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美女姉妹のセブン・シスターズに逢う

2013-09-29 00:06:50 | Weblog
モスクワには、「セブン・シスターズ」という美女の7人姉妹がいる。
その美女の7人姉妹、「セブン・シスターズ」に逢いたい。

「セブン・シスターズ」は、
スターリンが、社会主義の優位性を誇ろうとして、
ニューヨークの「エンパイア・ステート・ビルディング」に対抗して、
第2次世界大戦後の1945年~1955年に建てた7つの摩天楼である。
代表として「モスクワ大学」1953年がある。

摩天楼といえば、ニューヨークの
エンパイアステート・ステート・ビルディング」である。
ニューヨークのランドマークであり、アメリカ繁栄の象徴である。

高さ443.2メートル、102階。1931年完成。
近づくと、全体が映らない。それで、上下に分けて撮影した。


「エンパイアステート・ステート・ビルディング」の見学は混むから、
早目に出かけて、エレベーターの列に並び、見学デッキへ上がった。1987年。

マンハッタンの南を眺めると、
ツイン・タワー、「ワールド・トレードセンター」が見える。

「エンパイアステート・ステート・ビルディング」が、
1931年に完成すると、高さ443.2メートルで、これは、
クライスラー・ビルディングを抜いて、世界一となった。
しかし、高さ528メートルの「ワールド・トレードセンター」が、
1972年にできると、世界一の高さの座を明け渡すことになる。

この「ワールド・トレードセンター」は、
2001年9月11日の「同時多発テロ」で爆破された。

グラウンド・ゼロ」。遺品を探しながらの取り壊し作業。2002年2月。
向かいのビルディングは、爆風で窓が飛び、板でふさいでいた。

さて、モスクワの「セブン・シスターズ」だが、見たくなったきっかけがある。
それは、ポーランドの首都ワルシャワの「文化科学宮殿」である。

高さ237メートル、42階。1955年完成。

「セブン・シスターズ」と同じスターリン時代の建物。
スターリンの贈り物」は、ワルシャワの中心街で、
あたりを威圧するようにそびえていた。

エレベーターで30階の展望台に上がると、
ワルシャワのパノラマが拡がる。入場料600円、2006年。

北を眺めると、公園の右奥に「旧市街」が見える。茶色の屋根一帯。

この「旧市街」は、1944年にナチスによって徹底的に破壊された。
しかし、昔の写真を手掛かりにして、国民の寄付金で、
1971年~1981年にかけて蘇らせた。

そして、世界遺産になっている。右は「王宮」。

「文化科学宮殿」をポーランド人は、
スターリンの墓石」と呼んでいたな。
ソ連支配の象徴とみなしていた。
世界遺産にはならなかった。
親しみがなかったから?

「文化科学宮殿」は、「モスクワ大学」をイメージさせた。
それで、2013年8月のロシア旅行では、「モスクワ大学」を、
ぜひ見たかったが、ありがたいことに、見学ルートに入っていた。

高さ235メートル、36階。1953年完成。

「文化科学宮殿」を、先に見ていたから、
「モスクワ大学」を見ても、ビックリはしなかった。
「ついに見た!」、「念願がかなった!」、という気持ちだった。
尖塔があり、直線的で左右対称、そして、威厳を持たせてある。
「文化科学宮殿」に比べて、両翼が高かった。それに、色が白い。

ロシア人のツアー・コンダクターは、
「モスクワ大学」について、つぎのように説明した。
1949年~1953年にかけて建設した。
32学部、4万人の学生を抱えるロシア最大の大学です。
サイドにある学生寮は300平方メートルの広さがあります。
授業料はタダ。しかし、金持ちは、アメリカへ留学します。
給与がいい石油会社や外資系企業に就職するためには、
優秀であるほかに、英語力が求められるから。

「セブン・シスターズ」は、
この「モスクワ大学」(1953年)のほかに、
「芸術家アパート」(1952年)、「ロシア外務省」(1953年)、
「ホテル・ウクライナ」(1955年)、「文化人アパート」(1945年)、
「ホテル・レニングラード」(1953年)、「ソ連運輸建設国家委員会」(1953年)がある。

このうち、ロシア旅行で見学ルートに入っているのは、
「モスクワ大学」と「芸術家アパート」だった。

高さ160メートル、26階。1952年完成。
「芸術家アパート」は、「モスクワ大学」に比べて、優雅な感じがした。

「芸術家アパート」は、バスの中から見ながら、
ロシア人のツアー・コンダクターから説明があった。
「芸術家アパート」には、岡田嘉子(よしこ)が住んでいた。

女優岡田嘉子は、ソ連に亡命したが、スパイ容疑で10年間投獄された。
その後、モスクワ放送局で日本語放送のアナウンサーとなり、
日本に帰国して10数年後にモスクワに戻った。
そして、6年後の1992年に死去した。

この「芸術家アパート」に、岡田嘉子が住んだのは、
いつだったんだろうか? アナウンサー時代か?
それとも、日本からモスクワにもどった時か?
その説明はなかった。

残りの5つの「セブン・シスターズ」は、
見学ルートに入っていないから、
バスの中から「尖塔がないか?」
と、目を凝らすことになる。
偶然に見ることを期待して。

キョロキョロしていると、その偶然があった。
駅の向うに2つの尖塔が見えた。

左の尖塔は「ホテル・レニングラード」で、
右のビルディングの間に見える白い尖塔は、
ソ連運輸建設国家委員会」だろう?

偶然がまたあった。「文化人アパート」。

高さ156メートル、24階。1954年完成。
なんという幸運だろう。

これで、「セブン・シスターズ」の美女姉妹7人のうち、
5人に逢えたことになる。
「モスクワ大学」、「芸術家アパート」、「ホテル・レニングラード」、
「ソ連運輸建設国家委員会」、それに、「文化人アパート」。
今回のモスクワ旅行は、「セブン・シスターズ」を、
見るためのものではないことを考えると、
5つも見ることができたのは幸運だ。

写真を見ていて気がついたことがあった。
「モスクワ大学」を見るために「雀が丘」へ行くが、
高台で、モスクワ市内が遠望できるから、写真を撮る。
天気が良ければ、「セブン・シスターズ」の尖塔が、
ポツン、ポツンと映るが、曇りで、ボヤけていた。
「モスクワ大学」を見たら、振り返ってみるといい。
尖塔を探せば、およその位置をつかむことができる。

「セブン・シスターズ」の美女姉妹は、「世界遺産」ではない。
共産政権時代の遺産は、世界遺産にはならないのかな?
「エンパイア・ステート・ビルディング」は、
アメリカの歴史建造物に指定されている。

ルーマニアの首都ブカレストに「国民の館」がある。

故チャウシェスク大統領が建てた3千室の宮殿。
贅(ぜい)の限りをつくした威圧的な巨大建築だ。
この「国民の館」も世界遺産ではない。

共産政権下の建造物は、歴史建造物に指定されることもないし、
人類の創造的な傑作を遺したことにもならなかったことになる。
ロシアの「セブン・シスターズ」、
ポーランドの「文化科学宮殿」、
ルーマニアの「国民の館」。

帝政ロシア時代も、国民は虐げられていた。それで革命が起きた。
共産政権も、国民を幸せにしなかった。それで、共産政権は倒れた。
けれども、帝政時代の遺産は、世界遺産で、
共産政権時代の遺産は、世界遺産ではない。

共産政権が終わったからといって、
スターリン時代の建物、「セブン・シスターズ」も、
スターリンの贈り物である「文化科学宮殿」も、
取り壊すわけではない。
しかし、世界遺産にするには、
親しみを感じなかったり、
胸が痛む人がいるのだろうな?

ロシアや東欧のスターリン像、レーニン像は、
忌(い)まわしいものとして、取り壊されたが。

ロシアの世界遺産といえば、
ウスペンスキー聖堂」、クレムリン(モスクワ)であり、


エルミタージュ美術館」(サンクト・ペテルブルク)であり、


エカテリーナ宮殿」(プーシキン市)であり、


黄金の門」(ウラジーミル)であり、


クレムリン」(スズダリ)である。

世界遺産は、帝政ロシア時代か、それ以前のものである。
いずれも素晴らしい! 世界からの観光客を魅了する。
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ナターシャがウェディングドレスを買ったら注意

2013-09-22 00:04:15 | Weblog
ウェディングドレスは、買うか? レンタルか?
ロシアの花嫁さん、ナタ-シャがウェディングドレスを買ったら注意。

ロシアの夏、それも8月が結婚シーズンである。
休みがとれるし、ウェディングドレスでも寒くない。
8月のロシア旅行では、ウェディングドレスの花嫁さんを、
あちこちで見かける。モスクワでもサンクト・ペテルブルクでも。

サンクト・ペテルブルクの西、「ペテルゴフ宮殿」。

純白のウェディングドレスの花嫁さん。2013年8月。
ロシアの花嫁ナターシャは、どうしてこんなに、きれい!
それに、長身で、腰がくびれて、スタイルがいい。
コルセットの締め付けもあると思うが。
純白は、ロシアの夏の陽光に輝く。

この「ペテルゴフ宮殿」は「夏の宮殿」と呼ばれている。

夏の間、噴水が乱舞する。世界遺産。

つぎは、モスクワの「コローメンスコエ」。

白のウェディングドレスに、ブーケのモスクワの花嫁さん。
モスクワのナターシャも、きれい! それに、スタイルがいい。
モスクワもサンクト・ペテルブルクも、美人の産地?
モデルのようじゃないか?

このコローメンスコエの「主の昇天教会」。

木造建築、世界遺産。

ここ「コローメンスコエ」には、ほかにも新郎新婦がいた。

2羽の白いを空に舞い上げて、飛んでいく先を追っている。

つぎはサンクト・ペテルブルクの「リヴァ河畔」。

手前がリヴァ河。
白のウェディングドレスにベール、手には花。
左上にも、ベールの花嫁さんが見える。
ロシアの8月は、結婚シーズンであることを実感する。

サンクト・ペテルブルクの白い「リムジン」。リヴァ河畔で。

「青銅の騎士像」が近くにある。
こんなに長いリムジンは、はじめて見る。

サンクト・ペテルブルクでは、「船上パーティ」。

リヴァ河で。右後方の青い建物は博物館「クンストカメラ」。
赤いは、船の上に2つのニコニコ・マークをあしらって、
これから大海に船出する2人を、祝福するようだ。

サンクト・ペテルブルクの赤い「リムジン」。リヴァ河畔で。

リムジンでサンクト・ペテルブルクを移動して、思い出を作り、写真を撮る。
リヴァ河沿いの「青銅の騎士像」に行くのが人気。

「エルミタージュ美術館」の隣になる。

サンクト・ペテルブルクには、
さらに2つの「ウェディングドレス」の写真がある。
リヴァ河畔」で記念撮影。

白のウェディングドレスに、抱いているのは、クマのぬいぐるみ。

エルミタージュ美術館」の前。

新郎はだった。
そして、晴れやかに歩く。
2人の純白が、「エルミタージュ美術館」の青と白に合う。

この「エルミタージュ美術館」前の「宮殿広場」は、
ロシア革命」のなまぐさい事件の舞台だった。
1905年に、労働者が皇帝ニコライ2世に、
法的な保護を求めて集結したが、政府が発砲し、
多数の血が流れた。「血の日曜日」である。

まだある。1917年に、冬宮(エルミタージュ美術館)は、
巡洋艦「オーロラ号」から砲撃されて、
10月革命の蓋が切られた。

「エルミタージュ美術館」の3階から眺めた「宮殿広場」。

ナポレオンに勝利した記念の「アレクサンドル円柱」と、
後方は、「旧参謀本部」。凱旋門を中心に半円形に拡がる。

およそ100年前、「ロシア革命」でが流れた「宮殿広場」は、
今は、純白の新郎新婦が晴れやかに歩く。

ロシア人の女性のツアー・コンダクターは、
ロシアの結婚事情について、説明をする。
「ロシアでは、8月が結婚シーズンです」
「女性の結婚年齢は18歳~22歳です」
「男性の結婚年齢は14歳~23歳です」
男性の14歳は、本当かな? 聞き違いか?

男性の「兵役の義務」についても、説明があった。
「ソ連のときは19歳で、期間は、陸軍が3年、海軍が4年だった」
「今は、18歳になって、陸軍も海軍も1年です」
これは、ツアー・コンダクターの説明をメモしたが、
聞き違いがあったら、許してください。
東西がドンパチする直接戦争の危険はなくなったから、
兵役の義務を早く終わらせ、職について、
生活を安定させ、国の経済の向上に努める。
それに、男性は兵役義務の前に結婚できる?

ロシアの結婚事情は続く。
「アパートメントを買うと、1,600万円です」
「若い2人はお金がないから、両親と同居します」
「両親は、経済面で援助したり、時には扶養します」
そして、
「ロシアの離婚率50%です」
と、言うではないか。あぜんとする。

「離婚率が世界一」高いのは、どうしてだろう?
その説明はなかった。その代り、
ウェディングドレス」の話をした。
「ウェディングドレスは、高いから、レンタルします」
「しかし、離婚して、再婚するときに、また使うことを考えると、
ウェディングドレスは、買ったほうがいいかもしれません」

「再婚するときに、また使うことを考えると、
ウェディングドレスを買っておく」
とは、日本では考えられない発想ではないか?
離婚率が50%とは、「離婚」はもう身近なことで、
具体的な「対策」を考えておかなければならない?

そうすると、これまで見てきた「ウェディングドレス」の半分は再婚?
それに、祝福に駆けつけたお仲間も、歴戦の勇士たち?
ロシアの花嫁さんは、美しく、スタイルがいい!
モデルのようだ! と写真を撮ってきたのに。

日本の大和なでし子のウェディングドレス事情は、
価格が高いことや、買っても後の手入れを考えると、
レンタルになる。だが、買う場合がある。
買ったほうが、レンタルよりも安かった、とか、
お披露目が2度あるから(結婚式とパーティ)、とか、
好みのデザインや体型に合わせてしつらえた、とか、
特別な思いがあって、記念としてとっておきたかった、とか。

日本男児、大和太郎よ、
ロシア娘のナターシャと結婚する場合には、
「ウェディングドレス」に注意したほうがいい。
「ウェディングドレスは、レンタルか? 買いか?」

「ウェディングドレス」を買ったならば?
美しく、スタイルのいいナターシャは、
ちゃんと次の「対策」を考えている。
大和なでし子とは事情が違う。
大和太郎よ、注意しろ!
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日露戦争の勝利はイギリスのおかげだ

2013-09-15 00:03:39 | Weblog
「今度は、日本100年前恩返しをする番だ」
日露戦争に勝つことができたのは、イギリスのおかげだ」
と、イギリス人は言うのだ。

なんのことか、さっぱりわからなかった。
なんで、「日露戦争」の勝利がイギリスのおかげなんだ?
なんで、イギリスに「恩返し」をしなければならないんだ?

イギリス人が言うのは、こうだ。
100年前の日露戦争のときに、イギリスから買いつけた軍艦と、
学んだ戦術を使って、日本はロシアに勝つことができた。
東郷平八郎は、世界一の海軍国、イギリスに留学して、
軍艦や兵器、軍事作戦などの軍事力を学んだ。そして、日本は、
海軍はイギリス方式」とする、を国策として、
イギリスから戦術を導入し、軍艦、近代兵器を購入した。
連合艦隊の司令長官、東郷平八郎の乗った、
旗艦「三笠」をはじめ、軍艦のほとんどはイギリス製だ。

三笠」。横須賀の「三笠記念艦」で。

確かに、イギリスのバローにあるヴィッカース造船所製であった。
日露戦争の「日本海海戦」で、東郷平八郎が指揮をとった場所は、
マストの手前にある四角の指令室ではなく、その上の艦橋だった。

イギリス人は、さらに続ける。
日露戦争の勝利を決定づけた「日本海海戦」で、
連合艦隊は、ロシアのバルチック艦隊を殲滅(せんめつ)した(1905年)。
有名な「トーゴー・ターン」は、イギリスで学んだT字作戦そのものだ。
そして、日本はロシアに勝つことができたじゃないか。

2013年8月のロシア旅行では、
「日露戦争」の相手国へ行くわけだから、
ロシア人の反応や、何らかの痕跡があれば、
知りたいと思っていた。

サンクト・ペテルブルクで、
バルチック艦隊の巡洋艦「オーロラ号」を見た。

「これが、日露戦争で戦ったバルチック艦隊か!」
「バルチック艦隊は壊滅状態だったが、生き延びたんだ!」
と、移動中のバスの中からしげしげと見た。

団体旅行を案内するロシア人のツアー・コンダクターは、
「オーロラ号が係留されています」
と、バスから言って、
夕刻から始まる、バレー「白鳥の湖」を観るために、
「オーロラ号」のわきを通り過ぎて、劇場へ急いだ。

バルチック艦隊38隻のうち、19隻を撃沈、7隻を捕獲し、
主力の戦艦、装甲巡洋艦を全滅させた。
連合艦隊は水雷艇3隻が沈没した。
バルチック艦隊は、戦死者が5千名近く、捕虜が6千名以上、
連合艦隊は、戦死者が117名、戦傷者が600名近くだった。
海戦の歴史上、まれにみる一方的な勝利だった。

「日本海海戦」の結果は、世界が注目していた。
日本が勝利した打電が飛びこんできたときには、
何かの間違いで、ロシアの勝利ではないか、と疑った。

「オーロラ号」は、撃沈や捕獲からフィリピンに逃がれた。
「オーロラ号」は、その後、ロシア革命でも活躍した。
1917年10月25日にエルミタージュの冬宮を砲撃して、
10月革命の火蓋を切った。今は記念艦として、
ネヴァ川河畔に保存されていた。

イギリス人は、まだある。
しか売るものがなかった貧乏な日本が、
日露戦争の戦費をまかなうために、
イギリスとアメリカから借金をした。
その金で、イギリスから軍艦や大砲などの近代兵器を買った。
ロシアが、バルチック艦隊を日本に差し向けたときに、
大国ロシアを相手では、アジアの小国、日本の勝ち目はない、
これで日本は、ロシアの植民地になるものと、世界は考えていた。
それで、日本が負ければ、回収ができなくなるから、危険な投資だった。

ここで、日本がイギリスであったら、どうしただろうか? 考えてみた。
もし、立場が逆で、イギリスがロシアに征服されそうだったら、
日本は、みなさんは、イギリスをこれほど助けるだろうか?
投資した金は無になる! 知らん顔をしていた方がいい?
機密である軍事力をイギリスに授けただろうか?

イギリスには、歴史の方向を見定める力があって、
帝政ロシアは滅びると思っていた?
イギリスは、日本をロシアの植民地にしたくなかった?
イギリス人には、「ノーブル・オブリゲーション」という、
「高貴な者には、義務が伴う」という精神が宿っていて、
日本の将来をほうっておけずに、起ちあがった?

イギリス人は、まだまだある。
日英同盟」という軍事同盟を結んで(1902年~1912年)、
日本の外交政策はイギリスを軸として進められた。
「日英同盟」は、ロシアのアジア進出を封じるためのもので、
イギリスは積極的に日本に協力した。
バルチック艦隊が日本に向かう時には、
イギリスが支配していたスエズ運河を通らせなかった。
このために、武器、弾薬を満載した大型戦艦は、
アフリカ大陸を回ったから、喜望峰ルートの遠回りになった。
小型艦だけは、スエズ運河を通させたから、先行した大型戦艦とは、
フランス領のマダガスカル島で、合流しなければならなかった。
このために、バルチック艦隊は、ロシア領であったラトビアを、
1904年10月に出発してから、日本海に到着する1905年5月まで、7か月もかかった。
それに蒸気船だから、航海中には石炭を、
ところどころで、補給しなければならない。
だが、イギリスの植民地では、石炭を補給させなかった。
それに、水や食料品の補給もしなければならないが、
イギリスの植民地には、寄港させなかった。
石炭や水、食料品の補給で不便を強いられ、
スエズ運河を通れば、3か月ですむところを7か月もかかった航海で、
バルチック艦隊の乗組員は疲労し、戦意は低下した。
それに、イギリスは、最新の無線機を日本に提供して、
バルチック艦隊の戦力、武器、進路を日本に伝えた。

「日露戦争に勝つことができたのは、イギリスのおかげだ」
「イギリスから最新技術の軍艦や戦術のほかに戦費も調達して、
日本は国の興亡をかけて、大国ロシアと戦って、勝った」
「この勝利を機に、日本は近代国家の仲間入りをしたじゃないか」
「日本の歴史の大転換となった奇跡の勝利に、
イギリスの貢献がなかったら、日本は負け、
ロシアの植民地になっていた。そして、こんにちの日本はなかった」
「今度は、日本がイギリスを助けて、100年前の恩返しをする番だ」
という、イギリス人の最初の話につながってくる。

「日露戦争から100年たって、日本はIT(情報機器)や、
バイオテクノロジーのハイテク産業にうまく転換できた」
「そして日本は、こんにちの繁栄の道を歩むことができた」
「だが、イギリスは造船や製鉄の重工業から、
ハイテク産業への転換が遅れた」
「それに、政府による国営企業の運営は立ち行かなくなり、
労働争議が頻発し、国から活力が失われた」
「名車ロールス・ロイスは経営危機に陥り、
ドイツのBMWとフォルクスワーゲンに身売りされてしまった」
と、が沈むことがないといわれたイギリスの凋落ぶりを嘆く。

イギリス人が、100年前の「日露戦争」の話を持ち出して、
イギリスの貢献を言い、日本に「助け」を求めることは、
イギリスのジェントルマンにとっては、やりたくないことだろう。
屈辱的だが、イギリスはそんなことを言っていられる状況ではなかった。

1990年代のことで、私はイギリスに赴任していた。
イギリスの経済を立ち直らせ、復興させるために?
そして、自動車産業を旗頭にイギリスの経済が立ち直った。
雇用の機会も増えた。技術先進国、日本の援助の「おかげ」じゃないか。
私も貢献してきた?

さて、「日露戦争」だが、
蔑視(べっし)されていた有色人種が、
初めて白色人種を打ち負かした。
この日本の勝利は、多くの国を勇気づけた。

インドでは、のちに初代首相になったネルーは、
「日本の勝利に血が逆流するほど歓喜し、
インド独立のため命を捧げる決意をした」

中国では、「建国の父」と言われた孫文は、
「アジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。
この日本の勝利は全アジアに影響を及ぼし、
アジアの民族は極めて大きな希望を抱くに至った」

トルコは長い間、ロシアとは宿敵だった。
ロシアは冬でも凍らない港を求めて、
黒海から地中海に出る航路を確保したいが、
それには、トルコの「ボスポラス海峡」を通るから、

ロシアとは長い間の仇敵で、トルコ艦隊が敗れたことがあった。
左のヨーロッパと、右のアジアとの架け橋は、「第1ボスポラス大橋」。
奥には「第2ボスポラス大橋」があり、さらに奥は「黒海」に連なる。
手前は「地中海」に連なる。

サンクト・ペテルブルクには、
トルコ戦争の勝利を記念した、「凱旋門」がある。

サンクト・ペテルブルクのメイン・ストリート、モスコフスキー通り。

トルコ人は、つぎのように言っていた。
「日本はバルチック艦隊を破って、ロシアに勝ったから、
『大国ロシアに日本が勝った!』と、トルコ人は拍手喝采をし、
大いに勇気づけられたのです」
「『日露戦争』が単なる戦争の勝利だけではなく、
日本がロシアの植民地になることを防いだ歴史の転換であった。
あわせて、中国、韓国への侵出による植民地化をくい止めた」
アドミラル・トーゴー(東郷平八郎)が有名になって、
多くの子どもに、トーゴーという名前がつけられました」

フィンランドは、ロシアと国境を接して、
戦争を繰り返して敗れ、長い間、支配されていた。
「ロシアに勝ち目のない蜂起を挑むのか、
それとも、このまま国が消滅するのを待つか?」
フィンランド人は、つぎのように言っていた。
「ロシアのバルチック艦隊が日本へ向かったときに、
これで、日本は敗れて、ロシアの植民地になるものと思っていた。
ところが、日本は勝ったから、フィンランド人は喜び、
大いに勇気づけられました」
そして、日露戦争で帝政ロシアが弱体化して倒れた、
1917年に、フィンランドは独立宣言をした。

東郷平八郎を敬って、「東郷ビール」を作った。

フィンランドで作られたものの復刻版。横須賀の「三笠記念艦」で。
フィンランド独立の喜びの味? がする。

さて、「日露戦争」に対するロシア人の反応は?
サンクト・ペテルブルクのロシア人のツアー・コンダクターは、
「オーロラ号が係留されています」
とは言う。が、
「日露戦争」で戦った、
とは、説明がなかった。
「日露戦争」は、日本とロシアは当事者であり、
帝政ロシアは弱体化して、革命が起こる、
歴史が大転換するできごとなのに。

それに、「オーロラ号」と、
「ロシア革命」との関わりにも触れなかった。
ロシア人にとっては、「日露戦争」も、「ロシア革命」も、
乗り越えてきた「」。その「傷」から立ち直った。
もう、振り返ることはしない。明日に向かう。
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生活はソ連がいいか、ロシアがいいか

2013-09-08 00:05:26 | Weblog
生活ソ連がいいか? ロシアがいいか?
1991年にソ連が崩壊して、ロシアになった。
共産政権から、民主主義国家になる歴史の大転換である。
「ロシア人の生活」は、昔のソ連が良かったのか?
それとも、今のロシアがいいのか?

2013年8月のロシア旅行では、
「エルミタージュ美術館」と「赤の広場」のほかに、
この「ロシア人の生活」に興味があった。

聖ワシリー寺院」、赤の広場。


というのは、2002年にチェコを訪問している。
1889年に、チェコは無血革命(ビロード革命)で共産政権を倒して、
民主主義国家、チェコ共和国を作るという歴史の大転換をした。
ビロード革命で民主主義国家になってから13年後に訪問したが、
その時のチェコ人の言葉を、今でも覚えているから。

取引先の30代のチェコ人とのディナーでは、「生活」の話になった。
そのチェコ人の父は、共産政権下で長い間、生活してきていた。
「会社が利益を生み出して、自分の給料を稼ぎ出そう、という意識や、
能力を向上して、実績を上げれば、給料が上がる、という発想に、
父はなじめないでいる」

「共産政権から民主主義国家になったが、生活はちっとも良くならない。
昔のように、仕事がなくても国営工場に行って、
給料をもらっていた方が良かった、
と、父は言うのです」

市場経済で、チェコが世界と競合していくには、
共産政権のときのように、お上に逆らわずに、
決められたとおりに働いていれば、給与はもらえる、
という、半世紀も続いた無気力状態から脱出して、
活力を取りもどさなければなりません。しかし、
世代があと2回くらい、代わらないとダメです」

2006年にチェコを訪問した時に見た、
チェコの国民車「シュコダ」の新旧の写真がある。
共産政権時代の「シュコダ」が現役で使われていた。

サビサビ、ボコボコ、部品なし。もとはなに色? よく走るもんだ! と思った。

共産政権が崩壊して、1990年にシュコダは、
ドイツの「フォルクスワーゲン」の子会社になった。
そして、新しい技術を導入した新型の「シュコダ」を、街で多く見かけた。

古い「シュコダ」とは、技術、デザインが段違いだ。

民主主義国家になったが、チェコ人の言う状況は、
ほかの東欧にも共通するだろう。
半世紀も続いた共産政権の時の習慣や意識は、すぐには変えられない。

顧客が要望する商品を開発する⇒いいサービスを提供する⇒
販売網を構築して販売するとともに⇒次期商品を企画する⇒
技術革新で新商品を開発し、新たなサービスを提供する、
このサイクルを繰り返していく、
という発想には、なじめないでいる。

1889年の「東欧革命」で、東欧は共産政権を倒して、
民主主義国家に移行した。
「これで、明日から生活が良くなる」
という期待は、すぐにはかなえられなかった。

ロシア人の生活も、チェコ人と同じだろうか?
80年も続いたソ連の共産政権は、
1991年に民主主義国家、ロシアへ移行した。
共産政権の盟主として、東欧を半世紀も支配してきた、
ロシア人の生活を知りたい。

ロシア旅行で、接触できるロシア人は、
「ツアー・コンダクター」である。
モスクワのツアー・コンダクターは、
60代で年金をもらっている男性だった。
年齢から、ソ連時代を経験している。

モスクワ郊外の世界遺産を見学するには、
200キロあり、バスで2時間以上かかる。
車中で、ツアー・コンダクターは「ロシアの生活」に触れた。

「年金は月400ドル(約4万円)です。
ガス代、電気代で月100ドル(1万円)かかる。
残りの300ドル(3万円))で生活をしなければならないが、
3万円では生活ができないから、妻も働きに出ている。
ロシアでは夫婦共稼ぎが普通です」
3万円で暮らしていくとは厳しい、生活は苦しい。

「農産物は80%、輸入に頼っている。小麦も肉も。
ブラジルやアルゼンチンほかから輸入している。
物は出回るようになったが、インフレーションで、
食料品の価格は3~4倍になった」

3~4倍になったという食料品の価格を知りたくなる。
日本と比べてどうだろうか?
モスクワで、ホテルに隣接した「スーパーマーケット」へ行った。

この巨大なスーパーマーケットで、
晩飯代わりにハムサンドを作ろうとした、それに、酒も買った。

レシートの上からハム94.93ルーブル(319円)、
袋代? 1.40ルーブル(5円)、ウォッカ240.81ルーブル(809円)
ライ麦のパン34.50ルーブル(116円)、缶ビール24.03ルーブル(81円)、
合計395.60ルーブル(1,329円)である。(交換レートは1ルーブルが3.36円)

ハム(319円)とライ麦のパン(116円)。


缶ビール(81円)は、オランダから輸入したピルスナービールだった。
ロシアの寒さでは、ビールもワインもシャンペンも不向きだ。
ブドウ園を見ることはない。寒すぎて、育たない。

ところが、「ウォッカ」(809円)はロシア産で、うまかった。

以後、ロシア旅行では、ウォッカだけにする。
アルコールは40度なので、昼は多くても5杯にとどめ、
夜は昼の2~3倍にした。

食料品の価格は、日本の値段と変わらない。
それに、食材も豊富で、これも日本と変わらない。
しかし、問題は収入である。年金4万円のうち、
残り3万円で生活しなければならないが、1,329円は高い。
このスーパーマーケットは、年金生活者向けではない。
ロシアの金持ちか、海外からの旅行者が利用するスーパーマーケットである。

それに、海外からの旅行者が泊まるホテル代は、1万円~2万円する。モスクワ。

1泊のホテル代に、年金の多くが消えることを考えると、
このホテルは、一般のロシア人は利用できない。

あとで気がつくが、泊まったホテルのそばには、
必ず立派なスーパーマーケットがあった。
ロシアの金持ちか、旅行者が利用するようだ。
一般のロシア人が利用するだろう、お店ではなかった。
モスクワでも、サンクト・ペテルブルクでも。

サンクト・ペテルブルクのホリデイ・イン。

サンクト・ペテルブルクのメイン・ストリートであるモスコフスキー通り。
手前にはマーケット。旅行者は利用する。おみやげもある。

旅行者は、ホテルとマーケットに、隔離されている?
パスポートはホテルが預かっている。
街中をウロウロするなよ!

ソ連時代を経験しているモスクワのツアー・コンダクターは説明してくれた。
個別に尋ねたことを含めて、つぎのようになる。
「ソ連のときは、失業者はいなかった。
アパートメントの家賃はタダ同然だった。
生活は貧しかった。食料品不足だった。
肉不足で、列をつくって買い求めた」

チョコレート、バナナ、オレンジは高すぎて手に入らなかったし、
家電品も電話も車も、ぜいたく品で、一部の特権階級のものだった。
しかし、今は違って、庶民の手の届くものになっている。
携帯電話は、ツアー・コンダクターには必需品であるし、
チョコレートはロシアのおみやげとして出回っている。
アリョンカ」が目につくが、フィンランド、Fazer社の、
Geisha」チョコレートがあって、
「ロシアでも売っている!」と、手がのびた。

「Geisha」チョコレート、350ルーブル(1,176円)は、高いか?
高いと思う。おみやげで買えても、庶民が日常に買うものではない。

本場、フィンランドの「Geisha」チョコレート。

ヘルシンキのデパートメント「Stockmann」の食品売場で、
食品のように、買い物かごに放り込むことができる。
芸者」の図は、ロシアにはなかった。
チェコにも「Geisha」チョコレートはあって、

「芸者」の図があった。

ツアー・コンダクターは、ロシアの話をする。
「ソ連からロシアになると、自分で職を探さなければならない。
アパートメントの広さは31平方メートル、5階建て、
エレベーターはなし、トイレと台所は兼用」
これならば、住居費が1,000円のはずだ。

「ツアー・コンダクターの仕事は、月に3千ドル(30万円)。
仕事は5月~10月の暖かい時期に限られる」
「別荘(ダーチャ)を買った。
2階建て200平方メートルで、500万円だった。
ダーチャで、妻と過ごす時間がなかなか取れない。
暖かい時は、ツアー・コンダクターで稼がなければならない。
朝から晩まで、それに、泊りもあって、仕事に追われる」

ダーチャ」。モスクワの南で。

ダーチャには野菜畑があり、多くはリンゴの木があった。

さて気になる、生活はソ連時代が良かったのか? ロシアが良いのか?
ツアー・コンダクターが日頃考えていることのようで、進んで話をした。
「ソ連時代が良かったのか? ロシアの生活が良いのか?
両方を経験しているが、大変でもロシアでやっていこうと思っている。
もう、元にはもどれない」
普段着のように見えるツアー・コンダクターは、
自分を納得させるように決意! を話した。

西側より、明らかに遅れている、
この遅れは、回復のしようがない、
それに、貧しい、明日に希望が持てない、
もう、どうしようもない、と国民を幸せにしなかった、
ソ連にもどることは、考えていない。
なんとか、市場経済の世界で、
生き延びるために頑張っていく。

チェコを訪れたのは2002年だから、
1989年に民主主義国家になってから13年後だった。
ロシアを、訪れたのは2013年だから、
1991年に民主主義国家になってから22年後になる。
13年後と22年後の、この9年の差もあるだろう。
市場経済にロシア人は慣れてきている。
もう、共産政権にもどるつもりはない。
ロシアで生きていく、必死に。

ソ連の国民車「ラーダ」の2枚の写真がある。
ソ連時代の「ラーダ」。2013年8月。

まだまだ現役だ。

ロシアの新しい「ラーダ」。2013年8月。


「ロシアの新車は、ヨーロッパの中古車の値段と同じです」
と、説明されたが、頑張ってきていると思う。
ロシアの極寒、田舎の悪路に耐える頑丈な車だ。

ドイツ車を多く見かける、ベンツ、BMW。
「フォルクスワーゲンが一番売れている」、と言う。
BMW」を見た。2013年8月。

白のオープンカーで「金髪」が疾走する。右奥も「BMW」。
洗練された都会の車だ。

チェコの「シュコダ」をモスクワで見た。

洗練されたデザインだ。

「世代があと2回くらい、代わらないとダメです」
ということではないようだ。
ロシアは、埋蔵量の多い天然ガス、石油で経済が上向いている。
2世代を待たずに、世界に追いつきそうだ。
ロシアもチェコも。
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レーニン像はロシアに残っている

2013-09-01 00:00:16 | Weblog
レーニン像ロシアに残っている。

モスクワの北、120キロのセルギエフ・ポサード。2013年8月。
世界遺産「トロイツェ・セルギエフ大修道院」前の広場で。

手前の人と比べると、レーニン像の大きさがわかる。
レーニン像の色は白だった。

モスクワにもあった。

下には女神、その下には兵士がいる。2013年8月。
歩いている人と大きさを比べると、
レーニン像は巨大である。
あたりをへいげいする。

今は、東西ドイツは統一しているが、
まだ、「ベルリンの壁」があって、東西ドイツが分割されていた、
1989年3月に、東ドイツのハレで開催された国際見本市に行った。
ハレは、ベルリンの南西150キロメートルにある地方都市。

国際見本市の主会場の正面には、
小麦の中に「鎌と鎚」と、ソ連に似せた東ドイツの国章があり、
前庭には「レーニンの首像」があった。1989年3月。

台上のレーニンの「首」と、
人との大きさを比べてください。
まったく、巨大な首だ。

レーニンを祀っていることに驚いた。
東ドイツが、ソ連傘下であること、
ソ連の圧力が強いことをヒシヒシと感じる。
「レーニンの首像」は、ソ連からの贈り物? それとも強制?

第2次世界大戦の敗戦で、もし、北海道がソ連によって、
分割統治されていたなら、札幌には「レーニン像」が建つ。
「クラーク像」の代わりに。そして、道庁には★が掲げられ、
国際見本市の建物の正面のように、「鎌と鎚」も掲げられる?

このハレの国際見本市を訪れたのは1989年3月、
その8か月後の1989年11月に、「ベルリンの壁」が崩壊した。
翌年の1990年10月に、東西ドイツは統一し、東も西もなくなった。

さらに、1年後の、1991年12月には、
共産党独裁のソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)は消滅して、
民主主義国家のロシア連邦になった。

ベルリンの壁」の写真がある。
西ベルリンから見た「ベルリンの壁」。1988年3月。

ベルリンの壁の奥は「ブランデルブルク門」。
大通りの「6月17日通り」は、この「ベルリンの壁」で行き止まり。
「注意! あなたは、今から西ベルリンを離れる」
と、右の看板が警告する。

東ベルリンから見た「ベルリンの壁」。1988年3月。

手前にフェンス、奥には白い壁があって、「ブランデンブルク門」にも、
奥の「ベルリンの壁」にも、近づくことができない、人も車も。
「ベルリンの壁」には、落書きはないから白い。

ベルリンの中心「パリ広場」なのに、立ち入り禁止。
古代遺跡の廃墟か、人影のない工事現場のようだった。
この「ベルリンの壁」の崩壊が、東西がなくなり、
ソ連が崩壊する始まりである。

ハレの国際見本市を訪問した1989年3月には、
この「ベルリンの壁」が、まさか、8か月後に崩壊し、
1年後に東ドイツが崩壊するとは、思ってもいなかった。

東西ドイツが統一するのは夢であり、
それには、流血の惨事があるものと思っていた。
北朝鮮と韓国の統一を予想するようなものである。

ソ連の崩壊で、衛星国であった東欧ではつぎつぎに、
共産政権が倒れて、民主主義国家になった。東欧革命である。

2006年にハンガリーを訪れた。ツアー・ガイドは説明する。
「1990年に共産政権が崩壊してから、共産主義色が一掃されました。
共産主義のときのは取り払われて、一ヶ所に集められています」
ハンガリーの街からは、「レーニン像」は消えている。

ドイツのハレの「レーニンの首像」も、取り壊されただろう。
「いまわしいもの」は取り除いて、新しい変化に対応していく。
共産主義色が一掃されて、「レーニン像」は東欧から消えた。
西に遅れた「半世紀」を、東は取り戻さなければならない。

半世紀かかった「イデオロギー」の「実験」は終わったのである。
共産党による一党独裁は、内部腐敗、国民を監視する恐怖政策、
計画経済の破綻で、結局、国民に希望を与えなかった、
国民を幸せにしなかった。

イデオロギーで区別し、競争していた西と東の分離がなくなった。
イデオロギーに代わって、「先端技術」の競争になった。

東西が、ドンパチの「武力戦争」をしたのではない。
経済戦争」で、「計画経済」が、「市場経済」に負けたのである。
具体的な事例は、つぎのブログを参考にしてください。
「経済戦争で、計画経済が市場経済に負けた」、2009年4月8日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/89109cc9c5fcb8382a7c20c1142dc23f

1991年、共産政権のソ連が崩壊し、
クレムリンから「鎌と鎚」の「赤旗」が撤去され、
ロシア連邦の「白・青・赤」の「三色旗」に代わった。

1991年12月、ソ連のゴルバチョフ大統領は、クレムリンから去った。

正面のボロヴィッカヤ塔のゲートから車で去った。そして、
二度とクレムリンにもどることはなかった。
右は武器庫とダイヤモンド庫。

ロシアのエリツィン大統領のお墓は、
モスクワのノヴォデヴィッチ墓地にある。

ロシアの白・青・赤の「三色旗」で眠っている。とりわけ大きいお墓だ。
ロシアの初代大統領に対して、ひときわ篤い感慨があるようだ。
イタリアほかから取り寄せた大理石で作った。

このノヴォデヴィッチ墓地には、
ゴルバチョフのお墓はなかった、が、
ゴルバチョフ夫人のお墓があった。

若く美しい立像である。

さて、ロシアのレーニン像だが、
当初に掲げたセルギエフ・ポサードとモスクワのほかに、
スズダリとサンクト・ペテルブルク、ウラジーミルにもあった。
いずれも、団体旅行で訪れる世界遺産のある町である。

スズダリ

世界遺産「クレムリン」のあるスズダリの町。赤の広場。2013年8月。

サンクト・ペテルブルクのモスクワ広場。2013年8月。

朝、薄暗い時の撮影で見にくいが、
歩行者と比べると、レーニン像の巨大さがわかる。

ロシア人のツアー・ガイドが、レーニン像を紹介するのは、
このサンクト・ペテルブルクのモスクワ広場だけだった。
「レーニンはサンクト・ペテルブルク大学で法律を学び、トップの成績だった」
「レーニン像は、かっては町ごとにあったが、今は少なくなっている」
と説明する。

ウラジーミル

ウラジーミルの中心にある「黄金の門」の近くにある。2013年8月。
奥の建物は銀行。

ロシアへの団体旅行では、
「レーニン像」は、見学ルートに含まれていない。
それに、ロシア人のツアー・コンダクターが、
「レーニン像」を、積極的に紹介することはない。
それで、キョロキョロと探して、写真を撮る。

1991年に、共産政権のソビエト社会主義共和国連邦は消滅し、
民主主義国家のロシア連邦になった。20年以上たつが、
ロシア連邦には、レーニン像は残っている。

レーニンは遺体処理されて「レーニン廟」に保存されている。

赤の広場、モスクワ。2013年8月。
クレムリンに旗めいているのは、
白・青・赤の「三色旗」に「双頭の鷲」である。
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