季節の変化

活動の状況

満蒙開拓団の幸せは?

2012-06-24 00:00:11 | Weblog
満蒙開拓団」の「幸せ」は?
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
と、機会をみつけて、人に聞いてみた。
できれば、過酷な体験をした人、
悲惨な体験した人に聞いてみたい。

満州からの「引揚者」は、
悲惨な体験をされている。

極限状態を体験した人が、
感じる「幸せ」は、本物である。
抽象や評論ではない。

満州からの「引揚者」には、
軍人」(広東軍)、
満州鉄道ほか「仕事関係」、
満蒙開拓団」(農業移民、武装農業移民)がいる。

「軍人」では、穂苅甲子男(ほかり かしお)さんを取り上げ、
「仕事関係」では、新田次郎さんの家族を取り上げて、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
を、探ってきた。

つぎは、多くの犠牲者を出した「満蒙開拓団」である。
「満蒙開拓団」の幸せは?
機会があれば、聞いてみたい。

「満蒙開拓団」の出発風景がある。大日方(おおひなた)村、長野県。

「長野県の満洲移民」。長野県立歴史館発行から。

日の丸、鼓笛隊が先導し、移民団が続く。
それに、見送る村人も。

大日方(おおひなた)村は、
分村移民」を決断した。
多くの村人を満州に送り込んで、
第二の大日方村をつくるのである。

昭和11年の大日方村の負債総額は36万2千円にのぼった。
これは、村の予算の12年分になる。
財政再建には、「分村移民」に頼ることになる。

「分村移民」には、国から「特別助成金」が出る。
昭和12年、13年の2年間で得た特別助成金(4万7千円)は、
昭和12年の村の年間予算(3万3千円)を大きく超えた。
(「長野県の満洲移民」、長野県立歴史館発行から)

どのくらいの村民が、満州へ渡ったのか?
企画展「長野県の満洲移民」が、
長野県立歴史館、千曲市で開催された。


企画展「長野県の満洲移民」には、
町村別満洲移民一覧」が展示されていた。
よく、作ったものだと思う。
これを見るだけでも価値がある。

その「町村別満洲移民一覧」から、
大日向村の渡満者比率」を作成した。


人口2,133人の大日向村から、
664人が満州に渡った。
31.1パーセントになる。

渡満者の内訳は、
農業開拓移民が644人、
義勇軍18人、
勤労奉仕隊2人である。

そして、大日方村は、
「満蒙開拓団」のモデルケースになった。

満蒙開拓団等送出数上位県」。

「満蒙開拓平和記念館事業準備会」のリーフレットから。

長野県は、最大規模の37,859人を送り出している。
2位、山形県17,177人の2.2倍である。

「満蒙開拓団」は、全国から27万人、
その内、14%を長野県が占めた。
そして、「満蒙開拓団」で、
生きて帰れた人は約半数である。

企画展「長野県の満洲移民」の、
「町村別満洲移民一覧」から、
大日向村の帰国者比率」を作成した。


大日向村から664人が満州に渡り、
生きて帰ってきた人は327人である。
帰国者比率は49.2パーセント、半数以下となった。

残りの半数は、
死亡者332人、
残留者3人、
不明者2人である。

高校の同窓会が松本であった。
参加者は、自己紹介を含めて、
簡単なあいさつをする。

「『満蒙開拓団』で、両親と満州に渡って、
ソ連の満州侵攻に遭い、日本に引き揚げてきました」
と、切り出された大先輩がいた。

「満蒙開拓団」の「引揚者」がいる!
偶然だ! チャンスだ! と思った。

「満蒙開拓団」で、
半数の生きて帰れた人だ。
生き地獄を体験された方だ!
よくぞ、帰れたものだ!

その「満蒙開拓団」は、
農業移民の「開拓団」と、
武装農業移民の「満蒙開拓青少年義勇軍」に大別される。

「満蒙開拓青少年義勇軍」は、
15歳~18歳の青少年を募集して、
ソ連国境の奥地へ送り込む。
農業実習と軍事訓練をして、
ソ連の襲撃に備える。

「満蒙開拓青少年義勇軍」の府県別送出の「番付表」がある。

「終わりなき旅」。井出孫六 著、岩波書店から。

「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出も、
長野県が東の「横綱」である。
こんな「番付表」は、もう(蒙)御免だ!

「開拓団」は本来、農業専従の移民のはずだった。
しかし、戦況が悪化すると、17歳~45歳の男性は、
緊急補充兵として召集され、戦場に送られた。
そして、ソ連との戦いで死亡するか、
捕虜となって、シベリアへ抑留された。

取り残されたのは「満蒙開拓団」の、
女性、子ども、老人、それに、病気の男性である。
1945年8月9日のソ連の満州侵攻で、か弱い一団は、
とるものもとりあえず、地獄の逃避行を始めた。

「満蒙開拓団」27万人のうち、
日本に帰還できた「引揚者」は、
半数ほどであった。

残りの半数は、つぎの人である。
引き揚げるときの飢えと寒さ、発疹チフス、襲撃、
それに、青酸カリを飲む集団自決で「死亡」した人、
シベリアへ「抑留」されて、死亡した人、
引き揚げるときに、親子バラバラになったり、
シベリアへ抑留されて、「行方不明」になった人、
満州に残され、「残留孤児」になった人、
それに、「残留婦人」である。

残留孤児とは、13歳未満、
残留婦人とは、13歳以上の女性である。

さて、高校の同窓会だが、
参加者、各人が次々にあいさつをする。
あいさつに、質問をする習慣? はなかった。

しかし、「満蒙開拓団」の「引揚者」を、
目の前にしている、こんなチャンス! はない。
「死」をまぬがれ、
「行方不明」にならず、
「残留孤児」にもならずに、
帰ってくることができた人だ。

あいさつが終わると、思わず質問した。
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」

質問を受けた大先輩は、キョトンとされていた。
質問が唐突すぎた。そこで、
「自分の『幸せ』の参考にしたいものですから」
と、付け加えた。
「幸せ」とは、予期していなかった質問だったのだろう?

大先輩は、
日常の生活が、当たり前にできることです」
と、言われた。

なんだか、ピンとこなかった。
生き地獄を体験された「満蒙開拓団」の「引揚者」は、
「幸せ」という言葉を、考えたこともなく、
使うこともなかった、忘れてしまった、
と思った。

翌年の同窓会。
大先輩も出席されていた。
こんどは、近づいて聞いた。
「満州からの引き揚げは、大変でしたね?」

「1年3ヶ月かかって、飢餓状態で満州を脱出した。
群(む)れていないと襲われる。イワシの群れのように。
満州で生まれて10歳のときだった。母と2人の脱出だった」
と、言われた。

「ご家族は、無事でしたか? 再会できましたか?」
「召集されたお父さんは? 兄弟は?」
とは、聞くことができなかった。

あまりにもプライベートすぎる。
半数が亡くなる、生き地獄の逃避行だ。
一家がそろって帰還できることは、まずない。
悲惨な思いがつまっているだろう。
人に言いたくないこともある。

プライベートなことは、
大先輩が言い出さない限り、
聞くことはできなかった。

そして、去年と同じ質問をした。
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」

「『幸せ』とは、日常の生活が、できることです。
日常の生活が、当たり前にできることです」
と、こんどは、すぐに答えていただいた。
内容は、1年前とほぼ同じだ。

しかし、違いがある。
「幸せ」という言葉を冒頭に使われたことだ。
「幸せ」を、はっきりと意識された。

さて、
「軍人」の穂苅甲子男さんは、
シベリアへ抑留され、収容所では、
飢えと極寒の中、重労働を強いられて、
栄養失調、発疹チフス、それに、
事故で大量の死者がでるなかを、
命からがら、日本にもどることができた。

「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
「生きていることに、感謝している」
と、穂苅甲子男さんは言われた。
「幸せを感じるときは?」、2012年6月3日を参照してください。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/2439400dce70acf2abc74aa6d9901b62

「仕事関係」では、観象台(気象庁)の家族、
新田次郎の次男、藤原正彦さんがいる。
飢えから栄養失調になり、寒さ、苦難な山越え、川越えで、
死線をさまよいながら、日本に帰還した。

「人間の『幸せ』は貧富とは関係ない。
家族がそろって生活できることが『幸せ』だった」
と、藤原正彦さんは言われた。
「満州からの引揚者の幸せは?」、2012年6月10日を参照してください。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/55ac2f7f0cdcd9b131f591a2c1ed0f5b?fm=entry_awc

満州からの「引揚者」の「幸せ」はつぎになる。
「軍人」は、
生きていることに、感謝している」。
「仕事関係」の人は、
家族がそろって生活できることが『幸せ』」。
そして、「満蒙開拓団」の人は、
「『幸せ』とは、日常の生活が、当たり前にできること」。

引揚者の「幸せ」を、自分の「幸せ」に置き換えてみる。
「その日、その日を精一杯生きよう」と思う。
地震、災害が、いつおきるかわからない。
「今日も、がんばったな!」
「1日が、終わったな!」
と、酒を飲もう。
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満蒙開拓団は阿智村に注目

2012-06-17 00:06:17 | Weblog
満蒙開拓団」(まんもうかいたくだん)とは、なんであるか?
「満蒙開拓団」は「阿智村」に注目した。

満州には、
軍人」(広東軍)、
満州鉄道ほか「仕事の人」、
満蒙開拓団」(農業移民、武装農業移民)、
など、155万人が渡った。

敗戦で、満州からの「引揚者」は、
悲惨な体験をされている。
「軍人」では、穂苅甲子男さんを取り上げ、
「仕事の人」では、新田次郎さんの家族を取り上げて、
「『幸せ』を感じるとき」
を、探ってきた。

さて、つぎは「満蒙開拓団」である。
「満蒙開拓団」とは、なんであるか?
「満蒙開拓団」は「阿智村」に注目した。

阿智(あち)村は、長野県の南、
伊那谷にあり、飯田市の南である。


「満蒙開拓平和記念館事業準備会」のリーフレットから。
中央道の飯田山本ICを利用する。松本から1時間ちょっとである。

「満蒙開拓団」は「阿智村」に注目したのには、わけがある。
1) 長野県は、「満蒙開拓団」を、
全国一、多く送り出している。
2) 阿智村を含む伊那谷が、長野県の中で、
「満蒙開拓団」を一番多く、送り出している。
3) 阿智村の旧清内路(せいないじ)村では、
村の人口の2割近くが、満州に渡っている。
4) 阿智村の「長岳寺」の住職、山本慈昭(じしょう)さんは、
残留孤児」を捜し、帰国のために奔走した。
5) 阿智村に、「満蒙開拓平和記念館」が建設される。
6) 阿智村で、「戦争ポスター」135枚が、見つかった。

「満蒙開拓団」は阿智村に注目した、1)~6)について、
ちょっと長くなるが、お付き合いください。

1) 長野県は、「満蒙開拓団」を、
全国一、多く送り出している。

「満蒙開拓団等送出数上位県」。

「満蒙開拓平和記念館事業準備会」のリーフレットから。

「満蒙開拓団等送出数上位県」、
を見れば、もうおわかりでしょう。
長野県は、最大規模の37,859人を送り出している。
2位、山形県17,177人の2.2倍である。

「満蒙開拓団」は、全国から27万人
その内、14%を長野県が占めた。

「満蒙開拓団」の内訳は、
農業移民の「開拓団」と、
武装農業移民の「満蒙開拓青少年義勇軍」に大別される。
ともに、長野県が1位である。

「満蒙開拓青少年義勇軍」は、1938年から始まった。
「満蒙開拓青少年義勇軍」を、
募集するポスターがある。

往け若人! 北満の沃野へ!!」。

阿智村が所蔵する「阿智村ポスター」。

青年は、北満に国旗を掲揚し、
後ろでは、ヤマトタケル? が右手に弓、左手に剣を持っている。

「往け若人!」
北満の沃野(よくの)へ!!」
「満蒙開拓青少年義勇軍募集」
「詳細は市町村役場へ」
「長野県」
とあるこのポスターは、
「満蒙開拓青少年義勇軍」を、よく語っている。

15歳~18歳の青少年を募集し、
茨城県の内原訓練所で、3ヶ月訓練してから、
北満」、つまり、ソ連国境の奥地へ送り込まれた。
北満では、「満蒙開拓青少年義勇隊」と呼ばれて、
ふだんは農業実習と軍事訓練をし、
イザというときには戦う。

「満蒙開拓青少年義勇軍」の募集は、
各県、村、学校ごとに割り当てられた。
候補とされた少年は、校長室に呼ばれて、
入隊を決意するまで3日、立たされたという。
半ば強制的な募集で、割り当てをこなす。
信濃教育会は、
長野県に割り当てられた、
「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出に、
大きく関わった。

各村の学校長は、
「満蒙開拓青少年義勇軍」を送り出す任務をすすめ、
結果は、郡別の「番付表」で示された。

「中国残留邦人」-置き去られた60余年。
井出孫六 著、岩波新書から。

東の横綱を見ると、下伊那郡である。
阿智村のあるところ。

「満蒙開拓青少年義勇軍」は、
全国から8万6千人、そのうち、
長野県は6,595人、およそ8%を占めた。

「満蒙開拓青少年義勇隊」の写真がある。
「シベリア俘虜記」。穂苅甲子男 著、光人NF文庫から。

15歳~18歳とは、義務教育を終える少年である!

「阿智村ポスター」の、
「往け若人! 北満の沃野へ!!」と、
写真を比べてしまった。
ポスターは、希望で、はつらつとしている。
写真では、希望はない、無念さがただよう。
それに、汚れた服だ! 何日も洗ってない。

「満蒙開拓青少年義勇軍」は、
満州では、広大な沃野で豊かに暮らしている、と教えられ、
村長、校長、在校生、村人から盛大に送り出されたが、
夢は崩れ去った。現実の満州は、まったく違っていた。
だだっ広い原っぱに、粗末な建物、貧しい暮らし、
9月には冬が訪れ、マイナス30度になった。

「満蒙開拓青少年義勇隊」は、
ソ連の満州侵攻で、地獄の逃避行をし、
シベリアに抑留され、死亡したり、行方不明になった。

一方の「開拓団」は、農業専従の移民のはずだった。
しかし、戦況が悪化すると、17歳~45歳の男性は、
緊急補充兵として召集され、戦場に送られた。
そして、ソ連との戦いで死亡するか、
捕虜となって、シベリアへ抑留された。

取り残されたのは「満蒙開拓団」の、
女性、子ども、老人、それに、病気の男性である。
1945年8月9日のソ連の満州侵攻で、か弱い一団は、
とるものもとりあえず、地獄の逃避行を始めた。

「満蒙開拓団」27万人のうち、
日本に帰還できた「引揚者」は、
半分ほどであった。

残りの半分は、つぎの人である。
引き揚げるときの飢えと寒さ、発疹チフス、襲撃、
それに、青酸カリを飲む集団自決で「死亡」した人、
シベリアへ「抑留」されて、死亡した人、
引き揚げるときに、親子バラバラになったり、
シベリアへ抑留されて、「行方不明」になった人、
満州に残され、「残留孤児」になった人、
それに、「残留婦人」である。

残留孤児とは、13歳未満、
残留婦人とは、13歳以上の女性である。
なぜ13歳なのか?
13歳以上は、自分の意思で決めることができる年齢であり、
それに、満州に渡るときに出資金を出した、
というのが政府の考えという。
しかし、現実は生きるか、死ぬかの「地獄の逃避行」で、
「命のあるうちは、生きよう」と、必死であり、
だれも、好き好んで「残留婦人」に、
なったのではなかった。

満州からの引き揚げは、
乳飲み子や幼い子どもを連れた、
若い母親にとっては、あまりに過酷で、
「なんとか、子どもの命だけは助けたい」と、
中国人に預けた。残留孤児である。

若い母親は、地獄の逃避行で死亡したり、
死と引き換えに、中国男性と結婚した。
残留婦人である。
それに、「大陸の花嫁」100万人計画で、
満蒙開拓団の結婚相手に送り込まれた、
満蒙開拓女子義勇軍」は、
集団見合いで結婚した夫を緊急補充兵でとられる。
そして、地獄の逃避行を続けたが、死と引き換えに、
中国人と再婚して、残留婦人となった。

2) 阿智村を含む伊那谷が、長野県の中で、
一番多く「満蒙開拓団」を、送り出している。
伊那谷は、長野県のおよそ3分の1を占めている。

長野県では、
農家の40%が「養蚕」(ようさん)にかかわっていたが、
1929年の世界恐慌で、生糸の値段が大暴落した。
養蚕が収入源だった農家は、大打撃を受けた。
そして、村の財政が立ち行かなくなった。

「満蒙開拓団」は、重要な国策で、
食糧の確保、ソ連国境の防衛のために、
20年間で100万戸、500万人を満州に、
移住させるという「満州移民計画」ができ(1936年)、
村に移民割り当てがきた。

「満州へ行けば20町歩(ha)の地主になれる」
というプロパガンダは、
養蚕の収入がなくなり、
農地の割り当てが期待できない、
次男、3男には夢のように思えた。

村を分けて満州に分村を作るという、
分村移民」には、村には多くの交付金が出た。

3) 阿智村の旧清内路(せいないじ)村では、
村の人口の2割近くの18.9%が、満州に渡っている。

「満蒙開拓団」の開拓とは名ばかりで、
満州人や朝鮮人の土地を強制的に、
安く収用したところへ、入植するものだった。
開墾するための斧も、ノコギリも要らなかった。

日本とはちがって、耕地面積が広い。
家と土地を奪われた満州人や朝鮮人を、
小作人、苦力(クーリー)として使った。

このときから、「満蒙開拓団」は、
家と土地を奪った「侵略者」になった。
ソ連が侵攻し、守るべき関東軍は、
いち早く撤退したから、「満蒙開拓団」は、
満州人や朝鮮人の恨みで、復讐、襲撃されて、
青酸カリの集団自決に、追い込まれたところがあった。

4) 阿智村の「長岳寺」の住職、山本慈昭(じしょう)さんは、
残留孤児」を捜し、日本への帰国のために奔走した。

日中友好手をつなぐ会」を結成し、
「残留孤児」の肉親探しに奔走して、
残留孤児の父」と呼ばれた。

日中友好不再戦の碑」。長岳寺、阿智村。

右端は「殉難者供養塔」。
「日中友好不再戦の碑」には、つぎのように書かれている。
「日本と中国は 平和と友好で永劫に 手を握りましょう 1966年初夏」

裏にはつぎのように書かれている。
「旧西部8ヶ村から終戦前に、
王道楽土建設の名のもとに、
誤った軍国主義政治のため、
かりたてられて、
中国に渡ったこの地方の開拓民は、
およそ900名に及び、
600名の犠牲者を出した。
この不幸な体験から
『戦争はまっぴらだ、
2度とあんな目にあいたくない
中国と仲よくしよう』
と私達は心から誓って、
関係者1万余名の浄財カンパにより、
この碑を建立した」

「王道楽土」(おうどうらくど)とは、
力による満州の支配ではなく、
徳(王道)で治める満州(楽土)である。
「五族協和」(大和民族、満州民族、朝鮮民族、
蒙古民族、支那民族の共存共栄)とともに、
満州建国のスローガンとなっていた。

開拓団の教員として満州に渡った、
「長岳寺」の山本慈昭さんは、
シベリアに抑留され、帰還した。
そして、満州で別れた妻と、
2人の子ども(4歳と生まれたばかり)の死を知る。

戦後、満州を訪れたが、
生き残った教え子を含めて、
多くの残留孤児、残留婦人が、
生存していることがわかった。

1972年に日中国交回復すると、
日中友好手をつなぐ会」は、
残留孤児の肉親探しが本格化する。

ついに、国を動かし、1981年に、
第1回「集団訪日調査」が実現して、
残留孤児47人が来日した。
肉親捜しは、民間組織から国家事業になった。
阿智村は、「残留孤児、残留婦人」の支援、
「日中友好活動」の先駆けとなった。

山本慈昭さんの、4歳だった長女だけは、
生きていることがわかった。
36年ぶりの再会ができ、
親子は手を握りしめて泣いた。
40歳の長女には、
「残留孤児」の苦難の跡として、
深いしわが、刻まれていた。

5) 阿智村に、「満蒙開拓平和記念館」が建設される。

「満蒙開拓平和記念館事業準備会」のリーフレットから。

今、伝えなければならない
満洲移民の歴史-平和への願い

「満蒙開拓平和記念館」建設の趣旨
かって全国各地から27万人もが渡満し、
日中双方を含め多くの犠牲者をだした。
「満蒙開拓」に特化した全国唯一の記念館。

寄付と資料の提供を呼びかけている。
軍国主義の圧力のもとで、
「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出に、
大きく関係した信濃教育会は、
「平和の尊さを次世代に語り継ぐ」
という趣旨に賛同し、200万円を寄付した。

建設場所は、「長岳寺」の近くで、
2013年5月の開館を目指して、
整地しているところだった(2012年6月)。
できるのが楽しみだ!

6) 阿智村で、「戦争ポスター」135枚が、見つかった。
阿智村ポスター」である。
阿智村役場を訪れた。
課長が応対してくれた。
ありがとうございました。

「阿智村の原 弘平 元村長が、
保存していた戦争のポスターで、
国や県から、村に張るように配られた。
ポスターは、終戦直後に破棄を命じられたが、
『尊い教材になると考え、命がけで蔵に保管した』
紙質が悪くて、痛んでいるものもあるが、保存状態はいい」
と、説明された。

「今の子どもは、戦時中の状況を語る祖父母が、
いなくなってしまった世代だが、ポスターは、
当時の状況を示す貴重な資料である。
一枚一枚が、どのような状況で作成されたのか?
考える教材として、平和学習に提供していきたい」
「希望により、複製品の貸し出しをします」
と話された。

「阿智村ポスター」の印象。
☆多色刷りである。グラデーションもある。
 物不足にもかかわらず、金がかかっている。
☆デザインがいい。
 人目を引く。内容がすぐにわかる。
☆大きい。
 およそ、縦91センチ、横61センチある。
☆紙質は良い。
 物資がないときにもかかわらず良質。それに分厚い。

戦争のプロパガンダとして、
ポスターには、力を入れていたことがわかる。

貯蓄達成運動」、1940年。

「貯蓄達成運動」
「120億円」
「大蔵省 道府県」

労務動員」。
~工場で働いて繊維をつくろう~

「労務動員」
「集れ 輸出繊維工業へ」
「厚生省 財団法人職業協会」

国債を買って、戦線へ弾丸を送りましょう」、1941年。

「国債を買って 戦線へ弾丸を送りましょう」
「支那事変国債 郵便局売り出し」
「10月24日⇒11月4日」
「大蔵省 逓信省」

まゆ生産 1100万貫 確保」、1939年。
~まゆを増産して外貨を稼ごう~

「まゆ生産 1100万貫 確保」
「長野県」
「長野県蚕糸業同盟会」

国民精神総動員強調週間」。

「国民精神総動員強調週間」
「特輯放送番組」
「2月11日から2月17日まで」
「日本放送協会(NHK)」

当時は、これらのポスターで、
戦争遂行へ、大いに駆り立てられた。
政府主導の「国民精神総動員」で、
戦争遂行の思想教育を徹底した。
少年は、航空兵士になりたい、
少女も、お国のために尽くしたい、
と、軍国少年、軍国少女を育てた。

しかし、今では、こんな内容のポスターが、
市役所にあれば、ギョッとする。

「阿智村ポスター」は、
「満蒙開拓平和記念館」ができれば、
複製品が展示されるという。
オリジナルは、傷みやすいから。

「阿智村ポスター」は、
「満蒙開拓平和記念館」に先立って、
長野県立歴史館」で展示される。

戦争と宣伝
- 阿智村ポスターが語る -

長野県立歴史館(千曲市)のリーフレットから。

「阿智村ポスター」は、オリジナルが、
展示されるというから、見ものである。
平成24年7月28日(土)~9月2日(日)

「阿智村ポスター」は、
阿智村の貴重な財産である。
平和学習の教材である。

満蒙開拓団」について知るならば、
まずは、「阿智村」へ行くといい。
平和学習の教材が、阿智村にある。
阿智村役場は、親切に応対してくれる。
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満州からの引揚者の幸せは?

2012-06-10 00:00:20 | Weblog
満州からの引揚者の「幸せ」は?
敗戦で、満州からの引揚者は、
悲惨な体験をされている。

満州には、
軍人」(広東軍)、
満州鉄道ほか「仕事の人」、
満蒙開拓団」(農業移民)、
など、155万人が渡った。

そして、1945年8月9日のソ連の満州侵攻で、
命からがら、日本に逃げもどった「引揚者」である。
満州からの引揚者のほかに、つぎの人がいる。
引き揚げるときの飢えと寒さ、発疹チフス、
襲撃、それに、集団自決で「死亡」した人、
シベリアへ「抑留」されて、死亡した人、
引き揚げるときに、親子バラバラになったり、
シベリアへ抑留されて、「行方不明」になった人、
満州に残され、「残留孤児」になった人、
それに、「残留婦人」である。

残留孤児は13歳未満、
残留婦人とは、13歳以上の女性である。
満州からの引き揚げは、
乳飲み子や幼い子どもを連れた若い母親にとっては、
あまりに過酷で、生死と引き換えに、中国男性と結婚した女性や、
「大陸の花嫁」として、満蒙開拓団の結婚相手に送り込まれ、
引き揚げをすることができずに、中国男性と結婚して、
満州にとどまることになった女性である。

満州からの引揚者に、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
と、聞いてみたい。
極限状態を体験した人が、
感じる「幸せ」は、本物である。
抽象や評論ではない。

軍人」では、
シベリアへ抑留され、収容所では、
飢えと極寒の中、重労働を強いられて、
栄養失調、発疹チフス、それに、
事故で大量の死者がでるなかを、
命からがら、日本にもどることができた、
穂苅甲子男(ほかり かしお)さんが、松本にいる。

「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
と、穂苅甲子男さんに聞いた。
生きていることに、感謝している
と、言われた。

仕事関係」では、観象台(気象庁)の家族がいる。
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
と、聞いてみたい。
機会をねらっていた。

観象台の家族が、
満州から引き揚げる状況は、
流れる星は生きている」を読んだ。
藤原てい 著。中公文庫。

観象台の母子4人は、
ソ連の満州侵攻によって、
これまでの生活を放棄して、
とるものもとりあえず、満州を引き揚げる。

満州国観象台(新京)の課長として赴任した、
夫の藤原寛人(ふじわら ひろと)さんは、
残務と機密情報の処理のために、
満州にとどまった。

このため、奥さんの藤原ていさんは、
3人の子どもを引き連れて、
満州から引き揚げることになった。

最低限の荷物をつめたリュックサックを背負い、
リュックサックの上に生後1ヶ月の咲子さんを乗せ、
両手に正広さん(6歳)と正彦さん(3歳)を引く。
夫の藤原寛人さんは、別れ際に、
ロンジンの懐中時計を授けた。

母子4人には、飢えと寒さ、病気、
そして、死ととなり合わせの、
壮絶な脱出行が待っていた。

夫の藤原寛人さんは、新田次郎で、
次男は、藤原正彦さんである。
名前で、おわかりでしょうか。

新田次郎は、「八甲田山死の彷徨」ほか、
山岳小説のジャンルを拓かれた作家。
藤原寛人さんは、気象庁で、
巨大台風から日本を守るために、
富士山頂に気象レーダーを設置した総責任者。
NHKの「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」の第1回、
「富士山頂・男たちは命をかけた」で取り上げられた。
藤原正彦さんは、ベストセラー「国家の品格」の著者。

親子2人の講演を聴いたことがある。
新田次郎と藤原正彦さんの講演である。

新田次郎の講演は、出身地の諏訪市だった。
昭和30年代だったか? 演題は忘れた。が、
作家になったきっかけを話された。

奥さんの藤原ていさんの手記、
「流れる星は生きている」がベストセラーになり、
「編集者や新聞記者が自宅を訪問する。
すると、お茶を出すのは、自然に私の仕事になった」

「自分では、そのつもりはなかったが、
お茶をそっけなく、ポイッと出したようです。
おもしろくないように見えたのでしょう」
「すると、編集者が、
あなたも、書いてみませんか? といわれた。
これが、きっかけでした」

新田次郎は、満州で、ソ連の捕虜になり、
中国共産党軍に抑留されてから、
ていさんのあとで引き揚げた。
この講演のときには、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
とは、聞かなかった。
新田次郎の満州からの引き揚げと、
作家になったいきさつに興味があった。

藤原正彦さんの講演は2回聴くことができた。
「日本のこれから、日本人のこれから」、2008年10月19日、岡谷市。


わが父、新田次郎を語る」、2012年6月3日、諏訪市。


「わが父、新田次郎を語る」で、藤原正彦さんは、
新田次郎が作家になったきっかけを、
つぎのように話された。

「母は、満州からの引き揚げの苦労がたたって、
心臓内膜炎になった。治療にはペニシリンが必要で、
費用を稼ぐために、父はエッセイを書いては、応募していた」
「昭和31年に『強力伝』で直木賞を受賞した」


藤原ていさんの、
「流れる星は生きている」を読むと、
母子4人が、満州から引き揚げるには、
」を捨てなければならない、それに、
哀れみ」を示して、同情を得なければならない。
「恥」をかなぐり捨て、「哀(あわ)れみ」を示さなければ、
生き延びることができなかった。一家全滅になる。

早朝の市場へ行って、落ちている葉っぱや、
大根のカスを拾って、粥(かゆ)に入れて食べる。
食糧を買う金を稼ぐために、石鹸を売り歩きながら、
哀れみを示して、容器を差し出し、味噌や残り飯を、
恵んでもらう「物乞い」をしなければ生きていけない。

そうまでしても、子どもは栄養失調になった。
それに、母乳も出なくなる。代わりに粥をすすらせた。

長男の正弘さんは、ジフテリアになった。
血清を打たなければ死ぬが、1,000円かかる。
だが、手持ちは100円しかない。
相場が250円のロンジンの懐中時計を、
朝鮮人医師は、血清代として受け取って、救ってくれた。

山越えがあり、川越えがある。
靴はなくなり、はだしで歩き続ける。
母と正彦さんの足の裏には、
石が埋まり、化膿(かのう)した。
診療所で手術して、石を掘り返してもらう。

痛くて歩けないから、母子は、
診療所まで100メートルを、這って通う。
いざりの乞食女と、さげすまされたこともあった。
あとで、母は、捨ててあった牛のわらじを右足に、
鼻緒(はなお)のないぞうりを左足にくくりつけて、歩いた。

満州引き揚げは、
気が狂った人、
老人を亡くした人、
子どもを亡くした人、
夫を亡くした人までがいる脱出行である。

ついに、故郷の上諏訪駅にたどりついて、
「引揚者名簿」に、名前と住所を記入した。

そして、鏡に映し出された姿に、立ちすくんだ。
墓場から抜け出してきた「幽霊」だった。
半ズボンに色のあせきったシャツ、
灰色のぼうぼうとした髪、
土色に煙った顔に頬骨が飛び出し、
眼はひっこんで、あやしい光を帯びていた。

博多に上陸したときに、
支給された下駄をはいて、
背中には、死んだような子を背負い、
両脇には、がくりと前に倒れそうな、
栄養失調で、やせ衰えた子どもの手を引いていた。

改めて、「流れる星は生きている」を、
読んでみたが、涙がでてきた。

満州から引き揚げた藤原正彦さんに、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
と、聞くことはなかった。
講演、「わが父、新田次郎を語る」で、
藤原正彦さんは「幸せ」に触れた。

「満州から引き揚げて、親子5人は、
竹橋にあった気象庁の官舎に住んだ」
「官舎といっても、木造で狭くて粗末だった。
父の給与は安かった。しかし、
人間の『幸せ』は貧富とは関係ない。
5人がそろって生活できることが『幸せ』だった」
「ときには、笑いもあって生活した」

満州からの引揚者が、
幸せ」を感じるときは、
「家族がそろって生活できること」

この言葉には、重みがある。
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
と聞かれて、答えたのではなく、
満州からの引揚者が「幸せ」について、
自問していて、自然にでてきた言葉だから。

「新田次郎生誕百周年記念」の植樹。
諏訪市図書館で、2012年6月3日。信濃毎日新聞から。

新田次郎が好んだ「コブシ」を植樹。
右から2番目が藤原正彦さん。
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幸せを感じるときは?

2012-06-03 00:06:03 | Weblog
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
と、機会をみつけては、人に聞いてみた。
できれば、過酷な体験をした人、
悲惨な体験した人に聞いてみたい。

極限状態を体験した人が、
感じる「幸せ」は、本物だろう。
自分の「幸せ」の参考にしたかった。

質問は、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
がいいだろう。
「『幸せ』とは、なんですか?」
では、評論になってしまう。
抽象的なことを言っても、しようがない。

ボランティア活動で南相馬市へ行った。2011年6月。
南相馬市は、東日本大震災福島第一原発の事故で、
二重の苦しみを背負っている。


津波で船が、港から国道6号まで3.5kキロほど押し流されてきた。

ボランティア活動で、
いっしょになった南相馬市の人は、
福島第一原発の事故のときを、つぎのように言う。
「原発のドスンという爆発に追い立てられて、
取るものも取りあえずに逃げた。
目に見えない『放射能』の恐怖におびえ、
大混乱の避難だった」

「行方不明の家族は、放射能のために、
捜索ができなかったり、見つけられなかった」

「福島第一原発から半径20キロ以内の、
『避難指示』の人は、南相馬市を去った。
避難先は、つてを頼って、北は北海道から、南は沖縄まで」

国際放射線防護委員会(ICRP)は、毎時の被曝限度を、
0.52マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]と定めている。
ボランティア活動の現場は、毎時の被ばく量が、
1.21マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]だから、
0.52マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]以上で、
この場所から、すぐに退避しろ!
の汚染地域である。

半径20キロ~30キロの「屋内退避指示」に、
住まわれている南相馬市の人も、汚染地域だろう。
窓を閉め切って、閉じこもるしか、ほかにない。

避難した人も、屋内退避している人も、
これからの生活が、どうなるのかわからない。

悲惨な体験をしている南相馬市の人に、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
とは、聞けなかった。

「亡くなった人の分までがんばろう!」
「そうでないと、亡くなった人が浮かばれない」
というのが、悲惨を乗り切る「はげみ」になっている。

松本には、死線をさまよった人がいる。
召集で満州に行き、ソ連に侵攻され、
捕虜になって、シベリアの収容所に送られた。
収容所では、飢えと極寒の中、重労働を強いられて、
栄養失調、発疹チフス、それに、事故で大量の死者がでた。
シベリア抑留の極限状態を、乗り越えて、
生きて、日本にもどることができた。
穂苅甲子男(ほかり かしお)さんである。1924年生まれ。

穂苅甲子男さんの著書、「シベリア俘虜記」、光人社NF文庫。


日本にもどられて、木材会社「林友」を立ち上げ、成功された。
「林友」の会長である、穂苅さんの講演があった。

生死をさまようという、極限状態にあった人が、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
を、お聞きしようと思った。

講演は、「『松本平の女傑』巴御前と川島芳子」。2010年1月。
講演の後、近寄ってお聞きした。
「穂苅さんが、『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
穂苅さんは、キョトンとされていた。

それで、聞きなおした。
「生死をさまよい、九死に一生を得た穂苅さんが、
『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
「どんなときに、ホッとされますか?」

間をおいて、穂苅さんは言われた。
生きていることに、感謝している

なんだか、ピンとこなかった。
「生きていることに、感謝している」
とは、はぐらかされたかな? と思った。

「幸せ」という言葉を、考えたことはなく、使うこともなかった。
「感謝」という言葉に置き換わってしまったのか?
とも思った。

それに、講演が「『松本平の女傑』巴御前と川島芳子」だから、
講演の趣旨と外れた質問だったかな? とも思った。

予想した回答は、
1日の仕事を終えて、ホッとして酒を飲むときか?
ビジネスがうまくいったときか?
ゴルフのスコアがよかったときか?

みなさんが、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」

穂苅さんのつぎの講演が、翌月にあった。
シベリア抑留生活を語る」。2010年2月13日。


シメタ! こんどの講演の内容は、
生死をさまよい、九死に一生を得た人に、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
と、お聞きするには、ピッタリだ。

穂苅さんは、シベリア抑留生活を語られた。
「ソ連が急襲してきた午前1時、寝ていた。
伏せたままズボンをはいて、銃に手を伸ばしたが、
立ち上がってズボンをはいた戦友は、弾に当たって倒れた」

「シベリアの収容所に抑留されたときは、
極寒と栄養失調、重労働、発疹チフスで、
仲間はバタバタと倒れた。
収容所から、毎朝、
死体を運び出すのが日課だった」

「日本に帰ってきても、
シベリアに抑留された仲間は、短命だ。
極寒と栄養失調、重労働で寿命が縮んだ。
のちに俳優になった三橋達也さんは上官で、
長生きされたが、80歳で亡くなられた」

講演が終わると、
会場で、穂苅さんの著書、
「シベリア俘虜記」を買って、
穂苅さんのサインをもらう列に並んだ。

ページを開いて、万年筆でさらさらとサインをされた。が、
なぜ、昭和22年2月13日、であるのか?
そのときは、気がつかなかった。
平成であった。

サインをしていただいて、お聞きした。
「穂苅さんが、『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」

穂苅さんは、
「前にも同じ質問があった」
と思われたのだろう?
前よりも、顔を見られたような気がする。

そして、短く言われた。
生きていることに、感謝している
まわりに助けられたことに、感謝している
「松本の女傑」で、お聞きしたときと、同じだ。

さらに、お聞きした。
お酒は飲まれますか?
「酒で失敗したことがあって、酒は飲んでいない」

スポーツはされますか?
「ゴルフをする」

シベリア抑留という極限状態を体験した人の「幸せ」は?
「生きていることに、感謝している」

「生きていること」は、
当たり前だと思っていた。
当たり前のことが、
極限状態を体験した人が感じる「幸せ」。

穂苅さんのお顔がいい。
恨みを持っている顔ではない。
希望を持たれている顔である。

「生きていることに、感謝している」
ありがたい言葉にしようと思う。

そして、
「その日、その日を精一杯生きよう」と思う。
地震、災害が、いつおきるかわからない。
「今日も、がんばったな!」
「1日が、終わったな!」
と、酒を飲もう。

みなさん、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
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