の「遺跡数」は、ダントツの日本一で、
長野県が2,700、岩手県が500弱、山梨県が300強だった。
長野県でも、特に諏訪が多かった。
遺跡数のほかに、技術、芸術性がすばらしい。

写真で示してきた土偶は、
大英博物館の「土偶のパワー」展、
2009年9月10日~11月22日と、
大英博物館帰国記念「国宝土偶展」、
2009年12月15日~2010年2月21日に出展された。

展示は、つぎのように構成されていた。
第1章「土偶のかたち」
第2章「土偶芸術のきわみ」
第3章「土偶の仲間たち」

「縄文王国」諏訪からは、
第1章「土偶のかたち」では、
重要文化財「仮面の女神」(棚畑遺跡)。
第2章「土偶芸術のきわみ」では、
国宝「縄文のビーナス」(中ッ原遺跡)。
第3章「土偶の仲間たち」では、
「人面香炉形土器」(曽利遺跡)と、
重要文化財「顔面把手付深鉢形土器」(海戸遺跡)と、
どれも、すばらしい芸術品が展示された。

「縄文王国」諏訪は、すばらしい「縄文文化」を築いた。
「縄文王国」諏訪は、「縄文文化のメッカ」だった。
日本文化の黎明(れいめい)であり、中心だった。
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