季節の変化

活動の状況

チェコの世界遺産

2008-06-26 02:19:44 | Weblog
チェコ世界遺産は12ある。
4か所を訪れたが、いずれも中世や近代の街並み、
城、教会であった。共産政権のときのものはない。
みんな、共産政権になる前のものである。
これは、東欧、中国でも同じで、共産政権のときのものはない。

チェスキー・クルムロフ

川の左は、13世紀から建設が始まったチェスキー・クルムロフ城
共産政権下では、荒れ放題となった。

東欧で、共産政権の遺産は、
ベルリンの壁”、
ルーマニアの“国民の館”、
ポーランドの“文化科学宮殿”が有名である。
しかし、世界遺産にはならなかった。
いまわしい建造物として遺っているか、取り壊された。

ベルリンの壁(1989年3月)

仮設スタンドの階段を上がり、
台上からベルリンの壁越しに東ベルリンを見て、
無言で階段を降りる。

国民の館。ルーマニア

故チャウシェスク大統領が建てた3千室の宮殿

文化科学宮殿。ポーランド

高さ237メートル。“墓石”と呼ばれるスターリンの贈り物。

国民の館も文化科学宮殿も、
贅(ぜい)をつくした威圧的な巨大建築だが、世界遺産ではない。
共産政権下では、人類の創造的な傑作を遺せなかったことになる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プラハの春の音楽祭

2008-06-21 09:00:05 | Weblog
プラハの春の続きで、音楽祭の会場について。

プラハの春の音楽祭は、市民会館のスメタナ・ホールが会場であった。
市民会館の入り口にあるアルフォンス・ミシャのステンドグラス。


ほかに、会場としてルドルフィヌムがある。

これはチェコ・フィルハーモニーの本拠地。
音楽祭が開催中であることを示す青いバナーが見える。

国立歌劇場にも、青いバナーが掲げられていた(2006年)。


国立歌劇場は、国立博物館の横で、
もう一つのプラハの春、ヴァーツラフ広場の近くである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チェコの二つのプラハの春

2008-06-17 10:43:22 | Weblog
チェコには、二つの“プラハの春”があって、
その一つ、民主化運動の“プラハの春”については、先に書いた。
もう一つの“プラハの春”は、“春の音楽祭”である。

今回は、二つの“プラハの春”の写真を掲載する。
一つは、チェコ事件(1968年)。
その生々しい写真はないが、痕跡はある。
ソ連の戦車によって、ヴァーツラフ広場は占拠され、
民主化運動は、元にもどされた。これに抗議して、
二人の学生がヴァーツラフ広場で焼身自殺をしたが、
その慰霊碑が、ヴァーツラフ広場にある。

円形の花壇の中にある、十字架と埋め込まれた石で、
2人の女性がのぞきこんでいる。

ぴかぴかの石には、ヤン・パラフとヤン・ザイクの顔が映り、
1969年1月19日、1969年2月25日と彫ってあって、
20歳と18歳であった。
うしろは、ヴァーツラフ像、そして、国立博物館。

もう一つ、春の音楽祭は、毎年、春になると、
チェコ・フィルハーモニーほかが、
プラハのいくつかの会場で演奏する。

会場の一つ、市民会館で、中のスメタナ・ホールで演奏された。
青いバナーは音楽祭、“プラハの春”が開催中であることを示す(2006年)。

プラハの春”といえば、今では春の音楽祭の方が有名で、
1968年の民主化運動は、なじみが薄れてきている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チェコもヨーロッパへの回帰

2008-06-13 06:18:59 | Weblog
フィンランドにも、チェコにも、
芸者チョコレートがある、ことを書いた。

チェコの芸者チョコレート

そして、「いじめては、いけない。離れていく」
と、前にフィンランドのことを書いた。
ソ連から抑圧されていたフィンランドは、
1991年にソ連が崩壊すると、
ヨーロッパへの回帰」を目指して、
1995年にEUに加盟した。

チェコもソ連にいじめられた。
「世界のだれも、助けてくれなかった!」
「どうしようもない、つらい時期だった」
と、チェコ人から悲痛なことを言われた。

それは、チェコに民主化運動「プラハの春」がおきると、
ソ連は戦車でプラハの繁華街ヴァーツラフ広場に侵攻して、
そのまま占拠した。そして、民主化運動を、もとに戻させた。
チェコ事件1968年である。

民主化運動とは、言論を自由にし、出版物の検閲を廃止し、
国外旅行の規制を緩和して、市場経済の導入を進めよう、
というものだったが。

「つらい時期」は、1989年に無血革命(ビロード革命)で、
共産党政権を倒すまで、21年間も続いた。
そして、1991年にソ連が崩壊すると、
チェコは、「ヨーロッパへの回帰」を目指して、
2004年にEUに加盟した。
そして、今までの東欧から、これからは中欧と呼ばれ、
ヨーロッパの中心にあるという立地を生かして、国の再興をしていく。

市民と観光客でにぎわうヴァーツラフ広場。2006年
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歌詞は最大の親善の言葉

2008-06-10 06:31:48 | Weblog
トルコのアブドゥッラー・ギュル大統領が、
6月7日に串本を訪れた。
心配した天気は?  テレビ放送をみると、晴れだった。よかった!

エルトゥールル号追悼歌」が、あるんですね? 生徒さんが、
アブドゥッラー・ギュル大統領の前で歌っていた。
大統領は、胸をつまらせているようにみえた。

エルトゥールル号遭難という一事件が、
遠く離れた日本でになっている。
歌詞は知らないが、トルコ語で伝えれば、
最大の“親善の言葉”じゃないかな?

今回の親善の写真はない。
代わりに、文化遺産が屋外に展示されていたり、


ころがっていた。イスタンブル。1990年。


一級品は博物館の中に納められているから、それ以外だろう?
それでも、いいものが、あちこちにある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フィンランドも勇気づけられた

2008-06-04 12:06:27 | Weblog
トルコ人は、日本人の私よりも日露戦争の重要性を知っていた。
「日本を殲滅(せんめつ)するために、ロシアがバルチック艦隊を
日本にさし向けたとき、これで、日本は敗北して、
ロシアの植民地になるものと、思っていました。
ところが、日本はバルチック艦隊を破って、ロシアに勝ちました。
トルコ人は拍手喝采をし、大いに勇気づけられたのです」
と言う。

トルコ人は、日露戦争を単なる戦争の勝利だけではなく、
「日本がロシアの植民地になることを防いだ歴史の転換であり、
あわせて、中国、韓国への侵出による植民地化をくい止めた」
と、考えていた。

アドミラル・トーゴーが有名になって、
多くの子どもにトーゴーという名前がつけられました」
アドミラル・トーゴーとは、
日本海海戦を指揮した提督、東郷平八郎である。

日露戦争の勝利に勇気づけられた国は、アジアのほかにもある。
フィンランドもそうである。

「東はロシア、西はスウェーデンという二つの大国に挟まれて、
両国によって700年もの長い間、東西に分割されていました。
そして、1809年にロシアとスウェーデンの間に戦争が勃発して、
こんどは、勝ったロシアに100年以上も併合されることになりました。
ロシアに勝ち目のない蜂起を挑むか、 それとも、
このまま国が消滅するのを黙って待つのか、のどちらかでした。
ところが、その大国ロシアに、日本が1905年の日露戦争で勝ったから、
フィンランドは大いに勇気づけられました。
そして、ロシア革命でロシアが弱体化した1917年に、
やっと独立宣言をしたのです」
と、フィンランド人は言う。
このことは、自費出版した『世界がみる日本の魅力と通知表』に、
「“世界一の学力”で国を復興する、フィンランド人」
として、記載しているので、参考にしてください。

ラップランドの湖とサウナバス。ロシアとは陸続きである。

フィンランドには“芸者GEISHA”チョコレートがあって、
日本に親しみの味がするようで、おみやげにしている。


提督、東郷平八郎を称えて造った“東郷ビール”が、
フィンランドにある……と聴いていた。
しかし、フィンランドでは目にすることがなかった。

その東郷ビールを、横須賀にある戦艦三笠の記念館で見つけた。
巡り合えた嬉しさで、買い求めた(2008年1月)。

東郷ビールに添付された説明書には、
日本海戦での東郷平八郎の功績が書かれているほかに、
2006年8月から日本で生産し、
製造者:日本ビール醸造(株)、
販売者: 日本ビール(株)、とあった。

ソ連から抑圧されていたフィンランドは、
1991年にソ連が崩壊すると、
ヨーロッパへの回帰」を目指して、
1995年にEUに加盟した。
いじめては、いけない。離れていく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トルコ人との遭遇

2008-06-02 11:54:01 | Weblog
念願の串本トルコ記念館へ行ったときに、
トルコで買った帽子を、かむった。
敬虔(けいけん)な気持ちで? 遭難現場へ行ける気がして。

GALATASARAYガラタサライ。
イスタンブルにあるサッカーの名門クラブ。

奈良を朝5時に発ち、阪和自動車道から42号で、
串本に9時前に着き、駐車して、トルコ記念館に近づいて、
はやる気持ちを抑えて、
――エルトゥールル号が遭難した場所は、どこですか?
と、最初に会った人に声をかけた。
あとで、トルコ記念館のSさんとわかる。
「トルコ記念館の奥です。2階から眺められます。
この先に、遭難慰霊碑樫野崎灯台があるから、
最初に、そちらを観たらいいでしょう」
と、アドバイスを受けた。

遭難慰霊碑を過ぎると、断崖の下に岩が見える。

――これが、座礁した岩だろうか? これならば、遭難するな。
岩を見下ろすように、遭難慰霊碑があった。

樫野崎灯台を観て、トルコ記念館に引き返した。
2階から遭難現場を眺めた。それから、Sさんとお話ができた。
――負傷したトルコ人をかつぎ上げた崖は、どこですか?
「樫野崎灯台に上がる細い道があります」

三鷹市の中近東文化センターで、2007年にみた、
「エルトゥールル号回顧展」に、
トルコ人との遭遇の説明があった。
「9月17日、午前6時、住民の高野友吉さんが、
海岸へ向かう途中、負傷した外国人と出会った」

「台風が過ぎた朝、高野友吉さんは海岸の見回りに出かけた。
そのときに、助けを求めるトルコ人と会った」
と、Sさんも言う。
――会ったのは、どこですか? 海岸ですか?
「トルコ記念館の前の道です。樫野崎灯台へ向かっていました。
当時は、細い道でした。いまのように整備されていませんでした」
ということで、日本人とトルコ人が遭遇した場所がわかった。

「日米修好記念館の近くに、海金剛(うみこんごう)があります。
そこから、岩の景観と、その先に樫野崎灯台が望めます」
三角錐の岩があった。なんだか、おっかねェ。

エルトゥールル号の遭難現場は、岬の先の右端の小岩あたり。

奈良への帰りのルートをSさんに聴いたとき、
なじみの店や連れて行ってくれて、ご主人に相談した。
それで、紀伊半島の中央を北上する、新宮からの168号にした。
串本の人は、親切だった。念願の串本、トルコ記念館の訪問は、満足だ。

トルコのアブドゥッラー・ギュル大統領
訪れる6月7日は、いよいよ今週末だ。
串本の天気予報は、前後が雨の中の晴れ間だ。
日本トルコのために、天気予報通りになればいい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トルコの水と土

2008-06-01 14:20:30 | Weblog
先に、フラスコに入った串本が、
串本の姉妹都市メルシンに置かれていたことを書いた。
日本とトルコの修好100周年の1990年にトルコを訪れている。
このとき、イスタンブルで一番高い建築物は、モスクの尖塔だった。

アヤソフィア

2003年、トルコで一番高い建築物は、モスクの尖塔を抜いて、
オフィス・ビルディングになっていた。トルコは急成長している。


さて、2008年に、念願の串本のトルコ記念館を訪れた話。
トルコが、展示されていた。
水はビンに、土は袋に入っていた。
「2001年に姉妹都市メルシンから贈られたものです」
 と、トルコ記念館のSさんは、説明してくれる。
日本トルコは、おたがいの絆を深めている。

トルコ記念館の近くに、エルトゥールル号の遭難慰霊碑があって、
「同じものが、姉妹都市のメルシンにもあります」と、Sさんは言われる。


Sさんには、やさしさ、親切さがあって、
エルトゥールル号の遭難者を救助した、当時の村人を思わせる。そして、
「6月7日には、トルコのアブドゥッラー・ギュル大統領が訪れる予定です」

一国の大統領が、多忙な日程を割(さ)いて、姉妹都市を親善訪問するというのは、串本だけだろう?
それも、紀伊半島の南端という、アクセスに時間のかかるところへ。
串本は、日本とトルコの友好を深める重要な町になっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする