季節の変化

活動の状況

戦争の証拠隠滅でランキングが16位

2013-12-22 00:00:18 | Weblog
2013年12月に、多くの閲覧があった。
戦争の証拠隠滅」、
戦争ポスターは焼却せよ」、
戦争ポスターの謎とき」、
重要書類は疎開から焼却へ」、
などが閲覧されて、
ランキングが、196万のブログ中、
2013年12月12日は閲覧数が12,255で、20位に、
2013年12月13日は閲覧数が14,288で、16位になった。



何が閲覧されたのか? は、
「このブログの人気記事」でわかる。
各ブログの最後に、「あわせて読む」があり、
そこに、「このブログの人気記事」があるが、
昨日読まれた上位10が掲載される。

このブログの人気記事」。2013年12月12日。

1位 「戦争の証拠隠滅
2位 「戦争ポスターは焼却せよ
3位 「ロシアの電線」
4位 「戦争ポスターの謎とき
5位 「重要書類は疎開から焼却へ
6位 「マティスの傑作はエルミタージュ美術館にある」
7位 「福島市と南相馬市の放射線量」
8位 「福島市の放射線量2013年」
9位 「モスクワで大統領に会う」
10位 「御嶽山の尾ノ島の滝は冬」

「閲覧」の頻度をみると、
ランキングが16位になった、
2013年12月13日の「閲覧数」は、
「過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)」から、
14,288である。これは、6秒に1度の閲覧になる。
一番読まれた時間帯は、4秒に1度、閲覧されていた。

多くの閲覧をいただき、ありがとうございました。
この閲覧の頻度とランキングが16位は、
自分にとって驚異的な数字です。

12月12日~12月18日の1週間分の、
ページごとの閲覧数」を集計してみると、


1位は「戦争の証拠隠滅」、閲覧数17,490、
2位は「戦争ポスターは焼却せよ」、閲覧数16,006、
3位は「戦争ポスターの謎とき」、閲覧数263、でした。
17位に「重要書類は疎開から焼却へ」、閲覧数92が入っている。

「人気のページ」の年代をみると、
1位の「戦争の証拠隠滅」は、2012年のブログである。
過去のブログが、さかのぼって、読まれている。
19位の「海外のタクシー・シリーズ」は、2010年のブログ、
12位の「菅谷市長の内部被曝の怖さ」は、2011年のブログ、
が、今でも読まれている。参考にされているようだ。

ブログを書くには、つぎを基本にした。
1) 足と目で見た事実を書く。
2) 裏付けの調査をする。
3) 写真や表で、わかりやすくする。
そして、 日本を勇気づける姿勢で書いてきた。
お役に立てたようで、うれしい。がんばったかいがありました。

機密重要書類焼却の件」。昭和20年8月18日。

「戦争の証拠隠滅」、2012年8月19日掲載から。

これから、年末年始の休暇に入ります。
閲覧いただき、本当にありがとうございました。
それでは、良い年の瀬と新年をお迎えください。
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ネルソン・マンデラの46664

2013-12-15 00:01:35 | Weblog
ネルソン・マンデラが亡くなった。
2013年12月5日、95歳だった。

アパルトヘイト(人種隔離政策)の撤廃運動で、
国家反逆罪で終身刑となった。そして、
1964年に「ロベン島」に投獄された。
ネルソン・マンデラの「46664」は収監番号。
最初の「466」は、囚人番号、
つぎの「64」は、投獄された1964年を表す。
東京オリンピックが1964年だから、覚えやすい。

獄中にあっても、アパルトヘイト撤廃の活動を続けた。
1990年に釈放されたが、ほとんどを「ロベン島」で過ごした。
44歳~71歳の獄中生活である。

「ロベン島」は、ケープタウンの沖合12キロにある監獄島。
「ロベン島」は、「世界遺産」になった(1999年)。これには、
当時の松浦晃一郎ユネスコ事務局長の後押しがあった。

国宝「松本城」を「世界遺産」にしよう、という活動で、
松浦晃一郎事務局長が松本に招かれた。
その講演で、
「南アフリカ共和国からは、『ロベン島』を含めて、
いくつかの世界遺産の申請があった」
「ユネスコの諮問機関ICOMOS(イコモス)の調査では、
どれも否定的だった。しかし、『ロベン島』は、
ネルソン・マンデラのアパルトヘイト撤廃の、
歴史的、文化的な証拠として、
世界遺産にする意義があった」
と話された。

ネルソン・マンデラが27年間収監され、
獄中からもアパルトヘイトの撤廃運動をした「ロベン島」が、
「世界遺産」になったことに、松浦晃一郎事務局長が力になっていた。
「自然遺産」ではない、「文化遺産」である。

ネルソン・マンデラが亡くなったこのときに、
知っていることをまとめてみようと思う。

ヨハネスブルグとその近郊の、
クルーガーズドープソウェトは、
南アフリカの、歴史の舞台となったところ。

黒人居留区「ソウェト」Sowetは、
ヨハネスブルグの南西10数キロにある。
クルーガーズドープ」Krugersdorpは、
ヨハネスブルグの北西30キロ、高速道路で20分ほど。

「クルーガーズドープ」には、白い台地があちこちにある。
異様な光景だ! 「」を掘ったあとの「ボタ山」Mine Dump。

クルーガーズドープの動物保護区(Krugersdorp Game Reserve)から。手前は、カバがいる沼。
ボタ山は、白い石灰石で覆われている。木は生えない。

ボタ山は、巨大なものから、小さいものまで無数にあって、
クルーガーズドープの景観の主要部になっている。
松本で言えば、田んぼや果樹園のようなもの。

こうなれば、「金鉱」Gold Mineも見たくなる。
南アフリカ人は、ヨハネスブルグに連れて行ってくれた。

「この金鉱は、規模は小さいが、今でも採掘している」
「今でも掘り続けて、垂直の深さが3.2キロある金鉱もある。
人間が掘った穴としては、世界一深い」と言う。

右に「やぐら」、左の手前に「ボタ山」がある。
ボタ山が白くないのは、使用中のためだろう?
なんだか、廃鉱のようだ? 人の気配がしない。
みんな、地下にもぐっているから?

金鉱の遺跡に行った。
スタンダード銀行」の地下に金鉱の遺跡がある。

中央の青いビルディングが「スタンダード銀行」。ヨハネスブルグ。

車を、銀行近くの駐車場に止めた。
そして、足早に銀行へ向かいながら、
「一人歩きはしないほうがいい。夜は、近づけない」
と言う。

銀行への入場は、厳重だった。空港の警備よりも。
日本の銀行からは、想像できないが、
一人ずつ、透明の丸パイプに入る。
高さ2.5メートル、直径1.2メートルほど。
スキャンして、銃器や爆薬などの危険物をチェックし、
問題がないと、半円形のドアが回転して、入場できる。

金鉱の遺跡は、
スタンダード銀行の中にあるエレベータで地下に降りる。
ガラスの床から、金鉱の坑道を上から見る。
さらに、坑道を横から見る。

坑道は狭い。奥の手押し車が、やっと通れる巾だ。
坑道は木で支えられていたが、崩れ落ちないだろうか?
黒人は、劣悪な作業環境で働かされていたのだろう?

銀行の地下が金鉱とは、「金」で富を築いたヨハネスブルグらしい。
スタンダード銀行は鉱山への融資で業績を伸ばしてきた。
「金の精製過程で、ウラニウムも見つかった」
「金やウラニウウム、ダイアヤモンドを含めた鉱物資源が
南アフリカの産業になっている」

南アフリカの植民地の歴史はつぎである。
南アフリカへの入植は、
オランダ人が最初だった(1652年)。
ケープタウンに植民地を作ったが、
あとから来たイギリス人に占領され、追われた(18世紀)。

オランダ農民の子孫ボーア人(アフリカーナー)は、
新たな植民地を求めて内陸へ大移動し、
ヨハネスブルグに、トランスヴァール共和国(1852年)、
その南に、オレンジ自由国を作った(1854年)。

オレンジ自由国で、ダイヤモンドが発見され(1867年)、
トランスヴァール共和国で、が発見された(1886年)。
支配権や金の利権を巡って、支配を強めるイギリスに、
ボーア人はクルーガーズドープで蜂起して、
ボーア戦争」が始まった(1880年、1899年)。
イギリスは、激しい戦争の結果、どうにか勝って、
オレンジ自由国、トランスヴァール共和国を含めて、
植民地「南アフリカ連邦」を築いた(1910年)。

行政はアフリカーナーが担当して、
アパルトヘイト(人種隔離政策)を進めた。
鉱山に白人の職場を確保し、
黒人に土地の所有を認めず、
参政権を与えず、所定の地域に隔絶し、
外出には通行証の携帯を義務付け、
教育を施さず、白人との結婚を禁止した。

このアパルトヘイトは、イギリス本国から非難された。
このため、イギリス連邦から脱退して、国名を、
南アフリカ共和国」に変えている(1961年)。

ネルソン・マンデラは、
故郷のケープの東から、ヨハネスブルグに移り住み(1940年)、
借りた裏庭に、廃材とトタンで「ほったて小屋」を建てた。
広さは、1坪未満と言うから、ベッドがあるごく狭いものだった。

廃材とトタンの「ほったて小屋」は、
ヨハネスブルグ近郊で見かける。2003年。
左端は水タンク。水道も、下水道もないようだ。

ヨハネスブルグを訪れると、外国人はどこに泊まるか?

ヨハネスブルグの北、サントンSandtonにある、
ゲート付きの複合施設の中にあるホテルに泊まる。
手前には、満々と水をたたえた大きなプールがある。

塀で囲われ、ゲートで出はいりをチェックする。
塀の中は白人のための複合施設で、

ホテルのほかに、ショッピング・モール、レストラン、バー、カジノ、映画館、鳥園・・・、

生活に必要なもの、楽しむものがそろっている「白人天国」。
ゴルフコースはクルーガーズドープにあって、
付近は、プールつきの邸宅がならんでいる。

「ほったて小屋」から、ネルソン・マンデラは、
黒人居留区のソウェトに初めての家を持った。
この家は、ミュージアムとして公開されている。

アパルトヘイトの撤廃運動で、
ネルソン・マンデラは、国家反逆罪終身刑となって、
1964年~1990年まで27年間、ほとんど「ロベン島」で獄中生活を送る。

アパルトヘイトは国際社会から避難された。
「ロベン島」を記者団に公開して、ネルソン・マンデラと面会させたり、
別の広い刑務所に移して、国際社会の非難をかわそうとしたこともあった。
しかし、ネルソン・マンデラは、アパルトヘイトの撤廃。民主主義の実現だった。

ソウェトの蜂起」があった(1976年)。
アフリカーナーの言語を授業に強制しようとした。
白人の言語の強制に、ソウェトの黒人学生が反対してデモをした。
13歳の生徒、ヘクター・ピーターソンが警察官によって射殺された。

世界が戦りつした写真。
銃弾に倒れたヘクター・ピーターソン。
South Africa: History of Racial Conflictsから。

左端は姉のアントワネットAntoinette Sithole。
「弟がひどい状態なのは見たが、単なるけがだと思っていた。
どこがどうなったのか、わからなかったから」
と、言っている。
このソウェトの蜂起では1,000人が犠牲になった。

アパルトヘイトは国際社会から非難され、
経済制裁が厳しくなった。
ネルソン・マンデラは、
27年間の獄中生活から解放された(1990年2月11日)。
時の大統領フレデリク・デクラークとの会談で、
アパルトヘイトの終了を、勝ち取った(1992年3月17日)。

ネルソン・マンデラは、フレデリク・デクラークとともに、
ノーベル平和賞を受賞(1993年)、
全部の民族による総選挙で、
黒人初の大統領に選ばれ (1994年)。
そして、人種の融和と民主化に努めた。

ラグビーの第3回ワールドカップが、
南アフリカ共和国で開催された(1995年)。
アパルトヘイト撤廃で、初参加ができ、初優勝した。
ゴルフとともにラグビーは、
アパルトヘイトを象徴するスポーツで、
まして、黒人がジャージを着ることはなかった。が、
ネルソン・マンデラは、決勝戦のヨハネスブルグの競技場に、
主将と同じ背番号6のジャージを着て現れた。そして、
主将にトロフィーを渡し、握手をした。
人種融和の感動的なシーンだった。

2008年に90歳になったネルソン・マンデラの、
ニュースが流れたが、お元気そうだった。
政界を去って、エイズ撲滅運動46664を精力的に進めていた。
サッカーのワールドカップ南アフリカ共和国大会が開催された(2010年)。
閉会式が行われたヨハネスブルグの競技場に出席された。
ネルソン・マンデラが、公式の場に姿を見せた最後だった。

2013年12月5日、自由と希望の不屈の闘士は亡くなった。
ネルソン・マンデラの追悼式が行われた。
各国の元首から市民で埋めつくされたのは、
ヨハネスブルグの競技場だった。

「南アフリカの通知表」、2009年9月13日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/ee41fd8fbc47d4fc98273e91dad57cf0
で、ネルソン・マンデラ、南アフリカについて、
記載してあるので、参考にしてください。
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御嶽山の尾ノ島の滝は冬

2013-12-08 00:31:10 | Weblog
季節の変化は、高いからやってくる。
御嶽山」の「尾ノ島の滝」はだった。

「御嶽山」の標高は、3,067メートル。
「尾ノ島の滝」の標高は、GPSで1,307メートル。
落差は約30メートル、しかし、標高が見つからない。
それで、エプソンのWristable GPSで測った(標高は上段に表示)。

地面には、薄っすらとが積もっている。2013年11月23日。

尾ノ島の滝」。

水量が多かった。水しぶきが飛んでくる。

水しぶきで石が凍っていた。滝に近づくために、石に乗ると、
ツルンとすべって、川に落ちた。足首まで水につかる。
ついには、転びそうになった。危ネェ~!

石は濡れているように見えたが、凍ってツルツルだった。
石の上は歩けない。危険だ! 登山靴は履いているが。
「御嶽山」の「尾ノ島の滝」はに入っていた。

「尾ノ島の滝」の位置は、木曽町観光協会の、
開田高原ハイキングコース」の地図から。

左上に「御嶽山」、右上に「乗鞍岳」がある。
「御嶽山」のすそ野に「開田高原」が広がる。
「尾ノ島の滝」Oは、「御嶽山」の下にある。

「尾ノ島の滝」のの積もり具合。

この階段を降りてきた。雪は薄っすらと積もっていた。

この階段の上からは、「乗鞍岳」が見えた。

雪が青空に映えていた。
「尾ノ島の滝」へ来て、「乗鞍岳」が見えるとは、
思ってもいなかったから、うれしかった。

標識で、「尾ノ島の滝」まで300mとある遊歩道を下りて、

すぐに、「乗鞍岳」が前方左に見えるので、注意。
この標識の左には3~4台の駐車場がある。

「尾ノ島の滝」へ来るには、361号を上がってくる。
361号は「九蔵峠」の展望台9を通る。ここから、
御嶽山」が、まじかに見ることができる。雄大だ!

左が主峰の「剣ヶ峰」3,067メートル、
中央三角が「摩利支天岳」2,959メートル、
右端は「継子岳」2,859メートル。

中腹の左端の白いギザギザは「御岳ロープウェイスキー場」。
中腹の右端の白は「マイアスキー場」で、
「尾ノ島の滝」はこの下になる。

2011年8月に、「御嶽山」に登った。「摩利支天岳」と「剣ヶ峰」。
「摩利支天岳」へは雪渓を渡る。

風が強い、霧も多い。それに、雨が降る。朝晩は寒かったな。

「御嶽山」は、「木曽節」どおりだった。
「夏でも、寒~い、ヨイヨイヨイ」

御嶽山」は、もうだ。「九蔵峠」の展望台から。2013年11月23日。

神々しい!

「九蔵峠」の展望台に来るには、361号を上がってくるが、
木曽町観光協会の「開田高原ハイキングコース」に下の地図がある。

国道19号から、「木曽大橋」を渡って361号に入り、
右の「新地蔵トンネル」を通る道が一般的である。
広いし、曲がりくねった山道ではないから。

しかし、その前に左折して、くねくねした山道を上がって、
地図の左の「地蔵峠」の展望台Jへ行った。。
スノータイヤは履いている。

天気はよさそうだ。
「地蔵峠」の展望台Jから、
「御嶽山」を見ることができるだろう?
それに、途中の「唐沢の滝」Kも見たかった。

そのあと、「地蔵峠」を越えて、361号に入り、
先の「九蔵峠」の展望台を通って、
「尾ノ島の滝」へ行く予定。

唐沢の滝」。

「唐沢の滝」は長い。落差は100メートル。
「唐沢の滝」の標高は、GPSで1,120メートル。
何段にもなって、落ちてくる。紅葉は終わっていた。

「唐沢の滝」のあとは、細い山道を「地蔵峠」へ上がる。
御嶽山」が見えた。


「地蔵峠」からは、「御嶽山」の右に「乗鞍岳」も見える。真っ白だった。

「乗鞍岳」は、雪のベールで覆われていた。

「御嶽山」と「乗鞍岳」が同時に見えて、
青に雪が浮かび、雄大な景色が広がる、
開田高原のこの「滝めぐり」コースは、
木曽福島⇒「唐沢の滝」⇒「地蔵峠」(御嶽山、乗鞍岳の眺望)
⇒「九蔵峠」(御嶽山の眺望)⇒「尾ノ島の滝」(乗鞍岳が見える)だった。

標高1,307メートルの「尾ノ島の滝」は、水しぶきが凍っていた。
標高1,120メートルの「唐沢の滝」は、紅葉が終わっていた。
標高3,067メートルの険しい「御嶽山」は、冬の装いだった。
標高3,026メートルの優雅な「乗鞍岳」は、雪のベールだった。
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御嶽山の不易の滝は冬の始まり

2013-12-01 00:06:15 | Weblog
季節の変化は、高いからやってくる。
御嶽山」の「不易の滝」と「こもれびの滝」は、
の始まりだった。2013年11月16日、22日。

「御嶽山」の標高は、3,067メートル。
「不易の滝」の標高は、GPSで1,258メートル。
標高の資料が見つからなかったので、手持ちのGPS、
エプソンのWristable GPSで測った(標高は上段に表示)。

地面には、薄っすらと雪が積もっている。2013年11月22日。

「不易の滝」と「こもれびの滝」の位置は、
木曽町観光協会の「滝めぐりコース」の地図から、

左の「霊峰ライン」沿いにある。

「霊峰ライン」は、左下の国道19号の木曽福島から、
県道20号で三岳に進み、さらに県道473号に入る。
霊峰ライン」は霊神碑が多い。


駐車場Pのわきに「不易の滝入口」の案内がある。

チップを敷いた遊歩道に入り、一旦下がって、
上がると、10分ほどで「こもれびの滝」に出る。
さらに10分ほど上がると「不易の滝」に着く。
右の道路は「霊峰ライン」で、「御嶽山」へ行く。
日陰は、凍っているから、スノータイヤが必要。

「こもれびの滝」と「不易の滝」には、
2013年11月16日と22日に訪れたが、
1週間の違いは、に見ることができた。

こもれびの滝」。2013年11月16日。

「こもれびの滝」の標高は、Wristable GPSで、1,200メートル。
まだ、雪はない。

1週間後の「こもれびの滝」。2013年11月22日。

石にが積もっている。

不易の滝」。2013年11月16日。

「不易の滝」の標高は、「こもれびの滝」より60メートルほど高い。

1週間後の「不易の滝」。2013年11月22日。

両側の石にはが積もっている。

「こもれびの滝」と「不易の滝」に来る途中では、
青空にそびえる「御嶽山」と「乗鞍岳」を見ることができた。
御嶽山」。

「御嶽山」は氷雪に覆われていた。三岳黒沢から。2013年11月16日。

国道19号の「元橋」から県道20号に入り、
「三岳」に上がってくると、「御嶽山」が鮮やかに見えた。
うれしくなって、車を停め、近くの神社に上がって撮った。
雪をかぶった「御嶽山」が、青空にそびえている。
しかし、この景色は、一瞬だから、要注意。

左端がピークの「剣ヶ峰」3,067メートル、
その右は「摩利支天岳」2,959メートル、
右端は「継子岳」2,859メートル。

三岳黒沢から、さらに5~6分走ると、分岐点に出る。

直進すると473号「御嶽山」へ、
右折すると20号「開田高原」へ。

直進して、左の民家の先、「木曽御嶽変電所」跡あたりから、
乗鞍岳」が見える。

「乗鞍岳」は、で一層なめらかになっていた。2013年11月16日。

ピークの「剣ヶ峰」は3,026メートル。
「乗鞍岳」を見逃さないためには、
前方の2時方向に注意する。ここを逃すと、
「乗鞍岳」は、もう現れない。

分岐点を直進して、「霊峰ライン」の「二合目半」から再び、
「御嶽山」が浮かび上がった。青空に氷雪の白が映える。

「剣ヶ峰」の左は、「継母岳」2,867メートル。
「二合目半」は、「霊峰ライン」の右にある碑が目印。

青空に浮かぶ氷雪の「御嶽山」と、
「乗鞍岳」を見ることができたのは、幸運だった。
男性的な「御嶽山」と女性的な「乗鞍岳」との出会いに感激しながら、
「こもれびの滝」と「不易の滝」にたどり着いた。
2つの「滝」の写真を、もう少し掲載する。

「こもれびの滝」に木漏れ日が当たった。

左下の白は、石に積もった雪。

不易の滝」は絶壁から漏れて、落ちる。

「不易の滝」の先は、絶壁で行き止まり。
右の岩には雪が積もっている。
それに、滝の近くでは、飛沫が凍っていた。


「不易の滝」の脇にある小さい「滝」。

飛沫が凍っていた。
「御嶽山」の「不易の滝」も「こもれびの滝」もの始まり。

さて、「霊峰ライン」を帰る。
帰り道、青空に「中央アルプス」が浮かび上がっていた。

「木曽御嶽変電所」跡あたりから撮影。

「霊峰ライン」からの「中央アルプス」は、
午前中は逆光でボンヤリしているから、
陽が当たってクッキリする午後がお勧め。

Kは「駒ヶ岳」2,956メートル、
Hは「宝剣岳」2,931メートル、
Sは「三沢岳」(さんのさわだけ)2,846メートル。
中央の白は、「仙丈ヶ岳」3,033メートルだろうか?

アプローチが長い木曽側からは、登っていないから、
「こういう形か?」と、中央アルプスを眺めた。

「中央アルプス」へは、伊那側の駒ヶ根から登っている。
「駒ヶ岳ロープウェイ」で「千畳敷カール」へ上がり、
「駒ヶ岳」、「宝剣岳」、「三沢岳」へ登る。そして、
木曽側の「御嶽山」と「乗鞍岳」を眺めた写真がある。

Oは「御嶽山」、Nは「乗鞍岳」。Mは「木曽前岳」、Kは「駒ヶ岳」。
「宝剣岳」から。2012年8月。

「乗鞍岳」の右側の「北アルプス」の写真がある。

「駒ヶ岳」の山頂から、ご来光を拝んだ2012年8月に撮影。

Nは「乗鞍岳」3,026メートル、
Kは「笠ヶ岳」2,897メートル、
Hは「穂高連峰」3,190メートル、
Yは「槍ヶ岳」3,180メートル、
Tは「立山」3,015メートル、
Sは「白馬三山」2,932メートル。
「御嶽山」は独立峰だが、「乗鞍岳」は北アルプス。

「木曽」の3,000メートル級の山は、冬だった。
3,067メートルの「御嶽山」は、氷雪で覆われていた。
3,026メートルの「乗鞍岳」も、冬の装いだった。
2,956メートルの「駒ヶ岳」も、雪が乗っていた。
1,258メートルの「御嶽山」の「不易の滝」は、
冬の始まりだった。
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